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狭間堂ー時知らずー  作者: かつを
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黒星

良くも悪くも実験的小説とになります。批評批判あると思いますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

 狭間堂―時知らず―


 やっと終わる。


 降りしきる雪の中、俺の胸に去来したのはそんな言葉だった。


 気がつけば、自分の歩んで来た道の跡には、夥しい数の死だけが残っていた。その中には俺が殺したものもあるし、俺とは関係のないものもあった。いや、関係ないといってもそれは直接の原因が自分ではないというだけで、実際には深く関係しているのだが。


 しかしそんな死の連鎖もとうとう終わりを迎える時が来たのだ。だからもう何を考えようとも、それは自分には関係ないし、この後世界がどうなろうとも関係ない。そう考えて、意識に蓋をした。


「……て言うかよ、さわ先生も無茶な事言うよな。こんな時期にいるわけねーって」


「しかたがないよ。しゅんちゃんが夏休みの宿題一個もやって来なかったんだもの」


 不意に意識の外から声が割り込んでくる。蓋をしたはずの意識は、今まで歩んで来た異常な道に対して、余りにも平常すぎる会話に触れ、過敏に反応する。


「そんな前のこと持ち出すなんてあんまりじゃねえか。それに見ろよ、今日なんて朝から雪降ってんだぜ? ぜってえ無理だ。なのにさわ先生のやつ、探せば必ずいるはずとか言ってよ」


「言っててもしょうがないじゃん。とにかく探してみようよ」


 会話の内容から察するに、話しているのは二人の少年のようだが、どうやら何かを探しているらしい。


「ちぇっ、ゆきおはいいよな頭良くってよ。――あっそうだ、ハンズに売ってあるやつ買ってよお、それ持ってったら駄目かな」


「ずるは駄目だよ。それにさわ先生すごく勘がいいから、嘘なんか吐いてもすぐにばれちゃうよ」


 二人の少年が何を探しているのかは知らないが、次第に足音はこちらに近づいて来る。眠りに就きかけた身体を無理矢理に動かし、俺は二人に見つからぬよう植木の影に身を潜ませた。


 二人が言った夏休みの宿題という言葉が、なぜか胸をざわつかせる。


「しゅんちゃん、あれっ」


 ゆきおと呼ばれた少年の、何かを見つけたぞという高揚を含んだ声が聞こえる。どうかそれが自分でないようにと祈った。その時不意に、顔を血で濡らした男の事が思い出された。それは俺の歩いてきた道の跡に残った、最初の死だった。


 男の耳は、俺が撃ち損じた弾で無惨に弾け飛んでいた。男は俺の足下で、「頼む助けてくれ」と懇願していたが、それを無視して引金を弾いた。


 乾いた癇癪玉のような音が室内に響き渡り、男の顔がザクロのように破裂したと思った次の瞬間には、後頭部から血の混じった脳漿が飛び出て、絨毯の上に派手な模様を描いていた。




「武雄、やれるか?」


 声と同時にずしりとした重みを両手に感じた。やれるかと訊いているにも関わらず、俺の手にそれを持たせる意味、それは目の前にある選択肢は一つしかないということ。答えは「やれる」それの一択。声の主の目をしっかりと見て俺は頷いた。


 声の主はそれを見て、先ほどまでの険しい顔つきから一転して破顔した。


「おいてめえら武雄はやっぱり漢だ。てめえらもちったあ武雄の事見習いやがれ」


 室内にどよめきと歓声が上がる。何人かは俺の肩を乱暴に叩いた。しかし手の中にある重みのせいで、その声や感触が、どこか遠い世界での事のように感じた。俺にとっての現実は、今掌に感じるこの重みだけだ。


 改めて手の中にあるものを見つめる。


 黄土色の産衣に包まれたそれは、早く産声を上げたくて仕方がないと、震えているように見えた。


「どうした武雄。武者震いか?」


 違う、震えていたのは自分だった。肩に力強い熱と重みを感じ、俺は顔を上げた。そこには先ほど大声を上げていた声の主がいた。声の主の名は斎藤正夫。


「斎藤さん、俺、やれますかね」


 斎藤の顔に険しい色が浮かび、俺は殴られることを覚悟した。


 斎藤は軟弱を何よりも嫌った。やると言ってできなかった者には、容赦なく制裁を加えた。俺もその例外ではなく、今までに何度も斎藤の拳を味わってきた。しかし自分が今から行う事の恐ろしさに、訊かずにはいられなかったのだ。


