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狭間堂ー時知らずー  作者: かつを
12/15

救出

 ※救出


「さてどうするかな。お前らの話じゃ水上は鳥居に捕まってるって事になる。それをどう上に説明するかが難しいところだな。まさかお前の頭の中で水上が教えてくれるんですって言うわけにもいかんしな」


 坂崎は煙草の煙を燻らせながら考え込むように頭を傾けた。明松もそれを真似て頭を傾げる。


「坂崎さん。どこに水上が捕まっているか心当たりはないんですか?」


「あるといえばある。と言うかそこ以外には考えられんのだが、令状でもなけりゃそこに行くのは難しいかも知らんぜ? 何せ……」


「坂崎さん! こんなところにいたんですか? 今から捜査本部で定例会議ですよ。早く来てください」


 突然開いた扉の風圧で喫煙ルームに籠もっていた煙が渦を巻く。見ると婦警だろうか、一人の女が口に手をあて避難の目を坂崎と明松に向けていた。


「なんだよ美香ちゃんすぐ行くって。そんな怖い顔するなよ。そんな顔してると嫁に行けなくなるぞ」


 坂崎の軽口にも美香と呼ばれた女の表情は和らぐ事はなかった。


「坂崎さん! セクハラですよ!」


「わかってるよ。ったく嫌な世の中になっちまったもんだぜ」


 坂崎はぶつぶつとぼやきながら喫煙ルームを出て行く。明松もそれを追った。




 捜査本部の扉を開けるとそこには既に捜査員が揃っていて、席に着いていないのは坂崎と明松の二人だけのようだった。


「遅いぞ坂崎!」


 部屋の前方から亀井の声が飛ぶ。二人は無言で席に着いた。


「何とか言ったらどうなんだ!」


「もういい。時間の無駄だ始めろ」


 多分亀井の上役であろう男が亀井を窘めた。亀井は舌打ちをするとマイクの前で話し始める。


「本日、俺宛に来た荷物の中にこんな物があった」


 そう言って亀井は会場前のスクリーンを指した。それに合わせてプロジェクターの低いモーター音が鳴り、スクリーンに画像が映し出される。俺はそれを見て言葉を失った。


「これは! 坂崎さんこれって!」


「鳥居の野郎……」


 スクリーンに映されたものそれは、無残に切り刻まれ左の手首から先を失った俺の本体との画像と、失った先の物だろう。左手首の拡大された画像だった。俺の中で先ほど見た川本美奈の写真と自分の画像がダブって見える。二人の身体の傷は間違いなく同じ人間の手によるものだ。


「まず、ここに写っている死体は水上に間違いないと言っておく。と言うのは、一緒に送られてきたこの手首の血液だが、先の丸川企画襲撃事件で残されていた水上の血液と完全に一致した。またこの荷物は匿名で届いていたのだが、犯人の送ってきた物でまず間違いないだろう。ちなみにこの荷物には、指紋の類や犯人を特定するものはどこにも残されていなかった。犯人は恐らく襲撃された友部組系の関係者だと思われるが、水上は襲撃事件の報復で殺害されたと思われる。また水上の遺体だが、すでにどこかの山中か海にでも沈められている可能性が高い。よって丸川企画及び友部組系事務所襲撃事件は、被疑者死亡として取り扱うとする」


 亀井は言い終わると会議の中心者と思われる男に目配せをした。


「皆聞いた通りだ。今後の方針として被疑者水上の遺体捜索。それから水上を殺した犯人の捜索にあたってくれ。会議は以上だ。解散!」


 解散の声を聞き皆一様に席を立っていく。


 俺が死んだだと? 全身を針で串刺しにされ頭を撃ち抜いても生きていた俺が? 画像の傷は浅くはないが、不死身の身体を持つ俺の本体を殺すには些か頼りないように思える。俺の本体は間違いなく生きているはずだ。


「坂崎さんどうしたんですか?」


 明松の声に坂崎が座ったままなのに俺は気づいた。


「まずいな……」


「なんです?」


「まずいぞ明松。このままだとこの事件自体がうやむやになって捜査も何となく打ち切りって事になるかも知れない。上は今回の事件を暴力団同士の抗争として、水上の死をもって片づけようとしている。そうなると……」


「そうなるとどうなるんです?」


「鳥居に突っ込む事ができなくなる。水上が生きてりゃ監禁だなんだと言って家宅捜索もできるだろうが、水上が死んだとなるとそれも無理だ」


『おい! 俺は生きているぞ! 本体も死んではいないはずだ!』


「なんで家宅捜索が必要なんですか?」


 明松は俺の声を無視して椅子に座り直しながら訊いた。わかっているから黙っていろという事か。俺は苛立ちながら部屋の中を見回した。会議室に残っているのは坂崎と明松のみだった。


「水上の監禁場所な、今日行った事務所の地下にあるかも知れないんだ」


 俺は鳥居の事務所で見たエレベーターの中を思い出した。エレベーターのボタンは一階から三階までしかなかったはずだ。一階の事務所にも下りの階段はなかった気がする。


「でもあの建物地下なんてなかったですよ?」


「外見上はな。俺は、川本美奈の事件の時監禁していた場所をどうしても見つけたかったんだ。そこに鳥居とあの娘を繋ぐ証拠があると思っていたからな。そこで俺は鳥居の事務所の登記簿を調べた。すると、どうも構造上おかしな空間が、あの事務所の地下にあるような間取りになっているんだ。俺はその空間こそが川本美奈を監禁していた場所ではないかと睨んだ」


