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遠藤優二の自由曲。

作者: 榛名水木

 虐待要素を含んでいます。

 暴力シーン・流血シーンもふんだんに盛り込まれておりますので、苦手な方はご注意ください。

遠藤優二の自由曲。



 学校の帰り道、妹に会ってよかったと思った。チャイムの音にドアを開けて、そこにいるのが僕だけだと知ったときの、母のがっかりしたような顔を見ずに済むから。



「お帰り、優奈!」

「ただいまぁ!」

 その日も、母親の暖かな笑顔に迎えられて家に入っていく遠藤優奈、小学一年生になったばかりのまだ幼い少女。その後ろから、高校一年生の兄、遠藤優二が入ってくる。学校からの帰宅途中、玄関の手前で、二人はたまたま一緒になったのだった。

「ただいま」

 呟くように挨拶をして部屋へ向かう優二。優奈につきっきりでリビングへと入っていってしまった母親は、彼の声が聞こえているのかいないのか――おそらくは聞こえているのだろうが、笑顔を見せなかった。いつものこと、だ。

 優二は特に気にする様子もなく、もう慣れたように部屋に入り、ドアを閉めた。鍵はかけない。というのも、この部屋の鍵は外側からしか開け閉めが出来ないように父が改造したため、普段、何事もないときは開いている。

 机の横に鞄を放ると、優二はベッドに寝転んだ。彼は公立の、そこそこ頭のいい高校へ通っていた。あまり馬鹿だと叱られるし、かと言って極端に優秀だとねたまれるため、なるべく妹が目指している中学校と同じレベルの学力を保ち、そこそこの高校を選んだ。友達は沢山いるが、一緒にいるとなぜか決まって怒られる。最近ではその仲も、それぞれ薄れていた。

「お兄ちゃーん」

 ドアを小さく開けて、優奈が顔を覗かせた。優二が頭を浮かせると、何やら沢山の教科書とノートを持っている。これも、いつものこと。幼いなりに気を使っているのだろうか、若干言い出しにくそうな優奈のために起き上がって、尋ねてやる。

「今日は何?」

「えっとね……算数と、漢字練習と、理科の実験」

 理科の実験、と優二が聞き返すと、優奈は微妙な顔をして笑いながら、「結果、友達と話してたら聞き逃しちゃったの」と言った。そんなことが許されると思うなよと、それを教えるのが本当の教育なのかもしれない。それこそが、兄が妹に教えてやるべきことなのかもしれない。そう思いながらも優二は、決して優奈を叱らずに、

「そう。何の話、してたの?」

 それだけを尋ねた。小学一年生がする、きっと楽しい雑談の内容を思い出したのだろうか、嬉しそうに口を開いた優奈に、リビングから母の優しい声がかかった。おやつにケーキを用意したというのだ。ドアから顔を出して返事をした優奈が、また部屋に顔を覗かせて、優二に声をかける。

「ケーキだって! お兄ちゃんも食べたら?」

「俺はいいよ、さっき友達とケーキ食べちゃったから」

 優二は宿題を受け取って、そう嘘をついた。どうせ用意されているケーキは一つ。二つあったとしても、それはきっと俺のじゃない、と優二は思う――そんなこと思うまでもない、と思う。

 なぁんだ、とつまらなさそうに呟いた優奈は、ちらりとリビングの方を振り返り、母が見ていないのを確認すると、そっと部屋に入ってきた。

「ダメだよ、母さんに怒られるだろ?」

 声をひそめた優二がすかさず言ったが、優奈はベッドの上にまで上がってきて、困ったような顔をする優二の首に両腕を回して、抱きついた。小学一年生の彼女でも、両親の態度が自分と兄とで随分違うことには薄々感づいているらしい。時々彼女はこうやって、優二の部屋に入ると怒る両親の目を盗んで、抱きつきに来る。一瞬寂しそうな顔をした優二は、その後わざと声を出して笑って、

