脳
*脳
なんだこれは。俺は今どうなっている。体が全く動かない。というよりも体の感覚が全くない。手も脚も頭も体もあんなに細部にまで行き渡っていた神経が突如として寸断されたかのようだ。
俺はこうなる前の記憶を思い出そうとする。しかしモヤモヤとした思考は、何とか形を取りそうになったかと思えば次の瞬間には霧のように散ってしまう。
『くそ……』
悪態を吐こうとして声が出ないことに気がつく。一体俺の身体に何か起きているのだ。俺は記憶を辿るのを諦め、今自分がどこにいるのかを考え始める。するといきなり周りが明るくなり水が激しく弾けるような音が聞こえ始めた。
なんだいきなり。誰か照明でも点けたのか? いや、それにしては水の音も明かりも突然すぎる。照明はともかく何の前触れもなく水が弾けるように噴き出すのはおかしい。誰かが蛇口を捻れば徐々に水の音が増していくはずだ。ということは水は始めから出続けていた? それが急に何かのきっかけで聞こえたり見えたりし始める。
きっかけとはなんだ。きっかけについて俺は思いを巡らせる。――意識か? そうか意識だ。俺は今自分がどこにいるのかを意識した。すると突然音と光を感じ始めた。その事から推察される状態それは、俺は今何らかの原因によって身体が不自由な状態にある。目から耳、手や脚胴体に至るまで全ての器官が全く機能していない状態。多分麻酔か何かなのだろう。
しかし身体のどこか一部分だけはその麻酔から逃れていて、老人から処方された薬によって意識を保っている。そういう事なのではないだろうか。詳細はわからないが今は現状を正確に把握することが先決だ。
俺はまずここがどこなのかを考える事にする。限られた情報からより精度の高いものを抽出するため更に意識を集中する。まず今聞こえている水の音。そこから立ち上る白い湯気から水が湯であることがわかる。そして水滴のついた天井。となるとここはバスルームか。なぜ俺はバスルームなどにいるのだ。
そこまで考えたところで急に意識が疎らになり、なんとも言えない苦しさが沸き起こる。
くそっ。なんだ。何が俺の身体に起こっている。意識の中に別な意識、いや本能か? 本能が沸き起こり、俺に激しい飢えを呼び起こす。そうか。エネルギーが足りていないのか。そんなところに意識など集中してしまったものだから……。くそっ。苦しい……。
「うわあ……。惨いっすねえ」
突然若い男のくぐもった声が意識に割り込んでくる。なんだ? 何が惨いんだ? いやそんな事よりも今は何か養分を……。
「ああ、俺もここまで酷いのは初めてだ……。明松。吐くなよ」
違う男の声が割り込んでくる。口振りから明松と呼ばれた男の上司のようだ。しわがれた声から年も幾分上に感じる。
「それ、約束しなきゃ駄目っすか?」
「現場保存最優先。それができなければ刑事の資格はないぞ」
刑事だと? 警察が来たのか?
「頑張ります……」
男達の足音が俺の方に近づいて来る。頼むなんでもいい。何か養分をくれ。
「うわあ。これ何すかね?」
若い男が俺を覗き込みながら言った。これとはなんだ。自分の状態がどうなっているのかはわからないが人間に対して「これ」とはないだろう。
「脳漿だな」
「脳漿?」
俺の心の声と明松の声とが同時に発せられる。声のする方見ると、中年の男が俺を見ていた。何を言っているんだこの男は。
「ああ、位置と量的にここにある死体の物とは違うようだが」
死体? 俺は周りに意識を巡らせる。飢えよりも好奇心が先立つ。だが視界はなぜか床を這うような位置にある。それが気にはなるが今は気にせずに続ける。
そこには少し小太りの男が倒れていて、目の辺りが抉れるように赤く染まっていた。俺はこの男に見覚えがある。確か丸川企画の三○四号室にいた男。だがしかしなぜこんな場所で死んでいる。
「おい!」
明松の上司が突然怒鳴る。そして次の瞬間、俺の上に明松の口から出た吐瀉物が降り注いだ。続いて明松は、足下にある白子ような物に足を取られ盛大に転んだ。俺の上に明松の顔が迫る。衝撃を覚悟した俺は、なぜか飛び散るように明松の顔や口の中に飛び込んだ。明松の吐瀉物は僅かながらに俺の養分へと替わった。養分は俺の思考を安定させ次の瞬間閃くように全てを思い出した。
