十月四日、そして―――
一応この物語はこのお話で完結します。一応です。
次話のエピローグですべての謎が氷解すると思います。
翌朝。
差し込む朝日にまぶたを打たれて目を覚ました。気持ちいいくらいの秋晴れだ。雨はしばらく降りそうにない。
昨夜もイマジナルには飛ばなかったが、たった数日でそんな現実にも慣れつつある。薄情なものだと思うが、それが自分という人間なのだろうと折り合いをつけた。
時刻はまだ七時前。キッチンから漂ってくる旨そうな匂いに、腹の音がぐうと鳴った。
「おはよー、ハルくん。よく眠れた?」
「おう、ハルト。起きたか」
チアキとトウマの明るい声で、完全に目が覚めた。二人で仲良く朝食を作っているらしい。味噌汁と焼き鮭だろうか。香ばしい匂いに躰まで釣られそうになる。
チアキはどん臭いが家庭的な女だ。エリカの料理は余所行きの技能みたいで肩が凝るが、チアキのそれはどこかほっとする。隣のトウマも手馴れたもので、料理の出来ないオレはちょっと肩身が狭い。しかし朝から二人でお料理とは、トウマも相変わらず如才のないヤツだ。
顔を洗ってぼんやりコーヒーを飲んでいると、隣室から爆音が鳴り響いた。チアキがビックリしておたまを落としたが、オレもトウマも「あぁ、またか」くらいの感想しか持たない。やがて恥じも外聞も捨て去った女が現れるのも予想済み。チアキだけは「え、エリカちゃん、大丈夫?」と声を掛けたが、やっぱり無視された。たぶん聞こえてない。
さすがに反省したのか、シャワーから上がったエリカに隙はなかった。肌の露出を抑えた格好でバスルームを出て素早く部屋に戻り、着替えを済ませてからリビングに戻ってきた。
「おはようございます、ハルト、その他の方々」
「あぁ、おはようさん。お前ヒドい言い草だな」
「そうかしら? まだ完全に目覚めてないのかもしれません」
「おはよー、エリカちゃん。今日は和食だよー」
と、チアキがトレイに乗せたご飯と味噌汁をテーブルに並べた。トウマが焼き鮭の乗った皿を四つ、器用に手と腕で運んでくる。エリカは箸や調味料などを戸棚から取り出し、みんなに振り分けたりしていたが、オレだけはどっかり椅子に座ったままのんびりコーヒーをすすった。自動的に食事が出て来るシステムって楽しいなぁ。
カチャカチャと茶碗のなる音の合間に「昨夜もイマジナルに行けませんでしたね」「ねー、どうしてだろうねー?」「いがみ合うより先にこっちの問題を解決できればいいんだけどな」なんて会話が聞こえてきた。考えても無駄だとわかっているので、それには口を挟まず黙々と朝メシを平らげた。
「どうしたんです、ハルト? 今日は機嫌が悪いのかしら」
「いや、普通だが」
「あんまり眠れなかったのー?」
「そうでもない」
「低血圧ってわけでもねぇよな。何かあったのか?」
うるせぇなぁ。何となくギアが上がらないだけなんだよ。揃いも揃って人の好いヤツらだ。でもまぁ、人前で悄気た顔をしているのはよくないな。別に体調が悪いわけでもないし、カラ元気でもアゲアゲで行こう。
「今日はちょっと、月イチのアノ日なんだよ、オレ」
「そっか、そりゃ仕方ねぇな」
「そんなわけないよねっ!? ハルくん男のコだよねっ!?」
珍しいな。チアキのツッコミが入ったぞ。トウマは軽くスルーしたが、チアキに無視できる器量はないらしい。
「生理痛でしたら、よく効く薬がありますよ、ハルト」
「そのツッコミは予想してなかったな。お前どんだけ器のデカい女だよ」
「伊達や酔狂で女王様をやっていますから」
「クイーンにランクアップしてるな。どこに行ったんだプリンセス」
「多分その辺に」
「すげぇテキトーだな」
何となくテンションが上がらないが、そのうち調子も出て来るだろう。後片付けをエリカとチアキとトウマに任せて、オレは優雅に食後のお茶を頂いた。
通学路。
朝の清爽な空気を肺いっぱいに吸い込んだら、何だか調子も出て来た。
チアキも含めて四人になったエリカ様ご一行は、朝日を受けて燦然と煌めくプリンセスを筆頭に道行く人々の衆目を吸い寄せていく。エリカが超然と胸を張って歩く傍ら、トウマは特段に気にした様子もなく、チアキはすごすごと肩を丸めて歩いている。随分と大所帯になったものだ。
多くの生徒が学校の正門に吸い込まれていき、オレたちもそれに倣って校門をすり抜けたところで、一人だけ人波を逆行してくる女に気付いた。鋭い眼光は日本刀めいていて、流れる人波を縦に割っていくかのようだ。事実、生徒たちは彼女の邪魔をしないようにと大きく迂回しながら進んでいる。こんな目つきの悪い女、オレはひとりしか知らない。
彼女は真っ直ぐ進んでくるオレたちの前で、ぴたりと立ち止まった。
「おはよう、内藤くん」
氷をさらに凍らせたかのような冷たい視線が、オレの瞳を穿った。
「何の用っすか、生徒会長」
睨み返した。この女が突然やってくるのはいつものことだ。この程度で動揺したりはしない。視線は冷たいまま、頬を緩めて会長がオレの問いに答える。
「相変わらず失礼な輩ね。朝の挨拶も出来ないなんて」
「用は何だと聞いている」
「よく無事だったわね。驚いたわ」
白々しくも、女は飄々と見下すようにオレに告げた。
「何の話だ?」
「ワタシも正直あんなふうに迎撃されるとは思ってなかったわ。百戦無敗の名は伊達じゃないようね」
「やはりお前か」
「ワタシは上級生です。先輩を敬いなさい」
斬り裂くような鋭い視線で、互いを見つめ合う。
凍えるほど寒いのに、触れられないくらい熱い。オレを取り巻く連中は、そんな奇妙な悪寒に襲われていることだろう。
「今日ね、島津先生が来てないのよ」
「で?」
「彼ってレゾネイターでしょう?」
「さぁ?」
「昨日の夜―――予備校の帰りのことなんだけど―――島津先生らしき人に声を掛けられたの」
「だから来てねぇってか? だとしたら犯人はお前じゃねぇか」
「覆面を被っていて、ボイスチェンジャーか何かで声を変えていたわ。仲間にならないかって言われたけど、怪しすぎたんで遠慮したら、夜道に気をつけろと言われたわ」
「だから何だよ」
「上背や体格がワタシの記憶の島津先生のそれとぴったり一致してたから、今日の欠勤を聞いてもしかしたらって思ったんだけど、正解みたいね」
「そんな話を聞かせるために、わざわざオレのところに?」
「彼はあなたの敵なんでしょう? 情報を渡しなさい。殺してあげてもよくってよ」
「島津先生はオレの担任だぜ? なんで敵になるんだよ」
「昨日あなた職員室で島津先生にハメられたとか叫んでたらしいじゃない。だから敵なんでしょう?」
「知らねぇなぁ」
「仲間を失ったからその補充に来た、そんな風に見えたけど、違ったかしら」
「本人に聞けよ」
「島津と戦ってる時だけは、あなたを狙わないであげるわ」
「頼んでねぇよ。そもそも、なんで島津はアンタがレゾネイターだって知ってるんだ?」
「それこそ知らないわ。彼には他にお仲間がいるみたいだし、あちらにもレゾネイターを探し出す能力者がいると考えたほうが自然じゃないかしら」
「なんて言いつつ、お前がお仲間だったりしてなぁ」
「別にあなたを殺すのに彼の助けは要らないわ。その気になれば、ワタシはいつだってあなたを殺せるもの」
「はン。脅しになってねぇよ。全弾オレに弾き返されたのは、どこのどいつだ?」
「全弾? たったの二発でしょう? あなたはお友達に囲まれてる時に狙われても、同じように全力で剣を振るえるのかしら? 横にいるお友達を斬り殺しながら、ワタシの矢を弾くつもりなの?」
「テメェは無辜の人間を巻き込んで撃ち殺すシュミでもあんのか?」
「それは最後の手段にしておくわ。必要であれば、誰であっても容赦はしない。ワタシの場合、証拠も残らないしね」
「テメェも存外イカれてやがんなぁ」
「あなたの場合、ワタシと違って現行犯で逮捕されてしまうから気をつけなさい。これからはなるべく単独で行動することね」
「肝に銘じておくよ、下衆野郎」
「それは貴様のことだ、この殺人鬼」
苛辣な視線を直近で交し合う。遠目で見たらキスでもしてるんじゃないかと思われるかもしれないが、実際は試合開始直前に審判からルールを聞いている時のキックボクサー同士のガンの垂れ合いのようなものだ。周囲の人間ははらはらして見ていられなかっただろう。
プイと、生徒会長が背中を向けて、無言で去っていった。オレはその背中に
「ヤツはでっけぇ斧を持ってるよ。そいつを地面に叩きつけると手榴弾くらいの爆風が起きる。そのくらいの威力がある」
と、ぞんざいに言葉を投げかけた。会長の足が、ぴたりと止まる。
「あと、髪の毛を伸ばして自在に操る能力者がいた。オレが知ってるのはこのくらいだ」
「そう。ありがとう」
会長は振り向きもせず、ほとんど聞き取れないくらいの声で呟いた。
「巻き込みたくなかったら離れておくことね。神湯さんに浅井さん、結城くんとも。それから、えーっと……」
「あぁ、クニヒコな。脇谷邦彦」
「そうそう、そのハカマダくんにも近寄らないことね」
「なんで間違えるのぉ!? 今ハルトが正解ちゃんと言ったよねっ!?」
あれ? いつの間にかクニヒコがオレたちに追いついていたらしい。まぁ気に留めるほどのことでもないだろう。クニヒコは朝っぱらから泣きっツラ。
そう言えばコイツ、なかなか名前を覚えてもらえないよな。もしかして本当はクニヒコもレゾネイターで、他人の記憶を抹消する能力者とかなのではないだろうか(注:クニヒコくんは本当に民間人です。物語の本筋とは一切関係ありません)。
「おっと、注釈が入っちまった。おい、クニヒコ。もう出て来なくていいよ」
「そんな注釈フツーのキャラには見えないよっ! それお前の独白でしょっ!?」
クニヒコがギャーギャー喚く傍ら、エリカがオレの服の袖を引っ張ってきた。
「ちょっとハルト。そのような有象無象の相手は後にしてください」
「有象無象っておれのことっ!? おれのことなのっ!? ねぇ答えてよっ!?」
うるせぇな、コイツ。クニヒコがいると面白すぎて話がなかなか進まないんだ。
エリカは本当にクニヒコを無視して言葉を続けた。
「ハルト、今の方が昨日の―――」
「襲撃者、なんだろうな。自分で言ってたし」
「ハルトは彼女が襲撃者だと判っていたような口振りでしたね。なぜです?」
「理由その一。オレを集中的に攻撃してきたこと。それはつまり、標的がオレであることの証左。そしてその視線に込められた感情―――これはオレにしかわからないことだから多分に主観ではあるが―――から、オレの憎悪を抱く人間だと思われる」
「そうですね。それはわたくしたちも想像したことです」
「理由その二。オレがクルシスを召喚した後に攻撃を開始したこと。これはその前に会長が『必ず尻尾を掴んでやる』という言葉を残していたことから、オレがレゾネイターである確信を得てから行動に移したかったものと推測される」
「それだけですか?」
「いや、そして理由その三。武器が弓矢であったこと。そして性別が女であったこと。一般的にはあまり知られていないことだが、弓道や弓術というのは女性には向いていないんだ。なぜかって、女は胸が突き出ているだろ? おっぱいが大きいと、弓を放った時に弦が当たって痛いんだ。だがしかぁしっ! 会長はおっぱいが小さいっ! 従って犯人は会長である」