「どした、優奈? 俺ならなんともないから、ほら、ケーキ食べといで」

 そう言って優奈の体を離し、部屋の外へ送り出してやった。ぱたぱたと足音が聞こえて、母の優しい声が聞こえる。さて、と優二は鼻で短い溜息をつく。早いところ片付けてしまおうと、優二はまず、算数のノートを開けた。ぱらぱらと今日のページを探す間、宿題のところだけ字体が違うのを、優二は何ともくだらないといった顔で見ていた。優奈の字と似せて書きなさいと母によく言われるが、それにも限度というものがある。

 小学一年生の初期の算数、“1+1”から始まるそれは、高校一年生の優二にとってはまさに“朝飯前”だった。それでも気は抜けない。ついこの間、自分の課題もあって徹夜でそれを終わらせた日には一問間違いがあって、確か“6−4”の記号を見誤って“10”と回答してしまったのだったが、その日の夕食と、次の日の朝食を当たり前のように抜かれた。

「腹減ったな……」

 優二は思い出したようにそう呟いて、家がパン屋を経営している友人にもらった、賞味期限の切れたメロンパンの残りをこっそりと頬ばった。「弁当足んねぇ! 腹減った! 何でもいいから食えるもんくれ!」――そう言って昼休みに馬鹿を演じて騒ぎ立てていたら、「だったらこれ、もらってくれない?」と隣の席の友人が差し出したのがそれだった。一日くらい平気だと母親から渡されたらしいのだが、食べる気になれずにこっそり捨てようかと思っていたらしい。優二はそれに食いついたのだ。あのとき半分残しておいてよかった、と思う。

 算数を解きながらぼそぼそとパンを噛んでいると、リビングから優奈の練習するバイオリンの音が聞こえてきた。まだぎこちなさの残る課題曲、優二が優奈と同じくらいの年の頃に、ひたすら練習した曲だった。音が耳に入るや否や震え出した優二は、必死の形相でかばんの中からCDプレイヤーを取り出してヘッドホンをし、普段は聞かないロックを大音量で流した。息が荒くなって、頭の中に嫌な記憶が流れて、そのまま机に顔を突っ伏す。聞きたくないのだ。

 「あんた、才能ないのよ」――幼い頃、どんなに練習してもそう言う母が、それでも優二は好きだった。本当の両親を失ってから、孤児院で過ごした窮屈な日々から救ってくれたのは母だったからだ。大変だったでしょうと言って手をひいてくれた優しい母の姿は、今でも鮮明に覚えている。優二の顔が前夫と少し似ていることに彼女が気付いた今となっては、もう視線さえ合わせようとしないが。

 母にもっと愛して欲しくて、認めて欲しくて、ピアノもバイオリンも勉強も、習わされた稽古事は必死に頑張った。中でも一番苦手だったバイオリンは、練習を重ねては部屋に飛び込んで、何度も母に聞かせた。優奈が練習している時間にも部屋に飛び込んで、ついにその口からうるさいと言われてからは、拾ってきた木の板に輪ゴムを五本はって、それで練習した。

 学校の音楽の先生から太鼓判を押してもらったある日、稽古が始まる前に、優二はバイオリンを持って母のいる優奈の部屋へ向かった。頑張った成果を、彼女に見て欲しかったのだ。

「母さん、僕、頑張って練習したんだ。見てて!」

 このときも優奈の練習中だったが、優二は早く聞いてほしい一心でそう言って、バイオリンを弾き始めた。曲目は彼が一番苦手だったある課題曲で、物静かでゆっくりとした曲調だったが、その仕上がりは完璧に近いものだった。大きな溜息をついた母は、第一部も弾き終わらないうちに、曲を遮るように優二の髪をわしづかみにした。小さく悲鳴を上げた彼の手からバイオリンを奪い取って、それを突然、床に叩きつけた。

