老人
*老人
渋谷駅のハチ公前には、様々な人間達が少ない空間を求めて、お互いを牽制し、険しい視線を送り合っていた。
お互いにぶつかり合うほどの距離にいながら、気持ちの上での距離感は、永遠に交わる事がないくらいに離れている。
俺は日本のすぐ隣りにある某国を思い出した。
戦後から続く両国の外交はいつまでも交わりそうで交わらず、常に平行線を辿り続けている。二本の線はやがて他国をも巻き込んで、より複雑に絡まり合い、結果それを解くための糸口さえ掴めなくなり、そのまま何十年もの時を重ねている。
結局は人間と人間なのだ。肩がぶつかり合うほどに近くとも、他人を理解する事はできない。それが文化の違う他国同士ならばなおさらの事。保障、経済、文化、イデオロギー、宗教、全ての価値観の違いが、お互いの歩み寄りを邪魔する。
人は皆我が儘だ。全ての人間は自分のやりたいように生きたいはずだ。しかし人間社会に於いてそれは許されない。型にはまり妥協しながら生きていく。
俺はその型からはみ出した。他の奴等とは違う。やりたいようにやり、生きたいように生きる。他人がどうなろうと知ったものか。邪魔になる存在は消すだけだ。
ボストンバッグに手をやり黒星の硬さを確かめると、エクセルホテルの地下二階駐車場を目指した。
地下駐車場はやたらと暗く、埃っぽい臭いが充満していた。どこかで水滴の滴る音が聞こえる。あたりを警戒しながら手紙に書いてあった車を探した。
柱に書いてある駐車番号を頼りに目当ての車を探す。『Cー3』そこに指定のプレジデントは停まっていた。ナンバープレートの番号も手紙の番号と合っている。
念入りに車を確かめた後、封筒の中にあった鍵を取り出し、プレジデントに乗り込んだ。革貼りの高級なシートが体を包み込む。
時刻は午前九時四十五分。車内には誰もいない。これからどうすればいい。手紙の指示にはこれからどうこうしろという具体的な事は何も書かれていない。
俺は車内を見回した。後部座席には何もない。ダッシュボードの中にも特に気になるものは入っていない。
溜息を吐き腕時計を確認して、とりあえず約束の時間まで待つ事にした。昨日から同じ事の繰り返しだ。
携帯電話の着信音で目が覚めた。どうやら眠っていたようだ。昨日適当に入った安ホテルでは、興奮と緊張で結局殆ど眠る事はできなかった。
携帯電話をポケットから取り出すと相手を確認せずに出る。電話の相手は誰か知らない男の声だった。
「今どこにいる?」
「ちょっと待て。あんたは誰だ?」
「お前は知らなくていいし、俺もお前の事は知らない。質問に答えろ」
男は間を開けず応える。
俺の事を知らないだと? 斎藤さんは俺の事を伝えていないのか。
「ちょっと待て、斎藤さんから聞いていないのか。俺の事を知らないってどういう……」
「黙れ、お前の質問は受けつけない。俺は今どこにいるかと聞いている」
有無を言わせない声音は、なぜか逆らう気を起こさせない。
「エクセルホテルの地下駐車場、車の中だ」
「黒のプレジデント、『へ12ー21』か」
「――ああ」
必要最低限の事しか言わない。それが俺にできる精一杯の抵抗だった。
「……そうか、ならいい。ところで銃を渡されたと思うが弾は込めたか」
男の質問に、ボストンバッグの中の黒星に思いを馳せる。弾は、一度も込めた事はなかった。
「……ああ。大丈夫だ」
嘘を吐いたのは馬鹿にされるのは我慢ならないだからだ。
「持ってる銃はなんだ?」
「黒星」
「そうか、これから先いつでも撃てるように準備しておけ。ちなみに黒星には安全装置がついていない事は知っているか」
安全装置がついていない? 俺はボストンバッグから黒星を取り出し銃身を観察する。銃把の上についているつまみがそうだと思っていたのだが違うのか。
「――多くの拳銃には暴発防止のために安全装置がついている。だが、黒星にはついていない。だから何かの拍子で弾が出る事もあるから気をつけろ」
俺の沈黙で男は悟ったのか、安全装置について説明した。
