『真実の愛』を叶える呪い・3
──その夜。
ようやく王宮から足を踏み出したアイヴァンの気力は、完全に底を突いていた。それはもう、見事なまでに使い果たしていた。
美しく優しく、気品に満ちていたはずの姉は、最愛の夫に離縁を言い渡され、身も世もなくただひたすら涙を流し続けた。
「殿下はっ……十年前に亡くなられた、婚約者の令嬢を……今でもずっと、心から愛していらっしゃると。……『真実の愛』は、その方にだけ捧げているのだと……!
わたくしのことは、大切な存在ではあるけれど……かの令嬢と同じように愛することは、決してできないだろう、って……!」
──だから、こんな未練がましい男の側にいるよりも、エフィーラには互いに『真実の愛』を抱ける相手と幸せになってほしい。それが、妻として四年間寄り添ってくれたエフィーラのため、私ができる唯一のことだ。
王弟は、とても辛そうにそんなことを言ったのだという。
「そんな、そんなこと……! わざわざ仰らなくとも、よく知っていたのに! 知った上で、それでもわたくしはっ……妻としてお側に置いてくださるだけで、とても、とても幸せだったのに……!」
「エフィーラ……」
母の腕の中、優しく背を撫でられながら、なおも娘は泣きじゃくる。
大切な姉をこんなにも嘆かせる王弟に対し、不敬なのは重々承知で、それでも酷く暴力的な衝動を覚えたアイヴァンだったが──同時に、否定しようのない事実を声なき声がささやく。
──キアラとの『真実の愛』を貫こうとしているお前が、同じく『真実の愛』に殉じる殿下を非難するのか?
アイヴァンは絶望的な気分になった。
こんなはずではなかった。ただキアラとの仲を正式に認めてもらい、幸せな人生を送りたかっただけなのに。
単に結ばれることだけを望むなら、何もかもを振り捨てて駆け落ちという最終手段はあったが、貴族として生まれ育った自分とキアラが、その後幸せな生活を送れるかどうかは限りなく怪しい。
だからこそ、貴族としての地位や立場を保ったまま彼女と結ばれるべく、森の魔女のもとへ赴き呪いを頼むなどという、周囲に知れたら正気を疑われかねないことまでしたと言うのに……!
(まさかそのせいで、こんな……こんなことが……)
握った拳が荒れ狂う感情で酷く震えているのを、頭の隅のほんの僅か、冷めきった場所で他人事のように自覚しつつ、それでも止める術はない。
(──どうしたらいい。私は一体、どうすれば──)
答えの出ない自問を繰り返す彼の耳に、母グレースの声が優しく響いた。
「エフィーラ。貴女のその本心を、殿下はご存知でいらっしゃるの?」
「……いいえ。殿下は……離縁を宣告なさった後は、わたくしの言葉など聞きたくもないというご様子で……頭を抱えられて、『どうか一人にしてくれ』と。ですから、わたくしは……ようやく身ごもったことも、お伝えできなかったのです」
「まあ! それなのに貴女は、こうして屋敷を出てきて、馬車もあちらに帰してしまったのね。全く、夫婦揃って何て不器用なのかしら」
「……でも、お母様……愛してもいない妻とその子など、殿下にはただ重荷になるだけで……」
「エフィ」
愛称ながらぴしりと厳しい声音で呼ばれ、反射的にエフィーラの背筋が伸びる。
その宝石と称される両目からの涙も、ほぼ止まりかけていた。
「しっかりなさいな。貴女は母親になるのよ? 身ごもったことで精神状態に影響が出ているとは言え、ただ悲しみにくれているばかりでは、お腹の子にも良いことはないわ」
「は、はい。……でも」
「この件で『でも』や『ですが』は禁句。まずはとにかく、殿下ときちんと話し合う時間を作らなくてはね」
「それは私がどうにかしよう」
と、図ったかのごときタイミングで入ってきたのは、言うまでもなくダンウッド侯爵だった。
「お父様……」
「やれやれ。久しぶりに愛しい長女が帰ってきてくれたと思えば、よりにもよって涙に暮れた顔だとは……ここはやはり父親として、原因である義理の息子には盛大に文句を言いに伺わなければ」
「お、お父様!? そんな、殿下に対してそのような無礼を──」
