研がれた刃
狐の魔物が巣に戻ってくるのは数日に一度であった。
魔物というやつは基本的に魔力に対して敏感である。故に私が魔術の練習をすることはできなかった。例え帰ってくるのが数日に一度であっても、自身の巣に魔力の痕跡があれば怪しまれるだろう。
彼らは愚かでも馬鹿でもない。それを知っているのだから慎重になるだけ良いに決まっている。
「でも、そろそろ限界かな」
此処まで魔物の死骸を喰らって、代わりにあまり魔力の含まれていないただの動物の死骸を前面に、つまりは狐の魔物に良く見える様に押し出していた。
私はあいつが帰ってきた時はなるべくあいつの視線の中に入らないように洞窟の奥に潜み、じっと奴を暗がりから覗くだけに留めている。
たまにその紅い瞳を薄くして、魔物は私の事を見ていたが………結局は私に手を出すことはなく、ほんの少し巣の中で休息を取った後に、すぐに昼夜を問わず外に出ていく。爪や牙が血に濡れていることがあるため、動物か魔物、もしかすれば人間を襲っているのかもしれない。
ここは比較的、森の入り口に近い部類だ。不用意に近づいた人間程度なら殺せるだろうし、そのおかげて腹が膨れているのか、私という非常食に手を付けることはなかった。
しかし、これ以上は誤魔化しがきかない。何故なら、もうこの洞窟の中に食べる死骸がなくなってきたからだ。正確には食べられるのだが………動物にまで手を出せば、いよいよ異変に気が付くだろうし。
「………臭い。だけど、此処までバレなかったのはこの匂いのおかげかな」
スン、と鼻を鳴らして肌やべたつく髪の臭いを嗅ぎ、顔を顰める。
普通、自分の巣の中の食料庫の物が減っていれば気が付きそうなものだが、あの狐の魔物は視覚ではなく嗅覚で暗がりの中の景色を判断している様だった。
色々と振りかけられて、更には血に塗れて、その上死臭を発する死骸にも埋もれていた私の身体が発する臭いは、正直自分でもどうかと思うほどの異臭である。普通に不快なこれがその実、あの魔物からのカモフラージュとなっていたようだ。
天然の暗室であるこの洞窟の、更に冬場の太陽の光の薄い現状だ。洞窟の奥は昼間でも夜の如く暗闇が満ちている。だからきちんと死骸の位置を移動していれば、ギリギリではあるが此処まで異常を露見させずに行ける。
でも、もうダメ。
「次、あいつが帰ってきたら―――仕掛ける」
一つ目の刃は既に、刺すべき対象を定めた。
二つ目の刃は鋭く研いだ。勿論、完全ではないけれど。
三つ目の刃は残念ながら持ち合わせてない。だから意志と殺意と憎悪を煮詰めて………己そのものを刃とする。
太腿の中ほどから絶たれた私の両足は、殆ど止血されている。折れた諸刃の刃を握りしめる手には、刃で自身の肌を斬らないように魔物の死骸から剥いでおいた皮を乱雑に巻き付けている。
かつて手に空いていた穴は既に塞がっている。
万全ではないけれど、現状の最高のコンディションではあるだろう。
喉は潤した。瞳は見据えた。あとはただ殺すだけ。
「………来い」
憎悪と殺意を静かに張り詰めるのだ。
そうすることで、決して崩れることのない意志となる。息をひそめて、数時間が経った。日は沈み、更に一度昇る。
時刻は朝焼け。四つの尻尾を自在に操る狐の魔物が、朝焼けを背にして帰ってくる。
「ッ!アアアア!!」
這って、飛び出す。
両腕だけの力の跳躍はそこまでの距離を伸ばせず、瞬時に反応した狐の魔物は私の腹を痛烈にその尻尾で薙ぎ払った。
「ぐッうぅ!!!」
呼気が漏れる。ざらざらの岩肌が私の背中を削り取ったのか、背中からぬるりとした感触を感じた。出血したようだ。
狐の魔物がその四つの尻尾で地面を何度もたたきながら、唸る。地面を振動させ、一歩、そして一歩と物怖じすることなく私の方へと近づいてくる。
「そりゃあ、ハ………そうか」
私はこいつから比べたら圧倒的な弱者である。
強者が弱者を恐れる必要などどこにもない。逆立ちしても勝てないからこその圧倒的弱者なのだ。
唸る魔物と、呻く私。
涎を垂らすその牙が、私を喰らおうと近づき、その咢を大きく開く。
「そうだよな」
―――当然、食べるよな?
でも、一つ教えてやろう。弱者や貧者も、その手に刃の一つを持てば、強者を打ち倒す、その可能性はあるということを。
チロリ、と。牙の隙間から奴の舌が覗く。
………魔核が埋め込まれた、その柔らかい舌が。
「………」
先程とは違って声はあげない。身に纏っている最早服としての意味を成していないぼろ布を、左手で魔物の顔面に叩き付ける。
それと同時、右腕で強く握っている折れた刃を、その舌へと突き刺した。
「ガ、ギャウアアアア?!?!?!」
「動く、な!死ね!」
揺らされる魔物の頭蓋、刃が刺さった舌に持ち上げられる形で体が浮き上がる。十二歳の体格、それも両足が無い状態ではあまりにも体重が軽すぎるのだ。
更には、魔物の意識の復帰が思った以上に速い。クソの固まりみたいに、いやそれ以上に臭い衣服を叩きつけてやったというのに、すぐに魔物の咢は刃を突き刺した私の腕を噛み千切ろうと、勢いをつけて閉じ始める。
………どうする?いや、考える必要はなにもない。
舌を噛まぬように、先んじて奥歯を噛み締めて、そして―――。
「ゥ………うぐッ!!!!」
撃鉄の如く振り下ろされるその咢に対して縦に、私は自分の左手を挟み込む。
丁度、つっかえ棒のような形だ。魔物の咢の力はすさまじく、指の関節を、手首を、そして肘に至るまでの骨を勢い良く砕いていくが、最後―――たった腕一本分の隙間を残して、その咢の動きは止まった。
血が噴き出す。でも大丈夫だ、右腕に握った刃の感触はしっかりと感じている。
だから、切り取れ。その、結晶を………魔核を!!
