第十話 影
『見つかった』
俺は思考するよりも早く立ち上がり、優奈の腕を引く。
「……っ、なに――」
「いいから、逃げるぞ!」
どこに?
「待って!違う、――こっちじゃない」
?
こっちじゃない?
そういえば、――なんの音も、気配もない。
ただ真っ暗なだけ。
「うあああああっ!?」
「きゃあああああっっ!!」
静寂を切り裂くような叫び声。
それは暗闇の向こうから響いてくる。
「今のって……」
優奈が《道路》の方に顔を向ける。
どうやら――見つかったのは俺たちじゃなかったらしい。
「バカ!マジでっ!」
優奈が爪を立てて俺の腕を引く。
彼女は俺が、廊下の壁を乗り越えようとしたことにキレている。
「……放せって!」
「何考えてんの?!」
声を張り上げる優奈。
「すぐそこで、誰か襲われてんだぞ!?」
今もこうしている間に、生きていて聴くことのなかった不思議な音が響いている。
『ボンッ』『ドゴッ』『ガンッ』
鈍く低い音が、こんなに大きく聞こえるなんて、まるで事故か何かが起きているようだ。
その衝撃が、ここまで伝わってくる気がする。
「絶対にやばいから!行ったって何もできないじゃん!」
「わかってる!でも見捨てるなんて――」
「自分が言ってたじゃん!――そういうのは主人公タイプの人間に任せるんじゃないのっ!?」
――それは、確かに俺の言葉だ。
歩道の草木や街路樹で隠された向こうから、惨たらしい音が響き続けている。
こんな状況で、――見捨てて逃げろってか?
俺は音のする方から目が離せない。
本当は今すぐ飛んでいきたいくらいだ。
だって、――俺の命に価値なんてないんだから。
せめて誰かの為に使いたいと思うのは普通だろ。
「聞けよバカ!死にたいなら勝手に死ね!――でも今は嫌だ!私を1人にすんなよっ!!」
頬が熱い。
知らぬ間に叩かれたのか?
優奈が俺の胸ぐらを掴んで、息がかかりそうなほどに顔を近づけていた。
「アンタの過去なんか知らない!わかんない!だって何も言わないから!でも、……今は『見捨てろ』!私のために諦めろ!そんで私を無事に家まで帰してから勝手に死ねっ!!」
「な、……はあ?」
道路の方では、ナニカの暴れる音がどんどん大きくなり、優奈の叫びなんて掻き消えてしまいそうだ。
でも、目の前でこんな苦しそうな顔を見させられたら、流石の俺も――。
「ごめん」
「え?!……なにが?」
「嫌な役、やらせて悪かった。ありがとう」
『見捨てる』という選択を選べなかった弱い俺は、頭を下げて謝る。
「……私だって、」
「わかってる。だから……ごめん」
俺は楽な方を選んだ。
感情的になり、無鉄砲になり、気持ちのいい選択を選んでいた。
だけど、優奈は――。
「……さぁ、行こう」
「偉そうにすんな」
俺は軽い肘鉄を喰らい、脇腹を押さえる。
腰の高さの壁に手をつき、灯りのない廊下を進む。
道路から響いていた《衝撃音》がいつの間にか止んで、ナニカが這い回るような音に変わった気がする。
ちょうどそんなタイミングで、目隠し代わりなっていた木々が、他よりは少ない箇所を見つけた。
歩道には放棄された自転車が倒れている。
あれのせいでその周りは草木が他より育たなかったのだろうか。
道路まで通った視界。
月明かりに照らされていたはずの道路が、《影》に満ちて――何も見えない。
「……え?暗い。いや、黒い?」
「さっき見たヤツと同じだ。ドス黒い影みたいな」
「え?……どういうこと?影が……人を襲ってたの?」
俺たちは足を止め、道路の方をじっと見る。
さっさと逃げようって決めたのに。
『だれ……、か……』
声。
それもかなり弱ってる。
「おい――」
と、俺が身を乗り出して声をかけた瞬間、優奈にその口を後ろから塞がれた。
「ばか、ホントいつになったら学ぶんだよ!今の声が人間なのかも分かんないじゃん!ここはもう――マトモな場所じゃないんだからっ!」
小声で勢いのある、本気の叱責。
しかし、今度は俺も反論する。
「指先が見えたんだ!すぐそこにっ!」
「はあ?……見間違えじゃ」
「――ない!」
『助け……て……くだ……』
その声はか細く、今にも消えそうだ。
俺は腰壁を乗り越え、雑草で覆われた歩道を進む。
足が取られそうになるが、それどころじゃない。
泥のような質量をもった《影》が道路を飲み込むように満ちている。
――ひどい悪臭だ。
それは鼻腔を刺激し、目が痛くなるほどの悪臭を放つ《影》。その中から、小さな、人間の指がコチラに向けて伸びている。
この暗闇の中で、《彼女》は地面に倒れながらもコチラに手を伸ばしているのだろう。
俺はその指を掴み、必死で引く。
脱臼?しらん。
こんな見るからにヤバそうな《影》に飲み込まれる方がヤバいに決まってる。
「ん、んぐうう…………」
重い。
バカみたいに重い。
《鳥居》に魅入ったときの優奈みたいだ。
目の前で《影》が炎みたいに揺らめいている。
俺を嗤っているのか?馬鹿にしているのか?