「あっ!!」

 思わず声を出した優二の目の前で、ばきっ、と鈍い音を立ててバイオリンが割れた。弦が弾け飛んだ拍子に足に短い切り傷ができたが、そんなものにはまるで構わず、目の前で壊されたバイオリンを凝視する優二の口からは嗚咽しか出てこない。おびえる優奈に大丈夫よと言って抱きしめる母は鼻で笑って、

「あんた才能ないのよ」

 髪を引っ張って引き寄せた耳元に、冷たく言った。目を見開いたまま絶句している優二に「もうやらなくていいから」と言い放って、母は優奈を連れて部屋から出て行った。彼の夕食が初めて抜かれたのは、まさにこの日だった――。

 ぞく、と全身を駆け抜けた酷い寒気に、机に突っ伏していた優二は突然体を起こした。がんがんと頭に響くロックも聞こえなくなり、机の上のペン立ての中からカッターナイフを取り出す。ワイシャツの襟元を大きく開けると、

「っ、あ!!」

 押し殺した悲鳴に合わせて、鎖骨の下あたりに刃を滑らせた。震える手で傷を押さえ、だらだらと流れてくる血の色にきつく目を瞑る。そこには、もう治りかけているものからまだ新しいものまで、数え切れないほどの傷跡があった。

 息を荒げる優二は頬を伝った冷や汗を拭って、そして絶句した。優奈のノートに血が垂れているのに気づいたからだ。青くなった優二は、どうしようと数秒考えたのち、その丸い血の周りに、赤いペンで短い直線を数本書いた。太陽を書いたのだった。幸いにもそこが“今日の反省”を書こうとしていたスペースだったため、彼はその太陽から吹き出しを作り、ひきざんをがんばりました、と書いた。

 痛みを紛らわすように大きく溜息をつくと、だらだらと血の流れてくる傷を片手で押さえながら、彼は眉間にしわを寄せて算数の続きにかかった。いつの間にか、課題曲は聞こえなくなっていた。



 ただいま、と低い声が聞こえた。お帰りなさい、と高い声が返る。最後の宿題である漢字練習の最後の漢字、“赤”の八回目を書き終わったとき、優二は目線を宙に泳がせた。来た。素早く残りの二回を書いて立ち上がると、制服をかけているクローゼットの中からブイネックのセーターを取り出した。血に染まったワイシャツの胸元を隠すようにそれを着て、ぴっちりとネクタイを締める。こうすれば傷も見えない。

 優二は机に向かい直し、シャーペンを握って溜息をついた。彼の“緊張の時間”は、この後からゆっくりと始まるのだ。

「お帰り、パパ!」

「ただいま、優奈」

 片手でネクタイを緩める彼は、大層な“教育パパ”だった。おかげで、優奈は義務教育が始まった一年目から、早くも進学塾に通わされている。父いわく学校の授業は意味がないものなので、意味のない宿題は優二にやらせるのが一番効率のいいやり方なのだとか――それならば高校一年の優二は尚更、塾に通わせてもよさそうなものだが、養子のお前にかけてやるような金はないと父は断言して、彼には独学で勉強させている――。

「今日は成績が出る日だな。勉強、頑張れたか?」

 父に尋ねられて、うーん、と曖昧な返事をする優奈。彼女が背中に隠すようにして持っているのは、今日、小学校で初めてもらった内申書だった。その結果に満足しているのかいないのか、優奈は照れ笑いをしている。父が内申書を受け取り、開いてざっと数字を見る。合計点数に目を留めること数秒、ゆっくりと口を開くと、

「初めての成績とは思えないな。上出来だ」

 笑顔を見せた。ほっとした顔をする優奈が頷き、彼らは食事を始めた。空腹で敏感になった優二の嗅覚から推測すると、今夜はカレーライス。昼食もろくに食べていないため是非ありつきたかったが、いつまで経っても呼ばれない。内申書についての会話自体は彼にはよく聞き取れなかったが、ダメだったんだなと優二は思った。

 聞こえない程度に大きな溜息をつき、完璧に終わらせた優奈の宿題を紙袋に入れて、部屋のドアノブにかけておく。食事を終えた優奈が自分の部屋に戻っていく途中に、宿題を受け取れるようにするためだ。

