寄生
※寄生
俺は明松の脳の中で、脳のどの部分がどういった働きを司っているのかを調べていた。明松は今眠っている。
丸川企画を出た明松は、一旦警察署に戻った後、とりあえず家に帰ったと思われる。そしてそのままシャワーを浴びてすぐに眠りに就いてしまったようだ。お陰で俺は随分脳の構造について詳しくなった。
俺はまず自分の細胞を極々細い糸状に引き伸ばして、脳の至る部分に蜘蛛の巣を張るようにその全体を覆った。それから明松の脳に刺激を与え体にどういった反応が起こるのかを探った。
脳は刺激を与えるとその反応を克明に教えてくれる。俺は聴診器を持つ医師を思い浮かべた。胸に聴診器を当て異音がないかを調べる。俺は脳に細胞を這わせ脳が体に与える指令がどういったものなのかを調べる。
それを繰り返していくうちに、完全ではないが明松の体を僅かながらに動かす事ができるようになった。例えば腕を動かしたければそれを司る脳の部位に刺激を与える。すると腕が僅かに動くのだ。俺の意思で明松を操作できるほどではないが、促す事くらいならできそうだ。
俺は明松の体の動かし方を一通り調べた後、五感についてはどうなのかと更に深く調べ始める。
五感とは何か対象物に対してその物の色や形、熱さ冷たさ味匂い、そしてその物が発する音や感触を感じ取り、脳の中で処理する事で初めて生まれるもの。
運動神経のように刺激を与えてやれば動くというようなお手軽なものではないはずだ。もっと更に細く小さく細胞を改造し、明松の感じるものを読み取らなければならない。
俺は明松の脳と同化するイメージで、細胞を細く小さく改造していった。
気が遠くなるほど長い時間をかけ俺は脳の深い部分に潜って行く。暫く進むと、先端がキノコのように膨らんでいる支柱が延々と無数に並んでいる場所に辿り着く。そしてそのキノコのように膨らんでいる部分の表面が時折フラッシュを焚いたように光っていて、空間内部をほんのりと青白く照らしていた。
なんだここは……。
俺は思わず心の中で呟いた。目の前の光景を見て、昔テレビで見た湾岸戦争の中継を思い出した。テレビの中では、真っ暗な街が赤外線カメラで映し出されていて、街の至る所で機銃やパトリオットミサイルが爆発し、その部分だけが薄緑がかった白い光で照らされるのだ。
俺はそれを見て、慌てて自分の住む街を窓から見た記憶がある。しかし窓から見える街はいつもとまるで変わらなかった。
どこかの家の窓から聞こえてくる団欒の笑い声。夕飯の匂いなのか魚を焼いた香ばしい匂い。その全ては街の中の至るところに充満していて、街全体で平和な空気を醸し出していた。俺には、テレビの中の世界と、自分の住む街が同じ星の上にあるとは到底思えなかった。
絶対的に安全で平和な空気。安心できるはずの環境。それなのに、それがテレビの中の世界や俺に対する当てつけのように感じられた。そしてどうしようもない孤独も感じた。
まともに家族と呼べるものを持たない俺にとって当たり前のようにある平和は苦痛でしかなかった。この平和な空気を誰かがテレビの中の世界のように、ミサイルで破壊してくれないものかと心の隅で願った。しかしいつまで待ってもミサイルは飛んで来なかったし、代わりに誰かが平和を壊してくれる事もなかった。次の日もその次の日も変わらない平和な日常が繰り返される。――俺は何を考えている。
意識の表層に浮かんだ、取り留めのない考えを振り払うように、俺は神経を張り詰め支柱の大地を見る。そして光る支柱の先端に細胞を近づけると、光るものの正体を見極めるために支柱を観察した。
じっと観察していると、どうやら支柱はそれぞれが対になっているようで、その対になっている先端同士で光るものを遣り取りしているようだった。
光るものは、目にも留まらぬ早さで次々と一方の支柱から吐き出されていて、対の支柱に到達した瞬間が一番光るようだった。それを見て、俺はやはり湾岸戦争のようだと思った。多国籍軍側とイラク軍側だ。
記憶の中で何かが訴えてくる。この支柱に関する事だ。以前テレビか何かで見た記憶がある。この支柱には名前があったはずだ。支柱の名前は確かシナプスだとかそんな食べ物のような名前ではなかっただろうか。そしてこの支柱こそが、外部の情報などを脳内に伝える重要な役割をしていたように思う。
俺は支柱に近寄り光の軌道上に細胞を挟み込んだ。支柱の先端がぼんやりと光り始め、一際大きく光った後先端から射出された。
放たれた光は認識する遑もないほどのスピードで俺の細胞にぶち当たる。そして光の当たった部分に痺れる感触と少しの熱を感じた後、何かの情報の断片が意識の中に流れ込んできた。しかしあまりにも断片的すぎる情報は全く要領を得ず、俺には何の事かさっぱりわからなかった。
