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狭間堂ー時知らずー  作者: かつを
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老人からの手紙

 ※老人からの手紙


 薄暗く埃っぽい街中の小道は、相変わらずそこにあって、通行人の目から隠れるようにひっそりと存在していた。


「こんな所に本当にそんな店があるのか?」


 明松が声を上げ坂崎も同意したように唸った。


『ある。この道を進んで暫くすると行き止まりになる。そこに俺の言う老人の店はある』


 二人はブツブツと文句を言いながらも、小道に転がるゴミなどを避けながら進んで行く。やがて道の先に見覚えのある店の入り口が見えてきた。店の窓に灯りが見える。どうやら老人はいるらしい。


「おお。こんな所に本当に店が……何かドラクエみたいですね坂崎さん」


 明松がはしゃいだ声を上げる。


「ああ? ドラなんだ?」


「あれ知りません? ゲームですよ。ゲーム」


『おい。そんな事はいいから早く中に入ってくれ』


 俺は明松を促した。坂崎は「知らん」と吐き捨てた後扉をノックする。できる事ならば、俺は坂崎に憑きたかった。


 狭い路地裏に木でできた扉の叩かれる重い音が響く。しかし中から返事はかった。坂崎はもう一度扉をノックした。中で何かが動く音がする。いる事はいるようだ。坂崎は明松に向かって顎で扉を示した。明松は頷き扉をそっと開ける。鍵はかかっていない。


「すみません。ちょっとお尋ねしたいのですが。誰かいますか?」


 中でガタガタと物音がして何かが倒れるような音がした後、女の小さな悲鳴が聞こえた。


 坂崎は素早く扉を開けると大きな声で「警察だ」と怒鳴り、明松を押し退け店内に入り込んだ。呆気に取られていた明松も思い出したように後に続く。


 そこには転がった木製の椅子と、床に尻餅をついてこちらを驚いたように見ている若い女がいた。


 女は年の頃にして二十代くらいに見える。左耳の上辺りには、四葉のクローバーの形をした七宝焼きを施した髪留めをつけている。顔つきはどことなく異国を思わせるオリエンタルな雰囲気があり、少し広めの額には、キメの細かそうな艶のある黒い前髪が垂れていた。そしてそれが少し目にかかる事により大きな目を一際大きく見せている。


 女は俺達に照れたような笑顔を向けた後、小さく「いらっしゃいませ」と言った。黒く長い髪を見て俺は加奈の事を思い出した。


 誰なんだこいつは?


 坂崎と明松はお互いの顔を見合わせ明松が女に手を差し延べながら声をかける。


「大丈夫ですか?」


 女は明松の手を借り立ち上がると、小さな声で礼を言った。明松の心拍数が少し上がる。


「ええ、大丈夫です。――ところで、警察の方が何の御用で?」


 女は急に警戒したように坂崎と明松を見る。突然警察が怒鳴り込んできたのだ当然だろう。


「いえ、ちょっと訊きたい事がありまして。あの……」


『俺はこの女を知らない。爺さんがこの店にいたはずだ』


 俺は明松に助け舟を出す。


「じい……いや、この店にお爺さんがいると思うのですが今いらっしゃいますか?」


 女は明松の顔をじっと見つめる。そして少しの沈黙の後、「あなたが……」と言った。


 明松の心拍数は今や軽い運動をしたのかと思うほどにまで上がっていて、緊張している様子がありありと伺える。


「あなた? 我々の事を知っているのですか? 失礼ですがあなたとこの店にいた老人とのご関係は?」


 明松の様子を見て任せておけないと判断したのか坂崎が声を上げる。


「いえ、存じ上げません。この方が知人と似ていたもので」


 女は明松を示す。


「私はアルバイトみたいなものです。あなた方が言っているお爺さんとはこの店の店主の事でしょう。昔からここの店主には良くしてもらっていて、たまにこうして都合のいい時に手伝ったりしているんです。店主は今どうしても外せない急用ができてしまって、少し遠くまで出ているんです。そして一週間ほどこの店には戻らないのですが店主に何の御用でしょうか。宜しければお伺い致しますが」


 爺さんがいない? しかも一週間もだと? そんなには待てない。こんな事ならば、あの時ちゃんと話を聞いておくんだった。……いやあの時は無理だ。あの状況でゆっくり話など聞けるはずはない。しかしここまで来て諦めるわけには……。


『明松。この娘に訊いてもらえないか? 昨日の夕方老人は或る男に薬を処方したはずだ。その男が薬の件で困っているから老人から何か聞いていないかと』


 明松は頷き口を開こうとする。がそれを遮るように女は言った。


「もしかして薬の事ですか?」


 なぜだ。まだ何も言っていないのになぜこの女は……。


「え、ええそうです。友人が老人から薬を貰って、それで少し困った事になっていまして。でもなぜそれを」


 友人と聞いて俺は容疑者の間違いではないのかと訂正したくなった。


「女の勘ですよ」


 女はそう言って微笑んだ。俺は車の中で、考えている事をことごとく老人に言い当てられた事を思い出す。この女あの老人の孫か何かなのか?


「嘘ですよ。店主から、もし薬の事を尋ねる人が来たら渡して欲しい物があると言われてたんです」


 微笑みを浮かべたまま言った後、女は店の奥に消えて行った。なるほど。爺さんから俺の話を聞いていたのか。それならば……。いやそれにしても腑に落ちない点も少し……あるにはあるか。


 あの女の態度には、まるで明松の中にいる俺の心を読んだかのような不気味さがあった。それはあの老人と同じ種の物のように思えた。勘と呼ぶにはあまりにも鋭すぎる何か……。


「あの娘何か可愛いっすね」


 明松が小声で坂崎に言った。坂崎もそれに頷く。


「うちの娘もあんな頃があったんだがなあ……」


「坂崎さん。娘さんいたんですか?」


「ああいるとも。今年で三十になるが未だに結婚もしねえで親のスネに噛りついてやがる。――どうだ明松。うちの娘いらねえか? うちの娘はそれなりに見られるぞ? 俺に似て美人なんだ」


 明松は黙り込み坂崎の顔をしげしげと見つめた。坂崎の顔はどことなく魚のボラに似ている。


「遠慮しときますよ」


 明松は愛想笑を浮かべた。


「けっ。逃がした魚はでけえぞ」


 坂崎の言葉に俺は思わず笑ってしまった。魚顔の男が言っていい台詞ではない。明松は必死に堪えているのか、自分の太ももを坂崎に見えないようにつねっていた。脳だけのわけのわからない状態になって、俺は始めてこの状態になれてよかったと思った。生身の体ならば耐えきれずに爆笑してしまっていただろう。


「お待たせしました。私も詳しくは聞いていないんですけど、その御友人に処方した薬の説明を書いたものだと言っていました。元々遠い異国の薬なんだそうで店主が翻訳したものだそうです」


 不機嫌な坂崎を見て、女は不思議そうな顔をしながら茶色いA4サイズの封筒を明松に渡した。封筒の表書きには『アイアンメイデンの青年へ』と書かれている。


「アイアンメイデン? なんだそりゃ」


 封筒を覗き込みながら坂崎が言う。


「あれの事ですよ」

 女は店の奥にあるあの不気味な置物を指さした。俺を串刺しにしたあの置物を。


 俺は置物の置いてある床を見る。置物の足元に血の跡は残っていなかった。俺から流れた血は老人が掃除したのだろうか。目の前にいるこの娘にあれを掃除できるとは到底思えない。


「西洋の拷問器具のレプリカだそうです。ただあれは手品用のセットなのだそうですけれど」


「拷問ねえ。怪しげな薬といいこの店は大丈夫なのか? 一度捜査でも……」


 女の顔が曇り始める。


「坂崎さんもう行きましょうよ。あっ、気にしないでいいから。この人ちょっとあれで、えっと君名前は?」


「名前答えないといけませんか?」


 警察から急に物騒な事を言われれば誰だってそう応えるだろう。


「おい明松。あれってなんだ?」


「ちょっ、坂崎さんは少し静かにしてください。いや、嫌ならいいんだ。ごめんね。また来るかも知れないけどとりあえず今日は帰るよ。はい坂崎さん。時間ないですよ。行きましょう」


 明松と坂崎はもつれるようにして店を出て行く。扉が閉まる瞬間女から、「見つかると良いですね」と声がかかった。見つかる? どういう意味だ? 俺達はあの女に何かを探していると言っただろうか。女の表情を見たかったが、明松の体の中にいたのでは、頭の後ろを見る事はできなかった。