「……ぁっ、くしゅん!」

 優二は大きなくしゃみをして、鼻をすすった。



 “緊張の時間”は思っていたより早くにやってきた。乱暴にドアが開き、眉間にしわを寄せた父が入ってくる。机に向かって自分の課題を進めていた優二が振り返るや否や、父はその頬を思いきり殴った。あまりの衝撃に優二は椅子から落ち、床に頭をぶつけた。それは突然すぎる暴力だったが、優二にさほど驚いた様子はなく、ただ少しむせるような咳をして、今日のその時間がやがて過ぎていくことを黙って願っている。慣れているのだ。

 父も、優二を養子に迎えることについては大賛成していた。一目見て気に入ったと母が言うものだから、それを聞いてもはや二つ返事だったのだ。しかし母の前夫と顔が似ている件に気づき、母に大きな不信感を募らせた。母はひたすらに謝って、一時は優二を殺そうかという話にまでなったが、あまりに酷すぎるということで、それならば二人の本当の娘である優奈を愛そう、ということになった。そして、こうなった。あのとき殺してくれればよかったのにと優二は思いながら、父の向こうで開きっ放しになっている内開きのドアノブに目をやった。かけておいた宿題は、もうなくなっている。優奈がこの部屋の前を通る心配もなく、それならいいや、と目線を下ろす。そんな優二のワイシャツの襟を掴んで引っぱり起こすと、父は問う。

「優奈の成績、いくつにしろと言った?」

「……四十五」

 九教科の五段階成績なのだから、四十五点というのは満点以外の何物でもない。完璧にしろと父は優二に命じていたのだった。その数字をぼそりと答えた優二の、今度はこめかみを殴って父は言う。

「四十三だった。どういうことだ」

 優奈に聞こえないよう、父は大声こそ出さなかったが、その鋭い目は恐ろしかった。がんがんと響く頭痛に耐える優二が黙っていると、父は彼の頭を椅子の背に叩きつけた。大きな悲鳴が上げられないよう、鼻と口を手で覆って。

「どういうことだと聞いているんだ」

 激痛と息苦しさに、うっすらと目に涙を浮かべる優二を問いただす父。数秒して手が離されると優二は床にうずくまって、むさぼるように酸素を吸った。床に両手をつき、肩で息をする優二の首をつかんで、父は椅子の背に押し付けるように締め上げた。あまりの力に喉が押し潰されそうになってろくに空気が吸えない中、ごめんなさいとやっと言った。父は手を離さない。

「謝罪なんか聞きたくない。次はどうするんだ」

「つ、ぎ……四十五……っ」

 必死に息をつなぎ、誓いを立てる優二の唇が、酸欠で紫っぽく変色している。唇の端から唾液が漏れたのを見て、父はようやく手を離した。

「――っぇほ、ごほっ、げほっ!!」

「次、言った通りの成績で無かったら……分かってるな」

 殺されるだろうと優二は確信した。ぞくりと走る寒気にも、もう慣れたものだったが。四つん這い状態を崩して喉を押さえる優二を見下ろす父が、それは何だといきなり尋ねた。力無く見上げた優二の胸元に、父には何か赤いものが見えたのだ。父は優二を蹴って仰向けにさせ、自らそこへしゃがみ込んで優二のネクタイを解くと、ワイシャツの襟をぐっと下げた。優二が止める間もなかった。血相を変えた優二が恐る恐る父の顔を見上げると、見開かれた父の目からは怒りの色が滲みだしていた。

「そんなに死にたいか、お前は」

 違うと必死に否定しかけた優二の声など聞きもせず、おもむろに立ち上がった父が机の上から取ったのは、その傷を作ったカッターナイフだった。無論血は拭き取ってあったが、柄の部分には若干量の血が残っている。父は片手で、その刃を長く出した。開いている手で、優二の腕を丁度彼の頭のすぐ上の床に押さえこみ、動けないように彼の上に跨るように膝をつくと、