「空恐ろしい男だな、内藤春人。完璧な推理だよ」
「どこが!? 穴ボコだらけだよっ!?」
トウマの賛同がチアキのツッコミに上書きされてしまった。チアキのツッコミを同じ日に二回も聞けるとは珍しい。槍でも降るかもしれないな。
「つまり、ハルトは彼女―――生徒会長さんと会話をした折に『尻尾を掴んでやる』と言われ、かつ彼女がハルトに恨みを抱いていることを知っていた、ということですか?」
「まぁそうなるな。あの人は事あるごとにオレに突っかかってくるんだ」
「殺人鬼、というのは?」
「知らねぇ。オレは“こっち”で殺人を犯したことはないんだ」
「すると彼女は“あちら”で誰か近しい人を殺された、ということでしょうか」
「だがオレは“あっち”でアレほどまでの悪意を向けられたことなどないぜ?」
「イマジナルに飛べなくなったからでは?」
「それよりもずっと前からあの女はああだった」
「なるほど、つまり彼女はわたくしにとって恋敵ということですね、わかります」
「お前の頭はニュートンかリンゴが落ちると万有引力が働くのか月と地球が引かれ合うとオレとお前は恋に落ちるのか」
「はい」
ダメだ、コイツ。オレがエリカという人間を理解するにはあと半世紀くらい掛かるかもしれない。
「彼女はアレです。ツンデレです」
「そんなわけねぇよリアルにブッ殺しにくるツンデレがどこにいんだよデレる要素が何ひとつねぇよ」
「ちょっと宣戦布告してきます」
「行くなヤメてくれお願いだからここにいろ」
「いいですか、ハルト。思春期の女のコというのはとても複雑なのです。好き、誰にも渡したくない、だから殺したい、でもそれは愛しいから。これは普通の女のコの思考回路です」
「そんなわけあるかよそりゃお前だけだろ何その都合のいい解釈」
「とにかく彼女は油断なりませんね。ハルト」
「あんだよ」
「彼女がデレを見せても落ちてはいけません。それは罠です、陥穽です」
「ちょっとお前NASAにでも行って地球から脱出してこいよ。話はそれからだ」
「それはそうと、彼女は興味深いことを言いましたね」
「あぁ、お前も気付いたか?」
「彼女、『あちらにもレゾネイターを探し出す能力者がいると考えたほうが自然』という言い方をしていました。つまり―――」
「この発言から判ることは二つ。レゾネイターを探し出すことの出来るレゾネイターがいるという事実」
「そして『こちら』―――つまり生徒会長さんにも仲間がいる、その仲間の中にレゾネイターを探せる能力者がいる、ということになります」
「なぁ、ハルト」
トウマが出し抜けに口を挟んできた。何だろう。何か見落としがあっただろうか。
「お前らの話って、すごく混ざりにくいんだけど」
「あん? 会話に加わりにくいって意味か?」
「そうだよ。なぁ、チアキ?」
「うん。なんか、悔しいけどハルくんとエリカちゃんって、すごく息ぴったり」
「はい、そうですね」
「その肯定の仕方はどう考えてもおかしいぞ」
「エリカちゃんって、話の仕方がヘンっていうかー、独特だよねー」
「褒められているのですね、わかります」
「馬鹿にされてんだよ」
「わたしもトウマくんも結構ついていけないんだけどー」
「ほら見ろ。お前のハナシは誰もついていけないんだ」
「でもでも、ハルくんはすごく自然に会話できてる。息するみたいに」
「あら? ここに一人ついていける方がいましたよ、ハルト」
「そういうのって、ちょっと羨ましいなーって」
「おい、クニヒコ。チアキと自然に会話してやれよ」
「ち、チアキちゃん! おれ、前から言おうと思ってたんだけど……」
「ねー、トウマくんもそう思うよねー」
「自然に無視されましたー!」
なんて会話をしているうちに、教室まで着いてしまった。
チャイムが鳴るまでクニヒコを交えて雑談をした。部外者がいるので真面目な話はご法度だ。エリカもそれなりに馴染んできたようだが、やはりオレ以外の人間と話す時は遠慮が見られる。それも時間が解決してくれるだろう。
チャイムが鳴って席に着くと、見慣れないおっさんがやってきた。教頭先生らしい。おっさんは島津が欠勤している旨をオレたちに伝え、二言三言なにか記憶にも残らないような話をして去っていった。
昼休み。
チアキがエリカを連れ出している間に、オレはトウマにちょっと断って一人で行動することにした(エリカの人気もそろそろ下火だが、打たれ強いヤツは未だにしつこくエリカを誘い出そうとするので連れ出すのに時間が掛かるらしい)。
確信はなかったが、何となくそこにいるんだろうなと思った。生徒会室という場所に足を運んだのは初めてだ。どんなヤツがいるのか全く憶えていない。全校集会や何かの行事で顔を見たことはあるのだろうが、オレの興味の埒外だった。
そのまま入っても問題ないだろうが、後で煩く言われるのも面倒だったので、ノックはしてやった。返事を待たずに中に入ると、辛辣な目つきの生徒会長・土方歳子が部屋の隅で弁当を摘んでいた。大口を開けて肉団子を放り込もうとしたまま、オレの姿を見て固まっている。オレはずかずかと中に入り、会長の前で立ち止まった。会長の肉団子は、時が止まったように動かなかった。
「せんぱーい、聞きたいんすけど、いっすかー?」
会長は映像を巻き戻すかのように肉団子を弁当箱に戻した。ぐぅ、と会長の腹の音が鳴る。箸を震わせながら頬を赤らめる土方歳子は、意外にも可愛かった。
「や、さーせん。どうぞ、お食事が終わるまでお待ちします」
「何の用かしら」
地獄の底から呪詛めいた唸りが聞こえてきた。
失敗した。会長の食事は邪魔してはいけない類のものだった。いくら飼い犬でも食べている真っ最中に餌を取り上げると猛烈に怒ることがあるように、会長は食事を妨げられると烈火のごとく憤激するタイプの人間だった。
「違うわよっ! お腹が鳴ったのを聞かれて恥ずかしかっただけよっ!」
訂正。会長は犬ではないらしい。
ふぅと息を吐いて弁当箱を閉じた会長が、改めて視線をオレに向けた。相変わらず凄まじい眼光だ。きっとこの人は呪術とかをマスターしたシャーマンの家系のヒトだ。
「それで? ワタシに何の用かしら、内藤春人。まさかあなたからワタシに会いに来るとは思わなかったわ。食事前にヒトを殺すとご飯が不味くなりそうで嫌なんだけど」
「じゃあ食後でいいです」
「ブッ殺すわよ、アンタ」
間髪いれずにツッコミが入った。
ふむ、今までまともに会話をしたことがなかったのだが、この女もしかしたら意外に面白いヤツなのかもしれないな。曲がりなりにも生徒会長ってことは、それなりに人望もあるのだろう。慕われていなければこんな役職に就くことも出来まい。オレは試しにからかってみることにした。
「歳子、お前が好きだ」
「――――ッ!!?」
会長は逆三角だった目をまん丸にして
「べべべ、べろっとのさばへるんだがっ!!」
津軽弁で何かのたまい始めた。
「もいっぺんへる、ながすぐだ」
「ほんつけねのごどばへるなよすてけろっ!」
「わだばまいねか?」
「まいねもなも、わはなばコロすどずはんだべっ!」
「なのためだばシねんずら」
「わ、わはすったらごど……」
もうナニ言ってっかわかんねぇ。
ちなみに翻訳すると、「い、いきなり何を言うのですか」「もう一度いう。お前が好きだ」「ふざけるのは止しなさい」「オレじゃダメか?」「ダメも何も、私はあなたを殺すと言ってるのよ」「お前のためなら死んでもいい」「わ、私はそんな……」というような意味合いの会話が繰り広げられていましたー。
「先輩、青森出身なの?」
会長は顔面の筋肉をひくひくさせながら三白眼でオレをねめつけた。
「あなたには関係ないでしょう。大体なぜあなたが津軽弁を流暢に話せるのか理解できないわ」
「努力した」
「あなたと会話するのは不毛だということがわかったわ。本題に入りなさい。まさか自分から殺してくれ、なんて言いにきたわけじゃないんでしょ? それとも、命乞いでもしにきたのかしら」
会長の眼差しが、鋭さを増した。許すはずがない。会長の目はそう言っている。
オレはその眼光をゆるりと躱すことにした。別にこのヒトと戦り合うのが嫌だというわけじゃないが、時期が悪い。
断言するが、会長にとっての天敵はオレだ。それは忌み殺すべき怨敵、という意味ではなく、生存競争をする上で絶対に勝てない相手、という意味だ。土方歳子は内藤春人には絶対に勝てない。
ともかく、オレはこの女と戦いに来たわけではない。話をしに来ただけだ。
「先輩さぁ」
「なに?」
「さっきレゾネイターを探し出す能力者のハナシしてたじゃん?」
「そうね。そしてその類の能力者があなたたちのチームにはいないということも判ったわ。その上でワタシに話があると言うのなら、話の筋は大よそ理解できるわね」
「さすが生徒会長、話が早いね」
「その能力者を紹介して欲しいの?」
「いや? お前だろ?」
会長は目を見開いて息を呑んだ。オレの言葉が完全に意表を衝くものだったからだろう。体よく断るつもりが、核心を衝かれた。そんな顔だ。
「手を貸して欲しいんだ。オレが嫌いなら、エリカやトウマにでいい」
「お断りね。あなたに貸しなんて作っても無駄だもの。死人に借りは返せないわ」
やはり一筋縄では行かないな。さて、この女を説き伏せるにはどうすればいいか。
「先輩ってさ、まず結論ありきの人間だよね」
「会話を引き伸ばしてワタシの付け入る隙を探そうっていうのなら無駄よ。そんな駆け引きには応じないわ」
「オレの時もそうだし、島津の件もそうだ。アンタは予めこうだという所信のもとに情報を縒り合わせる。ちょっとくらい強引にでも、ね」
「だから何?」
「帰納的に結論を導き出すタイプの人間じゃない。結果が先なんだ。だから理由になんて本当は興味がない」
「そうね、あなたの言う通りだと思うわ」
「アンタは理由はどうだっていいんだ。単なる辻褄合わせでいいと、そう思ってる。望む結果が得られるのならね」
「何が言いたいのかしら」
「アンタにオレを殺させてやるよ」
「別にあなたに恩着せがましくそんな機会をもらうつもりははじめからないわ」
「アンタの望む形で、アンタが絶対に勝てる状況で、アンタに弓を引かせてやる。アンタが希求する死を、アンタの手で紡がせてやる」
「だから?」
「だから手を貸せ。一回でいい」
「おかしな言い草ね。まるでワタシじゃあなたに勝てないみたいな結論があっての発言に聞こえるわ」
「その通りさ。お前じゃオレには勝てねぇよ」
「貴様」
「だがアンタも知ってんだろ? アンタの能力とオレの能力の相性は最悪だ。このままじゃいたちごっこでストレスが溜まるだけだぜ?」
「どうかしら?」
会長は立ち上がって、オレの目の前で止まった。
「例えばあなたは今、クルシスを召喚していないわ」
「そうだなぁ」
「身体能力も特殊な加護もない。単なる人間よ」
「どうかな」
「だから、次の一撃は絶対に―――」
網膜に映像が重なる。
会長の左手がオレの喉を殴るイメージ。
もしその手に刃物が握られていたら。
「避けられないッ!」
飛び退いた。
人間の身体機能を大きく上回る速度で、会長の左手が振るわれた。
手にしているのは一本の矢。
細くて、しなやかで、服の下にでも隠しておけそうな、一振りの鋭鋒。