「今から三十分後の十時三十分、男が車にやって来る。その男はお前に行き先を言うが、返事だけして全てを無視しろ。お前がその男を連れて行く先はカーナビに登録してある。とりあえず車のエンジンをかけろ」
終始命令口調の男の声に少なからず苛ついていたが、逆らったところで話は進まない。俺は鍵を取り出すと、イグニッションに差し込みエンジンをかける。
カーナビの画面は、道案内の途中でこのホテルに立ち寄ったという具合に、ルートから外れたところにポイントが合わせられていた。カーナビの画面を広角に変更し、道に迷った時のために行き先を確認しておく。カーソルは、川崎の大黒埠頭にある海釣り公園を示していた。
「カーナビは次の進む道を示しているか?」
男の声に短く応える。
「よし。では男が来たらそのカーナビの示す場所に行きそいつを殺せ。途中で暴れるようならそこで殺しても構わん。殺した後はやはりそこに行け。そして死体を置いて後は好きにしろ」
男の口調から、今にも電話を切りそうな雰囲気を感じる。
「ちょっと待て。後は好きにしろってどういう事だ。この仕事が終わったらマカオに飛ぶ予定なんだ。その手配はどうなってる」
「そっちの都合は知らん。俺は仕事を依頼されただけだ。渡された死体を安全に処理する、それだけだ。そもそもにして、殺す相手云々というのも、依頼人からお前に伝えろと言付かっただけだ。だからそっちの事はお前に依頼した人間に訊けよ。じゃあ切るぞ」
「おいちょっと待て。まだ訊きたい事がある。お前に仕事を依頼したのは斎藤さんなのか」
俺が話し終わった時には、電話口から聞こえて来るのは通話終了を報せる単調な電子音だけだった。
「くそ!」
俺はハンドルを力任せに殴った。拳に鈍い痛みが走りハンドルに血が滲む。拳を見ると、昨日の傷が少し開いていた。
血を見て少し冷静になった俺は、ボストンバッグから黒星と弾を取り出し、マガジンに全ての弾を装填した。
黒星は、弾を装填すると同時にスライドが閉まり、車内に金属の擦れる鈍い音が鳴り響く。途端に手の中にある黒星が、何か得体の知れない生き物になったような錯覚に陥った。
黒星は重さを増し、手の中で静かに脈打ち始めた。緊張で手が汗ばむ。この引金を弾けば銃口から鉄の塊が飛び出し、その対象を破壊する。
「くそっ、これは道具だ。落ち着け」
車内で一人声を荒げた。急に辺りが気になり車の外を見回すが、駐車場には誰もいなかった。
再び黒星に目を落とすと、ジャケットの内ポケットに仕舞い込んだ。男の言った安全装置がないという言葉を思い出し、体の中心に恐怖が集中するような不気味や感覚を覚える。何かの拍子で銃が暴発すれば、俺の太腿には穴が空いてしまうだろう。
時計の針は十時十分を指していた。
後二十分もすれば、電話の男の言った殺す相手がやって来る。そいつをこの黒星で殺す。
ジャケットの上から黒星の硬さを確かめ、心の中で、これは道具なのだと何度も呟いた。
誰か人が通る度にびくつく自分がいる。こいつか? それともこいつなのか、殺す相手は……。
人を殺すということ。引金を弾けば拳銃からは当然弾が出る。そしてそれが相手に当たればはいお終い、ということではない。
昔なんとなく見ていたテレビで言っていた。死とは生き物が根源的に恐れる対象であり、生命が誕生して以来それから逃れるために、生き物はあらゆる手段を高じてきた。
遥か太古の昔、酸素の存在が生命にとってまだ毒だった頃、植物がその酸素という毒を吐き散らし始めた。
じきに地球上の大気は毒で覆われた。これでは植物以外の生命は全て死に絶えてしまう。
実際酸素に適応できず死んでしまった生き物もいるだろう。
しかし生命は驚くべき手段を執る。毒であるはずの酸素を、生命のエネルギー源として活用し始めたのだ。
それからも幾度となく訪れた絶滅の危機に対して、生命は全力で抗い進化を続けた。そして気の遠くなる悠久の時を超えた今、人間は死というものをある程度支配しつつある。
体に対する知識を身につけ病を治し寿命を伸ばし、人間は地球上に溢れんばかりに繁栄している。つまり俺が殺そうとする相手も、生命の危機に対して全力で抗うという事だ。
