最期の記憶
彼女の旅立ちは、皇都にすら雪が降り積もる、そんな冬の季節であった。
白翼の聖女の称号を持つ今代の女神の魂を持つ英雄の旅立ちを見送るものは誰も居ない。そして彼女に付き従うものは、金色の眼と血を持つ一匹の魔物だけだった。
かつて雷嵐の鷹を葬り去った時と同じ衣装に身を包むも、かつての仲間も、最も信頼できる聖騎士も―――もっと言えば若さと共に力も失われて久しい。
美しさは歳を重ねたが故の渋さとして宿っているが、大衆が望む美とは程遠いだろう………蝎虎の記憶は神殿によって新たに定められた若き天槍の聖女に多くの人望が集まっていることを教えてくれた。
ましてや、彼女はこのかつて聖女と呼ばれた老女の血を引いているとなれば尚更に、民は救いの象徴として崇めただろう。聖女の次席である彼女はやがて、皇族と血を繋ぎ、神殿と帝国の権威を高める役割を果たすことになる。
………では。その栄光と輝きから除け者にされたこの人は、何をしているのだろうか?
肌を裂くような寒さ。
約五百年前のその日、先代の白翼の聖女は更に寒さの厳しくなる北へと歩みを進めた。
多くの魔物を退治するために、帝国の各地を回りながらの大行脚。老いた足には過酷で、けれど誰も留めることのない冷たい道。
「封王の代替わり………北は元々、雷嵐の鷹に次ぐ強さを持つ女鹿が治めていたけれど」
蝎虎が聖女の寒さを拭い去るように首に巻き付く。
優しく白い鱗の頭を撫でて微笑んだ老いた聖女は、たった一人、いや。一人と一匹で最期の旅路を進む。
―――東に雷嵐の鷹。南には炎帝の猿、北には死の雪を降らせる女鹿がいて、西には代替わりの激しい蛇たちがいる。
西の海に住まう蛇の群れはすぐさま王を成し、斃しても斃して終わらない無限の様相を呈しているため、代々アルトリウス公爵の血筋とその配下の騎士たちが延々と争いを繰り広げており、その西においては共食いと代替わりは珍しいものではなかった。あれらは最早、海蛇の群れという種別の王なのだ。
だが、他の領域は違う。既に斃された炎帝の猿は南の森に君臨し続け、類まれなる怪力と人に近い知恵を持つ猿の王だったし、女鹿は雷嵐の鷹には劣るといえ、寒さ厳しい北の森を支配し、環境そのものを操る事で軍勢の侵攻という数の利を完全に潰す恐ろしい存在だった。
老女の全盛期に斃した雷嵐の鷹とて………多大な犠牲の果て、蝎虎という異分子があってようやく手が届いた傑物だ。
そんな本来斃される筈のない封王の、死。即ち代替わり。
有り得ざる事態。それを重く見た帝国と神殿はその封王を討滅するために白翼の聖女を向かわせた―――というのが、既に権力側からすれば邪魔者になりつつあった聖女を葬るための筋書きだった。
ここで生まれた封王こそが現在まで北の森を支配している魔狼であり、そんな魔狼に殺されるために送り出されたのがこの旅路なのだ。
「もう、長くは無いなぁ」
旅を続ける。老いた聖女はぼそりと、呟く。
蝎虎は頬に額を当てる。乾燥して、深い皴の刻まれたその女性に。
魔物である蝎虎に加齢の概念はない。いつまでも、蝎虎の主観ではかつて自分を救い、そして護りたいと思った乙女のままだった。相棒でもあった聖騎士からも託されたのだから、彼女が死ぬその時まで彼女を守ると決意していた。
けれど。
「ここまでよ、―――。」
深い、谷があった。
大地に刻まれた傷跡のように深い、黒々とした谷。その下には鬱蒼とした森が広がっている。
樹々は影を取り込んで黒く育ち、魔物の紅い瞳がその谷底から光を見上げて爛々と輝いている。
まだ遥かに小さい。けれど確かにその場所は………現在のエンバス渓谷だった。
「人類は、いいえ。帝国は必ず何処かで過つ。人の光と善性を信じて生きてきたけれど―――人とは善と聖を成し、未来と光を目指して進む生き物だと思っていたけれど、そうではないのね」
悲しみと、決意と、覚悟。
それらが含まれた言葉に、蝎虎は顔を上げる。
「帝国と神殿。人々を正し、律し、善を掲げるべき存在が道を違えた時にそれを咎めることのできるものが必要よ。そして、それは老いてしまう人では成立しない」