武器を持たないレゾネイターでは、絶対に反応できない一撃だった。
だが、オレは躱した。
会長の手にした矢は、オレの首があった場所をすり抜けず、停止していた。
害意はなかった。
寸止めするつもりだったのだろう。
それでも会長は驚いたまま固まっている。
眼前の現象に理解が及んでいない、そんな顔だ。
矢を手にしたまま、会長の視線がオレを捉えた。
血に塗れたような赤い目が、オレを突き刺す。
「躱したな。ただの人間が、レゾネイター《ワタシ》の攻撃を」
「ついでに言うなら、今のそれに害意がないことも判ってたよ」
「ワタシを愚弄するつもりか」
「アンタじゃオレに勝てないことの証明だよ。アンタの考え方、思考の経路ってさ、オレにそっくりなんだよ。だから判る」
会長の視線は真っ直ぐにオレを捉えたままだ。オレはさらに言葉を続けた。
「アンタの力は、弓を手にしてこそ初めて真価を発揮する。矢を射ることに特化したレゾネイター。白兵戦じゃ、武器なしのオレにだって勝てねぇよ」
「内藤、春人ぉ……」
「頼む、力を貸してくれ」
オレは会長の苛烈な眼光に、真っ向から自分のそれを返した。まず結果ありきの人間に、半端な理屈は通じない。向こうが折れるのを待つしかない。
じっと、ただ睨み合う。
彼女の瞳は、微動だにしない。
オレの心を握り潰すように、脳を掴んでもぎ取るように、凝然と。
強烈な意思のこもった視線は、痺れるような痛みを伴った。
憎悪と、悲愴と、惑いにも似た痛み。
視線を伝う気持ちはあまりにも直線で、眼球にメスを刺し込まれるような錯覚を感じた。
次第に上下がくるくると揺れ動き、宙に浮いたような幻覚が脳を包み込んだ。
彼女はきっと迷っている。
どんなに憎くても、どんなに恨んでいても、命を奪うというその行為は、彼女にとって容認できることではないからだろう。
でもと、だけどの、鬩ぎ合いだ。
何が彼女を苦しめているのか、オレが彼女の何を奪ったのか。
せめてそれくらいは、知りたいと思った。
不意に会長が目を伏せて、矢を下げた。
張り詰めた空気が、急速に緩んだ。
その段になって、ようやくオレは自分が汗をかいていることに気付いた。
「ワタシの目は」
教室にあるものよりもちょっといい椅子―――会社の職場なんかにあるような回転するタイプのオフィスチェアに腰を下ろした会長が、腕を組んで答え始めた。
「クルシスを手にした時のみ大幅に性能が向上するの」
「あの場所からオレを狙えるくらいだからな」
「五百メートル先にいる人間が持つ文庫本の文字くらいなら、判別することが出来るわ」
「便利なのか無意味なのか判らねぇな」
「それとは別に、敵のどの部分を狙えば一撃で仕留められるか、ぼんやりと判るのよ」
「へぇ、そいつは便利だ」
「ワタシはそれを核と呼んでいるのだけど、レゾネイターは武器を手にしていようがいまいが、核の働きが強いのよ。でも」
「まれにレゾネイターでなくてもそういうヤツがいる。だから、オレのクルシスをその目で確認するまでは攻撃しなかった、ってところかな」
「万が一、人違いという可能性もありえたから」
「アンタ、なぜ“あっち”ではオレを狙わず“こっち”で行動を起こしたんだ?」
「簡単よ。ワタシ“あっち”では投獄されてるもの」
「えっ? マジで?」
「一度あなたを襲撃したわ。そしたら王女を狙った者と勘違いされて逮捕。鎖に繋がれて塀の中じゃ、狙いたくても狙えないでしょ」
「そりゃそうだ」
溜息をついて、会長が窓の向こうに視線を移した。
横顔が、どこか儚げだ。
「あなたを殺したら、テスタメントを見つけ出して破壊して、終わりにしようと思ってるの。でも、そんな考えを持つ人間はほとんどいなくなってしまったわ」
「いなくなった?」
「だって、きれいごとだもの、この考え方。“こっち”でもクルシスを使えたほうが便利でしょ? そういう考えに染まった者のほうが多いわ。たぶん何人かは島津のほうに吸収されたんじゃないかしら」
「あん? レゾネイターって“こっち”に何人くらいいるんだ?」
「さぁ? 十五人くらいじゃないかしら。ワタシが確認した限りだと、ね」
「少ねぇな。もっといっぱいいるかと思ってたんだが」
「多い少ないは個人の感性の問題ね。でも、あなたはワタシが単独で動いていると思ったから、こうして危険を冒してまでワタシに会いにきたのでしょう?」
「まぁそうなんだが」
会長はちらりとこちらに視線を遣して、プイとすぐに逸らした。
「やっぱりワタシ、あなたのことが嫌いね」
「傷つくだろ。もう少しオブラートに包めよ」
「自分で言ったじゃない。ワタシの考え方とあなたの考え方がそっくりだって。同感よ」
言って、会長がポケットからケータイを取り出した。何か操作をして、その先端をオレに向ける。
「今すぐってわけじゃないんでしょ? あなたの番号とアドレスを遣しなさい。こちらも提供するわ」
力が必要なのは、という意味だろう。オレは自分のケータイを開いて、赤外線通信で情報を送った。受信を確認すると、会長も逆の作業を行った。これでどちらからでも連絡を取れるということだ。つまり―――。
「貸してくれる、という解釈でいいんだな? アンタのその鷹の目を」
「一回だけよ」
「充分だ。ありがとう」
会長は訝るように眉をひそめた。まるで角の生えた鬼でも見るような目つきだ。
「おかしな人。自分を殺そうという人間に礼なんて言うヒトは初めてよ」
「同感だ。オレは頭がおかしくてね、危険とか恐怖とか、そういった感情がすっぽり抜け落ちてるんだ」
「それ、防衛本能が働いてないってことよね。だとしたら、あなたヒトとして致命的に狂ってるってことよ」
「だからアンタみたいな危険人物とも、こうやって普通に話せちまうんだよ」
「自分を大切に出来ない人は、いつか他人を傷つけるわ。先輩としての助言よ」
「そりゃどうも」
言って、オレは踵を返した。背中から、会長の辛辣な声がオレの耳朶を叩いた。
「忘れるな。これは貸しだ」
「あぁ、わかってる。だがアンタこそ忘れるな。その一回でアンタがオレを殺り損ねたら、それで終わりだぜ? 次は全力で抵抗するからな」
返事はなかった。
部屋のドアを引いて、ふと思いついた。他愛のない疑問だ。
「なぁ、一つ聞いてもいいか」
「何よ」
「アンタ、テスタメントを破壊したいって言ったよな」
「えぇ、それが?」
「なぜだ? この力が便利だってのは、アンタも充分に知ってるだろ?」
「簡単よ」
ふいと、オレから目を逸らして、会長は言った。
「こんな人を傷つけるだけの力なんて、ないほうがいいに決まってるからよ」
何気なく、ごく当たり前のことを言うかのように、彼女はそう口にした。それは、真実この女が思っていることなのだからだろう。
「止してくれよ。ンなこと言われたら、マジでアンタのこと気に入っちまいそうだ」
「ば、馬鹿なこと言わないでよっ! いいから行きなさいっ。もうワタシに用はないんでしょ」
それには返事をせず、オレはドアを閉めた。
いい人だな、あの人。
もし―――。
もし違う出会い方が出来たのなら、オレはあの人ともっと仲良くなれていたかもしれない。
なぜオレを憎むのか。きっと聞いても教えてくれないんだろうけど、それでもオレは、土方歳子のことを前よりずっと好きになった。だからきっと、彼女に殺されることになったとしても、オレは納得してしまうんだろうなと、そう思った。
随分と時間を食ってしまった。
トウマにメールをすると、屋上で待ってると返事が来た。オレは購買で売れ残っていたサンドイッチ(いちごジャム牛かつサンドという新商品だ。全部売れ残っていた)とトマトジュースを一つずつ買い、それに齧り付きながら屋上を目指した。途中で口に含んだそれを全て吐き出し、結局トマトジュースだけの昼食を終えてトウマたちに合流した。
放課後。
朝と同じように教頭先生がホームルームにやってきて、やはり二言三言よくわからない格言めいたことを言い残して去っていった。誰も聞いていないだろう。オレも聞いていなかった。
急に騒がしくなった周囲の会話に耳を傾けてみたが、島津に関する話題は一つも出て来ない。人望のないヤツだ。
「ハルト、今日はどうすんだ?」
トウマがオレの肩を叩いた。もちろんどこに遊びに行くんだ、という意味合いではない。昼はクニヒコがいた所為で実のある話が出来なかった。まずは会長のことをエリカたちにも話しておくべきだろう。
「とりあえず歩き回ってみよう。ないとは思うが、ヤツを発見できるかもしれないしな」
「なら、神湯さんが空くのを待たないとな」
トウマはオレの隣の席にどっかり腰を下ろして頬杖をついた。エリカの周りにはやはり何人か男子生徒がいるようだ。ちなみにエリカの評判はすこぶる悪い。澄ました笑顔で男子をメッタ斬りにするエリカは「性格が悪い」「お高くとまってる」「顔だけ」「エリカたんハァハァ」というような評価で落ち着いたようだ。付き合いの悪い彼女は女子からも好かれていない。自らそういう立ち位置を望んだのだろうが、ちょっと不憫だ。
諦めの悪い男子生徒がしつこく食い下がるが、「ゴメンなさい。貴方たちとはお友達にすらなれません」と一刀両断で斬殺すると、エリカはチアキを伴ってオレのところにやってきた。
「お待たせしました、ハルト」
「別に待ってねぇよ。早くなったな」
「はい、あんなカスども相手にしてられねぇよ、って感じですね」
「そして口も悪くなったな」
「はい、誰かさんの所為で」
にこりと微笑むと、「さぁ、行きましょう」とオレに手を差し伸べるエリカ。もちろんその手をオレが取ることはないのだが。
「おーい! お前ら今日もツルんでどっか行くの? いい加減おれも混ぜてよ」
空気を読めないことに関しては人後に落ちないと豪語する男が現れた。あぁ、クニヒコのことな。
「それおれのことっ!? そんなこと一言も言ってないよっ!」
「ちっ! 地の文に干渉する能力者か。厄介だな」
「そんな能力だれも求めてないよっ! 何その設定っ!?」
「よしっ! クニヒコ、隠れんぼをしよう」
「えっ? なんでいきなり?」
「まずお前が鬼な」
「なんでおれからなのぉ!?」
「お前はここで一万秒かぞえてからオレたちを探し始めてくれ」
「い、一万秒? えーっと、一分が六十秒だから、一時間で三千六百秒だろ? 一万秒だと……三時間もここで待たなきゃいけないのぉっ!?」
「二時間四十五分くらいだよ。良心的だろ?」
「どこがっ!? 鬼だよっ!」
「鬼はお前な?」
「上手いこと言っても騙されないよっ!」
「おい、チアキ。何とか言ってやれよ」
ほっぺに指を押し当てながら「?」と可愛らしく小首を傾げるチアキが
「一万秒なんてヌルいよねー。ハルくん優しいねっ」
「ヌルくないよっ! 拷問だよっ!」
「ゆとり世代、根性ないねー」
「アンタも同じ世代なんですけどねぇっ!!」
さらりとクニヒコを突き放した。だがクニヒコはこれでなかなかしぶといヤツだ。
「エリカ、何とか言ってやれよ」
「申し訳ありません。わたくし知らない方とお話をするのは得意じゃないんです」
「まだ憶えてないのぉ!? おれだよ、おれっ! 脇谷邦彦っ!」
「えっと? 生徒会長さんでしたっけ?」
「違うよっ! 全くキャラかぶんないからっ!」
