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狭間堂ー時知らずー  作者: かつを
11/15

狂気

 ※狂気


「なんだ?」


 鳥居は携帯電話に向かって応える。そして苛立たしげに受け応えした後「坂崎の野郎。話の腰を折りやがって」と少し声を荒げた。


「少し用事ができた。すぐに戻るが暴れるんじゃないぞ。まあ暴れたところで無駄な事だがな」


 鳥居はそう言うと部屋を出て行く。ベッドの上からでは見えないが、重い扉の閉まる音と鍵のかかる金属音が聞こえる。俺は丸川企画の扉の閉まる音を思い出した。どうやらこの部屋にも防音加工が施されているようだ。扉が閉まった途端に押し潰されそうな静寂が訪れる。


「それにしても悪趣味な部屋だ」


 少しでもいい音が欲しい。そう思った俺は無意味に声を発する。しかしその声も部屋の中にある不気味な器具の数々に吸い込まれるようにして消えていった。


 俺は鳥居の言った事を反芻して考える。今回の事は全てが鳥居の計画だった。その事を聞いて納得いかなかった幾つかの事がすんなりと胸の中に落ちていった。


 杜撰な割に回りくどい斎藤の計画。車に電話をかけてきた男が斎藤の事を知らなかった理由。俺の行動が全て鳥居に筒抜けだった事。その全ては俺の心臓を南嶋組長に提供するための伏線だったのだ。


 考えがまとまると、部屋の中の静けさが急に気になり始める。意図せず全身の細胞が敏感になっていき、自分の身体から発せられる音が大きくなっていく。肺から漏れる呼吸音。心臓が脈打つ音。全身の筋肉が収縮する音。人の呻くような音。


 呻き声? 俺は声を発していないぞ? どういう事だ。


 俺は先ほど耳に届いた呻き声だけに意識を集中させその声の発信源を探った。


「……りい」


 りい? 確かに聞こえた。男の声だ。俺のいるベッドからはそれほど離れてはいない。俺の他に誰かこの部屋にいるのか?


「誰かいるのか?」


 俺は目を閉じすぐさま意識を集中した。時間が凝縮されていくのがわかる。俺の声が部屋の壁や器具などに跳ね返り体中の細胞にぶつかる。音が帰ってくる僅かな時間差は、部屋の構造や形を克明に教えてくれた。


 いる……。俺のいるベッドの頭側。椅子のようなものに誰かが座っている。その方向に意識を向けると僅かな呼吸音からその人間が生きている事がわかる。


「鳥居……。お前か? ……なんだこれは。なぜこんな物にわしは縛られている」


 その声はかなり弱々しくかすれ具合から俺よりは随分年上のように感じた。


 俺は頭を動かし頭上をみようとしたが固定されていて動かない。そこで頭頂部に意識を集中させ、『後ろの目』で様子を伺う。そこには朦朧とした表情をした初老の男がいて、おかしな形の椅子に縛りつけられていた。


 椅子は映画でよく見るような電気を使う拷問器具を思わせる。


「鳥居は用事があるとか言って出て行ったよ。あんた誰だ?」


「……わしか。わしは友部組の組長、友部靖治だ。お前は誰だ」


 友部組組長だと? 鳥居の計画では俺が当初殺すはずだった男だ。


「俺は水上だ。俺の事なんてあんたは知らないだろう? ――しかし友部組の組長さんがなんでこんな所にいる? しかもそんな椅子に縛りつけられて。鳥居はあんたの手下じゃないのか?」


「なぜかだと? そんなものは知らん! 鳥居の奴に連れて来られたんだ。命を狙われているから安全な場所へとか何とか言われてな。そしていつの間にかわしは眠ってしまった……。だが起きてみればなんだこの部屋は! ここは変態小屋か? 得体の知れん道具が山ほどある」


 友部の声には怒気が含まれている。当然だろう。信頼していたはずの配下から突然こんな気味の悪い部屋に連れて来られ、挙句わけのわからない器具に拘束されている。これで怒らない人間がいたらそれは変態だ。