相手は叫び逃げ回るだろう。いやそれだけならまだいい。俺が身を置く世界は常に暴力と隣り合わせの世界。相手も同じ世界に身を置く人間の可能性は高い。ならば俺と同じように、いやもしかしたらそれ以上の武器を持っている可能性すらある。それで応戦されたらどうすればいい。
答えの出ない疑問の本流に、俺は時間を忘れた。
――誰かが石を投げている。コツコツと定期的に窓を打つ石は、思考の邪魔をする。
何を考えている。駐車場で石を投げる者などいない。
俺は慌てて時間を確認し窓に目をやった。時間は十時三十三分。そこには、男がいた。男には違いないが、想像していた暴力の世界とはかけ離れた、温厚な見た目の老人がいた。
老人は俺の顔を見るとにっこりと笑い、鍵を開けろと手でジェスチャーをした。
どういう事だ。斎藤が殺せと言った男はこの老人なのか。どこかのシマのライバル的な存在ではないのか。それともこの老人はどこかの組の組長だったりするのか。
斎藤に連れられ出会った人間の顔を片っ端から思い出していく。しかし記憶のどこを探しても、目の前にいる老人に該当する記憶はなかった。
老人は笑みを湛えたまま再び同じ動作を繰り返す。
この老人の他に誰かいないかと、俺は車の周りを見える範囲で探した。だが駐車場には、今目の前にいる老人以外には誰も存在していなかった。
まとまらない頭で考えたところで良い案は出ない。訊けば済む事だ。そう考えドアの鍵を開けた。
「君が今日の運転手かね」
老人はドアを開けるなり言った。
俺は曖昧に応え、ジャケットの内ポケットにあるものの硬さを確かめた。
この老人を殺すのか? もしかしたら何かの手違いか間違いではないのか。
「爺さん、この車でいいのか?」
言った後で何を言っているのだと後悔する。もしこの老人が殺す相手だとしたら、この車でいいかなどと訊かれたら変に疑問を持つかも知れない。
「ええそうですな。いつもこの車ですし。それともこの車ではまずい事でもあるのですかな」
「いやいい、なんでもない」
やはり俺はこの老人を殺すようだ。
「さてと、ではいつものように頼むよ」
いつも? 俺は何も聞いて……。いや、電話の男は行き先については無視しろと言っていた。カーナビに登録してある場所に行き、この老人を殺せばそれでお終いだ。それにこの老人であれば難なく殺せるはずだ。
「どうしたのかね? 出発しないのかね」
老人は怪しむでもなく静かに言った。
「いや、なんでもない」
爺さん。人生最後のドライブくらいゆっくりと安全運転で送ってやるよ。そう心の中で呟くと、車を静かに走らせ始めた。
エクセルホテルを出ると、特に渋滞に捕まる事もなく車はスムーズに進んだ。どうやらカーナビの設定は、高速道路を使わずに進むコースに設定してあるらしい。足が付かないよう、Nシステムを敬遠しているのだろう。
ホテルを出て三キロほど進んだところで、老人が「いつもの道と違うようですな」と言った。
「今日が初めてなもんでな。でも心配ない、ちゃんとカーナビに行き先は登録してある」
爺さんの墓場がな。心の中で密かにつけ加える。
「そうかね。では任せるとしよう」
そう言うと老人は眠ってしまったのか、腕を組み目を閉じてしまった。この先にある自分の運命も知らずに。
時折捕まる信号の度に、俺はルームミラー越しに老人を観察した。観察すればするほどに、本当にこの老人が斎藤の言っていた殺す相手なのだろうかと疑問に思う。
服装などはどう見ても普通の隠居としか言い様のない、年相応の何の変哲もない格好だ。それに初めに見た時の老人の見せた柔和な笑顔は、俺の住む暴力の世界に於いて、まず見かける事のない表情と目だった。
俺が普段身を置く世界の住人は、どんなに年老いていても目が淀む事はないし、どんなに顔が笑っていても目が笑う事はない。
皆どこかで相手を喰ってやろう、足元を掬ってやろうと、虎視眈々と隙を伺っている。
この老人にはそれが全く感じられない。想像していた男とこの老人は、どうやっても結びつかない。本当に、本当に俺はこの老人を……。
「君に殺されるような事を私は何かしたのかね?」
――なんだって? 今、何て言ったんだ?
