或る水上の最期
*或る水上の最期
「おい。これ送ってきた犯人捕まったらしいぜ?」
白衣を着て少し太り気味の男が、俺の方を指さしながら横に立つ男にそう言った。横に立つ男は比較的細身だ。
俺が目覚めたのは十分ほど前だが、今自分がどういう状況に置かれているのかがさっぱり掴めなかった。それにしても人を指さし「これ」とは随分な言い草だ。
俺は男から視線を外し身体を動かそうと試みるが、なぜか体は重く動く事も声を出す事もできなかった。仕方なく俺は自分がいる場所に目をやる。鈍い金属の光沢。冷んやりとした触感。どうやら俺は今金属製のベッドの上にいるらしい。
部屋の中には何やら薬品の臭いが充満していて、壁際に並べられた机の上にはビーカーや試験管、三角フラスコや顕微鏡など他にも何に使うのかわからない機材が整然と並んでいた。
「そうなのか? で、犯人って誰なんだ?」
細身の男が太った男に訊いた。
「それがな、当初言われていた友部組の奴には違いないんだが、ナンバーツーの鳥居って奴らしいんだ」
鳥居?
太った男の言った名前に俺は反応する。俺は確か目覚める前に鳥居に首を締められ気絶したはずだ。という事は、鳥居は俺を気絶させた後このなんだかわけのわからない場所に送ったという事か。
部屋に並んだ科学的な試験に使いそうな器具や薬品の臭い。そして俺の事をまるで物のように「これ」と呼ぶ白衣の男達。それらの示す物に俺は戦慄を覚える。まさか俺はどこかの研究機関か何かに送られたのか?
「へえ、そんな幹部が捕まるなんて珍しいな。大抵いつもトカゲの尻尾みたいな奴がひょっこり自首してきて終わりってのがパターンなのに」
「ああ、いつもはそうなんだが、今回は捕まった状況ってのがかなり特異だったらしい。捜査一課の坂崎さんと明松っていう新人が捕まえたらしいんだが、鳥居は拷問部屋みたいな地下室にいたらしいんだ」
捜査一課だと? という事はここは警察なのか?
「しかもその拷問部屋から色々とやばい物が見つかったんだってよ」
やばいという言葉とは裏腹に、なぜか太った男の声は嬉しそうに聞こえる。
「なんなんだそのやばい物って」
「お前何年か前の女子高生監禁惨殺事件覚えてるか?」
「ああ……あの麻薬の。確かあれもトカゲの尻尾っちゃトカゲの尻尾だったような……」
細身の男は首を傾げ昔を思い出すように腕を組んだ。
「そうだ。あの時の被害者だった女子高生が、拷問にかけられていた写真が見つかったらしい。しかも更にやばいのが、マル暴の亀井さんも一緒にいたんだってよ」
亀井。何度か斎藤から聞いた事がある名前だ。斎藤は確かそいつの事を嫌っていたな。
「えっ! それってかなりやばくないか?」
細身の男は驚いたのか声を大きくした。
「そうだよ。だから上はかなり焦ってるらしいぞ。女子高生監禁惨殺事件の真犯人は鳥居だった上に、マル暴とヤクザの繋がりがあったなんてかなりやばいぜ」
太った男の顔に嬉しそうな表情が浮かぶ。
「そう言えばあの時も亀井さんが犯人捕まえてたような」
「ああ。しかも今回のこれも亀井さんが持って来たぜ。あの人も終わりだな」
俺の事を二人の男は蔑むように見る。いや蔑んでいる相手は亀井か。
「お前嬉しそうだな」
「俺、あの人嫌いなんだよ。なんかいつも上から目線でさ。俺はあんたの召使いじゃねえっての!」
「で、これはどうしたらいいんだろうな」
太った男は俺の事を暫く見た後呟くように言った。
「資料によるとこの水上って奴は家族がいないらしいんだ。父親は蒸発。母親も十年くらい前に亡くなっている。親族もいない。本来なら遺族の方にお引き取り頂くってのが筋なんだろうが、親族がいないんじゃなあ……」
こいつは何を言っている。俺は死んでいないぞ! ちゃんと調べろよ!