「どうせならもっと深く切って、死んでしまえ」

 優二の口に解いたネクタイを丸めて詰め込み、じくじくと乾ききっていない傷口に、刃を押しあてた。曇ったうめき声をあげ、目を見開いてもがく優二だが、体格の一回り大きな父の力を跳ね返すことは出来ず、逃れる術を持たない彼の傷口は見る見るうちに血を噴き上げて深くなっていく。悲痛に満ちた目から生理的な涙が溢れ出してくる息子の姿に、父は快感すら覚えているような顔で、にやりと笑った。胸に浅く刃が突き立ったままの状態で手を離し、優二の口の中のネクタイを取り除く。無意識のうちだろう、妹に聞こえないように声を殺し、過呼吸を起こす彼の顔は真っ青になっていた。たまたま通りがかった部屋の向こうに尋常でない息使いを聞きつけた母が入ってきて、

「きゃあぁぁぁあぁあっ!!」

 家中に響き渡るような、甲高い悲鳴を上げた。それではっとした父が慌てて刃を抜いたときには、優二は半開きの目をあらぬところへ向けたまま、時々体を痙攣させて、気を失っていた。うわあ、と父が情けない声を上げたところへ、「ママ、どうしたの?」と寝ぼけ眼の優奈が悲鳴を聞きつけてやってきた。ぎょっとした母が優奈の肩を抱えてその部屋から遠ざけ、ぐったりとした優二を抱えておろおろしている父に叫ぶ。

「あっ、あなた、早く病院へ!! 救急車よ!!」

「救急車って、病院の車でしょう? 誰か、怪我したの?」

 何でもないのよ、優奈はいい子で寝ようね、と促しながら優奈を部屋へ戻す母。自らが犯したことにもかかわらずに取り乱す父は、震える手で携帯電話を握り、やっとの思いで“119”をかけた。



 翌朝、優二が目覚めたときには病院のベッドの上にいた。しくしくと痛む胸の傷口はもちろん、気づけば体中の至る所が包帯で巻かれていた。入院とは直接関係のない古いあざや傷にまで、一つ一つ丁寧に治療がなされていたのだ。傍に付き添っていたのは家族ではなく、知らない看護婦だった。こんなに怪我してどうしたの、と心配そうな声で聞かれても、「ボクシングやってるんで」と 優二は迷うことなく言って、困ったように笑ってみせるだけ。これは父からの強い言いつけでもあり、怪我の数ついて何か尋ねられたとき、それが両親からの暴力によるものだということを隠すために、優二は決まって嘘をつく。本当なのねと看護婦は念を押すように尋ね、

「これから一生使う大事な体なんだから、ほどほどにね」

 微笑みながらそう言った。彼女と同じくらい笑って頷いた優二はなんだか泣きたいような気持ちになって、もう一眠りするかと言った具合に頭から布団をかぶった。二度寝までしてゆっくり眠ることだって、こういう特別なときしかないのだから。



 優二が退院したのは、それから二日後の朝のことだった。救急車で病院へ運ばれた日に緊急手術をし、胸の傷を十針縫って絶対安静を強いられたせいで、退院ぎりぎりまでベッドから出られない。そして今日の午前中に退院、その足で学校に寄って三日分の授業の補習を受け、家路を走るバスの中で優奈の宿題を終わらせ――母からのお見舞いだと言って、提出期限が明日までのものを昨夜、中身を知らない看護婦から渡された――、今やっと帰宅しようとしている。なんというハードスケジュールだと、優二はそれを命じた父に呆れた。

 病院の中はなにより安全だった。殴られないし、怒鳴られないし、おかげで体に残っていた沢山の傷ももうほとんどが目立たなくなった。もっとここにいたい、むしろ一生をここで暮らしてもいいと、本気で思った。あっという間に辿り着いてしまった自宅の玄関の前で、中に入ることを少し躊躇した優二だが、思い切ってドアを開けた。

