六魔眼の魔物
黒い腕が振るわれる。
樹々をなぎ倒しながら―――いや、なぎ倒すなんて生易しい表現では務まらない。
暴風のように吹き飛ばし、時には切断すらしながらのその闇でできた腕。それは気絶したラリナをその場に残して即座にその場を離れることを蝎虎に選択させるほどの威力だった。
蝎虎の額の上にある第三の瞳が金色の輝きを増す。先程とは違う図形が浮かび上がるが、それを許さずに鋭い蔦で編まれた、尾のような闇の集合体が蝎虎を打ち付ける。
腕を交差して防ぐ白い霧の怪物は、しかし受け止めきれずに宙を舞う………幾つもの樹々と大地を抉って遥か彼方へと吹き飛んでいった。
「………致命傷だが、無事のようだな。やれやれ、こいつの生きる事への執念は凄まじい。既に魔核の再生が始まりつつある」
蹲り、荒く息を吐くラリナを見やると、闇が形を成した獣が安堵とも呆れともつかない溜息を吐いた。
闇が泡立ち、姿を変える。人の形に近づいたその闇は、けれどどうにものっぺりとした人のような何かであった―――奇しくも、彼女の前にいる蝎虎と同じように。
深い夜の中で霧が立ち上る。乳白色の霧の中、数歩の跳躍で先程離された距離を取り戻した蝎虎が、闇の前に、ジーヴァの前に立つ。
「憶えの無い匂いだ。旧い神の血を血を持つものか」
蝎虎のその腕は原形を留めないほどに砕けていたが、蝎虎が言葉を紡ぐたびに再生していく。それを見るジーヴァは、やはりただの魔物だと冷静に判断した。
「人の領域を形作った女神、その以前に居たという神々。人を守らない異形の神。やがてそれら小さき神々は人と同化し、人の血の中に潜んだという」
「ギャアギャア囀るな、ヤモリ風情が」
相対する白と黒。しかし、白は赤い瞳と金の瞳。そして同じ色の魔核を持つ。一方の黒は、どこまで行っても黒色だった。
人の形をしているが、時節その肌には闇の水泡が浮き上がる。滑らかな闇が集合したようなそれは、長い時を生きた蝎虎をすら威圧するほどの重圧を放っていた。
………怒っている。蝎虎は目を細めながら感情を推測した。
視線を背後の聖女もどきへと向ける。怒りの理由はあれだろう、けれど何故だ?聖女が聖女の任を果たさない、責を放棄する、それに怒ることはあろう。だが聖女が聖女らしからぬ魔物の如き穢れを得ることに、それを浄化することに、何故怒る?
「去れ、黒山羊の一族」
「辞世の句はそれで良いのか?」
闇がクツ、と嗤った。
瞬き一つの瞬間すら間を置かず、人の形をしていた闇が獣に戻る。それは異形の角と身体を持つ、一見すると山羊のような姿をした四つ足の怪物だった。
蹄が蝎虎を叩く。両手を前にかざし、ラリナの攻撃の全てを阻んだ水の膜を展開するが、蹄は自身を構成する闇が削れることを一切厭わずに、そのまま巨大な蹄を振り抜いた。
―――単純明快な質量攻撃。それが不動の守りをいとも容易く撃ち抜いた。
「存外に硬いな」
そう呟きながら、ジーヴァは怪物と化した自身の腕を見る。僅かにではあるが、闇が削られていた。
現在のジーヴァの身体を構成する闇は普段ならばジーヴァの肉体の内側に封じられているものである。生きた年月だけ蓄積されるその闇の解放―――蝎虎が言った通り、黒山羊の一族と呼ばれる旧い半神の一族が持つ魔術とも違う異質な力だ。
この闇は質量を持ち、可変自在である。そして無限に圧縮が出来、使い手の技量や魔力の扱いがそのまま反映される。
壊天、伏魔………そういった技術がそのまま攻撃力に反映されるのだ。文字通りのジーヴァの奥の手であり、ジーヴァが持つ最も強力な攻撃手段、そして諸刃の剣でもある。
「………グ………!!」
「そしてしぶとい」
蹄に打ち据えられた蝎虎の下半身はその衝撃に耐えきれず、破裂して潰れていた。