「じゃあ火葬にして荼毘に伏せるとか?」
くそっ。身体が動かない。言葉も出ない。どうしたらこいつらに俺が生きていると伝えられるのか……。
「胴体があればそれもできるだろうが手首だけじゃなあ。骨も残らんぜ」
手首? 手首だと? こいらは何を言って……。
「じゃあ廃棄か」
二人の男は声を合わせて言った。そして太った男がゴム手袋を着けた手で無造作に俺を掴むと、そのままゴミ箱に放り込んだ。丸く切り取られたゴミ箱の淵から二人の男の顔が除く。
ん? 身体がさっきよりも重くないぞ。今なら動く事ができるかも知れない。
俺は二人に生きているのだとなんとか知らせるために、全力で身を捩る。しかし二人は俺に向かって手を合わせるとゴミ箱の蓋をした。
「今、手首動かなかったか?」
ゴミ箱の外から声が聞こえる。
そうだ! 俺は生きているぞ! もう一度蓋を開けてくれ!
「気味の悪い事言うなよ。死後硬直だろ」
「だよな」
二人の声は笑いながら離れて行った。俺は一体どうなってしまうのか……。
ガタガタと揺れる振動を感じ、俺は周囲の音に意識を向ける。どうやら俺はどこかに運ばれているらしい。信じられない事だが、俺は今手首だけの存在になったようだ。しかしあの老人に処方された薬のせいでこんな姿になっても死ぬ事ができないらしい。
「これ医療廃棄物で出しといて」
ドスンと重い音が聞こえ振動を感じた後声の主は言った。声の主はあの太った男だろう。
「あっあー。開けない方がいいかもね。手首入ってるから」
「えっ! マジですか!」
少し若そうな男の声だ。
「マジもおおマジ」
あまりに軽薄な遣り取りに、俺の絶望感はどんどん増していく。
「いいんですか? そんなの出して。遺族怒りません?」
「その手の持ち主遺族いないんだわ」
若そうな声の男は曖昧な返事を返すと、「火葬ですか? それとも土葬?」と言った。
それを聞いて、生きたまま焼かれるのと生きたまま埋められるのはどちらが苦しいのだろうかと俺は考えた。
「骨出ちゃったらまずいし火葬で頼むわ」
「了解っす」
俺は生きたまま焼かれる事に決まったようだ。
暗闇の中で車に揺られていると時間の感覚があやふやになってくる。どれくらい走ったか全くわからない。そんな事を考えるともなしに考えていると、車のエンジン音が消え、振動も止んだ。
一瞬の浮遊感の後に地面に叩きつけられる衝撃を感じる。どうやら目的の場所に着いたようだ。
俺はこれから業火に焼かれるのだ。俺のせいで加奈は死んだ。こんな事で罪を償えるわけはないと思うが、自分を誤魔化すには丁度いい苦しみかも知れない。
「あれ? これ焼却のゴミじゃん。なんでこっち来てんの?」
男の声に俺の気持ちは少し揺れる。
「えっ、マジですか?――本当だ。やっべーなー。でも今から持って帰るのも時間的に……。ねえ、こっちで処理できません?」
男は媚びたような声を上げた。
「ええ? だめでしょ。感染系だったら問題になっちゃうよ」
どうやら手違いで俺は埋められる方に連れて来られたようだ。焼かれると覚悟を決めた事に水を差されたような気がして、俺は若干腹立たしく思う。
「大丈夫だって! 病死じゃないって書類にあるし。昼おごるからさあ頼むよ!」
「……じゃあ、焼肉定食で手を打つわ」
暫くの沈黙の後男は言った。俺の決意は焼肉定食一つで反故にされたようだ。
「良かった。助かったよ!」
「じゃあ、こっち運んで」
ふらふらとした浮遊感の後、ゴミ箱の蓋が開けられ、久し振りの光が射し込む。しかし、その光は薄暗く、俺の気持ちを滅入らせる。それから俺は、乱暴に放り投げられ、他のゴミ達と一緒に暗い洞窟のようなベルトコンベアで運ばれて行く。
遠くの方から大きなモーター音と、何か金属の塊がぶつかり合うような音が聞こえてくる。俺はこの先に何が待っているのかを見ようとビニール袋を破り外に這い出た。それから他のゴミを掻き分け一番上にまでよじ登る。
今の俺の状況を想像し、昔見た気味の悪い化け物家族の映画を思い出した。その映画の中では今の俺と同じような手首が動き回っていた。今の俺ならばCGなどを使わずともハリウッドデビューできるかも知れない。