硬質な何かが砕ける音がして、魔物の咢の隙間から灰色の結晶が落ちてきた。
「ッ!!」
魔物の舌の上に刃を遺し、代わりにその結晶を必死の思いで掴み取る。
ブチ、と音がして私の左腕が肘の当たりから千切れ、視界の隅でうねる魔物の尻尾が見えた。
攻撃が来ると直感して身構える。予測は当たり、再び腹を強打したその尻尾に吹き飛ばされて私は洞窟の外へと放り出された。
「グルルルルルルル………!!」
「ハ、ばーか………ごふッ」
―――良かった。右腕に、結晶は握ったままだ。杭のような形をした、こぶし大の大きさの魔核。
魔力と魔術について考えているときに、一つ思ったのだ。今の私には満足に魔術を扱えるような魔力が存在していない。
あの声の主が私の頭の中に入っていた時、あいつは聖なる魔力を扱うことだけに固執して、この身体で魔術を扱うための訓練を一切していなかった。その怠惰な人生のツケのせいで、私には一般人程度の魔力しか宿っていない。
魔力とは魔術を何度も根気よく扱い、修練を積むことによって大きく増えるものだ。勿論食事や成長期でも増えるが、一番は継続こそが力になるのである。
でも、そんな時間は私には無かった。そんな機会も。魔物を食って魔力を多少増やせたようだけど、それでも魔術なんて使えるほどの魔力にはならない。
―――だったら、魔力を外から補給すればいいことじゃない?
「魔核は、高濃度の魔力の結晶」
「ヴヴヴヴヴ………」
「そんな怒るな、よ。お前が私を喰えば、全部元通りだ」
喰えればね。
これは間違いなくギャンブルだ。それでもこの絶体絶命に陥るギャンブル以外で、私がこいつとの勝負の土俵に立つことはできない。
だったら迷わずに選択する。生きるために、勝つために、殺すために―――喰らうために。
私は、何もかもを迷わない。
右腕を掲げ、その杭のような灰色の結晶を振り下ろす。
「ア、グゥ!!!」
自分の腹に向けて。
場所は臍の少しばかり上あたり。杭の形状をしていたのは丁度良かった。だってその方が刺しやすいじゃない?
魔核を飲み込もうかとも思ったけど、普通に考えて石をそのまま飲めば食道の途中に引っかかって喉がつまるか、或いは出血を引き起こして自分の地でおぼれ死ぬかだろう。
だったら、魔物みたいに体表に突き刺すべきだと思ったのだ。少なくとも彼らはそれで魔力を操っている訳だし。
………いや、魔核で魔力を生み出している訳ではないから操っているは間違っているのか?まあいい。少なくとも、私の発想は間違っていなかったということだけは、分かったから。
「は、あははハハ!!!」
だらりと垂れる鼻血を右手で拭う。
尻尾をぐねりと廻し、揺らしている狐の魔物が怒りの中に僅かな警戒を混じらせたのが分かった。
紅い瞳が細くなったから。私を、脅威だと認識したのだ。
それはなぜか?答えは簡単、私の体内を暴力的な魔力が迸っているから!
「ガ、はぁ………いいじゃん、喰いあおうよ」
鼻血だけじゃない、吐血まで発生し始めた。
私の発想は合っていた。魔核は膨大な魔力の塊で、人間に埋め込めば疑似的な魔力源として扱える。実際、魔物を殺して奪った魔核は人間社会では魔石という名で呼ばれ、魔術を内包した道具………あの王宮にて灯っていたシャンデリアのようなもの………を動かすエネルギー源にもなっているのだから、理論的には間違ってなんていない筈だった。
でもやっぱり、これは毒物だろうなあ―――これでお手軽に強くなれるのであれば、十個でも千個でも身体に埋め込んでいるだろう。そうすれば人間は魔物なんかに負けることは無くなるし、白翼の聖女なんかに頼る事だってなくなる筈だ。
けれどこの世界はそうはならず、魔核を埋め込んだ人間というものはいない。ならばこうして得られる力は猛毒のそれだということだ。
分かってる。分かってて、それでも手を伸ばした。
「あァ………楽しくなってきた」
今の私はオーバードーズ状態に近しいのだろう。ハイになっていることを自覚する。
危険だって?まさか、それどころか丁度いい。痛みを感じにくくなったし、それに魔力が暴れてくれるおかげで、どうやって魔術を扱えば形になるのか、実に分かりやすい。
ふと視線を向ければ、先程砕かれた左腕が再生し始めているのが見えた。さらに視界に映るほど長い私の髪から色素が失われているのが分かる。
金糸から絹糸へと。無理やりに毒物を身体に取り入れた弊害だろうか?どうでもいい、私がやるべきことは決まっている。
この目の前の魔物を、喰らう事だ。
「それじゃあ、時間がないみたいだし、やろうか!!」
「グルルル………アアアアアアア!!!!」
私の足が、爆発する。
否、黒い液体が噴出し、作り物の足を形作る。硬質な音を響かせて、それは大地を踏みしめる、堅牢なる両足となった。
久方ぶりに、立つ。そして、戦う。さあ、始めよう。
―――生きるための戦いを。