 拳は飛んで来なかった。その事を訝しみ斎藤の目を見る。斎藤は笑っていた。


「武雄、お前俺と初めて会った時の事覚えてるか」


 忘れるはずがない、その日は俺にとって二度目の誕生日みたいなものだった。


 酒とギャンブルに狂った父親を持ち、家に借金取りが来ない日はなかった。そしていつしか親父は消えた。いつ消えたかは憶えていない。いつの間にか家にいなかったのだ。


 そんな劣悪な環境に育った俺は、劣等感という薄汚れた衣をまとい、いつしかそれは俺の全てを卑屈という殻に閉じ込めさせた。その殻を破ってくれたのが斎藤だ。


 俺は世の中の全てに怯え、それを隠すために粋がり、周りにある全てに反発していた。教師、親、街で粋がる自分と同種の人間、それら全てが疎ましく憎かった。


 行き場のない鬱屈した負の感情を、街で暴れることで発散した。斎藤と出会ったのはそんな時だった。


 斎藤は俺のことを容赦なく嬲り痛めつけ、俺を覆う殻ごとぶち壊した。その日俺は、生まれて初めて殻の外に這い出たのだ。


 高校時代、ドブ底のように荒れに荒れ腐った生活を送っていた俺を、暴力で叩きのめすことで引っ張り上げてくれた恩人斎藤。


 その時斎藤は、俺の目を見てこう言った。


「お前という人間の価値は俺が決めてやる。何も訊かずについてこい。お前は無価値じゃない」


 家でも学校でもクズだゴミだと言われ続けていた俺に、斎藤は価値があると言ってくれた。斎藤の生きている世界が、親や教師にとって決して誇れたものではないと知っていたが、俺には斎藤の事が、ドブ底に射し込んだ眩しい太陽に見えた。


 夜の世界に燦然と光る黒い太陽、親や教師の事がどうでも良くなった。


 自分の事を無価値なゴミだと言う人間達に対して、価値があると言ってくれた斎藤。考えるまでもない、俺は斎藤について行くと決めた。


 それから俺は、斎藤という黒い太陽に惹かれ憧れた。斎藤のように、夜の世界に輝く存在になりたいと願い、斎藤と同じ世界へと足を踏み入れた。


 ――俺は斎藤の目を見て頷く。


「あの日な、俺はお前の目を見てこう思ったんだ。こいつはもしかしたら、いつか俺の前に立ちはだかる邪魔な存在になるかも知れないぞ。ならこいつをどうするか、今殺すかそれとも自滅していくのを待つかってな」


 斎藤から出た言葉に驚き目を見開いた。


「でも、斎藤さんあの時……」


「ああわかってる。俺はお前に対して、そのどちらでもない第三の選択肢『拾う』を選んだ。なぜだかわかるか」


 斎藤の顔は笑っていたが目は笑っていなかった。唾を飲み込む。斎藤が何を考えているかがわからなかった。


「好奇心だよ。あの時のお前は虫けらのようにちっぽけな存在だった。そんな虫けらに、なぜだかそんな事を思っちまった。面白いって思ったよ。自分を喰っちまうかも知れねえ奴を手元に置く、それも一興かもなって思っちまった。それでお前はとうとうここまで来た。このヤマ踏んだら一年くらいマカオで遊んで来い。それから帰ったら、お前も俺と同じ金バッヂだ。夜の街を俺とお前の二人して、肩で風切りながら歩く。こんな面白え事はねえ、なあそうだろう武雄」


 斎藤は言い終わると、左の肩を力強く叩いた。斎藤の胸に光る金バッヂが、斎藤の言葉が、意識を埋めていく。長く憧れた黒い太陽が、すぐ目の前で揺れている。俺はもう一度唾を飲み込んだ。




 バスルームから水の弾ける音と加奈の鼻歌が聞こえる。いつもならば神経を逆撫でする安っぽい石鹸の匂いや照明も、今日はひどく愛おしく感じる。斎藤が別れ際に放った言葉が、少し感傷的にさせているのかも知れない。


「武雄、明日から一ヶ月地下に潜れ。表には絶対出て来るんじゃねえ。わかったな。事の指示はこれに連絡する。連絡があるまで、絶対に動くんじゃねえぞ、いいな」


 そう言って斎藤が渡してきたのは、三世代は前の携帯電話だった。恐らく飛ばしだろう。携帯電話を枕元に置くと、ボストンバッグの奥にあるものの固さを確かめた。油紙の擦れるカサカサとした音が微かに聞こえる。