「でも、監禁していた場所って遺体の見つかったマンションじゃないんですか?」


 明松は坂崎に訊ねる。確かに先ほど見た資料にはそう書いてあった。


「あそこは違う。事件終了後も詳しく調べたがどうにも腑に落ちない点が多すぎる。例えば賃貸契約を結んだ期間だが、借りたのは犯人の坂口となっているが、その時既に坂口は借金地獄の真っ只中だった。その坂口に新たにマンションを借りる余裕はなかったはずだ。それに近所の住人の中にも坂口の姿を見た事のある者はいなかった。他にも色々あるが、今はその話はいいだろう。とにかく鳥居の事務所の地下にはあるはずのない地下室があるはずなんだ。そこに水上はいるはずだ。幸い事件は終わっていない。水上殺しの犯人を探す名目でもう一度突っ込むぞ」


 坂崎はそう言うと勢い良く立ち上がり会議室を後にする。


「ちょっと坂崎さん! 令状は?」


 明松は坂崎を追いながら声を上げる。


「そんなもん取れるかよ! 行くぞ!」


 坂崎の声は警察署内の廊下に響き渡った。




 左手に感覚が戻ってくる。どうやら麻酔が切れ始めたようで、重い痛みが鼓動に合わせてずきずきと左手首を襲う。今まで傷を負っても薬の力ですぐに元に戻っていたが、体の一部を失ったのは初めてだ。失った左手はどうなるのか。いやそれよりも食糧だ。腹の中に貯めておいた食糧も、既に底をついている。このままでは傷の回復もままならないし何より単純に腹が減った。今までは極度の緊張から忘れていたが、俺は昨日の夜中華料理を口にして以来何も食べていない。加えて今の俺の身体はすこぶる燃費が悪い。


「おい鳥居。何か食べ物をくれないか? 俺は商品なんだろ? このままだと餓死してしまいそうだ」


 ご自慢の拷問器具を鼻歌交じりで手入れしていた鳥居の背中に俺は声をかけた。


 鳥居の手が止まりこちらを振り向く。手入れの手を止めさせたのが気に入らなかったのか鳥居の表情は酷く不機嫌なものだった。


「なあ頼む。腹が減って死にそうだ」


 鳥居は無言で携帯電話を取り出すとどこかに電話をかけ始める。そして誰かに何かを伝えると俺に背を向けまた手入れを始めた。


 再び鳥居の背中に声をかけようと思ったが全てを拒むような鳥居の背中に俺は言葉を飲み込んだ。


 部屋の中に鳥居が機械をいじるかちゃかちゃという音が鳴り響く。気分を害したのか鼻歌は止まっていた。


 どれくらいそうしていただろうか、空腹で目の前が朦朧としてきたころ、鳥居の携帯電話が鳴った。鳥居はそれに短く応えると部屋を出て行った。


 このままでは心臓をくり抜かれるまでもなく空腹で死んでしまう。そんな事を考えていると鳥居が宅配ピザを手に部屋に戻ってきた。


「特別に両手を解放してやろう。言っておくが他の拘束を解こうとしても無駄だからな」


 鳥居はそう言うとポケットから鍵を取り出し手にかかった錠を外した。そしてピザを俺の腹の上に置くとまた背を向け鼻歌交じりで機械をいじり始めた。心なしか鳥居の口調が子供っぽいものに変わっている気がする。いや、子供そのものなのかも知れない。


 友部組長を拷問にかけ始めた鳥居の表情は、遊びに夢中なっている子供そのものだった。その表情は、機械をいじっている今も変わらない。奴にとっては拷問とそれに対する研究開発は、最も夢中になれる遊びであり生きる目的なのだ。


 手の拘束を解かれた俺は、左手が失われた腕を目の前に持ち上げた。鈍かった痛みが、現実を前にした途端に鋭い痛みへと変わる。あるべき場所にあるべき物がない。その事実は身体中からあらゆる意欲を削ぐ働きをした。俺は胃の中に吐く物がないというのに大きく身体をうねらせ嘔吐した。


 口の中に胃酸が広がり激しくむせ返る。腹の上にあったピザが床に落ちてぐちゃりと不快な音を立てた。そして気がつけば鳥居の鼻歌も機械をいじる音も消えていて、部屋の中には、俺の激しい息遣いと咳き込む声だけが響き渡っていた。


「何をしておるんだ貴様は! この俺様が直々に用意してやったピザを粗末にしやがって。それに床を汚すんじゃない!」


 近づいてきた鳥居の姿が一瞬視界から消え再び視界に入ってきた時鳥居は手にピザを持っていた。そしてそのピザを俺の口にねじ込むように押しつけてくる。


 熱さと息苦しさで涙を浮かべながら口の中のピザを慌てて咀嚼する。俺は鳥居の体を押し退けようと手で抗うが、横になった体勢では力が入らない。


 惨めだった。頭を固定され動く事もできず無理矢理にピザを押し込まれる。その屈辱的な行為に反発したくとも身体は食糧を求めていた。そして砂利や埃のついたピザを食べ終えたころ左手首にむず痒さを感じ始めた。


「よく噛んで食えよ。窒息して死んでしまうぞ?」


 鳥居は恍惚の表情を浮かべていた。


「ん? もっと食いたそうだな。よし待っていろ」


 鳥居は携帯電話で更に五枚のピザを頼んだ。そしてそれが届くなり再び俺の口にねじ込んだ。


 屈辱的だが食わねば呼吸が止まる。その思いで必死に食べ続けた。苦しくとも吐きそうになろうとも。そして全てのピザを食べ終わったころには、ピザのソースと自分の体液とで俺の顔はぐちゃぐちゃに汚れていた。


「これはいいな。新しいアイデアが浮かびそうだ。うーんいいぞ。名前をまず決めよう。名前は何がいいか。無理矢理食わせる……フォアグラ? いやそれでは品がない。大食い……大食。大食か。そうか七つの大罪だ。大食と言えばベルゼブブ。……ベルゼブブズグーラというのはどうだ? なあ水上」


 鳥居の目には狂気の色しかなかった。


「止めろ! もうやめてくれ!」


 俺は左手で鳥居を押し退けた。鳥居の顔が驚愕の色に染まる。


「おい。おいおいおいおい。お前その左手……」


 左手?


