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甘美な味


―――ラリナ。

もう、こんなに顔を泥だらけにして、悪い子ね。ほら、拭いてあげるわ。

くすぐったい?じっとしていなさい………私の愛しいラリナ。お母さんは、いいえ。みんなはね、あなたのことを―――。


「あいしているわ………」


泥濘から這い上がるようにして意識が覚醒する。

肌を撫でていく風にはまだ炭の匂いが混ざっていた。身体を起こせば、既に時間は夜明け。これは幸運だったと言えるのだろうか。

あの狐の魔物と同等の力を持つ魔物が付近に居たら、今の私では成すすべなく喰われていただろう。だがあの死闘の余波なのか、この付近に炭の匂いと同じくらいに染みついた濃密な魔力が、他の魔物を寄せ付けずに済んだらしい。


「………お前に助けられたな」


色々な意味で、だ。

そう言う点では感謝すらしているだろう。再生が済んだ両腕を見て、口元にべったりと付いた血を拭う。結局は腕にも血がついていたため、引き延ばしただけになった。

水場だ、水場を探そう。

腹は膨れた、腕は治った、魔力も半分程度回復した。だが生物が生きるには水が必要なのだ。意識の喪失によって失っていた両足に再び義足を作り出し、立ち上がる。

―――骨の一欠けらすら残っていないその血だまりを後にした。


「黒雫はやっぱり慣れが必要か」


寝ていても魔術を発動し続けられるようにするには、訓練しなければならない。

それ以外にもいろいろと確かめなければならないことも多いだろう。例えば、肉体の再生に関してもその一つである。

両腕は綺麗に治っているが、魔核を埋め込んだ時点で完全に失われていた両足は再生の範囲外らしい。実際、あのタイミングで破損した左腕は多少傷跡は残っているが動作には問題なく再生している。

完全に炭化した右腕と吹っ飛ばされた左腕を、数度握ったり開いたりしてみるが痛みも何もなかった。


「便利。ま、傷は受けないに越したことはないけど」


痛みなんて何の問題もない。だけど、身体が欠損するような傷を受ければ血が流れるし、再生が完了するまで行動に制限がかかる。

受ける必要があるときはそうするが前提にするべきじゃない。

そんなことを考えながら歩いていると、鼻先に水の匂いが漂ってきた。それもかなり清浄なものだ。今の季節は水の香りを阻害するものが少ない。

これが緑で溢れる夏場だったら、草木の香りで迷っていただろう。


「………?」


頬に違和感を感じて、拭う。手のひらの上で固まっていた血が、滲んでいた。

涙?どうして?………まあいいか。

寝起きだからだろう。人間、良く寝た後には多少瞳から涙が滲むものだ。知識によればそういう機能があるらしい。

そんなことよりも水場に向かう事を優先するべきである。流石にそろそろ………この身体から漂う異臭やら血やらも流したい。


「ここか」


葉のすっかり落ちた樹々であれば見通すことも容易い。樹々をかき分ければ、私の目には透き通った泉がその姿を現した。

広さはかなりのものだ。泉というからには当然、水源は地下から涌き出る湧水だろう。実際私の目にこの泉に流れ込むような小川は見えなかった。

逆に泉に蓄えきれない過剰な分は流れ出しているようで、そのおかげで水は流れ、澱むことなく澄んでいる。

私はその泉のほとりに四つ這いになり、渇きをいやすために口を突っ込む。そしてゆっくりとその美しい水を喉へと流し込んだ。

顔を着けた瞬間に血が溶け、流れていく。けれど私はそれ以外に不可解な事を感じていた。


「………魔力が含まれている?」


此処は魔力だまりということか?ならば魔物がいる可能性が高い。

顔を上げると、黒雫のガントレット………あいつと戦った時よりは小さいもの………を生み出して周囲を警戒する。

そのついでに改めて魔狼の森と呼ばれていたこの森林を見てみれば、一本一本の樹木が太いと実感する。あいつと戦っていた時に機動の始点に出来る程にしっかりとした太さを持つのは、長いこと人間の手が入っていない証拠だろう。

多分だけど、稀に冒険者が魔物を狩りに来る程度で開拓などはまともに行われていない。いや、出来ない。

その理由は勿論、この森の名の由来となっている魔狼なのだろう。地域の名前となるほどの魔物となれば、それこそ白翼の聖女でもいなければ対処不可能な存在なのだと思う。


「多分、あいつよりも遥かに強いんだろうな」


中級に属する狐の魔物にすら苦戦していた私では手も足も出ないだろう。だが、強者であればいずれ喰わねばならない。


「何もいない、か?」


警戒は完全に解かず、けれど私はまずこの身体の汚れを落とすことを優先した。

あの狐の魔物のように嗅覚で獲物を判別する魔物が居た場合、私のマーキング丸出しの状態ではわざわざ危険な魔物を呼び出しているようなものだ。

無茶も蛮勇も迷わず選び喰らうが、かといって無謀であるべきではない。

あまり音をたてないように泉の中へと沈む。冬の寒さで冷やされた泉は身を切るような痛みを身体に伝えてくるが、不思議と心地が良かった。

全身を泉に浸せば―――様々な汚れが溶け出して、泉を濁らせていく。濁った赤色と穢れた黒色が螺旋を描いて流れていく。


「―――」


その螺旋が僅かに歪むのが見えた。


「………ッ!!!!」


水の中に僅かに広がるのは、声。そして私への明確な殺意であった。

道理で地上を警戒しても無駄な訳だ。敵は、泉の中にいた。


「あ、ごぷッ?!!」


地上に上がる、いや無理だ。

水の中に潜む敵の動きの方がはるかに速い。

水面に上がろうと伸ばした私の手首を掴んで、更に深い場所へと引っ張っていく。

………大丈夫だ、息は持つ。元々潜るために深く息を吸い込んでいたから。多少先程の引き寄せで呼吸が漏れたが、問題なく戦える。

さあ、次の敵は誰だ?


