エンバス渓谷へと
いよいよ辿り着いた蝎虎の谷こと、エンバス渓谷。もともと巨大であるとは聞いていたものの、いざその場所を目にしてみると渓谷という言葉が本当に当てはまるのかどうかという規模のそれに、思わず目を見開いた。
本来ならば渓谷というのは、山間の谷や川によって削られた崖の下を指すだろう。より削られ方が酷くなり、その規模を拡大させれば平地を持たない峡谷と言われる。
そう言う意味ならばなるほど、確かにエンバス渓谷は”渓谷”としか言い様がなかった。
………谷底にある平地が、とにかく巨大なのだ。谷幅が数百メートルなどという規模ではない。そして谷を成している岸壁はその内側を抉るようにして広がり、谷の底はまだまだその大きさを増していくであろうことが見て取れる。
帝国が欲しがるわけだ。この規模の渓谷に砦を作ることが出来たのであれば、盤石といいっても過言ではない難攻不落の拠点が作れるだろう。
渓谷である以上、谷底には大きな川が流れ込んでいる。そしてその川は崖の上より注ぎ込む、平地からの水によってさらに巨大になり、豊かな水源となっている。谷底の森林を形成しているのはその水に融け込んだ栄養素のおかげだろう。
「チビ、こっちだ。かつて帝国が、渓谷の中に人や物資を搬入するために作った道がある。渓谷の岸壁を魔術で無理やりに削って作りだした不安定な道だがな」
「安全なの?」
「いつ壊れても仕方のない有り様さ。近年聖女や騎士が渓谷の中まで派遣されない理由の一つでもある」
渓谷はトカゲのしっぽのように数か所、やや楕円を描き広がっている。元は河川の流れに沿って生まれた渓谷であるためそれは当然だろうか。
師匠が言う道は、本当にいつ壊れてもおかしくない荒れ果てた坂道が崖にへばりついているような、そんなものであった。足を置けば、砕けた岸壁が谷底へと落下していく。その破片は谷底に流れ込む気流の流れによって揉まれ、すぐに見えなくなった。
「川だけで生み出されたにしては、異常な広さ………」
歩きながら考える。削られた岸壁はこの渓谷が川だけで作られたものではないことを示す証拠だ。頭の中に刻み込まれた記憶にあるものでは、エンバス渓谷はドイツとかいう国にあるライン渓谷に近しい形状をしている。渓谷に城砦などを築くという点も含めてまさにといった形なのだが―――ライン渓谷に比べ、まずは深さが段違いなのである。
深さの理由の一端は長い年月による川の浸食だろう。だが横幅の規模はどうして広がった?
それは抉り取られるようにして聳え立つ、両脇の崖が答えを示している。
………魔力が大量に流れ込む岸壁は存外に強度が高い。だがそれを削り取り、生活のための穴を作ったり、岩を資材として使ったり、或いはその生態によって岩壁を利用している者共がいる。
「魔物が、世代交代を重ねているうちに緩やかに渓谷を拡張させているのか」
ライン渓谷のように谷底に川だけという形ではなく、巨大な川と巨大な平地が共存しているのは、魔物による形成の補助があったから。
逆に言えばそれだけの数の魔物が、谷の底に潜んでいるとも言えた。
「久しぶりにこんな濃い魔力の匂いを嗅いだかも」
「ほほう。懐かしいか?」
「うん。本当に魔狼の森に近い」
崖の下に辿り着けば、魔力の匂いと共に、深い森林の香りと苔生したような繁茂の匂い。
一部崖下に注ぎ込む水の流れはその高さ故に霧散し、霧のようになって谷の底を覆っている。見渡した谷の底の岩や樹々に柔らかな苔が張り付いているのは、その霧のおかげだろうか。
魔物が潜む谷だというのに、私が最初に感じたものは人の手が付けられていない原初の自然そのものを見ているような感覚だった。
「場所を変えねば焚き火も出来んな」
師匠が地面にも生えている苔の類や、落下している木を見てそう呟いた。
霧の水気を吸い取った木や地面の苔は火を起こすにも火を維持するにも不向きだろう。魔力の炎でも同じことだ、谷の底の濃い魔力を霧や苔が含むことによって、魔術による炎をただの炎と変わらぬようにしてしまっている。
ここで魔力を用いた炎を起こしてもその火力は大幅に減衰してしまうだろう。魔術の火を魔術の水で消すのと同じ原理だ。
それでも師匠は幾つかの使えそうな折れた木を拾うと肩に担ぎ、先に進んでいく。
