『真実の愛』を叶える呪い・1
「真実の愛」を見つけた侯爵家嫡男のお話。
サブタイトルの「呪い」は作品名と同じく「まじない」と読みます。果たしてもう一つの読み方になるのかどうかは……?
とある王国の首都より、馬で一日足らずの距離に広がる深い森。
陰鬱な風情ではないものの、漂う空気は俗世とは到底相容れぬ、どこまでも不思議で不確かな代物で。
自らの意思かそうでないかに関わらず、足を踏み入れた者は必ず道を見失い、気づけば再び元の場所へと戻ることになるのだと言う。
けれども、とある条件を満たす者だけは、木々や動物たちに導かれ、森の主たる魔女のもとへたどり着くことができるのだとか。
果たして今日、たった今。その古くからの言い伝え通り、魔女の住まう家の門前に、一人の人間が姿を見せたのだった──
「頼む、魔女よ! どうか私の──アイヴァン・ダンウッドの『真実の愛』を叶える手助けをしてほしい!」
「おやおや、これはこれは……『真実の愛』とは、また随分と陳腐な言葉を聞いたものよ」
ふふふふ、と。深く被ったフードの奥から、年齢の見当さえもつかない女性の声が応じる。
もうすぐ二十一歳になるアイヴァンよりもよほど若い、ともすれば十にも満たぬ幼女か。或いは長き時を生きた重厚さと威厳とを醸し出す、紛れもない老婆の声音か──如何様にも取れる不可思議な響きに、自然と彼の背筋が伸びた。
そんな青年へ軽く注意を向けた魔女は、口元に変わらぬ微笑を浮かべたまま、からかうように軽い口調で言葉を紡ぐ。
「若者というものは、いつ如何なる世も男女問わず、色恋に夢を抱くものと見える。『真実』だの『運命』だのという修飾が付けばなおのこと、実に分かりやすいものだ。……だがそれらは往々にして、知らずに済めば幸いの『真実』を炙り出す結果を招く。
『森の魔女』の名において断言しよう、アイヴァン・ダンウッド侯爵子息殿。長きを生きる我のもとへ、そなたと同じ『真実の愛』を叶えるべくやって来た者は数限りない。が、彼らは一切の例外なく、全員が希望を取り下げて帰って行った。──最終的にはそなたも、先駆者と全く同じ選択を取る姿が、既に我の目には見えている」
「なっ……!」
だからさっさと諦めるがいい──そんな無音の言葉を確かに聞き取り、アイヴァンは怒りに顔を赤く染め、だんっ!! と飾り気の欠片もないただ丈夫なだけのテーブルに、力の限りに両の拳を叩きつけた。
「────い、っつ…………!」
「ああ、実に痛そうだな。生憎と我の物言いは、訪問者の耳にはとても心地の悪いものであるらしい。そのためにこの罪のないテーブルが、数えきれぬほどに八つ当たりの被害に遭っているのでな。せめてもの詫びとして、魔力的な強化をお気に入りの家具一式に施してあるというわけだ」
くっくっく、と喉を鳴らす魔女を殴りたいという、紳士にあるまじき衝動に駆られたアイヴァンは決して悪くないはずだった。
だがそんな彼の心の動きを見逃してくれるほど、この森と家の主は優しくも甘くもない。
「紳士、ね……出会って半年にも満たぬ子爵令嬢の色香に惑い、長年の付き合いである伯爵令嬢との婚約を何の代償もなしに破棄しようと企むことが、紳士たる者のすべきことだと?」
「悪意に満ちた解釈はやめろ! 私は色香になど惑わされてはいない。彼女は、キアラは私の運命の恋人で生涯の伴侶で、未来のダンウッド侯爵夫人となるべき女性なんだ! ハンナとは幼馴染みだが、所詮は家同士の繋がりを重視した婚約だ。そんなどこまでも味気ないものではなく、心身ともに強い愛情で結ばれた夫婦関係を求めて何が悪い!?」
「悪いとは言っておらぬさ。少なくとも無関係の我は。──が、その様子では、そなたの身内や近しい友人たちが、軒並み強硬に反対しているのだろう? 実に残念で困ったことだ。『真実の愛』とやらに燃え上がる恋人たちへのそのような態度は、ただ火に油を注ぐだけにしかならぬというのに」
