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狭間堂ー時知らずー  作者: かつを
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再会

 ※再会


 極彩色のネオンに照らされた通りには、様々な人間が歩いていた。酔っ払って肩を組みながら、風俗店の看板を指さし笑っているサラリーマン風の男達。その男達の財布の中身をどうにかして引っ張ろうと、卑屈な笑いを貼りつけ執拗に絡みついている黒服の男達。乏しい語彙をたどたどしく使い品を作り客を惹こうとするアジア系の女達。


 金と性に塗れたこの街の匂いを感じ、俺は更に強く加奈の身を案じ、心臓がわかりやすく鼓動を早めた。


 その時視界の端から立ち止まっている俺のところに誰かが近づいて来るのが見えた。見ると薄ねずみ色のスーツを着た男が、片足を引き摺りながら近づいて来るところだった。悪くした足は、昨日今日できた怪我が原因でない事が慣れた体重移動の仕方でわかる。年の頃は四十代半ばといったところだろうか。


「兄さん。今日行くところ決めてるの?」


 男は、他のスーツ達に向けるものと同じ種の笑みを俺に向けた。その笑みを見て、この色街自体が俺と加奈の敵であるような気がして、まずは目の前のこの卑屈な笑みを苦しみの顔に変えたいという物騒な衝動が沸き起こる。


 しかし俺は五島のいる丸川企画の場所を知らない。この街でキャッチをしているこの男ならば丸川企画の事を知らないはずはないだろう。そう思った俺は、衝動を腹の奥にそっとしまいこんだ。あくまでいつでも取り出せる場所にだが。


「すまないが丸川企画に用事がある。丸川企画はどこにある?」


 俺は仮初めの笑みを男に向ける。男の表情は途端に曇り、代わりに猜疑の色を浮かべた。


「あんた何? なんで丸川さんに用があんのよ?」


 ここで馬鹿正直に女を攫われたとは言えない。


「良い女がいる。年は二十五だが顔は童顔で二十歳でも通用する顔だ。顔つきは女優の綾川晴香に似た女だ。その女を紹介したい」


 男の顔はまだ猜疑の色を浮かべていたがその色は少しだけ質を変え始めていた。


「あんたスカウト? そうは見えないなあ」


「歌舞伎町のピンクローズって店にいる清香って女を知ってるか? あいつは俺の女なんだ。その女を五反田に引っ張りたい」


「ピンクローズの清香って言ったら結構な水揚げがある玉じゃねえか。いいのかよ勝手に店なんか変えさせてよ」


 男の表情が猜疑の色からはっきりとした好奇心を含んだ獲物を狙う目へと変わる。


「色々事情があるんだよ。あんたもこっち側の人間ならなんとなくわかるだろ? もしあんたが仲介してくれりゃあマージンの一部を分けてやる事もできるんだが……」


 事情など何もないが事情だらけの裏社会。適当にはぐらかせば相手が勝手に下世話な想像を働かせてくれる。


「マージンか……悪くないな。でも今一つ信用できねえ。あんたがその清香の男だっていう証拠はあるのかよ?」


 証拠。当然と言えば当然の要求か。


「ちょっと待ってろ。本人に連絡する」


 俺は清香が持つプライベートの携帯電話をコールする。清香はワンコールもしないうちに電話に出た。


「もしもし俺だ」


「ちょっと武ちゃん何があったの? 今日は朝から武ちゃんどこだって言う電話が鳴りっぱなしよ? 何かやらかしたの?」


 清香は電話に出るなり声を荒げた。男に清香の声が聞かれなかったか一瞬不安に思ったが、周りの雑音がうるさく男の耳には届いていないのか、俺の持つ携帯電話を興味深そうに見ているだけだった。


「大丈夫だ。もう解決した。だからもう電話はかかって来ないだろう?」


 俺は死んだ事になっている。しかも俺の本当の女は堅気の人間だという話も、俺を追う人間達にはすでに回っているだろう。


「――それよりお前のファンって奴に会ったんだ。ちょっと声を聞かせてやってくれないか?」


「何よそれ。やっぱり何かあるんじゃないの?」


 清香の声に険が籠る。


「なんでもない。少しだけでいいんだ。頼むよ清香」


 俺は清香という名前を強調した。電話口から清香の吐く溜め息の音が聞こえる。俺は男に携帯電話を渡した。


「あんた清香か?」


「――あんたの勤めている店の名前は?」


「――今あんたが話していた男は、本当にあんたの男なのか?」


 男は俺の顔を伺う。俺は軽く手を振ってやる。その時男の背後に見覚えのある男の顔が見えた気がした。


「そうか。ところであんたの得意な……」


「もういいだろ?」


 俺は男から携帯電話をもぎ取ると言った。男は不機嫌そうな顔を俺に向け睨む。


「なんだよ。もう少しいいだろ? まだ訊きたい事があるんだよ」


「清香は忙しい。何て言ったって指名ナンバーワンだからな――清香ありがとう。今度お前の行きたがっていたイタリアンに連れて行くよ」


 俺は携帯電話に向かって言うと通話を終えた。男は俺の目を険しい目で見ている。そして男の向こう側にいる男も何となくこちらを見ている気がする。俺は背後の男から隠れるように、目の前の男の裏に立ち位置を変えた。


