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十月三日

 三日目のお話です。新たな敵の出現と、これまでの敵の正体が判明するという展開です。

 仲間も増えてにぎやかになったハルト達が織りなすコメディもお楽しみいただければと思います。

 十月三日の朝は少し雲が多めで、お天道様もご機嫌斜めといった感じだった。ケータイの天気予報を見ると降水確率は十パーセントだから、雨は降らないだろう。

 目を覚まして最初に呟いたことは、「今日も夢を見なかったな」だ。念のため、隣で目を覚ましたトウマにも聞いてみたが、やはりイマジナルには行ってないらしい。これは深刻な問題だ。イマジナルに行けないということは、テスタメントを発見しても向こうに移送できないということにはならないだろうか。

「とりあえず、エリカが起きるまで待って、どうするか決めるか」

「だな。彼女って寝起きいいのか?」

「すこぶる悪い。あぁ、寝起きのアイツ凄まじく無防備だから、ケータイで撮っておくといい。きっと高値で売れる」

「馬ー鹿、もうそんな真似はしねぇよ。俺はチアキ一筋で行くって決めたんだ」

「はじめからそうしてろよ」

「馬鹿馬鹿、雑誌の情報によると、女の子は経験が豊富だけど自分のことを一途に愛してくれる人が好きらしいんだ。俺はそれを目指して、こうやって経験を豊富にしてきたんだぜ?」

「そんな都合のいい生物がいるのか? あぁ、ここにいたな」

「あぁ、これからはガンガン押していくぜ。それからハルト」

「あん?」

「お前、極力フツーにしてろよ。変に意識するな。アイツはけっこう鋭いぜ」

「知ってる。まぁ何とかなるだろ」

 オレはあくびを一つして、勝手知ったる他人の家とばかりに戸棚を開けてインスタントのコーヒーを用意した。熱いコーヒーを一口すすると、隣のエリカの部屋から爆音が鳴り響いた。「おおっ!?」と驚くトウマを余所に、オレはケータイのワンセグテレビでニュース番組を覗いた。農水省の大臣が辞職したとか株価が急落したとか、よくわからない情報を頭の中に詰めていると、隣室から夢遊病患者のような目をしたエリカが出てきた。エリカはやはりオレたちの存在には気付かず、パジャマを脱ぎながら浴室を目指している。トウマは引きつった笑みで「な、なるほど」と呟き、オレはそれに「な?」と返した。

「俺たちこのままここにいてもいいのか?」

「いいんじゃねぇの? 素っ裸で出てきたらアイツが悪いんだし」

「そうか、役得だな」

 さすがトウマ。話が早い。オレたちは努めて何気ない振りをしながら、陰でバスルームのドアを物凄く意識した。もしエリカの裸を見てしまっても、これは事故だから仕方がない、仕方がないんだ。やがてシャワーの音が止み、浴室のドアノブに手が掛かる音を聞いた瞬間、オレたちの緊張はピークに達した。来た、イケるっ! 一人だとビビって出来なかった冒険だが、二人ならきっと出来る。仲間ってなんて大切なんだろう。

 結論から言うと、ドアは開かなかった。扉の向こうで、もぞもぞとエリカが動いている気配だけを感じながら、オレたちは耐え難いもどかしさを感じていた。何をやっているんだ、エリカ。早く出て来い。祈るように念じながら、オレたちはケータイをいじる振りを続けた。

 祈りが天に届いた。扉は開かれた。オレたちはさりげなく視線だけを浴室に移した。白磁のような足がドアの隙間から顔を覗かせた。オレたちは徐々に視線を上げた。

「ハルト、気のせいかしら。殺気のような血走った視線を感じるのですけど」

 エリカはドアの隙間を足から出したところでぴたりと立ち止まっていた。馬鹿か、お前は。ここは一気に行くところだろ。オレは冷静な振りをしながら淡々と返事をした。

「きききき気のせいだろ? ててててて敵らしきけけ、気配はななななないぞっっ!!」

 失敗した。

 エリカはすぐにドアの向こうから姿を現した。しっかりとTシャツを着込んだ上に、羽織ったバスローブの隙間を帯で閉じた艶姿は確かに色っぽかったが、オレたちが期待したものではなかった。

「おはようございます、ハルト」

 濡れた髪と火照った顔で、エリカが爽やかな挨拶を口にした。

「言ってくだされば、シャワーくらいご一緒しましたのに」

 流し目を作って猫のように背中を丸めたエリカに、オレは深い溜息を落とした。

「ダメだな、コイツ。全然わかってねぇよ」

「仕様がねぇよ、彼女はオンナだぜ?」

「所詮オンナか」

「オマエら軽犯罪法と迷惑防止条例で殺しますよ」

 オレとトウマは「はン」と鼻で笑って窓の向こうに視線を移した。

 朝食はパンと味噌汁(赤だし)だった。


「うぷっ」

 拷問のような朝メシの完食を強要されたオレとトウマは、二人揃って胃を押さえながら通学路を歩く羽目になった。一人だけまともな食事を取っているエリカはいつもの澄まし顔だ。

「そう言えば、今日は浅井さんともう一人の新しいほうのお友達の方にレゾネイターかどうかを確認するんですよね。どうやって尋ねるのです?」

 エリカの問いに、オレは胃をさすりながら答えた。

「うぷっ。お前やってくれねぇ? うぶっ。オレたち、うぷっ、友達だからさ。うぷっ、聞きにくい、うぷっ、んだよ」

「そんなに気持ち悪いです?」

「誰のせいだ……うぷっ」

「ハルトが素直になってくれないからです」

「お前には、うぷっ、男の浪漫というものが、うぷっ、わかってない。チラリズムや、うぷっ、ポロリズムにはな、うぷっ、女体の、うぷっ、秘めようとする、うぷっ、恥じらいという、うぷっ、甘美なスパイスが、うぷっ」

「わたくしもあまり親しくもない方には尋ねづらいのですが」

 無視された。

「わかった。じゃあここは公平にジャンケンで決めるか」

「わかりました」

「ちょっと待てよ、ハルト。お前、神湯さんが知らないからってここでジャンケンを出すか? 汚ねぇぞ」

 さりげなくオレに優位な方向へと話を進めようと思ったが、トウマの横槍が入った。ごもっとだ。ジャンケンはオレにのみ有利なゲームであって、エリカはもちろんトウマにも不利なゲームだしな。

 エリカは小首を傾げながら疑問を口にしたが

「なぜです? ジャンケンなら三人にとって平等かと思うのですが」

「そう思うなら十回連続でハルトとジャンケンしてみなよ。一回でも勝てたらジャンケンで決めてもいいぜ」

「ハルトってそんなにジャンケンが強いのですか?」

「強いなんてもんじゃない。コイツ人生で一度も負けたことがないんだぜ。一回でも勝てたら俺の貯金を全額くれてやるよ」

 トウマの提案に乗った。当然の反応だ。二人でするジャンケンで十連勝する確率はおよそ千分の一、十連敗する確率も千分の一。あいこになる確率はもちろん含めない。あいこになったって引き分けで一戦を終えるわけではないからだ。結果が勝ちか負けかの二分の一なので、二分の一の十乗イコール約千分の一だ。九十九.九パーセント勝てる戦を放棄する理由はないと、エリカは判断したのだろう。

「じゃあ行きますよ、ハルト。ジャン、ケン、ポンっ」

 何も考えずにグーを出したエリカをオレはパーで下す。

「ジャン、ケン、ポン。ジャン、ケン、ポン。ポン。ポン」

 五回を超えた辺りからエリカの表情が変わり始める。六回、七回、と次第に見開いた目が大きくなり、八回目、九回目で拳を引いた。そしてエリカは

「ジャン、ケン、ポンッ!」

 最後の一回を気合を入れて突き出すが、結果はオレの勝ち。当然だ。この世界でオレにジャンケンで勝てる人間は存在しない。勝てるとしたら、そいつが人間じゃない場合のみだ。例えば機械とジャンケンする時なんかは、オレの勝率は常人と同じになる。

 勝敗が決した後も、エリカは立ち止まって

「ポン、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン」

 と続けざまに勝負を挑んできた。何度勝負を挑まれても結果は変わらない。相手の出す手が何となく判るオレに、ジャンケンで勝てるヤツなどいないのだ。

「むむむっ! ハルト、もう一度です」

「何回やっても変わんねぇって」

「行きますよ、さーい、しょ、からッ!」

 意表を突いてパーを出してきたエリカを、オレは易々とチョキで下した。言葉尻を変えても出す手が見えることに変わりはない。エリカはしばらく呆然とパーを出した自分の手の平を見つめ、突然

「ジャケポンッ!」

 と早口でチョキを出してきた。グーで負かした。わなわなと震える二本指をぽかんと口を開けながら見つめるエリカは、額に青筋を浮かべながらゾッとするほど嫣然とした笑みを作って

「ハルト、わたくし次はグーを出します」

 と、オレに揺さぶりをかけてきた。意外だ。コイツ、負けず嫌いだったんだ。ジャンケンというゲームの性質上、相手に揺さぶりをかけても勝率は変わらない。相手の言うことを鵜呑みにしてそのままパーを出すような正直者でない限り、結局むこうが何を出すかなど判りはしないからだ。

「参ります」

 花冷えのする四月の夜のような凛冽とした空気が辺りに立ち込める。どんだけ真剣なんだよ、コイツ。

「最初はグー」

 ゆらりと、立ち合いの時のような凄まじいオーラめいた気迫が伝わってきた。コイツ、マジだ。意地でもオレに勝つつもりだ。薄く呼気を吐き出しながら、オレの一挙手一投足、毛穴の開きまでも見逃すまいと凝然たる眼差しを向けたエリカは、次の瞬間

「ジャン、ケン、ポンッ!!」

 これまでで一番の気合とともにチョキを出した。グーで負かした。

 愕然と四肢を地に突いたエリカは人目も憚らず項垂れた。よっぽど悔しかったらしい。立ち上がったエリカからはこれまでのような典雅な笑みが失せており、引きつった頬を無理やり吊り上げて

「あっ、あちらにエリカさんが」

「エリカってお前じゃねぇか」

「ジャンケンポンッ!」

 パーを突き出し、オレのチョキに敗北した。馬鹿だ、コイツ。でもなんかオレ、コイツのことちょっと好きかもしれない。子供じみた頑なさの中に、どこか可愛らしさがある。意外だが、この時オレは初めてエリカのことを可愛いと思った。

 まだ鋭気の衰えないエリカは腕を交差させて逆手で組み、組んだ手を内側に捻って腕と腕の隙間から相手の次の手を読むという迷信じみた方法に訴え始めた。さらに何かを悟ったような顔で拳をそのふくよかな胸に当て、米軍の海兵みたいに虚空に祈りを捧げ始めた。

「ハルト。この一撃に、わたくしの全てを懸けます!」

「オレは異星から来た大魔王かっつーの」

「貫けっ!」

「殺すつもりかよ」

「ジャンケンポンっ!」

 エリカはグーでオレはパー。当然の結果だ。

 震える拳を収めたエリカは、額に浮き出た血管を隠そうともせず、頬の筋肉をひくひく痙攣させながら必死で笑みを作った。空恐ろしい女だ。

「ハルトはジャンケンがとてもお強いのですねほほほっ」

「悪かったよ、もうジャンケンで決めようとか言わねぇから」

 まだ冷めやらぬ怒りを堪えながら、エリカはカバンを持った手を清楚に重ね合わせた。

「どうしてハルトはそんなにジャンケンが強いのですか?」

 弦楽器のような美しい声色が壊れたピアノみたいに震えている。きっとオレがイカサマとかインチキをしていると思っているのだろう。笑顔の裏に蠢く感情が怖い。

「別に。相手が次に何を出すかとか、何となく判るんだよ、オレ」

 エリカの(空恐ろしい)視線から目を逸らしながら、呟くようにそう告げた。するとエリカは目を丸くして驚いた。いや、驚いたというよりは予期せぬ答えが返ってきた、といった表情だ。

「それはジャンケンだけですか?」

「ん? さぁ? 思考が読めるとか未来が見えるとか、そんな大層なもんじゃねぇよ?」

「あれ、もしかしてお前さ、ハルト。戦ってる時もその先読みみたいな能力つかってんのか?」

 静観を決め込んでいたトウマが、口を挟んできた。そう言えばトウマとは都合二回バトルをしてるんだった。当然の疑問だろう。

「あぁ、まぁな。じゃなきゃお前の槍は躱せねぇよ」

「何だよ、勝てるわけねぇじゃん! 道理で負けるはずだわ」

「いや、オレ次にお前と戦り合ったら勝てる自信ねぇよ?」

「嘘吐けよ。俺お前とは百回やってもぜってー勝てねぇ自信があるぜ?」

「いや、無理無理。お前の槍のほうが疾ぇもん。アレ避けるのすげぇギリギリだったんだからな。あんな暴風雨みてぇな突き、予想しきれねぇって。今んトコこの世で最も戦いたくない奴ナンバーワンだからな、お前」

「なに言ってんだ? 最後のあの突進みたいなのやられたら、百パー俺の負けじゃん。最初の一撃くらいなら予測できるんだろ? 静止せずに突っ込まれたら初撃を躱されて一刀両断でジエンドだよ」

 そう言えばその通りだ。トウマと戦う時に限って言えば、全速力で突っ込んで初撃を回避するっていうのは必勝法だ。あの時は何も考えてなかったが、高速で前進し続ければ、一発か二発うまく躱すことで槍の間合いから外れることが出来たんだ。間の取り合いは明らかに愚策。それに思い至らなかったオレが未熟ということだろう。

「いま言われて気付いたのか? ま、理屈じゃなくて本能で解ってたんだろうな。さすがは百戦無敗のバウンサーってところか」

「まぐれだろ? 運だよ、運」

「お前って昔から自分のこと謙遜するのな。やりすぎると嫌味だぜ?」

 別に謙遜しているつもりはない。褒められるのに慣れていないだけだ。正確に言うと、ヒトが人を褒める時っていうのは大抵がお世辞で、オレには相手がお世辞を言っている、つまり嘘を吐いていることが判ってしまうので、褒められるのが昔から好きじゃなかった。だから殊更に褒められる状況を作るのを避けてきた。するとこんな捻くれた人間に育ってしまうという按配だ。ヒトの心は見えないくらいがちょうどいい。

 ふと隣を見ると、エリカが急に逆方向に歩き出した。何をしているのかと思ったら、エリカは急に立ち止まってオレを向いた。なにやら強烈な視線をオレに送っているようで、背筋に悪寒が走った。視線に込められた感情は非常にストレートな好意のようだが、それでいて酷く粘着質で気味が悪い。

「何やってんの、お前?」

 訝しげな顔でエリカに尋ねると、彼女は小首を傾げて視線を落とした。すぐに気を取り直して真っ直ぐオレのほうに歩いてきたエリカは、出し抜けにオレの手を両手で掴んだ。

『ハルトが好きハルトが好きハルトが好きハルトが好きハルトが好きハルトが好き』

「うおおおおおおおっ!!?」

 オレは思わずエリカの手を振り払って後退った。

 な、何だ今の強烈な思念は。冷や汗をかきながら及び腰でエリカを見ると、「キラキラキラキラッ」という擬音を放ちながら乙女チックな目をしてエリカがオレを見つめていた。心臓がバクバク音を立てながら、痛いくらい脈を打っている。