突然後ろの車からクラクションが鳴る。信号はいつの間にか青に変わっていた。急発進で路面を掴み損ねたタイヤの甲高い音が鳴る。
ルームミラーの中には相変わらず目を閉じたまま腕を組んでいる老人がいた。
今のはなんだ。後ろに座る老人が言ったのか?
耳に残った言葉の残滓を反芻する。君に殺される……。私……。今の言葉が空耳や幻聴でないのならば、なぜ老人は自分が殺される事を知っているのだ。
この車に老人が乗ってから、多少俺の言動に怪しい所はあったかも知れないが、それでもそこから自分が殺されるなどという考えに至るはずはない。
ならば、殺されるという事が初めからわかっていた事になりはしないか。
いやそれなら、初めから殺されるとわかっている車に老人は乗り込んだ事になる。そんな事があるのだろうか。
「君はなぜ私の事を殺したいのかね?」
タイヤのスリップ音が車内にまで響く。けたたましいクラクションを浴びせながら、何台もの車がプレジデントの脇を抜けて行く。
俺は思わず振り返り老人を見た。老人は目を開き、俺の目を真っ直ぐに見ていた。その目には、恐れもなければ威嚇する色もなく、何の表情も読み取れなかった。
「爺さん今何て言った?」
言いながらジャケットの黒星に手をかける。鉄の重い冷たさに、俺は思わず声を上げそうになる。
「なぜ私を殺したいのかと訊いたのだが?」
素早く車の外を見る。人通りが全くないわけではないが、それでも都心部にしては比較的人通りが少ない場所に、車は停まっていた。
幸いにしてこの車はフルスモークだ。外から中は見え辛い。しかもこの車の見た目から、わざわざ好き好んで車の中を覗き込む馬鹿はいないだろう。車だけは引っ切りなしに走っているが、それが逆に発砲の音を掻き消してくれる。ここでやるか。いや、やるしかない。
俺は懐から黒星を取り出した。
「爺さん。爺さんに恨みはないがここで死んでもらう。動くなよ」
老人は、拳銃を鼻先に突きつけられているにも関わらず、表情を少しも変える事はなかった。そして拳銃を見る事もなく、俺の目をただまっすぐに見ている。額に汗が伝うのを感じる。
なぜ拳銃を前にしてそんな顔でいられる。この老人に恐怖心はないのか。
「そうかね。ひっそりと生きて来たつもりだったが、どこかで恨みを買うような事を私はしていたのかな」
老人はそう言うと少し口元を綻ばせる。
「なぜ笑う! 撃たないとでも思っているのか?」
「笑う? 私は今、笑っているのですか。そうですか。……それはいい。私は常々死ぬ時は笑って死にたいと、そう想って生きて参りました。ならば、今死ぬ事ができたら、私の望みは叶うのですな」
老人は話しながらも、可笑しくて仕方がないと言わんばかりに、ニンマリとした表情を浮かべた。
「何言ってんだ! あんた死ぬんだぞ? こんなどこのどいつとも知らない奴に撃たれて殺されるんだそ? わかってんのかよ!」
何を言っている。死にたいと言っているのだから殺してやればいいじゃないか。この老人を殺せば俺の仕事は終わったも同然だ。
「それがまたいい。どこの誰だかわからないというのが。これで後腐れなく死ねますな。さあどうぞ遠慮なく」
どういう事だ。何を言っているんだこの老人は。死ぬんだぞ? 人間、いや生き物は死んでしまえばそれでお終いだ。それを避けるために生き物は、今まで何千年何億年もの間進化を続けてきたんじゃないのか?
――いや待て。もしかすると、老人の死にたくないがための作戦なのではないか。奇を衒った事を言って、俺の事を煙に巻こうとしている老獪な知恵なのではないか?