「坂崎さんなんであんな事言うんですか。彼女警戒しちゃってたじゃないですか」


「刑事として、あんなあからさまな犯罪の臭いを嗅ぎつけたら放って置く事はできんだろう。それにお前なんだ? あんな娘が好みなのか」


「あんなとはなんですかあんなとは。あの娘から犯罪の臭いなんてしませんよ。あの娘の目を見ましたか? 犯罪どころか嘘だって吐きませんよ」


 分煙など初めからこの世に存在していないかのような、時代を逆行する造りの喫茶店の中で、坂崎と明松は話していた。


『おい明松。あの女の事はもういい。それよりさっきの封筒を早く見せてくれ』


 明松は思い出したように封筒を取り出すとテーブルの上に置いた。


「おい。さっきも訊いたがこのアイアンメイデンてのは何なんだ。あの気味の悪い置物がなぜ関係ある」


 坂崎は最早明松を通さず俺に直接話しかけてくる。見た感じ頭の固そうなオヤジだが、案外見た目とは裏腹に頭の中は柔らかいのかも知れない。


『俺はあの置物の中で全身を針で串刺しにされたんだ。そして死にかけた。そこで今日はいなかったがあの店の店主に死ななくなる薬を注射されたんだ。その時の薬の事で店主の爺さんは、必ず戻ってきて薬の説明を聞くんだぞと俺に言ったんだ』


 明松は俺の話を簡潔に説明する。


「なるほど。それでその薬の説明がこれだという事か。しかしますます犯罪の臭いがするな。その爺さんどこかに逃げたんじゃないのか? こんな怪しげな薬が薬事法をパスするはずがない」


「いや、それはないでしょう。その老人は俺達があの店に行く事は知らなかったんですから。それよりこの封筒の中身を見れば何かわかるかも知れませんよ?」


 そう言いながら明松は封筒の封を切る。中には一冊の古びた本が入っていて、ページを適当にめくると、そこには簡潔な図と、難しそうな文章が綴られていた。


「なんだこりゃ?」


 坂崎が図の一つを示す。図は子供がぐりぐりと書き殴ったようなもので、まさにミミズがのたくるという表現がぴったりの棒状のものが二本描かれていた。その二本の棒は、真ん中よりも少しずれた箇所で交差してバランスの少し悪い「X」の字を形作っている

「なんでしょうね。どちらにしろ始めから読まなければわからないですね」


 明松は言いながらページの一枚目を捲った。俺達は古びた本を読み始める。本はどうやら薬の開発日誌のような趣だった。本の冒頭にはこうある。『不死薬の開発とその考察』坂崎と明松は不死薬の文字に引っかかっていたようだが、それでも中身を読めばそれもわかるだろうとそのまま読み進めていった。




 私がこの薬を開発するにあたって、なぜこんな薬を開発する羽目になったのか経緯を少々ここに紹介する。


 きっかけとしては実にくだらない事だが、我が国に於ける権力争いが事の始まりだった。


 我が国ポイオスサトゥスゥは、長い年月をかけ国王の政治を中心に繁栄し栄華を極めてきた。その中でも八代目国王にあたるタファ・アラウス現国王は、知能、人望、政治、人民を率いる牽引力全てに於いて歴代国王よりも優れている事は間違いない。ただ一つ難点を挙げるとするならば、少々好色な点だろうか。


 タファ・アラウス国王にはその好色もあってか、王子王女を合わせて当時十八人もの御子がいらっしゃった。そしてタファ・アラウス国王は、広大なポイオスサトゥスゥの大地を、自らが治める土地を中心として、東西南北の土地を第一王子から第四王子までの御子に治めさせていた。


 四つの土地の特色を簡単に言い現すならばこうなるだろう。第一王子の統治する、農耕畜産や漁業など食文化に秀でた東の大地。第二王子の統治する、鉱物資源や燃料資源が豊富で工業に秀でた西の大地。第三王子の統治する、科学や工業に秀でた南の大地。そして最後に私の生まれた第四王子の統治する、生物学や医療に秀でた北の大地。


 タファ・アラウス国王は、敢えて得意な分野や役割を分散させる事で、一つの大地が力を持ちすぎる事を防いでいた。そして各大地同士の交易を、全て自らの治める中央の大地で行わさせ、そこで集まった資源や技術を使い中央の大地をより繁栄させていった。だが勿論自らの治める大地だけを繁栄させていたわけではない。各大地の生活水準に差がつかぬよう、国王は、盤石なる政治と経済を構築し、その資源と技術は各国民に行き渡り、国民は皆豊かで我が国は正しく理想国家と言うにふさわしい国であった。


 しかし、いかに理想国家であろうとも問題の全く存在せぬ国家などあり得るはずもなく、この国にも問題はあった。それは四つの大地を収める王子達の仲が非常に芳しくないという点だった。


 各王子達は皆能力が高く、皆が一様に自分こそが一番優れている王子だと常々思っていた。その事でお互いがライバルとして成立し各大地の特質を高め合っていたのだが、一度集まる事にでもなればお互いを罵り合い、ひどい時には殴り合いの喧嘩に発展する事もしばしばであった。そしてそれを宥めるのが常にタファ・アラウス国王の役目であった。


 四人の王子達は皆能力が高く、誰を世継ぎにしようとも国を護る事はできるであろう。だがそれは四人を取り仕切る事のできる王のような存在があってこその物。そう、この国は王の存在を持ってして始めてバランスの取れる、王存りきの理想国家なのである。しかし良い解決策もないままに、月日は流れ王も年を取っていった。


 タファ・アラウス国王は悩んでいた。自分が死んでしまえばこの国は間違いなく滅んでしまう。それをなんとか防ぎたい。どうにかして不死の身体になりこの国を未来永劫繁栄させ続ける事はできないだろうかと。あまりにも荒唐無稽で突拍子もない考えは、誰に告げられるでもなく、国王の胸の中で長き眠りに就いた。


 だがそんな突拍子もない考えを眠りから起こす事件が北の大地で、しかも私の手の中で起こったのだった。


 それは私が、当時不治の病とされていた毒性細胞増殖症を抱えた女の治療にあたっていた時の事だ。


 女はその病を子宮内に発症していた。私は女の子宮内から病の元凶である毒性細胞を取り出し、その細胞のメカニズムを研究するために観察していたのだが、その細胞は通常の毒性細胞とは違う特徴を持っていたのだ。


 通常正常な細胞であれば身体から切り離されてしまうと酸素の供給が断たれてしまい、途端に効率の悪い解糖系、つまり糖分を分解しエネルギーに替える方法を執り、やがてエネルギーの供給が追いつかなくなり死滅していく。それは今まで毒性細胞であっても同じだと考えられていた。しかしその女の持っていた毒性細胞は、体から切り離されても死滅するどころか、本来ならばエネルギー効率の悪い解糖系をあろうことか活性化させ、そのまま細胞分裂を続けたのだ。


 私はその毒性細胞を観察から急遽培養に切り替え養分を与え続けた。その細胞の反応の凄まじさに私は身が震えるのを感じた。毒性細胞は増え続け、すぐに培養シャーレを埋め尽くしていった。あり得ない事だった。


 この毒性細胞の秘密を解き明かせば、長い間不治の病とされていた、この毒性細胞増殖症を治す事ができるかも知れない。更に研究を続け、この増え続ける細胞をコントロールする事ができたならば、不老不死の身体すら手に入れる事ができるかも知れない。私はこの大発見に胸を踊らせた。そしてこの毒性細胞に女の名を冠したケルメラ細胞と言う名前をつけた。


 この国ではいかなる分野であっても、重大な発見や問題などがあった場合即座に中央の大地に情報を報告しなければならないシステムになっている。そしてその情報は全てタファ・アラウス国王の目に触れ、その発見の重要性いかんによっては、発見者は国を挙げて盛大に称えられ、さらに、莫大な利権が与えられる場合もあるのだ。


 私はその発見に自信を持っていた。今まで人間由来の細胞の培養に成功した者はいない。この発見ならば最高位とまではいかないまでもかなりの称号と利権が与えられる。そう思っていた。そしてついにその日はやって来た。


 その日私は朝から研究所でケルメラ細胞の培養の準備をしていた。そこにタファ・アラウス国王から直々にケルメラ細胞について訊きたい事があるとの連絡があり、私は国王公用の蒸気駆動車に乗せられ中央大地へと向かった。


 今まで大きな発見をしてきた先達に聞いた話の中で、国王から直々に話があったという話は聞いた事がなかった。これは相当に期待のできる発見なのかも知れない。


 私は中央大地への道中で、自分を称えるパレードの様子を夢想し一人悦に浸った。しかし中央大地に着いてから間もなくして、様子がおかしい事に気がついた。


 通例であればその発見が認められると、中央大地に着くや否や、パレードの前哨とも呼べる民衆達からの喝采があり、その後国王から正式に称号の授与があった後、本格的なパレードが始まるのだ。だがその時は、民衆達からの喝采どころかパレードの準備すら進められている様子はなく、私は胸の中に一抹の不安を感じずにはいられなかった。