「なんだ。まだ信用できないのか?」


「なあ……あんた」


 男は目を逸らさない。そして男の後ろにいる男が近づいて来る。


 不味い……気づかれたか。


「なんだ。どうなんだ。丸川企画を紹介してくれるのかくれないのかどうなんだ」


「マージンはいらねえからさ、清香と一発だめかな? あんたから言ってくれよ。どうせ商売女なんだろ?」


 男は卑屈な笑を顔に貼りつけ媚びた目で俺を見た。俺の中で男に対する殺意が急速に芽生える。


 こいつを今ぶちのめすのは簡単だ。だが今はダメだ。丸川の場所を聞かなければならない。それに後ろにいる男の目を引くのも避けたい。


「とりあえずその辺の話は歩きながら話そう」


「おっ! て事はオッケーって事だな! 歌舞伎町のナンバーワンを抱けるたあ……」


「おい。丸川企画ばどこにある。とにかく時間がないんだ。頼む早く連れて行ってくれ」


 俺は男を遮ると横に並び歩き始めた。背後……便宜上『後ろの目』とでも呼ぼうか。後ろの目で確認すると、男は俺達の事を交渉成立とでも取ったのかそのままどこかへ消えて行った。




「なあなあマジで頼むよ。なっ!」


 俺は男の執拗な下衆話に怒りを通り越して呆れてさえいた。


「わかったよ。その話はもういい。丸川企画はどこなんだ」


「急かすなよ。丸川企画は逃げねえよ。それにもう見えてるよ」


 男は目の前にある七階建てのマンションを指さすと、「あそこの三◯四号室が事務所だ」と言った。


「マンションが事務所なのか?」


「事務所って言うか風俗関係の窓口はあそこなんだよ。女の面接なんかは隣の三◯五号でやるんだ。そこから丸川企画が扱ってる店に卸すってわけだ」


 面接と言った男の言葉に下卑た響きが籠もり、卸すと言った言葉から女を馬鹿にした響きを感じた。まるで女を野菜か何かでも扱うようなそんな不快で吐き気のする響き。


「そう言や、今日の夕方もいい玉があのマンションに入ってったのを見たなあ。髪が黒くてよ、なんか風俗なんかに落ちなさそうな真面目っぽい女でよ……くそう。俺も面接に混ぜてくれねえかな? て言うか俺もスカウトやってりゃ良かったよ。そうすりゃ面接前に……。なあ、あんたもそうなんだろ?」


 今日の夕方、黒い髪、真面目……。


 男の言葉は俺の耳に入ってはいても頭の中には入ってこなかった。


「おい! その女髪は肩の下くらいまであって身長は少し高めだったか?」


「――なんで知ってんだよ。もしかしてあんたのスカウトか? ……んなわけねえか。あんたのスカウトなら丸川の場所俺に訊いたりしねえよな……」


 加奈……。


「おい。あんたどこ行くんだよ」


 加奈……待ってろ。今助けに……。


「おいって! どこ行くんだって言ってんだろ!」


 男の声が耳に障る。


「うるさい。黙れよ」


「あん? なんだよ。なんだその態度はよ。俺がいねえと丸川企画には入れねえぞ? オートロックだから知らねえ奴は入れねえんだ。わかって……」


「黙れっつってんだろうが!」


 俺は腰から黒星を抜くと男の頭を抱え込み、口の中に銃口を突っ込んだ。その時銃口が歯に当たったのか男は目から涙を流しながら声にならない声を上げた。通行人の目が俺達を見ている。俺はそれを感じ冷静になれと心の中で自分自身に声をかける。


「おい。マンションに案内しろ」


 男は目で俺に哀願し小刻みに頭を振った。そして銃を抜けと体で示す。俺は銃を抜きそのまま男の背中に銃を回すと「行け」とだけ言った。


「あんた。もしかして丸川が騒いでた水上とかなんとか言う奴なのか?」


「無駄口を叩くな。下手な動きを見せたら殺す。いいな」


 俺は男の背中に強く銃口を突きつけた。今の遣り取りを丸川企画の奴等に見られてはいないかと思い、俺は全方位に神経を集中する。何人かの人間が俺の事を見ていたが皆一般人なのか、目立った動きをする者はいなかった。だが、さっき俺が男に執った物騒な動きはすぐに人々の話題となり、いずれ近いうちに丸川企画の人間の耳に入るに違いない。急がなければ。


「おい。もっと急げ」


「あんたこんな事をしてただで済むと思ってんのか?」


「こっちだってただで済ませるとは思っちゃいないさ」


 男は何を言っても無駄だと思ったのか黙って歩く。そしてマンションの入り口が見えると、そこには明らかに堅気とは違う空気をまとった二人の男が煙草を吸いながらだらしなく立っていた。


 奴等は拳銃丸出しの男を黙って通してくれるほど甘くはないだろう。中に入るまでは騒ぎは起こしたくない。


「おい。銃は一旦引っ込めるがいつでも撃てるようにしておく。変な真似はするんじゃないぞ。何か訊かれてもうまくごまかせ」


 俺は腕を組むように手を折りたたみジャケットの裏から男へと銃口を向けた。


「わかってるよ。俺さえいりゃ顔パスだ。何年この仕事やってると思ってる」


 男の軽口を俺は無言で受け流した。男が何年この仕事を経験していようが関係ない。寧ろ長ければ長いだけこの男に対する俺の憎悪は増す事になる。


 マンションに近づくにつれ全身の細胞が高鳴るのを感じる。鼓動に合わせて細胞が疼き、まるで体全体が心臓になったかのようだった。二人の男が身構えるのがわかる。前の男も緊張のせいか先ほどよりも若干背筋が伸びたような気がする。