「誰があんたの命を狙ってるんだ?」


「ああ? 大方柳川会だろう。昨日鉄砲玉が突っ込んで来やがったっていう話だからな」


 友部は自分の命が本当は鳥居に狙われているという事を知らないようだ。俺と鳥居の会話を眠っていて聞いていなかったのだろう。まあ起きていたとしてもあの椅子に縛られていたのでは騒がしいだけで影響はなかっただろうが。


 それにしても獅子身中の虫に気づけなかったこの男にも非はあるかも知れないが、自分が世話になった組長を殺そうとするとは。


 俺は改めて鳥居は極道者ではないのだと思う。奴にとって極道は自らの目的を達成するためだけの道具に過ぎないのだ。言わば鳥居にとっての極道とは邪道なのだ。


 嘗て自分が目指して来た極道の世界。それを邪道として扱う鳥居に少し嫌悪感を覚える。


 その時鍵の開く音が聞こえた。そして重い扉が開かれこの部屋に吸い込まれる鋭い空気の音が聞こえる。この部屋は気密性も高いようだ。


「おや組長。お目覚めでしたか」


 鳥居は笑みを浮かべていた。そしてその笑みが、俺や友部組長にとって良くないものである事が俺にはわかる。なぜならその笑みには狂気の色が見て取れたからだ。


「鳥居! これはどういう事だ! 説明しろ!」


 友部組長が怒鳴る。だが鳥居はそれを無視してそのまま表情を変えずに俺に近づいてくる。


「さてと。話が途中だったな水上。お前はな……」


「おい鳥居! 聞いているのか!」


 鳥居の声を遮る友部組長の声に鳥居は舌打ちをして返した。


「なんですか組長。今水上と話しているんですよ。あんたの相手は後でしてあげますからちょっと黙っててください」


「その口の利き方はなんだ! 誰のおかげでお前がここまでに成れたと思っている!」


 鳥居の表情が曇り不機嫌さを隠そうともせずに友部組長の元に歩いて行く。


「組長。私は前に話の腰を折られるのが嫌いだと言ったでしょう」


 鳥居はそう言うと椅子の後ろに回り込み何かを操作し始める。友部組長はそれを見ながら相変わらず鳥居に罵声を浴びせ続けていた。


 俺はその罵声の中にカチリと音が鳴るのを聞いた。何かのスイッチを入れる音。この状況に於いてあまりにも不吉な音。


 続いて機械が唸る低い音が鳴り始める。その音を聞いて昔金持ちのクラスメイトから家に招かれた時の事を思い出した。


 そのクラスメイトは「この真空管アンプが温もりのある音を奏でるんだぜ」と言って、いかにも高そうな黒く光る機械のスイッチを入れた。途端に機械はオレンジ色の光を放ち、低く唸るような腹に響く音を立て始めた。静かにそれでいて圧倒的な質量を持った電流の流れる音。


 その機械を通して流れる名も知らぬクラシックは、俺の耳に忘れる事のできない旋律を残した。だが今から俺が聞くのは多分音楽ではない。これもまた忘れる事ができない音になるだろう。


 怖気を掻き立てる想像で全身から嫌な汗が滲み出る。そして友部組長の罵声が絶叫へと変わった。


 低いモーター音を立てるコンデンサは、鳥居の悪意を何倍にも増幅させ友部組長の筋肉という筋肉を張り詰めさせる。友部組長は弓のように全身を仰け反らせた。俺はその反応を見てあまりの異常さに意識を逸らせる。


「やめろ! これ以上続けると死んでしまうぞ!」


 殺そうとしている人間にかける言葉ではなかったかも知れないが、それでも鳥居はスイッチを切ったのだろう。友部組長の絶叫が止み罵倒だった言葉は懇願の声に変わっていた。しかし鳥居は殺すのを辞めたわけではなかった。


「死んでしまう? それは困る。お前の身体で遊びすぎて普通の人間の構造を忘れていたよ」


 俺の身体で遊ぶ? 鳥居は何を言っている。まさか俺が眠っている間に身体に何かをしたのか?