「どうしたのかね? 引金を弾かないのかね」
「くそっ! あんた何なんだよ。俺が引金を弾いたら爺さん死ぬんだぞ。わかってんのか? 恐くないのか」
「わかっておりますとも。しかし今、私は笑っておるのでしょう。ならば私は、死ぬ事にさほど恐れを抱いていないという事になりますな」
車内に突然携帯電話の着信音が鳴る。
「くそっ。なんだ! 爺さん動くなよ」
「先ほどから動いておりませんが?」
老人は笑った。
老人を無視して、ポケットから携帯電話を取り出し着信の相手を確認する。そこには非通知とあった。
「誰だこんな時に!」
着信音は尚も鳴り続けている。
「出なくてよろしいので?」
「うるさい! 黙ってろ」
拳銃を構えたまま、通話ボタンを押した。だが聞こえて来たのは、通話終了を報せる単調な電子音だけだった。
「切れてしまいましたな」
「くそっ。黙ってろって言ってるだろう! 殺されたいのか」
「だから先ほどから申し上げている通り……」
老人の声を遮るようにまた携帯電話が鳴る。すかさず通話ボタンを押した。
「もしもし。誰だ?」
「誰だじゃねえだろうが! てめえ今何やってんだ!」
聞こえて来たのは怒りに満ちた斎藤の声だった。
「斎藤さん! 暫く連絡できないって……」
「そうだよ! 暫く連絡するつもりはなかった。だがなあ、お前のせいで連絡する羽目になっちまっただろうが!」
なんだ、どういう事だ。俺は何をやらかした。
「てめえ何バックれてんだ!」
「どういう事ですか。今斎藤さんの指示通り車に乗って、爺さんを殺すところですよ」
「じじい? 何言ってんだ武雄。俺が殺せって言ったのはじじいじゃねえ。友部組の若頭鳥居源蔵だ! ……ちくしょう名前言っちまった。誰も聞いてねえだろうな」
電話の向こうで辺りを伺うくぐもった音が聞こえる。友部組若頭鳥居源蔵。確か斎藤が邪魔だといつか漏らしていた男の名前がそれだったような……。
「でも! あの時間にあそこに来たのはこの爺さんだけで、他には誰も……」
「うるせえ! 言い訳してんじゃねえ! とにかくてめえはしくじったんだ。ていうかこのままじゃ俺も危ねえ。とりあえず事務所に来い。話はそれからだ」
「斎藤さん。ちょっと待ってくれ……」
斎藤は俺の言葉を待たずに電話を切った。
「切られてしまいましたな。それにしてもずいぶん大きい声で……全部聞こえてしまいましたよ」
「うるせえ爺さん! てめえのせいだ! どうしてくれるんだ!」
携帯電話を助手席に投げ、両手で拳銃をにぎる。そして老人の眉間に照準を合わせた。
「私は今、笑っていますかな?」
老人は笑っていなかった。
「なんだよ! こんな時に何言ってんだよじじい!」
老人は無表情で俺の目を真っ直ぐに見ている。
なんだ、なんなんだその目は。くそっ……ちくしょう。こいつの、こいつのせいで、俺の黒い太陽が……。
「撃たないのですかな?」
身体から力が抜け、腕が下がる。もう拳銃を持ち上げる力すら出なかった。
「なんで、なんであそこにいた。爺さんなんであの時間にこの車に乗って来たんだ……」
「なんでと言われましても、仕事ですよ。仕事の後はいつもこの車に乗って帰るのです。この黒のセンチュリーで……」
「おい! おいおいおいおい! 爺さん今何て言った」
「ですから仕事で……」
「違うその後だ! センチュリーってなんだ。この車はプレジデントだろうが!」
鳩が豆鉄砲を食らうというのはこういう事なのだろう。老人は目を見開き口をあんぐりと開け、手を口に当てた。信じられねえ……。
「びっくりですな」
「ふざけんなこっちのセリフだ! どうしてくれるんだよ……」
とりあえずこの老人をどうにかしなくては。どうしたら。俺はどうしたらいい。
「とりあえず、電話の方が言っていた、事務所に行くというのはどうですかな?」
老人は冷静に言う。俺はふと疑問に思った。この老人は今回の件に全く関係なかった。ならばなぜ自分が殺されると思ったのだ。それに、今も俺の考えを読むような事を言った。これはどういう事なのだ。