無限に広がるシナプスの大地では夥しい情報の光があちこちで瞬いていた。これら全ての情報を受け取る事は到底不可能だ。それに、明松の脳が受け取るはずの情報を俺が横取りしてしまうと、明松は外部から得た情報を処理できなくなり、幻覚を見たり頭が狂ったようになってしまったりする恐れがある。まるで麻薬の禁断症状のように。
以前麻薬の売人に聞いた事がある。麻薬が見せる幻覚は、摂取した麻薬が脳の隙間に入り込みシナプスの情報伝達の阻害をする事により引き起こされるのだと。そこまで逝ってしまうともう正常な世界には戻れないのだと。売人はこうも言っていた。だから絶対に俺はやらないしお前もやらない方がいいと。俺はそれを聞いて笑ってしまった。麻薬の売人が麻薬の毒性を説くとは皮肉にもほどがある。
明松がどうなろうと俺には関係ないが、宿主が狂ってしまっては俺の目的を達成する事ができなくなる。ではどうするか。明松の情報を奪う事なく外部の情報を得るには。――いや待て。何を回りくどい事を考えていたのだ。俺の細胞は五感を全て兼ね備えている。しかも明松の体の中を自由に動き回る事ができる。ならばアンテナを這わすように外部に細胞を伸ばし、細胞の大部分は運動を司る脳の部分に常駐させ明松に動きを促させる。それで良いではないか。なんでそんな簡単な事に気がつかなかったのか。
それではアンテナ部分はどこがいいか。それはやはり脳から一番近く、明松が見ている物を共有する意味でも眼球付近が良いだろう。ただ一つ問題がある。明松に俺の存在を認識させなければ、明松は自分の思うがままに動いてしまうだろう。それでは俺の本体を探す事はできない。勿論明松が今回の事件を捜査する上で偶然俺に行き当たるかも知れないが、それではあまりにも運に任せる部分が大きい。何とか明松に俺の存在を示さなければ。
俺は明松の意識に働きかけるにはどうしたら良いのかと、再び脳内を探り始めた。
けたたましい目覚まし時計の音と共に、眩しい光が射し込むのを感じる。どうやら明松が目を覚ましたらしい。
俺はあれから自分の存在を明松に示す方法はないかと、ずっと脳内を徘徊していた。その過程で明松の過去の記憶などの情報に触れ、そのうち本人よりも詳しいのではないかと思うほどに明松の趣味嗜好や癖などに精通してしまった。
「頭痛え……」
明松は呻くように呟きながら身体を起こす。それに伴い部屋の中が明らかになる。明松の部屋は1LDKの独り住まい用のマンションで、必要最低限の物しか置いていなかった。テレビに冷蔵庫。ノート型パソコンに背の低い書棚。目につく物といえばそれとスチールパイプ製のベッドくらいのものだった。
明松はクローゼットを開けると黒のスーツを取り出し着替え始める。クローゼットの中には警察官の制服もあったが、暫く着ていないのかクリーニングのビニールに包まれたままだった。
明松は市販の頭痛薬を二錠口に含むとミネラルウォーターで流し込む。頭痛の原因がもし俺なのだとしたらその薬に効果はない。
明松に俺の存在を示すにはどうするべきか。俺は明松が寝ている間に考えていた事を実行に移す。それはシナプスの情報を頼りに探り当てた、聴覚と言語、そして知識などを司る側頭部にある脳に直接働きかけるというものだった。
『おい。聞こえるか?』
明松はその時洗面台で顔を洗っていたが、行動に大きな変化はない。鏡に映る明松は、俺とさほど年が変わらないように見えた。俺は刺激する部位を変え更に繰り返す。
『おい。聞こえたら返事をしてくれないか?』
ふと考え込むように洗顔の手を止め辺りを伺う明松。聞こえているのか?
『明松。聞こえていたら蛇口の水を止めてくれないか?』
明松は再び顔を洗い始めた。やはり聞こえていないのか。しかし諦めるわけにはいかない。何の意思も持たないただの細胞の欠片ならこのままでもいいが、残念な事に俺は意思を持ち思考する生きた細胞なのだ。この男が死ぬまでこんな薄暗く退屈な所にいるなんてごめんだ。
『明松。聞こえていないのか?』
蛇口の水を止め顔をタオルで拭く明松。そしてリビングに戻るとテレビをつける。テレビの中では俺が昨日暴れまわった五反田にある丸川企画のマンションが映し出されていて、リポーターが神妙な面持ちでカメラに向かむって状況を伝えていた。
「皆さん見えますでしょうか。こちらのマンションで昨夜八時ごろ。何か癇癪玉のような破裂音が立て続けに聞こえたと警察に通報があり、警察が現場に駆けつけたところ、なんと男女合わせて六人もの死体が見つかったとの事です。うち女性は首に鋭い刃物で切られた痕があり、他の五人の男性はいずれも拳銃のようなもので頭及び身体を撃ち抜かれて死んでいたという情報が、警察関係者の発表でわかりました。また、この部屋の所有者は暴力団事務所との深い繋がりのある方のものだという事で、今回の事件は、暴力団同士の争いが原因なのではないかとの見解が強まっています。なお、昨夜十時ごろ、この五反田からほど近い目黒にある某暴力団事務所付近でも、何か癇癪玉のような音が聞こえたと通報があったそうですが、その件とこの件が関係しているかどうかは、今現在のところまだ情報が入っておりませんので、何かわかりましたらまたお伝えいたします。現場からは以上です」