 得体の知れない恐怖に身が竦むのを感じる。俺は全身の神経に意識を巡らせた。すると左手の先の感覚がおかしい。まるで麻酔でもかけられているかのようなぼんやりとした感覚。左手を俺は見ようとしたが頭が動かず上手くいかない。他の細胞で視ようとするが衣類が邪魔で視る事ができない。鳥居は俺の左手に一体何をしたのだ。


 鳥居は鼻歌を唄いながらなおも懇願を続ける友部組長を引き摺り鳥籠のような置物の中に入れた。


「今日は懐かしい来客があってな。坂崎という刑事なんだが。少し昔を思い出してしまった。楽しい思い出だ。だからその思い出に沿うとしよう。ただ残念な事にその相手が老いぼれた男とは。本当ならその時のように若い女がいいのだが……」


 鳥居はわけのわからない事を言いながら鳥籠の鍵をかける。中では力なくうなだれた友部組長が「辞めてくれ」「助けてくれ」と繰り返していた。


 それから鳥居が行った悪魔の所業は見るに耐えない残酷な光景で、俺は目を閉じ全身の細胞に宿る視覚の意識に蓋をした。


 部屋の中には鳥居の鼻歌と友部組長の絶叫だけが鳴り響いていた。


「なんだ。思い出の半分も持たなかったな。ヤクザの親分さんも所詮人の子か。――死なない人間でもいればなあ……」


 鳥居が意味ありげな台詞を吐きこちらに視線を送ってくる。その目は狂気の色で鈍く光っていた。鳥居の足元には変わり果てた友部組長の死体が転がっている。


 この男は狂っている。全身から滲み出る汗が止まらない。俺は死なずとも痛みは感じる。今見た光景が自分の身に降りかかると思っただけで、気が狂いそうになる。それならいっそ死んでしまいたい。俺はそう本気で思った。


「解体屋を一日延長しておいて良かったよ。――ん? どうした怯えた目をして」


 鳥居は俺を見て愉快そうに言った。俺は唾を飲み込んで声を出そうとしたが上手く声が出なかった。


「心配するなよ。お前は商品だ。まだ手は出さん。うっかり殺してしまったらいかんからなあ」


 そうは言いながらも鳥居は物欲しそうな目で俺の体を見ていた。鳥居の見ている体の部分に怖気が走る。しかし俺はどうする事もできなかった。


「さてと。やっと落ち着いて話ができるな。どこまで話したか。そうだ手間の話だったな。ここまで来たら勿体ぶらずに言うぞ。お前は死んだ」


 鳥居の言葉の意味がさっぱり理解できなかった。俺が死んだとはどういう意味なのだ。俺はここにいる。


「おや? 納得がいかないという顔をしているな。まあそうだろうな。頭の悪いお前のために少し説明をしてやろう。俺には懇意にしている刑事がいてな。亀井と言うんだが。そいつから今朝連絡があったんだ」


 亀井。聞いた事がある。確か斎藤が噛みつき亀とか呼んでいた男だ。


「お前自分で自分の頭撃ち抜いたんだって? 本当なら死んでいないとおかしいそうじゃないか。全く何てでたらめな身体だ」


 鳥居はさも愉快という風に笑った。


「俺はそれを聞いて思いついたんだ。本当なら死んでいるはずの男なら本当に殺してしまえばいいってな。そこで俺はお前の身体を到底生きていられない状態に切り刻んで記念撮影をしたんだ。そしてその写真とお前の身体の一部をその刑事宛に送ってやったとまあそういうわけだからお前は死んだ事になった。いや、まだ死んではいないがじきに死んだ事になったと連絡が入るはずだ。というわけで水上武雄と言う名の人間はもうこの世にはいないんだ。だから日本で手術しようがどこで手術しようが構わんという事だ。死んだ人間に人権も糞もないからな」