「な、何さらすんじゃオノレは……」

 エリカは思案げに視線を落とすと、すぐにいつもの澄ました笑顔に戻った。

「ハルトにこの想いを伝えたかったのです」

「呪いか、それは」

「似たようなものです」

 満足そうに微笑むと、エリカはさっとオレを通り過ぎて先に進み始めた。何がしたいのかさっぱり解らない。

「浅井さんと、えっと……田中さん、でしたっけ?」

「クニヒコな」

 一文字も合ってねぇ。どんだけカゲ薄いんだよ、アイツ。

「えぇ、その田中さんにはわたくしから探りを入れてみましょう。ハルトは彼らの言質からその虚実を判断してください。出来るのでしょう?」

 すごいな、コイツ。あれだけのやり取りで、エリカはオレがヒトの嘘を見抜けるって看破したんだ。

「あぁ、わかった。わりーな、嫌な役どころで」

「ハルトのお役に立てるのでしたら、この程度の煩瑣は厭いません」

「ほんとかよ」

「はい、ほんとです」

 疑う振りをして、オレはエリカから視線を外した。エリカの笑顔が眩しくて、見ていられなかったからだ。何だかよくわからないが、オレはすごくドキドキしていた。


 教室に入ると、クニヒコとチアキがすぐに寄ってきた。

 チアキと顔を合わせるのは少し気まずかったが、今までどおりでというのがオレとチアキの取り決めだ。オレは努めて自然を装った。

「おおおおお、おはよう、ちち、チアキ」

「う、うん。ななな、なんで、どど、ドモってるの?」

 失敗した。

 トウマはひくひくと頬を引きつらせていたが、クニヒコはそんなオレたちの様子に気付いた様子もなく

「おっす、ハルト、トウマ。今日は三人で登校か?」

 いつもどおりの挨拶でオレの肩を叩いた。

「おう、田中。おまえ数学の宿題やってきたか?」

「田中って誰っ!? 誰なのっ!? ハカマダですらないのっ!?」

 オレがカバンを机の横に引っ掛けると、エリカがにこやかにクニヒコに声を掛けた。

「おはようございます、田中さん。ちょっと質問があるのですが、よろしいですか?」

「だから田中って誰なのっ!? おれに質問があるって解釈でいいのっ!?」

「はい。田中さんはイマジナルとかクルシスという言葉に聞き覚えはありますか?」

 直球で来たな。返答の真偽を測るなら、イエスかノーで答えられる質問のほうがやりやすい。クニヒコはよく聞き取れなかったというような顔でエリカに聞き返した。

「え? 何が? イマジネーション?」

「イマジナルとクルシスです」

「何それ? 聞いたことないけど」

 ちらりとオレに視線を遣したエリカに肩を竦めて返した。クニヒコはシロだ。本当に知らない。

「そうですか。ありがとうございます、田中さん。さようなら」

「どうして別れの挨拶をっ!? いま来たばかりだよねっ!?」

「浅井さんはご存知ですか?」

 クニヒコを無視してエリカが清艶な笑みをチアキに向けると、チアキはぽかんと口を開けて

「どーしてエリカちゃんが知ってるのー?」

 素っ頓狂な顔をして疑問を返してきた。オレはトウマと顔を見合わせた。驚いた。チアキはイマジナルを知っている。ということはレゾネイターだ。チアキは過激派と調和派のどちらかに所属している、ということだろうか。

 そう判断するのは早計だ。オレだってエリカに出会うまではレゾネイターでありながらその自覚がなかった。“こっち”の世界でクルシスを使えることを知り、それを実際に顕現させたことがなければ、無辜の市民と大差はない。

「なに、お前。クルシス召喚できんの?」

 チアキはオレとエリカに視線を行ったり来たりさせながら「なんで?」と首を傾げた。

「どーしてわたしの夢なのに知ってるのー?」

 当然の反応だ。むしろオレやエリカが自分の夢を覗き見しているんじゃないかという疑問を抱き始めているのかもしれない。

「チアキ、俺たちもクルシス召喚できるんだよ」

 ここで渉外担当トウマが口を挟んだ。女をクドくことにかけては右に出る者はいないこの男なら、上手く説明できるかもしれない。

 頭にはてなマークを浮かべているチアキに、トウマは爽やかに白い歯を覗かせた。

「詳しい話は昼休みにでもしようか。ちょっと時間かかるしな。安心しろ、俺たちはお前の味方さ」

 眉を八の字に折り曲げたチアキが不安そうにオレに視線を移した。

「要するに、同じ夢を共有してたんだよ、オレたちは」

「わ、わかんないよー」

「けっこう複雑なんだよ。もうすぐチャイム鳴っちまうからさ。後で必ず説明する。何があっても俺はお前の味方だから、昼休みまでこのことは口外しないでくれ」

 トウマが真剣な表情でチアキの肩に手を置くと、弱々しげな顔のまま「う、うん」とチアキは頷いた。

「え? 何の話? おれも混ぜてよ」

「失せろよ部外者、お呼びじゃねぇんだよ、なんでまだここにいるんだよ」

「どうしてそこまで否定するのっ!? おれここにいちゃダメなのっ!?」

「ダメだな」

「なんで!? 酷いよハルトっ!」

 涙目で訴えかけるクニヒコにどう説明しようか迷ったが、面倒だったので突き放すことにした。

「すまんな、クニヒコ。お前はもう必要ない」

「用済み認定っ!? おれ要らないコなのっ!?」

「いろいろあんだよ。ちょっと複雑な事情があってな。チアキの人生に関わるようなことだからさ、お前もう転校して違う学校に行ってくれねぇ?」

「なんで転校しなきゃいけないのさっ! ちょっと席を外せばいいだけだよねっ!」

「そういう言い方もできるな」

「他にどんな言い方があるのさっ! もうちょっとおれのこと労わってよっ!」

「ムチャ言うなよクニヒコ。出来るわけないじゃん」

「全然ムリじゃないよっ! どうして出来ないのさっ!」

「チアキがお前のこと嫌いだから?」

「なんで疑問調!? そんなことないよね、チアキちゃんっ!」

「えっと……どっちかって言えば、嫌いかな?」

「気遣いながら死刑宣告っ!?」

「悪いな、クニヒコ。本当に事情があるんだ。昼休みは外してくれねぇかな?」

 チアキの口撃でダメージを受けたクニヒコに、トウマが申し訳なさそうにお願いをした。オレが言うと冗談にしかならないが、トウマが言うとどこか迫真性があるのはなぜだろう。やはりモテる男は違うな。

「わ、わかったよ。何だか知らねぇけど、真面目な話なんだな?」

「あぁ、お前が存在していると、たぶん話が進まない」

「それきっとお前が進めないだけだよねぇ!!」

 クニヒコがぎゃーぎゃー喚いている間に始業のチャイムが鳴ってしまった。釈然としない顔のクニヒコに「すまん」と謝って、トウマたちは各々の席に戻った。

 一昨日から全く服装が変わっていない我らが担任島津が教室のドアを開いた。みな一様に静まり返っている。教卓の前に立つと、島津はなぜかオレに意味ありげな視線をよこした。眉をひそめて「はぁ?」と胸襟で呟くと、島津は顔を上げて

「おはようございます、皆さん」

 としゃがれたダミ声で慇懃な挨拶をクラスメイトに投げた。「ざぁーっす」という返事を聞いて、淡々と連絡事項の伝達に入る島津教諭。このおっさんは見た目がアレだけど、とても真面目な先生なのだ。

 さて、朝のホームルームが終わると、島津が目の前のオレを呼び出した。

「内藤くん」

「なんすかー?」

「君は昨日の体育をサボタージュしたそうですね?」

 ロックンローラーみたいなしゃがれた声なのに口調が恐ろしく丁寧な鬼島津と対面で話をしたことは、実はあまりない。

「はぁ、そーっすけど。さーせん」

「上杉先生がいたくご立腹でした」

「さーせんっした」

 オレの投げやりな語調に、島津は腹を立てた様子もない。このおっさんの恐ろしいところは、一切の言い訳を許さないところだ。悪いことをしたら謝罪して罰を受ける。逆らうと後で生徒指導室(オレたちはこれを懲罰室と呼んでいる)送りにされてしまう。そこで何が行われているのかは、寡聞にしてオレは知らない。

「放課後、生徒指導室に来なさい。よろしいですね」

「はい、わかりあしたー」

 逆らわなくても懲罰室送りにされてしまった。トウマは先生受けもいいから呼ばれなかったのだろう。アイツは成績も抜群にいいしな。何をやっても中の中なオレは情状酌量の余地なしといったところだろうか。

 心配そうに声を掛けてきたトウマやクニヒコに「何でもない」と答え、オレは午前の授業をやり過ごした。


 昼休み。

 クニヒコに「バイバイ」と手を振って、泣きそうな彼奴を放置したオレたちは、昼食を購って屋上に向かった。扉の反対側はちょうど北向きになっていて、日も当たらず人目にもつかない造りになっている。オレたちはそこに陣取って、話をすることにした。

 チアキもオレやトウマと同じように、夢の話を他人にはしてこなかったらしい。親に話してみたら心療内科に連れていかれそうになり、それ以来イマジナルのことを他言するのを控えるようになったらしい。

「要するにー、みんなで同じ夢を見てたってことー?」

「はい、要約してしまうとそんな感じです」

 説明は専らエリカに任せた。オレやトウマだと感情が入ってしまいそうだが、エリカなら恬然と説明に終始できるだろうと思ったからだ。

「それでー、前は出来なかったけどー、今はクルシスを召喚できるんだよねー」

「その通りです。浅井さんのクルシスを召喚してみていただけませんか?」

「うん、いいよー」

 目を閉じて突き出した手の平に意識を集中させると

「ちょ、ちょっと恥ずかしいねー、これ」

 ぺろりと舌を出して、チアキは頬を赤らめた。幼馴染ながらなかなか萌える仕草だ。コイツのクルシスは、きっとハンカチとかだ。うん、そうに違いない。

 チアキが再び目を閉じて、掌に心気の粒子を集束させ始めた。淡い光を放つ耀いは、やがて明確な線を帯びた形を成していく。棒状のそれには長めの柄がついているが、手の小さなチアキがにちょうど握り締められるくらいの太さしかない。グリップからさらに横に視線を走らせると、鉛灰色の金属棒がすらりと伸びており、どことなく心許ない印象を受ける。さらに視線を横に走らせると、か弱げな印象は瞬時に消滅した。鉄球だ。鉄筋コンクリートの建造物を破壊するクレーン車を思い浮かべるといいだろう。ヒト一人を粉々に破砕してなお余りある鉄の塊が、そこにあった。簡単に言うと、鉄の棒の先に鉄球を取り付けただけの武器だった。ハンマーのようなものだ。

 ひょいと、手にしたそれを肩に担いだチアキは

「えへへっ、できたー。ほんとに呼べるんだねー」

 照れ笑いしながら頬に手を当ててはにかんだ。女の子らしい仕草も担いだ十トンハンマーのおかげで台無しだ。

 オレはハンカチを想像していたので、その凶悪な形状に思わず頬の肉が引きつるのを禁じ得なかった。そもそもハンカチって武器じゃないし。

「チアキ、お前のそれって身体強化系か?」

 トウマの問いに、チアキは首を振った。

「んーん、現象惹起系だよー」

「その形状でか。何が出来るんだ?」

「んー、地震を起こせるよー」

 確かにチアキの鉄球ハンマーなら地面に叩きつけるだけで大地を揺るがすことが出来るだろう。見た目どおりの武器だ。

「それだけか?」

「うん。これ重たいからねー、敵に当てるの大変だし」

 この形状で身体強化系でなければ、振り回すのは困難だ。そもそも敵を撲殺するチアキなんて見たくない。チアキは後方支援要因で決まりだ。

「よいしょっと」

 チアキはハンマーを持ち上げて、ゆっくりと後ろの壁に立てかけた。手を離すと巨大なそれは次第に粒子へと分解され、消失していった。

 クルシスは召喚するまでにおよそ一秒の時間を要する。手を離しておよそ一秒で消失を始め、二秒後には完全に霧散する。手を離れると消えてしまうクルシスだが、弾かれて手を離れたとしても一秒以内に再び手に触れれば消えることはない。

 また、クルシスはクルシスによって破壊することが出来る。手を離して消失したクルシスは再び呼び戻すことが出来るが、破壊されたクルシスは永遠に戻ってこない。クルシスを破壊されたレゾネイターは、その時点で普通のヒトになってしまう。

 クルシスは召喚者と深くリンクしているので、レゾネイターが手にしているクルシスを破壊するのは極めて困難だが、召喚者が絶命すると自動的に消滅する。レゾネイターを殺さずに無力化するには、レゾネイターの手からクルシスを弾き飛ばし、一秒以内に宙を舞うクルシスを攻撃するのがもっとも効果的だ。消失を始めたクルシスは実体を失うので外部から破壊することは出来ないが、手を離れたクルシスは召喚者とのリンクが微弱になる所為で極端に脆くなるからだ。

 クルシスが消失を始めると、召喚者とのリンクも途切れるので、レゾネイターはクルシスの恩恵―――つまり身体能力の強化―――を受けることが出来ない。したがって対レゾネイター戦では、相手の武器を弾き飛ばすというのは極めて有効な戦法になる。が、オレとトウマが戦った時のように互いの能力が拮抗している場合、相手の武器を弾き飛ばすなんて悠長なことを考えている暇はない。クルシスでの攻撃はほとんど一撃必殺なので、相手の武器を弾き飛ばすよりも直撃を与えるほうがずっと効率がいい。

 もちろん武器を弾き飛ばせば相手を一時的にせよ無力化できるが、消失したクルシスは再び召喚できるので、弾いてから三秒以内に相手を撃破しなければ無意味になってしまう。相手を殺さずに無力化するには、弾いて手を離れた武器を連続で攻撃するという高等なコンボが必要になる。三秒あれば、レゾネイターなら敵を斬り伏せてしまったほうが早いし簡単だ。

 もっとも、これは身体強化系のレゾネイターに限った話だ。エリカの杖なんて治癒能力を除外すればただの棒切れだし、チアキのハンマーは振り回すだけで一苦労だ。現象惹起系のクルシスは肉弾戦には全く向いていない。多少の身体能力増強は見込めるが、白兵戦で身体強化系のレゾネイターと戦うことはまず不可能。距離を置いて戦うのが基本だ。

 戦闘する際は、こんなことに気をつけて戦うことになるのだが、イマジナルという世界では基本的に凶悪なモンスターと戦うことが仕事なので、対人戦は想定されていない。クルシスを召喚できる能力者は、共闘すべき仲間でありこそすれ、敵対すべき仇ではないのだ。ゆえに今“こっち”で生じているいがみ合いは、オレたちにとって非常に悩ましい問題だったりする。

「んー、仲間になるのはいいんだけどー、何するのー?」

「要するにテスタメントを探せばいいんだよ」

「どこにあるの?」

「それがわからねぇから探すんじゃねぇか」

「どんな形?」

「知らん」

「無理だよー」

 チアキの言うことはもっともだった。テスタメントを探すとはいっても、結局なんの手掛かりもないのが現状だ。持っているかもしれない過激派―――覆面チームに接触を試みて探りを入れるより他に手立てがない。