 斎藤と別れた後、すぐ近くにある公園の、アンモニア臭がきつく立ち込めるトイレに籠った。そこで斎藤から渡されたものを鞄から取り出した。


 有名百貨店の紙袋に放り込まれたそれは、黄土色の油紙に包まれていた。震える指で油紙を丁寧に広げていく。


 トイレの中に甲高く耳障りなカシャカシャとした音が反響する。中から姿を現した黒い鉄の塊、ソ連製のトカレフを中国が模した、通称黒星だ。


 紙袋の中には別に、灰色のボール紙でできた粗末な箱も同梱されていた。その中にはお馴染みの形をした、鉄の弾が六発入っていた。


 俺は黒星を手に持つと、グリップに形作られた五芒星を指先でなぞり、そのまま冷たく光る銃口へと指を這わせた。


 日常生活から大きく外れ、人や物を傷つけるためだけに作られたそれは、他の用途を想定していない潔い美しさがあった。


 黒星に弾が装填されていない事を確かめると、銃口を覗き込み引金に指を添えてみる。途端に手が震え、その震えが腕へ肩へ身体へと伝播していき、最後に足が震え始めると、抗いようのない不快なものが腹の中で暴れ始めた。


 俺は胃の中のものを、全て便器にぶちまけた。


 突然鳴り始めた携帯電話の着信音で、我に返る。枕元を見ると、そこに置いた携帯電話に変化はない。どうやら鳴っているのは元から持っている方のようだ。


 俺はボストンバッグの中から音を頼りに携帯電話を探し出すと、液晶画面を確認する。電話の相手は、何かといつも世話を焼いている、中嶋という男からだった。


「なんだ」


〈水上さん、今どこにいるんすか〉


「野暮な事訊くんじゃねえ」


 言いながらバスルームに目をやる。まだ加奈が出て来る気配はない。


〈あっ、女んとこっすか〉


 中嶋は下卑た笑い声を上げるとそのまま続けた。


〈ちょっと噂で聞いたんすけど、水上さん何かでっかいヤマ任されたんですか〉


 斎藤の地下に潜れという言葉が頭を掠める。しかし中嶋は暇さえあれば電話をかけてくる。釘を刺しておかなければならないのも確かだ。斎藤は明日からと言った。ならば大丈夫だろう。


「そんな話は知らん。だが明日から地下に潜る。だから中嶋、少なくとも一ヶ月は連絡してくるんじゃない」


〈それって斎藤さんからのヤマですか〉


「知らんと言っているだろう。空気を読め」


 そう言った後で、実質認めているのと変わりないと気がついたが、中嶋は話を聞くつもりが無いようだった。


〈やっぱりそうなんですね! わかりました! 明日から連絡は控えます〉


「控えるじゃない、連絡をするなって言ってんだ」


 唐突に水の弾ける音が止む。俺は空いたままだったボストンバッグのファスナーを閉めると、バスルームに目をやった。磨りガラス越しに加奈が動く気配を感じる。


「とにかくそう言うことだからわかったな。もう切るぞ」


 中嶋の返事を聞かずに電話を切り、さらに電源を切った。次に電源が入るのは一ヶ月後になるだろう。俺は携帯をボストンバッグにねじ込んだ。それと同時にバスタオルを巻いた加奈が、薄らと湯気を立ち上らせながら、バスルームから出て来る。


「今日はどうしたの? 急に会いたいなんて武雄らしくないじゃない」


 加奈は黒く長い髪をかき上げながら言った。中嶋との電話には気づいていない。


 軽く水分を拭き取っただけの髪は、いくつかの束にまとまり、黒くしっとりと光っていた。


 それを見て、俺はボストンバッグの中にある黒星を連想した。


 不意に吐き気が蘇り、口の中に酸っぱいものが広がる。だがそれを無理矢理に飲み込んだ。喉がひりつく。


 あんなもの高々道具に過ぎない。それがたまたま人を殺すための道具だっただけだ、俺を舐めるな。


 自分の中にある獣欲が滾るのを感じる。俺は本能のままに加奈を強引に引き寄せ、ベッドの上に押し倒した。乱暴に剥ぎ取ったバスタオルの下から、形の良い胸が露わになる、そこに手を這わせた。