言葉にならないうめき声を漏らしながら、弾き続ける。
手の甲、手首、段々と見える範囲が広がってきた。
「ふんっ、……ぐううう」
鼻息荒く、地面に靴をめり込ませながら、俺は踏ん張る。
腰になにかが巻き付いた。
肘、頭の先、肩――顔。
「うそ?!……ミリカ?!」
俺の腰を掴んで引いていた優奈が驚きの声をあげる。
「し、知り合いか?」
「うん、……同じグループだから」
……、グループ?
そういえば、俺は優奈のことを何も知らない。
意外と気が利くことや、優しいこと、実は怖がりなこと。そんなところは見えてきたが、もっと表層的な部分を、俺は聞いていなかった。
たとえば、『何の仕事をしているのか』とか。
――だが、今はそれどころじゃない。
2人がかりで引いたことで、《ミリカ》とやらは腰まで出てきた。
しかし、その身体を伝って《影》が伸びてきた。
臭い、キモイ、ネバネバする。
「なにこれ?!キモッ!生きてんの?!」
「バカっ、あんまり騒ぐな!《人型の影》にバレたらどうすんだ!?」
「ごめんっ……、でもどうすんの!?」
「どうするもこうするも、――引くしかねぇだろ!」
フンっ!と思い切り力を入れて、――鼻からなんか出た。
そんなものは気にせず、全力で踏ん張る。
歯が砕けるじゃないかってくらい力強く、ミリカの腕を引く。
彼女の体が、道路の《影》から完全に抜けると、這い寄っていた《影の一部》も諦めるように戻っていった。
なにあれ?と、優奈は何度も呟いている。
アレが何か、なんて説明できる人間はいないだろう。
だって――超がつくほど非科学的だし。
眠るように気を失っているミリカ。
彼女を連れてどこへ行こうか?と俺は首を傾げる。
歩道は、――さっきまでよりずっと濃く、嘘みたいな量の雑草に溢れかえっている。
「こ、ここってさ、……こんなに酷くなかったよね?つーかもう、こんなんジャングルじゃん……」
優奈の言う通り、もはや歩道はジャングルみたいになっている。
――まるで俺たちに、歩道を進まれたくないみたいだ。
誰が?なぜ?
考えても無駄だ。
ここで起きることの大半はそうなんだ。
もう適応しないといけない。
団地の廊下と歩道を隔てる腰壁にたどり着く。
廊下側からよりも高い。
「……あれ、使えるかも」
優奈が指差す先には、脚立。
「願ったり叶ったり――ってならねぇよな?」
「……怪しすぎるね。誘導されてるみたい」
俺も優奈の意見に同感だ。
だが、俺たちに他の選択肢はない。
背後には、質量を伴った気味の悪い《影》に満ちた道路。
周りは、足の踏み場もない、月の光の届かないジャングル。
一番安全っぽいのは……ジャングルか?
「……ちょっとさ、休まない?」
「え?ここで?」
俺は地面を指さし、周りを見渡す。
……まぁ、悪くないか?
ガサガサッ。
木々をかき分けるような音が、上空から聞こえ、空を見上げる。
洒落にならないくらい育った木々に覆われ、空は微塵も見えない。
高速で動く何かが、ビュンビュンと音を立てて跳び回っている。
「優奈、脚立だ!早く!」
俺は気を失ったミリカを担ぎながら優奈に指示を飛ばす。
優奈は頷き、半壁に脚立をかけてこちらを見た。
「先に行け!」
「……でも」
「うるせえ!早く!早く!」
脚立を間一髪で登り切り、倒れ込むように団地の廊下に落ちた。
その際、ゴロンゴロンと担いでいたミリカが転がったが……まぁ、不可抗力だろう。
ちなみに、なぜ間一髪なのかというと――。
『入れなかった』『入れなかった』『残念』『惜しかった』『入りたかった』
暗闇の中からこんな声が、ずっと響いているからだ。
ヘッドライトを点けると、その光で暗闇が照らされた。
――もう歩道はだめだ。
伸びきった木々の間に、数えきれないくらいの《ナニカ》がいて、こちらを見ている。