「覆面の方々に問い質すとしても、利害が衝突してしまうので、戦闘になる可能性が極めて高いと思われます」

「えー? わたし人間と戦ったことないよー」

「チアキは間接的に俺たちを支援してくれればいいよ。実戦は俺とハルトがやるさ」

 エリカの言にブウ垂れるチアキを、トウマがやんわりと宥める。が、

「クルシスで戦ったら死んじゃうよー」

 殺傷力の高いクルシスで立ち合う場合、必然それは命の奪い合いになることが多い。敵を完全に無力化するには、クルシスを破壊するしかないからだ。

「殺しは極力しない方向で行こう。もしバトルになった場合、相手のクルシスを破壊することを最優先に行動する。それでいいよな?」

 チアキの不安に、オレは妥協案で答えた。もちろんこれは建前になる可能性が高いが、オレも殺しはしたくない。トウマも同じだろう。

「まず、わたくしたちの戦力を把握するところから始めましょう。いざ戦闘になった時に、連携が取れないようでは身を守ることも出来ませんから」

 エリカはチアキを不安にさせることがないよう「身を守る」という言葉を使いながら、現実的な算段を立てようと提言してきた。エリカらしい言い回しだ。この女は警察の特殊犯捜査係《SIT》にでも就職して交渉人ネゴシエイターにでもなったほうがいいかもしれない。

「わたくしのクルシスは聖杖グレイル。現象惹起系で外傷の治癒を行うことが出来ます」

 エリカは喋りながら掌にクルシスを形象化させた。器用なヤツだ。

「射程は一メートルほどしかありません。擦り傷程度でしたら一瞬で完治させられますが、深い裂傷や複雑な傷は治すのに時間が掛かります。病気は治せませんし、体力を回復させることも出来ません」

「俺のは竜撃槍アスカロンだな」

 エリカに続いて、トウマもクルシスを具現化した。トウマのクルシスはチアキほどではないにせよ、尺が長いのでちょっと目立つ。

「身体強化系だから特殊な能力はない。スピードではハルトに勝るだろうけど、腕力や破壊力はたぶん負ける。迫り合いにならなければ関係ないけどな。射程は二メートルくらいだ。どうでもいいけど竜タイプのモンスターに強いんだ」

 自分でも目立つと心得ているのか、トウマはすぐに手を離してクルシスを消失させた。ちなみに“こっち”にはモンスターなんかいないので、竜に強かろうが弱かろうが関係ない。八岐大蛇ヤマタノオロチなんかの討伐イベントがあったら、コイツはきっと八面六臂の活躍をしてくれるだろう。

「わたしのはさっき見せた雷鎚イカズチヴァジュラだよー」

「稲妻なのに鈍重なんて笑わせんなよ」

「カミナリみたいにドカンってなるのー!」

「そうか、それは良かったな」

「ハルくんの意地悪ー」

 チアキは口を尖らせてそっぽを向いてしまった。なんでコイツはいちいち萌える仕草をするんだろうな。

「ハルくんのは? ショボいのだったらクニヒコくんと交代だからねー」

「えっ? いいの?」

「ダメー!」

「ダメです」

「ダメに決まってんじゃねぇか」

 全員にダメ出しを食らってしまった。もしこの場にクニヒコがいたら、きっとヤツは地面にのの字でも書き始めたことだろう。

「オレのはこれだよ」

 言って、右手に心気を収斂させた。掌にズシリと冷たい感触が張り付いた。反りのある形状は曲刀というにはなだらかで、日本刀よりは湾曲している。鋼の刀身は分厚く、太く、頑丈だ。ブレードとグリップの間には長く突き出たガードがあり、剣全体を遠目に見れば逆十字に見えなくもない。カタカナの「ナ」の字を逆さに見たようなイメージだ。無骨だが、よく手に馴染んだオレの愛剣だ。

「斬護刀ドラグヴェンデル。身体強化系だ。トウマみたいにスピード特化型じゃねぇし、かといってパワー型でもねぇ。良く言えばバランス型、悪く言えば器用貧乏。射程は一メートル二十センチくらいだが、芯で捉えるなら一メートルくらいだな」

「なんか、おっきいねー。普通の剣の二倍くらいに見えるよー」

「そりゃ時代劇の刀とかRPGの主人公が持ってる剣なんかに比べればな。あの類の刀剣は、刀身が六十から七十五センチくらいなんだよ。コイツは百二十センチちょいあるから、デカいのは当たり前。日本刀は“断ち斬る”ものだが、オレのコイツは“叩き斬る”類の武器だな」

 チアキの疑問に答えてやると、エリカが納得顔で唐変木なことを言い出した。

「わたくしを護るための騎士剣ですね、わかります」

「今のオレの説明の中に護りの要素が一つでもあったかよ」

「ハルくんがエリカちゃんを護ってたのは“あっち”の話だよねー、しかもお仕事」

「あら、ハルトは“こちら”でもわたくしを命懸けで護ってくださいましたよ。お腹を貫かれても『お前は命に代えてもオレが護るッ!!』と躰を張ってわたくしの盾になってくださいました」

「そんなこと言ったか、オレ?」

「ハルくんはわたしがイジメられてた時も助けてくれたもんっ!」

「助けないと親父が怒るんだ」

「ハルトは自らが傷つくのも厭わず、わたくしの躰に擦り傷の一つもつかぬよう身を挺して護ってくださいましたよ。仕事ならばそこまで気を遣うことはないでしょう。多分に私情が入っていたに違いありません」

「お前が怪我したらオレのクビが飛ぶんだって」

「ハルくんわたしが泣いてるといつもそばにいてくれたもんっ! アタマ撫でてくれたもんっ!」

「無視して帰ったら親父に引っ叩かれたんだ、だから急いで戻った」

「アタマを撫で……そ、そこまでセクシャルな行為に及んでいたなんて……わ、わたくしもハルトに抱かれたことがありますっ!」

「お前を抱えて魔物の群れから逃げたことはあったがなぁ」

「は、ハルくんは小さい頃からずっと一緒だったもんっ! 手を繋いで帰ったこともあるもんっ!」

「小学校の集団下校の時の話な」

「て、手を繋いで……? な、なんて卑猥で破廉恥な……わた、わた、わたくしだってひとつ屋根の下で夜を越したことが何度もありますっ!」

「ドアの前で突っ立ってただけだけどな」

「わわわわたしだって、いいい一緒にお風呂はいったことあるもんっ!」

「そりゃ赤ん坊の頃の話だろ」

「い、い、一緒に、お風呂、だとぉ……? で、伝説が成就してしまったというの? 開かずの扉が解かれ、生命の実が原初の泉へと注ぎ込まれた……?」

「あぁーもうお前らうるっせぇっ!!」

 オレはちゃぶ台をぶちまける勢いで叫んだが、眼前の金獅子と黒夜叉には通用しなかった。

「ハルト、浅井さんの仰ることは本当なんですかっ!?」

「ハルくん、エリカちゃんの言ったことはほんとなのっ!?」

「知らねぇよ、本人に聞けよ、オレの記憶と著しい齟齬があんだよ」

 だ、ダメだコイツら。早く何とかしないと。

 オレの前で「わたしなんて」「わたくしだって」と愚にもつかない応酬を繰り広げるチアキとエリカを、オレたちは体育座りで眺めた。

「そうか、お前ガキの頃はチアキに優しかったもんな」

「十歳くらいでその役目はお前に譲ったんだよ」

「あぁ、言われてみるとそんな気がするな。ちょうど俺がチアキを気に掛け始めた頃だ」

「“こっち”でチアキ、“あっち”でエリカのお守りじゃ割りに合わねぇっつーの」

「ふっ、なるほどな」

 トウマは自嘲気味に頬を緩めた。繋がらなかったピースが繋がった、そんな顔だ。

 今まで話せないことなんかないって思ってたけど、いざ話してみるとなかなか話せないことも多いし、話していなかったことも多い。トウマともチアキとも、まだまだいくらでも話すべきことはあるのだ。それに気付いて、オレも少しだけ笑った。

 直後に違和感。

 視線。

 殺意。

 淡い軌道。

 反射的に立ち上がった。

 気の動線のその先を向いた。

 この界隈で一等背の高い送電塔。

 目測で距離は四百メートル。

 翻るスカート。

 長い黒髪。

 鋭い眼差し。

 手にしているのは身の丈よりも長大な弓。

 番えているのは両腕よりも長い矢。

 視線の先にあるのはオレの眉間。

 気の動線はオレの額を貫く軌道を描く。

 溜め込んだ憎悪が膨らんで破裂しそうだ。

 否、爆ぜた。

 突然すぎて思考が追いつかない。

 手にしていたドラグヴェンデルを振り抜いた。

 剣の芯を動線に重ねた。

 斬撃の描く曲線。

 矢の軌道が描く直線。

 交わった。

 爆風が空間を押し退け、エリカもチアキもトウマも吹き飛んだ。

 拉げたフェンス。

 ぽっかりと開いた穴。

 その向こうに、第二の矢を番えた弓兵。

 眼差しは鋭く。

 殺意は苛烈。

 狙いはオレの心臓に。

 真っ直ぐに、ブレることなく正確に。

 餌を前にした猛犬のよう。

 主が鎖を離した瞬間、彼は餌に飛びつくだろう。

 手にした剣に気を込めて、瞬時に頭を切り替えた。

 次の一矢は、初撃よりもさらに重い。

 練り込んだ気に、溜め込んだ憎悪が上乗せされた。

 回避は論外。

 矢は背後のコンクリートをブチ抜いて、被害が大きくなる。

 レゾネイターとして、騒ぎの場に居合わせるのは得策ではない。

 面と名前が割れてしまうのは、もっとも忌避すべき事態だからだ。

 ここで弾き返すしかない。

 エリカたちが心配だが、注意を逸らすのも愚の骨頂。

 オレの意識が揺らいだ瞬間、矢は神速をもってオレの頭蓋を貫通するだろう。

 逃げるという選択肢もマズい。

 オレが遮蔽物の向こうに隠れれば、次のターゲットは他の三人に遷移する。

 不可視の速度で飛来する矢を迎撃できるのは、その動線を予め察知できるオレだけだ。

 標的がオレである以上、オレがここで踏ん張るしかない。

 正確に、精確に、次の一撃を読みきる。

 全力で、全速で、太刀筋を合わせる。

 僅か一ミリでもズレれば即死。

 コンマ一秒でも遅れれば即死。

 全身の毛穴が開き、じわりと汗が滲み出てくるのが、判る。

 だが、オレの心は震えない。

 恐怖を恐怖として捉えることができない欠陥品。

 それゆえに、逃げるという発想はそもそもオレの思慮の中にはなかった。

 ただ、迎え撃つ。

 ほとんど点にしか見えない射手の動きを、ミリ単位で観測する。

 ぎりぎりと、弓弦の軋む音が聞こえてくるようだ。

 風になびく髪、静かに紡がれる吐息、寸毫も乱れない鼓動。

 常人の感覚では測れない微細な動きを、全感覚野でイメージする。

 射手の瞳がひときわ鋭い眼光を放ち、そして―――。

 矢は放たれた。

 飛来するのは神速の凶弾。

 放たれた矢を回避する術はない。

 遥か四百メートルの彼方から、秒にも満たない時間で急迫する物体を躱せるほどの身体能力は、レゾネイターであってもない。

 それ以前に躱すつもりすら、ない。

 秒速一千メートルで空を滑る魔弾の速度は、音速を遥かに凌駕する。

 音よりも疾い飛弾を肉眼で目視することは不可能。

 ゆえに己の第六感《イカれた脳》を信じるしかない。

 死を告げる矢の弾道は予め判っている。

 合わせるのはタイミングだけだ。

 夢の世界で何十万回と振るってきた剣。

 異形の怪物、妖異の魍魎、おぞましい化生。

 その全てを薙ぎ倒し、斬り殺し、屍の上を歩いてきた。

 それはたとえ現実のことではなかったとしても―――。

 遠い幻でしかなかった夢の世界は、オレの中で確実に息づいている。

 渾身の気を込めて振るうはドラグヴェンデル。

 対して飛来する死の魔弾は名も知らぬ夢幻の矢。

 曲線と直線。

 重なる軌道。

 命を攫う超音速の不可視の矢は、オレの心臓の一メートル手前で、消滅した。

 手に残る、痺れるような感触。

 その感触が、弾き返した衝撃が如何な破壊力を秘めていたかを物語る。

 もし躱していたら、背後のコンクリートをほぼ初速のまま貫通し、スチールのドアを貫いて軌道上にいる誰かに命中していたかもしれない。躱さなくて正解だ。

 目測で四百メートル超の距離を隔ててなお失われない貫通性能、正確にオレの眉間を射抜く精密性、手を離して一秒後に消失するクルシスの性能を考慮に入れてなおこれだけの距離を隔てた射撃を行う胆力、そして掠っただけでも頭部を吹き飛ばすほどの威力、それを紡ぎ出す膂力―――。

 敵は馬鹿じゃない。しかも射撃に対して絶対の自信を持ち、かつオレに恨みを抱く人物。学校からあれだけの距離を開けてでも命中させられるという確信があり、それは自身の能力の性能をよく理解している証拠。クルシスは手を離して一秒以内に命中しなければ消滅する。裏を返せば、一秒以内に命中させればいい。弾速が秒速四百メートル以上であることをよく検証している。恐らくはそれ以上―――ライフル弾以上の精度と性能。そしてオレに姿形を確認させないほど距離を離している周到さ。

 敵に誤りがあったとすれば、オレの能力を見誤っていたこと。もちろんオレは自分のイカれた能の話はあまり他言しないので、知っている人間は少ないだろう。オレとの関係は、見知ってはいるがそう大して親しくはない程度。理知的で、それでいてクルシスの能力が人目に触れることを厭わない大胆な性格。そして直感した長い髪、スカート姿。これはオレの勘でしかないが、恐らく正解。性別は女。弾き出される解は―――。

「生徒会長、か?」

 あり得る可能性だ。他人の目があるところで堂々とオレを誹謗し、徹底的に蛇蝎視するその態度。女性であること。そして、「必ず尻尾を掴んでやる」という発言。彼女をレゾネイターだと仮定した場合、オレが手にしたクルシスをして「尻尾」だと判断した? 確かにオレが彼女に攻撃されたのはクルシスを召喚した直後の話だ。そのタイミングが偶然だったということもあり得るが、状況的に必然、もしくは蓋然だと考えるのが妥当だろう。

 飽くまで、蓋然だ。

 まだみんなに話すべきレベルの可能性じゃない。オレ個人の印象でしかないのだ。より強い確信に至ったなら、その段階で話すべきだ。

 思考をストップし、遥か彼方の襲撃者へと視線を移した。敵はまだ、そこにいる。

「グレイル!」

「アスカロン!」

「ヴァ、ヴァジュラっ!」

 左右からそれぞれのクルシスを召喚する声が聞こえた。三人とも無事だ。無傷ではないかもしれないが、少なくともクルシスを召喚し、身を守ることを考えられるくらいに回復はしている。

 初撃から実に七秒。一般人なら何が起こったかわからず呆けている段階だ。

 不意に射手の視線が、消えた。諦めたのか、緩急をつけるつもりなのかは判断できない。だがすぐにも人が集まってくることだろう。これ以上クルシスを顕現させておくわけにもいかない。

 オレはクルシスから手を離し、エリカたちの安否を確認した。砂埃で汚れてはいるが、無事と言えるレベルだろう。

「ハルト!」

 エリカがグレイルを手にしたまま駆け寄ってきた。

「無事ですか、ハルト? 怪我はありません?」

「あぁ、ねぇよ。お前のほうこそ大丈夫か? 生身であれだけの衝撃波を食らったんだ、どこか怪我は?」

「わたくしは問題ありません。ハルトこそ本当に大丈夫なのですか? あれだけ凄絶な爆音がしたくらいです、傷を負っていないか確認させてください」

「面倒くせぇ。クルシスをしまうのが先だ。もうすぐ人が集まってくるぜ?」

 それでもエリカは渋った顔を見せたが、已む無くといった体でクルシスを霧散させた。

「何だったんだ、今のは? 何が起こっていたのかさっぱり理解できねぇ」

「わ、わたしもー。怖かったー」

 エリカに倣ってクルシスを消したトウマとチアキも駆け足でよってきた。とりあえずは大丈夫そうだ。外傷があったとしても、後でエリカに治してもらえば大丈夫だろう。直撃を食らっていないならば問題ないはずだ。