テレビ画面が変わり沈痛な面持ちのキャスターとコメンテーターが、心底恐ろしいといった会話を交わしていたが、その仕草がわざとらしすぎて俺には寧ろ楽しんでいるように見えた。
その後テレビ画面には、死んだ人間の名前と年齢が画面下に表示され、そこに加奈の名を見つけた俺は再び絶望の気持ちを味わう事となった。
『加奈……俺のせいで』
「幻聴が酷いな。やはり病院に行くべきか……」
『なんだと?』
明松の声に俺は思わず呟く。
明松はテレビを消すとおもむろに立ち上がった。
『おい! やはり聞こえているじゃないか!』
明松は動きを止めきょろきょろと部屋を見回す。
『聞こえているのか? 聞こえているのなら返事をしてくれ!』
「――誰だ! どこにいる? 俺は警察だぞ! 住居不法侵入で逮捕されたいのか!」
明松は不審者と対峙するかのごとく身構える。
『違う! 俺はお前の頭の中にいるんだ。無断で入ったのは間違いないが、それだって悪気があったわけじゃない。それより話を聞いてくれないか?』
明松はクローゼットにしまってあった拳銃を取り、部屋の中で構える。そしてベッドやカーテン。バスルームなどに銃を向けながら「どこにいる!」「出て来い!」などと声をかけていった。
『話を聞け明松! お前は丸川企画のバスルームで転倒しただろう。その時脳みその上に倒れ込んだのを覚えているか? 俺はその脳みそなんだよ!』
明松は肩で息をしながら動きを止めた。
「お前がなんでそれを知っている」
『だからお前の事を視ていたからだよ』
「気持ち悪い事を言うな! お前ストーカーか何かか?」
これでは話にならない。だがしかし、突然幻聴が聞こえたかと思えば、その相手が自分は脳だと言い出したらパニックになるのもわからないでもない。それでも早く落ち着かせて俺の事を信じさせなくては。
『落ち着けよ。俺は直接あんたをどうにかできる状態じゃないんだ。あんたに助けてもらいたいんだ。どうしたら信じてもらえるかな。――そうだ。俺があんたの脳の中にいる事を証明するために、あんたしか知らない事を俺に質問してみてくれよ』
明松は拳銃を構えたまま辺りを伺っている。
「ふざけた野郎だ。でもいいだろう。お前が答えられなければこの部屋にバルサン焚いてやるからな。煙で燻し出してやる。――そうだな。よし。こんなのはどうだ。俺が中学の時にやっていた部活はなんだ?」
明松の記憶では確か、バスケットボールをやっていたはずだ。そしてさほど強くないチームで、リーグ戦などに於いても必ず一回戦敗退だった。俺はそれを明松に伝える。
「お前中学の同級の坂本だろ! 何となく声に聞き覚えがあると思ったんだ。お前警官マニアだったからな、制服を盗みに来たんだろ!」
明松は拳銃を振り回しながら怒鳴る。
『落ち着けよ。坂本なんて奴は知らないし、それにお前が質問したんだろ。もっと秘密めいた物はないのか。例えばお前の初恋の相手、――近藤明日香とかそういったお前しか知らないような話だ』
「おい……。お前信じられないが」
明松の声のトーンが変わる。やっと信じてくれたのか?
「まさか山中なのか?」
山中?
「俺の初恋の相手を知っているのは山中だけだ。お前の事俺は親友だと思っていたのに。残念だよ。お前を逮捕しなくちゃならないとはな」
『ちょっと待て! 山中も知らん。俺は水上だ。頼むから話を聞いてくれ』
「うるさい黙れちくしょう! 明日香ちゃんの事持ち出しやがって……。ちくしょう……」
結局明松が俺の話を信じるまでに三十分近くも費やす事となった。いや、三十分でも早い方なのかも知れない。他に比べようがないからわからないが、これだけ不可解で荒唐無稽な状況下にあってそれを信じるとなると、相当柔らかい頭を持っていないと到底無理な話だろう。
「という事はだ。丸川企画の発砲事件の犯人はお前だという事か」
明松は半信半疑といった感じの声で話す。
『そういう事になるな』
俺は警察である明松に、加奈の事を除いた全てを話した。身体はここにないがある意味自首である。五島と中嶋、そしてその他にも三人もの男を殺した。加奈を人質に取られたという状況から情状酌量の余地があるとしても、死刑は免れないだろう。まあ頭を銃で撃ち抜いても死なない俺を死刑にした所で、何の意味があるのかわからないが。
「とてもじゃないが信じられん。信じられんが、お前とこうして話している以上お前を信じるか、俺の頭がおかしくなったかの二通りしかないのだが。……それでもまだ完全には信じられんな」
道行く者達が明松に訝しげな視線を送りながらすれ違って行く。それはそうだろう。傍から見れば一人で何事かをブツブツと呟く明松の姿は、さぞかし奇異な存在として目に映っているに違いない。
