伏魔
キマイラたちを率いている指揮官に相当する、Ⅳ階級のキマイラは目の前を飛び回る羽虫に苛立っていた。
人間という名の羽虫………魔物であるキマイラにとって、人間とは矮小な体躯と弱々しい力を持ちながら、その肉は旨く、なによりもその身に宿した魔力の量が素晴らしい獲物という扱いだった。
確かに人間の中にも強い者はいる。だが、階級が上の魔物を襲い、死ぬか生きるかギリギリの戦いをするよりも、キマイラたちは集団で弱い人間を襲う事を好んでいた。
毒という能力もまた、そのために得たものだった―――豊富な魔力だまりによって、偶然にも同種が集まり、また極限まで飢えた個体が少なかったことから指揮官キマイラの元で群れを成した、第一世代型の魔物たち。それこそが、トルド村を襲っている魔物の正体だったのだ。
そのキマイラたちにとって、群れが仕掛けた罠の中に飛び込んできた小さな人間は非常に魅力的な獲物だった。
明らかに、弱い。人間の中では多少は強い部類になるだろうが、他の冒険者とか呼ばれる連中のほうがもっと強い。キマイラである以上ここまで明確な思考回路はしていないが、整理すれば凡そこのような判断をラリナに対して下していた。
そう、弱い筈なのだ。一対一で戦えば簡単に斃せるはずの、食べやすい人間。
―――なによりも、その人間が身に秘めている魔力の量は群れの中で一番長く生きている指揮官キマイラが見たこともない程、膨大な量だったのだ。
弱々しい人間でありながら、自身よりも多い魔力を持つ獲物。それを食べれば、どれほど強くなれるだろう。そう思い、狙ったというのに。
「アハハハハ!!!」
哄笑が響く。獲物である筈の人間の、その黒い爪のようなものを付けた腕に、魔力の熱が宿るのを、魔力に鋭敏な魔物であるキマイラは気が付いた。
本来ならばその獲物の攻撃など、意にも介さない。同胞が二体やられたが、そのどれも搦め手だった。一つは、指揮官キマイラが殺し、もう一つは不可解な魔術によって溺死した。
警告の意味を込めて咆哮する指揮官キマイラだが、それは間に合わない。
獲物………ラリナからすれば非常に殴りやすい位置にあったであろうその同胞の頭が、大きく吹き飛んだ。
「成功、かな?でもまだ浅い、師匠程じゃない」
死んではいない。だが、同胞のキマイラが確かに、本当ならば効くはずのない攻撃で、怯んだ。
―――強くなっている。キマイラたちとの戦いの中で。
指揮官キマイラはそれを、けものじみた思考の中ではあるが、はっきりと理解した。
「ガアアアア!!!!」
こいつは、獲物だ。だが、敵でもある。矮小な存在でありながら、自身を脅かすだけの一手を持っている。
そう判断した指揮官キマイラは更に咆哮を上げ、他のキマイラたちの尻を叩く。文字通り尻尾を巻いて逃げ出すなんて許さないと言わんばかりに。
改めて獲物を取り囲むように布陣したキマイラたちの群れの中で、少女は小さく笑っていた。
「別に逃げなんてしないよ。それじゃ意味ないでしょ」
踊るようにして身体を回転させ、キマイラの群れの配置を確認した瞬間、その足元が砕ける。
明らかに速度を上げた突進で狙われたのは、キマイラの中で最も小柄な個体だった。
………指揮官キマイラは、注視している。その動きを、なぜ急に獲物の速度が上昇したのか、攻撃力が上がったのかを。
魔物は人間よりも遥かに魔力の感知能力が高い。それは魔力を喰らい、魔力を生み出す魔核があるからこそだ。同じような構造をしているラリナではあるが、ラリナよりも遥かに魔力を認識する能力は魔物の方が高かった。
普段、獲物である人間はその僅かな魔力を垂れ流しにしている。故に、魔物は人間の居場所を嗅ぎつける。だが、魔術師と呼ばれる人間はある程度ではあるが魔力を制御し、漏れ出す範囲を制限している。指揮官キマイラの目の前にいる少女は最初こそはただの獲物と同じように魔力を垂れ流しにしていた。
―――だが。この戦いの中で、その魔力の流れる量は明らかに減少している。その様子は、魔術師ではなく戦士と呼ばれる人間が行う、特有の魔力制御技術に似ていた。
これは魔物にしか分からないことだが、人間から溢れる魔力の量。
それが最も少ないのは戦士である。これは、戦士の魔力量が少ないというだけではない………戦士職であっても、魔力量が魔術師よりも多いというものも、居ないわけではない。