 私はその事を蒸気駆動車の運転手に尋ねたが、納得のいく答えはなく無言の圧力から私は黙る他なかった。


 やがて蒸気駆動車はタファ・アラウス国王の私邸に着き、私は人間が二百人ほども収容できるのではないかと思うくらい広大な部屋に一人で待たされた。


 これはどういう事なのだ。もし私の発見に対して何らかの確認事項や今後の研究の行方を話し合うのならば、国王の私邸ではなく公邸に招かれるべきではないのか。そんな事を、我々庶民は触る事はおろか、見る事すら叶わぬような、芸術的調度品を眺めながら考えていたところだった。その調度品の一つが突然音を立てて動き始めたのだ。調度品の動いた後には細い通路が顔を出していた。


 私はどうする事もできずただその場で棒立ちになっていた。その調度品の奥の通路から私の名を呼ぶ声が聞こえる。一瞬不安を感じ躊躇いはしたものの、進む以外に道はないのだと思い、私は足を踏み出した。


 調度品の奥に続く通路に足を踏み入れると、私が中に入るのを見計らったかのように調度品が動き入り口が閉まる。それにより、もう二度とここから出る事ができないのではないかと、私の不安をより増幅させた。


 その通路の壁は艶やかな金属でできていて、緩やかに湾曲しながら下に向かって伸びていた。そして通路は、二百メートルほども進んだころ唐突に終わり、先ほどまで私がいた部屋よりもさらに広い部屋に繋がっていた。


 部屋の中には一人の男がいて、男は私に背を向けたまま声を上げる。男の声を聞き私は男が誰であるかを理解した。男はこの国の未来を憂いていた。そして私の発見したケルメラ細胞がこの国家にとっていかに重要な研究であるかを説いた。そう。男はタファ・アラウス国王その人であった。


 国王自らが私の発見を賛嘆してくれている。私は感動に身が打ち震える思いであった。がしかしそれと同時に先ほどまで抱いていた疑問を思い出した。国王自らが重要性を説くほどの発見が、なぜこのような秘密めいた扱いを受けるのかと。


 私はタファ・アラウス国王にその事を問うた。国王は兼ねてより胸の内に秘めていた想いを私に打ち明けた。そして最後にこうつけ加えた。四人の王子は自分が長く生きる事を望んでいないのだと。


 国王の目に光るものを見た。信じられぬ光景だった。国主として常に強く在らねばならぬ国王にとって、民の前で涙を流す事は許されぬ事。それは身内のごくごく近しい者にさえ見せてはならない。それをタファ・アラウス国王は、一介の研究者にしか過ぎぬ私に見せたのだ。


 今の今まで夢のように思っていたこの現実を、国王の涙を見て始めて私は本当の現実且つ危急なる問題なのだと強く認識した。


 かくして私は国王直属の機密研究機関で、不死の薬というあまりにも現実とは思えぬ薬を開発することになったのである。


 私は、タファ・アラウス国王から私邸の地下研究施設全ての使用権限を渡され、研究に必要とされる潤沢な資金も何ら心配する事はないと言い渡された。


 これは研究者にとって破格とも言える厚遇だった。さらに不可能を可能にする者として、錬金術士の称号を与えられる事となった。錬金術士とは、国内に於いて不可能と思える偉業を成し得た者だけに与えられる極々希少な称号である。


 もっとも、当時まだ何も成し得ていない私にとって、この称号は重くのしかかるプレッシャーでしかなかったのだが。


 だがしかし、思う存分自らの研究に没頭できる環境に加え、本来ならば常に研究者について回る資金の問題も全く心配する必要はないときている。研究者にとって、これほど幸福な環境はないだろう。私はすぐに研究を開始した。


 研究に際して、まず不死薬を研究するためのチームを私はタファ・アラウス国王の許可を得て構成した。国王は機密が漏洩する事を恐れてチームを構成する事を渋っていたが、一刻も早く不死薬を完成させるためと、タファ・アラウス国王をなんとか説き伏せた。


 チームの構成はこの国の統治制度を参考にして、私を中心とした各部門のスペシャリストを用意した。食文化に於ける病との関連性を研究する東チーム。資源の加工や調達で科学や工業をサポートする西チーム。科学や工業で医療と生物学をサポートする南チーム。そして私が統括する医療と生物学に精通したチーム。


 四つのチームの研究成果は全て私の元に集まりその成果を吟味した上で今後の進路を決める。まさに理想の研究チームが出来上がった。


 次に私は、研究の命題を毒性細胞増殖症根治とした。命題を不死薬の開発としなかったのは、タファ・アラウス国王からチームを構成する上で、くれぐれも不死の件については口外しないようにと仰せつかっていたからだ。


 研究が始まるや否や、各チームは目覚ましい成果を上げ始めた。これは普段各大地に散らばりばらばらに研究しているチームが、一つ所に集まり私を中心として情報の共有を行った結果、様々な角度から考察を重ね、思っても見なかった発見が次々と成されたためと思われる。


 各チームは嬉々として研究に励んだ。そしてその過程で、数々の特効薬の開発や重大な発見を成していった。


 数を挙げればきりがないが、代表的な発見として、人間の細胞は染色体という遺伝情報を司る二十三対の生体物質を持つという事実の発見。それから、ケルメラ細胞の特性を利用し脊髄性小児麻痺の発症原因となる、急性灰白髄炎の簡便な診断方法の構築などがある。


 しかし我々は、ケルメラ細胞がなぜ不死の機構を持つのかという肝心な事が未だわからないでいた。タファ・アラウス国王からの不死薬の開発はまだかという催促の回数も、日に日に頻度は増していった。私は焦っていた。開発を急がねば国王の寿命の方が先に尽きてしまう。


 そんな折だった。私の元に驚きの報告があったのは。その報告というのは、南チームと北チームを合わせた遺伝情報を解析する新設チームからもたらされた。先述の染色体を発見したのもこのチームだ。


 正常な細胞の染色体とケルメラ細胞の染色体を比較すると、染色体の数とあるタンパク質の構造に差異が見られるというのだ。


 そのタンパク質とは我々が細胞遺伝子複製機構と名づけたタンパク質で、活性化する際に複製促進物質を発生させ細胞を複製させる働きを持っていた。また細胞複製の回数を重ねる毎に、その遺伝子複製機構は少なくなっていく性質を持っていた。


 私は兼ねてよりそのタンパク質こそが不死と老化の秘密を説く鍵になるのではないかと考えていた。そのタンパク質の差異だと言うのだから、私の胸は期待に踊った。


 ケルメラ細胞と正常な細胞。この二つの細胞が持つ遺伝子複製機構の違いとは何か。それは通常の細胞が複製すればするほど遺伝子複製機構が少なくなっていくのに対して、ケルメラ細胞に於ける遺伝子複製機構は少なくならない上に、活性物質の分泌量は通常の細胞の何倍にも当たる量を常に放出し続けているのだ。


 つまりケルメラ細胞は、環境さえ整えば永遠に増え続けていく事になるし、遺伝子複製機構の減少が老化に繋がるのであれば老化する事もない。正にこれこそがケルメラ細胞を不死たらしめる秘密だった。この発見は不死の研究に於いて大きな発見であった。


 ケルメラ細胞のこの特性を正常な細胞に組み込む事ができたならば、不死の細胞を作る事ができる。私は通常の細胞がなぜケルメラ細胞に変化したのかを考えた。そもそもにして、私がこのケルメラ細胞を発見するに至った経緯は、この細胞の持ち主の子宮内で毒性化した細胞の治療にあたっていたからだ。


 子宮内の細胞が毒性化した原因それは、ヒト乳頭腫ウイルスの感染によるもの。その事から私は、細胞がこのウイルスの影響を受けるとどうなるのかという研究を進め始めた。


 結果ヒト乳頭腫ウイルスは、ウイルス自体が持つ遺伝子を正常な細胞が持つ遺伝子の一部に組み込ませ、毒性細胞へと変質させる事がわかった。私はそれを参考にして正常な細胞に対し人為的な遺伝子の改変を行った。しかし正常な細胞は遺伝子複製機構の減少化は抑えられたものの機構自体の活性化は望めず、細胞の不死化は果たせなかった。ならば次にどうするべきか。


 私は次にあらゆる動物の遺伝子解析を行い、人為的な遺伝子の改変を繰り返し、遺伝子複製機構の活性化が比較的容易い生物を探した。魚類から哺乳類、ありとあらゆる動物を試した結果、哺乳類の細胞の中で最も容易に不死化に成功した生き物は、齧歯類由来の生物達であった。


 それから間もなく私は鼠の不死化に成功した。この報告にタファ・アラウス国王は人間の不死化も間もなくだなと多いに喜びんだ。しかし同じ哺乳類とは言え、鼠と人間では遺伝構造が違いすぎる。タファ・アラウス国王の喜びがぬか喜びになる事を私は知っていた。


 鼠の不死化に成功した事により、私は国王からより強いプレッシャーを受ける事となった。だが研究は遅々として進まず、日を増す毎に私は苛立ち、周りに当たり散らすようになっていった。