 鳥居は言い終わると愉快そうに笑った。


 身体の一部だと? 麻痺した左手にじんわりと痛みを感じる気がする。


「まさか、俺の左手を切り取ったのか?」


「麻酔をかけてやったから痛くはなかったろう?」


 俺は大声で鳥居を罵ったが鳥居は笑っているだけだった。




「くそったれが!」


 坂崎は事務所を出るなり悪態を吐きながら煙草を取り出す。それは電子煙草ではなかった。


「坂崎さん」


「なんだ。条令なんざくそくらえだ」


 明松の言葉に坂崎は乱暴に返す。


「いや違います。その事はいいです。あの、水上が……」


 明松が言い淀むと坂崎は「続けろ」と少し落ち着いたのか穏やかに言った。


「水上が鳥居は嘘を吐いていると」


 明松は坂崎の顔色を見ながら、恐る恐る言った。


「そんな事はわかってるさ。あいつの口から出るのは嘘と欺瞞だけだ」


 坂崎の声には険しさがあった。


「あの、鳥居と何かあったんですか?」


 明松の遠慮がちな声に、坂崎は苦い物でも口にしたような顔をすると「一旦署に戻るぞ」と応えた。




 無機質なアルミの扉の上には資料室と書かれた白いプラスチックのプレートがかかっている。その扉を開けると中には天井近くにまで達したスチール製の棚が何列も並んでいて、坂崎は迷う事なくその中の一列に近づき一冊のファイルを取り出した。その一連の所作には迷いもなければ躊躇いもなく、坂崎がその動作を何度も繰り返している事が伺える。


「それは?」


 坂崎はファイルの一項を開き明松にページを見せる事でその問いに答えた。


 そこにはあどけない笑顔をこちらに向けた少女の写真が挟み込まれてあり、その下には事件の概要が書かれている文章と、その上に解決を示す朱色の判が押してあった。概要によると、どうやら写真に写っている少女が被害者のようだ。


 明松はページを一枚めくる。そして俺の目に飛び込んできたものは一枚の残酷な写真だった。それは前のページで見た少女が病的に痩せ細り、目を背けたくなるような姿に変わり果てた写真だった。


「酷い……」


 明松が呟くが坂崎が何も言わないので、明松はそのまま顔をしかめながらページを捲っていく。


 その事件は四年前の夏に起こっていた。事件の被害者は川本美奈。当時十七歳だったとある。事件の詳細を読んでいくと、品川にあるマンションの一室でその少女は死体で見つかったのだとある。発見の経緯は隣人から異臭がすると警察に通報があったがきっかけだ。


 死体発見時少女の全身には酷い打撲の痕と暴行の痕があったとある。またその後の司法解剖等の調べにより、川本美奈は死後二日ほど経っていた事もわかった。


 当時季節が夏だった事もあり腐敗の進行が早く発見が比較的早まったものだと思われる。また少女の血液からは覚醒剤の反応があり、更に調べていくと少女の身体の衰弱状態などからかなりの期間覚醒剤を使用していた事がわかった。


 少女はどこで覚醒剤を手に入れそしてどういった経緯で死に至ったのか。その事がページをめくる毎に明らかになっていく。


 その日川本美奈は通っていた高校を抜け出し、原宿の街を徘徊していた。そこである男に声をかけられる。男の名は坂口智信当時二十九歳。


 男は川本美奈に芸能プロダクションの人間だと偽り近づいたという。しかしその実坂口は覚醒剤の売人であった。


 川本美奈とて田舎出の初心な少女ではない。始めは坂口の事を怪しんだ。しかし男の柔和な表情と巧みな話術に、いつしか自身の悩みを打ち明けるようにまでなっていく。そして川本美奈は坂口に打ち明けた。太っている事が悩みなのだと。


 俺は始め見た川本美奈の写真を思い出すが、それほど太っているようには思えなかった。


 坂口はそれに対して簡単に痩せられる薬があるのだと川本美奈に持ちかけた。そして川本美奈は覚醒剤に手を染めた。それから川本美奈が暗い世界に転がり落ちていくのにそう時間はかからなかった。この時すでに川本美奈は学校にも家にも帰っていなかったようである。


 やがて川本美奈は、薬買う金欲しさに窃盗やこっそりと家に舞い戻り親の金を盗むようになる。しかしそれもすぐに限界がくる。金がなければ薬は買えない。


 切羽詰まった川本美奈に坂口は言った。金がなければ新しい顧客を連れてくる事で薬を譲ると。


 それを聞いた川本美奈は一も二もなく嘗ての級友の元へと走った。そして痩せられる薬があるからと話を持ちかけた。しかし変わり果てた川本美奈を見てその話に乗る者はいなかった。