「ただい」

「お兄ちゃん!」

 帰宅した優二を始めに迎えたのは、優奈だった。優二が玄関のドアを開けた瞬間、待っていたかのように跳びついて来て、優二の体にしがみついて離れない。たった三日とは言え、やはり兄がいないのは寂しいらしい。傷が少し痛んだが、悪い気はしなかった。もうどこへも行かないでねと無邪気に見上げる優奈に優しく頷いた優二は、とりあえず義務的に鞄を開けて宿題を手渡し、

「あれ、母さんは?」

 優二を迎える優奈に向けて、早くリビングに戻ってらっしゃいと聞こえてくるはずの母の声がかからないのを怪訝に思い、尋ねる。すると優奈は当たり前のように、「今日は二回目の金曜日でしょ、パパとママは二人でお出かけよ」と答えた。あぁそうかと優二はつまらなさそうに呟いた。毎月第二金曜日、両親は決まってどこかへ行く。家のことを全て優二に任せて、“息抜き”をするのだという。何をしているのか定かではないが、優二がまだ中学生に上がったばかりのとき、脱ぎ棄てられた父のコートのポケットの奥に派手なピンク色をした会員カードのようなものを見たときから、何となく彼らの目的は分かっていた。

 久しぶりに入った台所でコップに麦茶を二人分注いで、部屋へ向かう。その途中で、優奈が優二のセーターの裾を引っ張った。優二が振り返ると、優奈は少し考えるように目線を泳がせてから、小さな声でこう言った。

「ねぇ、ママたちいないから、お兄ちゃんにお願いがあるの」

 何、としゃがんで優奈と目線を合わせる優二に、彼女は言う。

「バイオリン弾いてほしいの」

 目を見開き、優二は顔を強張らせた。半開きの口から、どうしてと言葉が漏れる。優奈は照れたように手を後ろで組んで、「お兄ちゃんがバイオリン上手なの知ってるから」と床を見ながら言った。優二は“バイオリン”という言葉をそもそも久しぶりに耳にし、ドキドキしてくる胸にそっと手を当てた。包帯の奥で、鼓動が高鳴っているのが分かった。手持無沙汰になってセーターを掴み、

「優奈のバイオリンじゃ、ダメ?」

「……いいよ」

 いつもの癖で咄嗟に頷いてしまった。言った後で酷い焦燥感に襲われたが、優奈はそれまでぎこちなかった表情を一気に明るくして嬉しそうに笑うと、さっさと部屋へ走って行ってしまう。両親はきっと夜半近くまで帰って来ないから、バイオリンを弾いても殴られるようなことはまずないだろう。しかし優二の胸にはそれ以上に、バイオリンを弾くという行為そのものを自分の中で消化しきれないのではないかという不安が募っていた。音を聞くだけで体が震えると言うのに、果たしてそれを弾くことなどできるのだろうか。

 コップを二つ乗せたトレーを片手に、優二は重い足取りで彼女を追った。



 まず入ることのない優奈の部屋に足を踏み入れる。久しぶりに目にしたバイオリンのケースは、思っていたのよりも一回り小さいものだった。幼稚園の頃に触ったきりだもんな、と優二は思う。

 取り出した楽譜を眺めながら優奈がリクエストしたのは、過去に優二が一番練習した課題曲だった。バイオリンを折られた瞬間に弾いていた曲だ。ケースの中から取り出したバイオリンを、優奈は楽譜と一緒に優二に差し出した。母の声とバイオリンの折れる音が瞬間的に頭をよぎり、思い切りよく手が伸ばせない優二は困ったように言う。

「……もう何年も弾いてないから、俺、きっと下手になってるよ?」

「いいの! お兄ちゃんが演奏してるとこ、見たいの!」

 優二の苦し紛れの言い訳も、何も知らない妹には間髪入れずに跳ね返されてしまう。もう弾くしかなかった。震える手で、言われるままに楽譜とバイオリンを受け取った優二。優奈の練習用に用意された譜面台に楽譜を置き、冷たいバイオリンを両手で持って、正面から見つめる。母に壊されて見る影もなくなった“あいつ”、それはまさにその形だった。母への恐怖が寒気となって体を襲い、危うくそれを落としそうになる。