「おい柴原のおっさん。何の用だ?」


 二人の男の内、耳に金色のピアスをつけた若くて体の大きい方が声を上げた。もう一人の男はピアスの男よりも若干年上だろうか、俺達の事を険しい目で見ている。足の悪いキャッチの男は柴原という名前らしい。


 柴原は強者に出くわした時の犬のように、首から上を低く垂れ上目遣いで男達を見た。顔パスが聞いて呆れる。


「いやね、こちらの兄ちゃんが女を紹介したいってんでね、連れて来たんすよ」


 柴原に話しかけた男が俺の方に品定めでもするかのような目を向けて来る。癪に障る嫌な目つきだったが、俺は精一杯の笑顔を向けた。こんな事態になっていなければ間違いなく殴っている。


「あんた名前は?」


 名前を訊かれて若干迷ったが、ファミリーレストランで書いたクレジットカードのサインを思い出し、俺は咄嗟に田沼だと名乗った。


「新宿でスカウトやってたんですけどちょっと事情がありまして、こっちで仕事させてもらえないかなと……」


 俺はピアスの男を上目遣いで見ながらできるだけ軽い口調で言う。


「――本当にスカウトか? 俺にはビジネスマンか何かに見えるぜ」


 ピアスの男は地声が高いのか、無理に低い声を出している印象を受ける。虚勢を張っているのだろう。


「いやあよく言われます。でもスカウトも営業みたいなものでしょ? この見た目で相手をまず油断させるんすよ」


 男は少し考えたように俺の顔を見ると口を開き声を上げようとした。しかしその声はもう一人の男の大きな笑い声によって掻き消された。


「おい柴原のおっさん! 何なんだよその顔は! ひょっとこの真似か? それとも俺等の事馬鹿にしてんのか?」


 俺に話しかけていた男も柴原を見る。そして顔をしかめた。


「おい柴原てめえ。その顔は何のつもりだ」


 柴原の顔に何かあるのか? 俺の位置からでは、柴原の顔は見えない。そう考えたところである思いに至る。


 もしかして柴原は顔で何らかのサインを送り俺の事をばらそうとしているのか?


「違いますよ。後ろの……」


 俺は柴原の背中に体を密着させて黒星を突きつける。柴原の口が言葉を発するのをやめた。


「後ろの……なんだ?」


「いやね後ろの奴は良い奴なんですよ」


 柴原の声は不自然に震えていた。俺は笑顔のままだったが内心では冷や汗をかくような心境だった。


「はん。どうせマージンの代わりにやらせろとかなんとか言ったんだろうが。てめえは本当に変態だな。おいあんた。こんなおっさんより俺に先に回せよな」


 男は下卑た笑みを俺に向けた。そして顎で入口を示した。俺は二人に笑顔を向けマンションの自動ドアをくぐる。自動ドアが閉まる直前、「どこかであいつ見た事があるんだよな」という声が聞こえてきて、俺は柴原を小突き急かした。


「言ったよな。変な真似をすれば殺すってよ」


「な、何の話だよ! 俺は何にもしてねえよ!」


 柴原の狼狽えぶりは自分のした事を認めているようなものだが、今はまだこいつが必要だ。


「次何かしたら本当に撃つ。周りに人がいても関係ない。周りの奴等ごとぶっ殺してやる」


 柴原の口から狂ってるという声が聞こえたが俺は無視した。狂っていようがいまいが関係ない。こんな所に連れて来られた時点で加奈の身に何もない事を期待するほど俺は馬鹿じゃない。加奈が俺以外の男に何かをされている事を想像するだけで、頭の中の更に奥にある芯の部分が激しく熱を発する。その熱は身体を震えさせ、辺りにある全てを破壊してしまいたい衝動に駆られる。こんな事なら狂ってしまった方が寧ろ楽なのかも知れない。


「おい! 冗談だよ! 頼むから撃たないでくれ」


 男の声に我に帰った俺は、エントランスのガラスに写った自分の顔を見た。そこに写っていたのは、怒りで仁王のように顔を歪めた俺だった。


「早くしろ。それから俺の事は何も言わなくていい。とにかく入れてもらえ」


 俺の声は怒りに震えていた。柴原は素早く三◯四のルームナンバーを入力し呼び出しボタンを押す。お馴染みのチャイムが鳴りすぐさま男の声が聞こえる。


「なんだ?」


「あの、柴原です。ちょっと話がありまして」


「今は忙しい。また今度にしろ」


 インターフォンはブツリと音を立てて沈黙した。


「だめでした」


 柴原は俺を振り返ると卑屈な笑みを貼りつけて言った。


「もう一度だ」


「だめですって。こんな時は何を言っても無駄なんですよ」


「いいからもう一度だ。女を紹介したい奴が来ていると言え。それともここで死にたいのか?」


 俺は黒星をチラつかせる。柴原は承服しかねるといった顔で、ぶつぶつと悪態を吐きながらボタンを押した。


「なんだ。しつこいぞ」


「あの、女を連れて来たいって奴がいまして、新宿でスカウトやってた奴なんですけど……」


 インターフォンは少しの間沈黙を続ける。


「後ろの奴か?」


 インターフォンのカメラに写らないように俺は少し離れて立っていたにも関わらず男は言った。俺は神経を集中し辺りに意識を巡らせる。――あれか。エントランスには数台の監視カメラがあり俺と柴原を狙っていた。