だが蝎虎の瞳が赤く輝き、その身体から霧が噴出する。霧がいくつもの布となり、姿を変えていく。霧の内側より巨大な鉤爪が現れたのを見て、ジーヴァは面倒くさそうに息を吐いた。
霧の中より現れる怪物の身体はそれだけではない。長い尾が生え、二股に分かれた舌が見えて―――そして、八つ目の頭蓋が見えたところで闇の獣が僅かに瞼を細めた、気がした。
いよいよ姿を現した霧の怪物のその威容は、鋭い鉤爪を持つ四肢に長い長い尾っぽ。硬い鱗に覆われたその身体は白く、月光や星の光を瑠璃に反射する。
そして、牙の生えたそのヤモリの頭には………赤い瞳が二つと、それぞれ別の複雑な図形が描かれた金色の瞳が六つ。
六魔眼の魔物―――それこそが、蝎虎の谷の主の姿であった。
「人の姿に随分と思い入れがあるようだな。計六つの魔眼を同時使用できる獣の姿よりも、人の姿でいることを選んだとは。それともラリナが特別なのか?」
「聖女は聖女でなければならない。この世には、聖女が必要だ………!」
「………聖女ぉ?」
何を言っているんだこいつはという感情を隠しもしない声が漏れ出した瞬間、眼前の蝎虎の鱗が光り輝く。
鱗の下より霧が溢れ出て、夜を染めていく。霧の向こう、頭蓋を飾る金の瞳の一つが輝きを増した。
「………ほう。支配の魔眼か、凄まじいものを持っているな」
図形の組み合わせによって形作られているそれは、天秤のようにも見えるだろうか。
ただし、縛られ秤が揺れることのない無意味な天秤だが。
黄金の光が煌く。しかし、それが意味を成す前に、黒い腕が凪いだ。
「魔眼は魔力を消費して特異な効果を発揮する、魔術の古い型のようなものだ。結局魔眼の強度は術者の魔力の投射量に依存する。儂にしてみれば、お前の発する魔力なんぞ生ぬるいのだ」
「―――魔眼の効果を、拳で粉砕するとは」
別の黄金の瞳が開く。
魔眼の最も恐ろしい能力は、その発動までの速さだ。魔力さえあれば、あとは見るだけで効果が発揮される。
魔術のように魔力を編み込んで術を成すといった工程が一切ない。その癖に能力が多彩………瞳一つに付き、付与される効果が一つだけという制約こそあるものの、ものによっては容易く世界を破壊できてしまうものすらある。
事実、蝎虎の持つ支配の魔眼―――見たものを無条件に支配下に置くそれは最上位の一つであった。
所持することが露呈すれば人類が総力を挙げて滅ぼす程のものだが、蝎虎の姿や能力を知る人間はいない。故に存続して居た力だった。
次いで開かれた瞳の中に刻まれている図形は、錠のような形。それを受けたジーヴァの動きが緩やかになる。
「鈍化の魔眼………いくら破壊力に秀でていようとも、動きが鈍ればッ」
「あのなぁ、ぬるいと言った筈だがなぁ」
停滞したことを理解したジーヴァが、ではこうするかと少しばかり気合を入れ、腕の動きを加速させる。
すぐさま通常の速度に戻った蹄の一撃を、分厚い鱗に覆われた腕で受ける蝎虎だが、白い鱗に罅が入り、その内側より金色の血が零れる。
漏れ出すような悲鳴を上げて身体を暴れさせる蝎虎。身体が浮き上がった僅かな隙に更に一撃、小さな人の形に戻ったジーヴァの渾身の掌底が突き刺さる。
………空気が逃げ出す。音が掻き消える。巨体を誇る蝎虎の身体が、夜空に舞った。
「ガァ………ッ?!!?!」
「黄金の血、聖女に付き従うという聖獣―――」
闇を纏う身体で見上げるのは、空から落ちゆく白い鱗の、魔物。
「の、成れ果てか」
轟音を立てて、蝎虎の身体が地面に横たわる。
口の端から黄金の血を流しながらもゆっくりと起き上がる蝎虎と、それを冷たく見据えるジーヴァ。
大地を掴む四肢の爪がその力を増す。それに対してジーヴァは闇に包まれたままの拳を静かに構えた。
血が垂れる、地面を流れる。
音もなく黄金が大地の上を滑っていき、やがて舌先が触れる―――僅かに鼓動が響いて………赤い瞳が、開いた。