 三日前、優奈が弾いていたときの音色を、ふと思い出した。彼女のそれはまだまだぎこちなかったが母は怒らず、前より良くなったとむしろ褒めていた。もっともっと弾いて上手くなろうねと笑っていた。俺だってあの頃はもっと弾きたかった――。今更ながら、優二は胸中でそっと呟いた。

 壊された楽器をビニールに入れて、泣きながらゴミ捨て場に置いてきたときのことを思い出す。朝早くに捨てに行ったのだが、そこにしゃがみこんで延々泣いて、帰宅したのは正午を過ぎていた。ゴミを捨てに来る大人から何度も声をかけられて、その度に首を振ってやり過ごしたのを覚えている。そして気づく。「俺も“あいつ”も何も悪くない」のだと。そうしたらなんだか随分楽観的に思えるようになって、「いっそいらないじゃない」と思った。

 なんだか無性に馬鹿馬鹿しくなってきて、気がついたら笑い声が漏れていた。いつの間にか手の震えも止まっていて、バイオリンが指先に馴染んだような気がする。バイオリンを見つめて突然笑い出した優二の腕をつついて、優奈が心配そうに声をかけた。優二は彼女に優しく目をやって、課題曲だねとバイオリンを構えた。長年触っていなかったとは思えないほど、それはぴたりと顎の下に収まった。久しぶりに感じる楽器との一体感に、優二は大きな快感を覚えていた。五本の弦を端からリズム良く弾いて音を確かめると、

「弓、貸して」

 そう頼んで優奈から受け取った弓を、そっと弦に滑らせた。

 最初の音、五番目だっけ、あれ、四番目だ――そんなやり直しを何度も繰り返しながら、ゆっくりと、それはゆっくりと楽譜を見ながら、優二は一音一音を丁寧に弾いた。懐かしい。とても懐かしくて、優二は間違えるたびにびくっ、と思わず肩を上げ、参ったなと言うように微笑んだ。

 曲が終わるまでに十分弱、かかった。五分ちょっとの曲にかけられた時間にも優奈は文句を言わずに、もう一回弾いてと再度リクエストをした。そこでも優二は、あぁそうかとまた気づく。ぶたれない。もう怒られないのだと思ったら気持ちに余裕ができたのか、二度目の演奏はだいぶミスが減った。演奏も七分で終わった。

「ねえ、もう一回だけ、いい?」

「もっといっぱい弾いてよ! 次はこっちがいいな」

 優二に寄せる期待が大きいのか、優奈は楽しそうな顔をして新しい楽譜を差し出した。これもいつか見たことのある楽譜だった。優二は大きな間違えもせず、特にリズムも乱さないで、優雅な課題曲を弾き上げた。それは母に愛されたいがための課題曲ではなく、優二が弾きたいように弾いた、言うならば“優二の自由曲”だった。

 それまでの二回とは比べものにならないほどの美しい音色に終始聞き入っていた優奈は、曲が終わると大きな目を輝かせて拍手を送った。

「やっぱり上手、お兄ちゃん!」

 優二はおかしさを堪えるように笑って、「あー、馬鹿馬鹿しい」と天井を見上げて言った。聞きなれない言葉に優奈が聞き返したが、もうそんなものは彼の耳には入って来ない。彼はバイオリンの弓をくるりと指先で回して、

「次に弾いて欲しい曲って、何?」

「え、もっと弾いてくれるの? じゃあ、これ!」

 気前よく次の楽譜を受け取った。次の楽譜も、課題曲の中の一曲だった。軽快で早いテンポに弓が追い付かず、演奏の途中で何度も怒鳴られたのを思い出す。どうやら優二が練習していたのと同じテキストを使っているようで、パラパラと楽譜をめくると、見覚えのある音符の並びが続いている。