「とりあえず、何が起こったかわからねぇって感じで振舞えよ。説明は後だ」

 オレはさも今ここに来たような表情で、フェンスに開いた穴を見つめた。やがて屋上にいた人間、階下にいた連中が集まってくる。オレたちは人ゴミに紛れ、その場を後にすることにした。

 顔や衣服に付着した砂埃を払ったり、念のためエリカに治癒を施してもらっている間に、昼休みが終わってしまった。

 放課後に集まることを約束して、オレたちは教室に戻った。


 放課後。

 ホームルームが終わってすぐにカバンを引っ提げると、パンチパーマのグラサン極道教師島津がオレの前に立ちふさがった。どうしてこんなゴミを見るみたいな目で人を見ることが出来るんだろう、コイツは。

「内藤くん」

「なんすかー?」

「まさかとは思いますが、忘れてはいませんか?」

「いいえ? お疲れ様っしたー」

 何事もなかったかのように通り過ぎようと思ったが、肩を掴まれた。バックレようと思ったが、失敗だ。

「生徒指導室で待っていなさい。私も後で向かいます」

「わかりあしたー」

 朝方に懲罰室送りにされたオレは、しばらくそこに軟禁されることになる。面倒なことこの上ない。

 教室はいつにも増してざわめきだっていた。昼休みの爆音事件の話題で持ちきりだ。それもそのはず、爆音だけならよくわからない事件でカタがつきそうだが、フェンスに大穴が開いている。もちろん屋上は立ち入り禁止だ。憶測が風評を呼び、能天気な学生たちには格好のネタとなっていた。

「よっ、ハルト。今日はどうすんの? つかさっきの島津、アレ何?」

 能天気な学生そのイチがオレに背中を叩いた。クニヒコだ。

「あん? あぁ、例の事件のことで聞きたいことがあるんだってさ」

「え? なにお前、何か知ってんの?」

「あぁ、なんかワキヤクニヒコってヤツが犯人らしいよ」

「なんでおれぇ!? 関係ないよっ!」

「マジでっ!?」

「ここ驚くトコじゃないよっ!! むしろここでおれの名前が浮上したことが不思議で仕方ないよっ!」

「ははっ。隠すなよ、お前だろ?」

「なにその爽やかなキャラっ!? ほんとにおれみたいな言い方よしてよっ!」

「えっ? 違うの?」

「違うよっ! なにその意外だったみたいなリアクション!!」

「犯人はみんなそう言うんだ」

「刑事ドラマの見すぎだよっ! おれとあの事件を結びつける要素が何一つないよっ!」

「事件の第一発見者を疑うのは常識だろ?」

「そもそも現場に行ってないよ、おれっ! いなかったじゃんっ!

「怪しいな。今日だけオレたちと別行動を取るなんて」

「お前が来るなって言ったんでしょっ!!」

「そう仕向けたのはお前だろ?」

「違うよっ! お前だよっ! 明らかにハルトの誘導だったよねっ!」

「まぁそんなことはどうでもいい」

「どうでもいいならはじめから話ふらないでよっ!」

「昨日オレ体育サボったじゃん? んで、懲罰室送りになった」

「え? なんでお前だけなの? トウマもサボったじゃん」

「アイツは基本イイコちゃんだからな。オレは情状酌量の余地がないんだろ」

「お前も基本イイコちゃんじゃん」

「お前は基本ダメなコちゃんだからなぁ」

「おれを引き合いに出す理由が何もないよっ!」

「何でもいいや。そんなわけで、ちょっとしばらく帰れそうにねぇんだ」

「そっか。じゃあトウマたちと遊びに行こっかな。お前も終わったら来いよ」

「いや、お前がいるなら行かねぇよ」

「なんでおれがいると来ないのさっ!?」

「??? 常識だろ?」

「そんな常識どこにもないよっ! なにその当たり前みたいな言い方っ!?」

 ツバを飛ばして喚くクニヒコの顔を遠ざけながら、エリカのほうを覗いてみた。やはり人集りは絶えないが、随分と落ち着いたようだ。もうしばらく待てば話せそうだが、トウマに話したほうが早いだろう。オレはクニヒコに「ちょっとここで待っててくれ」と言い、トウマの席に向かった。

「わかった。でもどうするんだ? 例の場所に行くんだろ?」

「そうだな。出来ればその辺で時間を潰してオレが来るのを待っていて欲しい。最終的な判断はエリカに任せるが、バトルになる可能性も考慮して、オレが同行したほうがいいだろう」

 事情を聞いたトウマが怪訝な顔を見せる。

「お前が一緒に来るというのは賛成だ。だが最終的な判断を神湯さんに任せるのには反対だ」

「なぜだ? 付き合いは短いかもしれないが、彼女が聡明で弁の立つ人間だというのはお前もわかっているだろう? 交渉役には持って来いだ」

「だからだよ。俺やチアキじゃ言い包められる」

「ますますわからないな。エリカが信用できないということか?」

「極論で言うならな」

「それは困ったな」

 トウマの言うことももっともだ。オレはエリカと長い付き合いだが、トウマとチアキは違う。オレがエリカを信用していることは、トウマがエリカを信用することとイコールじゃない。

「信用していないっていうのは言葉の綾だけどさ、彼女はきっと俺やチアキよりお前を優先する」

「つまり?」

「お前に危険が及ぶ可能性を排除するために、俺やチアキを犠牲にしかねない、ってことだよ」

「この状況でか? エリカはそこまで馬鹿じゃないさ。四人しかいない状況で一人を失うっていうのは致命的なリスクだ。戦力増強を提言した彼女がそんな馬鹿な手を打つはずはない」

「指導者ってのは全体を維持するために末端を切り捨てることもある。頭が彼女なら心臓はお前だ。この二つを守るために手足である俺やチアキを切り捨てる可能性は捨てきれないよ。彼女は王女様だったんだろ?」

「お前、捻くれてるな」

「俺は“あっち”じゃこんな人間だったよ。戦いのない平和な世界じゃなきゃ、考え方も変わるさ。現況はむしろ“あっち”寄りだしな」

「否定はできねぇなぁ」

「もしお前が遅れるのなら、ヤツらに接触するのは後日でもいいと俺は思う」

「それこそ忌避すべき事態だ。ナンバーゼロは今日を指定したんだぜ? ヤツらに接触するのは今日を置いて他にはない」

「俺が連絡先を知ってるさ」

「それがアシのつかないプリペイドケータイだった場合でもか?」

「……お前も随分ひねくれてるよ」

 トウマは困った顔をして、お互いに苦笑した。自分と、恐らくそれ以上にチアキの安全を優先したいトウマと、目的の達成を優先したいオレ。トウマの気持ちを斟酌したいが、エリカはオレと同じ考えをとるだろう。

「いずれにせよ、オレたちの面と名前は割れてるんだ。オレたちを探す手立てのあるヤツらと、ヤツらを探す手立てのないオレたちとでは立場が違う。ここで見失ったら、次にヤツらを探し当てられる保証がない」

「じゃあお前が懲罰室から無理にでも抜けてくるしかねぇよな」

「“こっち”での生活を犠牲にしてもいいならな」

「“あちら”を立てれば“こちら”が立たず、か。面倒くせぇな」

 確かに面倒くさい。体育なんてサボらなきゃよかった。

 最善なのは、オレが出来るだけ早く懲罰室から抜け出してトウマたちに合流すること。だがそれは噂に聞く限りじゃ無理そうだ。本当ならトウマの裏切りを悟られるよりも早くにヤツらと接触したかったが、オレが間に合わなかった場合は中止したほうがいいかもしれない。

「いいだろう。オレは出来る限り早く懲罰室から抜け出すが、もし間に合わなかったら今日の接見は中止するようエリカに伝えてくれ。オレからの言伝だって、ちゃんと言えよ」

「すまん。疑うような真似をしちまった」

「いいさ。それに、仮にバトルになった場合、四対三ってのはやはり避けたい。チアキとオレの立場が逆なら強行してもいいが、アタッカーが一人しかいないってのは戦術的によろしくないしな」

「わたしがどうかしたのー?」

 ひょいと、チアキがオレとトウマの間に顔を挟んできた。ちょっとウザかった。

「あぁ、クニヒコがお前と一緒に遊びたがっていた」

「ハルくんとトウマくんも行くの?」

「いや、お前と二人っきりがいいらしい」

「おええぇぇぇぇーーーーーーーーーっ!!」

「酷いよチアキちゃんっ!!」

 結局クニヒコも集まってしまった。面倒な説明は渉外担当に任せて、さっさと退散しよう。

「じゃ、オレ行くわ」

「懲罰室? 頑張れよ、ハルト」

 事情を知らないクニヒコは呑気なものだ。別にそれはそれでいい。今回の案件には、無関係でいたほうが安全だ。だが、関係者になってしまったチアキが不満げに頬を膨らませてブウ垂れる。

「えー? ハルくんなんで懲罰室に行くのー?」

「全部クニヒコの所為だよ」

「なんでおれの所為なのぉ!? 全部お前の所為だよねっ!!」

「そうだった。バレーボールの練習に勤しむ体操着姿のエリカの弾むおっぱいを鑑賞しに体育館に忍び込んだんだが、意想外にまろやかでふくよかなチアキのおっぱいに見惚れてしまったのは内緒だ」

「地の文に書くはずだったコメントが全部セリフに反映されてしまってるぞ、ハルト」

「な、なんだってー!?」

「ちょ、や、ヤだよー! ハルくんの馬鹿っ! エッチ! クニヒコ!」

「何その暴言っ!? 明らかにおかしいよねっ!」

 オレはぎゃーぎゃー喚くクニヒコに背を向けて

「オレ行ってくるわ。トウマ、後は頼む」

「おう」

「じゃ、また」

 とだけ言い残して教室を後にした。人集りの隙間からエリカが「どこに行くの?」的な視線をオレに投げかけていたが、それに応答する術を持たないオレは「ちょっと行ってくる」と軽く手を上げた。伝わったかどうかは知らない(きっと伝わってない)。

 懲罰室まで足を運んだオレは、とりあえずノックをして「失礼しゃーす」と気だるげにドアを開けた。普通の教室の半分もない大きさの部屋だ。中にあるのは折れ脚テーブルが一台とパイプ椅子が三脚あるだけで、他には何もない。校舎の端、しかも一階にある所為で日も差さないし、窓から見える景色はコンクリートのブロック塀だけだ。

 オレは薄暗い部屋の室内灯を点け、パイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。暇だったのでケータイをいじっていると、すぐに鬼島津が現れた。

「内藤くん」

「なんすかー?」

「反省の色が見えませんね」

「こう見えて海より深く、山より高く反省してますよ、先生」

 万年ジャージ教師はぎろりと馬糞にたかるハエでも見るみたいな目つきでオレを睨みつけると

「この原稿用紙に反省文を書いてもらいます」

 どかりと、手にしていた原稿用紙の束を折れ脚テーブルの上に乗せた。厚さが百科事典くらいある。まさかこれに全てとまでは言い出さないだろう。

「百枚です」

「冗談キツいっすよ、せんせー。小学校の読書感想文だってせいぜい五枚がいいとこっすよ」

「百枚です」

 顔色ひとつ変えずに、極道パンチパーマがオレに告げる。

 馬鹿か、コイツ。無理に決まっているだろう。百枚なんて量、プロの作家でも一日じゃ不可能だ。しかもオレはなるべく早くここでの作業を切り上げなければならない。事情を話して通じる輩じゃないなら、理詰めで説き伏せるしかない。

「現実的に考えましょう、先生。プロのライターだって一日に書ける文章量は決まっていますよ。三十枚か、多くても五十枚くらいが限度でしょう。三十枚だって大変な分量だ。必ずしも安定してそれだけの量を書けると決まったわけじゃない」

「ふむ」

「さて、平均的な学力しか持たないこのオレが原稿用紙百枚の反省文を書くとして、一体どれほどの時間を要するか、概算で答えましょうか。真面目にやって五日は掛かります。一日二十枚換算ですね。それもプロが仕事をするのと同じように一日八時間程度の時間を掛けたとしても、です」

「それで?」

「ここで百枚の原稿用紙に反省文をびっしり書くとしたら、オレは少なくとも五日はここに監禁されなければならないということになります。授業にも出られません。放課後だけを使うとしたらさらに多くの日数を要するでしょう」

 パンチパーマはグラサン越しに冷たい視線を送ってくるだけで、ピクリとも表情が変わらない。

「それほど多くの時間を一人の生徒に強制するだけの許可は得ているんですか? オレが後で親に漏らしてPTAなんかで取り沙汰されたら、困るのは先生じゃないですか?」

「何が言いたいのかね。結論だけを言いなさい」

「ですから、現実的に可能な分量をお互いに考えましょうと言ってるんですよ、先生。一日に可能な分量が二十枚だとしたら、放課後だけで可能な分量は多くても十枚。授業を一回サボタージュしたことへの懲罰として適切な分量を考慮に入れるなら、五枚くらいが妥当な線でしょう」

「ふむ」

「したがって、オレは五枚という分量を提案しますが、どうでしょう?」

「百枚です」

 無意味でしたー。

 時代錯誤な石頭め。普通に考えて百枚なんて書けるわきゃねぇだろ。馬っ鹿じゃないの、この没分暁の木偶の坊。

「君は随分と口が達者なようですね。それだけ滑らかに舌が回るのなら、さぞ筆の滑りも早いことでしょう」

 極道教師はオレの前にパイプ椅子を広げ、ずしりと腰を下ろした。

「終わるまで、ここで待ちます」

 何だ、この化け物は。

 これが懲罰室。生徒が恐れる軟禁房。

 目の前の男は、大真面目に長時間オレをここに拘束しようとしている。その意思だけはオレには判る。オレの説得は全く功を奏していないということなのか? オレは意識を島津に向け、一つ質問を投げることにした。

「せんせー」

「何かね?」

「ほんとに百枚も書けると思ってます?」

「思っていますよ」

 嘘だ。この男は嘘を吐いた。つまり、ここでオレが百枚もの文章量を書けないことは予め承知でこんなことをしているということだ。ということは、百枚もの反省文を書かせるつもりははじめからないということ。ならば、真面目に頑張っていますという姿勢をアピールすることで、早く帰れるようになる可能性は充分にある。