ふざけた事を考えていると音の正体がだんだんと明らかになってくる。そしてそれを見た俺は暗澹たる気持ちになった。なぜなら金属の塊がぶつかり合う音は、大きなミキサーの刃のような物にゴミ達がぶつかり砕かれていく音だったからだ。
俺はどうやらハリウッドより先に挽肉になってしまう運命らしい。
目の前でゴミ達がミキサーの刃に向かって滑り落ちて行く。そして刃に当たった瞬間恐ろしいまでのスピードで砕けて飛び散り再び刃にぶち当たりを繰り返し、その物が元はなんだったのかを考える暇もなく細かな欠片になっていく。
恐ろしかった。今まで見たどんなものよりも恐ろしかった。罪を償うなどただの甘えだった事を証明するかのように、俺は必死になって逃げた。
俺の背後で次々と粉々になっていくゴミ達。ミキサーに弾かれて俺に向かって飛んで来る物もあった。俺はそれらを避けながら必死で駆け回った。だがそんないたちごっこは唐突に終わった。
エネルギーの尽きた俺の指は、次第に緩慢な動きになりベルトコンベアの流れに逆らう事ができなくなった。そして俺は巨大なミキサーの刃に向かって転がり落ちて行った。
刃は容赦なく俺の掌に食い込み、次の瞬間には薬指と小指以外の指はどこかに消えてしまった。身体に走る激痛は、俺の意識を強制的に終了させる。そして俺は、意識の届かない真っ暗な闇の中に転がり落ちて行った。
騒がしい重機の音。辺り一面に満ちた腐敗臭。下層の方では何か化学反応が起きているのか、そこは昼も夜もなく熱かった。
俺がここに来てどれくらいが経つかはわからないが、わかるのは、今俺は薬指だけの存在になってしまったという事だけだ。
手首であれば色々と動き回ってここから脱出する事も可能だったかも知れないが、薬指だけでは何もできない。ただ、本体からのエネルギー供給がなくても俺は死ぬ事はなかった。なぜなら、この場所には有機物がそれなりに存在するからだ。
エネルギーの枯れ果てた俺はさすがに死を覚悟した。だが俺の細胞はどういう原理かわからないが、辺りの有機物から効率よくエネルギーを吸収し始め、細胞分裂を繰り返し始めた。そして今では第二関節までしかなかった薬指も第三関節にまで増殖していた。このままいけば俺はこの場所で水上武雄として再び復活するかも知れない。馬鹿げた話だがそんな事を思っていた。
もしそうなったらどうするか。俺は買ってもいない宝くじの使い道を心配するような心境で、その事を考え始めた。しかし買ってもいない宝くじは逆立ちしても当たらない。そう言われたかのような出来事が俺の身に起こった。
その日俺は、指のつけ根にまで成長した薬指を何とか立たせてみようと身を捩っていた。どこかここでない場所に行きたかったのだ。だがそれがいけなかった。
ゴミの埋立地という場所は、埋立地というだけあって必ず海の近くにある。そして海の近くには鴎がいる。鴎という鳥は海の烏と呼ばれるくらい雑食性の鳥だ。それこそ生ゴミから虫までなんでも食べる。
そんな奴等が跳梁跋扈するゴミの山で俺は身をくねらせ立とうとしていた。そう。奴等からして見れば、俺は活きのいい芋虫か何かに見えた事だろう。
何とか立つためのコツを掴みかけた時、突然俺の上を黒い影が覆い、次の瞬間には俺は空を飛んでいた。一瞬何が起きたのかわからなかったが、身体にかかる鋭い嘴からの圧力に、俺は鴎に捕らえられたのだと悟った。
万物の霊長はあっけなく鴎に食されるのだ。
鴎は俺の事を遠慮なく平らげた。そして俺の意識はまた暗闇に転がり落ちて行った。それからは、俺の意思とは関係なく物事が進んだ。俺は食物連鎖の輪に、意識のあるまま取り込まれたのだ。
俺はカモメの糞として海に落ちた。それから海を漂い、魚に食われ気がついた時には、どこかの家庭の食卓に上っていた。
やっと人間のいる世界に戻ってこれたと喜んでいると、俺は又ゴミ処理場にいた。