単純に戦士は外に逃げる魔力が少ないために、このような状況が引き起こされる。これは斥候職も同様で、魔物という魔力を認識することが出来る存在相手に、斥候という役割を持つ者たちが重要視される要因でもあった。
なぜ、魔力が漏れ出す量が少ないのか、それは。
「魔力を体内に留め、弦のように張り詰めさせる、戦士の技術………」
小柄なキマイラの足元に潜り込んだラリナは、その鈍く輝く踵を大きく振るい、キマイラの獅子の首元を切り裂く。そのまま胴体についている魔核を膝蹴りで叩き壊すと、キマイラの死体の下敷きにならないように素早く離脱した。
その動きの全てにおいて、やはり少女の肉体には熱が宿っている。
指揮官キマイラは気が付いた。その熱こそが、獲物の人間の雌、その身体能力を大きく向上させているのだと。
………ラリナが師匠であるジーヴァから得た技術。戦士が、否。人間が、魔物という強大な敵を屠るために生み出した、最も古い技術。
その名を、”伏魔”と、呼ぶ。
名の由来は文字通り、魔を調伏するであるとジーヴァは言った。
工程そのものは酷くシンプルだ。魔力を体内に張り巡らせ、ピンと弦のように張り詰めさせる。そこに必要なのは、魔術師が追い求める魔力の膨大さではなく、いわば質とでも言うべき―――魔力を、研ぎ澄ますという行為だ。
魔力を深く、丁寧に制御して身体の血管という血管の中に満たす。血の流れの中に魔力の糸を張っていく。そうすることで、その魔力の弦によって、肉体の強度や血管内を移動する血液に、魔力そのものが持つ生命エネルギーとしての性質が付与され、魔物が魔力を多く持つことでその肉体が強固になるのと同じように、人間の身体能力もまた大幅に上昇する。
古くからある技術であるが故に、殆どの戦士はこの技術を会得している。だが、この糸をどれだけ強固に張り巡らせることが出来るかどうかで、戦士の身体能力は大きく変動し………また、伏魔と対にある技術の破壊力も、増す。
”伏魔”という技術があるからこそ、剣士や斥候といった戦士職は魔力を垂れ流す量が魔術師や一般人に比べて大幅に少ないのであった。
―――また、伏魔という技術は魔力操作の質を問う技術だ。故に、戦士同士の戦いに於いては魔力の量が絶対的な力量の差にならないという特徴がある。勿論同じだけ伏魔の練度が高ければ、最終的には魔力量の多い方が勝つのだが、それはさておき。
ラリナの師匠、ジーヴァはこの伏魔の練度が常軌を逸していると言えるほどのものであった。
キマイラは吠える。炎の砲弾を打ち出し、岩石の槍を放ち、蛇の尾で小さな獲物を―――敵を、屠ろうと。
魔力の熱を帯びたラリナが空中で炎の砲弾を交わし、岩石の槍には尻尾を巻き付けて奇想天外な挙動を見せる。指揮官のキマイラが放った不意打ちの筈の尾を鋭い踵で踏みつけると、ラリナはそれを足場として別のキマイラを殺しに向かう。
「お前だッ!!」
空気を裂きながら踵が煌く。黒い踵は狙われたキマイラの瞳を潰して、更にラリナの身体はそのキマイラの山羊の胴体を掴み、ガントレットで覆われた腕を振るって尻尾を切り落とす。最後に悲鳴を上げる山羊頭の角を掴んで逆立ちのように重力に逆らって体を持ち上げると、全身を大きく振るって獅子の頭蓋と山羊の胴体、その二つを魔核ごと串刺しにした。
破裂したキマイラの死骸から血の雨が降り、その中で滴る血を舐めとるラリナが嗤う。
………五十を超えるキマイラの群れで、本当の意味でラリナが殺したのはこれで二匹目。それでも、その死によって指揮官キマイラは今度こそ、目の前の人間の雌は獲物ではなく、群れそのものの存続を脅かす敵だと認識したのだった。
「グルルル………」
さらに、身体能力が上がっている。
それを肌で感じたキマイラの獣の思考の中に、最早油断はない。そして、ラリナもまたそれを察し、指揮官キマイラへと視線を向けた。
「師匠たちが来るまで………」
ラリナが空を見ながら小さくつぶやく。ふるふると横に首を振ると、指の動きを確かめる様に何度が握って開いてを繰り返す。
そして、右腕を指揮官キマイラへと向けた。
「まだもう少し、遊べそうだね。付き合ってよ」
―――ほざけ、と。
キマイラは心の中で言う。決して無傷ではない。小さな傷が、魔力の消費が、肉体への負担が、その敵を侵食していると、キマイラは分かっている。
それでも尚、キマイラたちは油断しない。するべきではない。したやつから、きっとこいつに殺されていく。
再び、ラリナとキマイラの衝突が激化しようとしていた。




