『真実の愛』を叶える呪い・4
「──残念だよ、アイヴァン・ダンウッド殿。君を未来の義兄と呼べる日を楽しみにしていたのに」
ナッシュ・ロクセンの、普段であれば確実に癇に障っていたに違いない言葉を背に、ふらふらとおぼつかない足取りで、紋も何もない送迎用の馬車に乗り込み、がくりと座席に身を預ける。
……ふと、握りしめていた封筒──ダンウッド家に届けられたのと同じ形と封蝋をした、けれど内容は全く違うそれを見下ろし、アイヴァンは逆の手のひらに額を臥せた。
〈──アイヴァン・ダンウッドへ
此度の任務終了にあたり、その労に報いるべく、貴公には観光都市ケルファ郊外にある王家所有の別荘へ滞在を許す。
風光明媚と名高く、ダンウッド領にもほど近いかの地であれば、時間を忘れてくつろぐこともできよう。今後の人生を考えるにも適した場所と思う。
願わくば、貴公の未来に幸多からんことを。
────クリフ・ローレンツ・アスファル〉
気遣いと労りを装った、明らかな左遷通告が、第三王子の流麗な筆跡で記されているのを彼は知っている。自分の目で直に確認したのだから。
『君の希望通りの内容にしておいたから、このまま侯爵に渡すといい。……だが、本当にこれでいいのか、アイヴァン?』
『はい。──かの地より殿下のご息災と、国の発展と幸福をお祈り申し上げます』
深々と頭を下げれば、返ってきたのは『ありがとう』という、感情を押し殺した一言のみだった。
……王子殿下のお心はとてもありがたい。が、そこに甘えていい立場からは、自分はもう完全に外れてしまっているとアイヴァンは自覚している。
今夜の振る舞いだけでも、王子に拝謁するや否や、根拠も何もない感情論でキアラの無罪を声高に主張したばかりか、ナッシュの提示した証拠書類を、明らかな捏造として破り去るなどという愚行を犯した──幸いそれは写しだったので事なきを得たが。
挙げ句の果ては、手厳しい尋問に晒されたキアラに泣きつかれ、告発された彼女の怪しい所業や目的を、ただただ大声で有り得ないと否定した。確固たる証拠と魔法に裏付けられた確かな証言により、アイヴァンとキアラの反論は、そのことごとくを徹底的に潰され──やがて追い詰められたキアラの、戯れ言としか思えない本音には心底から打ちのめされることになった。
『わたしはこの世界のヒロインで、メインヒーローのクリフは勿論、ナッシュやアイヴァン、レザック様、みんなに愛されるべき存在』
『レザック様が既婚なのは原作と違ってて驚いた。不倫なんて嫌だけど、隠しキャラのイシュトー皇太子に会うためには、まず逆ハーにしなきゃならない。だからみんなの好感度を上げるために頑張っていた』
『それなのに、一番チョロいアイヴァン以外はほとんどイベントが起こらず話が進まない。こんなのおかしい』
要約すれば以上の通りだが、意味不明な言葉ばかりで理解はしかねた。とは言え唯一、キアラの目的が隣国の皇太子に会うことだという点だけは分かった。
要は彼女にとって、アイヴァンを始めとした男たちは目的達成のための踏み台でしかなかったということであり──それを悟った瞬間の凄まじい恥辱と、王子殿下と大公子息からの何とも言えない痛ましげな視線。どちらがより自身にとって厳しい打撃を与えたのか、アイヴァンには判断できなかった。
そんな『踏み台』たちの様子など歯牙にもかけず、キアラは『さっさとわたしを解放しなさいよ、ヘタレ王子!』だの『本当はチャラ男なんて問題外なんだけど、ヒロインとしてちゃんと幸せな時間を過ごさせてあげたでしょ? だから感謝して、親友のイシュトー様のところに連れて行ってよね、ナッシュ!!』だのと、何様かと思うような──彼女の言い分に従えば『この世界のヒロイン様』なのだろうが──物言いをする。アイヴァンの前での、素直で優しい可憐な風情はどこへやら、だ。
数々の無礼極まる言動は、ナッシュの手にした水晶玉にしっかり記録された。王弟レザックからの正式な抗議があったこともあり、キアラを不敬罪に処するには十分すぎる証拠が集まっている。
そもそもイシュトー皇太子には、ナッシュの妹──ロクセン大公家第一公女という、れっきとした婚約者がいる。国王に娘がいない現状、彼女は国内外を問わず王女に等しい扱いをされていた。三年に渡る留学期間中、皇太子が大公邸に滞在しているのも、第一公女の存在が最大の理由と言っていい。