 顧客も連れてこられず金もない。そんな川本美奈に対して坂口は、割りのいいバイトがあるからやらないかと持ちかけた。この期に及んで割のいいバイトの話など考えるまでもなく真っ当な仕事であるはずはないが、すでに川本美奈には冷静な判断を下す思考はなかった。


 坂口は川本美奈をマンションの一室に籠らせ客を取らせ始めた。そしてある日、川本美奈は死んだ。遺体発見時川本美奈の身体は酷い有様で、直接の死因が何なのかがわからないほどだったとある。


 川本美奈の遺体発見後すぐに捜査本部が立ち上げられたが、驚くほどにすんなりと犯人は捕まったようだった。


 犯人は坂口智信だった。坂口が言うには、客を取る事を嫌がった川本美奈を思い余って殴ったら死んでしまったという事だった。しかし写真を見るに、川本美奈の身体は、殴っただけではつくはずのない傷が多数ある。太腿の上にある傷などは明らかに刃物で切られたような傷に見える。


 坂口の罪状は、殺人から麻薬取引そして売春斡旋に拉致監禁など、ここにあるだけでも十近くもの罪状が書き連ねてある。懲役は二十五年と犯した罪に対して些か軽すぎるように思えたが、自首した事による減刑が理由だとあった。


「こんな事が、あっていいんですか……」


 資料を読み終えた明松は、溜息ともつかぬ声で言った。


「その娘なんだがな。五年前に俺が補導、いや注意だな。万引きしてるところをたまたま見かけたんで注意した事があるんだ」


 坂崎はおもむろに話し始めた。


「そしたらその娘万引きする物のリストを持っていやがった。リストにはこんな物盗んでどうすんだって物から高級な化粧品まで様々な物があった。俺はそれを見てすぐに気がついたよ。こいつはやらされてるんだなってな。虐めの一環みたいなもんなんだってな。俺はその娘にその事を訊いたんだ。じゃあ何にも言わねえで泣き始めやがった。俺にも娘はいるが滅多に家に帰らねえから何考えてるかなんてわかりゃしねえ。それがよその子供だ、自分の娘の事もわからねえ俺にわかるわけがねえよな」


 流石に資料室の中で煙草を吸う事は躊躇われたのだろう。坂崎は本物の煙草の代わりに電子煙草を取り出すと口に咥える。


「仕方がねえから。そのリストの物全部買ってやったよ。それからもうこんな事するんじゃねえって言って帰したんだ。それがその場凌ぎで何の解決にもならねえ事くらいわかってた。でも俺にできる事なんざそんな事くらいだ。子供達には子供達の社会がある。大人達が出張って行ったところで何の解決にもなりゃしねえ。虐めが陰湿化してわかりにくくなって終わりだ。俺は、スーパーマンでもよくドラマに出てくる掟破りな破天荒教師でもねえしな」


 坂崎は自嘲気味に笑った。


「次にその娘に会ったのはその半年後だったな。その頃にはもう学校には殆ど行ってないって言っていた。だから万引きもしてないって言ってたな。俺はそれなら無理に行かなくてもいいんじゃねえかって言っちまった。無責任極まりねえが、俺は生活安全課じゃねえ。管轄違いだからいいだろ? それからその娘が腹が減ったてんで牛丼をおごってやったよ。なんでか知らねえがまた泣いてたな。周りの視線が痛かったぜ。その後娘はちっちゃな声で礼を言ってな。目標というか、夢ができたって言ってたな。芸能人になりてえんだってよ。街でスカウトされたんだっつってたな」


 芸能人。スカウト。事件のファイルにあった男の事だろうか。


「坂口ですかね」


 坂崎は明松の問いには答えずそのまま続けた。微妙な間が場に落ち込み、言いようのない緊張感が資料室に立ち込める。


「俺は芸能界なんてヤクザな商売はろくなもんじゃねえって思ってたんだが、あんまりにもその娘が嬉しそうに言うもんでよ。また無責任にもいいんじゃねえかって言っちまった。でも俺は都会には悪い奴がいるもんだって思ってな、そいつがどんな奴かって訊いたんだ。そしたらその娘は眼鏡かけた優しそうな奴だって言ったよ」