「爺さん。あんた……」
「長年の経験ですよ。私には人の考えている事がなんとなくわかるのです」
老人は俺の言葉を遮ると、なんという事もないという風に言った。
考えている事がわかる? そんな話を信じろと? しかし現に今も……。
いやだからどうしたというんだ。それよりも斎藤の呼び出しだ。早く事務所に行かなければ。
「もういい。爺さんここで降りてくれ」
「――そうかね」
老人はそう言うと、考えるように顎に手を当て口を開く。
「先ほど、斎藤さんでしたかな? その斎藤さんが言っていた事務所。どこにあるのですかな?」
「なんだよ品川だよ。それがどうした。こんな所で油売ってる場合じゃないんだ。さっさと事務所に行かないとやばいんだよ」
老人はまた考える。
くそっ。何なんだよさっきから。
「――ではこうしましょう。私の店が品川にあるのです。そこまで送って頂けませんかな?」
「どうしてそうなるんだ。なんで俺があんたを送らなきゃならないんだ」
どんどん自分のペースを崩されていくのがわかる。
「旅は道連れと言いますし、どうせ近くなのだし、良いではないですか。それに斎藤さんに言い訳する時に、私の事を言ってもらってもよろしいですし」
もう全てがどうでも良くなり、俺は乱暴にステアリングを切った。急発進に驚いた車がクラクションを浴びせる。
その車を見て悪態を一つ吐くと、拳銃を助手席に放る。拳銃と携帯電話がぶつかり鈍い金属音を立てた。銃口が俺の方を向いている。
電話の男は言っていた。何かの拍子で弾が飛び出すかもと。その言葉を思い出し、太腿の裏に虫が這うような気味の悪い恐怖を感じた。
品川に近づくにつれ、次第に胃の中の物がせり上がってくる居心地の悪さを感じ始めた。いつもならば、多少の無茶をしてでも突き進む黄色信号もしっかり守り、ことスピードに関してはこれ以上ないほどの安全運転だった。
だがそうやって時間を先延ばしにしようとしても、車が進んでいる以上品川にある事務所へと確実に近づいているのだ。
事務所では何が待ち構えているのか。その事を想像しただけで尻尾を巻いて逃げ出したくなる。電話口の斎藤の声はかなり焦っていた。なぜ斎藤はあんなに焦っていたのか。斎藤の今回の思惑について自分なりに考えてみる。
まず、斎藤が殺したかった本当の相手とは、友部組若頭鳥居源蔵。
友部組は堀川組傘下にある組で、斎藤の所属している柳川会と同じ系列組だ。
鳥居は確かその中でも異例の早さで出世した男だと聞いた事がある。
聞いた話によると、俺のようにチンピラ崩れ出身ではなく、この世界では珍しく大学を出ているらしい。
記憶があやふやで定かではないが、金さえ払えば入れるというような三流大学ではなく、それなりの学がないと入る事ができない一流大学だと聞いた気がする。
それに対して斎藤は、力だけでのし上がって来た根っからの叩き上げで、常々組員とはこう在るべきだと、俺や他の構成員に、斎藤なりのヤクザの理想と在り方を説いていた。
その対象的な二人がなぜぶつかり合うのかは知らないが、もしかしたら下っ端の俺には知らされていない裏があるのかも知れない。
知らされていないと言えば、なぜ斎藤は今回の相手が鳥居だと知らせてくれなかったのか。もし知らせてくれていれば、今回のようなミスもなかったはずだ。それなのに。地下に潜れと言ったり、ホームレスを使って連絡役にしたり、斎藤のやり方にしてはかなりまだるっこしいとしか言い様がない。なぜだ。
「すみませんが、そこのビルを左に曲がってもらえますかな」
老人の声で思考が遮られる。老人は俺の事をまるでタクシーの運転手とでも思っているかのような口振りで言った。しかしそれに俺も黙って従う。
老人の申し出は、できるだけ事務所に行く事を先延ばしにしたい今の俺にとって、渡りに船と言っても良いくらいの都合の良い響きを持っていた。
「あっ、あの信号を右に行くと、山川ビルと書いてある看板が見えてきます。その先で停めてもらえますかな」