「ええそうなんです。なんでも結構な玉持ってるらしくて」


「顔を見せろ」


 柴原は不安そうな顔を俺に向ける。表の奴等にはバレなかったが中の人間は流石に俺の事を知っているはずだ。どうすればいい。


 俺は顔の細胞に意識を向ける。そしてテレビでよく見かけるような曇りのない営業スマイルを思い浮かべ、それを顔の細胞に伝達する。今まで動かした事のない表情筋が動くのを感じる。そして人相までが変わっていくのがわかる。柴原の顔が驚きのものへと変わった。ガラスに写った俺の顔は、今にも元気良く挨拶でもしそうなほどに屈託のない笑顔だった。そこには水上武雄の面影は殆どない。


「お前がそうか。新宿のどの辺りでやってた」


「歌舞伎町です。歌舞伎町のピンクローズって店をよく紹介してました」


「ピンクローズっつったら、新興の所じゃねえか。今うちがあそことどういう関係がわかってここに来てんのか?」


 男の声に険しさが籠る。


「知っていますよ。今新宿ではその話題で持ちきりです。新興はヤバイって。俺は新興と心中するのはごめんなんですよ。だから丸川企画さんに身を寄せたいなと……」


「お前を引っ張り上げて、うちに何のメリットがある」


 手土産を寄越せと言う事か。


「ピンクローズで指名ナンバーワンの清香は俺の女です。俺を使ってくれるならとりあえず清香を連れて来ます。他にも引っ張れそうな女はいるんですが、それは会ってから詳しく話しますよ」


 再びインターフォンは沈黙する。緊張のせいかやたらと喉が渇く。


「入れ」


 男は短かく声を上げると、インターフォンがブツリと音を立てて切れた。そしてエントランスの自動ドアが開く。


「じゃあ俺はこれで」


 柴原が慌ててその場を去ろうとするが、俺は柴原の手を取り中に連れ込むとカメラに映らない場所に引き摺り込んだ。


「なんだよやめてくれよ! 殺さないでくれよ! 協力したじゃねえか!」


 柴原は足を引き摺りながら後ずさる。


「服を脱げ」


 柴原の顔が恐怖に歪む。


「……なんだよ。俺そんな趣味ねえよ」


「いいから早く脱げ」


 俺は黒星を柴原に向け促した。柴原は震えながらジャケットを脱ぐ。


「下着以外全部だ。早くしろ」


 柴原は泣いていた。辺りに「最低だ」「なんで俺がこんな目に」という言葉と共に、柴原の嗚咽が響く。そして柴原は白いブリーフ一枚だけの姿になった。


「服を脱いだら壁に手をつき後ろを向け」


「やめてくれよ。それだけは。本当に頼むよ……」


 柴原の股間から黄色い液体が流れ出し、辺りにアンモニアの臭いが漂う。俺は嗅覚の意識を切ると脱ぎ捨てられたシャツの袖で柴原の口を塞ぎ、そのまま強引に寝転がらせると腕と足をきつく縛って身動きができない状態にした。


「お前は色々とやってくれたから命だけは助けてやる。それから俺にそんな趣味はねえよ。馬鹿野郎が」


 柴原は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら何度も首を縦に振った。俺は柴原を放って階段で三階へと向かった。エレベーターではいざという時逃げ場がない。


 三階に着くと俺は廊下に人がいないか様子を伺う。どうやら廊下に出ている人間はいないようだ。三◯四号室と三◯五号室どちらに加奈がいるのか。部屋の前に立つが中の音は一切聞こえなかった。それは意識を耳に集中したところで変わらなかった。もしかすると防音加工を施しているのかも知れない。防音加工を施してまで行う事とはなんだと考え俺は顔をしかめた。


 迷った挙句、俺は始めに柴原が呼び出した三◯四号室の呼鈴を押した。チャイムの音は聞こえない。緊張で鼓動が高鳴り始める。待っている間気持ちを落ち着けるためにマンションの規模を想像し中に何人の人間がいるのかと想像する。


 この規模の部屋ならば広くとも3LDK程度のものだろう。それだけの規模の部屋に人間が多勢もいるとは考え難い。それにインターフォンで話した男が忙しいと言っていた事から人手が足りていないという事がわかる。だとすれば事務所の主の五島とそれから中嶋。中に加奈がいると仮定するならば、あとはインターフォンの男とあとは……。


 そこまで考えたところでドアの鍵が外される音が聞こえる。俺は黒星の銃把を握り直し背中に回した。顔の表情は変えない。画質の悪いインターフォンモニターだからごまかせたのであって直接会えば俺が水上武雄だという事はすぐにわかる。