もしキアラの希望通り、皇太子に目通りが叶ったところで、眼中に入れてもらえるかさえ甚だ怪しい。やはり婚約者がいたアイヴァンに対するのと同じように接しようとした場合、ごく速やかに、ありとあらゆる意味で存在を消される可能性が非常に高いと言える。何せイシュトーは、徹頭徹尾、心の底から婚約者を愛しているのだから。アイヴァンと違って。
「──私とは違って、か」
苦笑するとともに脳裏に浮かぶのは、目立ちはしないが整った顔立ちをした、年下ながら大人びた清楚な印象の少女。
「ハンナ……」
長年婚約関係にはあったが、互いに恋愛感情はなかった。けれども彼女はいつだって、幼馴染みとして友人として、厳しくも優しく誠実な態度で接してくれていたのに。
「…………ふ。くっくっくっ……!」
──かつての、キアラと出会う前に戻れたら。恋人のような甘い関係にはなれなくとも、ハンナとの居心地のいい、唯一無二の関係を何よりも大事にして、ともに人生を歩む道を喜んで選ぶのに。
あまりにも今更に過ぎるばかりか、虫が良すぎるにもほどがある願望を抱いた自分が酷く滑稽で、愚かで。
ただ自身をひたすらに嘲り、笑い飛ばすことしかできない。
脳裏に蘇ったのは、つい先日聞いたばかりの、魔女の予言めいた言葉。
──若者というものは、いつ如何なる世も男女問わず、色恋に夢を抱くものと見える。『真実』だの『運命』だのという修飾が付けばなおのこと。
──だがそれらは往々にして、知らずに済めば幸いの『真実』を炙り出す結果を招く──
「……は……はははははははっ! そうだ、まさにその通り! よく言ってくれたよ、『森の魔女』! だが残念だな。結局は知らずに済むはずなどなかった自分の愚かさを、少しばかり早く思い知らされただけの話だった!!」
ははははは…………くっくっくっく…………
哄笑から再び含むような嘲笑へ、それすらもやがて先細りになり。
馬車の速度が緩む頃には、アイヴァンの頬には紛れもない涙が光っていた。
──もうすぐ、家族と顔を合わせなければならない。
もう自分は既に、誰に対しても顔向けなどできる立場ではないと言うのに──
そんな後悔を背負ったまま、緩慢な動きで天を仰ぎ、熱く重いまぶたを閉じる。
次の瞬間、目まいかそれとも別の理由か、暗転した世界がゆっくりと回転し、同時に下へと引き込まれるような感覚が襲って──
「気がついたか?」
「────っ!?」
声がかけられたのと目を開いたのとどちらが先か。
気づけばアイヴァンは、先ほどまでいた馬車の中とは似ても似つかぬ、けれど確かに見覚えのある場所にいた。
体感にすれば約二日前、実際は存在などしなかった「真実の愛」を叶えるべく訪れた『森の魔女』の家──見間違いようのないそこで、彼は再び椅子に腰を下ろし魔女と向き合っている。まるで、時間が巻き戻ったかのように──
「ふふ、皆揃って同じ勘違いをする。──そなたは先ほどよりずっと、我が見せた夢の世界にいたのだよ。そなたの望み通りに我が動けばどうなるのか──王国が『真実の愛』を最優先するようになれば一体どのようなことが起きるのか。限りなく真実に近い未来を、な」
「……ゆ、め……? では、私は……まだこれからやり直しができる立場だと……!」
「さて、そこまでは知らぬが。誰に対して何をどうやり直すにせよ、自らの振る舞いをしっかり振り返ることが肝要であろうよ」
忠告めいた言葉はしかし、歓喜に顔を輝かせるアイヴァンの耳に届いているかは甚だ怪しい。
そうと知りつつもあえて念を押すことはない魔女へ、こうしてはいられないとばかりに席を立ったダンウッド侯爵家嫡男は、満面の笑みでその立場に相応しく優雅な身のこなしで頭を下げた。
「礼を言う、『森の魔女』どの! 貴女の見せてくださったような未来には決してならぬと、アイヴァン・ダンウッドの名において誓おう! 近いうちに礼の品を届けさせるので楽しみにしていてくれ!」
「うむ。期待せずに待っているとしよう」
よほどに浮かれているらしく、魔女の言葉を最後まで聞かぬまま、風のような速さで出ていく青年。
とは言え彼を呼び止めるべき理由など皆無である魔女は、ただただ楽しげに微笑みつつその背を見送るのみであった。
「あの様子ではやはり、理解してなどおらぬのだろうな──『やり直す』ことを決める権利が、一体誰にあるのかということを」