『今どこに向かっているんだ?』
「署だよ。品川署。お前の言う事が正しいかどうか検証するんだ。坂崎さんから今日朝一の会議で昨日の発砲事件の捜査会議があると連絡があった。そこでお前の言う事が正しいかどうかわかるだろう」
坂崎というのは、俺の説明の途中で電話をかけてきた男の名前だろう。声は昨日明松と一緒にいた上司の声だった。電話の内容は俺にも全て聞こえていたが俺は何も言わない事にした。
『そうか。ところで言っておくが、俺の存在はお前しか知らない。さっきから通行人がお前のことを変な目で見ているぞ?』
「お前なんでそれを早く! 言わないんだ……」
明松は狼狽して大きな声を上げたが人目を気にしたのか、すぐに口ごもる小さな声に変わった。そして悪態を吐くと足早に品川署への道を歩いた。
「犯人は丸川企画襲撃後、そのまま目黒にある関連組織の事務所に向かっている節がある。なので今回の捜査は品川署目黒署の協力体制が絶対不可欠になる。捜査は本庁捜査一課が主に取り仕切るが、所轄にも協力をどうか頼みたい。また今回の事件について近隣住人からの苦情の電話が朝から警察本庁に殺到している。警察は普段何をしているのかとな。であるから、信頼回復のためにも一刻も早く事件の解決を急がねばならん。なので各々が協力して全力で事件解決に当たるように。以上」
これが捜査会議と呼ばれるものか。バスケットコートほどもある会場には整然と机と椅子が並べられ、この事件を取り仕切るであろう者達が会場前方に十人ほどこちらを向き座っている。
それに対するように、何十人もの捜査員達がメモを取ったり考え事をする仕草をしたりして、前を向き座っていた。
ヤクザを組織に身を置いていた俺からして見れば、実に縁遠く興味深い見世物だった。
それより今の話で気になるのは、テレビのニュースで目黒の話が出ていたからもしやと思っていたが、やはり俺の本体は鳥居の事務所に向かったようだ。
「次に組織犯罪対策課の方から説明がある」
場を取り仕切っていた男が違う男にマイクを譲る。その男に俺は見覚えがあった。直接話した事はないが夜の街で何度か見かけた事がある。確か名前は亀井とか言う名前だったはずだ。斎藤はあの男を確か『噛みつき亀』と呼んで倦厭していた。仇名の由来は知らないが、何にでも食らいつきそうな下品な人相はその由来を体現しているように思えた。
『噛みつき亀……』
「なんだ知ってるのか?」
明松は小声で話しかけてくる。
『名前だけはな』
「おいそこ! 何くっちゃべってんだ! 立たんか!」
突然亀井が怒鳴り明松を指さした。指をさされた明松は勢い良く椅子から立ち上がる。周りから「早速噛みついた」と揶揄する声が聞こえる。どうやら噛みつき亀という仇名は警察内外でも通用する通り名のようだ。
「お前は確か……」
隣に座っていた男が亀井に耳打ちした瞬間亀井の顔に嘲りの表情が浮かんだ。
「鑑識の人間がお前のせいで容疑者が一人増えたってぼやいてたぞ。ちゃんと面倒見ろよな坂崎」
容疑者が一人増える? 亀井が何を言っているのかと思ったところで明松が現場で嘔吐した事を思い出した。その内容物には明松の唾液など人物を特定できるだけの『証拠』がふんだんに含まれていた事だろう。
明松の肩が怒りで震えるのがわかる。
「堪えろ明松。――亀井さん。勘弁してやってくださいよ。こいつはまだまだ新米なんだ。なあに失敗は捜査で取り返しますよ」
坂崎は、素早く明松に声をかけた後亀井に向かって懐柔の声を上げた。亀井は鼻を鳴らしてそれに応える。
「まあいい。では始める。これから話す事は、ある組関係者から仕入れた情報で、裏づけも取れていて信用度はかなり高い情報だ。その情報というのは、今から約一ヶ月前、現在の堀川組組長の南嶋組長が心疾患で倒れた。奇跡的に一命は取り留めたが今なお危険な状態である事には間違いない。そこで南嶋組長は柳川会会長と友部組組長を呼び出し、跡目をどちらかに継がせると話した。その際南嶋組長はくれぐれも抗争は起こすなと二人に釘を刺しておいたが、跡目争いに於いて若干不利にあった柳川会側の系列事務所の一人水上武雄が、鉄砲玉として鳥居という男を狙ったことが今回の事件の発端のようだ。だが水上はそれに失敗している。そして両組織から追われる身となり水上は女を人質に取られている。その女を取り返すために単身丸川企画に乗り込んだようだな。またなぜ跡目の話があった一ヶ月後にもなってこのような事態が起こったかというと、余生最後のバカンスに行くと言って現在南嶋組長はマカオに行っているのだそうだ。それに際して南嶋組長の目が届かないことを利用し柳川会側が動いたと見られる」
マカオだと? なぜ堀川の組長がマカオに。マカオは俺が行くはずだった場所。それと何か関係あるのか? バカンスと言われても迂闊に信じる事はできない。
「すみません」
会場内にいる誰かが声を上げた。