「そうですよね、このような凡愚が生徒会長なんて役職に就けるはずがありませんでした」
「凡愚って誰っ!? おれっ!? 何その言い草っ!?」
手強いな。早く帰れよ、コイツ。
「おい、クニヒコ。窓の向こうでお前の母ちゃんが呼んでるぞ」
「呼んでないよっ! おれに死ねって言うのっ!?」
「トウマ、お前も何か言ってやれよ」
「俺か? いや俺、基本的に友達思いだからさ」
「友達?」
「そこに疑問符はつかないよっ! 友達じゃなかったら何なのさっ!?」
「凡愚?」
「凡愚と友達は両立できるよっ!!」
「わかったわかった。じゃあオレたちが鬼やるから、お前は一人でちゃんと隠れてろよ」
「なんでおれ一人だけなのっ!? 鬼が複数の時点でおかしいよねっ!?」
うーん、困ったな。どうすればいいんだ? こんなことなら友達になんてなるんじゃなかったな。
「そこまで振り返って後悔しないでよっ!!」
「わかったよ、真実を話そう。実はさ、こないだこんなメールが届いたんだ」
オレはケータイを開いてチアキから届いたメールをクニヒコに見せた。
『最近クニヒコくんがウザいんだけど、どうすればいいかな?』
「それをここでおれに見せる意味は何かあるのっ!? おれどうすればいいのっ!?」
「それをこれから考えよう、お前がな」
「うわぁーんっ!! ハルトの馬鹿ぁーーーーー!」
クニヒコの雄叫びが赤方偏移しながら遠ざかっていった。一件落着だ。
「お前、ちょっとやりすぎじゃね?」
「アイツにはちょうどいい薬さ」
「何も悪いことしてないじゃん」
「そう言えばそうだったな。しまった」
トウマが困ったような溜息をついて立ち上がった。
「アイツには俺が上手く説明しておくよ。さぁ、そろそろ出発しようぜ」
心優しいトウマにしたがって、オレたちは学校を後にした。
学校を出たところでどこに行こうという話になった。取り立てて決めていなかったので、人気のないところを選んでグルグル徘徊したが、特に異常は見当たらなかった。島津がそう簡単に尻尾を掴ませるとも思えないが、見つけたら即座に応戦できるよう警戒だけは怠らなかった。
暗くなるまで歩いたが、結局なにも起きなかった。どこか遠くから常に監視されているような気配だけは感じたのだが、それがどこからなのかは特定できなかった。歩き疲れたオレたちは、近所のファミレスでドリンクバーだけ頼んで小休止することにした。
「んー、どこにもいないねー島津せんせー」
「そう簡単に見つかったら苦労はしねぇだろうな」
イチゴバニラシェークをチューチュー吸いながらぼやくチアキに、おざなりな返事をする。この女、流動食みたいな甘い飲み物が好きだな。学校でも飲むヨーグルトしか買わねぇし。
「ハルト、昼休みはどこに行ってたんです?」
「あぁ? あぁ、ラブホテル」
「どこのどいつとそのようないかがわしい場所でしっぽりヨロシクやっていらしたのですかっ!」
「いてぇいてぇいてぇ爪を立てて頚動脈を圧迫するんじゃない! リアルに死んだらどうすんだコラ」
「血は飲んであげます」
「空恐ろしい女だな、貴様」
エリカの話は、どこまでが冗談かたまに判らなくなるから恐ろしい。
「で? 生徒会長と会ってきたんだろ? 何を話したんだ?」
トウマが本題を促してきた。クニヒコがいないので誰かをからかって遊べる雰囲気でもない。仕方がないので昼休みの出来事を話すことにした。
「へぇ? 占い師みたいに水晶球に居場所を映すような能力だと思ってたんだけどな」
「ガラス球じゃ武器にならねぇだろ。投げつけて割れたら終わりだぞ」
「レゾネイターを発見するだけの能力なんて、“あっち”じゃあんまり役に立たねぇからなぁ」
「むしろクルシスの機能による副次効果、といったところか」
「ハルくんのインチキジャンケンみたいな能力?」
「アレのどこがインチキなんだよ」
「ハルくんはインチキだよー」
「でも、ハルトのいかさまはクルシスの能力ではないですよね」
「いかさまじゃねぇっつーの」
「ともかく、生徒会長さんの能力を貸していただけるのは一度きり、ということなのですね」
「そういうこった」
オレの命云々は、ここでは言及しなかった。どうせツッコまれるに決まっている。何であれ、会長の手を借りられるのは一度だけだ。もうしばらく探索をして、それでも手詰まりになった時に頼る。その一回でケリを着ける。入念に準備したいところだが、島津が一箇所に留まってくれる保証はない。なかなか難しいところだ。
「一度きり、という条件は厳しいですが、決行するのなら早期に行動しましょう」
「うん? どうしてだい? 何か急ぐ理由があるのかな?」
エリカの提案に、トウマが疑問を挟んだ。どちらかというと、オレもエリカの案に賛成だ。チアキはよくわからないといった顔でイチゴバニラをチューチュー吸っている。
「恐らく、ですが―――」
ちなみにエリカの恐らくはあんまり当てにならないんだよな。言わないけど。
「島津先生は長期戦は望んでいないと思います」
「どうして? 姿を隠せる彼らのほうが長期戦には向いているんじゃないかな?」
「いいえ、彼らは“こちら”でクルシスの能力を手に入れてからも、変わらず就労し続けています。ですが、姿を隠匿せざるを得ない状況になって、初めて島津先生は学校を休みました。理由もなく長期間やすみ続けるのは不可能ですし、教師という職業ですから有給休暇を取得するのも難しいでしょう」
「つまり、早めの決着を望んでいる?」
「そのはずです。学生と違って気軽に休める職業ではありませんから。かといって教師を辞めて、テスタメント争奪戦に全力を注ぎ込むほど、彼らも幼くはないはず。失敗した時に無職ではリスクが大きすぎます。したがって島津先生は短期決戦を考えていると思います」
「んー? せんせーが長期戦をしたくないのに、わたしたちも長期戦をしないのー?」
チアキがストローを加えたまま横目で首を傾げた。
「はい。今日が木曜ですから、島津先生は恐らく日曜日までには全てを終わらせるつもりでしょう。二日くらいの欠勤なら何とでも言い繕えますから」
「だとすると、島津が動いてくるのは土曜か日曜くらいってことか」
「恐らく。であれば、こちらが奇襲をかけるのはそれよりも前。明日にでも行動を開始しましょう」
トウマとチアキがそれに頷いた。オレ個人はそれでも遅すぎると思っているのだが、明らかに間違いってわけでもない。要らぬところで波風を立ててチームワークを乱してしまっては元も子もないだろう。オレも素直に頷いておくことにした。
「ハルトも、それでよろしいですか?」
「あぁ、決行は明日だな。朝イチで会長にお願いしておくよ」
「お願いします……でも、あの生徒会長さんがよくハルトのお願いを聞いてくれましたね。今朝のあの様子から言って、わたくしはにべもなく断られるかと思っていたのですが」
「抱いた」
「いつどこであのような卑陋な莫連女の○○○に○○○を○○○たのですかっ!!」
「首を絞めながら頭をグラグラするんじゃねぇ! 頚椎がズレたらどうしてくれんだ!」
「口から手を突っ込んで矯正してあげます」
「空恐ろしいことを笑顔で言うんじゃねぇよ」
「ハルト」
「あんだよ」
「わたくしも抱いてください」
「お前のほうが卑陋な莫連女だよ」
結局それ以上の実のある話はできず、オレたちはエリカの家に帰宅することにした。たった数日であの殺風景な部屋に帰る、なんて発想が出て来たことに驚きだ。
事件は帰り道で起こった。
夕食の買い出しを済ませ、四人並んで帰途を辿る。スーパーマーケットは中央公園からはやや離れているので、必然ちょっと遠回りをすることになるのだが、エリカのマンションまでの隘路は街灯も少なく薄暗い。車が二台通れるほどの道幅もないのに一方通行になっていない住宅街の狭い道だった。
四人が揃っていて、周りは灯りのついた住居が立ち並ぶという状況。奇襲などまず受けないと高を括っていた。レゾネイター同士の戦いは、時に一個小隊規模の部隊がぶつかり合うほどの被害を及ぼす。目立つ行動を避けたいのはオレたちも、そして島津も同じだろう。どこかにそんな気持ちがあった。
背後から黒塗りの高級車がやってきた。
見通しの悪い夜の隘路だ。大してスピードは出ていない。オレたちは道を譲ろうと壁側に身を寄せた。
車はオレたちを通り過ぎて、止まった。
一瞬なにごとかと身構えたが、何の関係もない一般人に抜き身の刀やチアキのハンマーをお見せするわけにも行かない。
出て来たのは、黒いスーツを着た屈強な男が二人。後部シートからごく自然に降り、真っ直ぐこちらにやってきた。「何か用ですか?」と問う間もなく、エリカの腕が引っ張られた。反射的に手を伸ばすが、クルシスなしのオレたちは普通の高校生だ。瞬きほどの間にエリカを車に押し込める男の背中に、しがみつくくらいしか出来なかった。四の五の言ってられない。クルシスを召喚するしかない。
だがオレの躰は一秒もしないうちに振りほどかれ、壁面に突き飛ばされた。
背中を打ち付けられ、精神の集中が途切れた。クルシスが手の中で顕現することなく霧散する。
黒塗りの高級車は、何事もなかったかのように静やかに発進した。
いち早く反応したのはトウマだ。
すぐにクルシスを召喚し、全速力で地を蹴った。発進から四秒で車を飛び越え、前に降り立つ。当然、高級車は急ブレーキで停止した。
目の前に長い槍を持った少年がいるのだ。運転手も戸惑っただろう。だが、すぐにバックギアで急速発進を始めた。
「チアキッ! 退路を断てっ!」
「う、うん!」
チアキの巨大なクルシス―――ヴァジュラで隘路を塞いだ。同時に軽い地震がアスファルトの路面を揺らす。
ヴァジュラと車が接触し、盛大な衝撃音を奏でた。あと数秒で近隣の民家から人が出て来るだろう。そうなる前にエリカを救い出さなければならない。
再度ドラグヴェンデルを召喚しなおし、オレは軽く跳躍して後部のボンネットに着地した。夜の闇とスモークガラスの所為で、中を覗き見ることは叶わない。
剣を真横に薙いで、ルーフ(屋根)を文字通り、斬り取った。
バキンッと、切るというよりは折れたような音が、宵闇に木霊した。思っていたよりもずっと大きな音だった。急がないといろいろ面倒なことになる。
ズレたルーフを剥ぎ取って、中のエリカを確認する。後部座席で振り向いたエリカは、目をまん丸にしてオレを見上げていた。助けを求めるとか、そんなことにすら思考が及んでいないのだろう。オレは迷わず彼女の腕を掴んで持ち上げた。
宙に浮かんだエリカの躰を抱え上げ、跳んだ。
「トウマ! チアキをっ!」
「任せろっ!」
「チアキ! クルシスを離せ!」
「えっ? は、はい!」
チアキのクルシスは見た目に違わず重い。アレを担いだまま俊敏な動きを実現するのは不可能だ。空中で咄嗟に指示を出し、オレは民家の屋根伝いに駆けた。遅れてチアキを抱えたトウマが追いついてくる。
付近のアパートの屋上で、いったん停止した。襲撃の方角を確認する。
黒塗りの高級車は急発進で逃げ果せたようだが、切り取られたルーフが不自然に転がっていることだろう。知らぬ存ぜぬで通せば、疑われることはあるまい。
わずか数秒の出来事だったが、思わず深い溜息が漏れてしまった。
何だったんだ、今のは? 未知のレゾネイターの襲撃か?
