霧の主
本来の己の身体では、絶対に生み出すことが出来ない速度で進み続ける。
霧の海を抜け、数多の森をくぐり抜けて、私の身体は走り続ける。枝葉によって身体に傷がつこうとも、肉体そのものが持つ再生能力によって瞬く間に小さな傷は塞がっていく。
「………」
ねえ―――なんで、動かないの?両の紅い目が、私の心の中の疑問に揺らめく。
支配されたかのように………否。実際に支配された私の身体は、一切の自由を失っている。言葉の通り私はどうしようもなく、尊厳と自由を奪われているのだろう。
気持ち悪い、不愉快で、不快で―――。
「………ァ」
喉の奥で小さな悲鳴が軋みを上げた。
そうだ。こんなこと、許される筈がない。私の自由意思を奪う?そんなこと、誰にだって許される筈がない!!もう二度と、そんなことは絶対に許さない!!!
唸る、叫ぶ。私の身体はそれを行動として許容しない。それでも、私は世界を呪うかのように、深く大きく叫びをあげた。
何かが、罅割れた音がする。世界が砕けて、そして私はようやく自分の意志で咆哮を上げた。
「ァァァッァアアアアアア!!!!!!」
………踵の黒銀のハイヒール。
鋭く己の敵を穿つ黒と銀の金属から、私自身をすら傷つけるほどの奔流が迸る。
稲妻のように大気を傷つけたその魔術の流れ。その後に、私はようやく私自身を取り戻した。
「お………ま、えは………お前は、なんだ………何者だ!!!」
黒と銀、そして僅かな赤が混じった液体が私の周囲に嵐のように吹き荒れる。
それによって私を捉えていた気配がようやく掻き消えて、なにもない虚無が私の体を覆った。
両手を地面に置き、獣のように四つ足になって唸る。
見えて居なくともその気配は感じている。私の知らない手段によって私という存在を奪ったという事実も、知っている。
喉から溢れ出る獣ような唸り声。それは警戒を怠らないという私の決意の現れだ。瞳を閉じて全てに警戒を続ける私にいよいよ観念したのだろうか―――脳裏に直接、声が響いた。
”何故?”
………なぜ、?
”何故だ?”
不定形の白い霧が、私の前で実像を為す。
この谷を覆う混迷の白き霧が形を生み出したかの如く、今まで正体不明であった”それ”が姿を象った。
―――霧が生み出したそれは、人の形をしていた。
「何故だ。何故、お前は役目を果たさないのだ」
凄まじい速度で繰り出された腕が、私の首を掴み取る。
ほんの僅かな呼気の気配を残し、私の身体は宙に浮く。
「カ、ハッ………!?」
息が出来ない、首を掴まれて完全な窒息状態に陥っている。
でも。それでも、魔核を持つ私の身体は窒息程度では死に至らない。赤い瞳で、私の首を掴むその人を模した影を睨み付ける。
ギリギリと首を皮膚を削るかのように鋭い指先が首元を抉るが、知ったことか。
「今代の白翼の聖女よ。世界の天秤は崩れ、魔の力が世に溢れている。何故、お前はその役目を果たさない?」
「………だ、れが………聖女………だッ!!」
途切れ途切れの声が漏れる。それでも私の意志は伝わったらしい。
人の形を取った霧の怪物は、更にくっきりと人の姿へと変わっていく。世界の輪郭を溶かす靄は徐々にその境界を凛とさせ、やがて霧の上に浮かび上がるのは、白い髪に赤い瞳の………私によく似た、女性の姿であった。
似ていると言っても決定的な場所は異なっている、髪の長さや身体つき、そして魔核の位置。
私の首を絞めるその怪物は、首元に黄金の魔核を有していた。
私は手を伸ばす。その魔核を破壊するために。魔物は魔核と致命傷を与えない限り滅びることはないが、それでも魔核を砕けば弱体化はする。決死の意識の中で、指先に黒雫の液体が集中した。
あと少し、もう少し圧縮すれば、八人張の強弓の一矢にすら引けを取らない圧力の黒雫の一撃を喰らわすことが出来る。私は、私の尊厳を奪う何物をも、許さない。絶対に、もう二度と―――許してなるものか。殺す、即座に殺す、必ず殺す。
「くた、ばれ………ッ!!」
高圧で噴射された黒雫の刃が、霧の怪物の魔核へと衝突する直前、体表に浮かび上がった波紋によって掻き消される。
「………ッ?!」
水だ。薄氷よりも薄く張られた水の守りが私の黒雫の攻撃を防いでいた。
どうやって?水の系統の魔術は確かに防御に秀でているが、かといって大抵の場合その防御力を担保しているのは質量によるものだ。あの薄さで弾くでもなく完全に攻撃そのものを掻き消す程の守りを生み出すなんて、今の人間が扱う魔術の中にそんな防御魔術は存在しない。
なりふり構わず、指先に幾つもの黒い球体を生み出し、連続で射出するがその全てが僅かな波紋を残して消滅する。魔力の気配はあるが、霧散している訳ではない。確実に物理的に攻撃が消されている。なにを、どうやっているというの?