「なんで?」


 俺は間抜けな声を上げた。俺のなくなったはずの左手は、歪ながらも元に戻りつつあった。


「なんてふざけた身体だお前の身体は。iPS細胞もびっくりするぜ! 一体どうなってるんだ?」


 鳥居は興奮したのかまくし立ててくる。


「iP? なんだそれは?」


「iPS細胞も知らんのか。無学な奴め。簡単に言うとiPS細胞というのは一個の細胞から人間のあらゆる臓器や機関を生み出す事のできる細胞だ。要するにそれが可能であれば人間は自分の細胞から自分の、……例えば心臓などを創り出す事ができるようになる。しかも元が自分の細胞だから移植時に懸念される拒絶反応もない。つまりその研究が進めばカンボジアなどを代表とする世界の貧民国から内臓を抜かれる悲しい子供達が減るという事だ。まあ、俺にとってはその悲しい事実がなくなる事の方が悲しい事なのだがな」


 鳥居は心底悲しそうな顔をした。この男にとって、臓器の違法取り引きがなくなる事が悲しいのか、いたぶる対象が少なくなる事が悲しいのかはわからないが、どちらにしろこの男が反吐の出るような糞虫だという事はわかった。


「糞が……」


 俺は思わず呟いた。


「ん? 本当に糞な事だ。この研究はその汎用性から世界中で盛んに研究されているが、俺からしてみれば本当に糞な研究だよ。そんな所に金をかけず毟り取れる物は毟り取れば良いんだ。くだらん倫理など糞と共に流してしまえばいいんだ」


 この男の狂気の前には何を言っても無駄だ。果てしない悪の前の小さな善など深く暗い洞窟の中のマッチの灯火に等しい。そんな儚い物など一瞬で消えてしまう。


「しかしなぜ今になって手が生えてきた。単純に考えればピザを食わせたからだが。……食物。……異常な治癒能力。……細胞の活性化。即ちそれはテロメラーゼの活性化。しかしそれを癌化させる事なくしかも骨が修復するなどあり得るのか? いや、iPS細胞を体全体で体現しているのであれば或いは……。しかしそれにしてもヘイフリック限界はどうなるのだ。ここまで盛んに細胞分裂が行われればアポトーシスは避けられないはず……」


 俺には鳥居が何を言っているのかさっぱりわからなかった。しかしその言葉から俺の身体の事を考察している事がなんとなくだがわかる。この男は何者なのだ。


「お前は一体何を言っているんだ」


 鳥居は自分の思考の中に入り込んでいるのか俺の問いには応えずぶつぶつと呟き続けている。そして突然弾けたように笑い始めた。


「――まさかおまえ、不老不死なのか? 信じられん。紀元前より求められていた奇跡がお前のような小者に? 笑い話にもならんぞ! いや待て。という事は俺が何をしようと死なないという事なのか? 今何時だ?」


 鳥居は時計を確認し不気味な笑みを浮かべた。


「お前は一体何者だ?」


 俺は再び質問する。


「んん? 俺か? 俺は医者になり損ねた……いや、ならなかっただな。医者にならなかった元エリート医大生だ。言っておくがなれなかったんじゃないぞ。ならなかっただ。俺は人を活かす事に興味がない。死なせないための方法には興味があるがなあ」


 俺は鳥居の後ろにある拷問器具を見る。


「マッドサイエンティストめ」


 鳥居はさも愉快といった風に笑った。俺はこの後自分の身に起こる出来事を想像してひどく憂鬱な気持ちになった。




「一体中に何人いるんすかね?」


 引っ切りなしにやって来る出前を見ながら明松は言った。寿司にピザ、ラーメンに弁当。こうして見ているだけでも既に十人前もの食糧が運びこまれていた。


「あっ。また鳥居ですね。あんな事する割に結構部下思いなんですね鳥居って」


 明松の言う通り先ほどから出前の対応は全て鳥居が行っていた。しかしそれは部下思いからくる行動ではない。大量の食糧の行方。それは多分……。


「そんなわけあるか。あの鳥居がそんな殊勝なたまか。あいつが直接出て来るって事は多分今あいつがあそこに一人でいるって事だ。つまり今がチャンスって事だ。――だがしかし、奴が一人ならあの大量の食い物は一体誰が食うんだ?」


 坂崎は電子煙草をふかしながら考え込むように唸る。


『明松。あれは多分俺に食わせているんだ。俺は傷を治したり全身の意識に神経を集中する時膨大なエネルギーを消費する。もし川本美奈が監禁されていた部屋があの地下にあるのならば俺はそこで』


「まさか拷問に?」


「なんだ急に?」


「水上が地下で拷問に遭っていると」


 坂崎は電子煙草を胸のポケットに直すと「腐れ外道め」と呟いた。


「おい明松。行くぞ!」


「行くってどうやって? あの事務所はオートロックで中からしか鍵が空きませんよ?」


「あれだよあれ」


 坂崎の指す方向には、岡持ちを担いだ蕎麦の出前がフラフラとこちらに近づいて来るところだった。そして言うが早いか坂崎は、蕎麦屋の前に駆け寄り警察手帳を見せながら事情を説明し始めた。