―――ましてや、人間である限り人と権力という力からは逃れられない。
「だから―――。あなたが。もしもどうしようもなく人が間違えてしまったのならば………あなたが」
誤った人の道を塞ぐ、王となって。
ごめんなさい。苦労を押し付けて。
ごめんなさい。酷い役目を与えて。
ごめんなさい。孤独を背負わせて。
三度、聖女が首を垂れる。
溢れ出る涙を、蝎虎が舐めとった。
あなたが望むのなら。
あなたが選ぶのなら。
あなたが………名を、呼んでくれたから。
私は、その役目を背負いましょう。来たる時まで、あなたを待ち続けましょう。
だからまた、逢いましょう―――私が守るべき、聖女様。
黒く鬱蒼とした谷の底へと白い鱗の蜥蜴は消えていく。
それを見送った聖女は、静かに進む。今度こそたった一人の、死出の旅を。
………魔狼は荒れ狂う。聖女の現れに。
気高くも恐ろしく、なによりも狂暴だったその氷の獣の牙は容易く老いた聖女を喰らいつくし、その天敵たる女神の魂の混ざった血こそが、皮肉にも荒々しいだけだった魔狼に深い知性と慈愛を与えた。
それはこのエンバス渓谷より遥か遠く。
その噂話も、時間の流れもなにも届くことのない彼方での結末だった。
故に、蝎虎は待ち続ける。いつまでも待ち続ける。
愛した聖女を、守るべき聖女を。彼女との約束を果たすために。
百年が経った。彼女はその力を蓄え、その百年の中で谷底の王となった。
王となった彼女は聖女に与えられた役目を果たすために、この谷を砦とすることにした。自身が蓄えた潤沢な魔力を流し、与え、魔物を強くした。けれど、人の領域の外へと飛び出す魔物は自身の手で間引いた。
彼女には魔眼と共に卓越した魔術の才があったから、それは簡単な事だった。
さらに百年が経った。鬱蒼としただけの森は魔物の量と質に対して随分と窮屈になり、彼女は谷の拡張を行った。それは、帰ってきた聖女と共に見る景色が良いものであった方が良いという、漠然とした考えのものだった。
谷は広がり、清流が流れ、かつては澱んだ魔力を浴びて黒々としていた森は、魔物だけではなく動物が訪れ、喉を潤し、生命を編み出す美しい谷の森となった。
より強い魔物が現れ、更に谷を広げ、溢れ出る魔力と生命力が更に森と谷を美しくしていく。
再び百年が経つ。何度か谷を征服するために、帝国の騎士と神殿の聖女がやってきた。彼女たちは谷底の森を焼きはらい、魔物と動物を殺し、けれど魔物に押し返されて去っていく。蝎虎は干渉しなかった。まだその時ではないと感じていたから。
蝎虎は祈る。
女神に祈る。
再び聖女に出会うことを。
約束を果たし、与えられた役目を熟したと、そう褒めてもらうために。
聖女と別れたその時に、蝎虎はまだ小さな子供のままであり………精神の成長からは程遠かった。倫理が彼女の中に宿るには、時間が足りなかった。
信仰と慈愛という、聖女と共にあったが故に持ち得たその心の在り方。人と共にあるために必要な精神を持ちながらも、しかし人はいずれ死に、死んだ人間は二度と会えないという認識を持つには至らなかった。
蝎虎は待った。待ち続けた。いつか会えるはずの聖女を、何年も、何百年も―――再び、もう忘れてしまった自分の名前を呼んでくれるあの人に、もう一度会えるように。
かつての聖獣はやがて伝説になり、その実態は人の道を塞ぐ王となって。けれど未だ待ち人は来たらず。
………そして、未来にその瞳は繋がったのだ。
お前の名前なんて、呼んでやらない。私は聖女じゃないから。
だけど―――だけどね。
壊れかけるくらいまで頑張り続けたお前に、壊れてしまった私から伝えないと行けないことがあるんだ。
だから、目を開く。蝎虎と同じ、紅い目を。
さあ、私よ。血反吐を垂らして立ち上がれ。ここで眠ったままだったら、私は死ぬほど後悔するぞ。だから、さあ。立ち上がれ。
震える足を叱咤する。そうして私は、震える手を、それでも伸ばしたのだ。