「ちょっと武雄、今日本当なんかおかしいよ、何かあったの?」


 加奈の言葉を無視して、黒い髪に指を絡めると、強引に加奈の頭を自分の中心へと導く。加奈の声がくぐもった。


 道具は人に使われて初めてその使命を全うする。使うのは誰だ、使うのは俺だ。俺はやる。やってやる。使いこなして、夜に輝く黒い太陽に、絶対になってやる。




「加奈、俺は暫く姿を消す」


 腕の中に頭をうずめている加奈の黒い髪を弄びながら言った。加奈の髪はすでに乾いていて、指の間をくすぐるようにすり抜けていく。


「何なのよそれ、説明くらいしてよ。急に呼び出しておいてそれだけじゃ納得できない」


 加奈は上半身を起こし、俺の目を真っ直ぐに見つめながら言った。加奈の目には怒りの色が浮かんでいた。


「仕事だ、ちょっと遠い所に出張に行くだけだ。心配ない」


 一ヶ月間地下に潜り、その後マカオに一年。堅気の人間なら出張と言うよりも出向に近い日数、俺は人の目から隠れて生きる。


 しかもそのうちの一年は、言葉の違う異国の地で過ごさなければならない。そのことに少しの不安は感じるが、その先にある大きな存在が、胸の中の不安感を打ち消す。


「何よそれ、今時子供にだってそんな話通用しないわよ」


「お前は子供じゃないし頭もいい。俺の仕事がどんなものか知っているはずだ。もし誰かに俺の事を訊かれても知らないと言っていればいい。これ以上は何も言わなくてもわかるだろう」


 加奈の目に見る間に涙が溜まり、頬を伝い落ちていく。涙は俺の胸の上で微かな音を立てて撥ねた。


「嫌よ、そんなの。もう危ない事は辞めてよ武雄。お願いだから」


「危なくなんかない、心配するな。それにこの仕事が終わったら俺は……」


「嘘よ! 今日の武雄いつもと全然違う。それに何? 黒い太陽? 何それ、全然わかんないよ。武雄いつも言うけど、そんな形も何もないものになんでそんなに執着するの? 私武雄の事全然理解できないよ!」


 気がつけば加奈の頬を打っていた。


 黒い太陽、そんなものは偶像だとわかっている。それでも自分にとってはかけ替えのない目標であり、触れられて欲しくない現実だった。


 掌を見ると加奈の涙で濡れていた。部屋の中に加奈の嗚咽が響いている。


 自分にとって黒い太陽とは一体何なのか。それは金バッヂなのか、それとも斎藤の持つ独特なカリスマ性なのか。


 今まで何を目標に俺は生きてきたのか。加奈に触れられた事で初めてその事を考えた。曖昧模糊としていて、象のない偶像に翻弄された俺は、唯の独りよがりの莫迦なのか。


 ボストンバッグの中には黒星があり弾がある。後に引くことは身が滅ぶ事を意味する。今更後には引けない。


「加奈約束する、これが最後だ。明日から一ヶ月間俺は姿を消す。その後一年間マカオに行くことになってる。向こうに着いたら連絡を寄越す。そしたら加奈、お前も来い。ちょいと長目のハネムーンだ」


 加奈の嗚咽が止み、信じられない物を見る目で俺の顔を覗き込んだ。


「――それ、本気なの?」


「ああ本気だ。だからもう泣くな」


 俺は加奈の頬に貼りついていた黒く長い髪を耳の上にかき上げてやり、優しく胸に抱き寄せた。


 加奈は胸の中で再び嗚咽を漏らし始める。しかしその意味合いは、先ほどまでのものとは百八十度違うものだろう。


 加奈の嗚咽はいつまでも部屋の中に響いていた。




 誰とも接する事なく一ヶ月を過ごす事は意外と難しい。斎藤は別れ際に言った。


 いいか武雄、明日からの一ヶ月間、お前の事を知っている奴とは絶対に連絡を取るな。それは例え相手が親や女でも駄目だ。それから誰かに見られても駄目だぞ。お前は明日から死人だ、この世に存在しない人間だ、わかるな。


 わかったらこの街を出て、お前も知らないどこかの街へ行け。でも田舎は駄目だ。余所者は目立つからな。


 泊まる所は身分証明の必要ない所にしろ。ラブホでもなんでもいい。それはお前に任せる。


 最後に、渡した携帯にはいつでも出られるようにしておけ。状況次第で予定が早まる事もあるからな。それとこれを持って行け。


 斎藤から渡された無地の封筒には、新札ではない一万円札がきっちり百枚入っていた。穿ちすぎた考えかも知れないが、渡された金が銀行から簡単に引き出せるはずの新札でないことに、徹底した悪意を感じた。この金をどこで使おうとも足はつかない。