まあ無理もないことではあろうが──と、嘆きとも諦めともつかぬ一言を漏らした後、魔女は不意にひらりと右手を振った。
暗色のローブに映える白い指先に、虚空から現れたかのごとく握られた透明な瓶。光の加減かそれ自体の色か、虹色に輝く液体は、魔女の手がゆらゆらと揺れるたび、次第に淡い赤みを帯びていく。
魅入られたようなアイヴァンの見つめる先、情熱的な薔薇色と化した液体を、瓶ごと殊更にゆっくりと、魔女はテーブルの上、いつの間にか広げられた白紙の傍らに置く。
……ことり。
ただそれだけの短い音が、酷く明瞭にその場を満たし、残響を青年の脳裏へ刻み込んだ。
目と耳とを瓶の中身に釘付けにしたアイヴァンに、魔女の声がいっそ優しく、誘うような口調で紡がれる。
「つまるところ、そなたの願いの本質は、身内のみならずこの国の貴族社会全体に、『真実の愛』による恋愛結婚を認めさせたいということだろう? そうすれば、親しい者たちからの反対はなく、何を失わずとも最愛の恋人と結ばれることができる。間違いはないな?」
「……あ、ああ。その通りだ」
そこまでのことは考えてはいなかったが、魔女の言い分は正しいとアイヴァンは思う。
自分たちのことが唯一の特例として認められても、周囲からはきっと腫れ物のように扱われ、誰からも手放しに歓迎されることはほぼ有り得ない。
そんな望ましくない事態になるより、確かに魔女の言う通り、貴族社会の常識そのものを書き換えることができれば、アイヴァンとキアラの関係はごく当たり前のものとなる。加えて、婚約破棄に伴う代償や、何よりハンナと彼女の家に対する罪悪感などを抱く必要は一切なくなるのだ。
「お前の言うことは紛れもない事実だが……そんな壮大な真似を、短期間で実現できる呪いがあるのか?」
「『森の魔女』たる我が身を舐めてもらっては困る。出来もせぬことをあえて無駄に提案するほど、我は愚かでも無能でもない。──ただ、その『壮大な真似』を実現した後に、そなたらに振りかかる事態やその結果までは、我の責任の及ぶところではないが。それでも構わぬな?」
「ああ! 後はただ、私とキアラは正式に結ばれ、幸せな生涯を送るだけなのだからな!」
意気揚々とうなずくアイヴァンだったが、ふと我に返って魔女へ問いかけた。
「そう言えば、その……報酬の話が出ていないが。如何ほどの額になるのだろうか……?」
社会通念を書き換えるほどの術となれば、さぞかし高額の依頼料となるはずだ。
侯爵家嫡男という立場にある彼だが、まだ家督を継いではいない以上、自由にできる財産は限られている。
一筋の汗を垂らしつつフードの奥を窺うが、相手からの返答は意外すぎるほど軽いものだった。
「なに、それは成功報酬であり、かつそなたの満足度次第の額で構わん。なればこそ、『呪いの結果には責任を負わぬ』と明言しているのだからな」
──そなたなりの幸せを得てから、また顔を見せに来れば良い。報酬はその時にいただくとしよう。
得体の知れない噂の主とは到底信じがたいほど寛大な言葉に、青年はただ目を白黒させるほかなかった。
手ずから出されたお茶を飲みつつ、さらに言葉を交わしてから、アイヴァンのカップが空になったタイミングで魔女がおもむろに席を立った。
「刻限だ。これより儀式に取りかかるゆえ、そなたはここを発つが良い。王都に帰り身を休め、夜が明けた頃には呪いは完了していよう。──そなたの望み通りに」
「あ、ああ。……ありがとう、魔女よ。感謝する」
「その言葉、後悔せぬようにな」
出立間際のその一言は、単なる戯れか、それとも真実の忠告か。はたまた悪意のこもった嘲りであったか──
どのようにも響いた魔女の言葉は、屋敷へ帰り着いたアイヴァンが眠りにつくまで、何故かしつこく耳にこびりついていた。
もっとも、翌朝一番に知らされた伯爵家からの婚約辞退の申し出に、喜びのあまり舞い上がった彼の頭からは、不吉な一言などは速やかに消え去ってしまったのだけれど。