「めちゃくちゃだよあの人。あれでどうするってんだよ」


 明松はなぜか坂崎達の方に近づこうとはしなかった。




「どうだ? 美味いか?」


 鳥居の考えた『大食』の即席拷問器具は最低の物だった。漏斗のような物を仰向けの俺の口に突っ込み、それを固定した物に次々と食べ物を放り込む。そして喉が詰まらぬようにと、悪意という名の善意で、定期的に水を流し込まれる。俺に周りを意識する余裕はない。なぜならそれは、喉が本当に詰まらぬよう喉の辺りの細胞に意識を集中していたからだ。


 無作為且つ不規則に放り込まれる食糧のせいで息を継ぐ事すら困難な状況は、死すら恋しいと思わせるほどに苦しく、俺にはその死すら求める事はできない。まさに地獄の責め苦だった。


 俺は声にならない声で鳥居に救いを求めた。だが鳥居はそれを嘲笑い尚嬉々として行為を続ける。


「おお。そうだ水上。お前アレルギーとかないのか? 例えば蕎麦とか小麦とか」


 俺にはアレルギーなどない。しかし俺は当然の事ながらそれに答える事はできない。ごぼごぼと漏斗の上から俺の吐き出した空気が泡となり弾ける。そして吐き出した空気の代わりに甘いのか辛いのか何がなんだかわからない物体が口の中に溢れる。


「そうかそうか。ようしでは次は蕎麦を取ろうか」


 鳥居が電話をしている間の束の間の休息。だが俺に声を出す余裕はない。死にたいと心から思った。


「お前がアレルギー持ちだといいなあ。ひどい奴だと蕎麦で死ぬらしいぞ? でもお前は死なない。もしアレルギー持ちだとどうなるんだろうなあ」


 鳥居は妙な節をつけて唄うように言った。俺にはもう何も考えられなかった。




「絶対無理ですって! 俺死んじゃいますから! 蕎麦アレルギーナメないでください!」


 明松は蕎麦屋のユニフォームから全力で逃れようとする。そしてそれを無理やり抑え込む坂崎。蕎麦屋は唖然とした顔でその二人を見ていた。


「ちょっと服着るだけだろうが!」


「無理ですよ! ちょっと粉吸い込んだだけで吐きます! って言うか坂崎さんが着ればいいじゃないですか!」


「俺は鳥居に面が割れてんだ! お前はまだあいつと会ってからそんなに経ってない。お前しかいないだろうが!」


 二人はかれこれこうやって五分はやり合っている。いくらなんでも騒ぎすぎだ。仕方がない。できればやりたくなかったんだが。


『すまんな明松』


「え? なんだ水上」


 俺は素早く細胞の形状を変化させ脳の頭頂部より少し前の部分に潜り込む。そして運動を司る部分に刺激を与えた。


「お? 急におとなしくなったな。とうとう観念したか」


 ぎこちなく動く明松に坂崎は蕎麦屋のユニフォームを着せた。


「水上お前! 俺の体に何をした?」


 明松は一声叫び身を捩る。そして激しくむせ込んだ。


『すまない。言っていなかったが俺はお前の身体を少しだけ操れるんだ』


「ふざっ、ふざけるなよ。おま、お前、それは反則だろうが」


 なんだ? 明松の様子がおかしい。俺は慌てて脳と体の反応をつぶさに調べる。シナプスの大地に送られて来る反応。気管の収縮、皮膚の異常、喉の痒み、そして脳の一部分から急速に何かが放出されている。これが蕎麦アレルギーなのか?


 坂崎の「大丈夫か?」という声が聞こえる。


 俺は明松の体に侵入した時の白血球の動きを思い出した。白血球は体に異物が入ると働き始める。では白血球に指示するのはなんだ? 脳か? だとすれば脳から放出される物質が過剰なアレルギーの引金。あれか!


 俺はシナプスの反応を読み取り大量の物質が吐き出されている脳の箇所を見つけた。それから自分の細胞を変化させその脳の部位へと向かう。


 物質は迸るほどに脳の一部から流れ出ていた。俺はその部分を無理矢理に抑え込む。次第に明松のアレルギー反応が収まっていくのがわかる。


『大丈夫か?』


 明松の呼吸が整うのを待ち俺は声をかけた。


「水上。お前俺に何をしたんだ……」


 明松の声は静かだが怒りに満ちていた。


『お前が蕎麦を吸い込んだ後脳の一部分が急激に反応し始めたんだ。だから俺はそれを無理矢理に抑え込んだ』


「お、おい。明松大丈夫か?」


 坂崎が申し訳なさそうに声をかける。


「坂崎さんは後です。――水上。この礼はお前の本体にきっちり返してもらうぞ。坂崎さんも覚えておいてくださいよ」


 明松が坂崎を睨めつけた。坂崎は力なく笑った。明松は事務所の呼鈴を鳴らした。




 酸欠で朦朧とした意識の中、微かに携帯電話の鳴る音が聞こえた気がした。蕎麦が来たのだろうか。鳥居と誰かが話している。だが鳥居がこの部屋を出て行く気配はない。なぜかそのまま話し込んでいる。今のうちにできるだけ食糧を胃の中に流し込んでおかなくては。


 とんでもない量の食糧を詰め込まれた俺の胃は、今や大腸や小腸その他器官を押し退け腹の皮膚が破裂しそうなくらいに膨らんでいた。


 俺は全身の細胞を可能な限り改変し何とか気道を確保する。だが肺とて内臓器官。胃袋に押し退けられて元の半分も機能していなかった。短く浅い呼吸を繰り返し、意識の回復に努める。過呼吸気味の呼吸法は燃費の悪い俺の身体に合っている。