トウマが片手でチアキを担いだまま、槍の先端にカバンやら買い出しのビニール袋やらを引っ掛けてオレの隣に降り立った。
「よう、ショッピングの帰りか?」
「馬っ鹿、あそこに放置するわけには行かねぇだろ。明らかに事件に巻き込まれたって思われちまうぜ」
「すまん。助かった」
「いや、お前こそあの状況でよく動けたな。しかもクルシスも召喚しないで突っ込むなんて、無謀もいいトコだろ」
「何も考えてなかった。何とかなると思ったんだが」
「相変わらず勇敢なのか蛮勇なのかわからねぇヤツだな、ハルトは」
「お前のほうが疾かっただろ」
「俺は速度が疾いだけ。お前がクルシスを召喚しようとしたのを見て、ようやく頭が追いついたくらいだぜ?」
苦笑して、抱えていた“荷物”を下ろしてしゃがみこんだ。ともあれ、無事で何よりだ。
「無事か、お姫様?」
隣で腰を抜かしているエリカに声を掛けた。エリカは黙ってオレの顔を見つめると、出し抜けにオレの顔を両手で挟んで、唇と唇を重ね合わせた。
「んん――――ッ!!?」
「えぇーーーーーーーーーーっ!?」
「おおっ!?」
三者三様の反応が夜空に木霊する。
頭が混乱して事態を上手く把握できなかった。
エリカの唇はしっとりとして柔らかく、ほのかに紅茶の香りがした。
脳髄に痺れるような甘い痛みが走り、背筋の筋肉が緊張する。
エリカの長い白亜の髪が頬をくすぐった。
コイツ睫毛なげぇな、なんて無意味な思考が脳裏を過ぎっては消えていく。
止まっていた心臓が動き出し、火が出るくらい顔が熱くなった。
頭は相変わらず痺れたままで、ふわふわと宙に浮かんでいるような気さえした。
やがて溶けるように唇は離れ、ぬるい吐息が鼻先を叩いた。
仄暗い夜空の下にあってなお、エリカの瞳は淡い光を放つように青く揺らめいた。
触れるか触れないかの距離で、バラの唇が甘い香りとともに囁いた。
「ハルト、わたくしだけのナイト」
エリカはそっとオレの肩に頬を寄せ、「どうか死なないで」と、消え入るような声で呟いた。
それは祈りにも似た願いのようで、オレは彼女の肩をそっと抱き寄せた。
しばらくすると、エリカは嘘みたいな笑顔で立ち上がった。
エリカの様子がいつもと違うことに戸惑っていたトウマとチアキも、
「そろそろ帰りましょう。予期せぬアクシデントもありましたが、それについてもお話したいので」
彼女の変わらぬ笑顔に安堵したのか、重い腰を持ち上げた。
部屋に着くと、エリカはいそいそと食事の支度を始めた。チアキもそれに加わって、和気藹々とキッチンを行ったり来たりした。いつも以上に明るいエリカの笑みは、まるで部屋中を照らす太陽みたいで、ついオレたちの頬も緩んだ。ハンバーグとサラダとコンソメスープという簡単なメニューだったが、それはなぜだかとても美味しかった。
順番にシャワーを借りて、最後に出て来たエリカが椅子に腰を下ろすと、オレたちは黙ってエリカを向いた。彼女の様子がどこかおかしいことに、気付いていたからだ。そしてオレたちが気付いているということに気付いていたエリカは、何気ない挨拶のように話し始めた。
「先ほどの方々は、わたくしのお父様の部下だと思います」
「あの黒い外車の連中か?」
「はい。お父様は在日フランス大使館に勤める高官でした」
「でした? 今は違うのー?」
首を傾げるチアキに、エリカは目を伏せて頷いた。
「正確には、わたくしには日本国籍はありません。お父様もお母様もフランスの人間ですので、わたくしもフランス人ということになります」
「の割には日本語ぺらぺらだね」
「はい、幼い頃から日本で暮らしておりましたので」
トウマの問いにも、エリカは淀みなく答える。
「フランス語も話せるんですよ? 恥ずかしいから実演はしませんけどね」
と、照れ笑いして見せるエリカ。でも彼女はきっと、必要ならばいつもみたいに凛と背筋を伸ばして言葉を操って見せるのだろう。
「フランス人でブロンドヘアーって意外に珍しいんですよ? 今はこの髪が好きなんですけど、昔は目立つから嫌いでした」
「それでなくてもお前の容姿は目を引くからな」
「ありがとうございます。脱線しちゃいましたね。両親の職業柄、日本の偉い人とも面識がありまして、前は偉かった人、なんかとも顔見知りだったりします。そういったツテを頼りに、今わたくしはこうしてここにいます」
「親父さんに黙って、ってことか」
「はい。さすがにバレちゃいましたけど。やっぱり高校生の浅知恵ではこのくらいが限界でした」
「“仮宿”ってのはそうこうことか。この部屋の生活観のなさといい、でも金は掛かってそうなことといい、どうもちぐはぐだったんだよな。得心が行ったよ」
「もっと長く滞在できそうなら、少しずつ家具も増やしていくつもりだったんですよ。幸い、わたくしの家庭はそれなりに裕福なので、子供のわたくしでも扱える金額はそれなりに多いんです」
「だろうな。日割りで払ったって、この部屋の家賃は決して安くねぇだろうし」
「ですね。セキュリティがしっかりしていて、学生が一人暮らししていなさそうなところを選んだつもりだったんですけど」
「学校なんかに潜入するには、どうしても住所や電話番号は必要になる。それもやろうと思えばいくらでも誤魔化せたんだろうけど、いろいろ已むに已まれぬ事情があった、そんなところか」
「はい。時間が足りませんでした。あとお金も」
「お前がそうまでしてここに来た理由は……」
「わたくしの行動を鑑みていただければ、容易に想像はつくでしょう。テスタメントを探し出すためです」
「王女としての責務、ってヤツか?」
「どうでしょう。動機を言葉で説明するのは難しいです」
エリカは力なく笑って、言葉を繋いだ。
「わたくしに残された時間はあまりありません。なくなってしまいました。もう少し上手くやれればよかったのですが、お父様も馬鹿ではないので、子供のわがままに付き合ってくれるとは思えません」
「理由を話すわけにもいかねぇしな。言っても信じてもらえるとは思えねぇし、実際にクルシスを見せるのはリスクが大きすぎる。お前の親父さんをどうこう言うわけじゃねぇが、島津みたいな考え方をするヤツだっているだろうしな」
「はい。どちらかと言うと、お父様はそういう考え方をする類の人間かと思います。嫌いじゃないんですけどね」
父親が、という意味だろう。島津のような考え方は、エリカが最も忌み嫌うものだと思う。
「一つ問題があるんだが」
「何でしょう?」
「お前の親父さんが出張ってきたことを考えると、さっきのアレはちょっとやりすぎだったと思う」
「まぁ、そうだな。車の屋根をフッ飛ばしてたからな。どう考えてもやりすぎだろ」
「もしかして、警察とか来ちゃうのかなー?」
トウマの言葉にチアキが不安の色を見せるが、エリカは落ち着いて首を振る。
「それはないでしょう。お父様がこの国の警察が介入することを是とするとは思えません。もしやるなら、本国からヒトを呼び寄せるでしょう」
「それはそれでマズいな」
「ですが、どんなに早くても一日以上の時間はかかるはずです。明日中に島津先生を何とかしなければなりません」
「それは、島津がテスタメントを持っている可能性にかける、ということか?」
「そうでなくても彼の行動は無視できません。さらにもし、わたくしがフランスに帰るようなことになれば」
「追ってくるだろうな、アイツの性格上」
「もっと大事になってしまいます。それは阻止せねばなりません」
「賛成だ。島津は放置できねぇよ」
「わたしもー。頑張ってせんせーを止めるよー!」
トウマもチアキもエリカに同意する。もちろんオレもそれに異論を挟むつもりはない。ただ一つ気に掛かることがあるとすれば。
「もし」
「はい」
「もし、島津がテスタメントを持っていなかったら、どうする?」
「その時は」
エリカが真摯な眼差しで真っ直ぐにオレを見つめてきた。
「ハルトに全てを委ねます。もちろん、結城くんとチアキさんにも」
それを聞いて、トウマとチアキが力強く頷いた。
「あぁ、任せてくれ」
「うん! 頑張るよ!」
そこで、話を打ち切った。みんなこれ以上は話したくなかったのだろう。だってそれは、もうこれ以上エリカがここにいられないってことだから。目の前にやることがあって、やらなければならないことがあるならば、それだけを見つめていたい。現実逃避と言われようと、オレたちはこれ以上この話を続けたくはなかった。
それから寝るまでは、下らない、取るに足らない話ばかりした。テーブルを移動して、布団やクッションを持ってきて、まるで修学旅行にでも来たみたいに、みんなで輪になってはしゃいだ。日付が変わる頃には、みんなうとうとし始めた。電気を消して、男も女もなく、子供みたいに一緒に寝た。エリカはちゃっかりオレの隣に陣取って、いたずらっぽい笑みを残して目を閉じた。オレはその手をそっと握って、目を閉じた。
どうしてエリカは本心を語ってくれないんだろうなって、そんなことを考えながら、いつの間にか眠っていた。
夢を見た。
白い壁と、白い天井。
夢は匂いまでは再現してくれなかったけど、オレはその場所に覚えがあった。
ずっとガキの頃に入院していた病室だった。
何もかもが朧で霞がかっていたけど、そこが記憶の中の病室だってことだけは判った。
子供が一人いた。
頭に包帯を巻いている。
幼い頃のオレだった。
そいつはガキのオレに声を掛けて、手を握った。
手を引いて、自分のベッドに招きいれ、二人で布団を被った。
逢引や情事なんて、そんな色っぽいものじゃない。
単に寂しかっただけ。
オレたちはそうやって、同じベッドで眠った。
手を繋いで眠った。
「ハルトっ!」
呼ばれて、目が覚めた。誰かがオレの肩を揺さぶっている。
「あぁ~ん? うるせぇなぁ。ブッ殺すぞコラ」
「起きて、ハルトっ!」
寝起きは悪いほうじゃないんだが、妙な夢を見た所為か、眠りが浅かったような気がする。まぶたを開けると、窓から差し込む朝日が眩しくて、思わず手でひさしを作った。
十月五日。晴れ。これまでにないパターンの目覚めだった。
ケータイで時刻を確認すると、まだ六時半。もう少し寝ていてもいいんだろうが、オレは二度寝があまり好きではなかった。よく見ると、なんかメールが来てる。
「ハルト、メールを確認してくださいっ!」
「あぁ? んだよ朝っぱらから」
新着メールは二件。最新のメールを開くと
『ハルトぉ、さびしいよぉ……(差出人:クニヒコ)』
「おえぇぇぇーーーーーーーーーーーーーっ!!」
思わずチアキ並みの厳しいリアクションをしてしまった。クニヒコの野郎、朝一番でなんて醜悪なメールを送りやがる。
「な、何と書いてありました? わたくしにも見せてくださいっ!」
オレからケータイをひったくって文面を確認すると
「うぷっ……」
エリカは口元を手で押さえて吐きそうになっていた。相当ショックが大きかったらしい。こんなメールをオレに見せて、コイツはいったい何がしたいんだろう?
「ち、違いますっ! それではありません。多分もう一件メールが来ているはずです」
促されてもう一見のメールを確認する。差出人は見たことのないメールアドレスになっている。件名は―――。
「島津、だと?」
『差出人:xxx@xxx
件名 :島津です
本文 :
おはようございます、内藤くん。
本日は学校を休んでください。
午前十時までに町外れの倉庫街に来てください。
十三番倉庫でお待ちしています。
必ず神湯さんを連れて来て下さい。
他の二名はついてきても構いませんが、
その場合は不幸が重なるかもしれません。
追伸.
