だって貴方はなにも知らない。
「婚礼の日から三年、余とそなたの間には子どもが出来なかった。余は側妃を迎える。……良いな」
私は龍人族の王国に生まれました。
龍人族には神に与えられた運命の番がいると言われています。
目の前にいらっしゃる私の夫、この王国の王である貴方にとっての番はその隣に立つ子爵令嬢なのでしょう。……だって貴方はなにも知らないのですから。
初めて会ったときから、貴方のことを想うと破裂しそうなほどときめいていた私の胸も。
いつだって貴方を追いかけずにはいられなかった私の瞳も。
我が侯爵家の寄子貴族の家に生まれた子爵令嬢が私の侍女をしていたころ、婚約者同士のお茶会という名目で我が家へ来たにもかかわらず、人目を盗んで彼女と睦み合っていた貴方の姿に引き千切られそうなほどの痛みを感じていた私の心も。
貴方はなにも知らないのです。
初夜の床で、自分には番がいるからそなたは愛せない、と言われた私の悲しみも。
愛されない王妃と嘲られ、建国からずっと忠義を尽くしてきた実家の侯爵家までも見下されていくことに傷ついていた私の苦しみも。
それでも貴方を見るだけで貴方の声を聞くだけで、幸せを感じずにはいられなかった私の恋心も。
「遠慮などなさらないでください、陛下。私とは離縁して、彼女を王妃にすれば良いではありませんか。人間の国なら醜聞でしかありませんが、我が龍人族の民ならば番との成婚を祝福してくださいますわ」
子爵令嬢が不安そうな顔になりました。
だれ憚ることなく愛する方と結ばれることが出来るのに、なにが気に入らないのでしょうか。
前のとき私が陛下のお言葉を受け入れたのを見て、とても嬉しそうな顔をしていたことを思い出します。彼女は愛する方と結ばれるだけでは満足出来ないのでしょうか。自分が傷つけた人間を目の前に置いて、嘲笑しながら踏みつけ続けることでしか幸せを感じないのでしょうか。
いいえ、それもあるでしょうけれど、それだけではありませんわね。
私の言葉を聞いた陛下は喜色満面になりました。
ええ、そうでしょうね。だって貴方はなにも知らないのですもの。
「そうか! 身を引いてくれるか!」
「もちろんですわ、陛下。番というのは得難いもの。互いを高める魔力を持って生まれ、互いの魂を求め合うもの。その大切な番を側妃などという不安定な地位に置いていたのでは、陛下のお心が休まるときがないのではないかと愚考いたします」
陛下の父君は番であった先代の王妃様を喪って、後を追うように早逝なさいました。
ですので、私の婚約者だった陛下は幼いころに即位なさったのです。
亡くなった先代の王妃様は平民の出で陛下の後ろ盾はないも同然でした。我が侯爵家が一丸となって支えなければ、彼は成人なさる前に命を喪っていたでしょう。最初は滅多に巡り合えない番との婚姻ということで持て囃されていましたが、先代の王妃様には先王陛下の番である以外にはなにもなかったのです。
「……ね、ねえ、それでは王妃様が可哀相過ぎるわ。王様に離縁された女なんて行き場所がないわよ」
「優しいな、君は。だがもっと我儘を言っても良いのだよ。約束通り彼女とは白い結婚だったけれど、番の余が他人と結婚しただけでも苦しかっただろう?」
「え、ええ。でも……」
「お気遣いありがとうございます。ですが、お気になさらないでください。おふたりの邪魔にならぬよう、離縁の手続きが終わればすぐに王宮を離れますわ」
ひゅっ、と子爵令嬢の喉が鳴りました。
陛下はそれを私の将来を案じる彼女の優しさだと思ったようです。
そうでしょうね。貴方はそう思うのでしょうね。番であることを公表させず、貴方を愛する私と仮初めの結婚をさせたことを彼女の優しさだと信じているのでしょうね。
……だって貴方はなにも知らないのです。
これが私にとって二度目の人生であることも。
前のとき留まることを選んだ私が、結局だれからも見捨てられて、王宮の片隅でひとり冷たくなったことも。貴方はなにも知らないのです、なにも、なにも、なにも!──でもそれで良いのです。
★ ★ ★ ★ ★
国王は落ち着かない日々を過ごしていた。
離縁した王妃が王宮を出てから、どうにも不安でたまらないのだ。
未来の王妃の子爵令嬢──番であると公表したが、正式に結婚するのはまだ先の話になる。彼女の実家の子爵家では王妃の後ろ盾に足りないのだ──といつも一緒にいられるようになったのに、心は少しも満たされていない。
「これを返せ、と……?」
国王は久しぶりに登城した侯爵に言われて、龍人族の恋人同士が贈り合う、互いの鱗を宝石代わりにして作る装身具を体から外した。
龍人族は魔獣の竜のように鱗だらけではないけれど、体の一部に強い魔力の宿った鱗が生えるのだ。
その魔力の宿った鱗で作った装身具を身に着けていると、いつも恋人の存在を身近に感じることが出来るのである。
「しかし、これは余の番から贈られたものだ。侯爵家のものではない」
「土台はそうでしょう。ですが鱗は違います。それは私の娘のものです。そうでないとおっしゃるのなら、そちらの女性に鱗を光らせていただいて証明して見せてください」
鱗に魔力を通すと光るのは、この王国ではよく知られたことだった。
もっともだれの鱗でも光らせられるわけではない。