 そんな私に愛想をつかしたのか、チームの研究員は私の元を一人去り二人去りしていき、最後には一人の研究員を残して誰もいなくなってしまった。


 誰も私の苦悩など理解できはしない。その孤独な思いからある日私はその残った一人の研究員に研究の目的の全てを漏らしてしまった。……いや、故意に漏らしたのだ。


 その研究員の名はファルノアウス・レトラスと言い、彼女は若く美しい上に、優れた頭脳も持ち合わせていた。私はその研究員を側に置いておきたかったのだ。気を惹きたかったのだ。


 彼女はそんな私の事を受け入れてくれた。私は彼女の事を親しみを込めてファルと呼んだ。


 同じ志を持つ研究員が一人増えるだけで作業効率は格段に伸びた。今まで一人で悩んでいた所に新しい空気が入り込み、思っても見なかった閃きが訪れるのだ。そして間もなく私達は遺伝子複製機構を活性化させる薬を開発する事に成功した。


 この薬と遺伝子の改変を併せれば不死の細胞は完成する。そのはずだった。実験の結果は失敗に終わった。できた細胞は不死には違いないのだが、正常な細胞に対して染色体の数が多かったり少なかったりと安定せず、性質は毒性細胞に近い物だった。そう、私達は人口的にケルメラ細胞を創ったに過ぎなかったのだ。


 ゴール目前にして振り出しに戻された私は、大きく落胆した。そしてそんな落ち込んだ私にファルは、言い難そうな素振りで重い口を開いた。ファルの口から飛び出した言葉は驚くべきものだった。


 私はこの手記の冒頭で、この国は国王のいる大地を中心に東西南北四つの大地があると記したが、実はこれは正確な情報ではない。実際には中央大地から見て北東に位置する辺境の地に、北とも東とも交わらぬ第六の大地があり、その大地には古来よりこの大陸に住む始祖の民と呼ばれる者達が住んでいた。


 始祖の民達は、元を正せばこの大陸を統治していた側の人間で、本来ならば中央大地に住んでいるべき者達だった。しかし我らがタファ・アラウス国王の祖、つまり初代国王であるソマルノ・アラウス国王の侵略により、北東にある辺境の大地へと追いやられたのだ。


 それから始祖の民達は、長きに渡り安価な労働力として扱われたり、差別的扱いを受けたりと、迫害の憂き目に遭う事になるのだが、今から四代前のゼノウル・アラウス国王が、始祖の民達を正式な国民として扱うべしとの御触れを発令した事により、始祖の民の長く辛い闇の歴史は完全ではないにしろ終わる事となった。


 余談だが、この御触れは後に始祖の民解放宣言と呼ばれゼノウル・アラウス国王が人権の父と呼ばれるきっかけとなった。


 ファルはその北東にある大地の出身者だと言うのだ。しかし私が驚いたのはその点ではない。今や始祖の民の血を引く人間などそこいら中にいるし、かく言う私の曾祖父も、始祖の民の血を引く者なのだから。


 ファルが言うには始祖の民を解放するにあたって、始祖の民とゼノウル・アラウス国王との間に密約が交わされたと言うのだ。そしてその密約とは、永遠の命を約束する方法を見つけ出しゼノウル・アラウス国王の不死化を実現せよと言うものだった。しかしその密約は実現する事はなかったのだろう。ゼノウル・アラウス国王は解放宣言の後十年と経たず亡くなっている。その後、国王の座を巡り四人の王子が争いポイオスサトゥスゥは長い間戦火に曝される事となるのだ。


 この事実は、今のポイオスサトゥスゥの現状と非常によく似ていた。いや、よくよく考えてみればタファ・アラウス国王は、ゼノウル・アラウス国王の再来かと呼ばれるほどによく似ている。


 政治手腕から知能の高さに加え、人望の厚さなど正に瓜二つであった。そして似ずともよい好色までもが似てしまい、二人を奇しくも同じ苦境に立たせていた。このままでは再び同じ歴史が繰り返されてしまう事は間違いがなかった。


 そして最も私が驚いたのは、ゼノウル・アラウス国王が始祖の民に永遠の命の実現を依頼した理由にあった。


 冒頭で私は東西南北の大地の特性を説いたが、ファルが言うには北東の大地にもその特性はあるのだと言う。その特性とは、モノの持つ魂や想いの視覚化、またモノそれ自体にそれらを宿らせるなどという技術で、科学的見地からは遠く離れた正に荒唐無稽な話だった。そしてその特性こそがゼノウル・アラウス国王が始祖の民に永遠の命を依頼した理由だと言うのだ。


 ゼノウル・アラウス国王の言う永遠の命とは、肉体が滅ぶとも自身の魂を他の肉体に宿らせ転生を繰り返すというものだった。


 私はファルに、そんな話は信じる事はできないし聞いた事もないと伝えた。


 それに対しファルは、それは当然の事だと言った。なぜならこの密約の話は始祖の民の中でも限られた者にだけに口伝されて来たものだからと。ファルはその限られた一部の者の末裔なのだと。


 ファルは続けた。密約は魂の転生こそ叶わなかったものの、ある程度の成果を上げていて、モノの想いや特性を五感で感じたりできる薬の開発。その応用で、モノの想いや魂を切り離したり強く結びつけたりする事のできる薬などを作る事に成功したのだと言う。


 そんな事があり得るのだろうか。もしそんな事ができ得るのならば、私が今まで人生を賭して学んできた科学や常識はなんだったのだ。


 私はファルにそんな事ができるのならば永遠の命など叶ったも同然ではないかと詰め寄った。しかしファルは、人間ほど複雑な魂は他の個体に宿しても拒絶反応を起こし定着しないのだと言った。


 私はそこまで聞いてふと疑問に思った。ファルはなぜこの状況に於いて私にこんな話をするのかと。


 ファルは私の顔色を読み取ったのかそのまま続けた。その続きの内容は更に私を驚かせるものだった。


 今回私達が創り出した、遺伝子複製機構の活性化及び遺伝子の改変を行う薬と、魂を強く結びつける薬を併せてみればどうかと言うのだ。


 魂を切り離したり結びつけたり。そんな与太話を信じたわけではなかったが、研究が行き詰まっている事は間違いない。科学で説明できないのであればその薬を最新の科学で調査すればいい。そう思った私はファルの提案を受け入れた。


 私はタファ・アラウス国王に、ファルから聞いた始祖の民とゼノウル・アラウス国王の密約の件を報告し、北東の大地に国王の勅命として向かわさせて欲しいとの旨を伝えた。


 タファ・アラウス国王は私がファルに不死の開発について話した事に憤りを感じていたようだが、結果的には研究が前進する事を優先したのだろう。その件については不問とされた。しかし国王は、口外した事を不問にする代わりに、ファルとの婚姻関係を結ぶようにとの命令を私に下した。これはファルの口から不死の件が漏れる事を防ぐためと思われる。


 私はその命令に抵抗する事もできたはずだが、甘んじて受け入れた。前にも少し記したが、私は兼ねてよりファルに好意を抱いていたのだ。だがそれをファルに伝える勇気はなかった。なぜなら私とファルは年齢が離れすぎているし、何よりファルほど若く美しい女であれば、想いを寄せ合う男の一人や二人いてもおかしくないと考えていたからだ。


 国王命令ならば仕方がない。そう自分に言い聞かせ、私はその事をファルに伝えた。


 ファルは表情一つ変えず頷いただけだった。元々感情を殆ど表に出さない女だったが、ファルの真意や感情は全く読み取れなかった。だが、命令で婚姻関係になりたいとは誰もが思うはずはない。私は卑怯な人間だ。


 婚礼の儀もそこそこに、私とファルは王国鉄道に乗り、北東の大地へと向かった。道中ファルは、今までと変わらぬ研究者としての態度を崩す事なく、私との距離感を変える事はなかった。やはりファルにとって私の存在とは、志を同じにした唯の一研究者でしかないのだろう。形だけだとしても、想いを寄せた者と夫婦の仲になれたのだ。それに何の不満があろうか。


 長旅を終え北東の大地に着いた時、私は街の空気や雰囲気に懐かしさを覚えた。それは幼い頃に見た古い街並みのせいなのか、私の身体に確かに流れる始祖の民の血がそう思わせるのかわからなかったが、なぜかそう思ったのだ。しかしそんな古き街並みを侵食するかのように、至る所に入り込んだ近代文明は、グロテスクとさえ思えるほどに複雑に入り組んでいて、未だこの街が近代文明を受け入れていないように思えた。


 ファルは私を連れて街の中を歩き始めた。街の住人達は私達の事を物珍しそうに見ていたが、別段話しかけてきたり近づいてきたりという事はなかった。


 ファルの勧めで私はこの地方の住民達が好んで着る衣類を着けていたのだが、それでも中央大地に住む者の空気や雰囲気は包み隠せなかったようだ。


 ファルは、様々な者達が商いを行っている活気に満ちた通りに入ると、その中にある一軒の土産物を扱う店へと足を踏み入れた。


 店の中に並んでいる品物は、この地方の土産物なのだろう。様々な民芸品から何に使うかわからない道具のような物。そしてそれに過度の装飾を施した物などがあった。店の奥には柔和な表情をした中年の女が座っていた。