 坂崎は口を閉じ暫く遠くを見るように目を細めた。電子タバコが坂崎の歯の隙間でゆらゆらと揺れている。


「今思えばよ。あの時ちょっと様子がおかしかった気もするんだよ。でもな。俺にそんな事気づけるはずねえんだ。だって自分の娘の気持ちすらわからねえ親父だからな。――次に娘に会ったのは死体発見現場のマンションだった。俺は変わり果てた娘を見て何て声をかけりゃあいいかわからなかったよ。ただ、仇は取ってやるってそれだけを思った。俺はすぐさま捜査に飛び出した。だがすぐに犯人は亀井の手によって捕まった。それが坂口智信だった。俺は事件の調書を見て坂口を一発ぶん殴ってやりたくなった。よくもあの娘の夢につけ込みやがってってな。だが坂口を見た瞬間にこいつじゃねえって思った」


「なぜなんですか? なぜ違うと思ったんですか? まさか直感だなんて言わないですよね?」


 その場の緊張に耐えきれなくなったのか明松が急に口を挟んだ。


「黙ってられねえ奴だな。最後まで話を聴けよ。そいつはな眼鏡をかけてなかったんだよ」


 確かに犯人である坂口の写真の男は、眼鏡をかけていない。しかし……。


「そんな事くらいで……」


 明松が俺の意見を代弁するかのように声を上げる。それに対して坂崎も声を上げた。


「お前女にもてねえだろ」


 明松は絶句した。当たらずとも遠からずと言ったところか。


「いいか明松。季節は夏だ。こいつの写真をもう一度よく見ろ。何がわかる?」


 明松は坂口の写真を凝視する。


「こいつ薬でもやってるんですか? 病的なまでに色が白いですね」


「他には?」


「他?」


 明松は黙り込んでしまった。そして坂崎が見限ったように口を開く。


「確かにそいつは薬をやっていた。だが川本美奈に声をかけた男じゃない」


「なんでそんな事がわかるんですか?」


 明松は挑むように少し声を荒げた。


「眼鏡だよ」


「眼鏡? だからそれは……」


 明松は再び写真を見つめた。


『そうか……眼鏡だ』


「なんだ水上まで」


 坂崎が眩しい物を見るように明松の頭の上を見た。


「水上は何と言っている。何かわかったなら言ってみろ」


 坂崎は俺の存在をまたいつのまにか認め始めたようだ。


『こいつは眼鏡をかけていなかった』


「だからそれは、川本美奈に声をかけた時に坂口がたまたまかけていただけかも知れないじゃないか」


 明松が俺に反論する。坂崎は面白い物を見る目で明松を見ていた。


『最後まで聴けよ。お前女にもてないだろ』


 明松は呻くような声を上げ黙り込んだ。


『俺はたまたま眼鏡をかけていただけの奴の事を人に紹介する時に、眼鏡をかけた優しそうな奴だとは紹介しない。それにもし眼鏡をかけた薬の売人なら眼鏡を外した時に日焼けの痕が残っているはずだ。いや、売人でなくとも夏であれば薄っすらとでも日に焼けるはずだ。いくら後ろ暗い仕事をしているからと言っても、日中陽の下に全く出ない人間などいない。常に眼鏡をかけている人間ならば、焼けた部分と焼けていない眼鏡の部分の差が全くないなんて事はあり得ない』