老人の言う通りに道を進む。誰かから明確な指示をもらい動く。心が弱っているのか、なぜかその事に心地良さを感じる。もしかしたら、この老人の持つ独特の声音がそう思わさせるのかも知れない。
「ほらよ爺さん。着いたぜ」
「ありがとうございます。今回は私のせいでとんだご迷惑をおかけしました。どうですかな? お詫びにコーヒーでも一杯」
「いや、いい。これから事務所に行かなきゃならない。それに時間もない」
「その割には、随分安全運転でしたな」
老人は嫌味なく微笑んだ。時計を見ると十二時を少し回ったところだった。正直迷っていた。斎藤はミスを絶対に許さない。それがどんなに些細な事であっても。
機嫌が良ければ見逃してくれる事もあるが、今回は機嫌も悪い上にどう考えても些細なミスとは言い難い。以前ミスを犯した健二という男がいたが、次の日見た時には顔を二倍近くに腫らして、その上歯が七八本は抜けていた。
あの時のミスは確か、借金取り立ての見貼り中に、健二はあろう事か居眠りをしてしまった。結果相手は夜逃げをかまし、取り立てが困難になってしまった。最終的に取り立ては叶ったが、今回の場合どうなるかは想像に難くない。命までは取られはしないだろうが、盃など夢のまた夢だろう。
「爺さんの店ってのは近いのか?」
「すぐそこに御座いますよ」
老人は微笑みを浮かべながら答える。
「コーヒー、美味いのか?」
「私のオリジナルブレンドが口に合いますかどうかはわかりませんが、私、コーヒーに関しましては少々自信が御座います」
今更コーヒー一杯くらいどうって事ないだろう。俺は近くのコインパーキングに車を停めると、黒星とボストンバックを手に、老人の店へと向かった。
埃っぽい臭い。道の至る所に捨ててある空き缶やゴミの入ったコンビニの袋。足下を走り回る丸々と太ったどぶねずみ達。
この道はなんだ 。本当にこんな所に店があるのか。それとも抜け道か何かなのか? そもそもここは道というより、ビルとビルの隙間と呼んだ方がいいんじゃないのか。
俺には老人の進む道の先に、美味いコーヒーを飲ませる店があるとは到底思えなかった。
「どうぞお入りください。これが私の店ですよ」
怪しげな小道を抜けたその先には、確かに店の体裁をとったような建物があった。しかし看板などは掲げておらず、扉にかかった「準備中」の札が無ければ、誰もそこが店だとは気づかないだろう。
老人は、ジャケットのポケットから小さな鍵を取り出し店の鍵を開けると、中に入れと促した。
店内には何に使うのか全くわからないガラクタのような物が所狭しと置かれ、足の踏み場もないほどだった。
店の中を進むと、木でできた簡素なテーブルが一脚と、それを囲むように椅子が三脚置いてあった。
「爺さん変わった喫茶店だな。こんなんで客が来るのか?」
「喫茶店ではございません。ここは骨董品屋で御座います」
老人はコーヒーミルで豆を挽きながら言った。
「でもさっきオリジナルブレンドだなんだって言ってたじゃねえか」
挽きたての豆の香りが、店内に広がっていく。
「コーヒーは、私の趣味で御座います。軽食で宜しければお出し致しますが、どうなさいますかな?」
「いや……」
コーヒーの香りを嗅ぎ、空っぽの胃が動き始める。
「もらおうか」
老人は笑顔で頷くと、ベーグルにハムとレタスを挟みトースターで焼き始める。たちまち店内には、コーヒーの芳ばしい香りと、ベーグルの焼ける香りが立ち籠めた。それを嗅いで胃の動きが活発になったのか、盛大に音を立てた。案外俺の神経は図太いらしい。
骨董品屋と聞いて、改めて店内を見回す。なるほど、そう言われて見ると、そこにある物が、急に価値のある物なのではと思えて来るから、人間という生き物は不思議なものだ。
例えば犬などであれば、物の価値は食えるか食えないか。もしくは遊び道具になるかならないか。その程度の判断しかできないだろう。しかし人間は全ての物に価値をつけたがる。交換価値、希少価値、利用価値、様々な価値があるが、どれも時と場合によって上がったり下がったりする。