 ファルは土産物の中から、安っぽい装飾が施された木の札を手に取る。その札には『永遠の友』とこの土地の言葉で書かれていて、ファルはその面をわざわざ裏返しにして置いた。


 それを見た女は柔和な表情を一瞬曇らせる。だがすぐにその表情は元に戻り勘定を始めた。私にはファルの意図が全く掴めなかった。


 ファルはこの類の土産物に支払うには些か高すぎると思える金額を支払い、紙袋に入った品物を受け取った。そして女に礼を言うとそのまま店を出て行く。


 ファルの行動の不可解さに私がファルに質問しようとすると、ファルは親し気に腕を組んできた。ファルがこのような行動を執るのは婚姻前でも後でも初めての事であったので、私は面食らってしまった。だがその行動はすぐに芝居なのだとわかった。なぜならファルは、私達の後をつけている者がいるから気づかないふりをしろと小声で言ったからだ。


 私はファルに従いファルに導かれるままに歩みを進めた。いつしか私は自分がどこにいるのか全くわからなくなり、気がつけば、小さな一軒の家の前に立っていた。


 ファルは、土産物の入った紙袋を見ながらここに間違いないと言った。私はそれとなく紙袋を見ると多分この場所を示す地図なのだろう。複雑な紋様が描かれていた。


 それからファルは、いつの間に入っていたのか紙袋の中から土産物とは別の鍵を取り出した。そして辺りを見回し誰もいない事を確かめると、家のドアに鍵を挿し込んだ。


 家のドアはギッという錆びた金属が擦れる音を立て、埃っぽい空気を撒き散らしながら開いた。ファルは素早く扉を潜り抜けると、私を中に招き入れ中から鍵をかけた。


 家は平屋建てで家具などの調度品は何も置いておらず、長い間誰も使っていない事を示すように分厚い埃が積もっていた。こんな所に何があるのかと見回していると、ファルが床の埃を手で払い除けながら手伝うようにと言った。


 床の埃をある程度払うと、そこには一辺が五十センチほどの正方形の切れ目が床の板に入っており、その一辺に歪な隙間があった。


 ファルはその隙間に先ほど買った土産物を差し込むと、どういう仕掛けなのかはわからないが、カタリと何かが動く音がして、土産物が把手に代わった。


 床の板は重く流石にファルの細腕では無理だろうと私が動かした。床板の下には地下へと降りる木製の階段があり、そこに足を踏み入れると壁に備えつけてあった照明が点灯した。木製の階段は古めかしく見えるが、それなりの機能が備えられているらしい。


 階段を下まで降りると、頼りない照明に照らされた道がどこまでも続いていて、その道は複雑に入り組んでいた。


 ファルは先ほどの土産物を入れていた袋を取り出し、それを見ながら迷う素振りもなく進んで行く。どうやら袋には、地下通路の地図も記されているようだ。


 狭く薄暗い地下通路には、私とファルの歩く足音と少し荒くなった呼吸音だけが響いていた。私はその息苦しさを紛らわせるために、先ほど私達の事をつけていたのはどのような輩なのかと尋ねた。


 ファルは驚いたように私を見た後、そんな事も知らないのかという風に続けた。


 ファルが言うには、始祖の民の中には中央大地の民、つまり王国側の民と交わる事を快く思わない連中がいて、彼等は自分達の事を始祖の民解放軍と呼び、遥か昔より独立した始祖の民の国を創らんと目論んでいると言うのだ。そして隙あらば、中央大地の要人を拉致してあれこれと要求をする機会を伺っているのだと言う。


 今までも何人かの要人が拉致された前例があるらしく、それを防ぐために我々もこの地方の衣類を身に着けていたと言うのだが、それも大して効果はなかったようだ。そして彼等にとっては、王国側に迎合したファル達も同罪であり、今から行く場所の入口もそれらの理由から定期的に変えているのだと言った。


 今まで研究畑にどっぷりと浸かっていた私は、そのような国の情勢など露ほどにも知らなかった。私はファルに無知を嗤われた気がして、暫く口を閉ざした。


 一時間ほども歩いただろうか。やがて通路の奥から光が射し込み始め、唐突に道は終わった。そして代わりに現れた光景に私は驚きを隠す事ができなかった。そこには、街一つは入ろうかというほどの広大な地下空間と、研究施設があった。


 ファルが言うには、私達が中央大地で研究していた場所が現国王の私設研究機関ならば、ここはゼノウル・アラウス国王の私設研究機関にあたるのだと言う。


 しかしこれほどの規模の施設を創り上げるとなると莫大な労働力と資金がいるはずだが、それも当然の事ながらゼノウル・アラウス国王が出資したのだそうだ。そして律儀にもゼノウル・アラウス国王が亡くなってからも脈々と研究は受け継がれ、研究の閉塞化を防ぐためにも、ファルのような人材が定期的にこの場所から各大地へ「留学」しているのだと言う。


 研究施設の規模は私達が研究していたタファ・アラウス国王の研究施設よりも大きく、ゼノウル・アラウス国王の、永遠の命に対する執念を私は感じないではいられなかった。


 私はそこでファルからこの施設にいる者達を紹介された。と言っても全員で三十人にも満たない人数だったが。彼らは私とファルの関係性をすでに心得ていて、ささやかではあるが私達の事を祝福をしてくれた。


 ただ私はこの時なぜかはわからないが原因不明の違和感を感じていた。私達を祝福をしていながら、どこか異物に対するものに向ける嫌悪感のような感情。そんな視線をどこからか感じるのだ。そしてその事に対してもう少し周りに気を配れていれば、後になってあのような悲劇は起こらなかっただろうと、生涯に渡り私は後悔をする事になるのだ。


 とにもかくにも私と始祖の民の研究者達は、その研究施設で産み出された成果の数々と私達が産み出した研究の成果を持ち寄り、不死の研究を再開した。始祖の民の研究で産み出された薬や発見は、私の常識をはるかに超えたものだった。


 生命に宿る魂を剥離する薬、そして再び癒着させる薬。モノに籠る想いや念などを五感で感じられるようになる薬。そしてその想いや念を吸い取ってしまう奇妙な物質。どれもこれも紹介されてはいそうですかと納得できる物など一つもなかった。


 これらを見て、寧ろ私よりもここにいる者達の方がはるかに錬金術士の名に相応しいのではないだろうかとその時私は思ったものだ。


 そもそもにして想いや魂など目には見えない物をどう研究するというのだ。そう思いながらも数々の臨床試験と結果を前にして、私はそれらを信じる他なかった。研究者にとっては結果が全てだ。明らかな結果を前にして反論などできようはずもない。


 この地に来て半年が経った頃。唐突に薬は完成した。と言っても人間で臨床試験を行う事はできないので、人間に最も近い遺伝子を持つチンパンジーでの結果だが。


 ――ここに来て突然薬品の作成工程や実験の内容を端折ってしまったのには理由がある。私はこの研究施設に於いて何も書くようなことを行っていないのだ。それがなぜなのかは、以下の薬の説明を読んでもらえればわかる事と思う。とにかくここで薬のメカニズムを紹介しておくとしよう。


 まずベースの薬として、私とファルが中央大地で開発した遺伝子複製機構活性化の薬と、毒性を弱めたヒト乳頭腫ウイルスとの混合薬を使う。これで少し毒性と活性度の低いケルメラ細胞ができ上がる。そこに毒性を抑制し且つ細胞分裂時の染色体異常を防ぐため、肉体と魂をより強く結びつける薬を混ぜ込む。これにより細胞の一つ一つにまで意識が通うようになり、その個体の生存本能により異質な細胞を排斥できるようになるのだ。


 例えば体の一部が傷ついたり欠損したりしても、活性化した遺伝子複製機構によりすぐさまその部分は修復される。その時に異常な細胞ができたとしてもそれはすぐさま必要のない細胞として体外に排出されるのだ。要するにこの薬は、細胞の一つ一つが自分であり同時に別の自分でもある。そしてそれをある程度コントロールする事ができるようになる薬なのである。


 ただ一つ難を言えば毒性を抑えるためにケルメラ細胞よりも活性度を抑えたため、不死ではあっても不老ではなくなってしまった。この事により、この薬単体での永遠の命は叶わないが、その点に於いてはある環境を整える事により限りなく永遠の命に近いものを確立する事が可能となった。だがそれはまた別の項で説明したいと思う。


 以上が完成した不死薬の説明だ。簡結に書いたが実際には細やかな混合比率や薬品の調合など、かなりの繊細さを要求される薬である。しかも私にこの薬の調合はできない。なぜなら調合のタイミングや配合は、モノの想いを視たり聴いたりできるようになった者にしか行えないからだ。彼等いわく薬と対話を行ないながら調合するのだそうだ。