「遅かったな。何をして……」


 男の表情が変わる。俺はすぐさま黒星を男の顎にあて小声で黙れと言った。


「お前、死んだんじゃ」


「喋るな撃つぞ。脅しじゃない。これは安全装置がないから俺がちょっと指に力を込めたらお前は即あの世行きだ。いいな」


 男は無言で頷く。俺はこの男に見覚えはなかった。


「おい! 何やってんだ」


 部屋の中から声がかかる。


「なんでもないと言え」


「なんでもない。すぐ行く」


 男は俺から目を離さずに言った。


「中に俺の女はいるか? それと男は何人いる」


「男は俺以外に二人。女はいない」


「嘘を吐くな! 女がここに入るのを見た奴がいる。女はどこだ!」


 俺は小声で語気を荒げた。


「女は隣だ。五島さんと一緒にな」


 男は精一杯の仕返しのつもりか嫌らしい口調で言った。途端に俺の頭に血が登り目の奥にちりちりとした鋭い痛みを感じる。


「今ここで死ぬか?」


 男の顔に恐怖の色が浮かぶ。


「おい! 何やってんだ……」


 中嶋。


「水上さん……」


 大きな足音と共に現れたのは中嶋だった。俺は男の身体をねじり中嶋に黒星を見せつけると「中に入れ」と言った。扉は俺の後ろで重い音を立てて閉まり、オートロックなのか施錠される音が聞こえる。


「中嶋。てめえよくも」


「待ってくれ、待ってくれよ兄貴」


 卑屈に歪んだ中嶋の顔は俺の神経を苛立たせた。だが今は加奈を助ける事が先決だ。これ以上加奈を辛い目に遭わせてはならない。


「奥の部屋に行け。ゆっくりだ。でないとこいつの頭が吹っ飛ぶ事になるぞ。声も出すな。いいな」


 中嶋は部屋の奥へと歩いて行く。そしてリビングに着くと小太りの男がテレビを見ながらバカ笑いしていた。


「おうどうした」


 小太りの男はそう言った後中嶋、俺が銃を突きつけている男、そして俺の顔と順番に見て口を開けたまま止まってしまった。突然の出来事に思考が停止しているのかも知れない。


「おい……なんだよ。どうしたんだよ」


「死にたくなけりゃあ黙れ。おい中嶋。そのデブをうつ伏せに転がしてそこにある扇風機のコードで手と足を背中側で固く結べ。すぐ解けるような結び方ならお前を先に殺す。いいな。それが終わったらこいつだ」


 俺は目の前の男の頭に目がけて銃把を叩きつけた。鈍い音と男の呻く声が部屋に響く。


 中嶋はもたもたと扇風機のコードを男の腕に巻きつける。


「早くしろ!」


 俺はもう一度銃把で男の頭を殴る。男の頭からは血が流れ始めた。中嶋はようやく結び終えると頭から血を流す男を床に転がし、その辺にある適当なコードで縛り始めた。そしてそれが終わると俺に縋るような目を向けた。


「兄貴。俺達義兄弟だろ? なあ、助けてくれよ」


 命懸けで護りますから。昔中嶋が吐いた言葉が耳の奥で鳴り響き、それが増幅していくにつれ俺の中で燻っていた憎しみはやがて殺意へと変わった。


 俺は中嶋に黒星を向けると引金を弾き絞った。癇癪玉の弾けるような乾いた音が部屋の中に鳴り響き、俺の腕はその反動で少しだけ横にぶれた。


 中嶋の右耳は原形を留めぬほどに弾け飛び、中嶋は耳を押さえ床に蹲った。


「頼む兄貴。助けてくれよ」


「なんで裏切った?」


 中嶋は一瞬黙り込んだが壊れたCDラジカセのようにまた同じ言葉を繰り返し始めた。「頼む」「助けてくれ」「兄貴」その三つの言葉を繰り返し繰り返し……。


 俺は壊れたCDラジカセの電源を切る事にした。繰り返されていた声は軽い破裂音に掻き消され、中嶋の顔がザクロのように破裂したと思った次の瞬間には、頭の後ろから血の混じった脳漿が飛び出て絨毯の上に派手な模様を描いた。


 残された二人の男が俺の顔を信じられないという顔で見ている。


「三◯五号室の鍵はどこだ」


「い、インターフォンの横にかけてある」


 インターフォンの横を見ると鍵束がかかっていて、俺は二人のコードの結び目を確かめると鍵を取り玄関へと駆け出した。そして外に飛び出すと三◯五号室の鍵をそっと外す。扉を細く開けると五島の声が聞こえて来た。


「面白くねえ女だな。もっと俺を愉しませろや! もっと暴れて抵抗しろや!」


 俺の神経は一瞬にして全身の細胞に繋がり部屋の中の空気を敏感に感じ始めた。そして全身の細胞が怒りで震え始め、俺は声のする方へとバネのように飛んだ。


 五島と加奈はリビングにいた。加奈の着ていた服は無残に引き裂かれ、どうやって身にまとえているのかが不思議なほどだった。五島は全裸で性器がだらしなく垂れ下がっている。部屋の中には不必要に明るい照明が灯され、見たくもない物までもをはっきりと俺に見せつけた。


 床に散らばる卑猥な道具。部屋の至る所に設置された映像器具。口を開けだらしなく俺を見る五島の顔。加奈の虚ろな瞳。


 神経が研ぎすまされ全ての光景がスローモーションに映る。五島が口を閉じた。口の形でわかる。俺の名を呼ぼうとしている。俺の怒りは沸点を超え寧ろ頭の芯が凍りつくほどの冷たさをもたらした。


 部屋の中に何があるのかが全て手に取るようにわかる。俺は五島に近づく。そして黒星を構えると五島からだらしなく垂れ下がる股間を撃ち抜いた。五島は俺の名の頭文字さえも発音できなかったに違いない。俺の耳に届いた五島の声は、俺の名ではなく穢く耳障りな叫び声だった。