それから俺は数多の動植物の中を潜り抜け生と死を体感し、あまりの過酷さにもうこの連鎖から逃れたいと思うようになっていた。死にたいと思うようになっていた。だが俺の魂は死を許してはくれなかった。
死にたいと願っても食物連鎖の輪から逃れる事はできず、他の生物の体を介して生と死を何度も体感する。俺の精神はもう限界だった。
そんな時、連鎖から逃れられるかも知れない出来事が起こった。俺はその時蝉の卵の中にいた。やがて蝉の卵は孵化し、俺は土の中で七年もの歳月をその蝉の幼虫の中で過ごした。
太陽が地面を照りつけ夏が来た事を知った幼虫は、地上を目指し土を掘り進んで行った。そしてあと数十センチで地上というところまで来て、地上で工事が始まったのだ。
地表には硬いタイルが敷き詰められ、蝉の幼虫は地表に出る事ができなくなった。
幼虫は硬いタイルを避けようと、タイル沿いに柔らかい土を求めて彷徨った。
やがて季節は変わり秋となった。しかし幼虫は諦めなかった。そしてようやく地表に繋がる柔らかい土を探り当てた時には、季節は冬となっていた。
幼虫は凍るように冷たい地表を這い木によじ登ると蛹になった。なぜこのような弱々しい存在にここまでの事ができたのか。それはもしかしたら俺という存在が蝉に不思議な力を与えていたのかも知れない。
それから蝉は一晩をかけて羽化した。
季節に乗り遅れ時を知らない蝉に仲間はいない。蝉は冬の世界を飛び回りつがいとなるメスを求め彷徨った。だが当然そこにメスなどいるはずもなく、冬の寒さもあってか蝉は二日で力尽きてしまった。
そして今、蝉の身体に雪が降り積もり始めた。この季節であれば、蝉を食べる蟻もいない。
やっと終わる。降りしきる雪の中で俺の胸に去来したのはそんな言葉だった。
気がつけば、俺の歩んで来た道の跡には夥しい数の死だけが残っていた。
その中には、俺が殺したものもあるし、俺とは関係のないものもあった。いや、関係ないと言っても、それは直接の原因が俺ではないと言うだけで、実際には深く関係しているのだが。
しかし、そんな死の連鎖も、とうとう終わりを迎える時が来たのだ。だからもう、何を考えようともそれは俺には関係ないし、この後世界がどうなろうとももう俺には関係ない。俺は意識に蓋をした。
「……て言うかよ、さわ先生も無茶な事言うよな? こんな季節にいるわけねーって」
「仕方がないよ。しゅんちゃんが夏休みの宿題一個もやって来なかったんだもの」
不意に意識の外から声が割り込んでくる。蓋をしたはずの俺の意識は、自分の歩んで来た異常な道に対して、余りにも平常すぎる会話に触れ過敏に反応する。
「でもさ、あんまりじゃねえか? 見ろよ今日なんて朝から雪降ってんだぜ? ぜってえ無理だ。なのにさわ先生の奴、探せば必ずあるはずとか言ってよ」
「言っててもしょうがないじゃん。とにかく探してみようよ」
会話の内容から話しているのは二人の少年のようだが、どうやら何かを探しているらしい。
「ちぇっ。ゆきおはいいよな頭良くってよ。――あっそうだ! ハンズに売ってあるやつ買ってよお、それ持ってったら駄目かな?」
「ずるは駄目だよ。それにさわ先生すごく勘がいいから、嘘なんか吐いてもすぐにばれちゃうよ」
二人の少年が何を探しているのかは知らないが、足音は次第にこっちに近づいて来る。俺は眠りに就きかけた蝉の身体を無理矢理に動かし、二人に見つからぬよう植木の影に身を潜ませる。
二人が言った夏休みの宿題という言葉がなぜか俺の胸をざわつかせる。
「しゅんちゃん! あれっ!」
ゆきおと呼ばれた少年の、何かを見つけたぞという高揚を含んだ声が聞こえる。俺はどうかそれが自分でないようにと祈った。
だがその願いは叶わなかった。
蝉の身体を無造作に掴むその手は、今の俺の存在に比べれば絶望的な力を持っていた。
蝉は弱々しく羽を震わせる。
「うわっ! こいつまだ生きてるぞ!」
「本当だ! 凄いよしゅんちゃん!」
子供達の無邪気な声が残酷なまでに辺りに響く。
「早くこいつさわ先生の所に持ってって家でゲームしようぜ!」