 酸素の助けを借り、体内の食糧を燃焼させていく。全身の感覚が未だ嘗てないほどに鋭くなり、鳥居と電話の向こう側にいる誰かの会話が次第に鮮明に聞こえ始める。


「何しに来たんだ亀井さん。情報はやっただろう? 今忙しいんだ。明日にしてくれ」


『何しにじゃねえよ。あんな気持ちの悪いもん送ってきやがってどういうつもりだ。俺とお前の繋がりはできる限り隠しとかなきゃならねえってのによ』


 電話の相手はどうやら亀井のようだ。


「そんな物今までだって何度も送ってきただろう? なんで今回に限って……」


『なんでもいい。今すぐここを開けろ。それに渡したい物もある』


 亀井の後ろに誰かがいる。なぜか唐突にそう思った。微かな声の震え、そして亀井の物とは違う誰かの息遣い。感覚を限界にまで鋭くしていなかったら聴き逃していた。それほどまでに微かな違和感。それを亀井は鳥居に告げていない。


 この状況に近い状況を俺は最近体験している。それは丸川企画のマンションのエントランスでの事だ。俺は自分の存在をできるだけ消そうと息を潜めた。柴原を脅し中に立ち入ろうとする時似たような息遣いをしていた。結局俺は身分を明かさなければならなくなったが状況は似ている。それが指し示すものとは。――誰かが亀井を脅し中に入ろうとしている? だが、それが誰なのか俺には想像もつかなかった。


「渡したい物ってなんだよ?」


『水上の死亡診断書だよ。移植時に要るんだろ?』


 亀井の後ろにいる誰かの呼吸音が僅かに乱れる。鳥居はそれに気づかない。当然だろう。それは常人の耳には聞こえるはずもない微かな変化。


「正面に回れよ」


 鳥居は舌打ちをすると不機嫌さを隠そうともせずに言った。


『正面は駄目だ。坂崎と新人が何やらバタバタやってて見つかっちまう』


 鳥居は悪態を吐くと電話を切り、大きな黒い布を俺と友部組長の死体の上にかけた。


 布は遮光カーテンのような材質で俺の視界は闇に閉ざされる。しかし視界が閉ざされた事で他の器官がさらに敏感になっていく。


 鳥居の足音は俺のいるベッドの頭側、つまり友部組長が拘束されていた電気椅子の方に向かって歩いて行く。そして立ち止まると何かを操作する電子音が鳴る。


「書類を渡したらさっさと帰ってくれよ」


 鳥居のぶっきらぼうな声に、インターフォンなのだろうノイズ混じりの声で「ああわかった」と返事がある。そして鳥居はインターフォンを切ると、そのままそこから出て行った。どうやら先ほどまで使っていた入り口とは別の入り口が、そこにはあるらしい。


 俺はインターフォンでの短い遣り取りを思い出す。ノイズの向こうにはやはり亀井とは別の誰かの息遣いを感じた気がする。亀井を脅しこの建物に入りたい理由。それは何なのか。少なくとも俺の敵でない事は確かだ。


「いきなりどうしたっていうんだ亀井さん。……なんでお前が」


 感覚が鋭くなったからだろうか、防音を施しているはずのこの部屋にいても微かに鳥居の声が聞こえて来る。


「動くなよ。動くと亀井もお前も撃つからな。それと両手を見えるところに出しておけ。ここに武雄はいるんだろう? あいつが死ぬはずはないからな」


 この声は、……斎藤?


「鳥居。頼むそこをどいてくれ」


 亀井の声は震えていた。


「こちらを向いたまま後ろ歩きで奥へいけ鳥居。そうだ。――まさかこんな仕掛けになってるなんてな。よし扉を開けろ」


 空気が抜ける音が聞こえ、三人の気配が濃ゆくなる。


「うはっ、なんだこりゃ。変態にもほどがあるぞ鳥居」


 斎藤は素っ頓狂な声を上げた。それに対して鳥居の歯噛みする音が聞こえる。やはり声の主は斎藤だったのだ。しかしなぜ斎藤がここに来るんだ。まさか俺の事を助けに? いや、斎藤は俺の事を見捨てたはずだ。始めから見捨てるつもりで俺をこの仕事に送り込んだはずだ。それは俺を殺そうとした事からも間違いないはず。それに俺も斎藤を裏切った。斎藤が俺を助ける理由はない。


「武雄! ここにいるのか?」


 しかし斎藤はここにいる。そしてその声は、俺がピンチの時に何度も聞いたあの頼るべき斎藤の声だった。


 俺はくぐもった声で「斎藤さん!」と叫んだ。斎藤の耳にどう聞こえているかはわからないが、今の状況であればそれで十分だった。


「ここか。おい鳥居それを取れ!」


 斎藤の声と共に黒い幕が剥ぎ取られる。瞳孔が収縮し俺の視界は真っ白に染まった。


「ひでえ……」


 次第に視界は像を結び始め、そこには不貞腐れた顔の鳥居と唖然とした顔の斎藤と亀井がいた。


 俺は呻き声を上げた。


「鳥居! 武雄からこの気味の悪い物を外せ!」


 斎藤は鳥居に拳銃を突きつけながら指示する。俺をベッドに縛りつけていた拘束具が一つずつ外されていき、俺は久し振りに自由を手に入れた。


「斎藤さん。なんで?」


「話は後だ。それより起きられるか?」


 斎藤は俺の背中に手を回し起こすのを手伝おうとする。大丈夫です。そう言おうとした俺の目に光る物が見えた。鳥居だった。鳥居の手には俺をいたぶったアイスピックが握られていた。