「ァァァ………」


紅い瞳―――黒い髪。細い腕は、想像もできないほどに強く私のガントレットに包まれた腕を掴み、その豊かな胸には瑠璃色の魔核が埋まっていた。

人間のようだが、違う。その証拠を示すかのように、鋭い犬歯が覗き、その指先は鋭くとがっていた。そして何より………その下半身は人のものではなく、魚のそれ。


「(セイレーン!!)」


泉や海に潜み、その美貌と歌声で男を惑わす水辺の魔物!!

泉は思った以上に深い、いや違うな。こいつが住む場所だけそうなるように加工してあるんだ。

即ち、私はこいつの巣の中に引きずり込まれたってことになる。その推測は合っているのだろう、水の流れが停滞したところで私からその腕は離され、水中に放り出される。

………身動きが取れない。水の中は、重い。

殴りかかろうとしても、多分あいつの方が速い。水中とは即ち、水辺の魔物の独壇場だ。

だから、ここでの最適解は、待つこと。私は迷わずそれを選んだ。


「………」


透き通った青の視界の中で、私の絹糸の髪が混ざる。それの先端は焦げている。

元々は足首あたりまであるほどに長かった髪だが、狐の魔物との戦いによって半分程度が燃えてしまい、今の長さは臀部付近にまで短くなっている。

やがて水流に乱れるその絹糸の奥から、紅い瞳が覗いた。


「ガ、ハッ!!??」


水の中を血が上っていく、青く美しい景色に赤色が混じる。

口から漏れ出したのは血と気泡。赤色を包みながら登る透明な空気。それを見ながら私は笑う。


「つ、か、まえた」


脇腹を貫通する魔物のその腕をガントレットに覆われた左腕で掴む。

貫通した肉と腕の二重の束縛だ、如何にここがお前の舞台でも、簡単には逃げられない。


「………?!」

「私を、喰うか?なら」


喰われる覚悟もあるんだろ?

彼女(・・)の瞳が、恐怖に歪む。けれどそれでも私を睨むその紅い瞳には―――どこか見覚えのある、意思が宿っていた。

私はその柔らかに見える首筋に齧り付く。私のものではない血が青に溶けだして、私はその直後に戸惑った。


「あれ。美味、しい?」


その柔らかな肉が、その鮮血が。舌の上で蕩ける様に甘く、それでいて噛み染みれば噛み締めるほどに深い味わいを醸し出す。

ヴィンテージのワインのように口腔を、鼻の奥の満たす香り。口にした瞬間に弾ける肉のみずみずしさ。一瞬、私はそれに酔っていた。


「デ、テイ、ケッ!!」

「っ!!」


意識が戻る。私の腕を振り払い、そのついでに私の脇腹が大きく抉り取られた。

人語を話した?いや、人型の部位を持つ魔物は声帯も人間に近く、言葉を発することは可能だ。声の主が宿った魔物、その寄生先であるあの死体が、寄生主の指示によって言語を話そうとしていたのと同じように。

そして魔物は、人間の言葉を決して理解しないわけではない。単純にその在り方が人間とは相容れないというだけ。文明を築かず破壊者であり続ける。

いやそんなことどうでもいい。ただ一つ分かっていることは。


―――今、その味に酔う(・・)のは駄目だってことだ。


「ガ、ああ!!」


誘惑する甘美な味を振り切って、私は狙いを彼女の首筋から胸の魔核へと変える。

半分、魔核を砕いて………その魔物は泉全体を震わせる程に叫んだ。

ゴクリと瑠璃を呑み込み、私はセイレーンの首根っこを掴んで泳ぐ。義足をフィンのように作り変えて、勢いよく私は水面をめがけて浮上する。

………息はギリギリだがまだいける、行ける!


「―――はぁ、ッ!!あっ!!!」


大きな水飛沫を上げて、私たちは陸へと打ちあがった。

体を震わせて息をする。窒息は用意に人を死に至らしめる、成程また一つ私は経験を得た。

視線を横で同じように荒く息を吐く魔物へと向ければ、喉を半分ほど食いちぎられ、魔核の半分を失ったセイレーンが、それでも私を殺そうと爪を突き立てていた。

水場を出たセイレーンはもはや脅威ではない。力は健在でも、機動力という点で大きく劣る。

何よりもこいつは瀕死と言える。それでもこいつは私を殺そうとしている。ならばこいつはどこまでいっても敵だ、ならば喰わなければ。だけど、だけど………その瞳は。

私は己の瞳を閉じて、息を深く吐き切る。そして、選択した。


「ウゥゥゥ………!!」

「じっと、してろ」


お前を、助けてやる。お前のためではなく、私のために。

理由はまだ分からない。だけど、私はこいつをまだ殺してはいけない。そう、本能が囁いた。だから、助けてやる。

セイレーンのしっとりと濡れた頭を掴む。そして、こいつに切り裂かれた脇腹の傷を自身でさらに広げると、そこにその頭を突っ込ませた。


「ガウッ?!!」

「喰え。私を」


そして生き延びろ。私のために。

………水が滴る音を掻き消す程に、泉のほとりで血を啜る音が響いた。




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