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視線の主



谷底を進む。

この霧に塗れた深い谷底を進んで既に一週間程度が経過していた。

谷の中の、そして谷の上から降り注ぐのは色合いがさらに濃くなった葉っぱの数々。紅葉はその絶頂期を向かえ、寒さもまた本格的になりつつあった。

日没の時間もそろそろ一年の中で最も早い日が近づいている。夕方の今の時刻ですら、星と月の灯りが見える程だ。


「………」


鼻を動かす。少しばかり気に入らない匂いが鼻先を掠め、眉をひそめる。

一週間の中で魔物どもに襲われた回数は既に片手で数えられるそれを超えていた。たった一週間で、だ。

魔狼の森近郊では確かにそれくらいの襲撃頻度ではあったが、そこに比べれば魔物の数では劣るという話のこの谷の中で、それだけ襲われているということは………明らかに私たちを狙っている、そう認識してもおかしくはないのだろう。


「ねえ師匠。私たちはこの谷の中でどれくらい進めてるの?」

「半分程度だな」

「………行軍速度は?」

「半分以下だな。如何にこのエンバス渓谷とはいえ、あまりにも魔物共の襲撃頻度が高い。まあ、理由は察せるが」


伏魔の技術の応用によって魔力を隠蔽できる師匠に対して、私の技術はまだ甘く、魔力を垂れ流している。

となれば、魔物に襲撃される理由の八割以上は、私のせいなのだろう。


「………ごめん」

「なぜ謝る?」

「魔力の制御がうまくいってない。だから魔物に目を付けられる」

「………あのなぁ。お前の年齢は幾つだ?」

「………。………幾つだっけ?」

「十二だ!!」


師匠が目元に手を当てながらそう叫んだ。

そうだった、私は十二歳だった。とはいえ、そろそろ秋を超え、冬の訪れを迎える。そうなれば私の年齢は十三歳になるのだ。

記憶が正しければ物語の開始まで一年を切る訳だが、まあ私には関係のないことだろうか。


「十二歳でこの領域で生き残れる人間がどれほどいるものか。チビ、お前はよくやってる方だ」

「………でも師匠ほど強くなれてない」

「儂が何年生きていると思っている。学ぶ姿勢を絶やさぬこと、それだけで良いのだ」

「―――師匠は、優しいね」


私がそう言うと師匠は何とも言えない表情を浮かべた。


「本当に優しい人間なら、お前に苦痛の無い生活を与えている筈だがな」

「そうかな。私はそれを望まないけど」

「………は。本当になんとまあ、儂の弟子らしい娘よな」


川沿いを進む。

師匠のそのぼやきにも似た声に微笑みを浮かべた私は、立ち止まった。

谷に足を踏み入れた時と変わらずに流れる清流。その畔にて緩やかに風に身を任せる白い花。それに視線を向けながら、前を進む師匠に私は声をかけた。


「この谷に足を踏み入れてから、ずっと見つめられてる気配がする」


アンブラマイアとの戦いを終えても尚、師匠には明かさなかったその違和感を、ここで伝える。

少し前を進む師匠もまた、立ち止まった。

一拍置いた後、師匠は問いかける。


「方角は?」

「分からない」

「数は?」

「不明」

「強さは?」

「間違いなく私以上」


―――そうではないかと思っていた。

師匠は私を見つめる何者かの視線に気が付いていない。

私の感知能力が上がったなどという自惚れをしているつもりはない。師匠が気が付かず、だけど私だけが分かるのであれば、必ずしもそこには理由がある。


「儂の感知を欺ける魔物は、この谷に一体しか居らん」

「エンバス渓谷の王………蝎虎」

「足を踏み入れた時から見られていたというのは納得も出来よう。儂らならば警戒されてしかるべきだ。だが、チビだけを見ているとなれば話は別だな」

「狙われているってことだよね」


踵を返し、私に近づいた師匠が頷いた。


「餌としてなのか、他の理由があるかまでは分からん。だが、視線を向けられている以上は確実に何かを仕掛けてくるだろう。お前は魔力への認識力が高い。闇を覗いたものが闇にものぞかれているように、見られたことによって視線の主の魔力を感じたのだろう」

「そんなことがあるの?」

「………あくまでも仮定の話だ、あまり鵜呑みにするな。何度も蝎虎という名の魔物の調査のため、この谷に足を踏み入れた長命種がまとめた論文がある。蝎虎は、何かしらの特殊な瞳を持つのではないか、というものだ」