「斎藤さん!」


 俺の叫び声に斎藤は身を翻す。しかし振り下ろされたアイスピックは斎藤の脇腹に深く突き刺さる。


 斎藤は呻き声を上げると拳銃を取り落とす。それを素早く亀井が拾い構えた。その瞬間鳥居の高笑いが響き渡った。


「残念だったな! 斎藤!」


 床に蹲る斎藤の脇腹からは血が流ていた。アイスピックの傷にしては出血がひどい気がする。俺の中に激情の焔が燃え上がり自分の周りの時間がゆっくり流れ始める。


「鳥居」


 俺は呟いた。鳥居は尚も嗤っている。お前の声は耳障りだ。そう思った次の瞬間には体が動いていた。


 亀井の持つ拳銃が火を吹いた。俺は肩に痛みを感じたがそれを無視した。そして鳥居の喉に目がけて腕を伸ばした。


 鳥居の嗤い声を握り潰した俺は、そのまま身を翻し亀井に飛びかかる。亀井の拳銃が三度咆哮を上げた。俺の身体は衝撃で後ろに吹き飛び、ベッドから仰向けに転がり落ちた。肩に加え腹部胸部左目に熱い痛みを感じる。


「やったか!」


 亀井の喜ぶ声。吹き飛ばされる瞬間に見た亀井の持つ拳銃は黒星だった。弾はあと二発。あと多くとも二回痛みに堪えれば……。


 俺は鳥居から与えられた食糧エネルギーを全て治癒に回す。ぼやけた視界はすぐに戻り、他の部位の痛みもすぐに収まった。しかし俺はすぐには動かなかった。亀井は俺を殺したと思っている。動くならばもっと引きつけてからだ。


「何が不老不死だ! そんな物まやかしだ馬鹿が!」


 そういいながらも亀井は恐る恐る近づいて来る。俺の全身には滾るほどの力が漲っていた。


 もうあと一歩。あと一歩だけ近づいて来い。胸の中でそう呟いたその時、部屋の中に間抜けなチャイムが鳴り響いた。


「誰だ? 坂崎か?」


 亀井の気が逸れる。俺は全身の細胞をバネのようにしならせ亀井に飛びかかった。おおよそ人間の動きではなかっただろう。仰向けに転がっていた人間が踵を起点に瞬時に起き上がるのだ。人間の身体はそのような動きを執るようにはできていない。


「化け物!」


 亀井の声と共に黒星から最後の咆哮が聞こえる。


 そうだ。俺は化け物だ。化け物に拳銃の弾は効かない。


 俺の身体は亀井の身体を吹き飛ばし二人して床に転がった。俺はすぐさま亀井の首に腕を巻きつける。そしてそのまま亀井が動かなくなるまで固く締めつけた。技の名前は知らないが亀井を落としたその技は、皮肉にも鳥居が俺に仕掛けた技だった。




 これは、銃声? 俺は音に意識を向けた。


「――おかしいな。返事がないぞ」


 明松は遠巻きに見ている坂崎を心配そうに見た。坂崎は蕎麦屋と共に様子を見ている。


 まただ。始めに一発次に三発そして今二発の銃声。間違いない。真近で何度も聞いた音、黒星の銃声だ。明松には聞こえなかっただろう。全神経を音に集中して始めて聞こえるほどの微かな音。しかしその音はこの建物から聞こえたのではない。どこだ。どこから聞こえた?


「すみませーん。――遊楽庵ですけど、蕎麦をお持ちしましたー」


 明松はユニフォームにプリントしてある屋号を見て言った。


『明松。今銃声が聞こえたぞ』


「なんだって! 本当か?」


 明松はそう言って耳を澄ませるそぶりを見せた。


 せめてもう一度聞こえれば。そう考えたところで黒星は六発しか弾を撃てない事に気がついた。もし六発で蹴りがついたなら? もし拳銃が一丁しかなかったなら? 銃声はもう聞こえない。


 多分その両方ではないか。俺はそう考えた。それを証拠に銃声はもう聞こえない。


 中で一体何が起きている。俺の本体が監禁されているのならば、銃を撃つ事はできないはずだ。ならば鳥居が撃ったと考える事が自然だ。動かない俺に向けて試し打ちか? しかも俺の本体は死なない。食糧もたらふく食べているはずだ。怪我もすぐに治癒する事だろう。今俺の本体は格好のモルモットだ。拳銃の試し撃ちは拷問の一環としては悪くないだろう。鳥居の存在に改めて俺は反吐が出そうな思いになった。


「坂崎さん!」


「馬鹿野郎! 俺の名前を呼ぶんじゃない!」


 坂崎は声を潜めてはいるが強い語調で言った。


「でも水上が、銃声が聞こえたと」


「なんだと? 本当か?」


 坂崎は言いながら駆け寄って来る。それになぜか蕎麦屋も従う。


「水上確かなんだな?」


『間違いない。確かに聞こえた。ただ、この建物からではなかったかも知れない』


「坂崎さん間違いないそうです。ただこの建物から聞こえたかが定かではないようですが」


 蕎麦屋が明松を不思議そうな目で見ている。無理もない。知らない者が見れば、頭のおかしい奴に見えるだろう。


「そうか。ならば仕方がないな。こんな事はしたくはないんだが」


 坂崎はおもむろに拳銃を取り出すとドアの把手に銃口を向けた。


「ちょっと坂崎さん! 銃声はここじゃないかも知れないんですよ?」


「そんな悠長な事を言っている場合か! 中で人が傷ついているかも知れないんだぞ! ――ささ、君離れて」


 坂崎は蕎麦屋を遠ざける。坂崎の顔を見るとその言葉とは裏腹に口元が綻んでいた。突入できる大義名分ができた、今嬉しくて仕方がないといった顔だ。そして少し控えめで乾いた破裂音がした後、事務所の扉は細く開いた。




 動かなくなった亀井の胸を見ると僅かに上下している。どうやら死んではいないようだ。そして非常に残念だが、鳥居も同様に死んでいない。止めを刺しておきたいが斎藤の処置が先だ。