遅刻しても構いませんが、
その場合も不幸が重なるかもしれません。
添付ファイルを見てどう判断するかは
もちろん君にお任せします』
すぐに添付ファイルを確認した。画像ファイルだった。親父とお袋が映っていた。両手両足を縛られて口をふさがれていた。殴られたようなアザがあった。
血の気が引いていくのが、判った。
ケータイを閉じて、虚空を睨んだ。
眠気は一発で吹き飛んだ。
「ハルト?」
「野郎、ナメやがって……」
オレが甘かった。こうなる可能性は考えておくべきだった。無関係の無能力者を巻き込むはずがないと、どこかで高を括っていた。ヤツは今までレゾネイター以外の一般人をこの件に関わらせることをしてこなかった。関わっていたトウマもチアキも、みんなレゾネイターだ。そしてヤツは、レゾネイターを特定する方法を持っている。その事実すらも、逆手に取られた。
頭に来た。
けれど、思いのほか冷静でいられた。
刻限までは、まだ三時間以上ある。
倉庫街までは歩いて一時間。タクシーでも拾えば十五分で辿り着けるだろう。
あちらにレゾネイターを特定できる能力者がいる限り、迂闊な行動は避けたほうがいい。敵情視察も看破されると考えて行動するべきだ。打てる手は、そう多くない。
まずは現状の把握を優先させるべきだ。
トウマとチアキのケータイは枕元においてあった。中を見なくても、新着メールがあることは点滅するランプで判った。
まず顔を洗って頭を冷やしてから、二人を起こした。
トウマとチアキにも先に顔を洗ってくるよう促した。
何事かと不機嫌そうな顔を見せたトウマとチアキだが、有無も言わせなかった。
テーブルを囲んで、二人に各々のケータイを差し出した。
文面を見て慌てて操作をするチアキと、眉間にしわを寄せてゆっくりボタンを押すトウマ。チアキはそのまま絶句し、トウマはテーブルを叩いた。
「確認しておくが、家族を人質にとられている。そうだよな?」
オレの問いに鋭い目つきでトウマは頷き、チアキは涙目でオレを見つめてきた。
なんてことだ。予想はしていたが、それでも腸が煮えくり返る思いだった。
「エリカの両親は? 無事なのか?」
「何も書かれていませんでした。わたくしの両親を拉致すれば、国際問題に発展しかねません。彼もさすがにそこまで愚かではないでしょう」
エリカは首を振り、言葉を繋いだ。
「お二人のメールの文面を見せてください」
トウマとチアキに届いたメールをエリカと確認した。ご丁寧に監禁場所の住所まで書いてあった。随分、遠い。車でも二時間以上かかる場所だ。同じく十時までに二人で来いと指示があった。オレたちの戦力を二分する、いやらしい戦術だ。
クルシスを召喚して全速力で駆ければ一時間強で辿り着けるだろうが、それは身体強化系のトウマの話だ。チアキも連れ立つのなら車で行ったほうが早い。往復だけで四時間以上。最速で両親を救出しても、戻ってくるのにかかる時間を考慮すると、倉庫街に十時に辿り着くのは不可能だ。
いや、そもそもこんな考え自体がナンセンスだ。敵はこちらの動きを察知することが出来る。その上で仲間を連れてくるなと言っているのだから、やるべきことは各個撃破しかない。
「どうするんだ、ハルト」
険しい目つきのまま、トウマが両の拳を握り締める。言われた通りに二手に分かれるしかない。特にトウマとチアキの目的地は車でも時間がかかる上に、ちょうどラッシュアワーに差し掛かる最悪のタイミングでの強行だ。すぐにでも出掛けたほうがいい。
「お前たちはそのメールにある場所に今すぐ行ってくれ。もう七時過ぎだ。通勤ラッシュで道が混み合うことも考えるなら、間に合うかどうかギリギリだ。最悪トウマはチアキを担いで全力疾走することになるが、大丈夫だよな?」
「多分な。ケータイのナビで場所を確認しながら行くさ。そっちは?」
「オレたちはまだ時間に余裕がある。お前たちには申し訳ないが、少し作戦を練りながら行くよ」
「それがいい。ヤツの目的が神湯さんだとすると、島津はそっちにいる可能性が高いからな。警戒しすぎても足りないくらいだ」
「なに、勝てる目算はある。むしろお前らのほうが心配だよ。すぐに行ってくれ」
「わかった。チアキ、行くぜ」
トウマはチアキをエリカの部屋に突っ込んで着替えをさせると、自らもその場で着替えを済ませた。着替えると言っても制服しかないのだが、パジャマで出掛けるわけにも行くまい。
部屋から出て来たチアキは、不安の所為かおろおろと目を泳がせながらトウマの服のすそをちょこんとつまんだ。トウマはそんなチアキの頭に手を乗せ、軽く撫でた。
「結城くん、これを」
エリカがトウマに封筒を差し出した。
「これは?」
「少ないですが、タクシー代くらいにはなるでしょう」
一寸受け取るのを戸惑ったトウマだが
「ありがとう。必ず返すよ」
嘆息して微笑むと、エリカの封筒を受け取った。エリカは「必要ありません」と頬を緩めて見せた。
トウマとチアキを玄関で見送って、オレたちは次にどうすべきかを考えることにした。とは言っても、出来ることは少ない。三時間という時間制限は、何か準備をするには少なすぎた。
ふとエリカを見ると、浮かない顔をしている。何か思いつめたような、そんな溜息をエリカは吐いた。
「あまり思いつめるな。何とかなるさ。オレが何とかする」
エリカはちらりとこちらを流し見て、難しい表情で呟いた。
「わたくしが―――サイコビジョン能力者が彼の目的だとするならば、わたくしのこの身を差し出すことで解決できると思うのです。そうすれば」
「論外だ。バカ言ってんじゃねぇよ。オレがそんなことさせるわけねぇだろうが」
「ですが、それがもっとも効率のよい解決策です」
「はぁ? もっとも効率のいい解決策は、島津をブッ殺す以外に何かあるかよ。何もねぇよ。次にアホなこと抜かしたらお前でも殴るぞ」
キツい言い方になってしまったが、そんなことは絶対にさせないというオレなりの意思表示のつもりだ。エリカを犠牲にして他の全てを助けるなんて方法を、オレ自身が許せるはずがない。
「お前は必ずオレが護る。余計なことは考えなくていい」
オレの手を取ったエリカが、沈痛な面持ちでその手を握り締めた。エリカの複雑な気持ちが、手を通して伝わってくるようだ。
「今は何も考えなくていい。オレが全部うまく行くように手を打つ」
オレはエリカの手を握り返した。
こんな時こそ冷静に八方の手を尽くしそうなエリカだが、酷く狼狽している。この女でもこんなに動揺することがあるのかと、今さらながらにはっとした。
それっきり、エリカは黙って俯いてしまった。オレは彼女の手を握りながら、もう片方の手でケータイを操作した。打てる手は全て打つ。相手の出方は読めないが、こちらも出来ることは全てやっておきたい。
島津はオレたちの人間関係までよく観察していた。エリカが目的なら、もっとも手っ取り早い方法はエリカの家族を使うことだ。だが、元在日フランス大使館の高官という父親の肩書きが、島津にとっては邪魔だったのだろう。ならば何を使うべきか。エリカが絶大な信頼を寄せる人物の家族を使うべきだ。そして戦力を効率よく分散させるために、仲間の家族も使う。一般人ではどうやってもレゾネイターには太刀打ちできない。拉致するのはそう難しくはなかっただろう。反吐が出るような方法だ。
実は、トウマとチアキの家族については、オレはあまり心配していなかった。島津の目的がエリカであり、オレたちの戦力を分散させたのなら、島津の取る戦略は一つしかない。エリカの拿捕に戦力を集中させる。トウマとチアキの家族を遠方に監禁した狙いは恐らくそれだ。投入できる戦力が多くないから、援軍として駆けつけられないほど遠くに誘き寄せる。トウマなら一人でも充分に対処できるだろう。
だからこそ危険なのはオレたちのほうで、オレはこの状況を何とか打破しなければならない。
時刻は八時半を回った。手持ちの現金が少ない(先ほどトウマに渡してしまった)ので、歩いていくしかない。そろそろ出発しなければならない頃合だ。
着替えを済ませ、エリカの手を引いてマンションを出た。
風は涼やかだが、陽射しは少しずつその勢いを増しつつある。昼になれば初夏の陽気を取り戻すことだろう。それでも乾いた風は秋の匂いを孕ませていて、ついピクニックにでも出掛けたくなるような朗らかな日和だった。
制服を着た男女が始業のチャイムもとっくに鳴った時刻に学校とは真逆の方角に向かって歩いていく図は、多分に目を引いた。クニヒコから心配するメールが入ったが、無視した。トウマもチアキもエリカも欠席しているのだ。クニヒコは相当に訝っていることだろう。
オレたちは無言で歩き続けた。いつも姦しいエリカが無言でいると、どこか気詰まりがした。手を強く握ってやると、はっとしてエリカは顔を上げた。照れくさかったのでそっぽを向いたまま歩き続けたが、エリカの握り返してくる手のぬくもりが、何となく心強かった。なのに彼女の手から伝わってくる気持ちは、悲愴な覚悟めいた気構えばかりで、それがオレを不安にさせた。
住宅街を抜けて寂れた工場区を通り過ぎると、まともに使われているのかどうかすら判らない倉庫が立ち並ぶ区域に出た。俗に倉庫街と呼ばれる場所だ。ケータイで時刻を確認する。九時四十分。妥当な時間だろう。
倉庫は一番から順にずらりと並んでいた。シャッターの番号を確認しつつ、先へ進んだ。どれも端々が錆び付いており、長く使われていないことを予想させる。十二と十四の間のシャッターが開いていた。どうやらここが目的地のようだ。
「エリカ、あらかじめクルシスを召喚しておけ。万が一の時は全力で逃げろ」
「はい。貴方の背中は、わたくしが護ります」
「そんなことにはならねぇと、思うがな」
はったりだ。だが、強がりでもエリカにはそう言っておきたかった。
倉庫の中は薄暗かった。
空間全体に、意識を敷衍させる。
生きている気配が三つ。
二つは何かに縛られているようだ。
最後の一つが、嘲笑うような気を放っている。
敵が一人というのは考えづらい。気配を絶ってどこかに潜んでいるのだろう。
一歩一歩、慎重に歩を進めた。
砂利を含んだアスファルトを踏みしめる音が、不気味に反響する。
灯りのない闇の向こうから、人影が浮かび上がった。
目視で顔は判別できない。
だが肩に担いだ巨大なそれが、目の前の男を特定させた。
「いよう、待たせちゃったか? 五分前行動とやらを心掛けたつもりなんだが」
影が、薄く笑った。
酷く下卑た、底意地の悪いくぐもった笑みだ。
「いいえ。時間厳守は人として最低限のマナーですからね。それくらいの常識はあるようだ、内藤くん」
「はン。テメェは人としての仁義も礼節も忘れた下衆野郎だがな。言われた通りに来てやったぜ。親父とお袋を解放しろ」
くつくつと笑みを浮かべ、影が歩み寄ってくる。
「おや? 約束を守ればご両親をお返しすると、そんな内容の文言でしたか?」
「だからテメェは下衆野郎だって言ってんだよ」
手にしたドラグヴェンデルを、強く握り締めた。ヒートアップしそうになる頭を堪えるので精一杯だ。
「内藤くん、いくつか確認したいのですが、質問に答えてください」
「嫌だっつったら?」
「それは仕方がない。ご両親のどちらかが二度と君の家の敷居をまたぐことがなくなってしまうかもしれませんが、それでもよければ断ってくれても構いませんが」
ダミ声のくせに頭に来るくらい慇懃な口調で、島津が口の端を吊り上げる。
挑発に乗ってはいけない。敵は常にこちらの心の隙間を突くような言葉を選んでくる。
「数学の宿題ならやってないぜ? いなくなっちまう先生が出した宿題をやろうと思うほど、オレは勤勉な性格じゃねぇ」
「君は幼い頃に頭を強打して入院していますね」
「それが何だよ」
「同じ病室にいたお友達のことを憶えていますか?」
「憶えてねぇよ、ンなもん」
「ははっ、薄情だな、君は。内藤くんはあなたのことを憶えていないそうですよ、神湯さん」
思わずエリカを振り向いた。
エリカは鋭い眼差しで島津を見つめたままだ。
オレも島津を向き直って、その相貌を睨みつけた。
エリカがオレと同じ病室で入院していた?