 加奈と別れた後、とりあえず俺は街を離れた。街にいては、いつどこで誰に見られるかわかったものではない。俺は今死人も同然なのだ。


 だがこれからどこへ行くか、それが問題だ。自分の事を知っている人間のいない街で尚且つ田舎すぎない街。


 そこまで考えたところで、幼い頃親に連れていかれた熱海の温泉街を思い出した。あの日の親父はなぜか機嫌が良かった。いつも金がなく酒浸りの親父がどうやって金を工面したのかは知らないが、その時初めて家族旅行というものを体験した。


 例え旅館が薄汚くうらぶれていたとしても、俺にとっては全てが新鮮で、それは家族と過ごした記憶の中で、唯一楽しかったと言える記憶だった。


 記憶では、あの温泉街は日本三大泉場と呼ばれるだけあって、観光客は結構な人数いたように思う。


 観光客の目的は、温泉に浸かり観光をすることだ。人間を観察するためではない。あそこならば俺のことなど誰も気にも止めないだろう。


 一ヶ月後、俺は多分人を殺す。常識や普段の生活から逸脱したその行為は、精神を著しく消耗させるに違いない。その前に温泉で英気を養うのもいい。


 それに全てが終わったらマカオに行かなければならない。マカオにはきっと温泉などない。過去の思い出に縋る気持ちなど毛頭ないが、俺は熱海へ行くことを決めた。




 温泉宿は、シーズンオフのためか、すんなりと予約を取る事ができた。もちろん宿帳には、偽名と嘘の住所を書き入れた。念のため五日おきに宿を変えることにする。この調子なら、素泊まりでも泊まれる宿はまだ幾つかあるだろう。後はここで斎藤からの連絡が来るのを待つのみだ。


 四件目の宿に変えようと思っていた矢先だった。斎藤に渡されてから一度も鳴る事のなかった携帯電話が初めて鳴った。けたたましく鳴り震える携帯電話を前に、俺は身震いをした。


「武雄。お前今どこにいる」


 約一ヶ月ぶりに聞く斎藤の声は、抑揚がなくどこか疲れているように聞こえた。


「熱海です」


「温泉か、いい身分だな」


 皮肉な言葉とは裏腹に、斎藤が笑っているのがわかる。


「まあいい、少し予定が変わった。明日の夜十時、お前と最後に別れたあの場所の近くにある公園に来れるか」


 俺はすぐさま行けると応える。


「そうか、それならいい。いいな、くどいようだが誰にも見られるなよ。ぱっと見お前だとわからないように変装して来い」


 それだけ言うと、斎藤は俺の返事も聞かずに電話を切ってしまった。斎藤はなぜそこまで俺の存在を隠そうとするのか。そこに疑問を感じながらも宿を出る準備をする。その時、ボストンバッグの中に入れてある黒星に手が触れた。誰もいないとわかっているのに、部屋の中を見回した。黒星を取り出し隅々まで眺め回す。


 とうとうこれを使う時がきた。これはただの道具だ。それを使うのは俺で、こいつは使われる存在だ。


 斎藤に黒星を渡されてからこれまで、何度となく自分に言い聞かせた言葉。殺す相手のことは一切聞かされていない。今日それが明かされるのだろう。


「失礼致します。御夕飯の準備ができましたので、お持ちしても宜しいでしょうか」


 突然部屋にノックと女の声が聞こえ、黒星を取り落としそうになった。だがすんでのところで小指に引金が引っかかり、何とか落とさずに済んだ。銃口は真っ直ぐ爪先に向いている。もし弾が入っていたら、今頃足の指は粉々になっていたところだ。


「ああ頼む。それから申し訳ないが、急遽仕事の都合でここを出なければならなくなった。今日の宿泊費は払うからそう伝えておいてくれ」


 黒星を仕舞いながら、部屋の扉に向かって言う。部屋の時計を見ると午後六時だった。夕食後風呂に浸かってからでも十分に間に合う時間だ。


「かしこまりました。それではお食事をお持ち致します。残り僅かな時間では御座いますが、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」