 写真の男には、眼鏡をかけていた事を示す日焼けの痕などどこにもなかった。


 明松は俺の言った事を簡潔に坂崎に伝える。


「全く。水上お前はヤクザにならずに警察官になるべきだったのかもな」


 明松が悔しそうな呻き声を上げる。


「その事に気づいた俺はすぐさま上に報告した。だが俺の意見は通らなかった」


 坂崎は感情の籠らない声で言った。


「なぜなんです?」


 坂崎は明松の顔を見ながら続ける。


「この事件は一時ワイドショーなどでも大きく取り上げられたんだが。その当時おり悪くこの界隈で大きな事件や事故などが重なっていてな、そのせいで警察は何をやっているのかと世論の風当たりが強かった時だったんだ。そこに来て犯人を迅速に逮捕できたものだから、当時の上の人間はろくな検証もせずすぐに記者会見を開いた。まあ犯人の自白っていう強い味方もあったしな。そしてマスコミの前で警察組織ここにありってな具合にでかい花火を打ち上げちまった。だから俺の話なんざはなからなかったも同然だったのさ。状況証拠だけで話をするな。その一言で、俺の報告は風の前の塵のように消えちまったよ。そして警察組織の中では、この事件には幕が降りちまった。一事不再理に警察組織の保身。この世界では降りた幕にアンコールがかかる事はないのさ」


 坂崎は煙の出ない電子煙草を本物の煙草を吸うみたいにふかした。


「じゃ、じゃあ。坂崎さんは誰が本当の犯人だと?」


「鳥居だよ」


 坂崎は、電子煙草の先端を険しい目で見ながら呟く。


 話の流れからそうではないかとは思っていたが、やはりあの男が。


 俺は鳥居のかけていた眼鏡の奥の目を思い出していた。あの時見た鳥居の目は優しさなど微塵も感じさせず鋭さしかなかった。


 一流大学を卒業したにも関わらずわざわざヤクザ組織に身を置く男。そして身を置くだけならともかく、人を欺き貶める事に関しては、海千山千の猛者達を軽々と追い抜いて行った男。ものを知らない十七そこそこの娘を誑かす事など、造作もない事に違いない。


「俺は捜査打ち切り後も一人で事件を追った。まずは犯人である坂口の身辺から洗っていった。そして調べた結果、坂口は売人じゃない事がわかった。それから坂口には数百万単位の借金があった事もわかった。薬とキャンブルで作った借金だ。しかもそのうちの数百万は正規の金融機関からじゃない。所謂闇金と呼ばれる金融機関からのものだ。闇金からの数百万もの借金。これを返すには一筋縄ではいかない。消費者金融の限度額はとっくに限界。まさに当時の坂口の状況は八方塞がりだった。だが坂口は犯人として出頭する直前にその借金をすべて払い終えている。これがどういう事かわかるか?」


「身代わり……ですか」


 明松は間を置かずに答えた。


「そうだ。坂口の借金は一日で数十万もの利子がつく。まともに払えるものじゃない。ならばどうするか。ギャンブル狂いってのは総じて馬鹿ばかりだな。坂口は最後の勝負と言って何とかかき集めた金を或る裏カジノで全てつぎ込んだ。そして坂口は完全に終わった。その裏カジノの元締めは友部組だった。その頃裏カジノを仕切っていたのは鳥居だ。こうして奴と坂口が繋がった。俺はそれから鳥居の身辺を洗い始めた」


 坂崎の表情が曇り始める。


「鳥居って男はな、最低の屑で変態野郎なんだよ」


 坂崎は吐き捨てるように言うと続けた。


「今回の丸川企画が友部組の系列会社ってのは知ってるな?」


 明松は黙って頷く。


「どんな仕事を扱っているかもわかっているな?」


「風俗業界を扱っていますね」


 俺は丸川企画の部屋で見た卑猥な道具やカメラなどを思い出した。それと同時に加奈の事を思い出し叫び声を上げたくなるのを堪える。


「そうだ。その中でも取り分け力を入れていたのがSMと呼ばれるジャンルだ。鳥居はカジノ経営の裏でそのSM倶楽部の企画開発もやっていた。いや、寧ろそっちの方がメインでやりたかった事だろう。あいつはカジノでプールした金を、SM倶楽部の開拓につぎ込んでいた。今は摘発されてなくなったが、かなり際どい趣向の店もあってな。どう際どいかと言うと、プレイと言うよりは寧ろ拷問に近い事を行う店があった。そしてその店で使う器具を、鳥居は開発していた」