 もし私がこの薬を調合するとなると、始祖の民が創り出した生命の想いや魂を五感で感じられるようになる薬を飲まなければならない。


 私は薬を勧められたが、薬の恐るべき副作用を聞いて辞める事にした。薬を飲んだ者は二度と元の体に戻る事はできない上に、三日三晩高熱と幻覚に悩まされるのだと言う。熱や幻覚はともかく体が元に戻らないのは困る。ネズミや猿など被検体の恨めしい声など聴こうものなら頭が狂ってしまいそうだ。


 実際それらを感じられるという者達は、感情をどこかに置き忘れてしまったのではないかと思うような虚な表情をしていた。薬の作用から推測するに、もしかしたら脳の構造、いや、遺伝子レベルの改変がその薬で成されるのかも知れない。世の中には知らないでいた方がいい事が多々あるのだ。


 それともう一つ、この薬の特性として生きている個体にのみ有効な薬だという事がある。そうこの薬は生体反応が全くなくなった個体には作用しないのだ。つまり完全に死んでしまった者を生き返らせる事はできないという事だ。このまま研究が進めば或いはそういった反魂薬的な薬も作れるのかも知れないが、今現時点の科学と始祖の民の技術では、ゼノウル・アラウス国王の望んだ永遠の命は叶いそうにはない。


 さてこうして薬は完成したわけだが問題はまだあった。その問題とは、果たしてチンパンジーで実験が成功したからといって、本当に人間の身にこの薬が作用するのかという事だった。それを確認するには人間に薬を投与するより他ないが、まさかタファ・アラウス国王でいきなり試すわけにもいくまい。かと言って誰か適当な人間に飲ませる薬にしては薬の効果が危険すぎるし倫理的な問題もある。


 私はファルにこの問題をどうするべきかと相談した。するとファルは何という事はない問題だと言い、どこからか一人の人間を連れてきたのだ。


 その人間は頭の先から爪先まで真っ黒な布を被っており、動く度に何かが腐ったような臭いを発していて、何も喋らずただファルの言うがままに従っていた。


 当然私はこの黒尽くめの人間の事が気になりこれは誰なのかとファルに尋ねた。ファルはこう答えた。この人間は、ゼノウル・アラウス国王の細胞から創り出した感情も魂も持たない人間の出来損ないなのだと。


 当初の研究では、この人間擬きをゼノウル・アラウス国王の魂の依り代にするつもりだったのだとファルは言った。


 ファルの言葉が私には信じられなかった。そんな事ができるのだろうか。いや、そんな事ができたとして果たして許されるのだろうか。ファルの今までの話によると、始祖の民は古くより生命に宿る魂を扱ってきたはずだ。言ってみれば私が育ってきた環境よりも、より生命に近しいところで生きてきたはずなのだ。ならばなぜそのような残酷な事ができるのだ。私はファルに詰め寄った。


 ファルは私に何を言っているのだという顔で応えた。研究者が研究対象に何ら感情を抱く事はないと。そう。ここにいる始祖の民にとって、生命の魂とはただの研究対象でしかないのだ。私は自分で自分に研究者であり倫理学者ではないのだと言い聞かせ、感情に蓋をする事にした。いや、蓋をしたように装った。


 ファルはゼノウル・アラウス国王の分身を、魂を亡くした者として亡者と呼んだ。私は亡者の培養方法を敢えて訊かなかった。科学者としての目で見てなんとなくは推測できるが、その方法は想像するだけでも吐き気を催すものだったからだ。


 感情に蓋をした私は亡者に対して不死薬を投与した。魂を持たない亡者に薬が効くのかという問題は、ファルがどこからか無理矢理に引き剥がして来た魂を、モノの想いを吸い取るという黒く鈍く光る玉を媒体にして、亡者に擬似的な魂を与える事により回避した。この実験が成功したとして、私の感情が元に戻るのかどうか自信がない。


 そして実験は成功した。実験の成功の報せはただちにタファ・アラウス国王にも伝えられた。私とファルは完成した薬を手に、その翌日凱旋する事となった。


 実験が成功した日私は、古くグロテスクな街並みを赤く染めている夕陽が落ちて行くのを、ただ無感動に見つめていた。赤く鋭い夕陽の色は、街の陰影をより濃く浮き上がらせ、この街の闇を表面に滲み出させているように思える。私がこの街で成した事は正しい事なのだろうか。


 ふと気がつくと傍にファルが立っていて、私と同じ光景を見ながら美しいと称した。私はそれを聞いてなぜだかわからないが苛立ちを覚えた。そして、ファルにも感情があるのだなと言った。今思えば、なぜあの時あんな事を言ってしまったのかと、今でも後悔する事がある。ファルは涙を流していた。そして何も言わずその場を離れて行った。


 私はそのままいつまでも、暗くなってゆく街並を身動ぎもせずにじっと見ていた。


 翌日早朝私とファルは、一言も口を利く事なく王国鉄道に乗り込み、タファ・アラウス国王の待つ中央大地へと向かった。周りの者達は私とファルを見て、誰も私達の事を夫婦だとは思わなかったに違いない。


 中央大地まで後三十分ほどで到着しようかというところで、唐突に事件は起こった。始祖の民解放軍によるテロだった。


 私には始め何が起こったのかわからなかった。進行方向から突然大きな爆発音が轟き、私達を載せた客車は急停車した。それから何事かと戸惑っていると、周りにいた乗客達が私達を取り囲み、重火器を取り出して私達を護るように円陣を組み始めた。そして私達に、慌てずに従ってくれと言ったのだ。


 私はその時彼等がタファ・アラウス国王の差し向けた護衛なのだと初めて気がついた。


 つい昨日までただの研究者であった私達に、テロに対する術などあろうはずもなく、私とファルはおとなしく彼等に従う事にした。


 やがて先頭車両の方から激しい銃撃戦の音が聞こえ始め、突如として降って湧いた生命の危機に、私は身を震わせ恐怖に耐えていた。なぜこんな目に遭わねばならぬのか。なぜ一介の研究者がこんな目に。そこまで考えたところで、私が研究者だから狙われたのだと気がついた。いや、始祖の民の街に着いた時に気づくべきだったのだ。私は自分の危機管理能力の低さに辟易した。


 そうしている間にも私達をつけ狙う死の音は近づいていて、気がつけばそれらの音は、隣の車両から聞こえるまでになっていた。


 私とファルは一般人に扮した兵士に促され、音のする方とは逆の後部車両の方へと移動を始めた。そして車両と車両を繋ぐ連結部分に差しかかった時だった。私達を白く眩い光が包み込み、これは何かと考える暇もなく私の身体は宙を舞っていた。それから兵士達の体や肉片が私の目の前を通り過ぎるのを見て、初めて私は何か爆発に巻き込まれたのだと認識したのだ。


 なぜ私とファルが爆発に巻き込まれるのだ? 辺りに広がる地獄の光景を見ながら私はそんな事を考えていた。それは兵士であるから犠牲になってもいいとかそういう次元の話ではなく、始祖の民の街でファルが言っていた事を思い出したからだった。


 解放軍は要人を拉致し、それを楯に王国側に何かを要求する。そのはずではかったか。そうであるならば、私とファルが死んでしまっては元も子もないはずだ。しかしその答えは、この後すぐわかる事になるのだが……。


 私はそれからすぐに考えるのを辞めてファルと薬の安否を探った。薬は対衝撃性に優れた強固なケースに入っていたため見たところ大事はなさそうだった。しかし問題はファルだった。


 ファルはむせ返るような匂いを放つ血の海の中で、兵士と兵士の間に折り重なるようにして倒れていた。私はファルに急いで駆け寄ると、息がある事を確認し、身体の具合を調べ始めた。しかしファルの身体は調べるまでもなく、息がある事が奇跡のような状態であった。


 この状態のファルを救うには手立ては一つしかない。不死薬を使うのだ。幸いにして予備の薬はある。ファルに薬を投与してもタファ・アラウス国王の分の薬は残る。そう考えた私は、不死薬の入ったケースを開け、ファルの腕を取った。そしてファルの腕に注射針をあてがったところで、激しい衝撃と焼ける痛みを胸に感じた。


 一瞬何が起こったのかわからなかった。しかし、喉の奥から溢れ出る血と同じように胸の辺りから流れ出る血を見て、私は自身の身に何が起こったのかを察した。背後を振り返ると憎悪の表情を浮かべた男がいて、その男は始祖の民の研究施設にいた男だった。


