森を走るお姫さま
みんなが去ったあと部屋に残されたのは、ちぎれた飾り花や入れ物の破片、そして——石ころがひとつ。
「ふぁああ。よく寝たわ」
石ころの扉が開いて、お姫さまが姿を現しました。
「あら? ずいぶんすっきりしたわね?」
広々とした部屋を見渡して、お姫さまはまた不安になりました。やっぱり狭いところに入っていなければ。
あの居心地のいい石ころの中へ入ろうとしたとき、床に散った花びらを踏んで足を滑らせました。
「きゃっ!」
叫んで倒れた先にはあの石ころ。勢いあまって体当たり。お姫さまは転んで床にうつ伏せに。石ころはお姫さまに押されてころころと。
「え? あ、まって!」
まあるい石ころは、ころころころと廊下に向かって転がっていきます。
なくなってはたいへんです。
お姫さまはドレスの裾をたくし上げ、石ころを追って走り出しました。
石ころは廊下を抜け、階段を下り、お城の中を転がり続けます。
とちゅう、大広間の前を通った時に、たくさんの入れ物をひっくり返す王さまやお城の者たちが見えましたが、お姫さまに気にしている暇はありません。だって石ころを追いかけなくてはならないのですから。
ころころころころ……
石ころはお城の外まで転がります。森にすむ小人たちや動物たちが不思議そうな目で石ころとお姫さまを眺めます。
「はて。あの娘っ子はなんで石ころなど追いかけているのだろう?」
「あたらしい遊びなのだろうか? なにやら楽しそうだ」
そうなのです、森の者たちはお姫さまの姿を見たことがないのです。それに、外を怖がるお姫さまがまさかひとりきりで森を走っているとはだれも思わないのでした。
「嬢ちゃん、がんばれ!」
「もっと早く走らないと石ころにおいて行かれるぞ!」
やんややんやとはやし立てる声に、お姫さまがこたえられるはずもありません。はあはあ息を切らしながら走るのに精いっぱいです。
こんなに走ったのなんていつ以来でしょう。自分が走れることが不思議なくらいでした。息が苦しくて、足が重くなります。転んだり、草の葉で切り傷を作ったりしながら走るのはとてもつらいことでした。それなのになぜか楽しい気分になるのでした。
ころころころころ……
転がる石ころを木漏れ日が照らし出します。それはとても美しく見えました。どんな彫刻よりも、どんな飾りよりも、森に似合う美しさだと思いました。
あの石ころを見失ってはいけない。そう強く感じました。
梢では鳥たちが応援の歌をうたってくれています。
虫たちが石ころの向かった先を教えてくれます。
けれども石ころとの距離はどんどん離れていきました。お姫さまはつまずくことや転ぶことが多くなり、ついに転んだまま立ち上がることができなくなりました。けがをしたわけではないのですが、これ以上、一歩たりとも進むことはできません。顔をあげてみても、もう石ころは見えませんでした。
「……あーあ」
お姫さまはごろんとその場に仰向けになりました。
「やあ、ざんねんだったね」
「でもがんばったね」
鳥や動物たちがそう声をかけてお姫さまのもとを去っていきます。遊びの時間は終わりです。みんな家に帰るのでしょう。
もうすぐ森に夜がやってきます。
お姫さまはとたんに怖くなりました。ああ、こんなときにこそ、あの石ころに入りたいのに!
お姫さまは膝を抱えて小さく小さく体を縮めました。
そうやってうずくまりながら、ここまでの道のりを思い返しました。危なくて怖いと思っていた森ですが、危ないことも怖いことも起こらなかったことに気がつきました。転んだり、切り傷を作ったりはしたけれど、それは、思っていたような危ないことでも怖いことでもありませんでした。それどころか、木漏れ日は美しく、風は気持ちよく、土はやわらかでした。そしてなにより、森の住人たちは明るく楽しげでした。
そのことを思うと、体が軽くなったような気がして、お姫さまは縮めていた手足をゆっくり伸ばしました。
見上げれば、木々の隙間から瞬く星々が見えました。