ゆきおと呼ばれた少年は元気良く頷く。それから蝉はしゅんちゃんと呼ばれた少年の持つ虫籠の中に放り込まれた。
「さわ先生本当にいたぜ! しかもまだ生きてる奴だぜ!」
真新しい教室に二人の少年は駆け込んで行く。そしてその二人を愛おしそうに見つめる女がいた。この女が二人に蝉を見つけるよう命じた女か。気紛れな命令でようやく手にしたチャンスを握り潰した女。俺はこの女を激しく憎んだ。
「よく見つけたね。これで約束通り夏休みの宿題は許してあげる」
女の言葉を聞き二人の少年は嬉しさのあまり雄叫びを上げた。そして振り返りもせずに教室を飛び出して行った。
「やっと会えましたね」
女は虫籠を膝の上に置くと蝉の事を哀れな者を見る目で見ながら言った。この女は何を言っている。
「怒るのも無理はないですがそのままでは終わりませんよ?」
『この女。俺の声が?』
「ええ聴こえます。私はモノの想いを聴く事ができるのです。私は遥か昔にあった不思議な不思議な国に住んでいた、ある特殊な力を持った者達の血を引く者。だからモノの想いを聴く事ができるのです。私はあなたがあの公園のタイルの下にいる時から知っています。悲しくて辛い。そんな音をずっと聞いていました」
俺は夢を見ているのか? こんな存在になってから初めて人間と話す事ができた。これは俺の妄想ではないのか?
「違います。夢ではありません」
女は俺の思った事に答える。信じられなかった。
『すまない。気が動転しているんだ。あんたは一体何なんだ』
「私は聴覚の覚知者。モノの想いを聴く者。私はあなたに謝らなければなりません」
『謝る? なぜ謝るんだ。俺はあんたとは初対面だぞ?』
「言い方が悪かったですね。正確にはおじいちゃんの代わりにです」
『おじいちゃん? 俺はあんたの爺さんも知らん』
「あなたは昔怪しげなお店で怪しげな老人に薬を注射されませんでしたか?」
怪しげな店……。怪しげな老人……。何か重要な事だった気がするがうまく思い出せない。というより人間だった頃の記憶が段々と少なくなってきているのだ。――だが老人と聞いてなぜかわからないがコーヒーの美味しそうな香りを思い出した気がする。
「思い出せませんか。……わかりました。では、ついて来てもらえますか?」
ついて行くも何も俺は今虫籠の中。どこに行きたくともどこにも行けない存在なのだ。
「そうですね。無神経でごめんなさい。ではお連れしますね」
女はそう言って虫籠を持つと車でどこかに向かった。そして女は車をコインパーキングに停め、俺を連れて暗い路地を進んで行く。細く暗い路地には、白く輝く雪が留まる事なく降り続けていた。
俺はその路地を見ながら、僅かに記憶の琴線が震えるのを感じた。俺はここに来た事がある。漠然とだが確実にそう思う。なんだか不思議な感覚だがそう思ったのだから仕方がない。
やがて路地は終わりを迎え、路地の先にあったのは一軒の店だった。女は店の中に入って行く。店の中には得体の知れない物がごちゃごちゃと置かれていて、人間の動くスペースは殆どなかった。店のカウンターの向こう側には老人が立っていて、コーヒーを煎れる準備をしている。
サイフォンがコポコポと小気味のいい音を立て、店の中に芳ばしい香りを充満させる。俺はその香りを嗅ぎ懐かしい想いになる。部屋の暖かさに蝉は羽を震わせた。
『ここは確か……来た事がある』
「お久し振りですな。それにしても随分大変な思いをなされたようで……。この度は私の不始末で御迷惑をおかけ致しました。謝って済む問題ではありませんが謝らせてください。この度は申し訳御座いませんでしたな」
老人が俺に向かって話しかけてくる。この老人にも俺の声が聞こえるのだろうか。
老人は虫籠から恭しく蝉を取り出しテーブルの上にそっと置いた。老人の手には、幾星霜もの年月を重ねたであろう深いしわが刻まれていた。
老人は暫く蝉の事を見つめると、虫けら以下の存在となった俺に仰々しく頭を下げた。傍から見ていたらさぞかし滑稽な光景だったに違いない。
「さて。さわが渡した薬の秘密を綴った本は読まれましたかな?」