 念のため、エリカかトウマにメールを打っておきたい。目を盗んでメールをするというのはまず無理なので、大人しく許可をもらうとしよう。

「せんせー」

「何かね、内藤くん。そろそろ真面目に書き始めなさい」

「その前に一コだけ。友達に一回だけメールしてもいいっすか?」

「ダメです」

 んにゃろう……。

「いや、その、今日ちょっと遊ぶ約束してたんですよ。でも行けそうにないんで」

「誰にですか、私から連絡を入れておきましょう」

 そう来たか。確かに緊急連絡簿を使えば、学内の人間には連絡できるからな。

「やー、すいません、学校で知り合った友達じゃないんですよ」

 嘘は吐いてないぞ。エリカと知り合ったのは夢の世界でだからな。検証しようがない。

「そうですか、君のケータイで私から連絡をしましょう」

「いや、もういいです。後で謝ります」

 ダメだこりゃ。大人しく反省文を書こう。

「ふむ、どうも君はサボりそうだ。荷物を全て渡しなさい。ポケットに入っているケータイもです」

 裏目に出たー。

 でもまぁ、どの道このアホの目を盗んでメールを打つのは無理だからな。甘んじて差し出そう。

 オレはカバンとケータイを島津に手渡した。島津はそれを自分の傍らに置き、腕組みをしてオレの様子をやはりゴミでも眺めるみたいに見つめてきた。

 ここまで露骨に監視されては、言われたことをやるしかない。全くもって面倒だが、素直に反省文とやらを書こう。

 オレは目の前に積まれた原稿用紙の束から一枚を手にとって、ガタガタと安定しない折れ脚テーブルで心にもない反省文を書き始めた。


 二時間ほど経過しただろうか。

 窓の向こうは随分と暗くなっている。もうすぐ日も沈む頃だろう。

 目の前の数学教師(ちなみに島津は数学の教師なんだ、言ってみてオレもビックリだ)は、先ほどから少しも身動きせずオレの動向に目を配っている。軍務経験でもなければ身に着かないような集中力と忍耐力だ。

「ふむ、真面目に書いているようですね」

 置物かと思っていた島津の口が開いた。おもむろに立ち上がり、オレの書き上げた原稿を取り上げた。

「二時間で五枚ですか」

「せんせー、もういいでしょー?」

「君は五枚なら小学生でも書けると先ほど自分で言ったではないですか。高校生の君ならもっと頑張れるはずですね」

 この野郎、人の揚げ足とりやがって。

「私も仕事があるのでね、少し席を外させてもらいます」

「なんすかー、自分だけ疲れたから休むんすかー」

「これは君への罰です。三十分ほどで戻ります」

「せんせー、トイレ」

「二時間で五枚なら、三十分あれば一枚は書けますね」

 無視すんじゃねぇよ。

「サボっていたら枚数を増やします」

 それだけ言い残して、島津は懲罰室から去っていった。

 とりあえず小休止だ。オレは背筋を伸ばして肩をコキコキ鳴らした。

 とは言っても、いちおう三十分以内に一枚は書き上げなければならない。反省することなんて実はあんまりないので、日ごろの行いから反省できそうなところを抽出してだらだらと無意味に書き連ねているだけだ。

 次は何を書こうかな。そうだ、歯磨き粉を最後まで使い切らずに捨ててしまったことを書こう。オレは再び文筆家のように原稿用紙へと向かった。


 さらに一時間が経過した。

 さすがに疲れてきた。腕時計の時刻はもうすぐ十九時を指そうとしている。

 エリカたちに連絡を取りたいが、拘束されているとそれも出来ない。そもそも手元にケータイがないのだ。オレの荷物は全て島津に持って行かれてしまった。

 というか、一時間も経つのに島津が戻ってこない。あの野郎、サボってやがるな。それならこっちもサボってしまおう。まずは便所だ。

 オレはトイレに寄ったついでに、少し職員室を覗き見することにした。島津の野郎がうたた寝なんかしていやがったらマジでキレちゃうぞ。

 職員室のドアをそーっと開けて、隙間に顔を突っ込んだ。残っている教師はそんなに多くない。島津のデスクはどこだったかなと考えたが、全く記憶になかった。

 さらにこっそりと躰を中に忍び込ませ、職員室全体を見渡してみた。島津の姿はない。

 いやいや、まさかとは思うけど帰ったとかいう落ちはないだろうな。とりあえず確認してみよう。

 一番近くにいたのは冬もタンクトップ姿で過ごす剛の者―――体育教師の上杉だった。すごく話し掛けたくなかったが、面倒だったからコイツに聞いてみることにした。

「せんせー」

「おう、何だ、内藤じゃねぇか。テメェ、よくも俺の授業サボりやがったな」

「やー、さーせん。ちょっと転校生のおっぱいのデカさが気になったもので」

「馬鹿者ッ!」

 職員室中に響き渡るような大声で怒鳴られた。耳が痛い。

「おっぱいなどというものはまやかしだ。鍛えられた筋肉、○○の締まり具合、○○○の太さこそが全てだっ!」

 聞いてねぇよ、この下衆野郎。やはり話し掛ける相手を間違えたかもしれない。

「いや、アンタの高論卓説はまたの機会にさせてもらうとして、ちょっと聞きたいんすけど、いいっすか?」

「おう、何だ! 何でも先生に相談するといいぞっ!」

 うぜえぇぇぇぇぇぇぇェェェェェェェェェエエエッ!! と叫びたかったが、もちろん叫ばなかった。

「いやね、島津先生ってどこに行ったんすか?」

「うん? 島津先生ならもう帰られたぞ」

「な ん だ っ て ?」

 あんの野郎……マジでブッ殺してやろうかしら。

「一時間くらい前に帰ったんじゃないか。確かそのくらいだ」

 何だと? 一時間前といったら、ちょうど島津が退出した頃じゃないか。どういうことだ? 三十分で戻ると言っておきながら速攻で帰るとかありえねぇ。

「いやいやいや、だってオレ今日あのおっさんに懲ば……生徒指導室で反省文を書かされてたんすよ。昨日のサボりの罰だ、とか言われて」

「何だ、その話は。聞いてないな。俺の授業のことだろう?」

「や、まぁ、そう、っすけど……」

 何だ、これ。何かおかしいぞ。

「そんなことなら俺に話してくれればよかったものを。俺ならグラウンド百周で許してやったのにな、わはははっ!」

 上杉の授業をサボったことに対する罰なのに、当の上杉に知らせてないなんてことがありえるのか? いや、話した感じだと、上杉はそもそもオレを罰するつもりなんてなかったような口ぶりだった。つまりこれは、島津の独断。

「そう言えば内藤、今日の昼は屋上で昼メシ食ってたんだろう? あの騒動の現場にいた生徒に話を聞きたいんだが」

 なぜこんなことをする? オレを指導するため? 担任だから? だが当の本人は帰ってしまっている。オレはいつまであそこで反省文を書き続ければよかったんだ?

「聞いてるのか、内藤? 他の生徒にも聞いたが、どうにも埒が明かん。何があったのかさっぱりだ」

「ちょ、さーせんっ!! せんせーがたっ!! いいっすかっ!!」

 オレは上杉を無視して職員室に残っていた教師全員に聞こえるように叫んだ。

「何だ何だ、内藤。うるさいぞ」

「今日オレが今さっきまで生徒指導室で反省文を書かされていたこと、知っていた人いますかーっ!!」

 教師連中は互いに互いの顔を見合わせて首を傾げ始めた。「さぁ? 知らないわ」「何の話かしら?」「こんな時間まで?」様々な声が聞こえてくる。だがそれは一様に“知らない”ことを意味する言葉ばかりだ。するとどうなる? オレは警備員のおっさんが見回りに来るまであそこに軟禁されていたかもしれない、ということになる。

「上杉先生、島津先生って本当に帰ったんすか?」

「ん? あぁ、そうだと思うぞ。カバンも持っていたし、車もないしな」

 ということは、島津はもう学校に戻ってこないつもりだった。あるいは三十分やそこらで戻ってくるつもりがなかった。

 オレはさらに思考を働かせた。そもそもなぜ今日なんだ? 昨日のサボりなら昨日の放課後に罰を受けさせればいいはずだ。今日その情報を得たから?

「上杉先生、せんせーが島津先生にオレがサボったことを話したのっていつっすか?」

「ん? そんなもの昨日に決まってるだろう。四時限目が終わってすぐに話をしたぞ。特に罰を与えるみたいな話はしてなかったがなぁ」

 ということは、このタイミングまでそのカードを取っておいたんだ。何のため? 決まってる、オレたちを分断させるためだ。

 エリカは「家の所在を誰かに教えたか」という問いに対して「いいえ」と答えた。知っているのは教師だけだろうと、そう答えた。だが、それ以前にトウマはすでにエリカの家宅の情報を入手していた。エリカの家が中央公園沿いのマンションの一室だと教えてくれたのは他ならぬトウマだったからだ。トウマは誰から情報を得た? 島津に決まっている。なぜ島津はトウマに情報を与えたのか。それはトウマがその時はまだ仲間だったからだ。つまり―――。

 島津はレゾネイター。過激派―――覆面チームの一員だ。

「クソッ!」

 なんてことだ。どうしてそこまで考えが及ばなかった。教師の中にレゾネイターが紛れていることはすでに判っていたことだ。

 警戒を怠った。

 思えば推測できる手立てはいくらでもあった。このタイミングを選んでオレを拘束したこと。百枚なんて無茶な枚数を強要したこと。目の前で監視しているにもかかわらずケータイを取り上げたこと。ちょうど日暮れ時に姿を消したこと。それ以前にトウマの情報源を確認していなかったこともオレのミスだ。

 危機感が決定的に足りていなかった。全てオレの責任だ。全てオレなら回避できた事態だ。

 オレは職員室をもう一度ぐるりと見回した。あった。オレのカバンとケータイ。すぐにケータイの履歴を確認する。エリカからのメールが一件。時刻は十八時過ぎ。

『先方から連絡がありました。来なければ敵対の意思と判断し、攻勢に出るとありましたので、これから現地に向かいます』

 オレはもう一度「クソッ!」と声を荒げながらデスクを叩いた。完全にハメられた。

 オレはカバンを引っ提げて飛ぶように職員室を出た。

「お、おいっ! 内藤! どうしたんだっ! 先生に説明しろっ!」

 という上杉の声が聞こえてきたが、無視だ。一分一秒が惜しい。オレは人目に触れるのも憚らずドラグヴェンデルを召喚し、全速力で目的地へと駆けた。


 学校を出て、オレは跳んだ。

 空を飛べるわけじゃない。角を曲がりくねって目的地まで走る時間を端折りたかった。民家の屋根に乗って、空から道を横断した。

 もう日はとっくに暮れている。約束の時間は過ぎた。エリカと覆面―――島津はすでに接触していると考えたほうがいいだろう。

 敵は四人。対してこちらはオレを除いた三人。しかもエリカは非戦闘要員だし、チアキのクルシスがどれほど使えるかわからない。アイツの性格からいって戦闘が得意だとは考えにくい。まともに戦えるのはトウマだけだろう。

 敵の能力は全て未知。トウマの能力はすでに割れている。トウマがどれほど卓越した戦闘能力を持っていたとしても、レゾネイター四人を相手に無傷でいられるほど冠絶しているとは思えない。マンガみたいな圧倒的な能力差というのは、レゾネイター間にはないからだ。何かに特化しているか、特殊な機能があるかの違いでしかない。あとは経験と技量のみが勝敗を分ける。したがって、敵に能力を知られている現況は非常に不利だと断言できる。

 エリカたちがヤツらと接触してからどれほど時間が経っているのか、状況はどうなっているのか、電話かメールで確認したかったが、その時間すら惜しかった。一刻でも早くエリカたちに合流したほうがいい。

 屋根を飛び越え、電柱を蹴って、また屋根に着地する。

 民家の数は次第に減り、建設途中で放棄されたビルの建ち並ぶ薄暗い区域が見えてきた。

 いったん停止して、ヒトの動き、視線、気の乱れを確認する。目を閉じて、精神を落ち着かせ、わずかな違和を掬い取る。

 気の乱れを確認。

 左前方、十時の方角だ。

 オレは屋根を蹴って、最速で空を駆けた。

 小さなテナントビルの屋根に着地して下方を視認する。

 いた。

 エリカとチアキがしゃがみこんでいる。

 その視線の先にいるのは、覆面を被った二人組―――大柄な、チアキのクルシスと同じくらいの大きさの斧を持った者と、吹き矢のようなクルシスを持った者、そして

「―――トウマ」

 覆面の一人に抱えられたトウマだった。

 落ち着いて状況を確認する。今すぐにエリカとチアキが殺される、という状況ではなさそうだ。仮にトウマがすでに死んでいるのなら、ああやって抱えている意味もない。トウマも生きてはいるのだろう。だがぐったりした様子、全身の衣服が焼け爛れていることから、相当なダメージを被っているのは間違いない。恐らく気を失っているか、声を出すことすら出来ないほど消耗している。

 トウマを抱えていないほうの覆面とエリカが、何かを話しているようだ。オレはその声に耳を傾けた。

「もう一度いう。降参して欲しい。我々の目的は殺戮ではない」

 覆面の声は相変わらずボイスチェンジャーで変えられている。声の主が誰なのかは判別できない。

「でしたらもう一度わたくしも申し上げます。結城くんを解放してください」

「それは出来ない相談だ。彼は裏切り者。だが、君たちに対する人質になる」

「わたくしたちは貴方がたの言いなりにはなりません。思想が違いすぎる」

「ではこうしよう。降参するのはあなただけでいい、神湯恵理夏―――否、サイコビジョン能力者よ」

 何だと? サイコビジョン能力者?

「何を根拠に」

「我々に付き従うのはあなただけでいい。そうすれば後ろの浅井千秋と結城冬馬を解放しよう。今すぐに病院に運べば、彼の命は助かるだろう」

 エリカが、サイコビジョン能力者? 何を話している? なぜそうなるんだ?

 いや、今はこんな疑問はどうでもいい。いかにトウマを救出し、エリカが治癒するだけの時間を稼ぐかだ。どうすればいい? どうすれば現状を打破できる?