「斎藤さん! 大丈夫ですか!」


 斎藤に駆け寄ると斎藤は苦笑いを浮かべた。


「大した事はねえ。それよりお前の方こそ……。何ともないのか?」


 斎藤はアイスピックを抜き取り床に放り投げると俺の傷を見ながら言った。アイスピックの刺さっていた箇所から血が溢れる。


「斎藤さん! やっぱりその傷……」


「大丈夫だ。それより武雄。本当お前わけのわかんねえ体になっちまったもんだな」


 斎藤は俺の言葉を遮り言った。斎藤の性格からしてこれ以上傷の事に触れない方が良さそうだ。それよりも早く病院へ行かなくては。


「そんな事より早くここ出て病院行きましょう!」


 斎藤は少し黙り込んだ後、「まずはこいつらを片づけてからだ」と言って立ち上がった。斎藤の脇腹から血が溢れ斎藤はベッドに手をついた。


「どうするか言ってください。俺がやりますから!」


 斎藤は少し笑った。


「……情けねえなあ。こんな針っころ一本でよ」


 斎藤は苦しそうな表情をできるだけ隠す表情で口を開く。


「――じゃあ亀井をこのベッドに、鳥居は……そこに放り込むか。鳥には丁度いいだろ」


 斎藤の指した先には友部組長を切り裂いたあの鳥籠のような拷問器具があった。




「これどうしますか? スイッチ入れますか?」


 鳥籠の中で蹲っている鳥居を見ながら俺は斎藤に訊いた。


「スイッチ入れたらどうなるんだ?」


「そこの黒い布を捲って見てください」


 俺は友部組長を覆う布を指して言った。斎藤は脇腹を庇うようにしゃがむと黒い布を剥ぎ取った。


「うっ。ひでえ……って、これはお前友部組の組長じゃねえか!」


 黒い布の下から現れた血塗れの友部組長を見て斎藤は口を抑えた。


「そうです。鳥居がこの鳥籠に入れてそんなにしたんです」


「まじかよ……。こいつは自分の親も同然の人間にこんな事をしたのか。信じられねえ。鳥居は狂っていやがる」


 鳥居の事を侮蔑の籠った目で見ながら斎藤は言った。


「どうします。スイッチ入れますか?」


 俺は「ON」と刻まれた赤色のボタンに指を添える。


 この鳥籠を模した拷問器具は、ボタンを押した途端に内部に向かって鋭い刃物が不規則に飛び出す仕組みになっている。そして対象者を傷つける。中にいる対象者はその刃物から逃れるために狭い鳥籠の中で身を捩りながら逃げ惑うのだ。


「いや、辞めとこう。俺はこいつみたいなゴミになりたくはない」


 俺は斎藤の出した答えに少し不満を抱いた。こんなゴミのような男殺したって構わないではないかと。しかし俺は結局斎藤に従った。


 恐らく今この建物の中に鳥居以外の人間はいない。それはなぜか。多分友部組長を殺すところを万が一にも手下などに見られる事を恐れたからだろう。


 何よりも仁義を尊ぶ極道に於いて、ある意味親よりも敬わなければならない存在を手にかけるという事は、万死に値する。間もなく鳥居は、自分の手下か誰かに見つかる事だろう。そうなれば鳥居の人生は終わったも同然だ。もし鳥居がやっていないと言い張っても、あらゆる状況が犯人は鳥居だと示している。鳥居に逃げ場はない。


「武雄行くぞ! 脇腹が痛くて仕方がねえ。ここを出てすぐの場所に車を停めてある。ヤブ医者に連れて行ってくれよ」


 なぜ斎藤が俺を助けに来たのか訊きたいところだが、まずはここを出る事が先決だと斎藤が入って来た扉を潜る。扉を抜けるとそこは倉庫のような部屋で、その部屋から外に出るとそこは鳥居のいた事務所のすぐ裏の建物に繋がっていた。


「こんなところに……」


「あそこに車を停めてある」


 斎藤の示す先を見るとコインパーキングに見覚えのある黒のクラウンが停まっていた。一度加奈を会社に送った事のある車だ。胸の中にずきりと鋭い痛みが走る。


 今は感傷に浸っている場合ではない。俺は車に乗り込みその場を後にした。




 坂崎と明松は銃を構え事務所内に恐る恐る入って行く。


「誰かいるかも知れん。慎重に行けよ」


 坂崎は声を潜めて言った。


 事務所の入り口を見ると蕎麦屋がこちらを覗いていた。顔には心配そうな表情を浮かべている。そして消え入りそうな声で「お代……」と呟いた。どうやら坂崎と明松の事ではなく金の心配だったようだ。


「後で俺が払ってやるよ」


 坂崎はそう言うと一階の事務所内に立ち入る。どうやら本当に誰もいないらしい。


「明松。階段の辺りを調べてみるぞ」


 言うが早いか坂崎は階段の方へと歩き出す。


「待ってくださいよ」


 慌てて明松も後を追った。


 階段の周りには特に怪しい場所も見当たらず、隠し扉や隠し階段などどう探してみても見つからなかった。


「階段ではないのか……。ならエレベーターか?」


 坂崎はそう呟きエレベーターのボタンを押した。

 チンという無機質な音と共に籠の扉が開く。二人は中に入るとボタンの辺りを中心に調べ始める。しかしエレベーターのボタンには『1』『2』『3』『開』『閉』と『非常』と刻まれた赤いボタンしかなかった。