「という事は犯人は水上武雄で決まりという事ですか?」
「そういう事だな。それに関しては間違いない。なにしろ今回現場に残されていたデジタルビデオカメラのデータの中に、水上が五島という男を撃ち殺す瞬間が録画されていたのと、音声だけだが他の三人を殺す際に発砲した銃声が録音されていた。またその際男達と水上の会話を聞くと、水上は相当な銃撃を受けているようだ。そして水上は最後に男から何が目的かと訊かれこう答えている。全部壊してやるとな。それから水上は目黒にある友部組系の事務所に向かいそこでも同じように十七人もの人間を死傷させている。そこで生き残った者の証言によると、水上はその後事務所から逃走しそのままどこに行ったかはわからないとの事だ。以上の事から水上は拳銃を所持したまま都内に潜伏していると思われる。自分からは以上だ」
亀井は話し終えるとゆっくりと椅子に座った。
「お前ど偉い事やらかしたんだな」
先ほどの反省を生かしたのか明松は口元を手で隠しながら小声で言った。
俺はそれを聞いてやったのは俺ではないと言いたかったが、結局自分がした事に間違いがないので反論せずに黙っていた。
それにしてもこうして冷静に聞いていると我ながらとんでもない事を仕出かしたものだと感心する。いくら死なない身体とはいえ無茶にもほどがある。
「失礼します」
突然会場前部の扉が開きひ弱そうな男が頭を下げながら入って来ると、前方の中心に座っている男に耳打ちする。中心に座った男は驚いたように目を見開くと、そのまま神妙な面持ちで話を聞いていた。
「鑑識の方から報告があるそうだ。ただ先ほど暴対課からあった話と若干……いや、大きく食い違う点があるから、混乱しないように各自聞いた後でしっかりと自分の頭で考えてくれ」
男が話し終えると先ほど入って来た男が何か苦い物でも噛み潰したような表情で話し始めた。
「会議の途中ですが申し上げます。私、鑑識課の……」
「前置きはいい! さっさと要件を言え」
声を上げたのは亀井だった。中心に座る男の言葉で自分の言葉を否定されたように取ったのか、その声には少なからず苛立ちが含まれていた。本当に何にでも噛みつく男だ。
「す、すみません。では本題に入らせて頂きます」
亀井の方を怯える目で見た後鑑識の男は続けた。
「当初我々は水上が犯人という線で動いていました。それはビデオに残された記録からも確かなのですが、現場に残されていた水上を示す痕跡と状況が、ちょっと申し上げにくいのですが、何と言いますか異常なのです」
その言葉を聞いてまた亀井が噛みつつこうと腰を上げるが、中心に座る男が手を上げそれを制する。あの男がいない方が捜査も会議もスムーズに進むのではないかと俺は思う。
「まずはこちらをご覧ください」
鑑識の男の声を合図に室内の照明が全て落とされ、室内にはグリーンの非常灯のみが明るく光っている。その後低いモーター音を立てながら会場前方にスクリーンが降りてくる。
スクリーンが降り切ると会場の天井に備えつけられているプロジェクターが起動して、スクリーンに映像が映し出された。俺が作ったできの悪いスナッフビデオだ。
映像が進むにつれ会場内に響どよめきの声が起こる。当然だろう。いくら常に死と隣り合わせの警察であっても殺人の現場を見るという経験は滅多にないはずだ。
「ここです! ここで一旦止めてください」
鑑識の男はそう言って映像を一時停止させた。それは俺が五島の口に卑猥な道具を詰め込んだ後の映像だった。
「この直後です。見てください。いや聞いてください」
再び映像は流れ始める。画面に変化はないが銃声が鳴り五島がびくりと体を震わせた。俺が自分で自分を撃った時の銃声だ。
「この銃声です。この時この部屋の中には五島と水上。そして水上の女と見られる前田加奈しかいなかったんです。それはこの後の映像でも確認できます。ならばこの銃声は誰が誰に向けて撃ったものなのか。そして、……ちょっと早送りしてくれる? ――はい止めて。ここで水上が再び現れるのですが、顔が血で濡れています。それから五島を殺しビデオには写っていませんが、水上はこの前田加奈を風呂場からベッドルームに運んだと思われます。そして我々が前田加奈を発見した時、唇付近に血が附着していました。多分水上は前田加奈の遺体に口づけをしたのでしょう。そう推測した我々は前田加奈の唇に附着した唾液と血痕。そしてバスルームに残されていた脳漿を調べたところ、これらは全て同一人物のものだという事がわかりました。念のため、前田加奈の血液とその血痕も調べましたが前田加奈のものとは別のものでした」
場内がざわつく。明松も驚愕の表情を浮かべていたが、その場にいる者達とは違う種の驚きのはずだ。頭の中にいる得体の知れない者の言う事が、全て真実だった。それを知った驚きのはずだ。
「以上の事から水上は自分で自分の頭を撃ち抜き、一度死んだ後また生き返り、そして五島を殺し他の男達三人を殺したことになります」