「何、平気だよ。王弟殿下からは、訪問の許可は既にいただいているからな。遣いの話によれば、殿下の側仕えによる独断のようだが、特に差し支えはあるまい」
「差し支えだらけですわ! せめてもう少し、殿下のお気持ちが落ち着かれてからでも──」
「エフィ。つまり、あちらの使用人の皆様の総意は、貴女に殿下のお側から離れてほしくないということよ」
「……お、かあ、様……」
「あらあら。本当に今日は泣き虫だこと」
再び長女を抱きしめつつ、侯爵夫人は全幅の信頼を込めて背の高い夫を見上げる。
「お気をつけていってらっしゃいませ、あなた」
「ああ。エフィと君のために早く帰るよ。可能な限り速やかに、殿下の首根っこを掴んでこの屋敷に連行させていただく」
「お父様っ!? お願いアイヴァン、お父様を止めてちょうだい!」
「ち、父上!! お気持ちは理解できますが、いくら何でもそこまでの暴挙は──!!」
「何を他人事のように言っている、アイヴァン。明日の午前には、お前ともどもワイマン家にお詫びに伺うことになっているので、そのつもりでいるように。いくらあちらからの辞退申し出があったからとは言え、その原因は明らかにお前だ。まさかこのまま最低限の謝罪もなしで済むと思っているわけではなかろう?」
「……う」
思っていた。何の疑いもなく。
王命のおかげで慰謝料の類いは発生しないが、だからと言って互いの感情の問題までもが、一緒くたに無条件で解消されるはずなどないことを、すっかり失念していたアイヴァンである。
反応で本心を察せられてしまったか、無言の両親が発する空気が何とも恐ろしい。
父はそのまま出ていき、母の肩から顔を上げた姉は、ほう、とこの上なく残念そうに嘆息した。
「まあ……とうとうハンナ様とのご縁が切れてしまうのね。とても残念だわ」
「あ、姉上……その、それは」
「けれどそれ以上に、何より残念なのは貴方の女性を見る目のなさよ、アイヴァン。──キアラ・ロータスといったかしら。本当に、彼女をハンナ様に替えて婚約者とするつもりなの?」
「替えて、などとはとんでもない! キアラは、彼女は私の唯一絶対の恋人かつ伴侶なのですから、誰かに替わるような存在では断じてありません!!」
父やニールが聞けば「完全に頭がやられているな」とでも判断されそうな戯れ言を、あまりにも堂々と口にする姿に、エフィーラは先ほどよりも深々と溜め息をつく。
「……そう。では、その『唯一絶対の恋人かつ伴侶』とやらが、よりにもよって貴方の義兄に言い寄ろうとしていたことは、勿論承知の上なのね?」
「はっ!? 何の冗談ですか、それは!」
「こんな品のない冗談を言うほど、わたくしは物好きではないわ。それにわたくしは先日の夜会で、その光景を目の当たりにしたのだもの。ついでに言うと、問題のキアラ嬢は、王弟夫人が貴方の姉であることも知らなかったようね。知った上であれほどに思い上がった醜悪な表情ができるのなら、それはそれで大した度胸だと思うけれど……
ちなみにロータス家には、殿下直々にきつく抗議をお入れになったわ。キアラ嬢のエスコート役だったナッシュ・ロクセン様も、喜んで彼女の振る舞いについて証言してくださると仰ってくださっていてよ」
愕然とする他ないアイヴァンだった。
これが大公子息の証言だけだったならば、言いがかりだと断言もできたが、他でもない姉が直接、その様子を目撃しているとなると……
信じられない。信じたくなどない。だが……
「……有り得ません。だってキアラは、『私も、アイヴァン様のことを誰よりも愛しています』と確かに──」
──ふっ、と。
厳しくも優しい慈愛に満ちた母親が、つぶやきを鼻で笑ったように思えたのは、アイヴァンの気のせいだろうか。そうだと思いたかった。
恐る恐る様子を窺えば、侯爵夫人はいっそ哀れみさえこもった表情で見返してくる。