「もしかすると三階から直接地下に行ける隠し通路か何かあるのかも知れんな」


 坂崎はそう言うと三階のボタンを押した。しかし三階を隈なく調べたところで隠し通路も隠し階段も存在しなかった。


「坂崎さん。本当に地下室なんかあるんですか?」


 中腰で部屋の壁を調べていた明松は、不満そうにぼやく。


「必ずあるはずなんだ! もっと良く探せ!」


 坂崎は怒鳴るように言った。


「探してますよ。でも俺思ったんですけどこれ見つからなかったら問題じゃないですか?」


 明松は事務机の下を探っていたがその仕草には最早始めほどの真剣さは感じられない。


「そうならないためにも今探してるんだろうが!」


 坂崎の声に焦りが伺える。それも当然だろう。拳銃を使い無理矢理事務所に立ち入った挙句何もなかったでは済まされない。しかも二人には令状も何もないと来ている。もし坂崎の言う地下室が見つからなければ坂崎にも明松にも相当な処分が下されるだろう。不法侵入に器物破損加えて拳銃の使用。門外漢の俺にでも今の状況のまずさはわかる。


「もういい! もう一度一階を探すぞ!」


 坂崎は勢い良く立ち上がるとエレベーターのボタンを押した。


「待ってくださいよ!」


 明松が滑り込むようにエレベーターの籠に乗り込むと音もなく扉は閉まった。


 籠の中は嫌な空気の沈黙が満ちていた。すぐに着くはずの一階がやけに遠い。


「遅いな」


 沈黙に耐え兼ねたのか坂崎が声を上げる。確かに遅い。俺はそう思い階数のボタンを見た。そして悟った。遅いはずだと。なぜなら行き先のボタンが押されていなかったのだ。


『おい明松。坂崎は大分動転しているぞ。エレベーターのボタンが押されていない』


「え? あっ」


「どうした?」


 急に声を上げた明松を坂崎は振り向く。


「いや、あの、このエレベーターってよく故障するんですかね?」


 明松なりの優しさなのだろう。俺はそう思った。


「なぜそう思う」


「いや。だって普通非常ボタンって簡単に押せないようにプラスチックのカバーつけてあるじゃないですか? でも、このエレベーターの非常ボタンはカバーがないじゃないですか。だからよく押すのかなと……」


 そこまで優しさを引っ張る事はないだろう。わざとらしすぎる。と俺は思った。しかし坂崎の反応は違った。


「明松それだ! よく気がついた!」


 坂崎は声を上げると躊躇なく非常ボタンを押した。非常ベルが鳴る。そう思った時籠は下に向かって動き始めた。非常ボタンを見ると確かにプラスチックのカバーを取りつけていた跡はあるのにカバーは取り外されていた。それはすなわち、頻繁に押す必要があるから……。


 エレベーターは僅かな衝撃を残して止まった。音もなく開いた扉の向こう側には重々しそうな扉があり、明らかに一階の風景とは異なる空間があった。


「でかしたぞ明松!」


 坂崎は激しく明松の背中を叩きながら拳銃を構え籠を出る。明松もそれに続き、咳き込みながら籠を出た。


 扉の把手に手をかけた坂崎は鍵がかかっていない事を確認すると、「いいか? 一二の三で開けるからお前から飛び込め。俺は援護する」


「ちょっと待ってくださいよ! 俺が先っすか?」


 二人とも声を潜めてはいるがその遣り取りを見ていた俺は、中に二人の声が聞こえていないか不安なった。念のために俺は扉の向こうに意識を向けた。しかし誰もいないのかこの部屋にも防音が施されているのはわからないが何の気配も感じられなかった。


「そうだ。行くぞ! 一二の」


「ちょっと……」


「三!」


 扉が勢い良く開き明松がもつれる足取りで中に雪崩れ込む。


「警察だ! 動くな! ……なんだこりゃあ」


 続けて入って来た坂崎が、素っ頓狂な声を上げた。そして構えていた拳銃を下ろす。


 そこには鳥籠のような物の中に、気を失っているのか目を瞑っている鳥居と、食べ物の残骸で汚れたベッドの上に眠るように横たわり拘束されている亀井がいた。そしてそのベッドの傍には見知らぬ男が血塗れで倒れていた。


「これは……友部組の組長じゃないか!」


 坂崎は倒れている男に近づくと脈を取りながら言った。


「駄目だ、死んでる。明松! 鳥居はどうだ生きているか? それと応援を呼べ! おい亀井起きろ! ここで一体何があった!」


 坂崎が亀井の頬を張ると寝ぼけた声を上げながら亀井は目覚める。明松は携帯電話を取り出し応援を呼んだ。それらの事象を眺めながら俺は本体の事を考えていた。


 俺の本体はここにはいなかったのか。そう考えた時唐突にイメージが流れ込んで来る。それは鳥居が俺の本体をアイスピックでいたぶる場面から始まり、暗殺計画の全貌とその裏に隠された反吐の出るような真実が明かされる場面に続いた。それから拷問を受けている俺を斎藤が助けに来て、鳥居と亀井を俺が倒した後二人でこの部屋から出て行く場面で終わった。


 やはり俺はここにいたのだ。そしてなぜか俺を殺そうとした斎藤が助けに来た。なぜなんだ。


『おい明松!』


「坂崎さんこれ!」


 俺の声は明松の声にかき消される。


『明松聞いてくれ!』


「うるさいぞ水上。今は構っている暇はないんだ! 坂崎さんこれ見てください!」


 明松は、わけのわからない器具の中にひっそりと置かれていた事務机の前に立ち、その上にあるファイルをめくっていた。そこにはここにある器具がどのように使われるのか使えばどうなるのかが写真つきで解説されていた。そしてその中に、段階を追って悲惨な状況に変わっていく川本美奈の写真もあった。


「酷い……」


 明松の口から言葉が吐いて出る。


「これで鳥居も亀井も終わりだな」


 坂崎は明松の後ろで呟くように言った。ただその声には一切の感情が感じられなかった。


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