 五島の股間だった部分から出たものは、床に散らばる卑猥な道具に色を添えた。赤く薄汚い色を。


 背後でビクリと肩を震わせ加奈が恐怖の色を俺に向けたのがわかる。俺の今の顔は加奈には見せられない。加奈にこんな醜い怒りの顔を見せたくはない。


 更に俺は横たわる五島の赤く染まった股間を力の限り蹴り上げた。五島の口からは声すら出ない様子だった。五島は身体を小刻みに震わせた後、痛みで気絶してしまった。つま先を見ると、五島の血と肉が附着していた。


 横たわる五島を見下ろしながら、俺は全身に張り巡らされた神経のネットワークを一つづつ丁寧に宥めていく。五島には訊かねばならない事がある。


「加奈……」


 俺は加奈の方を振り向きながら声をかける。加奈の目には怯えと恐怖の色しかなかった。何もかも放って五島を今すぐ殺したいという感情が沸き起こる。


「加奈」


 俺は加奈に近寄り再び名を呼んだ。他にかける言葉が俺には見つからなかった。薄っぺらな謝罪が何の役に立つというのか。もし俺の身体の一部を差し出せば、加奈の心が全て元に戻ると言うのならば俺は喜んで自分の体を差し出すだろう。例えそれが命であったとしても。だがそんな事は神にだって不可能な事だ。


 俺は恐る恐る加奈の肩に手を乗せた。加奈はゆっくりとした動作で俺の顔を見ると、小刻みに震えながら涙を流し始めた。眠っていた感情が呼び起こされたかのように。




 撮影か何かに使うのかそれともイメージクラブの衣装なのかはわからないが、部屋の中には数多くの衣装が取り揃えられていた。俺はその中から比較的ましなものを選ぶとバスルームの外に置いた。


 バスルームでは迸るシャワーの音が響いていた。俺にはその音が、穢れを全て洗い流したいという加奈の悲鳴に聞こえた。


 時間が経てば経つほど事務所の異常に勘づいた者達が押しかけて来るかも知れない。そんな懸念はあった。だが、傷ついた加奈の望みは一つでも多く叶えてやりたかった。


 俺はリビングに戻るとダイニングテーブルをひっくり返す。そして五島をテーブルの天板の裏に仰向けに寝かせた後、両手両足とテーブルの足をその辺に転がっていた手錠で繋ぎ、大の字になるように貼りつけた。五島の股間は真っ赤に染まり、尚血を流し続けていて、まるで赤いふんどしでも着けているような滑稽さがあった。


 俺はキッチンに行くとどんぶり鉢に水を汲み、それを五島の頭にぶちまける。五島は呻き声を上げながら目を覚ました。


「いい様だな五島」


 五島は自分の状況が掴めないのだろう。首から上だけで周りを見回し最後に自分の股間を見て、絶望的な表情を浮かべ叫び声を上げた。俺は黒星を五島の眉間に突きつけ「黙れ」と言う。五島は呻き泣きそうな表情になると俺に懇願した。


「水上……。頼む助けてくれ」


 加奈はこの男に助けてくれと頼んだはずだ。だがこの男はそれを聞かなかった。そして加奈を陵辱した。そんな男を助ける義理などない。


「訊きたい事がある。なぜ加奈が俺の女だとわかった?」


「……とりあえず、これを外してくれよ。それに痛くてうまく喋れねえ」


「そう言う割には結構うまく喋れてるぜ?」


 俺は五島を嘲る。


「頼む。テレビの下にヤクがある。頼むよ水上」


 五島は目に涙を浮かべ訴える。確かにまた痛みで気絶でもされたら、たださえ少ない時間が削られる事になる。俺は銃把で鼻面を殴った。痛みから開放させる前に少しでも痛みを味あわせてやりたかったからだ。五島の鼻からは大量の血が溢れていた。


 俺は汚物を見る目で五島を一瞥しテレビ台を探る。そしてその引き出しの中には金具で留められた黒い箱があり、それを開けると中には注射器と白い粉末の入った小瓶、それから把手の折れ曲がったスプーンとアルコールランプがあった。


「これをどうするんだ?」


 薬そのものは見た事があったが俺自身が使用した事はない。


「スプーンにヤクと水を入れて……火で炙ったものを俺に注射してくれ」


 五島は息も絶え絶えに言った。


 五島の説明を聞きアルコールランプに火をつけようと思ったが、生憎俺は煙草を吸わない。仕方がないのでキッチンに行きガスコンロの火をつける。薬の分量もわからないから適当にスプーンの中に薬を盛ると、水道の蛇口から直接水滴を数滴垂らす。すぐにスプーンは水で一杯になり薬が少しシンクに零れた。金額にすれば結構な額だろうが俺は気にしない。


 薬と水の入ったスプーンをコンロの弱火にかける。白い粉末はみるみるうちに溶けてなくなり薬の水溶液ができた。


 俺は液が冷めるのを待ち注射器にそれを注ぐと五島の腕に注入する。それを見ていた五島の表情は、苦悶のものから恍惚のものへと変わった。定まらない焦点はあやふやに宙空を見つめる。その顔を見て、俺は薬の種類をモルヒネかヘロインだと当たりをつけた。


 こんな薬がこの場所にありその使用方法に想像を巡らせ俺は顔をしかめた。何人の女達がこの下衆に人間の在りようを奪われたのか。その事を考えると俺は今すぐにでも五島を殺してやりたかった。