よく憶えていない。
ガキの頃の記憶は曖昧で、誰と何をしたとか、そんなことを具に憶えているような性格じゃない。
もしかしたらエリカはオレと同じ病室にいたのかもしれないが、それが何だ。
こちらの動揺を誘おうとしているようだが、そんなつまらない手には乗らない。
「内藤くん、君は当時の事故で側頭葉の一部に傷を受けたらしいですね、調べましたよ」
「回りくどいんだよ、何が言いたいんだ?」
「扁桃体を損傷した所為で、違う部分がその活動を補おうと活性化してしまった。上側頭溝周辺皮質と脳梁が、君は通常の人間よりも過剰に成長している。そうですよね」
「その通りだよ。だからどうしたんだよ」
「神湯さんは幼い頃に左脳のウェルニッケ領野の一部に障害を負ったそうですよ。ご存知ですか?」
「はぁ? 意味わかんねぇよ。何か関係あるのかよ」
「はい、ありますよ。神湯さんの脳は左脳のウェルニッケ中枢の欠損を補うために、右脳側のウェルニッケ領野が成長したらしいですね。ただし、神湯さんは家庭の事情で単一の言語を習得するだけでは足りず、日本語とフランス語を修得しています」
「何が言いてぇんだ、テメェ」
「その所為で、神湯さんは急速に右脳を活性化させる必要に迫られました。両親の話すフランス語と、病院のお友達が話す日本語を理解しなければならないのですからね」
「わりぃけど、結論だけ言ってくれねぇかな」
「なに、確認をしたかっただけですよ。君たちはやはり特別だ。そして私が求めるのはやはりあなたですよ、神湯さん」
エリカは答えない。島津の話は意味がさっぱり解らないが、島津がエリカを狙っているなんてことは百も承知だ。頭を打とうが脳に傷がつこうが、そんなものは知ったことじゃない。
「さて、では交換をしましょうか、内藤くん」
「はぁ?」
「君のご両親と、神湯さんをですよ」
頭の血管が切れそうになった。
意味の解らない話を聞かされ、次にやることはエリカと親を交換する? ふざけるのもいい加減にしろだ。
「よぉ、先生。憶えてるか?」
「何をですか?」
「言ったよなぁ、テメェは半殺しじゃ済まさねぇって」
「言いましたね。私に危害を加えるおつもりでしたらどうぞ。ご両親がおうちに帰れなくなってしまいますよ?」
頭を廻る血が沸騰しそうだ。
殺しはしないつもりだったが、この男は今すぐにでもブッ殺したい。
「そうそう、あなたのご両親を縛っているのは、私の仲間の能力です。ご両親のどちらかを縊り殺すのに一秒は必要ないでしょう」
「そうかよ」
「ご理解いただけたなら、クルシスを収めてください。そんなものを振り回されては、成立する交渉も成り立たない」
交渉も何も、これははじめから脅しでしかない。そんなものに付き合う義理はない。ないが、従わざるを得ない。それが許せなかった。
震える躰を懸命に堪えた。ともすれば溢れてしまいそうになる感情を堰き止める理性も、どこまで持ち堪えられるか不安だ。
「先生よぉ、アンタこんなことして何がしたいんだ? アンタの目的が知りてぇな」
「何ですか、急に。あまり長くおしゃべりをするつもりはないんですが、まぁいいでしょう。私の目的ですか? 簡単です。このクルシスの能力を使ってお金儲けをしたいんですよ。ただ、それだけです」
「そんなことのために、テメェはたくさんの人を傷つけて、殺めようってんだな」
「何がおかしいんですか。人はお金のために人を殺せる生き物ですよ? あぁ、君はまだお金を稼ぐことの大変さを知らないですからね。子供は気楽でいい」
「ざけんな。金を稼ぐだけなら、他にいくらでも方法があるだろうがよ」
「君と押し問答を続けるほど私も暇ではないのですが。このクルシスという力は非常に希少価値の高いものです。現代科学で解明できない、言わば奇跡や神秘に近い。どれほどの経済効果を生み出すと思いますか? 子供には理解できないかもしれませんがね」
「要するに、楽して金を儲けたいってだけだろ」
「そうですよ。君たちが邪魔さえしなければ、もっと楽に済んだものを」
「もしこの力が汎用化されるようなことになったら、どんだけの人間が死ぬことになると思ってんだよ。コイツは武器だぞ、兵器だと言ってもいい」
「何を言っても無駄ですね。恐らく君と私は最後まで相容れない。水掛け論になるだけです。私の考えに賛同できないなら戦えばいいでしょう。ご両親を犠牲にしてね」
「それでも教師かよ、テメェはよ」
「教師も人間ですし、教職は単なる職業ですよ。お金を稼ぐための手段です」
「そんなヤツの授業を受けて、子供がまともな大人に育つかよ」
「はははっ。馬鹿なことを言う。子供の成長に教師はあまり関係ありませんよ。子供は勝手に育つものだ。よほど優れた器量人が教師をやるならまだしも、私のような普通の教師が何をやっても、子供に与える影響など高が知れている」
「腐れ外道が」
「おや、口論は終わりですか。では、神湯さんを渡してください」
「いや、渡さない」
オレは口の端を吊り上げた。
島津は驚いた表情を見せたが、すぐに下卑た笑顔でダミ声を上げた。
「ではご両親には人生からご退場願いましょうか」
「待ってくださいっ!」
黙っていたエリカが、金切り声を上げた。思わず振り返った。射殺すような眼差しで、エリカが島津を睨めつけている。
「エリカ」
「約束してください。わたくしが貴方に同行すれば、ハルトも、ハルトのご両親も、無傷で帰すと、約束してください」
「エリカ、もういいんだ」
「いいえ、ハルト。ここでわたくしが行かなければハルトのご両親が死んでしまいます。ですが、わたくしが彼に同行しても、わたくしが殺されることはありません」
「その通りですよ、内藤くん。メリットとデメリットをよく考えたほうがいい。君にその気があるのなら、後で彼女を助けに来ればいいではないですか」
余裕たっぷりの嫌みったらしい笑みで、見下すように島津が口元を歪めた。勝ち誇ったその醜悪な顔は、怒りを通り越して憎しみすら覚えるほど陋劣なものだ。
「ハルト、行かせてください。そしてわたくしを助けに来てください」
「ハハハッ、神湯さんはこう言っていますが、どうしますか、内藤くん」
もう充分だろう。オレはポケットからケータイを取り出して、新着メッセージを確認した。つい三十秒ほど前に受信したばかりのメールだ。
「それで姫に擦り傷ひとつでもつこうものなら、私の首が飛んでしまいますよ、プリンセス・エリカ。それでは助けに行けません」
ナイトハルトのような口調で語りながら、送信フォルダから未送信のメールを発信した。一秒で、送信完了と表示された。
「何を、した。内藤春人」
「あぁ? あぁ、アンタはもうお仕舞いだよ」
オレがおざなりにそう言い放った直後。
遥か数百メートル彼方より放たれた超音速のそれが、屋根を貫いた。
飛来したのは一条の流星か、不可視の旋風か。
頭上を見上げる暇もなければ、飛弾を視認する術もない。
凄絶な轟音を奏でながら倉庫の屋根と壁を破壊したそれは、瞬く間に消え去った。
親父とお袋を縛り付けていた黒い糸の束―――能力者の毛髪だろう―――がするりと解け、二人はそのまま地面に倒れた。
「な、何だ? 何が起こった?」
呆然と目を丸める島津に、オレは剣を突きつけた。
「アンタ、頭がいいのか馬鹿なのか判らねぇなぁ。学習能力がないのか?」
天井の向こうで、ばたりと何かが倒れる音がした。
島津はぐるりと瞳を回し、その着想に思い至ったようだ。
「単なる時間稼ぎ、だったのか」
「当たり前じゃん。レゾネイター同士の戦いに長々とした口上は要らねぇの。大体オレ、これでも三十年くらい生きてるわけよ。高校生のきれいごとでお前を丸め込もうなんて考えるわけねぇだろ」
オレは不敵に口元を吊り上げて
「あぁ、今のは長口上なんじゃないのかって? いいんだよ、別に。この位置関係なら、何をどうしようがエリカにも親父にもお袋にも、手は出させねぇからな」
丹田に気を込め、剣を構えなおした。
敵に伏兵がいるのは予想済み。だが、こちらの兵数も向こうに知られている。敵には人質があり、こっちは敵の条件を飲むしかない。この局面を打破するにはどうすればいいか。奇策に出るしかない。敵の知らないカードを切る。それも敵に気付かれないような、かつ一撃で敵を仕留められるような強力なカードならなおいい。
そんなカードは一枚しかない。
そしてそのカードを切るタイミングは、今この時を置いて他にはない。
数百メートルの距離を無にする最強の弓兵。
レゾネイターの居場所を探知できる偵察兵。
この二つの条件を同時に満たす切り札―――生徒会長・土方歳子をこの局面で投入しなくて、一体いつ使えというのか。
敵が外法で来るのなら、こっちも邪道で臨まない手はない。
「エリカ、親父とお袋を頼む」
「え、あ、はい。わかりました」
呆気に取られた顔をしながらも、エリカがオレの横を通り過ぎていく。途中で振り向いて
「ハルト、すごいです」
「いいから行け。まだ終わってねぇよ」
「はい!」
とてつもなく嬉しそうな笑顔を見せると、エリカは親父とお袋の介抱に向かった。
「さて、今度こそ本当に形勢逆転だ。この状況を覆せたら、お前には神の称号をプレゼントしてやるよ」
「子供と侮ったのが間違いでしたか。全く、本当に厄介な生徒ですね、内藤くんは」
「褒め上手な先生は、生徒から好かれるらしいぜ。オレを殺せたらお前の好きにさせてやるよ」
「ククッ。では、君を殺して神の称号とやらを頂きましょうかねぇ!」
肩に担いでいた巨斧を、島津が両手に持ち直した。
「全力で抵抗しろ。もう一度言うぜ。お前は半殺しじゃ済まさねぇからな」
魁偉なる剛斧に対抗するのは、刀身四尺の斬護刀。
王女を護り、王女に仇なすものを斬り伏せるクルシスだ。
リーチも、破壊力も、攻撃範囲も、全て相手が上。
速力で後塵を拝することはないとはいえ、爆風による広範囲攻撃はそのメリットを半減させる。
オレのイカれた脳による先読みも、爆風が生み出す飛礫の軌道までは読みきれない。
オレに出来るのは意思の動線を感じ取ることだけ。
斬撃の後に生じた二次災害を予測することはできない。
同じ理由で銃撃戦で発生する跳弾の軌跡を読むことは出来ないだろう。
オレが視ているのは意識の通り道であって、未来の映像ではない。
生徒会長・土方歳子の天敵が内藤春人ならば、内藤春人の天敵はこの島津かもしれない。
だが、それでも―――。
オレは負ける気はなかった。
クルシスを手にしたレゾネイターとの戦いは、常に薄氷の上での戦いと同義だ。
敵が己に対して有利な能力を持っている場合。
己が敵に対して有利な能力を持っている場合。
どんなに相性が良くても、どんなに相性が悪くても、ラッキーパンチ一発で勝負が決することもある。
勝敗は常に変動し、揺蕩うもの。
いかに不利な状況であっても、必ずそれを翻す好機はある。
それをいかにこちらに引き寄せるか。
好機を見逃さず、見誤らず、見極める。
それこそが生き残るための真髄であり、勝つための要諦だ。
オレは薄く呼気を吐き出した。
丹田で練った気を全身に廻らせる。
練った気を、眼光とともに放った。
気の波は柳のように受け流された。
大木のような巨斧と竹のしなやかさを併せ持つ難敵。
どう攻めるべきか。
頭の中で何度もシミュレーションした。
だが実際に立ち合ってみると、イメージとはまるで異なって見える。
すでに言葉は、ない。
もはや語るべきことなどない。
あるとすれば、それは刃で。
敵の剣気に突き刺すような鋭さはない。
肌にまとわりつくような、不快な気だ。
拭っても落ちない油のようで、振り払うことが出来ない。
まずはジャブで様子を見る、なんて生ぬるい方法が通じる相手じゃない。
振るう太刀は常に必殺。
直撃は即死。
掠めても致命傷。
敵が斧を振り終わるより前に、オレは剣を振るい切っていなければならない。
気と気はぶつからず、どろりとした風となって立ち込めた。
やりづらい相手だ。
粘性のある水を箸で掬うような感覚。
水は留まらず箸をすり抜け、まとわりついて糸を引く。
気の性質は、島津の性格まで体現しているようで不気味だった。
矛先が、わずかに揺れる。
それは水面の映る虚像のようで、誘うように挑発してくる。
餌に釣られた魚は、瞬く間に俎上で真っ二つに断ち割られるだろう。
応じず、視線で弾き返した。
島津の頬が、薄く緩む。
オレも、笑った。
互いの理念も思想も目的も関係ない。
そんな小難しい高尚な思念は、立ち合い《ここ》には必要ない。
