孤独は果てて
「もう、いいだろう………」
血が垂れ落ちる。
自分の喉元から熱い塊として零れ落ちた命の欠片。魔核を砕かれている今、血を流せば流す程に私の身体は死に近づいていく。
それでも、と。師匠の手刀を止めた腕を力なく動かし、倒れている蝎虎に触れた。
………ぬるりという感触。温度と共に互いの血が交わる。お互いよくもまあ、これだけ血を流しておいて死なないものだとは思う。
孤独な怪物の瞳が開く。視線は定まっていないが、それでもその黄金の眼は私を見つめていた。
何を言うか。それはもう決まっていた。
「私は………お前の聖女じゃ、ない。それは、覆らない」
師匠が一歩離れる。鋭い視線を蝎虎に向けてはいるが、今すぐに蝎虎に攻撃を加えることはないだろう。信じて、と師匠を見てうなずいた。
「理由は………簡単だ」
「グ………ゥゥ」
「私は、聖女であることを、拒絶した。その選択に、後悔もない………」
血を吐く。言葉は止めない。
「でも、お前が信じた、聖女は―――死の間際まで、聖女であることを、貫いた」
例え魂が同じなのだとしても。
その死に様が、生き方が、決定的に私とは異なるのだ。それをお前は分かっているだろう。お前の目に映った聖女は、その称号が決してくすむことのないほどに、真摯に人を救い続けた人間だったのだから。
私とはあまりに異なる。私はこの身体になったことを、こうして生きることを嫌な事だとは思っていないけど、それでもあの記憶の中の聖女の生き方は眩しいとは思った。
だからさ。私に幻想を抱くな。お前が信じた幻想の行く先は、お前の聖女だけのものなのだから。
「………死………」
「そうだ、死んだんだ。お前の聖女は五百年前に、お前に役目を授けて」
―――託してとは、敢えて言わない。結果はどうであれ、聖女の園振る舞いは蝎虎にとって間違いなく呪いになったから。
「………ッ」
蝎虎が身じろぎする。その鼻先に私は手を置いた。
「もう二度とお前の名が呼ばれることはない。もう、絶対に会えない。死んだやつには」
例えば、レインと私は二度と会えない。レインもまた、彼女を救った聖女に会うことは出来なかった。
「もう一度、言う。私は、お前の聖女じゃない。どれだけ待っても、私を変えても、それは………お前の望んだ、お前が会いたい聖女では、ない」
覆らない事実。
蝎虎自身の記憶からすら失われた、かつて聖女が与えた名前を呼ぶものはいない。失った輝きは還らない―――だから。
私が、新たに与えよう。もう手に入らない言葉を騙ることはできなくとも、私だけは………聖女と同じ魂を持つという私だけなら、こいつに対して区切りを与えることが出来るのだから。
触れよう、その白い鱗に。ゆっくりと顔を近づけて、倒れ込むように蝎虎の額に頬を当てた。
金と赤の血が混ざりあった泉の中に、私の白い髪が沈んでいく。しわがれそうな声を気合で絞り出して、言う。
「お疲れ様、よく―――頑張った。だから、もう良い。もう、人のために………誰かのために、生きる必要は、ない」
………ああ、これは。
辛いときに、誰かに救ってもらいたいと、私の事を見つめて、言葉をかけてほしいと。そうかつて願った想いの、果てなのだろうか。私は、誰も救ってくれなかった。私を救うためには、私自身がその在り方を変える以外に手段は無かった。
じゃあ、はっきり言える。これは優しさなんかじゃない。
「………あの人のためにも、あの人の願いにも殉じれないのなら………私は、どうすればいいのだ………聖女を待つ以外に………私には」
「自由に、生きろ。聖女の願いじゃなくて………お前自身の、望みを………いや」
違う、もっと分かりやすく。
「やりたいことを、やれ………」
聖女の願いに関わらず、人を守りたいならこのまま谷を守ればいい。人を襲う魔物に戻りたいなら、自由にすればいい。
全ては自分の選択の結果で、その果てにどうなろうとも自分自身の責であり、利ともなる。
視界が明滅する。身体の中の温度が下がっていくのを実感する。
「―――名を、与えてあげる。お前、が。自由な、生き方が、出来る様に」
これは儀式だ。かつての名を忘れた怪物に名を与え、その鎖を切り落とすための。
「クリス………」
何者にも囚われない、ありとあらゆる束縛を断ち切る、波打つ刃の如く。
そのように、生きて。
”………そして、忘れて?”
”―――私の、聖獣。”
………意識が一瞬、遠い彼方へと溶け落ちた。
何かを口走った気がする。何を発したのかは分からないけど。
身体を預けている蝎虎が浅く息をしている。その瞳から黄金の涙が零れ落ちる。
「そうか。もう、会えないのだな………」
「………そう、だ」
「私は………自由に、なってしまっていたのだな………」
「………うん」
誰しもが自由を求める訳ではない。だから蝎虎の言葉は間違ってはいない。
「それでも、それでもな」
蝎虎の身体が縮んでいく。記憶の彼方の聖女の姿をその手に抱くかのように、女性の姿となった蝎虎は、自分で自分の身体を抱き寄せた。
「孤独はもう、嫌だなぁ………」
蝎虎という名の怪物は泣いていた。黄金と透明が混ざり合ったまま、童のように。
私はその頬に舌を這わせて、舐めとる。塩分の味、悲しみという名前の感情。それを抱いてどう生きるか、それももう蝎虎自身の選択だ。
これ以上私が何かをいうことはない。もう、同じ魂を持つだけの他人という存在の私が関わる領域ではないから。
ただ静かに彼女の手を握って、重い頭を垂れる。しゃがみ込んだ師匠の黒い手が私の肩を支えた。私の顔を覗き込んだ師匠が珍しく、その表情に驚愕を浮かべる。
「ラリナ、お前」
「………?」
「―――いや。何でもない。休め、この大馬鹿二人め」
何ともいえない表情で笑った師匠が、そう頭を撫でる。抵抗する気力もなく、私はゆっくりと瞳を閉ざしていく。
その間際、隣にいる血だらけの蝎虎の顔を盗み見て。
もう、泣いていなかったことに、どうしてか少しだけ安堵したのだ。
これで良かったのか分からない。私は、やりたいことを無理を通してやっただけだから。それでも、私の選択が………聖女に纏わる悲劇を背負ったこいつの、救いになればいいなと思った。
微睡む。眠りに落ちる。
今度は決して夢を見ない。暗闇という認識すら消え失せて、私は意識を失った。