 優二は一層おかしそうに笑いながら、今度は体を揺らして、これもまた、綺麗なハーモニーを奏でて見せた。楽しくて仕方ない。もう止まらない。

 あっという間に七時を回り、お腹が空いたと優奈が言ったので簡単なシチューを作って食べさせ、バイオリンを弾き、風呂を沸かし、バイオリンを弾き、洗濯を終えて、またバイオリンを弾く。何をするにも綺麗なバックミュージックがついて回るのに喜んで、優奈は次々と曲をリクエストした。そのうちテキストの中の曲を全て弾き終え、ついにはピアノの楽譜にまで手を出した。

「優奈、まだ起きてるのぉー?」

 ほろ酔い状態の両親が帰ってきたのは、やはり夜半を回った頃だった。聞こえてくる美しい音色に耳を傾けながら驚いたように優奈の部屋へ入ってきた両親は、バイオリンを演奏する姿が優二であることに気づくなり、

「何やってんのよ!?」

「誰が優奈の部屋に入っていいと言った!!」

 子守歌代わりに演奏を聞き、うとうととしている優奈がいることも忘れて大声を出した。うーん、と優奈が目を覚まして、

「あ、パパ、ママ、すごいのよ、お兄ちゃんがね」

「優奈。あの人にバイオリンなんて貸すことないわ」

 楽しそうに話そうとするのをきっぱりと遮るように母が言った。

「今すぐそれを優奈に返せ。それからここを出て行け」

 父が、優奈を気遣ったのだろう、いつもよりもずっと小さな声で言った。呑気にあくびをしている優奈を母が寝かせにかかると同時に、父は優二の持つバイオリンに手をかけた。それでも優二は弓を止めず、音色に酔ったように笑っている。

「――聞こえなかったか?」

 眉間にしわを寄せた父が、優二のこめかみを殴りつけた。バイオリンを離し、開いていたドアから跳び出す形で廊下に倒れた優二。父が歩み寄って胸倉を掴み、再び殴ろうと振り上げた拳を、ぱん、と乾いた音を立てて、優二の手が止めた。久しぶりの息子の抵抗に一層腹を立てた父は力任せに彼の首を締めたが、彼の笑い声は止まらない。にい、と白い歯を見せて笑う優二の顔にただならぬものを感じて、父は思わず手を離した。小さな咳をした優二はふらりと立ち上がると、床に落とされたバイオリンと弓を再び握り、普段は立ち入ることを禁止されている二階、両親の部屋がある階への階段をふらふらと上り出した。

「おい、二階へは上がるなと言っ」

 言っただろ、と怒鳴りかけた父が、思わず息を呑んだ。階段の踊り場で振り返った優二の、明かりに照らされた瞳孔が開き切っていたからである。

「うるさいなぁ、毎日、毎日」

 目を見開いた父がその場に立ちつくしているうちに、優二はすっかり二階へ上がってしまった。おいお前、と父が声をかけると母は唇の前で人差し指を立てて、優二がいないので怪訝な顔をした。母に事情を話しにかかった父が、カーテンの開いている窓の外にふと目をやって、ひっ、と情けない悲鳴を上げた。

 どさっ、と何かが落ちた。音が鳴る一瞬前、カーテンの向こうに父は、バイオリンを抱えて狂ったように笑った優二の顔を見たのだ。

「ママぁ? お兄ちゃんねぇ、課題曲がすごーく、上手だったのよー?」

 寝ぼけ眼の優奈が、ベッドの中で母にそう笑いかけた。

 あんな結末になってしまった優二ですが……いかがでしたでしょうか。少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。

 お読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最後が気になりますね。その後優二がバイオニストになって凄い演奏者になってたら、イイナ〜なんて…思っちゃいました。やっぱ最後は優二達が幸せになってほしい物語だと思いました。少し物語に入って共感…
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