第十一話 部屋
気を失ったままの《ミリカ》を抱えて脱出するのは現実的じゃない。
俺と優奈はそう考え、どこかで少しでいいから休もう。という結論に至った。
催眠効果のようなものがある《鳥居》、非科学的な《影》によって浸食された道路。
いつの間にかジャングル化し、木々の合間を飛び回る《ナニカ》が群れなす歩道。
――どちらも危険すぎる。
だから俺たちは《団地の一室》へ入ってみることにした。
なんとも気味の悪い話だが、そう結論付けて回した最初のドアノブが、よどみなく開いてしまった。
――まるで罠だ。
いくつもある扉の、最初の一つが開くなんて怪しいだろう。
玄関前で足を止めた俺の横を、優奈が無言で抜けて入っていく。
どうやら機嫌が悪そうだ。
部屋の中にはなにもなく、ただ広い空間と奥にふたつの扉があるだけ。
俺は電灯のスイッチを押してみるが、当然点かない。
とりあえず、背負っていたミリカを床に寝かせる。
すーすー、という可愛らしい寝息が聴こえるので、生きてはいるらしい。
ヘッドライトを台所に置き、部屋の中を照らすと、優奈がドラムバッグの中身を確認する姿が照らされた。
「水、残り2つ……」
「もう2本飲んじまったからな」
ここから脱出するのにどれほどの時間が必要かわからないが、急いだ方がよさそうだ。
バッグの中には、他に菓子パンが2つと汗拭きシート、カメラの充電用バッテリーも入っていた。
――カメラか。何を撮影し、いつ録画を止めたかも覚えていない。
もしそこに、なにか『この世ならざるもの』が映っていても、今なら驚かない自信がある。
俺はここに来てからの数時間で、それくらい世界観が変わってしまった。
「それは何が入ってんだ?」
優奈が小さなポーチの中身を確かめていたので、俺は訊ねる。
すると、優奈はそれを無言で放ってきた。
「……はぁ、悪かったよ」
俺はそれを受け取らず、体で受け止めて謝る。
何について怒っているのかは知らないが、とにかく不機嫌なのはやめてほしいからだ。
「……それ、中に生理用品入ってるから使えば?」
「はぁ?なんだよそれ。ちっ、……めんどくせぇから何に怒ってるか教えてくれ」
「……自分で考えれば?」
優奈は座ったまま振り返り、こちらに背中を向ける。
「……なぁ、めんどくせぇ彼女じゃねぇんだから、そういうのはやめて、なににキレてんのか教えてくれ」
「はぁ?!別に――、ウザっ……」
一瞬だけ振り返り、優奈はまた壁の方を向いた。
ハッキリ言ってすごく面倒くさい。
仲良くしたいわけじゃないが、今の俺たちは『協力関係』なはずだ。
――そういえば、『仲良く――』なんてことを、優奈が言ってた気がする。
俺は無言で立ち上がり、タバコに火をつけて換気扇の元へと向かう。
「ちっ、そうか。電気が来てないのか……」
換気扇は、別にこうして睨みつけても決して動かない。
――しかし、ずいぶんと綺麗だな。
ふと、そんな感想が浮かんだ。
手を伸ばして換気扇に触れてみると、そこはあり得ないくらいに乾燥していた。
なぞった指を擦り合わせても、いっさいのベタつきがない。
たとえ掃除したとしても、こんな風になるか?