「さあ言え。なんで加奈の事がわかった」


「……中嶋に見張らせてたんだよ」


 だらしなく開いた口から漏れるような声で五島は言った。それがひどく聞き取りにくい。


「いつからだ」


「あいつが、あんたを裏切ると決めたその日からだ。俺はあんたの弱みを掴むために、あいつをあんたに貼りつかせてた。おかげで思わぬ収穫もあったがな」


 思わぬ収穫とはやはり俺が鳥居を殺すかも知れないという情報だろう。


「中嶋はいつから裏切ってたんだ?」


「あんたとあいつと三人で喫茶店で話した事があっただろう。あの後あいつは何を勘違いしたのか、前よりも派手にうちのシマで弾け始めた。うちとしてもそれじゃケジメがつかねえ。だからあいつを、ちょっとだけ痛めつけてやったのさ。そしたら簡単に寝返りやがった」


 五島はそう言うと卑屈な笑を浮かべた。


「あいつはどうした?」


 五島は定まらない目で俺を見るとどうでもいい事のように言った。


「殺した」


 俺が感情を殺して言うと五島は鼻で笑う。


「ところで水上さん。あんた一体どんなトリック使ったんだ? あんな状態になってなんで生きてる」


 俺はあの老人の顔を思い浮かべた。自分でもなぜ自分が生きているのかわからなかった。


「知るかよ。それよりなんで今回俺は鳥居の事を殺さなきゃならなかったんだ」


 五島は驚いたのか僅かに目を見開く。


「そんな事も知らずにこのヤマ踏んでたのか?」


「今日の昼まで俺は誰を殺すのかさえ知らなかったよ」


 俺の自嘲気味な声に五島は蔑みを込めた口調で、「あんた、本当に斎藤から信頼されてたのかよ」と言った。


 自分で自分を貶めるのはいいが他人に馬鹿にされるのは我慢がならない。俺は銃把で五島の腹を殴った。だが五島の口からは息が漏れただけで声は出なかった。


「痛くねえよ」


 五島が嗤う。


「うるせえ! 訊かれた事に答えろ!」


 俺は五島のこめかみに銃口を突きつける。五島は相変わらずヘラヘラと笑っている。


「騒ぐなよ。傷が痛むじゃねえか。……まあ、痛くねえんだけどな」


 俺は五島に薬を打った事を後悔し始めていた。


「うちの友部組と、柳川会の関係は知ってるよな?」


 五島は突然話し始める。友部と柳川の関係。同系列の事務所にして反目し合う二人の若頭斎藤と鳥居。二人の関係は、この先悪くなる事はあっても良くなる事はないだろう。それに伴いその下につく構成員同士の関係もあまり芳しくない。俺は五島に続けろと促した。


「この二つの事務所は、同じ系列だって事は知ってるよな? 元を辿れば、二つとも堀川組からの分家だ。その堀川組で、一ヶ月前にちょっとした事件……いや、大事件があった」


 五島は勿体つけるように俺の顔色を伺う。俺は何も言わない。五島はつまらなさそうに舌打ちすると続けた。


「堀川組南嶋智徳四代目組長が急な病気で危篤に陥った。心筋梗塞だったそうだ。それから一旦持ち直したんだが、その時に口走った事が、今回の騒動の原因だ。南嶋組長は病床に友部組長と、柳川会長を呼んでこう言った。お前達のどちらか、堀川の看板背負うに相応しい方を跡目を継がせるってな。だが、お互いの潰し合いや抗争を恐れた南嶋組長は、二人に絶対争うなと釘を刺した。そういやあんたが消えたのはそのすぐ後だったな。中嶋があんたに探りを入れた日、あんたを貼ってた中嶋から連絡があったよ。斎藤の事務所がやたらと騒がしいってな。俺は何かがあると踏んだ。そして中嶋に、あんたの事を探らせた。そしたら案の定だ。ただその時は、鳥居さんを狙ってるとは思わなかったがな」


 上層部でそんな事があったとしても末端の俺には噂すら耳に入ってこない。しかし斎藤はなぜ俺を一ヶ月も潜伏させたのか。


「なぜ俺は地下に潜る事になったんだ?」


「知るかよそんな事。ちったあ自分で考えろよ」


 五島は突き放すように言った後ヘラヘラと笑いながら失った自分の股間を見ていた。薬の効果は絶大だ。


 斎藤は俺の死体でカタをつけようとしていた。俺との直接的な関係を絶ち全てが終わった時にこの件が上手くいこうが失敗しようが、俺を生贄にする事で組と俺とは関係ないと言い張るつもりだったのではないだろうか。


「それから二人は、表向きでは仲良く振舞った。だが水面下では、お互いがお互いを牽制し合い、しのぎを削り合う消耗戦が始まった」


 突然息を吹き返したかのように五島は話し始める。


「で、こっからは俺の想像なんだがな。一向に事態が好転しない事に業を煮やした柳川会長は、うちの鳥居さんに目をつけた。鳥居さんは、実質今の友部組の頭脳だ。鳥居さんを殺せば、組はたちまち立ち行かなくなる。だからおたくの斎藤に、あんたを使って鳥居さんを殺せって言ったんじゃねえかな。でもまあ、こっちはあんたが誰かを狙ってるっていう事がわかってたから、至る所に網を張ってた。そしたら昨日の夜、遺体解体屋が動いたり、うちの組の中で、怪しい動きしてるやつがいたから、締めてやったらうちの鳥居さんを狙ってるって吐きやがった。で、急遽鳥居さんは、スケジュールを変更した。……ところでよう俺の息子がどっかに家出中みたいなんだけどよ。あんたどこに行ったか知らねえか?」