本人とその血族が魔力を通したときだけ鱗は光るのだ。そのため子どもの本当の父親を確認するときにも使われている。
「……」
嫌な予感を覚えながら、国王は番のはずの子爵令嬢に、彼女から贈られた装身具を近づけた。
青褪めて震える子爵令嬢は、侯爵の冷たい視線に負けて指を伸ばす。
──鱗は光らなかった。そのすぐ後に侯爵が触れたときは肉親特有の光が放たれたのに。
「どういうことだ?」
「陛下。彼女が身に着けている装身具の鱗も私の娘のものです。そちらも戻していただいてもよろしいでしょうか」
「これは余が彼女に贈ったものだ。鱗だって余の……そうだな?」
「……」
国王が愛しい番に贈った装身具は鱗が入れ替えられていた。
それは贈り主であるはずの国王が触れても光らず、先ほどと同じように侯爵に触れられて光を帯びた。
そしてふたつの装身具から鱗が外されると、国王の心から子爵令嬢への愛が消えた。彼女を番だと感じられなくなったのである。彼は再び問うた。
「……どういうことだ?」
「私の娘の侍女をしていたころ、そちらの女性は娘が陛下に贈る装身具を作るために剥がした鱗を盗みました。敵対派閥に売って娘に呪いをかけようとでもしていたのでしょう。ところが陛下が娘の鱗を隠し持っていた彼女を番だと思い込んだ。それを利用しないでいられるほど、彼女は善良ではありません」
強い魔力の宿った鱗は服で隠された場所に生える。
布で何重にも隔たれた場所の鱗より、装身具の形で外に出されている鱗のほうが放つ魔力を感知しやすい。
子爵令嬢は前王妃の魔力が宿った鱗を身に纏い、国王にも贈ることで番を誤認させていたのである。とはいえ所詮は体から離れた鱗。本人がいなくなった後は鱗が放つ魔力も薄れていた。
「陛下が娘との初夜をきちんと済ませていたら、そんな紛いものに騙され続けたりなさらなかったでしょうな」
侯爵が二枚の鱗を握り潰す。
その瞬間、国王は自分が本当の番を失ってしまったのだと理解した。
前王妃は離縁後、海の向こうの帝国へ嫁ぐことになった。龍人族とは違う番を持たない人族の国である。侯爵は娘が旅立ったことを報告に来ていたのだ。
最後に国王の番だったはずの子爵令嬢の実家を侯爵家の寄子貴族から外したことを告げて、侯爵は王宮から去っていった。
★ ★ ★ ★ ★
……だって陛下はなにも知らないのですもの。
いいえ、私も最後の最後まで気づきませんでした。
死の直前、私の部屋の窓から中庭を見て側妃と笑い合う陛下の姿を目に焼き付けようとしていたときに、陛下が身に着けていた装身具に私の鱗が使われていることを死に逝くもの特有の敏感さで感じるまで。
どうして、どうして、どうして──?
思いながら意識が薄れていき、気が付いたときは初夜の床でした。
私が装身具の鱗を確かめさせて欲しいと願う前に、陛下は前と同じ言葉を口にしました。自分には番がいるからそなたは愛せない、と。
一度命を失っても消えていなかった恋心は、その瞬間に砕け散ったのです。
装身具の鱗のことを言っても陛下は聞かないでしょう。
いいえ、聞いてくれたとしてどうなるのでしょう。
私の苦渋に満ちた過去が変わるのでしょうか。愛せないと言われた悲しみが、傷つけられた苦しみが、裏切られた痛みが消え去るのでしょうか。すべてを忘れて満たされることが出来るのでしょうか。
私は陛下と別れることを決意しました。
番を求める龍人族の本能も恋心と一緒に砕け散っていました。
あんな言葉で砕け散るほどに結婚前の日々と前の人生で疲弊していたのでしょう。
「海が気に入ったか、婚約者殿」
帝国へ向かう船から海を眺めていた私は、帝国皇帝の弟君に声をかけられました。
兄である皇帝の名代として世界中を飛び回っている彼は、私の婚約者。
向こうに到着したら式を挙げる予定の新しい夫です。
父である侯爵には死に戻りのこともすべて話して、私の鱗を始末してもらうように頼んでいます。
でも本当の番がだれなのかに気づいても、陛下が帝国へ着くころには私達の婚礼は終わっています。
私達龍人族は魔獣の竜とは違うので、体の一部に鱗が生えていても空を飛んだり火を吹いたりすることは出来ないのですから。
「はい。だって貴方の瞳と同じ色なのですもの」
照れ臭そうに俯いて、自分の胸を押さえる貴方はなにも知らないのです。
前のとき王妃でありながら舞踏会の片隅で、会場の真ん中で踊る陛下と子爵令嬢を見つめて涙を堪えていた私に声をかけてくれたのが貴方だということを。
死に戻ってから、何度もそのときの貴方の姿を声を思い出していたことを。
前と同じ愛されない王妃としての暮らしの中で、貴方の噂を聞くたびに胸をときめかせていた私のことを。
貴方はなにも知らないのです。だけど……
「俺が一ヶ月だけ、婚約者殿の国の学校に短期留学してたの覚えてるか?」
「はい。私がお世話係を務めさせていただきましたね」
「うん、それで……俺が皇帝の弟なんて立場なのに、これまで婚約者を作らなかったのは……えーっと……あ、そういや帝国は人族の国だけど、龍人族ほど魔力がない代わりに術式の研究が進んでいて、それで、俺は自分の心臓に時間の……」
黙って貴方の言葉を待ちます。
だって私はなにも知らないのです。
貴方のことも、これからの私達の運命も、どうして自分が死に戻ったのかも──