 男は私への呪詛の言葉と、ファルに対する好意と憎悪を寄せる思いを口にしながら近づいて来る。手には私を撃ったであろう重火器が握られていた。


 なぜ私とファルが爆発に巻き込まれ命を狙われたのか、そしてなぜ私とファルがこの中央大地行きの王国鉄道に乗っている事が解放軍に漏れていたのかを悟った。


 男はファルを奪った私の事が憎かったのだろう。そして不可抗力とは言え、その状況に甘んじたファルも同様に憎かったのだろう。


 始祖の民の研究施設で初めに感じた違和感の正体。それはこの男の憎悪の視線だったのだ。しかし今更その事に気がついたところで私には何もできない。私はその時死を覚悟して目を瞑った。


 早鐘のように心臓が鳴りそれに合わせて壊れたポンプのように血が溢れ出て来る。遅かれ早かれ私は死んでしまうだろう。せめて最後にファルと話をしたかった。私は目を瞑りながらそんな事を考えていた。そして私のすぐ側で重火器が火を吹く音が聞こえた。


 痛みはなかった。死とは痛みすら感じぬものなのか。そう考えていた私の耳に、男の呻き声と人間が倒れるような鈍い音が聞こえた。そっと目を開けると、目の前に倒れた男と重火器を手にしたファルがいた。ファルは私が持っていた注射器を私の手からそっと抜き取ると、私に薬を投与した。


 ――私はファルを抱きかかえると、なぜなのだと問うた。それに対してファルは、息も絶え絶えに詫びなのだと答えた。長い間私の事を謀っていた詫びなのだと。


 謀るとは何なのだ。私には何の事だかまるでわからなかった。そんな私の思いを察したのかファルは続けた。自分は生命の想いや魂を五感で感じる事ができるのだと。そして私のファルに対する思いを知りながら、その気持ちにつけ入り利用した心のない傀儡人形なのだと。


 私はそれを聞き、それは違うと慌てて否定した。利用したのは私なのだ。自らの立場を利用し国王の勅命だと言ってファルを妻として娶った。私のそんな子供のような我儘な気持ちがこんな事態を招いた。詫びなければならないのは私の方なのだ。それにファルには感情があるではないか。昨夜流した涙がその証拠ではないか。私はそうファルに伝えた。


 ファルは力なく笑うと涙を流した。腕の中でファルの鼓動が小さくなっていく。それに反して私の体は薬の効果で力が漲っていく。不死の身体など要らぬ。永遠の命など要らぬ。ファルのいない人生など……。


 私はその時唐突に思ったのだ。薬ならあるではないかと。タファ・アラウス国王の分が。国王には、薬は賊に奪われたと言えばいい。始祖の民の研究施設があれば薬などいくらでも作れる。


 私は薬を取ろうとケースを探した。ケースはどこにもなかった。


 なぜだ。今の今まで私のすぐ近くにあったではないか。今薬を打たねばファルは死んでしまうと言うのに。薬はどこに行ったのだ。私はどうしたらいいのだ。


 私はなす術なく冷たくなっていくファルを胸に抱き、只々涙を流す他なかった。


 ほどなくして始祖の民解放軍は、中央大地から派兵された王国軍の手により速やかに鎮圧された。それから私は王国軍に保護される事となった。不死の薬は一体どこへ消えてしまったのか。その答えはすぐにわかる事となった。


 王国軍に保護された私は、タファ・アラウス国王の元に速やかに連行され、この度の事件に対する労いの言葉と不死薬の開発に於ける説明を求められた。


 私は茫然自失のままにタファ・アラウス国王の問いに答えた。そして一通り説明が終わると、国王は配下の者に見覚えのあるケースを持って来させた。そう、不死薬の入ったあのケースだ。何の事はない。薬はなくなったわけではなく、あの時生き残った兵士が一足先にタファ・アラウス国王の元へ薬を届けていただけの話だ。


 私は不死薬をその場で粛々と国王に投与するとしばしの休息を願い出た。


 タファ・アラウス国王は、私の申し出に対して始めこそ渋っていたが、ファルの事を持ち出し喪に服したいのだと伝えると、それも止むなしとされたのか、私は暇を戴く事ができた。


 それから暫くは、私が不死薬の事を口外する事を恐れたのかどこに行くにも監視の目がついて回ったが、私のファルを喪った事による無気力さ加減に安心したのか、その監視の目もいつの間にか消えていた。


 その後風の噂で、ゼノウル・アラウス国王の創ったあの始祖の民の研究機関は、タファ・アラウス国王の手によって解体されたと聞いた。これにより今後不死の薬が造られる事はなくなっただろう。


 私はその後、タファ・アラウス国王の研究機関で共に研究していた仲間の元を巡り多くの知識を得た後、ポイオスサトゥスゥの国を後にし、海を渡った。それから私は一度もポイオスサトゥスゥの土を踏んでいない。これから先も踏む事はないだろう。いや、正確にはもう踏む事ができないのだが。


 最後にこの書の結びとして不死薬を永遠のものとする方法を記そうと思う。しかし、単純に答えだけを書いても面白くはなかろう。後世にて、この書を読み解く者が現れる事を期待して少し謎かけめいた書き方をするとしよう。


『不死の薬を永遠のものとするには、自らの脳を中心に据えた完全なる地球を作れば良いのだ。然すればこの薬を用いた者に永遠の命は与えられるであろう。錬金術士ーーサガリバーグ・ド・ラティンソンシャン』


 おや? 今日もプラタナスの木の下にあの子供が来ている。あの子供は聡明だ。私も話していて楽しい。確かヒポクラテスと言ったか。今日の予定は全て彼のために充てるとしよう。



「おいおいなんだこりゃ? こんなわけのわからないものを信じろって言うのか?」


 坂崎の顔色はこの手記を読む以前よりも明らかに悪くなっている。無理もない。いくら常識から外れた状況に立たされているとは言え、これほどまでに荒唐無稽な話をすんなり信じろという方が無理なのだ。坂崎は二箱目になる煙草の封を切りながら、苛立たしげにぬるくなったコーヒーを飲み干した。


「でもこれ凄いっすよ! もしここに書いてある事が本当なら古代ギリシャ以前に現代並みの、いやもしかしたら現代よりも発達した文明があったかも知れないって事ですよ!」


 明松の言う通りだ。文明がどうたらこうたらはいいが、ここに書いてある事が本当の事ならば俺は死ぬ事ができる。いやそれどころか、魂を切り離す薬という物を使えば元に戻る事ができるかも知れない。それにはこの体では無理だ。この体では薬を飲む事はおろか注射すら無理な話だ。やはり一刻も早く自分の本体と合流しなければならない。


「なんでそんな事がわかるんだ。古代ギリシャなんて事はどこにも書いていなかっただろう」


「ヒポクラテスですよ! 医学の父です! このこここれのここに書いてあるじゃないですか。彼は哲学者のソクラテスと並んで古代ギリシャの有名な大学者です! 世紀の大発見じゃないですか!」


 明松は、本の一番最後に書いてあるページを見せながら興奮気味に言った。しかし坂崎にとって本に書いてある事はすでにどうでもいいらしく、興奮する明松を冷ややかな目で見ながら言った。


「あのなあ明松。俺達の仕事は学者じゃない刑事だ。人や物を疑う事が仕事なんだよ。そんなもんどこかのボケ老人が適当に書いた作り話に決まってるだろうが。騙されてるんじゃないぞ。何が魂だ。何が永遠の命だ。そんなもんあるわけがないだろうが。そんな事よりとっとと水上挙げて、このわけのわからん事件を終わらせるぞ」


 一度は明松の話を信じかけていた坂崎だが、あまりにも荒唐無稽な話を聞かされたばかりに全てを否定する方向の考えに変わったようだ。話を信じるも信じないも個人の自由だ。俺自身信じていいものか迷っている。だからそれはどちらでも構わない。それよりもさっさと俺の本体を見つけて事件を終わらせる。その意見には俺も大いに賛成だ。やはり明松よりも坂崎の方が俺とは意見が合うようだ。


『俺も坂崎さんの意見に賛成だ。俺の知りたい事は大体わかった。早く俺の本体を追おう』


「水上お前まで……」


 坂崎が腰を上げても尚ぶつぶつと言い続けている明松を置いて、坂崎は店を出て行った。俺は明松を促した。店のマスターが明松の事を妙な物でも見る目で見ている。


「どうせなら坂崎さんに憑いてりゃ良かったのに」


 俺は心の中で明松に同意した。




 五反田の街から目黒にある鳥居の事務所に抜ける道を、坂崎は何か考え事をしているような顔で歩いて行く。その道は俺が鳥居の事務所に向かうにしても使うであろう道筋とほぼ同じだった。それは時折感じる本体の残した思考が読み取れる事からも確かだ。間違いなく俺の本体は昨晩この道を使っている。そしてその道すがら何人もの人間に危害を与えている。


「坂崎さんどこに向かってるんですか?」


 明松は坂崎の一メートルほど後ろをついていきながら訊いた。坂崎は面倒臭そうな顔を明松に向ける。


「決まっているだろう。鳥居の事務所だ」


「でも水上の本体は鳥居の事務所からどこかに逃げたって……」


「本体なんて言うな。水上と呼べ。頭がおかしくなる。――水上の最後の足取りがそこで切れている以上行かんわけにもいくまい。それに亀井の言う事は今ひとつ信用できん。あいつはマル暴の立場を利用して何か良からぬ事をやってるって噂だからな。鳥居と裏で何か口裏合わせでもしていたらかなわん」