「谷の底に生えた森を燃やせないわけだ」
「魔狼の森がそうであるように、魔力が多く満ちている場所では生命が活発になる。そして魔力が融け込んだその土地は侵略に強くなる。人が開拓に苦心するわけだな」
ネストリウス公爵領の外縁が開拓村だったのは、人の手による地道な開拓以外に森を切り開く手段がないから。魔術で一気に開拓を推し進めることは難度も危険度も高いのだろう。
雑談を交えつつ地底を進み、少しだけ視界が拓ける。視界に移ったのは青々とした清涼な匂いを漂わせる、谷の底の大河であった。
夕焼けが近づいた空の色をわずかにその水面に反射させる。広い谷の底のちょうど中央に流れるその大きな川は、既に半分ほどは夕刻の影の中に沈んでいた。
仰いだ空、両側を岸壁によって挟まれたその向こうには、オレンジへと色彩を変えた太陽が覗き込む。それは裂け目から私たちを睥睨する瞳のようで。
目を細めて、鼻を鳴らす。
「………」
優しく首筋に触れた。正確には、そこにあるモーニングジュエリーだ。
見られている。直感だけどそう思った。だけど
「なんだろう、ね」
気配もない。魔力も感じない。敵意すらもない。だけど何か、途方もないものが私たちを見つめている、確かめている。そんな気がした。
「チビ、置いていくぞ?」
「すぐ行くよ」
師匠の言葉にそう答えて、気を取り直して歩き出す。
ついでに黒雫で鎖を作り出すと使えそうな木材などに巻き付けて、そのまま引き摺って歩くことにした。
使える能力は便利に使わないと。この蝎虎の谷に来るまでの間に能力の使い方や伏魔、壊天といった技術を少しずつ鍛えているのだが、こういった普段から様々な用途で使うという事を常日頃からやっておくべきと教えてくれたのは師匠である。
私の固有魔術のような、基本的には単一の性質を持つ魔術は本人の発想や使い方次第で大きく化けるのだという。基本の原理や在り方を変えることはできないが、どんどんと使い慣れていくと応用が利くようになっていく。
魔術もまた本人と同じように鍛えることで強化されていく。自らの魔術と向き合い、扱い方を知っていくこと。そのために日頃から意識的に扱うことに慣れること。要はそう言うことらしい。
その意味の全てを理解できているわけではないけれど、元々は歩くために生み出したこの能力が別の武器になるというのであればそれはそれで良いことだと思う。
「ん………」
上流に向かって谷底の大河の川沿いを歩く。すると先程とは違う、明らかな視線が身体に突き刺さる感覚があった。
水の底から、或いは遠くにある森の奥から―――赤い瞳が覗いている。
明確に分かる、魔物か。近づいてこないのはきっと師匠がいるからだろう。弱い魔物や強くそれでいて理性のある魔物は師匠に近づき襲うなどという愚は犯さない。獣というのは存外に賢いものなのだ、見るだけで分かる強者に挑む馬鹿はごく一握り。
この谷の中で私一人だけでいたらまた話は変わるだろうけれど。
「食べるものと戦う相手には事欠かなさそうだね」
「当たり前のように魔物を喰うという思考に至るな、馬鹿弟子め。釣りなどでもしてみたらどうだ?」
「効率悪いと思う」
「ははぁ、多少頭が回るようになってもまだまだ機微と常識に疎いままか。尊厳のために効率の悪さやらただ生きるのは不要な知識や教養を受け入れなければならん時もあるのだぞ」
「………ふぅん?」
「分かってない顔だな。まあ人と触れ合うことが増えれば自ずとわかる。儂はそう言うのを教えるのは不向き故に教えんがな」
「それは大丈夫。師匠は私と似てるからあんまり期待してない………ねえ痛いんだけど?」
アイアンクローが私の頭を締め付ける。加減されてるとは言え師匠の力だと結構痛い。
唸りつつ数度手をタップすると黒い指が私の頭から離れ、仕方のないやつだと言わんばかりの淡い微笑みを浮かべた師匠が再び背を向けた。そのまま歩き出すので背中を追う。
………師匠の黒髪が風に靡けばすぐ触れてしまいそうなくらい。私と師匠の今の距離感はそれくらいだった。
あの公爵領でたまたま出会った人とこんなに長くいることになるとは思わなかったけど。これもまた、悪くない。
やがて陽が沈み、川のほとりから離れた場所で私たちは野宿をすることにした。