「そんな馬鹿な事があるか! 奴は生きて動いているじゃないか!」
亀井はたまりかねたのか声を荒げた。
「はいその通りなのですが、床に流れていた血液の量と脳漿の量から到底人間が生きていられるとは思えないんです」
亀井は何も言えなくなりそのままスクリーンを睨みつけたまま動かなくなった。スクリーンでは俺の立てる戦闘音だけが響いていた。やがて会場の者達が騒ぎ始める。
『お前のゲロがかかってたのに鑑識の奴等はどうやって調べたんだ?』
「鑑識は俺と坂崎さんが現場に着く前に捜査を終えていたよ」
明松は小さな声で俺に応えた。周りの人間が騒がしく話している中、そこまで小さな声で話さなくてもいいと思ったのだが、明松は現場で嘔吐した事を俺の想像以上に気に病んでいる。それがわかり俺は何も言わなかった。
その後会議は騒然としたまま終了し、とにかく全員が水上を探し出し逮捕すること。会議で決まったのはその一点のみだった。
会議終了後、解散の声がかかっても暫くは皆その場を動かず、周りの者とああでもないこうでもないと、一見打ち合わせめいてはいるが要は中身のない雑談をしていた。
「坂崎さん行きましょう。ちょっと話したい事があるんです」
その中に於いて一番冷静だったのはやはり明松だった。何しろ俺の事は事前知識として持っていたのだからそのはずである。
坂崎は「ああ……」と気のない返事を返し明松に従った。
「お前……。なぜ病院に行かなかった」
署内の喫煙所で明松の話を聞いた坂崎の反応はそれだった。無理もない。死んでいるかも知れない犯人の脳が生きていて、自分の頭の中で語りかけてくるなどという与太話を誰が信じるというのか。
「大丈夫ですよ。俺はおかしくありません。始めは俺も戸惑いましたが、あの映像を見て確信しました。……いや、確信せざるを得なかったと言った方がいいか。とにかく、あのビデオの内容は全て知っていたんです」
「しかしなあ明松よ。そりゃ信じてもやりたいがあのビデオ見た後じゃ何とでも言える。おいそれとは信じられんよ」
坂崎は薄っすらと生えた顎鬚を触りながら困った顔で言った。
『もういいじゃないか。こんなオヤジ放って俺達だけで俺の本体を追おう。時間の無駄だ』
「駄目だ。刑事に単独捜査は許されていない。何かないのか? お前だけが知っていて俺が知らない情報……」
坂崎の表情が、明松を心配していたものから訝しげなものに変わる。このままでは明松は本当に病院に放り込まれてしまう。
俺だけが知っていて明松の知らない情報。明松が知っているのは鑑識の言葉とビデオで見た映像。画面の外で起こっていた音声のみの情報だ。明松は丸川企画に入り俺の脳漿を見て嘔吐し倒れた。そしてそのまま帰宅している。明松は五島の死体も加奈の死体も見ていない。加奈……。
『ウエディングドレス?』
記憶の中で俺の本体はウエディングドレスを持っている。加奈に着せるために用意した衣裳は、俺の血と脳漿で汚れてしまった。俺の本体は加奈にウエディングドレスを着せるつもりなのだろう。やけにロマンチストだなと心の中で自分を嗤う。
「ウエディングドレス?」
俺の呟きをおうむ返しのように明松は口にする。坂崎の表情がまた変わり今は困惑の色になっている。
「なぜお前がそれを?」
「へ? 何がです?」
自分で発したにも関わらず、あまりにも殺人事件とかけ離れたキーワードであるウエディングドレスという言葉から、明松は何も汲み取れないでいた。そして俺が『加奈に最後に着せた衣裳だ』と言うのと、坂崎が「水上の女が着ていた衣裳だ」と言うタイミングはほぼ同時だった。
「そうなんですか? なんだってそんな物を」
明松は間の抜けた声を上げる。俺は答えようかどうか迷ったが結局何も言わない事にした。それを言う事は俺の内面を深く掘り下げる事になる。それに言ったところで何が変わるとも思えない。
「本当に本当なのか? いやしかし、誰かから聞いた可能性も……」
坂崎は口ごもり考え込むように首を傾げると煙草に火をつけ、おもむろに口を開いた。
「水上。もしお前が明松の中にいるんなら答えてくれ。お前が丸川を襲う前に一人の男を脅したな。そいつの名前は何て名前だ。いや、名前がわからなければそいつの特徴でもいい。それを言えるか?」
坂崎は明松の頭の少し上を見ながら言った。俺が脅した男。あの片足を引き摺っていた男か。名前は確か……。
『柴崎だったか柴原だったか、そんな名前だったはずだ。片足が悪い男だ』
俺が言うと明松はそのまま口にする。坂崎はそれを聞いて溜息のように煙草の煙を吐き出すと、煙草を灰皿に放り込んだ。灰皿の中には水が張ってあるのか、シュンという水の蒸発する音が聞こえた。
「ったく。どうやって調書作れってんだよこんな話」
ぼやくように言葉を吐き出し坂崎は歩き始めた。
「坂崎さん! ちょっと待ってくださいよ」
明松はそれを追った。