 女が言い終わると、扉の向こう側で衣擦れの音が聞こえる。そして静かに足音が離れて行った。


「またのご利用お待ちもうしております」


 番頭の声を背に宿を出る。宿を出てすぐ、靴底越しに、硬いビニールを踏んだような気味の悪い感触が伝わってきた。それと同時に、季節外れの蝉の鳴き声が足下から聞こえてくる。蝉が出てくるには些か時期が早すぎる。


 足を上げるとそこには潰れた油蝉がいた。油蝉はまだ生きているのか、僅かに足を動かしていた。


「くそっ」


 俺は悪態を吐きアスファルトに靴底を擦りつけると、その場を後にした。バラバラになった茶色い羽に不吉なものを感じた。




 斎藤が指定した三十分前には、待ち合わせ場所の公園に到着していた。公園内には何人かのホームレスと、スケートボードに乗りはしゃぎ回っているガキ共、それから顔を寄せ囁き合っているカップルが二組ほどいた。


 俺は公園の入り口が見えるベンチに腰を下ろすと斎藤が来るのを待つ。


 さほど大きくない公園に、スケートボードの耳障りな音と、ガキ共の騒がしい声が響き渡っている。それを嫌悪と恐れの籠った目で眺めているホームレス達、二人の世界に入り込み周りのことなど全く目に入っていないカップル、それらを見ながらただひたすらに待った。


 五分が過ぎ十五分が過ぎる。約束の十時まで後十分、斎藤はまだ現れない。


 ――おかしい、斎藤は時間にうるさい。よく俺に約束の十分前には来いと言っていた。その斎藤が約束の時間の十分前になってもやってこない。


 何かあったのか、俺の中に不安が芽生える。これが食事の約束ならばなんとも思わない。しかし、今日呼び出された理由は食事の約束ではなく、もっと物騒な、人を殺すための算段を打ち合わせるためのものだ。ちょっと都合が悪いからまたな、では済まされない。


 俺はとりあえず約束の時間まで待つことにした。極度の緊張からか、周りから音が消えたように感じた。不吉な考えが頭の中に次々と浮かんでは消える。


 しかしその一方で、このまま斎藤が現れなければ、黒星を使わなくて済むのではと弱気な考えも浮かぶ。


 永遠とも思える静寂の十分間は、けたたましく鳴り響く携帯電話の音によって終わりを迎えた。


「武雄か、もう公園には着いてるか?」


 電話口から斎藤の声が聞こえてくる。


「はい、公園の入り口が見えるベンチに一人で座ってます」


「そうかわかった。そこでもう少し待ってろ、遣いを寄越す。後の指示は遣いが来ればわかるはずだ」


 声の調子で斎藤が電話を切ろうとすのがわかった。


「ちょっと待ってください、斎藤さんは来ないんですか」


「俺は別の用事で行けない。それから、この電話が終わったら暫く連絡が取れなくなるからそのつもりでいろ、わかったな。お前もガキの使いじゃねえんだ、一人でできるだろ。こっちの指示に従ってりゃ間違いは起こらねえ大丈夫だ。じゃあしくじるんじゃねえぞ」


 俺が何かを言おうとしても、斎藤は一方的にまくし立てて、電話を切ってしまった。


「ちくしょう何なんだよ!」


 携帯電話を乱暴にポケットへねじ込むと、俺は自分の座っていたベンチを蹴り飛ばした。辺りにベンチのずれ動く派手な音が響く。


 近くに座っていたカップルが怪訝な目を送ってきたが、それを睨み返す。カップルは関わるのはごめんだとばかりに、そそくさと逃げて行った。頭のおかしい奴だとでも思ったに違いない。


 ものに当たっても仕方がないのはわかっている。しかし斎藤は安全な場所にいて、自分一人が危険な目に遭うという事に苛立ちが抑えきれなかった。


「義兄弟じゃなかったのかよ」


 そう呟き蹴り飛ばしたベンチに腰かけた。昔斎藤が言った言葉が頭に浮かぶ。


「――武雄、俺と酒を酌み交わしたら義兄弟も同じだ」


 そう言いながら斎藤は、コップの中の酒を飲み干した。そして無言で空のコップを俺に向けると、俺はそれに酒を注いだ。


 斎藤の女が経営するというスナックには、俺と斎藤以外の客はおらず、俺達の座るテーブルには、和酒洋酒関係なく、空のボトルが幾つも転がっていた。中には斎藤の女が飲んだものもあるが、殆どは俺と斎藤が空けたものだった。