想いを乗せるには、手にする刃は鋭すぎた。
向き合うだけで、汗が吹き出た。
言葉は交わさず、刃も交えず、ただ気だけが交錯した。
オレの放つ鋭利な気を島津は躱し、島津の放つ粘着する気をオレは振り払った。
ぶつからず交差する気の奔流は大気と混じり、薄い風を伴って場を廻った。
滴る汗が、体力と一緒に零れていく。
時はまだ、満ちない。
場にこもった気が、熱を持ち始めた。
呼吸をするのも億劫になるほどの濃度。
森に漂う靄に似て、酷く息苦しい。
不意に絡まり合う気の波が制止した。
オレの呼吸が、ヤツの呼吸とぴたりと重なった。
地を蹴った。
重い巨斧の軌道が、見える。
紙一重では足りない。
大きく迂回して、側面からヤツの喉元に喰らいついた。
胴と頭を切り離す斬撃は、しかしヤツには掠りもしなかった。
躱されたのではない。
飛んでいるのはオレのほうだ。
爆風による衝撃を、ようやく痛覚が認識する。
内蔵を下から持ち上げられ、口から出そうな錯覚を感じた。
強烈な衝撃だ。
空中でバランスを取り戻し、何とか着地した。
顔を上げ、前に跳ぼうとした躰を、無理やり後ろにジャンプバックさせた。
剛斧による掬い上げが、爆砕したコンクリートを巻き込んで突風を作った。
飛ばされる躰の端々を、飛礫が穿ち裂いていく。
大きく距離を離された。
ヤツの躰には傷一つついていない。
アレだけの爆風を起こしたのに、ヤツはその影響を少しも受けていなかった。
斧の特殊効果で爆風の範囲を限局しているのか。
いや、違う。
どの角度でどう振るえばどんな衝撃が発生するのか、計算し尽くしている。
ヤツの武器は直接それを命中させて攻撃するものではなく、紡がれる衝撃によって二次発生する爆風で敵を殲滅する多弾兵器。
爆風を発生させられるほどの破壊力を秘めた巨大な斧、という認識はそもそも誤りだった。
アレはそのためだけの武器。
そう認識を改めなければ、負ける。
島津は火薬庫、斧は爆弾。ならば弾を敵に直接あてる必要などあるはずもなく。
爆風の範囲と方向を調整するだけでいい。
ヤツはオレを狙ってなどいない。
オレがいそうな場所を狙ってくる。
散逸した気を縒り集め、足に力を込めなおした。
駆けた。
ヤツの気の動線を予測する。
さらに動線から発生する爆風の範囲を推測する。
そんな曲芸じみた未来予察でも実現しない限り、勝機はない。
巨斧が斜めに振り下ろされる軌道が網膜に映った。
起点側へと、駆ける躰を方向修正。
だが、巨斧が振り下ろされるタイミングが、予想よりずっと早い。
島津はオレに先読みのような能力があると推測していた。
ならばオレがどう動いてくるかも充分にシミュレートしていただろう。
爆風は距離が離れれば衝撃も弱くなる。だが範囲は広くなる。
オレはまたも吹き飛ばされた。
島津は砲丸投げでもするように躰をくるくる回転させ、第二波を放つ。
着地直後の硬直を狙われた。
咄嗟に両手で顔をクロスガードさせる。
衝撃は躰を覆い、高波のように浚っていった。
ごろごろと転がる躰を、地に剣を突き刺すことで制止させた。
あまりの衝撃と強風に、グリップを握る指の骨が、軋む。
ヤツの攻撃ははじめから二段構えだ。
初撃でオレのバランスを崩し、二発目でダメージを与える。
一発目は横に薙ぐような広範囲攻撃。
二発目は縦に掬い上げる高威力の爆撃。
相当に戦い慣れている。
一連の動作に淀みはなく、洗練された巧みな連撃だ。
ヤツの行動をわずかにでも予測できるオレは、その軌道から予備動作を取ることができる。
結果、何とか生き永らえている。
並みの使い手なら最初の二撃で絶命しているだろう。
突き刺した剣を杖にして、立ち上がった。
膝を突いた。
たった数発で足にキている。
凄絶な破壊力だ。
まともに喰らったらひとたまりもない。
膝を突いたことで、思い出したように全身が痛み始めた。
ダムが決壊して割れ目から噴き出た鉄砲水の直撃を喰らった、そんな感じだ。
全身を強打して、躰中が悲鳴を上げている。
震える足腰に鞭を打って、立ち上がった。
乱れた気を鎮め、躰に静寧を取り戻す。
ダメージは消えない、だが痛みに打ち勝つ心構えを作る。
これより先は死地。
すでに退路はなく、ゆえにあるのは前進のみ。
心気を深く研ぎ澄ます。
恐怖はない。
元よりそんなものを感じられるほど、オレの頭は繊細に出来てない。
必要なのは危険を正確に予測すること。
恐れを知らないオレの壊れた脳は、どの程度のダメージで死に至るのか、あとどれくらいの痛みでこの躰は動かなくなるのか、そういった危険認知に驚くほど疎い。
感情ではなく、論理と経験でそれを補填する。
あと一撃でも喰らえば、この躰はまともに動かなくなるだろう。
全速で疾走できるのはあと一回か。
ならばその一回をどう使うか。
広範囲の横薙ぎを回避するのは不可能だろう。
ならばそれを耐え切って突っ切るか。
否、それでも躰が浮き上がるほどの颶風なのだ。
耐えても次の一撃で粉々にされるだろう。
回避も無理、耐え凌ぐのも無理。
ならばそもそも撃たせない、くらいしか方法がない。
それをするには距離がありすぎる。
ヤツはオレが疾駆する間に斧を振るえばいいだけなのだ。
どうすればいい、どうすればこの窮地を打破できる?
思考がまとまらない間に、ヤツがゆっくりを歩き始めた。
考える時間を与えないつもりだろう。
正解だ。オレはまだ、どうすれば島津に勝てるかに思い至っていない。
勝てる目算はあった。だがヤツの戦法が一枚うわてだった。
ヤツが斧を振るった直後に横っ飛びで回避する方法も考えた。
だがヤツの初撃が横薙ぎであり、回転を止めることなく次弾を放つことが出来るなら。
オレの動きを見てからでも斧の軌道を修正し、地を削ることなくその場で一回転して次弾を放てばいい。
重くて巨大な斧という、一見すると扱いにくい武器だが、その実おそろしく汎用性が高い。
トウマの速度ならばその間隙を縫って一撃で仕留めることができただろう。
チアキのクルシスならば、ヤツのバランスを崩し、叩き潰すこともできただろう。
だが、オレの能力は島津と相対するにはあまりにも中途半端だ。
島津との相性は最悪。コイツはオレにとって立ち合ってはならない類の敵だった。
だけど、けれども、それでも―――。
オレはコイツをブッ倒さなければならない。
逃げ回るばかりでは、オレの刃は届かない。
オレは肚を決めた。
ここで死んでも、コイツを討つ。
避けるという選択肢は捨てた。
ただ、迎え撃つ。
静かに息を吸い、浅く吐き出した。
手にしたドラグヴェンデルを低く構えた。
これより先は、コンマ一秒の誤差も許されない。
精確に、寸分の狂いもなく、この剣を振り抜く。
何度この剣を手にしたか。
幾度この剣を薙いだことか。
百の敵、千の魔物、万の化生を屠り、その血を吸ってきた。
乾いた風と土の匂い、地響きのような魔物の足音、山のような獣の巨躯。
目を閉じれば、今もそこにあるように。
はっきりとこの身に思い出せる。
豁然と開いた瞳に映るのは、調伏すべき怨敵の姿。
足に力を入れ、気を込める。
腿、膝、脛、そして指先に心気を通わせる。
踏み込みは深く、滑るように駆け抜けるイメージ。
爆ぜるように、跳んだ。
身を低くして、薄闇を滑空する。
巨斧が大地を抉り取るように斜めの軌跡を描くビジョン。
その動線を突っ切るように、オレは真っ直ぐ駆けた。
焦点はヤツの手に。
剛斧を握るヤツの手が、網膜に重なる軌道を正確になぞる。
刃が地に触れ、高波のような爆風が去来する。
全身全霊、渾身の気を込めて―――。
斬護刀ドラグヴェンデルを、垂直に振り上げた。
爆風を斬撃で相殺。
波を割り、わずかに出来た空隙に身を滑り込ませた。
肘、肩、腰、膝が裂傷を負い、血肉が弾け飛ぶ。
逆流する滝のような衝撃波をブチ破り、オレの躰は島津の前に舞い降りた。
瞠目するヤツの瞳。
斧を振り切って傾いだ躰。
オレは剥き出しのその両腕を―――。
「アアァァァーーーーーーーーーーーーーッ!!」
一刀両断に叩き斬った。
宙を舞う腕と腕、その先にある巨大な鉄塊。
視認するまでにコンマ三秒かかった。
クルシスが実体を失うまで残りコンマ七秒。
前のめりに倒れそうになる躰を、空中でもう一回転。
振り上げでは破壊できない。宙に浮かせてしまう。
片足が地に着くまでにコンマ五秒を要した。
残りコンマ二秒。
オレの剣は断ち斬るものではなく、叩き斬るものだ。
再び斧の全身を視認するのにコンマ一秒。
体重と、腕力と、速力と、ありったけの心気を込めて。
クルシスが実体を失うまで、残りコンマ一秒。
斬護刀ドラグヴェンデルは、名も知らぬ凶刃を字義通り、叩き斬った。
斧は割れ、砕け、薄闇に淡い光を灯しながら、無数の耀いとなって溶けて、消えた。
背後から男の絶叫が聞こえてきたが、気にする余裕もない。
そのまま倒れ、大の字に仰向けになって、大きく息を吐いた。
「あぁ、これって半殺し以上ってことになるのかな? せーんせ?」
にやりと口元を緩め、そう呟いてみた。
返ってくるのは、腕を失った男の阿鼻叫喚のみ。
腕を失くして、クルシスを失くして、恥も外聞も失くして、泣き叫ぶ男の図。
「ま、これくらいで許してやんよ」
我ながら何たる上から目線かと思いもしたが、たまにはいいかと思い直した。
さて、事件は一件落着。
親父とお袋は深く眠っているようだったので、エリカに治癒だけしてもらった。
その後が大変だ。
島津はそのまま気を失ってしまい、出血が止まらないからオレも困った。
すぐにエリカに来てもらい、腕を繋ぎ合わせ、血が止まるまでオレも気が気じゃなかったが、何とか一命は取り留めたようだったのでほっとした。島津はこの場に放置しても大丈夫だろう。クルシスを破壊され、レゾネイターでなくなったこの男に、もはや何の力もあるまい。
島津の腕を繋ぎ、オレの全身も癒してもらって大団円……かと思われた。少なくともエリカはそう考えていたようだ。
「ハルト、お疲れ様でした」
「あぁ、疲れた。今日ほど死を間近に感じたことはなかったな」
「わたくしもドキドキでした。全くお役に立てなくて歯痒かったです」
一難去った後の安心感からか、エリカは屈託のない笑顔で手を合わせた。その笑顔は太陽みたいに眩しくて、オレの頬も思わず緩んだ。
「これで全部お仕舞いですね」
「まだだろ。あのアホ(島津)にテスタメントのこととかいろいろ聞かなくちゃならねぇし、トウマたちの安否も確認しねぇとな」
言って、ケータイを確認する。トウマとチアキからメールが届いていた。どうやら二人もご両親も無事らしい。詳細は直に会って話そうとある。こっちも無事だと返信し、ようやく一息つけた。
「どうしましょう、島津先生が目を覚ますまで待ちますか?」
「待つのはそうなんだが、オレのほうにちょっと問題があってな」
「問題? どこか痛むのですか? すぐに治しますよ」
「傷があるわけじゃねぇんだが。進退問題というか何というか、約束があってさ」
「どういうことです?」
小首を傾げるエリカから視線を外し、立ち上がって倉庫の入り口を向いた。
殺気。
動線。
はっきりと感じられた。
「エリカ、ちょっと親父とお袋を連れてきてくれねぇ?」
立ち上がってケツを叩きながら、何気ない調子でエリカにお願いをした。
エリカは怪訝そうな顔で頷き、倉庫の奥の二人を向いた。
目を閉じて、両腕を開いた。
心臓を狙いやすいように、だ。
せめて事情くらいは説明して欲しかったが、彼女はきっと答えてはくれないだろう。
これから死ぬというのに、少しも怖くないのが不思議だった。
壊れた脳に感謝すべきなのか、憎むべきなのか。
全てがスローモーションに見えた。
引き絞る弓の音まで聞こえてくるようだった。
弦を弾く音が、耳朶に響いた。
薄目を開けた。
目の前に背中があった。
差し込む光を爆ぜるように反射させる、金緑の髪。
右手に握られた華美な装飾の杖。
先端の水晶が真夏の太陽みたいな輝きを放った。
世界が白に包まれた。
背中から突き出た矢が、白い光に溶けて、消えた。
改めて設定やらプロットやらを読み返してみると、最後の場面はもう少し違うように描くこともできたのですが、当時の私はどうやらこれが最良だと判断した模様です。いま書き直せと言われても、やはり同じような終わり方にすると思います。
最後まで中途半端に謎が残っていますので、もし読者様に疑問が残っているのなら短いエピローグにてそれは解決できるように書きました。どうかエピローグまでお付き合いいただければ幸いです。