 鳥居はこれ以上面白いジョークはないと言わんばかりに笑い始める。俺はそれを無視した。


 それにしてもこんなにも杜撰な計画は始めから失敗すると決まっていたようなものだ。中嶋を御しきれなかった俺にも責任はあるが斎藤にも責任はあるはずだ。敵はすべてを見抜いていた。俺はこんなくだらない世界に憧れていたのか。


「おい。全部話したんだから助けてくれよ」


 五島がヘラヘラと笑いながら言うが、俺はそれも無視した。尚もシャワールームからは水の弾ける音がする。加奈はまだシャワーを浴びているのだろうか。できる事ならば、加奈の気の済むまでシャワーを浴びさせてやりたいがもうそろそろここから出なくてはいつ誰がやってくるかわかったものではない。


「おい。聞いてんのかよ?」


 俺は加奈の事を思い頭に血が上るのを感じた。そしてそのまま五島に銃口を向ける。


「おい! 何やってんだよ! 助けてくれんじゃねえのかよ!」


 五島は俺の目を見て恐怖に顔を歪める。そして助けてくれと俺に懇願する。


 こいつを今殺してしまうのは簡単だ。だが、加奈に対してあれだけの事をした五島を死というあっけないもので簡単に終わらせてしまうのか。しかも今の五島は痛みを感じない。


 俺は少し考えた後、床に散らばる卑猥な道具を五島の口の中に詰め込めるだけ詰め込んだ。五島は涎と涙を垂れ流しながら頭を振り回している。口の中の物は手を使わねば取り出す事はできないだろう。


「おまえの薄汚い声は聞き飽きたんだよ」


 それから俺は部屋の中にあったデジタルビデオカメラのデータを全て消去し、あらゆる角度から五島を録画し始めた。五島を撮ったデータは後でネットででもばら撒いてやる。局部を失いその醜態を世間に曝され、それでも生きて行く事は、死ぬ事よりも辛いはずだ。


「加奈。もうそろそろ行かないと危険だ。すまないが出て来てくれないか?」


 俺はバスルームの扉に向かって声をかける。しかしシャワーの音は鳴り止まない。


「加奈?」


 加奈からの返事はなかった。どことなくバスルームの中が赤い気がする。照明の色だろうか。無意識に身体中の細胞がざわつき始める。神経が研ぎ澄まされ、辺りに満ちたあらゆる匂いの中に鉄錆のような匂いを微かに感じる。


 そんなはずはない。きっと水道管か何かが錆びているのだ。


「加奈。出て来ないのか?」


 俺はバスルームの扉に手をかける。扉はプラスチックが擦れる音を立ててあっけなく開いた。途端に湯気が漏れ出て来て、それと同時に鉄錆の匂いがあっという間に濃ゆくなる。


 バスルームの床は一面赤色に染まり、バスタブの中には虚ろな目をした加奈が大量の湯の中に浸かっていた。黒く長い髪は湯の表面を覆っていて、バスタブの淵から零れていたりバスタブの中に濃い影を落としていたりしていた。


 加奈の右手にはどこから持ち出したのか剃刀が握られていて、首からは大量の血が流れ出した跡があった。


 何かが音を立てて崩れ落ちていく気がする。脳の中で確かに何かの音がする。目の前にある抗えない現実を受け入れる事を拒むように、全身の細胞がありとあらゆる情報を拾い集め、それを処理しきれない脳がオーバーフローを起こし始める。やがて無駄に集められた情報は行く宛を失い右手の人差し指に集中していく。


 俺は自分の右手を見た。黒く鈍く光る黒星が、静かにその時を待っていた。


 俺は徐に右手を自分の頭の位置まで持ち上げる。人差し指は引金にかけられたままだ。そして右のこめかみに銃口をあてがうと、引金を弾き絞った。


 神経が急速にこめかみの辺りに集中していくのがわかる。集中した神経は時間を引き伸ばし全ての事象の進行を緩慢にさせていく。まずこめかみに焼けるような熱を感じ、七ミリの銃口から吐き出された鉄の弾は、高速で回転しながら俺の細胞を焼き組織の内部へと分け入って来る。そして骨と骨の継ぎ目を見つけるとそこに弾頭をねじ込み更に回転を続ける。


 割れるような頭の痛みとは正にこの事だろう。頭蓋骨が軋む音を立て、弾丸が通るための道を譲った後、今までに味わった事のない激しい痛みを感じ俺は歯を食いしばった。


 やがて弾丸は頭蓋骨を貫くと髄膜をいとも簡単に突き破り、脳脊髄液を煮えたぎらせる。それに伴い周りの細胞や脳の一部が悲鳴を上げる。そして弾丸は側頭葉を掠めそのまま大脳へと突き進む。今までに体験してきた数多の記憶が無作為に脳内でフラッシュバックされ、脳内で情報の奔流が始まる。しかし弾丸はそんな事は構いなしに自らの道を進んで行く。その進んだ道を全て焼き尽くしながら。


 永遠とも思えた情報の奔流は突如として消え去り、俺の視界はけばけばしい原色で埋め尽くされた後、真っ白になってすぐに暗転した。


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