 坂崎は明松に諌める口調で言う。老人の本を読んでからこっち、坂崎は俺の存在すらもなかった事にしたいらしい。


「良からぬ事ってなんですか? 俺そんな噂聞いた事ないですよ?」


「ああ? お前が知らんだけだろう。それにそんなもんちょっと考えりゃ幾らでも思いつくだろうが。薬の横流しから売春の斡旋。その他諸々の犯罪行為に対するお目こぼし」


「そんな! そんな事あるわけないじゃないですか! そんな事もしあったら大問題ですよ。警察の信用問題に関わります。それに亀井さんはこの辺管轄でもトップを争う検挙率なんですよ?」


 明松は泡を食ったように反論する。


「わかってるよ。あくまで噂だ。まあでも俺から言わせりゃその検挙率ってのもかなり怪しいがな。あいつの挙げる奴等はみんな組関係の小者で組からすりゃトカゲの尻尾みたいな奴等ばかりだ。それこそ今回のように水上みたいにな」


 突然話の矛先が俺の方を向き、俺は何か鋭い刃物で斬りつけられたような気持ちになった。トカゲの尻尾。そう言われても仕方がない。斎藤は多分俺の事を始めから切り捨てるつもりだったに違いない。


 俺は幼い頃に見た、焼けたアスファルトの上でのたうつトカゲの尻尾を思い出した。


 下校途中そのトカゲは突然俺の目の前に現れた。そして虹色に光る肌を持っていた。生物でありながら、無機質な金属を思わせる妖しい光沢を持つ不思議な存在。俺はそのトカゲを何とかして捕まえたかった。背後から忍び寄り死角から飛びかかる。しかし、生存本能に裏打ちされた素早い野生の動きに俺はなす術もなく翻弄され、気がつけば後に残されていたのはグロテスクにのたうち回る五センチほどのトカゲの尻尾だけだった。


 坂崎に言われるまでもなくその姿はまさに今の俺だった。斎藤に切り捨てられ挙句自分自身からも忘れ去られ他人の身体を借りて無様にのたうち回っている。


「おい水上。言われてるぞ?」


 明松の軽口で俺の思考は現実に引き戻される。俺はそれを黙殺した。


「まあともかくかなり穿った見方だが俺の目には亀井が裏で何かやってんじゃないのかって映るぜ。じゃなきゃ説明がつかない事が多すぎる。だからとりあえず鳥居に話でも聞くさ」


 坂崎はそう言いながら道の先にある建物を示した。いつの間にか俺達は鳥居の事務所に着いていた。事務所の入り口では何人もの警察官が出たり入ったりを繰り返し、この場で起こった事件の大きさが伺えた。


 ここで俺は何をしたのだろうか。亀井が言うには、俺は鳥居の事務所で十七人もの人間を死傷させている。そのあまりにも常軌を逸した所業は正気の沙汰ではあり得ない。


 鳥居の事務所に行けば、あの中華料理屋やここに来るまでの道で感じたように本体の意識が自分の中に流れ込んでくるのだろう。狂った自分の思考を知る事が少し恐ろしい気もする。しかし本体の行方を知るためには恐ろしくともそれを知らねばならない。


 坂崎と明松はその辺にいる警察官に声をかけながら事務所の入り口に近づいて行く。地面には赤黒い染みが至る所についていて、この場での惨状を、つぶさに示していた。


 それらに意識を向けていると突然激しい攻撃衝動の意識が流れ込んでくる。


 事務所の入り口に男が六人。俺の本体は全身に銃弾を浴び吹き飛ばされながらも全員を撃ち殺していく。それから入り口に現れた男の頭を銃で吹き飛ばし事務所の中に入って行く。


 坂崎と明松が事務所の奥に入って行くにつれて、俺の本体の所業が次々と明らかになっていく。


 事務所に入った俺の本体はすぐさま四人の男を撃ち殺し、階段で三階に上がるやそのまま六人の男を撃ち殺した。それから奥にいたメガネをかけた男に突進した後、――俺の本体はその男に組み敷かれそこでプツリと意識が途切れてしまった。意識が途絶えたという事は俺の本体は気を失ったのか? これはどういう事だ。俺はこの後どこかに逃げたんじゃないのか?


「久し振りだなあ鳥居。今回はまたえらい目に遭ったもんだ。なあ?」


 坂崎の声に我に帰った俺は部屋の中に意識を戻した。部屋の中には明らかに堅気ではない男が三人と、坂崎のすぐ目の前に俺の本体を組み伏した男がいた。この男が鳥居か。しかし久し振りとは坂崎は鳥居の事を知っているのだろうか。


「ええ本当ですよ。見てくださいよこの部屋。警察は何をやってるんですか?」


 鳥居は部屋の惨状を手で示しながら、ぞんざいな態度で言った。部屋の中はあらゆる物が散乱していて、あちこちに割れたガラスの破片や血痕。そして拳銃の弾で空いた穴があった。


 坂崎はそれらを見ようともせず鼻であしらう。


「ところでこの事務所を襲った男の事は知ってるな?」


「ええ知っていますよ。柳川会系列の斎藤って奴が使ってた水上とかいう下っ端でしょう。――あっ、この事務所は禁煙なんです。遠慮してもらえますか?」


 鳥居が坂崎を諌める。坂崎を見るとスーツの胸ポケットから丁度煙草を取り出すところだった。坂崎は一瞬迷ったように動きを止めたが、結局そのまま煙草に火をつけると煙を鳥居に向けて吐き出した。


「何の冗談だ。極道が嫌煙家とは」


 鳥居は煙を手で払いあからさまに嫌そうな顔をする。


「酷い偏見ですね。それに一般市民を捕まえて極道とは人聞きが悪い」


 坂崎の顔色が一瞬にして険悪なものに変わる。


「一般市民だ? 未成年の娘にシャブ食わした挙句殺した奴のどこが一般市民だ!」


 坂崎は鳥居の胸ぐらを掴み声を荒げた。部屋の中にいた三人の男が坂崎に駆け寄る。しかし鳥居はそれを目で制した。


「やだな坂崎さん。それ私のやった事じゃないでしょ? ちゃんと犯人は捕まっているじゃないですか。それともまた……」


 鳥居は言い淀むと明松の方をチラリと見た後口元に笑みを浮かべた。坂崎は鳥居から手を離し悪態を吐く。どうやらこの二人には過去に因縁があるらしい。


「まあいい。じゃあこの事務所を襲った水上はどこに行った?」


「そんな事知りませんよ。こっちは被害者なんだ。水上をけしかけた斎藤にでも訊けばわかるんじゃないですか?」


 鳥居は笑みを浮かべたままどうでもいい事のように言った。


『おい明松。鳥居は嘘を吐いているぞ。俺の本体はこいつに捕まっているはずだ。この部屋の記憶を読み取ったから間違いない』


 明松は何も応えない。


『おい! 聞いているのか?」


 俺の声が聞こえないのか? もう一度大きな声で呼びかけようとしたところで明松がゴソゴソとスーツのポケットをまさぐり始め、中から携帯電話を取り出した。


「ちょっと失礼。――なんだ?」


 明松は二人に声をかけると携帯電話を耳に当て部屋の外に出て行く。なるほど悪くない、これならば変に思われる事もないだろう。よく考えた物だ。


『鳥居は嘘を吐いている。俺の本体はこの部屋を襲ったが銃の弾切れで鳥居に組み伏された。それから多分頸動脈を押さえられたんだろうな。急に意識が途絶えた』


「お前は不死身だったんじゃないのか?」


『酸素だ。多分酸素が急に脳に行き渡らなくなり脳の機能が一時的に落ちたんだと思う。俺もあのバスタブでの記憶が一時的になかった』


「しかしあの店でもらった本には無酸素でも細胞は活性化すると書いてあったぞ?」


『難しい事はわからん。活性化するまでに時間がかかるんじゃないのか? とにかく鳥居は嘘を吐いているこれだけは間違いない』


 明松は考え込むように首を傾げると頭を掻いた。


「しかしなあ。それをどう伝えたらいいんだ? まさか直接鳥居にあなた嘘吐いてますよねと訊くわけにもいかんだろう」


 それもそうだ。変に勘ぐって怪しまれるのは今後のためにも良くない。一度ここを出て準備をしてからでも遅くはないはずだ。


「おい明松。行くぞ」


 不意に背後から坂崎の声が聞こえ明松は振り向く。見ると坂崎はすでにエレベーターの籠に入って行くところだった。


「あっ! 坂崎さん待ってくださいよ!」


 そう言いながら慌てて明松は坂崎を追った。


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