「誰よりも、ね……アイヴァン。貴方にとっては『唯一絶対』であるはずの女性は、貴方のことを同じように唯一の存在だとは思っていないようね。つまりは貴方以外にも、他に愛情を抱く比較対象がいるということでしょう? それが家族や友人であれば、ごく当然のことではあるけれど……『私も』という会話の流れからすれば、彼女を女性として『唯一絶対』とする貴方に対して、貴方を男性として『誰よりも愛しています』と言ったことになるわ。
つまり、アイヴァン。ロータス子爵令嬢には貴方ほどではなくとも、恋愛対象として愛する男性が他にもいるという意味になるのではないかしら? それが王弟殿下の婚約者のように、既に亡くなっている御方であったり、過去の初恋の君というのならまだいいけれど……」
あんまりな言葉に、アイヴァンの視界が真っ赤に染まる。
「馬鹿を仰らないでください! それ以上は、いくら母上と言えども許せません! まるでキアラが浮気でもしているかのような物言いなど!!」
「でもね、アイヴァン。お母様だけではなくてわたくしもルーシーも、社交の集まりに顔を出すたびに、キアラ嬢のことは直接目にしたり噂を聞いたりしているのよ。いつぞやの仮面舞踏会では、第三王子殿下と、それは親密な様子で参加していたと言うし……」
「噂は所詮噂でしょう!!」
「……そうね。ではその噂を払拭するためにも、可能な限り早く裏を取るべきではないかしら。貴方はどうやら、姉の見たものや聞いたことを、信じてくれる気は全くないようですものね」
「……べ、別に姉上を信じないわけでは……! ですが母上も姉上も、キアラが悪女に決まっているという偏見に凝り固まりすぎていると思います! 仰る通り、私はこれからキアラのため、未来のダンウッド侯爵夫人のために、彼女の汚名を速やかに晴らしてご覧に入れましょう! では失礼!」
言い放つや否や、返事も聞かずにその場を後にするアイヴァンだった。
「『偏見に凝り固まりすぎている』ね……それは一体、どちらの話なのかしら」
「あら、エフィ。『亡き婚約者を愛する夫に、これまでもこれからも自分が愛される可能性は無きに等しい』と決め込んでいる貴女も大概ではなくて? 意外に似た者姉弟と言えるのではない?」
「……そういう方向で似るというのは、どうかと思いますけれど……」
母娘のやり取りが穏やかに紡がれる一方、怒りと勢いのままに歩みを進めていたアイヴァンは、気づけば自室に戻ってきていた。
──ふと目についたのは、机の上に置かれた上質の封筒。
その封蝋は見間違いようもない第三王子のもので、先ほどの不快でしかないやりとりが否応なく甦ってきた。
ちっ、と。誰かが見ていれば不敬罪に問われてもおかしくないほど乱暴に舌打ちをし、勢いのまま手荒に封を破る。
そして、中身に目を通せば──
「なっ────!?」
そこには、こう書かれていた。
〈親愛なる我が学友アイヴァン。長きに渡る任務、大変ご苦労だった。
貴公が囮となり、キアラ・ロータス子爵令嬢──という名の不穏分子の虜になる演技を完遂してくれたおかげで、彼女の裏をかくことができ、此度の逮捕に繋がった。感謝する。
ついては今夜、キアラ嬢の尋問を執り行うので、功労者たる貴公には是非立ち会いを頼みたい──〉
その後は、詳しい時間と迎えを寄越す旨が続いたが、それ以前に受けた衝撃の大きさに呆然としたアイヴァンは、目を皿のように開けて固まってしまう。
手紙を握りしめる手が、知らず知らずのうちに震え出した。
「……囮……演技、だって……!? 馬鹿な! 私は、心の底からキアラのことを愛しているのに……! それに、不穏分子とは……キアラはただ、私を愛してくれているだけの、素直で可憐な貴族令嬢でしかないはず……」
だが、今目の前にある信じがたい手紙は、紛れもなく第三王子の筆跡によるものである。
もしもアイヴァン以外のダンウッド家の人間が手紙を読んだなら、「『任務』や『囮』とあえて明記することで、殿下なりに学友の立場を守ろうとしてくださっている」と悟ったに違いないが……当の学友はただ、最愛の恋人を危険な存在扱いされたことに怒りと不信感を覚えるばかりで、その裏の思いに気づくことは一切なかったのだった。
──結果、彼がどうなったかと言えば──