「――斎藤さん。俺、斎藤さんみたいになれますかね」


「あ? 何言ってんだ、なれるわけねえだろ。俺はなあ、この世に一人しかいねえし要らねえんだよ」


「いやそう言う意味じゃなくて、俺、斎藤さんに憧れてるんす。斎藤さんみたいに夜に光る太陽みたいになってみたいんすよ」


「何言ってんだ。夜に太陽が光るわけねえだろ。それに俺に憧れるだ? 辞めとけ。俺みたいになったら俺はお前を全力で潰すぞ。――もう一度言うぞ、俺は二人も要らねえ。今までもキャラかぶる奴は全員ぶっ潰してきた。例えそれがお前でも俺は容赦しねえぞ」


 斎藤は俺の反応を愉しむように言った後、店内に響き渡る大声で笑った。


「じゃあそうなったら兄弟喧嘩ですね」


「辞めとけ辞めとけ。そうなったら俺は、例え血の繋がった兄弟だとしても本気で殺すぞ」


 斎藤は笑いながらそう言って、また酒を空けた。


 くそう、何が義兄弟だ。ガムや煙草で薄汚れた地面を見つめながら、心の中で呟いた。


「あのう、兄ちゃん水上ってのかい?」


 不意にかけられた声に驚きボストンバッグを抱え込む。地面に落としていた視線を上げると、目の前には公園にいたホームレスの男が立っていた。


 なんだこの男は。なぜ俺の名を知っている。


 訝しげな目で男を見ていると、男は「違うんならいいんだ」と言い立ち去ろうとする。斎藤の、遣いを寄越すという言葉を思い出す。遣い、遣い? この男が?


「おいちょっと待て。なんで俺の名前を知ってるんだ」


 男は足を止め俺を振り返る。


「なんだやっぱり兄ちゃんか」


 そう言うと男は、公園の土と同じ色に汚れたコートのポケットから、二つに折り曲げられた封筒を取り出した。


 やはりこの男が斎藤の言っていた遣いのようだ。てっきり組の若い奴が来るとばかり思っていたから、少し拍子抜けした。だが、遣いにこの男を使ったということは、斎藤は始めからここに来るつもりはなかったということだ。始めから会って話すつもりならば、こんな回りくどいやり方はしない。


 男は封筒を渡すと、そのまま立ち去ろうとする。


「おい、これだけかよ。他には何もないのかよ」


 男は立ち止まると、「なんにも」と言ってそのまま去って行く。男が残したものは、鼻を鋭く刺激するアンモニアの臭いと、ガムテープで固く封をされた封筒だけだった。




 ガムテープの剥がれる音がトイレの中にビリビリと響き渡る。


 外では相変わらず、スケートボードのガキ共が耳障りな音を発していて、神経を苛立たせた。そのせいで俺は、何度も封筒を破り捨てそうになる気持ちを宥めなければならなかった。


「ちくしょう!」


 手にへばりつくガムテープを無理矢理に引き剥がし、便器に放り込む。


 個室の大便器の横には、『トイレットペーパー以外の物は流さないでください』と書かれている注意書きが貼られてあったが、丁寧にも、『流さないで』の部分が乱暴にマジックで『流して』という文字に書き換えられていた。


 それを鼻で嗤うと、封筒の中身を取り出す。


『6月5日午前10時、渋谷にあるエクセルホテルのB2駐車場Cー3番に黒のプレジデントが停めてある。ナンバープレートは『へ12ー21』それに乗れ。』


「なんだこりゃ?」


 そう言いながら、他にも何かないかと思い封筒を逆様にした。すると中から何かが床に落ち、トイレ内に鋭い金属音が響いた。俺は床に落ちて濡れたものを摘み上げる。それはコピーされた車の鍵だった。


「車の鍵、手紙にあった車のか? ――斎藤さん、あんた一体何考えてんだ」


 何一つ肝心な事がわからない斎藤からの指示は、俺を戸惑わせ苛立たせた。しかしこんな処にいつまでもいるわけにはいかない。手紙を折り畳み、個室の扉の鍵に手をかける……。