『本? 本とはなんだ』
俺は記憶が薄れつつあっても全く記憶が残っていないというわけではない。薬という言葉は何となく記憶をざわつかせるが、本と聞いても今一つピンとこない。
「おじいちゃん。多分この人に渡したんじゃないと思う」
「なんと……。ではもうあの時点で魂は細切れになっていたのか……」
この二人は何を言っているのだ。魂が細切れとは何の事だ。そんな馬鹿げた話があるものか。つき合っていられない。
そう思った俺は蝉に飛べと促した。俺はさっさと死んでこの世とおさらばしたかったのだ。だが、蝉は羽を少し震わせただけだった。もう蝉に空を飛ぶだけの力は残っていないのかも知れない。
「ああお待ちなさい。わかりました。薬だの魂だのという話は辞めましょう。こうなってしまったあなたには最早なんの役にも立たぬ話ですから。――では、代わりと言ってはなんですがあなたの望みを叶えましょう。この世からもう消えたい。あなたはそう思いましたね。本当に良いので?」
老人とさわが黙って俺の答えを待っている。俺の中にある答えは一つしかない。連鎖からの、肉体からの開放それだけだ。
「そうですか。わかりました。さわ。透明……いや、魂剥離薬と夢喰みを持ってきておくれ」
老人はさわに向かって言うとさわは店の奥へと消える。その時の老人の苦々しい表情は、苦しみと悲しみをないまぜにしたようなものだった。
『なぜそんな顔を?』
「あなたと初めて会った日の事を思い出しておりました。あの時見た未来ある若者が私のせいでこんな目に遭ってしまい、更に私の手で引導を渡してしまう事が心苦しいのです」
自分がなぜこんな事になってしまったのか殆ど覚えていない俺は、老人に返す言葉が見つからなかった。そして沈黙の中待っていると、さわが透明の液体の入ったガラスの小瓶と、古めかしいランタンに鈍く光る黒いピンポン球のような物を入れて持ってきた。
「この薬は肉体と魂を剥離する薬です。それからこちらはモノに宿る想いや念そして魂を吸い取る夢喰みという玉です。あなたの魂は今からこの夢喰みに吸い取られるのです」
さわは俺に持って来た物を見せながら説明する。その口調には慈しみが感じられた。
『また魂か……。吸い取られるとどうなる?』
さわの言う事は、とても信じられたものではなかったが、今更信じようが信じまいが結果は変わらないと思い、俺はさわに訊いた。
「定かではありませんが、夢喰みに吸い取られた魂は光と熱に還元され、自然の理に則り生命の連鎖に再び組込まれるのではないかと考えられています。つまり夢喰みに吸い取られるという事は、今迄の記憶は消え去り新しい生命としてどこかで生まれ変わるという事です。もっと言うと、完全なる死を意味します」
完全なる死。不吉な響きを持つ言葉が今の俺にはとても魅力的な響きを持っていた。
「あなたの望みはそれで宜しいのですかな?」
老人は蝉に向かって言った。俺は、『それでいい』と言った。
老人とさわはお互いの顔を見て微かに頷きガラスの瓶から注射器に薬を吸い上げた。
「本来ならば経口薬なのですが……」
老人は言い訳のように呟くと針を蝉の背中に突き立てた。蝉は羽を僅かに震わせ開くと、また元のように閉じてその場に横たわった。
一瞬ふわりと身体が浮くような感覚を覚えた後意識がふつと消え、気がついた時には、俺は蝉の身体を見下ろしていた。俺と一緒に抜け出したのか蝉のものと思しき魂が、自分の身体の周りをくるくると回っていた。
俺の都合で無理矢理に殺された蝉。犠牲にしてしまって済まなかったな。そう思った時、俺は大きな力に引き込まれ、再びふつと意識が消えた。
終焉
最後まで読んでいただきありがとうございます。
かなり異色というか、迷走気味の小説になってしまいました。それ故に賛否両論あると思いますが、それそれとして楽しんでもらえたのであれば幸いです。
取り敢えず書きためていたものはこれで最後になります。今後リハビリ的に不定期で投稿していきたいと思います。
良かったらまたお付き合いください。