坂崎は、品川の街を歩きながら煙草を取り出し口に咥えた。
「坂崎さん。警察官が条例破っちゃまずいですって」
明松が慌てて諌めるが坂崎に構う様子は見られない。
「わかってるよ。電子煙草だ」
坂崎は前歯でゆらゆらと電子煙草を揺らせると、しかめ面でそれを吸い上げた。
「紛らわしいっすね。なんで煙草の箱に入れてんですか」
「気分だよ気分」
「で今どこに向かってるんですか?」
坂崎は質問に応える代わりに道の先にある建物へ顎をしゃくった。そこには『中華飯店楊江楼』と看板のかかった中華料理店があった。
「ここ美味いんだ。ちょっと遅くなったが昼食ってから動くぞ」
坂崎は言うが早いか店の暖簾を掻き分け店の中に入って行った。開いた扉の隙間から「いらっしゃいませー」と威勢のいい声が聞こえる。明松は坂崎に続き暖簾を抜けた。店の中の時計は一時を少し回ったところだった。
今の俺には料理の味はわからないが、それでも円卓の上に並ぶ料理はどれをとっても美味そうだった。立ち上る湯気から香る匂いは、複雑に調味料が合わさった中華料理独特の食指を誘う趣があった。
「明松よ。お前そんなに食って大丈夫か?」
なんとなく店内を眺めていた俺は坂崎の言葉に円卓の上を見た。確かに多い。俺は初め円卓の上に並ぶ料理の量を見て二人で食べる分かと思っていたが、どうやら違うらしい。はっきりとした境目はないが、並んだ料理の皿は坂崎寄りの皿と明松寄りの皿がぼんやりとした隙間で分けられていた。
「何か今日の朝から異様に腹が減るんですよ。もしかしたら頭の中に水上がいるせいかも知れないです」
それはそうかも知れないと俺は思った。俺は明松の中にいて自分を維持するためにエネルギーを明松から拝借している。エネルギーとは則ちカロリーだ。体を失って気づいた事だが、この状態になってからは眠気というものが全く無くなった。それも影響しているのだろう。
俺は明松の頭の中で二十四時間休む事なく動き考えている。その消費カロリーは相当なものに違いない。ならば明松の腹の減りが早まろうとも仕方のない事だ。明松には悪いが本体に出会うまでは辛抱してもらうしかない。
「はい、ラーメンお待ちとさま。お客さんよく食ぺるね。シャイアント塩田みたいよ」
「シャイアント? なんだそれは」
胸のネームプレートにヨウと書かれた店員の言葉を聞き坂崎は訊き返した。
「お客さん知らないの? 昨日うちの店に来たよ。大食いの人よ」
そう言ってヨウは壁を指さした。そこには何枚もの色紙が貼ってあり、ヨウの指はその中の一枚を示していた。色紙にはジャイアント塩田と乱暴に書かれたサインと写真が貼られていて、写真の中ではヨウと厨房の中で忙しく働いている男、そして笑うとも困るとも判別のつかない表情を浮かべた、――俺がいた。
「誰だこりゃ?」
坂崎は声を上げる。
「これがジャイアント塩田? 俺もテレビで見た事ありますけどちょっとイメージと違うなあ」
『明松。これはジャイアント塩田じゃない。俺だ。こいつはお前等の探している水上だよ』
明松は「なんだって?」と言いながら、警察手帳から手配写真を取り出すとしげしげと見比べ始める。それから坂崎も同じように写真を見始めた。手配写真の俺は実年齢よりも随分若い。多分俺が昔警察に厄介になった時のものだろう。
「そう言われると似ている気もするが……。なぜ身分を偽った」
「どうした急に。この男と水上が何か関係あるのか?」
坂崎が明松に訊く。
ここに俺がいた。その事を意識した瞬間意識の中に映像と思考が流れ込んでくる。大量のエネルギーを補給する俺。テレビから流れて来るニュース映像。店の者からジャイアント塩田に間違われ渋々サインと写真を撮られる俺。俺は間違いなくここにいた。丸川企画を後にした俺はこの店で大量の料理を食べ、五反田の街に戻って行った。
『よくわからないが店員に間違われて断るに断り切れなくなったらしい。顔の表情筋を操作してジャイアント塩田の顔になんとなく似せたんだ。細胞の一つ一つを操作できる俺になら造作もない事だ』
言いながら俺は、困っている自分と自分の間抜けさに思わず笑ってしまいそうになる。
「そんな事もできるのか? ますます化け物だなお前は」
「なんだ水上が何か言ってるのか? ちゃんと説明しろ」
坂崎は苛立たしげに声を上げる。
「ああ、すみません。この男の事を水上が自分だと言うので」
明松は慌てて坂崎に説明する。化け物という言葉に若干引っかかりを覚える。頭を撃ち抜いても死なない身体。化け物と呼ばれても仕方がない。
『ああ間違いない。どう言うわけかわからないが、俺の本体がここにいた時のイメージみたいな物が俺の意識に流れ込んできた。この後本体は丸川企画で手に入れた武器を試しに五反田の街に戻ったらしい』
「五反田? 目黒じゃないのか? それに武器を試すとは穏やかじゃないな。武器ってなんだ?」