 今エリカと覆面の間に割って入ったとしても状況は大きくは変わらない。覆面の要求がエリカである限り、オレがそこに駆けつけたところで同じことを言われるだけだ。何の解決にもならない。むしろ状況は悪化するかもしれない。エリカをも人質にされ、オレとチアキがヤツらの言いなりになるしかない状況も考えられる。エリカが人質となった瞬間にトウマが殺される、というのが最悪の展開だ。

「君たちはよく頑張った。我々もまさか二人も無力化されるとは考えていなかった。それだけ結城冬馬の能力は優れていた。だが、切り札の彼も今はこのザマだ」

 なるほど、四人のうち二人はトウマが無力化した。つまりクルシスを破壊したってことだ。さすがとしか言いようがない。だが、それでも現状は非常にシビアだ。

「一つ教えてください。なぜわたくしがサイコビジョン能力者なのですか?」

「我々も確信があるわけではない。だが、あなたが転校してきたその時から、我々レゾネイターを取り巻く環境が大きく変化した。あなたが動いたことにより、我々は夢を見なくなった。あなたがサイコビジョン能力者か、少なくともそれに関係していると、我々は考えた」

「状況証拠でしかありません」

「もう一つ。根拠としては極めて薄いが、あなたの持つクルシス。グレイルとは聖杯を意味するもののはずだ。だが、あなたのそれは先端に大きな水晶を宿している。それがテスタメントなのではないか、とも考えた」

「全て憶測に過ぎないでしょう」

「どちらでもいい。結城冬馬も浅井千秋もサイコビジョン能力者だとは考えられない。可能性があるのはあなただけだ、神湯恵理夏。あなたが現れたことにより、確実に変化の兆しが訪れたのだから」

 覆面の言うことにも一理ある。確かにエリカが現れた直後に、オレたちレゾネイターはイマジナルに飛ぶことがなくなった。だが、現れたと言っても転校してきただけだ。隣町から引っ越してきただけで、どうしてイマジナルへ飛べなくなるんだ。

 惑わされてはならない。今オレが成すべきはトウマの救出だ。トウマさえこちらの取り戻せれば、状況はいくらでも覆せる。

 オレは賭けに出ることにした。

 この位置からジャンプしてトウマを抱えているヤツに奇襲をかけるのは無謀だ。確実に察知される。無音で移動することは、オレには出来ない。まずはエリカが人質になる状況を何としても避ける。そこからだ。

 オレはケータイを取り出した。宛先をチアキに指定し、文面を打ち込む。

「わかりました。貴方がたに従いましょう。ですが、結城くんの解放が先です」

「それは出来ない。勘違いするな。主導権は我々にある。我々はいつでも結城冬馬を殺せる立場にある」

「くっ……わかりました」

 よし、送信完了。

 エリカが立ち上がり、一歩を踏み出したところで、チアキのケータイが着信音を奏でた。

 全員が虚を衝かれる。オレが踏み込むタイミングは、この場を置いて他にはない。

 ビルの屋根を蹴って、上空から一直線に斧の覆面に飛び掛った。

「ッラァッ!!」

 振り下ろした渾身の斬撃は、さすがに捌かれた。遠方から飛び掛るオレの気配を察知できないほど、敵も拙くはない。

「エリカ、チアキ、無事か?」

「ハルト!」

「ハルくん!」

「内藤、春人ッ!!」

 エリカとチアキは歓喜の眼差しを、眼前の覆面は驚愕と敵意の眼差しをオレに向けた。

 斧の覆面はすぐに吹き矢の覆面を振り向いた。トウマを殺せという指示を出すためだろう。だが、先手はこちらが取る。

「チアキ、すぐにメールを確認しろ!」

「ふぇっ!?」

「いいから早くっ!」

 オレの叫び声に、覆面が一瞬の惑いを見せた。ここまでは計算どおりだ。

「妙な動きは見せるな。浅井千秋、ケータイを開いたまま、私によこせ」

 斧の覆面が開いている片手をチアキに向かって差し出した。ケータイはすでに開かれている。あとはボタン一つでメールを確認できるはずだ。敵に主導権は握らせない。

「チアキ、そのままメールを読め。ヤツの言うことを聞く必要はない。オレを信じろ」

「う、うん」

「おい、殺せっ!」

 斧の覆面は叫んだが

「いいのかな? そんなことをしちゃってさ、島津せんせー」

 オレの一声で覆面は二人とも固まった。

 オレは口の端を吊り上げた。

 当然だ。これまで秘匿してきた素性が暴露されてしまった。その動揺を無視できるはずがない。

「内藤春人ぉっ!!」

 覆面―――否、担任の島津が声を荒げた。これで会話の主導権は握ったも同然だ。

 オレはさもこちらが優位であるように唇を歪に吊り上げながら言葉を繋いだ。

「そんなに怒った声を出さないでくださいよ、せんせー」

「何の、ことかな?」

 冷静さを装っても無駄だ。この男がパンチパーマの島津であることは先の反応で一目瞭然。どんなに言い繕ってもアドバンテージはオレにある。

「まぁ別に隠してもいいっすけどね。名前を指摘されてあんなに激昂した声を出したのに、今さらしらばっくれちゃって? もうバレバレっすよ」

 言いながら、オレは少しずつ立ち位置を調整した。

「止まれ。間合いを調整しようなどと考えるな」

 オレは島津の言を無視し歩き続けた。

「間合い? 残念ながら、アンタとやりあうのに間合いを測るなんて真似はしねぇよ。オレのほうがぜってー速いからな」

「貴様」

「それよりいいのかな? これでアンタはもうオレたち全員を抹殺するしかなくなった。言っておくが、オレは全力で抵抗するぜ。そんでもって、全力でエリカとチアキを逃がす。そしてアンタの素性をあっちこっちに言い触らさせる。ただし」

 オレは少しずつ位置を変えながら島津を指差した。一言だって容喙はさせない。オレの計画通りに事を運ぶにはもう少し場所を変えなければならないからだ。

「もし、今すぐトウマを解放するなら、半殺しで勘弁してやる」

 そこでオレは立ち止まった。左手にはドラグヴェンデル。指を差していた右手はポケットにしまった。

「どうする? 別にアンタのことは黙っていてやってもいいんだぜ?」

 島津の表情が変わったのが、覆面越しに判った。ヤツは今、優位にあるのが自分のほうだということを思い出したはずだ。それでいい。

「意外にも、早かったですねぇ、内藤くん。勘違いをしないでもらいましょうか、人質はこちらにあるのですよ」

 島津が覆面ごとボイスチェンジャーを外した。多分に賭けではあったが、オレの予想通り、そこには間違いなくオレたちの担任、島津の顔があった。

 ゴミを眺めるような下卑た目つきが、さらに歪に吊り上がっている。覆面を外すと同時に口調まで戻すなんて、どこまでも芝居がかったヤツだ。

「だから、トウマを解放しろ。したら半殺しで許してやるっつってんだよ」

「解っていないようですね。少し痛めつけてあげましょうか」

 島津はわずかに顔を背後に向け、あごで後ろの覆面に指図をした。そしてオレは―――。

「この瞬間を待ってたんだよっ!」

 ポケットから取り出したシャーペンを、思いっきり島津に向かって投げつけた。だが、

「馬鹿が」

 投げつけたシャーペンは躱された。

 ひらりと一歩分、斧を抱えながらも軽やかに回避された。

 島津は口の端を吊り上げ―――。

 オレも口の端を吊り上げた。

「うぐッ!」

 シャーペンは島津に向かって投げたが、島津を狙ったわけじゃない。

「な、に?」

 島津の真後ろにいるもう一人の覆面を狙ったものだ。

「チアキィッ!!」

「は、はいっ!」

 叫ぶと同時に、オレは地を蹴った。

 急襲するオレを迎撃しようと、島津が斧を抱えあげるが、遅い。

 オレはその脇をすり抜けて、真っ直ぐに駆けた。

 そして地を蹴って跳躍し、

「ええぇいっ!!」

 チアキの掛け声で、大地が震動した。

 凄まじい衝撃とともに、その衝撃からすらも想像できないほど、大地が上下に揺れ動いた。

 宙を舞うオレにすら伝わるほど、大地と大気を揺るがす一撃。

 オレもここまで凄烈なものだとは想像していなかった。

 少しでもバランスを崩せればいい、程度にしか考えていなかった。

 これは桁外れだ。

 立っていることすら不可能。

 エリカも島津ももう一人の覆面も、尻餅をついてしまっている。

 なのに、周囲のビルは全く揺れていない。

 チアキは震動の範囲を限定できるのだ。

 なんて便利な能力だ。

 もっとよく把握していれば、違う戦法も立てられたかもしれない。

 だが今はこれでいい。

 オレは空中で躰を回転させ、剣先を引っ掛けて覆面の吹き矢を弾き飛ばした。

 さらにもう一度おのれの躰を回転させ、今度こそドラグヴェンデルの芯で、くるくると舞う吹き矢を叩き斬る。

 吹き矢を確実に破壊したことを視認し、ビルの壁面に両足をついた。

 躰が重力に引っ張られるよりも早く壁を蹴り、返す刀で覆面の首筋を斬りつける。

 もちろん峰打ち、敵も気を失っただけだ。

 オレが着地するころには地震も微弱なものに変わっており、充分にバランスを保つことに成功した。

 トウマも心配だが、すぐに視線を島津に移した。

 起き上がった島津が、巨大な斧をオレに向かって振り下ろす。

 オレは全力でドラグヴェンデルを振り上げた。

 刃と刃が重なり合い、オレは衝撃で躰ごと弾き飛ばされた。

 空中でバランスを取り直し、トウマの真横に着地する。

 島津は決して雑魚じゃない。

 オレの全力の一撃を弾き飛ばすほどの膂力。

 まともな打ち合いじゃ絶対に勝てない。

 典型的なパワー型。

 それでもなお―――。

 オレは剣先を島津に向けて、笑った。

「さぁ、どうする、せんせー? 四対一になっちまったぜ?」

 島津は地面に埋まった巨斧を持ち上げて、ゆっくりと肩で担いだ。

 エリカとチアキがオレのそばに駆け寄ってくる。

「エリカ、トウマの治療を」

「はい!」

「チアキ、お前のクルシスをエリカとトウマの盾にしてくれ。あのデカブツ相手でも、盾になるくらいなら出来るだろ?」

「う、うん!」

 オレはエリカとチアキに指示を出しながら、目の前の島津からは片時も目を離さなかった。島津は舐めるような目つきで、オレたちを窺っている。

「なかなか賢いようですね、内藤くん。私の想像以上です。まさかあの状況で私の後ろにいた彼を狙うとは」

「はン。馬鹿じゃねぇの、お前。レゾネイター同士の戦闘で、わざわざ『この瞬間を待っていた』なんて長ったらしいセリフ吐くわけないじゃん」

「確かにその通りですね。そんな暇があるなら、私に一刀でも浴びせればいい」

「ってことは裏があるってことなんだよ。そこまで知恵が回らなかったか?」

「なるほど、全て計算のうち、ということですか。小憎らしい輩だ。さながら形勢逆転、といった心境ですか」

「いや? そこまで馬鹿じゃねぇ」

 島津はにやりと口元を緩めた。敵意は全く消えていない。友愛の笑みではなく、純粋に面白いと思ったのだろう。

 オレは形勢が逆転したなどとは少しも考えていない。怪我をして動けないトウマ、治療をしなければならないエリカ、その二人の盾にならなければならないチアキ。三人分の錘を抱えているようなものだ。不利な状況をようやくイーブンに戻した、程度の認識でしかなかった。優位に立ったなどという考えは、慢心と油断を招きかねない。

「二日前に君は死んでるはずだったんですがね、まさか生きているとは思いませんでした……いや、結城くんが君の殺害を躊躇ったことに幻滅した、と言うべきかな」

 悠長に会話を始めた。すでに交渉の段階ではない。戦端は開かれている。つまり、何らかの目的が、ある。

 後手に回るのはよくない。外連でも相手の機先を制する必要がある。時間稼ぎが必要なのはこっちも同じだ。せめてトウマが動けるまで持っていければ、御の字か。

「昨日チアキをオレにけしかけたのは、お前だな?」

「ほぅ? よくわかりましたね、その通りです。ダメですよ、浅井さん。恋愛相談はもっと歳の近い者にしたほうがいい」

 言い当てられても全く動揺していない。むしろチアキの気が、乱れ始めた。このまま揺さぶりをかけるつもりか。

 二日前の段階でトウマにオレを殺す指示を出したということは、その時すでにオレがレゾネイターであることを島津は知っていた。ゆえにチアキという保険をかけておいた。チアキが二日も続けてトウマの誘いを断るなんて、冷静に考えてみれば確かにおかしかった。この状況に陥って初めて推測できたことだ。

 これ以上の会話はマズい。島津はオレやエリカが思っていたよりもずっと用意周到で、奸智に長けた頭のいいヤツだ。そしてそれを巧みに韜晦する大胆さも持っている。ここで仕留めて舞台から退場させるしかない。

「おしゃべりはもういいだろう。このくだらねぇ争いから、ご退場願うぜ、せんせー」

「……君は、本当に厄介だなぁ。結城冬馬より神湯恵理夏より、ずっと危険な輩だ。もっとも警戒すべきは、意外にも君でした、内藤くん」

「生徒に向かって厄介だなんて言わないでくださいよ、先生。落ち込んじゃいますよ、オレ」

「学校の成績など、当てにならないものだ。改めて策を練り直してくるとしましょう」

 オレは殺気を孕ませた視線を放って、島津を睨みつけた。

 会話を途中で打ち切ったことで、逆に島津に警戒心を抱かせてしまった。仕様がない。三人を護りながら、島津を仕留めるしかない。クルシスを破壊する、なんてきれいごとが通用する相手ではないだろう。

「馬鹿か、テメェは。半殺しじゃ済まさねぇって言ったろ」

「これは怖いですね。百戦無敗のバウンサーに睨まれては、私の細い肝など干上がってしまいそうだ」

「言ってろよ、キツネ野郎。逃げられると思ってんのか?」

「やり方次第かと思いますが」

 急速に、気が膨れ上がった。

 強い。

 策を廻らせなくとも、この男は充分に戦えるだけの力を持っている。

 厄介なのはお前のほうだよと、胸襟で舌打ちをした。

 速力ではオレが勝るが、膂力では圧倒的に島津に分があるだろう。

 ヤツに斧を振るわせる間も与えず一撃で葬り去る、というのが理想だ。

 手にした剣を、ぎゅっと握り締めた。

 ひんやりとしたその感触が、染みるように伝ってくる。

 こちらは大柄とはいえ剣、相手は巨大な斧。

 斧の全長はチアキのクルシスを大きく上回る。

 巨大な武器、ゆえに小回りは利くまい。

 だがその巨大さゆえに、一撃の重さは半端ではないだろう。

 わずか一合。

 交わした刃はそれだけだが、その一撃が岩をも砕くだろうことは体感した。

 食らうのはもちろん、掠ることすら許されない。

 ゆえに、狙うのは後の先ではなく先の先。

 この手の輩を相手にするのは、トウマのほうが向いているだろう。

 アイツなら、確実に瞬殺できる。

 そんなことを考えても始まらない。

 ここにはオレしかいない。そう考えたほうがいい。

 冷たい夜風が、通りを吹きぬけた。

 たった数秒の対峙で、全身からじわりと汗が滲み始めた。

 体温を攫う寒風が、痛い。

 強く、気を放った。

 気はぶつからず、受け流された。

 やりにくい相手だ。

 巨大な斧を持つ敵。

 連想するのは、荒々しく、粗野で、豪快なイメージ。

 だが目の前のコイツは、全く違う。

 冷静で、冷徹で、怜悧。

 イメージとちぐはぐな実像、柳のような気の流れ、付け入る隙は見つからない。

 ならばこちらから動くしかない。

 たとえそう誘われていただろうとしても、受身ってのは性に合わないからだ。

 地を蹴った。

 意識の照準を目の前の島津に合わせる。

 担いでいた斧が、瀑布のごとく振り下ろされるイメージ。

 その軌跡を避けながら、躰を捻ろうとした。

 ……否、急制動だ。

 オレは突き出した足で地面を逆方向に蹴り、宙に浮いた躰を両手両足と剣でガードした。

 斧の軌跡は、はじめからオレを捉えていない。

 島津が斧を振るうタイミングが、あまりにも早すぎる、つまり―――。

 慣性で前に流れる躰を、凄絶な衝撃波が襲った。

 巨斧の矛先は、はじめから直下の地面を向いていた。

 その絶大な破壊力ゆえに、爆風ですら武器になる。

 粉々に爆砕するアスファルト、飛び散る破片、暴風のような衝撃波。

 オレの躰は易々と吹き飛ばされた。

 回転しそうになる躰を、剣を地面に突き刺すことで制動した。

 次の瞬間オレの目端が捉えたものは、予想だにしなかった光景だ。

 島津の躰とオレが気絶させた覆面男の躰が、宙に浮かんでいく。

 違う、何かに持ち上げられていく。

 黒い布、黒い紐というよりは、黒い糸の束を両肩に巻きつかせ、無人のビルの屋上へと吸い込まれていくような感じだ。

 黒い糸ではない、髪の毛だ。

「現象惹起系!? 毛髪を操るレゾネイター!?」

「先読み、のような能力を持っていますねぇ、内藤春人。予知能力なのか、危険を察知する能力なのか。やはり君は実に危険だ」

 やられた―――。

 敵は四人、二人はトウマが倒し、一人はオレが倒した、残るは島津だけ、なんて誰が言った? 敵が四人しかいないなんて、そんなのはオレの思い込みだ。ヤツが用意周到な性格だってのはすでに判っていたことだ。にもかかわらず、オレは先入観に囚われて、伏兵の可能性を考えることすらしなかった。