そうだ俺は、自分で自分の頭を撃ち抜いたのだ。信じられない事だが、俺は今、脳漿なのだ。明松が足を滑らせた、白子のような物も俺だ。
「明松何やってんだ!」
明松の上司が怒鳴るが、明松は応える事ができず呻き声を上げただけだった。
「すみません」
明松は何とかそれだけ言うと、床に手をつき立ち上がろうとする。明松の吐瀉物に塗れた俺が、床についた明松の指の間ににゅるりと潜り込む。今や俺は、明松の身体に附着しまとわりつくだけの存在になってしまった。その時俺の中にあった生存本能が、爆発的に機能し始めるのを感じた。
俺の生存本能は明松の皮膚組織からエネルギーを奪い取り、明松の内部へと潜り込んでいく。細胞が喜悦しているのがわかる。身体の他の部位に飛び散った他の細胞達も、同様に喜んでいるのがわかる。喜びの感情が、明松の体に元から存在する意思伝達器官を伝って俺の意識に流れ込んでくるのだ。
細胞達はその器官を借りてお互いの場所を確認した。そして昼下がりのカフェに行く約束でも取りつけるようにお互いの待ち合わせ場所を決めると、細胞から細胞へと飛び移りながら移動していった。
俺達は、近くの血管に辿りつくと血液の流れに身を任せた。俺達の元組織は脳だ。待ち合わせ場所は始めから決まっているようなものだ。
血管内部では、異物を排除しようとする白血球達が俺に襲いかかって来る。しかし高次な思考を持つ俺にとって、所詮単細胞の白血球を退ける事など容易いことだった。
やがて遠くから重くて低く響く音が定期的に聞こえてくるようになってきた。心臓の音だろう。どうやら今俺がいる血管は静脈らしい。
心臓の音が近づくにつれて、枝分かれした血管がまとまって太くなり血流も激しくなる。そして俺は巨大なポンプに吸い込まれるように心臓の中に入った後、恐ろしいほどのスピードで心臓から吐き出された。
肺を巡り酸素のシャワーを浴びた後、そのまま明松の全身を巡り始める。明松がまだえずいているのか、時折痙攣する振動と嗚咽を感じる。また明松の上司の声だろう、耳の中に水でも入っているかのような聞こえ方で怒鳴り声が聞こえる。
無理もない。貴重な証拠を保持するための警察の人間が、その保持する対象の上にゲロをぶちまけたのだ。しかも上司は明松に吐くなと釘を刺していた。にも関わらず明松は吐いてしまった。上司の怒りの度合いは推察に難くない。しかし俺はそのおかげで助かった。神経の細い明松に感謝しなくては。
いやまて。感謝などしている場合か。何が「俺は今脳漿なのだ」だ。俺が今脳漿なのであれば、他の部分。つまり脳以外の俺の身体はどこへ行ったというのだ。明松の体に入り込む前の景色に俺の体はなかった。俺は自分の頭を撃ち抜く前に何をしていた。確か五島をダイニングテーブルに手錠で繋ぎ止め、いつまでもバスルームから出てこない加奈を出て来るように促そうとして、俺は加奈の死体を見つけた。それから俺は自分で自分の頭を……。
ならば、警察達が来る前に丸川企画の奴等が五島を開放し俺の死体を処分したのか? いやまてそれはおかしい。それなら三○四号室にいた男がここで死んでいる理由に説明がつかない。それに俺は死んでいない。現に今こうして考えているのは自分だし、それにあの骨董品屋にいた老人は、俺は死ぬ事のできない身体になったと言っていた。それを証明するように、俺の体はあの針だらけの気味の悪い置物の中で串刺しになっても死ななかった。――でもそれは脳を破壊しても? そう、そうだ。そう思ったからこそ俺は自分で自分の頭を撃ち抜いた。――しかし俺は死ななかった? もしかして、脳を破壊しても俺は死ぬ事ができなかったんじゃないか。そう考えた時に天啓のようにある考えが意識の表層に浮かぶ。
俺は、老人の薬で全身の隅々までを操り、細胞の一つ一つまでをも制御できる神経系を手に入れた。そう。細胞の一つ一つまでだ。その細胞は、一つ一つが五感の全てを感じる事ができる。それは細胞の一つ一つが独立した生を持つという事なのではないか。――という事は、俺はもしかして細胞の一つ一つにまでバラバラにされたとしても死ぬ事はないと、そういう事なのではないか?