「無駄だ」
「………う、る、さい」
首を絞める手が力を増す。窒息感がさらに強くなる。空気を求めて口が開くが、どれだけ呼吸を繰り返しても吸うことはできない。
怒気と共に吐き出される怨嗟の声が私の肺の中の空気を減らしていくが、それでもこの怒りを伝えることを止めるなんて有り得ない。
「役目を果たせ。お前という存在の理を違えるな」
女性の姿を取った霧の怪物の額が縦に裂ける。その裂け目は左右にゆっくりと開き、中から現れたのは複雑な図形が内包された黄金の瞳。
………私の自由を奪ったあの瞳だった。
「ぐ、ぁぁ………!!!!」
身を捩る。額に血管が浮かび上がり、知らずの内に鼻血が垂れ落ちた。
身体をしならせ、怪物の頭をハイヒールで蹴り飛ばす。
「………無駄だ。なんという行儀の悪さ、素行不良。聖女らしくない、彼女とは似ても似つかない」
息がもう続かない、呪詛を吐き出す空気すらない。
そして頭を蹴り飛ばしたはずのハイヒールは、その鋭い踵が完全に消滅していた。黒雫の小槍を飛ばした時と同じように、波紋が現れて私の踵は削られたのだ。
厚さわずか一ミリにすら満たない水の保護膜―――怪物を覆うその守りの魔術の正体は、超高速で流動する水を身に纏うというふざけたものだった。
黒雫がそうであるように、加速度を持たせた水は強力な切断能力を得る。ウォータージェット………水で金属を切断するそれを更に高度にし、そして魔術によって成り立つ物理法則を超えた制御を重ね合わせたもの。
私が行う防御手段、攻撃手段の完全な上位形態だ。今の私の魔術練度では、こいつの守りを突破することは絶対に出来ない。
霧の怪物の指先。人を模していても決定的に人とは違う鋭い爪の生えた五指が私の肌を抉りながら、服を裂く。胸元から、鳩尾を通って臍の辺りまで―――魔核に当たって、その指は止まった。
はらりとメルクーリから貰った服が垂れ落ちる。はだけた私の肌が、血すら垂らさずに再生していく。
「これのせいか。何故、聖女だというのに魔なる核を持つ?これが、お前を―――聖女を歪ませているのか?」
「………」
それを得る前から、私は歪んでいた。歪んでいたから、それを手にしたんだ。
そして私を歪ませたのはこの世界だ。
「砕けば戻るのか。清廉なるものに、魔を祓うものに、人々の救いと希望に」
霧の怪物の口が開く。長い舌がチロリと覗いた。
指先が私の魔核へと置かれる。つつかれただけで、きっと破壊されるだろう。
―――左腕で金属が軋む音がした。
「ああ、もう一度………彼女に合わせておくれ」
なあ………さっきからお前は誰を見ているんだ?
お前の言う聖女って、誰だ。私は、私だ―――師匠の弟子で、忌み目のラリナだ。好き勝手なこと、言ってるんじゃ………ない!!
魔核に当てられた怪物の指に左腕を当てる。軋む金属の音はいよいよ限界を迎えて爆ぜた。
「………効かない。無駄だ、行儀だけではなく頭も悪いのか?彼女と同じ力を持つ聖女だとは思えない。修正せねばならない。天秤を元に戻さねば―――」
「だ、がら。お、前は誰、と誰を、間違え、てる、んだ」
魔核の破損と致命傷、それを同時に受けなければ再生するという魔物のような特性、あるものは何でも使う。私に偶発的に備わった性質もそうだ。
涙の雫を爆ぜさせて一瞬の目くらましに使用した後、私は自分から首を千切り取って怪物から距離を放した。黒雫と腕で首を抑え、再生を待つ。
………涙の雫という作成に手間も時間もかかる奥の手を目くらまし程度に使い捨てるなんて普通なら有り得ないけど、そうしないと殺されてたかもしれない。それに再生に頼り切った戦い方は師匠からは良く思われていないし、私も好きじゃないけど今ばかりは仕方ない。
体表への攻撃は全て保護膜で防がれるだろうから、私に触れるための膜を展開していない指先だけが狙い目だった。それでも賭けだったけど、幸運なことに賭けには勝てた。
再生が終わり、口の中に残った血を吐き出して、鼻血を拭う。
いつでも動けるように身体を低くし、怪物へと警戒の視線を向けた。
人の形をした霧の怪物は、対して慌てるでもなく距離を取った私の方へと静かな視線を注いでいた。
「逃げたか、再生も早い。魔物としての特性が随分と身についている。早くこっちにこい、直してやる。聖女へと、還らせてやる」
「望んでないよ、クソヤモリ。お前こそボケてるんじゃない?」
「荒治療になりそうだ。だが問題ない、彼女も良く泣いていた。誰かのために流す涙であったが」
「………」
首に手を当てる。再生は完全に終わったが完全な致命傷の再生だ、魔力がかなり消費されていた。
ここから、逃げる―――あの怪物から逃げ切る。
出来るか?いや………やるしかない。
「お前が何か知らないけど、やってやろうじゃん。聖女狂いの色ボケクソヤモリが」
「………」
紅い瞳が混じりあう。
額の第三の眼が爛々と輝いて、私は動き出した。