「瞳?」

「魔物特性の一つとも考えられている。瞳そのものにも種類が色々とあるのだが―――」


師匠が続きを語るべく、唇を動かした瞬間だった。

………大河が、脈動する。

地響きにも似た轟音。鋭い視線を向けた師匠の先、今まで緩やかに、悠々と流れていた大河が隆起(・・)していた。


「戦闘態勢!!」

「………ッ!!」


拳を握り、構えを取った師匠と同じく、私の腕をガントレットが覆い、尾骶骨から尻尾が現れる。

膨れ上がった大河は湛えた水を垂れ流し、ただでさえ霧の濃い谷底の中にさらなる濃霧を生み出した。吹き付けてくその霧の雫が私の肌から体温を奪っていく。

左腕のガントレットに生み出されている小型クロスボウに涙の雫を装填して構えた。


「吹き飛ばすよ、師匠」

「それは取っておけ、チビ」


師匠が左腕を上げる。開いた五指を鉤爪のように鋭く構えれば、その体表に血管が浮かび上がる。

僅かながらの静寂の後、音を置き去りにして振るわれた師匠の左腕。鼻先に香る、ほんのわずかな魔力の残り香。

空気が弾けるバンッという音が響いた瞬間に、私たちの周囲を覆っていた濃霧が切り裂かれ、吹き飛ばされていた。

腕と体内魔力操作技術である伏魔、その応答である発破技術の壊天。それだけで生み出された剛風が私の髪をたなびかせ、紅葉進む木々の葉や、何者かが撒き散らした霧雨の水滴すらを空へと巻き上げる。


「………」


本当に、あの背中に追いつくにはどれだけの死線を潜ればいいんだろう。

師匠が身を深く屈める。黒い髪が揺れて、瞳に陰を生み出す。踏みしめた地面が砕け、今にも蓄えられた力を解放し、飛び立つ姿は一矢のよう。

だがその必殺になるであろう突撃は―――放たれなかった。


「ッチ!!」


―――腕に違和感。

半透明の触手のような何かが私に巻き付いていた。すぐさまガントレットを叩き付けるが、千切れない。


「強度が………高すぎる!」

「チビ!!頭を下げろ!!」

「ッ、ん!」


師匠の言に従って身体全体を屈め、低くする。囚われた右腕だけが宙に残るが、師匠はその腕に巻き付いている何かを殴り飛ばした。

破裂して飛び散るのは水飛沫だ。


「水の魔術っ?」


こんな魔術、見たこともない。

師匠の腕が鞭のようにしなり、私を捉えようとする幾つもの水の触手を撃ち落とす。私は、その触手が動く速度を捉えることが出来なかった。

早い、早すぎる。

それでも眺めているだけで終わるつもりはない。私にできること、私がこの場でやらなければならないことは別にある。

守られるだけなんてありえない。私は、そんなに弱く在るつもりはない。


「………」


目を開く。耳を澄ます。捉えられる情報はなし。ならば次の策だ、私は体内の魔力を呼び起こし、周囲の空間全体に薄く魔力を放った。

壊天の技術を応用したこれは、魔力を用いたソナーだ。魔力をばら撒く以上、魔物を呼び寄せる欠点こそあるが、姿を隠すものを見つけだすにはこれが最適である。

師匠が攻撃をやめた理由は、目前に現れたあの巨大な隆起した水はダミーであると感づいたからだろう。明らかにあの動きは囮にそれで、師匠を私の傍から遠ざける意味があった。

明らかに知能が高い。アンブラマイアやその他の上級の魔物とすら比べても隔絶された知能の差がある。この攻撃の主は―――蝎虎は、師匠の強さを理解している。


「見つけた、場所は―――谷の、中腹………ッ?!」


―――見上げる。

逢魔が時の茜色。紫と黒の中に僅かな紅を散らした空を背後にして、崖の中腹あたりに張り付いた魔物の赤い瞳が私を見つめていた。

幾つもの驚愕が心中を占める。あれ程遠くから魔術を高精度に操る技術、目にした魔物の巨大さ………そして、その()の複雑さに。


見るな(・・・)、チビ!!」


身体から力が抜ける。いいや違う。身体は動いている、なんなら今までよりも遥かにうまく、動いている。

抜けているのは私の意志だ。私の身体なのに、命令を聞かない。師匠の背後から師匠を襲う私の腕と踵。回転扉のように、私を壊さないように手加減をする師匠と位置を入れ替えると、先程の師匠のように、身体の深い場所に力を込めて、解き放つ。

―――やめて、やめろ。不快だ、この感覚に近しいものを私は知っている。

己の瞳が灼ける様に痛む。師匠が私の尻尾を掴む。そう、掴んで、離さないで―――私は、ここに。


「………」


尻尾を構成している黒雫が溶け落ちる。ただの水になったそれを掴むことはできず、私の身体は勢いのままに突き進む。

表情は動かない。だけど、私の心の奥底で、何かが軋んだ。


「すぐに迎えに行く。少しだけ待っていろ、ラリナ」


背後に師匠のそんな声が届いた。

………私の意識を奪ったままに、私の身体は夜の闇、再び霧に覆われた谷の向こうへと、消えていった。





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ラリナちゃん一種の洗脳状態に、彼女を見つめる主の元へ。
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