「……坂崎さん。なんでそんな事まで知ってるんですか? 幾らなんでもそんな内部事情までどうやって調べるんですか?」


 確かにそうだ。明松が言うまでもなく俺も不思議に思っていた。ヤクザの金の動きや商売の裏事情。それを知るためにはそれ相応の代償が必要なはずだ。


「亀井と同じだよ。俺もこの仕事長いんだ。そっち関係の知り合いがいない事もない。人の口に戸は立てられんもんだ。それ相応の金を渡してやれば、情報は買えるんだよ」


 俺はファミレスで聴いた田淵と柏原の会話を思い出した。敵対する組織間での情報の遣り取り。斎藤と鳥居を代表とする水と油のような組織同士でも、末端にまでその意識を浸透させるのは難しい。ましてや金に困窮している末端のチンピラなど、少しの端金でも情報を売る輩はいそうだ。その相手が例え警察であっても。


「でも、それって……」


「わかってるよ。違法捜査だってんだろ?」


 坂崎は明松君を遮った。


「でもな。俺はどうしてもあの娘を殺した本当の犯人を見つけ出したかった。犯人は自分が殺したと自白している。裁判になれば事件はすぐさま決着がつく。そうなったらさっき言ったように、一事不再理の壁で、事件は本当に終わっちまう。だからなるべく早く俺は、真相を掴まなければならなかった。手段は選んでいられなかったんだよ」


 なぜ坂崎はそうまでして犯人を捕まえたかったのか。警察としての掟を破ってまで。


「……なぜそこまでしてこの事件に拘ったんですか?」


 明松は俺の考えを読んだように訊ねた。


「なんでかって? そんなもん決まってるだろ。腹が立つじゃねえか。なんで本当に悪い奴が捕まらねえでのうのうと陽の下を歩いてやがるんだよ。もうあの娘は太陽を見る事だってできねえってのに。そんなのむかつくじゃねえか。……理由なんかねえよ」


 坂崎の声は、怒りのためか震えていた。その震えは哀しみも含んでいる気がする。


「……俺はなあ、嫌なんだよそういう筋の通らねえ事がよ。しかもそれがもしかしたら俺達警察が助長したのかも知れねえとくる。そんなの赦せねえじゃねえか。そうなったら何を信じりゃいいんだ」


 坂崎は心の底から警察官なのだ。自分の信じた警察が得体の知れない悪に手を貸しているかも知れない。その事が赦せないのだろう。


「でも……」


『既に事件は終わっている』


 俺は明松の言葉の後を継いだ。


「わかってるさ。俺は間に合わなかった。いや、あと一歩のところまでは行ったんだ。だが決定的な証拠がなかった。だから俺は鳥居と直接話をする事にした。馬鹿だと思うだろ? 俺だってそう思う。だがその時俺は焦っていたんだろうな。周りが見えなくなっちまってた。そんな時は何やっても駄目だな。相手にされないどころか警察呼ばれちまったよ。警官が警察の世話になるなんざ笑い話にもなりやしねえ。俺は上から呼び出しを食らった。そこで俺はとりあえず掴んだ情報で上にかけ合った。でも駄目だったよ。けんもほろろってやつだ。それどころか違法捜査を誰かがちくりやがって俺は戒告処分を受けた。ちくった奴はわかるよな? 亀井だ。上は名前を言わなかったが俺にはわかる。奴は鳥居と繋がってる。それだけは間違いないんだ。裁判は恐ろしいほどのスピードで決着がついた。勿論控訴は無しだ。なんてったって自白と自首だからな。議論の余地もねえよ。遺族に謝ろうと思ったが事件を蒸し返すのは辞めてくれと言われた。薬と買春。一族の恥なんだとよ。……俺は何を信じりゃあいいんだろうな。……明松」


 坂崎の抱える闇に明松は何も言えないでいた。


 俺はファイルの上に散らばった写真を見る。川本美奈の身体は切り刻まれ、焼かれ、殴られ、その身に起こった悲劇を余す事なく写真を見る者に訴えかけていた。これを本当に鳥居がやったのだとしたら鳥居は死んで然るべき人間なのではないか。俺はそう思った。

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