俺はこの店にある物を骨董品と聞いて、その価値をガラクタから商品へと高めた。
俺は斎藤から出されたヤマをしくじった。斎藤から見て俺の価値はどうしようもなく落ち込んだガラクタへと変わったに違いない。
目の前に置いてある赤銅色の時計を手に取り考えた。この時計の針を戻したら時は遡らないだろうかと。
「それは無理な相談ですな。それは目覚まし時計ですから」
老人は、テーブルの上にベーグルとコーヒーを並べながら言った。芳ばしい香りが鼻から肺へと深く吸い込まれる。
「俺が何を考えていたのかわかるのか?」
「時計を持ち、思い詰めた顔をしておりましたからなあ。後悔という文字が顔に書いてあるようでしたぞ。私でなくともわかるでしょうに」
その後悔の原因が自分だという事を忘れたかのように老人は言った。
「それに、過ぎた時間は取り戻せません。それが世の理で御座いましょう」
俺にベーグルとコーヒーを促すと、老人はコーヒーを一口啜る。
俺は勧められるままに、ベーグルを一口齧りコーヒーで流し込んだ。
塩気を含んだベーグルと、少し脂身の多いハムは、口の中でコーヒーの苦味と混じり合い、深い甘味を広げた。
「美味い……」
思わず出た言葉に、老人はにっこりと微笑み、「そうでしょう」と言った。ついさっきまで、勘違いとはいえ殺そうとしていた人間と飯を食っている。その事に不意に気がつき、笑っていられる状況ではないのは百も承知だが、口元から笑が零れる。
「どうかしましたかな?」
「爺さん。考えてる事わかるんだろ。当ててみろよ」
老人は暫く考えた後、「わかりませんな」と言った。
何となく店内を眺めていると、先ほど老人がコーヒーを淹れていたカウンターの向こう側に、看板を見つけた。
看板には『狭間堂正刻町店』と書かれている。この店の屋号か。
「――ここは不思議な店だな。どこか現実味がないと言うか、表の通りとは違う時間が流れている気がする。――そして何より静かだ」
静かだと言って始めて気がつく。この店は都心の、しかもかなり都会の部類に入る品川にあるにも関わらず、街の雑踏や車の出す音、その他にも人間が生活する上で聞こえて来るはずの、一切の音が聞こえてこない。
「この店は、夢と現の狭間にある幻のような店ですからな。知っている人は知っているし、知らない人は知らない。そんな店なのです」
老人は少しだけ得意気に言った。
「――なんだそりゃ。当たり前じゃねえか」
「それもそうですな」
俺と老人は声を上げて笑った。少しも笑える状況でない事はわかっている。だがこの老人といると、いつの間にか肩から力が抜けていて、自分が自分でなくなるそんな気持になる。これが堅気の世界なのだろうか。
進む道を誤ったのだろうか。不意にそんな考えが頭によぎる。
だが誤っているとしても、今更元には戻れない。そして元に戻れない事を教えるように、携帯電話の音が店内に鳴り響いた。
「この店にいて繋がるとは、よっぽどの強い想いをお持ちのようですな。電話の相手は」
老人が意味のわからない事を言ったが、それを無視して電話に出た。
「武雄か。今どこにいる」
電話の相手は確認しなくてもわかる。斎藤だ。
「今品川です。もうすぐ事務所に着きます」
「そうか。わかった。今から一時間後の二時までに事務所に来れるか」
斎藤の声は、意外なほど落ち着いていた。
「行けます。十分前には行きます」
「よし。待ってるぞ」
斎藤は特に抑揚のない声で言うとそのまま電話を切った。その声には怒りは感じられなかったが、少し疲れを感じた気がした。
「行かれるのですかな」
老人はなぜか少し険しい顔をして言った。
それに対して、「邪魔したな」とだけ言うと俺は店を後にした。背後から老人が、もし困ったことがあったらいつでも来いと言っていたが、もうここには二度と戻って来ないだろうと思った。
ここは俺の住む世界とは違いすぎる。長くいると、今までの自分の人生を否定してしまいそうになる危うさがある。俺にはそれが怖かった。