「……ん、」
とだけ言って、近寄ってきた優奈が手を出した。
「ほらよ。言っとくけど、俺は貧乏人なんだからな?」
タバコを渡しながら、俺は嫌味も添えた。
「私さ――」
優奈は俺の隣、といっても人ひとり分離れたところで台所に背を預けて煙を吐き出す。
「――アイドルなんだよね。……って言っても、いわゆる地下アイドルってやつなんだけど」
行き場を失った煙に紛れて、彼女は急に語り始めた。
ミリカはまだ、起きる様子もない。
俺はミリカが起きるまでの時間潰しがてら、優奈の話を黙って聞くことにした。
「私、東北の生まれでさ。高校まであっちに居たの。でも、いざ卒業ってなっても『未来』とか『将来』っていうのが実感なくて、とりあえず上京したいー!って思いだけでこっちに出てきた。……マチダはこっちの人?」
こっち、と優奈は言ったが……多分ここは、東京じゃない。
しかしそれを今言うのは不粋だろう。
「ああ、一応東京生まれだよ。23区外だがな」
「――やっぱりね。なんとなくそうだと思ってた」
優奈は小さく頷く。
「……じゃあ分かんないかも知んないけど、私みたいに『東京へ出れば何か変わる』って考えてる人って、結構いるんだよ?」
知ってる。
そんな人間は山のように見てきた。
「やりたい事なんてないのにこっちに来て、バイトするだけの日々。……でもある時さ、テレビ観てたら『子どもの頃の夢ってこれだった』って急に思い出したんだ」
「――それが、アイドル?」
「うん。笑える?笑っていいよ?」
別に、何の感想もない。
「なんの才能もない私が入れたのは、よくある地下アイドルグループだった。知ってる?……地下ってね。地上の光が届かないから地下なんだよ?」
上手いこと言ったな。なんて言える雰囲気じゃない。
「私はそんなこと気づかなくて、頑張ってれば這い上がれるんだって信じて、頑張って、……疲れちゃった」
ライトに背を向け、優奈の表情はわからないが、声色はどうにも暗く、沈んでいるように聞こえる。
「この見た目もさ、運営からの提案なんだけど、キャラ変しても全然ウケなくてさ。はあ……、こんな変なバイトにも顔出してんだけどなぁ」
俺は適切な相槌が思いつかず、ただ天井付近に溜まった煙を見続けることしかできない。
「ミリカ、……アンタがさっき助けた子、うちのメンバーなんだ。半年前に入ったんだけど、今はセンター。私はもう4年以上やってんのに万年最下位。さすがに笑えないや」
あぁ、そうか。だからペア決めの時、ミリカの元に男たちが群がっていたのか。
……確かにミリカは可愛らしい見た目をしている、かと言って、別に優奈や他の参加者たちと大きな差があるようには見えなかった。
だけどそこに、『人気メンバー』とかいう付加価値が乗れば、――ああなるのか。
「ミリカは運営のイチオシで、最近じゃちょっと深夜の地上波とかも出てんの。……その一方で私は、『そろそろ卒業する?』とか勝手に言われて……。あーあ、こっちにいると、どんどん私の中の悪い部分が大きくなっちゃう……」
重い。空気が重すぎる。
何も知らない俺には、口を挟めない空気。
「ねぇ、私の感情は間違ってる?嫉妬して、羨んで、――いなくなっちゃえばいいのに思うのはおかしい?『自分が一番大切』って、……思っちゃダメなのかな?」
なんで今、こんな話をしているのだろうと俺はずっと考えていた。
俺に、地下アイドルの事は分からん。
嫉妬や妬みとも、距離がある人生を送ってきた。
でも――それは、俺がちゃんと人生を生きていないからなのかもしれない。
優奈の話を聞いていると、そんな気がしてきた。
「ねえ、何でアンタは、ミリカを助けたの?自分だって危険なのに。ミリカだけじゃなくて、何度も無茶しようとして。……私にはそんなこと――できないよ!」
優奈がこちらを向いたのが見えた。
でも、俺はそちらを向けない。
今の彼女の顔を見ることができない。
「私が間違ってる?私が冷たいだけ?私が自分勝手なの?……だから私は人気がないの?私は――アイドルに向いてないの?」
「――わからない」
俺は、素直に答えることにした。
どうせ、ここを出るまでの関係だ。
つーか、……生きて出られる保障もない。
だから、とりあえず思いついたことを話してやろうと思った。
改稿前を載せていました。
申し訳ないです。