俺は本体のイメージを探る。丸川企画で手に入れた武器。それは拳銃とナイフ。試すとしたら俺が扱った経験のないナイフだろう。ナイフは刃渡り十五センチほどで、しかも刃の背にはギザギザとした鋸刃がついている、いかにも凶悪な見た目の代物だ。
『ナイフだな。サバイバルナイフだと思う』
「――坂崎さん。水上はこの店を出た後五反田に戻ったらしいです。そこでサバイバルナイフを試すつもりだったみたいですね」
「五反田? ああそういや昨日の夜、五反田の客引きの男が水上と見られる男に襲われたってタレコミがあったらしいな。だが、品川と目黒の各所で組関係の人間が次々に襲われる事件があって、全員そっちに回ったから大して相手にしなかったらしいが。――まてよ。サバイバルナイフか。昨日襲われた奴の中に、背中にサバイバルナイフの突き刺さった奴がいたな。確かその場所は五反田から目黒に抜ける道の途中だったはずだ。これで亀井の話と合点がいくな。しかし、これでお前の話信じないわけにいかなくなったな」
「まだ疑ってたんですか?」
明松はさも心外だという風に言った。
「おいそれとそんな馬鹿な話を信じられる人間がいるか」
坂崎はそう言うと、止めていた食事の手を再び動かし始め、皿に残っていた唐揚げを平らげた。そして「それ食ったら行くぞ」と明松に声をかける。
明松は慌てて料理を片づけた。
会計の際明松は財布の中を見て悪態を吐いた後俺にこう言った。「お前の本体を見つけたら請求してやるからな」と。
俺はそれに対して何も応えなかった。少し考える事があったからだ。俺は本体の残留思念のようなものを読み取る事ができる。この発見は今後本体を探していく上でかなり貴重な発見だ。
「おい! 何とか言えよ!」
明松が大きな声を上げる。
「おい明松。もう少し静かに話せ。周りの視線が痛い」
坂崎の言葉に明松は首をすくめる。
「と言うか今更なんだが、お前のその相棒水上は、なぜ自分の本体を探している。普通の人間なら警察に捕まりたくないと考えるのが自然だろう。なら嘘を吐いて俺達を欺いているという事はないのか?」
坂崎は電子煙草を取り出しながら明松に向かって言った。
「あっ。そう言えばそうですね。あまりの異常さに真っ先に考えそうな事を考えてなかったですね。おい。どうなんだ?」
確かに言われてみればそうだ。今の今まで漠然と自分を見つけたいと考えていたが、俺が今頼っているのは自分を見つけ出し捕まえてしまおうとしている警察なのだ。警察に捕まれば多分俺は死刑になる。そして死なないとわかれば怪しげな研究機関に放り込まれるかも知れない。寧ろ本体は逃がすべきではないのか。
――しかし逃げたところでどうなる。逃がしたところで死ぬ事もできず只々時間を貪る存在。今までの人生の目標と言えば、ヤクザ組織の中でのし上がる事だけだった。その組織も俺にとってはすでにどうでもいいぶち壊してしまいたい存在になった。生きていてどうなる。俺は加奈を喪い一度自らを撃ち殺した。できる事ならば本当に死んでしまいたい。しかし死ぬ事はできない。ならばどうすれば……。
「おいおい。まさか図星じゃないだろうな? 何とか言えよ」
待てよ? 俺の意識にあの裏路地にいた老人の声が蘇る。
「不老不死の薬ではありません。この薬は死ぬ事はできませんが、老いますし、死んでしまいます」
あれはどういう意味だ? あの時は時間的にも状況的にもかなり切羽詰まっていたから聞き流したが、老人はもう一度ちゃんと話をさせてくれと言っていた。俺の体の秘密……。あの老人に訊けば何かわかるかも知れない。老人の狼狽えた態度から推測するに元に戻る事は叶わないかも知れないが、それでも死ぬ事のできる方法が見つかるかも知れない。それに俺がこの考えに思い至ったという事は俺の本体もあの店に行っているかも知れない。
『――俺は死にたいんだ。死刑でもなんでもいい。普通に死んでしまいたい。元に戻らない身体ならせめて本体を見つけ一緒に死ぬ。だから嘘は吐いていない。だが、そのためにちょっと寄って欲しいところがあるんだ』
「死にたい? お前は何を言っているんだ。死ねないからこんな事になっているんだろう」
明松は飽きれたように言った。
「なんだ。水上は何と言っているんだ?」
「死にたいんだそうです。本体と一緒に。それでどこかに行きたいと言っていますがどうしますか?」
明松が坂崎に説明し坂崎は考え込んだように宙空を見つめた後、「死にたい、か。なぜ死にたいかは知らんがそれだけじゃ本当の事を言っている証拠にはならんだろう」と言った。
『俺がこんな体になったきっかけの店がある。そこに行きたいんだ。もしかしたら俺の本体もその店に行っているかも知れない。俺が捜査の邪魔をしていると判断した時には遠慮なく俺の言う事を無視してくれていい。だから頼む。少しだけ時間をくれないか?』
明松が再び俺の言葉を坂崎に伝えると、坂崎はまた考え込んだ後「何か手がかりがあるといいがな」と言った。