 ――おかしい、静かすぎる。さっきまでうるさいくらいに騒いでいたガキ共の声が全く聞こえない。

 俺は呼吸を潜め耳を澄ませる。


 トイレの中に自分以外の呼吸音が、一つ……二つ……三つ。そのうちの一つは、今入っている個室のすぐ外から聞こえる。確かにいる。


 俺はなるべく平常心を保ち、極自然にトイレの鍵を開けた。すぐ外の呼吸が乱れるのがわかり、勢い良く扉を蹴り飛ばした。


 扉は激しい音を立て外にいた誰かにぶつかり、その誰かの呻く声が聞こえた。トイレの中に怒号が響く。


「てめえオヤジ! 何すんだこら!」


 声は若い男の声だ。個室から出ると素早くトイレ内を見回す。床にうずくまった男が一人と、俺のいた個室を挟み込むように二人男がいる。


 男達は殴りかかって来る。俺はもう一度個室の扉を開き盾にした。扉に拳が当たる音がして男の呻く声が聞こえた。


 もう一人の拳は俺の肩に当たるが大して痛くはない。俺は盾にした扉をそのまま蹴り飛ばし、反動で男に体当たりを喰らわせる。


 男はトイレの奥に吹き飛び少しだけよろけたが、すぐに飛びかって来る。


 馬鹿が。胸の中で呟き、向かって来る男の鳩尾に拳を捻り込んだ。男は呻きとも悲鳴とも取れる声を上げると、そのまま床に膝を着いた。


 トイレのタイルを踏む音で、背後にもう一人の男が近づいている事がわかる。俺は素早く振り返るが、何かが頭上から落ちて来るのが見え、咄嗟に腕を上げた。


 腕に鋭い痛みが走り木が軋む音が聞こえた。見ると男はスケートボードを振りかぶっていた。腕の痛みで感情が一気に昂ぶる。殺してやる。頭の中に浮かんだその言葉を、全て拳に乗せた。


 拳が傷むのも気にせずに男の顔面を殴りつける。拳は鼻と歯に当たったのだろう。指の皮が剥け、相手の鼻からは盛大に血が噴き出した。


 仰け反る男にすかさず詰め寄り胸倉を掴むと、顔面に向けてさらに拳を浴びせた。


 拳に痛みが走る。トイレの中に肉の弾ける音が響く。男の口から赦してくれと懇願の言葉が漏れ聞こえるが、構わず殴り続けた。そして男は気絶した。


 俺は始めに扉で倒した男を引き起こすと頬を張った。


「おい、お前ら何なんだ」


 肩で息をしながら男を揺さぶる。男は震えながら股間を濡らしていた。男は起きていたのだ。男の首を無理矢理に捻ると、先ほど殴り倒した男の方に向ける。


「おい、あいつみたいになりたいか」


 男の耳元で努めて冷静に言う。感情のままに怒鳴るより、感情を殺した方が相手には伝わる。斎藤から学んだ交渉術の一つだ。


「辞めて……助けて……」


「それじゃあわからん。なんで俺を襲った」


「か、金が欲しかったんだ。それだけだよ。頼むから赦してくれよ……」


 男はガタガタ震えながら俺に縋りつき懇願する。――オヤジ狩り。やった事はないが、昔暴れていた時に何度か目にした事がある。


 そんな光景を目にした時、決まって自分の親父を思い出した。親父と同じくらいの中年男が、殴られ嬲られ一万にも満たない金を奪われる。自分の親父とそのオヤジを重ね合わせたりはしなかったが、なぜかむしゃくしゃとした気持ちになった。


 ただ、だからといってそのオヤジを助けたりはしない。俺にとって親父とは憎むべき存在で助ける存在ではない。


 胸の中に湧き上がった感情を、オヤジを襲っていた族にぶつけ喧嘩をふっかけ暴れただけだ。そしてそいつらをぶちのめした後、オヤジの金は横取りした。


 その時のオヤジはとても複雑な顔をしていた。救いを求めるようでいて恐れを抱いている、まるで得体の知れない生き物を見るような目。


 そんな目で俺を見るな。口には出さないがそんな事を思っていた。そんな俺が今は狩られる側に立っている。その事が少しおかしく、口元が緩むのを感じた。


「もう辞めてくれ!」


 俺の笑いを狂気と取ったのか男は叫ぶ。トイレ内に男の割には甲高いキンキンとした声が反響した。


「俺はまだ三十二だ。オヤジじゃねえ。わかったか」


 男は怯えた目で素早く首を縦に振る。


「トイレの中で漏らすなよ。もう少し我慢できなかったのか」


 そう捨て台詞を吐くと、俺はトイレを後にした。冷静になると脳からのアドレナリンの放出が止まったのか、皮の捲れた拳と、スケートボードを受けた腕が急に痛み始める。こんな時、煙草でも吸えれば痛みも少しはマシになるのかも知れないが、俺は煙草を吸わない。

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