 島津ともう一人の躰は、すでにビルの屋上に到達している。

 憎らしいことに、口元を吊り上げてゴミを見るような目線をオレに落としてくる。

 追うべきか、追わざるべきか。普通に考えるなら更なる罠を恐れるべきだ。だがオレの直感は行けと命じてくる。恐怖や危険は、オレの行動を抑制する材料にはならない。オレのイカれた脳は、そんなものを受信しない。

 足の筋肉に気を込めて、跳躍しようと―――

「ハルト! 行ってはなりませんっ!!」

 したところで、踏み止まった。

 エリカが怖いくらいに真摯な眼差しでオレを見つめて叫んでいた。

 そうだ、仮にこれ以上の罠がなかったとしても、敵は二人。オレが一人を相手にしている間にもう一人がエリカたちを急襲したら、今度こそ防ぐ手立てがない。

 間違えるな。オレが成すべきは守ること。倒すことじゃない。

 エリカの一言で、オレは冷静さを取り戻すことが出来た。

 大きく息を吐き出した。

 緊張していた筋肉を弛緩させ、だが周囲に気をめぐらせることだけは怠らなかった。

「すまん。どうかしていた」

「いいえ、あれだけ虚を衝かれれば仕方のないことでしょう」

 やはりエリカはすごい。冷静に、理知的に、状況を判断できる、指導者向きの人間だ。

 オレはエリカの隣で眠っているトウマを見遣った。

 制服は焦げてぼろぼろになっており、溶けて肌が露出しているところも少なくなかった。炎を遣う能力者か何かにやられたのだろう。

「トウマは、大丈夫か? エリカ」

「生命に問題ないレベルまで治癒は出来ました。もう少し時間はかかりますが、完治させることも難しくはありません」

「そうか、よかった」

 それを聞いて、急に肩の力が抜けた。失敗だらけで頭を抱えたくなる。もう少し上手く立ち回れれば、いくらでも回避できた状況なのに。

「ハルくん、お疲れ様」

 顔を上げると、チアキがぽやっとした笑顔でオレにハンカチを差し出していた。チアキの手や頬には、小さな擦り傷がいくつもある。

「お前、怪我してるのか?」

「ふぇ? ちょっとだけだよー。トウマくんやハルくんに比べたら全然」

「馬鹿、ちょっと見せてみろ。エリカ、お前は?」

「わたくしも擦り傷程度ですよ。何の心配もありません。擦り傷が酷いのはハルトのほうです」

「オレはどうでもいい。こんなものはいつものことだ。それよりお前らが……」

「ハルト、鏡です」

 エリカがオレに手鏡を向けてきた。そこに映っているオレの顔が、酷いことになっている。いや、元々そんなに良くはないんだが、耳とか頬とかがズタズタで、肩や腕、足もボロボロだ。

「こんなもん、ツバでもつけとけば治るさ」

「ハルくんが二番目に重傷、だよー」

「その通りです。わたくしや浅井さんは後でも充分でしょう。あんな目の前で爆風を浴びたのに、無傷でいるほうがおかしいでしょう?」

「あぁ、これはこういう特殊メイクなんだよ。だから安心しろ」

「そんなウソには騙されません。結城くんが終わったら、すぐにハルトを治療しますから、ここから動かないでください」

「やべぇ! ちょっとションベンしたくなってきたな。わりぃ、オレ帰るわ」

「ここでしてください」

「え、えー? は、恥ずかしいよー」

「なんでお前が恥ずかしがるんだよ」

 チアキが頬を染めて呟く様を見て、オレたちは笑った。この瞬間を狙われたら一巻の終わりだろうなぁと思いながら、それでもオレは笑っていたかった。

 その後、オレがエリカに治療してもらっている間に目を覚ましたトウマ(制服がすごいことになっていて驚いていた)とチアキを連れて、エリカの家に行くことにした。途中でチアキの家に寄って着替えを持ってきてもらい、ちょっとだけチアキのおばさんに挨拶をした。おばさんは「こっそりヤるのよ」と親指を立ててウィンクをしてきたが、オレはその指をヘシ折りたいという衝動を堪え、「死ねよ下衆が」と笑顔を返した。殴られた。チアキはきっと親父さんに似たんだろう。


 エリカの家宅に着いたオレたちは、他人の家にもかかわらず椅子にどっかり腰を下ろしてくつろぎ始めた。というか疲れていた。チアキは最初に入った時「おっきいよー」と御多分に洩れず呟いていた(女のコに「おっきい」と言われるとエロい気分になるのはオレだけだろうか? いや、違うはずだ)。

 エリカはなぜか男物の制服をたくさん持っており、それを一着トウマに差し出した。サイズは少しだけ小さいらしかったが、問題なく着れるレベルのようだ。多分オレが着るとぴったりなんだろうと思ったが、空恐ろしかったので口にはしなかった。

 トウマに続いてシャワーを借り、バスルームから出ると、エリカとチアキが一緒に入る、というような話をしていた。二人がバスルームに入ったことを確認し、オレはトウマを呼び寄せた。

「トウマ」

「お前の言いたいことが解るが、いちおう聞いておこう。何だ」

「お前のクルシスなら、あの壁にミリ単位の隙間を開けらるんじゃないか?」

「ビックリだな。お前は俺の予想を遥かに凌駕する傑物だったらしい」

「出来るよな?」

「やらねぇよ」

「なぜだっ!?」

「無音で穴を開けることは出来ねぇよ。入っている最中にやったらバレバレじゃねぇか」

「ちぃっ!」

 思わず本気で舌打ちをしてしまった。もっと周到に準備をしておくべきだった。例えばエリカが起きるよりも早い時間帯なら、あるいは可能だったかもしれない。

 仕方がない。女のコ同士のエロい会話に耳を傾けるか。オレはバスルームのドアに耳を当てて、全神経を聴覚に集中させた。

「その集中力をもっと別のことに使えないのか、ハルト」

「と言いつつなぜお前もオレと同じことをしているんだ、トウマ」

「浪漫だろ?」

「浪漫だよなぁ」

 オレたちはドア越しに聞こえる声に全神経を注ぎ込んだ。隔壁の向こうから、水音とともに声が漏れてくる。

「ちょ、ちょっと浅井さん? や、あんっ、や、やめ、て、やん、ください」

「エリカちゃんがチアキって呼んでくれたら、むにゅむにゅするのやめてあげるよー」

「そんな、あぁん、その、いや、ん、わ、わか、やん、わかり、ました」

「ほらー、むにゅむにゅー」

「やぁん、や、やめ、あん、やめて、チアキ、さん」

「やったー! エリカちゃんに名前を呼ばせたよー」

「チアキさん?」

「なーに? エリカちゃん」

「仕返しです」

「え、えー? や、ヤだよー。や、あん、もう、やめてよー、いやん、そんな、おっぱい、あん、触らないでよー」

「チアキさん、大きいですね。手から溢れるサイズだなんて、信じがたい奇跡です」

「ちょ、やぁん、やめてよー、あ、あ、あ、エリカちゃん、ちょ、や、エッチだよー」

「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

「ふぬおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

「な、何ですか、今の雄叫びは?」

「て、敵? 敵かな?」

「ちょっと、ハルト! 何があったのです?」

「ハルくーん!」

「いいいいいいかん、トウマ、いかんぞ、遺憾だがいかん!」

「意味が解らねぇ、いや、意味は解るがわからんぞ、ハルト!」

 オレたちは半ば錯乱していた。

 急いでバスルームのドアから離れ、リビングの片隅で膝を抱えてガタガタしてみた。

「母さん、オレたちは今、生命の神秘に触れようとしているのかもしれない」

「親父、俺たちはこうして大人になっていくんだね」

 オレたちは抗いがたい内なる衝動に必死で耐えながら、ひたすら無意味なことを念仏のように唱え続けた。エリカとチアキはその間にリビングを横切ってエリカの部屋で着替えを済ませ、濡れた髪と赤いほっぺのままリビングに戻ってきた。風呂上りのパジャマ姿という恐ろしくエロいエリカとチアキを直視するには、オレたちはまだ幼すぎた(トウマは多分オレに合わせてくれたんだろうけど)。

「さて、皆さん席に着いてください」

 上気した肌を隠そうともせず、エリカはにこやかな笑みをオレたちに向けた。風呂上りの女のコって、どうしてこう艶っぽいのだろう。

「今日はいろいろと話すべきことがあると思います。特に敵の素性が知れた今、明日からは様々な動きがあると思います」

「その前にエリカ、一つ聞いておきたい」

「何でしょう、ハルト」

「お前は今、ブラをしているのか?」

 トウマに殴られた。い、痛い。

「真面目にやろうな。俺は今日マジで死にかけてるんだぜ」

「すまん」

 と軽く頭を下げた。

「は、は、ハルト。たたた、確かめたいのでしたら、早く仰ってくれればよかったのに」

「いや、ちょっとふざけてみただけなんだ。本題に入ろう」

「う、嬉しいです。やっとわたくしに興味を持ってくれたのですね。どど、どうぞ。寝室はこちらでございます」

 コイツ聞いてねぇ。エリカをからかうのは自殺行為だ、控えたほうがいいな。

 エリカが立ち上がって自分の部屋のドアを開けると、むくれた顔のチアキがプウと頬を膨らませてその中に入っていった。何をやってるんだアイツは。バタンとドアを閉めて、中でゴソゴソやり始めたチアキを、オレたち三人は首を傾げて待った。

 しばらくすると、チアキが部屋から出て来た。オレたちは唖然とした。

 チアキはパジャマではなくTシャツ姿で現れた。真っ赤な顔で小さな拳を握り締めたチアキは、怒っているのか恥ずかしいのかよく判らない。

 チアキのTシャツはいつものようなゆったりとしたLLサイズではなく、躰のラインを強調するようなピッチピチのSSサイズだった。しかも薄い素材の所為で身に着けているブラが透けて見える。妊婦のお腹のようにふっくらと盛り上がった胸は、まろやかな曲線を帯びて存在感を誇張していた。弾けそうな薄い布地が、窮屈そうに胸の前で引っ張られている。一言で言うと、エロすぎた。オレとトウマの視線は、チアキのリーサルウェポンに釘付けだ。

「ち、チアキさん? どど、どうしたのです?」

「あ、暑いもん」

 耳まで真っ赤に染めたチアキは、それでも口を尖らせて呟いた。

 初秋とはいえ、夜の室内は涼やかだった。寒くもなく、まして暑くもない。長袖のパジャマ一枚がちょうどいい。

 どかどかと肩を怒らせて歩くチアキに合わせて、ゆっさゆっさとたわわに実ったそれが揺れた。え、エロい。オレたちは思わず前屈みになった。

 視線を落として思案げな顔を見せたエリカが、にっこりと笑顔を作ってドアの向こうに消えた。笑っていたけど、なんか怒ってる。だんだんエリカの表情が読めるようになってきた。

 ゴソゴソと物音がして、すぐにエリカが出て来た。下は前と変わっていない。パジャマのままだった。上が変わってた。水着になってた。オレたちの表情は「ポカーン」だ。エリカはいつもの澄まし顔で微笑んでいる。

 エリカの水着は明らかにサイズが合っていなかった。パッツンパツンのビキニの水着は、ほとんど紐だ。大事な部分だけを、薄い布地でカバーしている。大きく突き出た胸が、今にも紐を引きちぎらんと圧力をかけていた。だが柔らかな弾力に押し負けて、布地は隙間からこぼれそうな肌に食い込んで艶めいている。小さな生地から溢れそうな白皙の肌の質感は、しとやかで張りがあり、それでいてとろけそうだ。

 すたすたとフローリングを歩くエリカの胸は、今にもポロリとまろんでしまいそうで危なっかしい。オレたちは思わず涎が垂れそうになった。

「え、エリカちゃん。何、それ?」

「暑いので。ほほほっ」

 何だ、ここは。いつからファッションショーの会場になったんだ。自分という商品、否、自分という存在を懸けた熾烈なバトルが、いつの間にか開催されていた。

「それでは話し合いを始めましょう」

 ごくり。オレたちは生唾を飲み込んだ。恥じらいながらも誘うような色香を放つまろやかさか、絶対の自信を矜持をありありと見せつけるふくよかさか。壮絶な煩悩戦が今、始まろうとしていた。

「とりあえず、格好のことは置いておこう。真面目に話そうな」

「わかりました」

 ぷるんと胸元を揺らせて、エリカが艶冶に微笑んだ。全然わかってねぇな、コイツ。

「そ、それで、何を話すのー?」

 むにっと重たい胸をテーブルに乗せて、チアキが顔を突き出した。すげぇ恥ずかしそうだ。コイツも全然わかってねぇ。

「とりあえず、順に話を進めよう。まずは今日の昼休みのことな」

「そうそう、それ。俺ずっとお前に聞きたかったんだけどさ。何だアレ?」

 トウマの問いに、オレは明確な答えを持っていない。憶測を口にするのは止そう。それは襲撃された時にも思ったことだ。

「さぁな。覆面のヤツら以外にも敵がいるってことだろう」

「アレが調和派ってヤツか」

「あるいは第三の勢力なのかもしれない」

「いずれにせよ正体の判らない人物に狙われた、とうことですね」

「そうなるな」

 ですが、とエリカは言葉を繋いだ。

「あの狙い方は我々ではなく、明らかにハルト個人に対する攻撃でした。状況に対応できなかったわたくしたち三人よりも、突然の急襲に即応したハルトを優先して続けざまに第二射を放っていました」

「言われてみると、ヘンだよねー」

 可愛らしく小首を傾げるチアキに、エリカは鋭い視線で頷いた。

「ターゲットが我々のチームならば、二発目の標的はハルト以外の人物に絞るべきでした。にもかかわらず、敵はそれをしなかった。つまり」

「ハルくんが狙い、ってこと?」

「恐らくは」

「いや、二発目以前に最初の一発目だっておかしかったさ。あの時クルシスを手にしていたのはハルトだけだぜ? 狙うんならクルシスを装備していない俺たちの誰かを狙うべきだ」

 トウマの疑問に、エリカが答えに詰まった。口元を手で隠し、目を見開いて意識を記憶に廻らしている、そんな感じだ。

「はじめっからハルくんが狙いなら、ヘンじゃないよねー?」

「おかしいさ。だったらハルトがクルシスを出す前に狙うべきだろ? クルシスを召喚すれば身体能力は強化されるし、現象惹起系だってそれは例外じゃない」

「んー? じゃあどうなるのー?」

「わからねぇ。だからおかしいって思ったのさ」

「いいえ。そもそもおかしいのは、ではなぜあの襲撃者は我々の所在を正確に掴んでいたのでしょう」

 エリカが大きく見開いた目線を虚空に漂わせながら、トウマとチアキに口を挟んだ。

「昼休みに屋上で集まるって、知ってたのはー」

「俺たち四人と、クニヒコ?」

「えー? クニヒコくんが犯人なのー?」

「よしっ、明日クニヒコをブッ殺して確認しよう」

「ブッ殺したら確認できねぇだろ」

 ちょっと横槍を入れてみたが、すぐにトウマにツッコまれた。てへり(我ながらキモいな)。

「ハルト、今朝わたくしが確認したあの……えーっと、うーん」

「クニヒコな。いい加減おぼえろよ」

「えぇ、その田中さんはレゾネイターじゃなかったんですよね?」

「だからなんで間違えんだよ、今クニヒコって言ったばかりじゃねぇか、お前ヒトの話ほんとに聞いてんの?」

「同じ人物を指しているいるとわかればいいじゃないですか。それで、どうなんです?」

 エリカの問いに、オレは溜息を一つついて返した。

「クニヒコは間違いなくシロだった。そしてオレがこの疑問をお前たちに投げかけたのは、心当たりがあるかどうかを確認したかっただけなんだ。ないなら別にいい。ここで話していても、たぶん解決しない」