馬鹿げている。実に馬鹿げている。だがそんな馬鹿げた状態に今俺はなっている。俺は今、自分が脳の欠片になっているのだと認識しているし、その事を受け入れあまつさえそれを利用して明松という男の身体に潜り込んだのだ。
本能と意思がバラバラに動いている気がする。細胞の生存本能。俺の自我。それらがバラバラに動き思い思いに動こうとする。だめだ。頭などないのに頭がおかしくなりそうだ。
「おい明松! 大丈夫か!」
突然上司の大きな声が聞こえる。しかしその声に怒りは含まれていない。寧ろ明松を心配する声。明松の身に何かあったのか? そこまで考えて俺は自分が先ほどから全く動いていない事に気がついた。俺は今一体どこにいる?
周りに意識を巡らせながら自分の居場所を探る。血管内にいる事は間違いないはずだ。辺りは暗くて何も見えないが、俺は血管に入り込んでから一度も外には出ていない。だが今いるこの血管は恐ろしく狭い。もしかして俺は今血管に詰まっているのか?
他の細胞達に働きかけ自分の位置を探る。反応は近い。他の細胞達はすぐ近くにいる。俺達が目指していたのは脳。という事は、今俺は脳の毛細血管にいるのか? 脳梗塞。そんな言葉が不意に思い浮かぶ。
まずい。今の俺の存在は明松の脳に送る血をせき止めている。このままでは明松が死んでしまう。何とかしなければ。
俺は血管の細胞壁に傷をつけないように血管から抜け出す。もし破きでもしてしまえば、脳内出血を起こし直ちに明松の命は終わる。そうなった時俺は一体どうなるのか。……想像もつかなかった。
血管を抜けるとそこは真っ暗で何も見えなかったが、確かに俺以外の脳細胞達がいる気配を感じた。それを頼りに俺は脳内を移動していく。そして明松の脳内で俺達は出会い融合した。その時他の細胞に宿る自分の人格がどう作用するのか少し恐ろしかったが、俺達はまるで始めから一つだったかのように何の抵抗もなく人格も融合した。
俺の懸念は杞憂に終わった。元は一つの脳だったのだからおかしくはないのかも知れないが、自分の人格が別れまた一つになるという感覚など誰が想像しようか。
俺達は一つになる事で、今までバラバラだった細胞が得た情報を共有する事ができた。その情報をまとめると、どうやら俺の本体は自分の頭を撃ち抜いてから間もなくして起き上がり、五島を処分した後風呂場にいた加奈を運び出したらしい。その後ここにやって来た丸川企画の奴等を撃ち殺して、全部壊すとかなんとか言ってここを立ち去ったのだと言う。
「明松! 大丈夫か!」
「……はい。大丈夫です。なんか急に目の前が真っ暗になって」
どうやら明松は一命を取り留めたらしい。立ち上がる動きを感じる。
「とりあえず今日は帰れ。もしかしたら倒れた時に頭でも打ったのかも知れん。明日病院に行ってこい」
「でも、この現場は……」
「心配するな。今応援を呼んでる。なんとかなるさ」
上司の声には優しさもあったが同時に厳しさも兼ね備えていた。その声にはもう何も言わせないという強さが含まれている。
「わかりました。すみませんでした」
明松は謝り部屋を出て行ったのだろう。扉の開く音と閉まる音が聞こえる。そして上下に揺れる振動を感じ始めた。どうやら明松は歩いているようだ。
俺はこれから一体どうなるのか。このまま明松という男の頭の中でいつまでも生き続けるのだろうか。どうにか本体と合流しなければ。「全部ぶっ壊してやる」か。どうせ俺の考える事だ、鳥居のところか斎藤のところにでも行ったのだろう。だがもし行き先がわかったとしても、俺は自分の力でそこに行く事はできない。何とかこの明松を誘導しなければ。しかしそんな事ができるのだろうか。今の俺は何の力も持たないただの細胞の欠片だ。どうすれば……。
取り留めもなく存在するかどうかさえもわからない答えを求めて、俺は考え始めた。