くすくす、くすくす。
鈴を転がすように軽く、月夜に瞬く星のように密やかに。
魔女の紡ぎ出す不吉なまでに美しい声は、誰も聞くもののない空間をゆっくりと満たしていくのだった。
破滅に繋がる未来から逃れた喜びを胸に、夢も見ず熟睡した翌朝。
人生最高にすっきりした目覚めを迎えたアイヴァンはしかし、父侯爵に呼び出された執務室で思いもよらぬ知らせを受け、浮かれた気分は完全に吹き飛んでしまうこととなった。
「……父上。今、何と仰いました?」
「何だ、聞こえなかったのか。それとも聞こえていて理解したくないだけなのかは知らないが……仕方がない、もう一度言うので頭と心に刻み付けておくように。
本日、たった今この時を以て、ハンナ嬢とお前の婚約を破棄することが決まった。無論お前の有責で、だ。つい先ほど、ワイマン伯爵家よりの手紙で要請──と言うよりは通告を受けた。『どのような理由があれ、正式な婚約者を蔑ろにして何ら恥じぬ男に大事な娘を嫁がせるつもりはない』とのことだ」
目の前が暗転するという、魔女に見せられた夢の中で何度覚えたか分からない感覚がまたアイヴァンを襲った。
──嘘だ。こんなことがあるわけがない。私はもう、あの悪夢からは覚めているはずだ。それなのに何故またも、ハンナと紡ぐべき明るい未来が閉ざされてしまうようなことに……!?
「あからさまに信じがたいという顔をしているが、その反応こそ信じがたいとしか言えないな。まさかアイヴァン、お前はここ数ヶ月に及ぶ自らの振る舞いを、綺麗さっぱり忘れ去ってしまったわけではあるまい? 幼い頃からの婚約者であるハンナ嬢に対して、自分が一体どんな態度を取っていたのか、よくよく思い返した上で決して忘れぬよう頭に叩き込んでおけ」
「そ、それは……ですが私は、もうその件は深く反省しております! 今日はこれからワイマン家に伺い、ハンナと伯爵ご夫妻にはきちんと謝罪をして、行いと心を改めたことをしっかり理解していただくつもりで──」
「遅すぎだ馬鹿者。きっかけは何にせよ目が覚めたことは幸いだが……先ほども言ったように伯爵夫妻の堪忍袋の緒は完全に切れており、それはグレースと私も同様だ。
大体、お前が入れ込んでいる子爵令嬢が、王子殿下や大公子息等、国内の上層部に位置する若者に誰憚ることなく言い寄っているのは、最早社交界全体に知れ渡っている事実なのだぞ? どれほど甘く評価しても厄介者以外の何者でもない小娘に、我がダンウッド家の嫡男が完全に骨抜きにされているなど……グレースを始めとした家族全員があまりにも情けない思いをしていることは、反省したと言うのならしっかり気づいているのだろうな」
じろり、と迫力と威圧たっぷりに睨まれて、ただ縮こまるしかないアイヴァンだった。
ふと夢の記憶が頭をよぎり、この場を乗り切れるかもしれない嘘──第三王子殿下から下された「任務」としてキアラに惚れ込んだふりをしていたことを言おうかとも思ったが、この父侯爵はその場しのぎの偽りを見抜けぬような間抜けではない。その事実は、息子たるもの骨身に染みてよく知っている。
とは言え、もしかしたら──優しいハンナや善良なワイマン夫妻なら、自分が「任務」のために動いていたことを信じて、婚約破棄の要請を撤回してくれるかもしれない。
「──父上! 私はこれからワイマン家へ謝罪に行きます! そしてハンナとご夫妻に誠心誠意頭を下げて、婚約継続のためにどうすればいいのかをしっかり伺って参りましょう! 支度をするので失礼いたします!」
「待て、やめておけ──こんな時だけは足が速いな、やれやれ」
あまりにも呆れて嘆息するしかない侯爵だったが、今の息子には現実を突き付けることが何より効果があるのは間違いない。
アイヴァンの身支度にはいつも以上に時間がかかるだろうから、その間にすべきことをしておこうと判断し、冷静に執事を呼び出す侯爵であった。
アイヴァンはしっかり後悔はしています。が、反省しているかは微妙。
仮にしていたところで、ハンナとワイマン家を完全に甘く見ていることには変わりませんが。
普段優しくて穏やかな人たちほど怒らせると怖いものです。
以下、追加で出てきたキャラクターです。
*王家
第三王子クリフ(21)
*大公家
第一公女(16)
*帝国
皇太子イシュトー(18)