「というと、つまりハルトは」

「あぁ、心当たりがあるってこった」

「誰なんです?」

「お前らにはあまり関わりのない人物だ。明日じかに会って確認してみる。抜け抜けとツラ見せやがったらの話だけどな」

 チアキは怪訝そうな顔をしたが、トウマが小さく息を吐いて

「わかった、この件はハルトに任せよう。それでいいよな?」

 と助け舟を出してくれた。エリカも仕方がないといった顔で頷いてくれた。話のわかる友人は、ほんと助かる。

「次が本題だな」

「あぁ、クニヒコをどうするか」

「どうもしねぇだろ。アイツはシロだってお前が言ったばかりだぞ」

「そうだった。真面目に話そう。島津をどうするか」

 その一言で、全員が押し黙った。

 正直に言うと、完全にしてやられた。オレたちは前日まで覆面チームのナンバーゼロは大して切れ者じゃないと踏んでいたのだ。そこまで誘導された上での、完全な騙し討ち。しかも保険に保険を重ねる周到さ。単体での戦闘力の高さ。こちらの裏の裏を読んでくるような話術。こちらも相応の準備をした上で臨まないと、返り討ちに遭うこと請け合いだ。

「彼を探し出すのは不可能でしょう。恐らく明日は学校にも来ないはずです。あれだけ面が割れるのを恐れてたのですから」

「身を隠されたら、高校生のオレたちがヤツを探し出すのは至難の業だな。探偵でも雇えば話は別だろうが」

「そうすると探偵の方の命が心配ですね」

「だな。恐らくクルシスを破壊された三人は」

「……抹殺されているでしょう。助けることは出来ませんでした。目的を達成するまで監禁されている、という可能性もなくはないのですが」

「そりゃねぇだろ。ヤツの性格上ありえない」

「でしょうね。申し訳ないことをしました」

 これは、あの場で片を着けられなかったオレの責任でもある。謝れば、みなに気を遣わせてしまうだろう。胸襟に留めておく。態度には出すまい。そう思い定めた。

 そう言えばと、エリカが思い出したように言葉を繋いだ。

「チアキさんに出したメール、アレは何だったんです? そもそもどうしてわたくしにはメールを下さらないのですか? 差出人がハルトのメールが一通もないなんて、何かの陰謀としか思えません!」

 また話が脱線しそうだ。面倒くせぇ。エリカにメールを送らないのは、単に用がないからだ。

「別に四六時中いっしょにいるんだからメールする必要はねぇだろ」

「せっかくハルト専用フォルダを作ったのに、ゼロバイトのままでは不毛です」

「わかったわかった、また今度な。チアキ、見せてやれよ」

「うん、いいよー」

 チアキがケータイを開いて、画面をエリカとトウマに見せた。

『最近クニヒコくんがウザいんだけど、どうすればいいかな?』

「知らねぇよっ!」

 文面を見たトウマが間髪いれずにツッコミを入れた。相変わらずきれいなツッコミを入れるなぁ、トウマは。

「これお前がオレに送ったメールだろ」

「うん、間違えた。えへへっ」

 受信フォルダと送信フォルダを間違えたらしい。チアキは改めて受信フォルダから最新のメールを取り出した。

『オレが次にお前の名前を呼んだら、どんな形であれ迷わずクルシスを使え』

「なるほど。あの時チアキさんがあのタイミングで地震を起こせたのは、こういうワケだったのですね」

「そういうこった。相手に反論する余地を与えず、更なる動揺を与えられれば、チアキがメールを読む時間くらいは稼げたって寸法だ」

「どうしてナンバーゼロが島津先生だと判ったんです?」

「ありゃ賭けだ」

「賭け? 助けてもらっといて言うのも何だが、俺の命が賭かってたんだぞ」

 エリカの問いに答えたオレに、トウマが目頭を揉んで文句を垂れた。

「悪い。アレ以外に方法が思い浮かばなかった。いきなりしゃしゃり出ても状況は悪くなるだけだったし、時間を掛けすぎればエリカまで人質にされちまう。あの場で勝負に出るしかなかった」

「結果オーライだから別にいいけどさ」

「いえ、そうではなく、どうして覆面の中に島津先生が紛れていると判ったんです?」

 エリカの問いに、オレは自分の推論を聞かせた。

「なるほど。状況証拠もそれだけ揃えばまず間違いないですね」

「あぁ、物証はないがな。だが、残った二人の中に島津が混じっているかどうかは本当に賭けだった。外れてなくて助かったよ」

「はい、ハルトのおかげで助かりました。やはり貴方は頼りになる」

「いや、オレがもっと細かい違和に気付いていれば、こんなことにはならなかった」

「いいえ、ハルトは考えられ得る限り最良の方法で危難を打破してくれました。あの島津先生を出し抜くほどの機転だったと思います。危惧しなければならないとしたら、ハルトの明晰さが敵にバレてしまったことくらいでしょう」

「別にそのくらい何でもねぇだろ」

「島津先生はハルトをもっとも危険視していましたよ。ですから、ハルトは島津先生に対する切り札です。こちらも敵の出方や傾向を掴めましたし、随分と対応しやすくなりました」

「向こうがあくどい方法で騙し討ちをしてくるってこったな」

「はい、今後は何か少しでも気になることがあれば、すぐに報告しあいましょう。それで対策を練ることが出来ます」

 そこまで話して、オレたちは互いに頷きあった。敵が奸智に長けた悪党なら、こちらも普段から警戒しておかなければならない。

 ふと、チアキが物憂げな表情で呟いた。

「わたし、ショックだったなー。島津せんせー、いい人だと思ってたのに。見た目はアレだけど」

 そう言えば、チアキは島津に相談を持ちかけ、それを利用されたんだった。相談をするということは、それなりに信用していたのだろう。それだけに裏切られたショックは大きい。

「お前、島津によく相談とかしてたのか?」

「んー、たまに。島津せんせーこっちの深い事情には踏み込まずに、淡々と話を聞いてくれる人だったの」

「だろうな」

「結局わたしが愚痴るだけってことが多かったけど、昨日は珍しくアドバイスくれたの。ハルくんは屋上にいるから早く行ってこいって」

「どういうことです?」

「あー、お前はいい。ややこしくなるから」

 話に入ってこようとしたエリカをシャットアウトした。面倒くせぇのは勘弁だ。

「話の腰を折って悪いんだが」

 トウマが真面目な顔で口を出してきた。またややこしいなと思ったが、オレがそう思っていることを承知しているのか、大丈夫だと手で合図をしてきた。盗聴器云々の話ではなさそうだ。

「なんで島津はハルトの居場所が判ったんだ?」

 それを聞いたエリカが目を見開いた。確かに不思議だ。盗聴器に発信機が仕込んであったとしても、立体的な位置情報まで探れるほど高度なものだったとは思えない。爪の先ほどの大きさだったのだ。そんな軍の特殊部隊御用達みたいなものを、民間人の島津が入手できるとは考えがたい。可能性がないわけではないが―――。

「何か、あるのです。レゾネイターの所在を特定できる方法が」

 エリカの考えに、オレは頷いた。そう考えたほうが自然だ。

 あの日エリカは例のサインをオレに出したが、そのサインの意味を知るのはオレとエリカだけのはず。同じ場所に島津もいたが、思考を読み取りでもしない限り、そのサインの意味を特定することは不可能だ。身体強化系の島津に、そんな能力があるとは思えない。あったとしても、クルシスなしで能力が使えるはずがない。

「つまり、いま俺たちがこうして四人でいることがバレてる可能性もあるわけだよな?」

「だろうな。こうして固まっている限り攻めてこられても充分に対応は出来るが、用心に越したことはねぇな」

「いずれにせよ、その方法は早期に掴んでおかなければなりません。敵にこちらの情報が筒抜けというのは最悪の状況ですから」

「それは昼休みの襲撃者にも、同じことが言えるわけだよな。ヤツにもオレたちの所在は割れていた」

「そうですね、島津先生か、昼休みの襲撃者か、どちらかと接触をし、その情報を聞き出さなければなりません」

「大方やることは決まったわけだ。警戒をしつつなるべく固まって行動し、島津か襲撃者を探し出すと」

「はい、そんなところでしょう」

 方針が決まったところで、会議はお開きという雰囲気になった。が、チアキが首を傾げて自分の頬をむにゅっとつつきながら呟いた。

「ねー、ぜんぜん関係ないかもしれないけどー」

「あんだよ」

「わたしねー、一昨日くらいからイマジナルに飛べなくなったんだけど、なんでかな?」

 言われて思い出した。朝は何だかゴタゴタしていたからすっかり忘れていたが、それは解決しなければならない疑問の一つだ。

「そうだよな、俺もすっかり忘れてたけど、全然わかんねぇな」

 トウマもチアキに頷くが、あの時トウマは気を失っていたから聞いていないんだ、サイコビジョン能力者の話を。

「あれー? トウマくんもなのー?」

「あぁ、ていうかレゾネイター全員がだな」

「んー? イマジナルなくなっちゃったの?」

「いや、わからないんだ、それが」

 オレはちらりとエリカに視線を移した。エリカはいつもの澄まし顔で頷いてみせる。特に隠す必要はない、そう考えているようだ。

「お二人とも、聞いてください」

 エリカの言に、トウマとチアキが振り向いた。エリカは相変わらずの薄笑みを浮かべたまま、何でもないことのように次の一言を告げた。

「どうやらわたくしはサイコビジョン能力者らしいのです」

 トウマは吃驚の、チアキが理解不能といった表情を見せる。そもそもチアキはサイコビジョンという能力について知らないのだから、この場合は仕方がない。

「どういうことだい? 神湯さん」

「サイコビジョンってなにー?」

「サイコビジョンというのは他想観測という能力のことらしいのです。そうですよね、結城くん?」

「あぁ。他人の夢を観測する能力者。元々誰かの夢だったイマジナルという世界をそいつが観測したことによって、夢の世界が形を帯びた。確率や可能性のような不確かで曖昧だった夢という存在に、画然とした輪郭を与えた能力者のことだよ」

「全然わかんない」

「うーん、何て説明したらいいのかな」

「要するに、イマジナルっていう世界を作ったヤツのことだよ」

 説明に窮していたトウマに、ちょっと助け舟を出してやった。多分に語弊はあるが、大体あってるから別にいいだろう。

「んー、つまりエリカちゃんがイマジナルを作った人なんだねー」

「少なくとも島津先生はそう考えているみたいです」

「神湯さんに自覚はないってことかい?」

「残念ながらありません」

「エリカちゃんがそのサイコビジョン能力者だと、なんか困るのー?」

「島津はさ、サイコビジョン能力者がテスタメントを持っていると考えているんだよ。つまり、神湯さんがテスタメントを持っていると、島津はそう考えているんだ。だから、島津はこれからも積極的に神湯さんを狙ってくるってことだよ」

「んー、じゃあわたしたちはエリカちゃんを護らなきゃいけないわけだねー」

 トウマは頷いて、エリカに視線を移した。

「でも、島津はどうして神湯さんをサイコビジョン能力者だと思ったんだい?」

「わたくしが転校してきた日、ちょうどその日から皆さんがイマジナルに行けなくなったから、だそうですよ」

「それはまた、随分と突拍子もない考えだね。意味がわからねぇ」

「わたくしもです」

 言って、エリカが静やかに目を伏せた。チアキはまだ首を傾げたまま、理解できていない様子だ。

「なんでエリカちゃんがそのサイコビジョンの能力者だとテスタメントを持ってるの?」

「何の因果関係もないよ。島津の考えはめちゃくちゃなんだ」

「ヘンな話だよねー」

 そうだろうか? あれほど奸智に長けた切れ者の島津が、何の根拠もなく動くだろうか。何か大きな見落としをしているような気がしてならない。

 いずれにせよ、やることは決まっている。今はいろいろと考えすぎても意味がないだろう。オレはここでいったん話を打ち切ることにした。

「ごちゃごちゃ考えるのはよそう。オレたちがやるべきことは、何があってもエリカを護ればいいんだ。下手な憶測は余計な先入観の元になる。やるべきことを見定めたら、あとは向こうの出方を慎重に探る。今はそれでいいさ」

「そうですね。とにかく不明瞭な情報が多い段階です。少しずつ、焦らずに確度の高い情報を掬い上げて行きましょう……クシュンっ」

 締めのセリフを言い終えると、エリカがくしゃみをし始めた。そう言えばコイツ、真夏の砂浜にいるみたいな格好をしていたんだった。似たような格好のチアキは平気なのか、心配そうな表情をエリカに向けている。チアキはエリカより全体的に肉付きがいいからな、きっと寒さに強いんだろう。

「ハルくん、今なんかヘンなこと考えたでしょー」

「いいえ?」

「ブゥー! ハルくんは意地悪だよー」

 何もしていないのに非難されてしまった。

 結局その後はテキトーにだべってそのまま就寝することにした。エリカとチアキは隣の部屋のベッドで、オレたちは床で雑魚寝だ。文句は言うまい。

「すまなかったな、トウマ。お前にあんな怪我をさせちまった」

「気にするな。お前の命を奪ろうとした俺が、お前を詰る道理はねぇ」

「いや、今回のは全部オレの失態だ。必ず埋め合わせはする」

「馬鹿馬鹿、お前は何様のつもりだっつーの。あの展開を予測できたってんならお前の知力はたぶん百だ。諸葛孔明とか竹中半兵衛とかそのくらいだぞ」

「すまん」

「お前は自己評価は低いくせに何でも自分で背負い込みすぎだ。後悔すんのは全部が終わってからにしてくれよ」

「そうだな、そうする」

 苦笑して、布団を被りなおした。

「結局、なんで覆面チームとバトることになったんだ? 話し合いはしなかったのか?」

「うん? 話し合いも何も、連中いきなり『やはりあなたたちと同盟を組むのはやめました』だからな。端から俺たちと組む気はなかったのさ」

「お前の造反も織り込み済みってことか」

「そりゃ俺とお前が教室で仲良く話してんだからさ、島津にとっちゃそういうことなんだろうなって予想くらいは立てるだろうぜ」

「後から考えればそういうことか。敵に正体が知れてるってのはやりづれぇなぁ」

「俺の能力も把握された上でケンカを売られたからな。それでも二人は無力化できたんだが、島津の野郎はじめっから仲間を切り捨てるつもりだったみたいだぜ。仲間ごと爆風で吹き飛ばされて、後は炎の能力者の集中砲火で血祭りさ」

「そいつは、手強いな」

「全くだ」

 秋の夜長も何とやら。気心が知れたヤツと過ごす夜は、それがこんなに剣呑とした話題であっても、合宿みたいでちょっと楽しい。隣の部屋でエリカとチアキは何を話しているんだろうなぁ、なんて胡乱な頭で考えながら、いつの間にか眠りに落ちていた。

 今回はラスボスの正体が判明し、謎の敵が出現するというお話でした。

 延々とバトルし続ける展開も考えたのですが、息が詰まって疲れるのでやめました。

 次回でお話自体は終わりなのですが、せっかくなのでエピローグだけは分けようと思います。

 エピローグは短いお話なので、読むのも然ほど時間はかからないかと思います。

 ぜひエピローグまでお読みいただければと思います。よろしくお願いいたします。

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