表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

十月二日

 二日目のお話です。少しずつ敵の正体が明らかになっていきますが、同時に謎も増えていきます。

 バトルシーンは頑張って書いたつもりですが、拙いものですみません。

 十月二日の朝は、少し底冷えのするものの、窓から差し込む清々しい旭光が目覚まし代わりとなる快晴だった。

 慣れない場所で眠った所為か、首筋が痛い。

 オレはあくびを一つかいて、首を左右に折り曲げた。エリカはまだ眠っているのだろうか。

 寝る前に外しておいた腕時計を装着し、時刻を確認した。六時を少し回ったところだ。少し早いが、二度寝をするのも何だか窮屈だ。オレは顔を洗いながら、破れた制服をどうしようかな、なんてぼんやり考えていた。

 冷たい水を頭から被って眠気を吹き飛ばしたところで、何かを忘れているような感覚に襲われた。何を忘れているのかすらわからないが、とりあえずエリカを起こそうと開きっ放しのドアをノックしようとしたところではたと気付いた。

 “夢”を見ていない。

 イマジナルに行ってない。

 そもそもエリカがおかしな寝言を口走っている時点で気付くべきだった。

 オレやエリカ―――レゾネイターは、リアルの世界で眠っている時はイマジナルで生活しているのだ。いつもなら眠りから覚めてもその記憶は克明に残っている。それが全く、ない。

 テスタメントのない世界で鉄剣を振るってモンスターを駆逐した記憶も、重い甲冑を着込んで訓練を行った記憶も、プリンセス・エリカの護衛として姫の部屋の前で周囲を警戒していた記憶も、どこか遠い。

 オレは乱暴にドアをノックしてエリカを起こすことにした。この現象がオレに限ったことなのか、エリカにも起こっているのかを確認しなければならない。

「おい! 起きろ! エリカ!」

 エリカの返事が、ない。奇妙な寝言もなければ、寝返りの一つも打たない。オレはエリカに駆け寄って躰をゆすった。

「エリカ! エリカ! エリカ!」

 布団越しに、エリカの体温を感じた。死んでいるわけではなさそうだ。オレは何度もエリカの名前を呼びながら肩をゆすった。

 「うーん」と眉間にしわを寄せながら、エリカが空色の瞳をまぶたの隙間から覗かせた。よかった、ちゃんと生きてる。

 オレは何度も「起きろ」とエリカを呼んだが、エリカは薄目を開けるだけでちっとも起きてくれなかった。オレは段々不安になってきた。もしかしたらオレが眠っている間に何らかの精神攻撃を受けたのだろうか。イマジナルに行かなかったことと何か関係しているのだろうか。逆にエリカの意識だけがイマジナルに囚われてしまい、目を覚まさないのではないか。漠とした不安が頭を過ぎって離れない。

 どれくらいエリカの名前を呼び続けただろうか。呼びかけにも応じてくれないエリカの隣で、オレは頭を抱えて項垂れた。何がどうなったのか、一晩で何が起きたというのか、推測しようにも情報が少なすぎた。

 突然、部屋中から凄絶な爆音が弾けた。

 反射的に両腕で頭を守りつつ

「来い! ドラグヴェンデル!」

 オレは右手に気を集め、斬護刀ドラグヴェンデルを召喚した。クルシスまで失われたわけではなさそうだ。

 周囲を警戒しながら、部屋の四方に視線を動かした。爆音はいまだ続いている。

「な、なんだこりゃ?」

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋のあちこちに、大き目の時計が設置されていた。そのどれもが筐体を震わせながら泣き喚いているようにさえ見えた。要するに、目覚ましが鳴っている。

 出し抜けにエリカが躰を起こし、立ち上がって端から目覚まし時計のスイッチを切り始めた。泣き叫ぶ赤ん坊のようなそれを全てあやしたエリカは、オレの存在に気付いた様子もなく、部屋から出てふらふらとバスルームのドアの向こうに消えてしまった。

 静寂の中、遠くから聞こえる雨音のようなシャワーのざわめきを耳に、オレは自分の右手の先で鈍色の光を放つ刃に向かって呟いた。

「すまん。お前の出番はなさそうだ」


 エリカの部屋から出て、リビングのカーテンを開けた。眩しいくらいの青が目に飛び込んできて、思わず手でひさしを作った。ベランダに出て、朝の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 躰に異常は、ない。

 拳を何度か握り締めてそれを確認した。首筋の痛みも、ほとんど気にならなくなっている。

 眼下に広がる町の様子を眺めながら、溜息を一つ。なんだか朝から疲れてしまった。エリカは単に寝起きが悪いだけだった。全く馬鹿らしい。大げさに心配してしまったが、何事もなくて重畳だ。

 しばらくすると、エリカがバスルームから出て来た。

 バスローブを一枚はおっただけの艶っぽい姿に、思わず目を逸らしてしまった。エリカはタオルで頭を乱暴に拭きながら、インスタントのコーヒーを作って椅子に腰を掛けた。まだオレの存在に気付いていないのか、バスローブの間から見える大きく膨らんだ胸元を隠そうともせず、ぼんやりコーヒーをすすっている。え、エロい。オレの股間も膨らんじゃうよ?なんて馬鹿なことを考えている場合じゃない。オレは努めて景色に視線を移して、それを見ないようにした。

 背後の窓の向こうから、オレの背中を捉える視線を感じた。視線は徐々に肥大化し、

「ほわぁっ!?」

 という叫び声とともに消失した。ドタドタバタンッと慌しい音が響き、オレはエリカが自分の部屋に隠れたことを悟った。

「お、おはようございます、ハルト」

「あぁ、おはようさん」

 互いに着替えを終えたオレたちは、何となく気まずい雰囲気でリビングの椅子に腰を下ろした。エリカの家にはテレビがなく、冷蔵庫の唸るような低い音だけが喧しい。よっぽど恥ずかしかったのか、エリカはまだ頬を薄く染めたまま俯いている。

 エリカの寝起き騒ぎですっかり忘れていた最大の懸案事項を思い出した。場を取り繕うのも面倒だったので、オレは単刀直入に本題から入った。

「エリカ、おまえ昨夜イマジナルに行ったか?」

「はい?」

 エリカは首を傾げながら視線を上げて瞳を揺らした。意味を理解したエリカの目が、急速に色を帯びた。

「ハルトは?」

 エリカの問いに、オレは首を振って否定の意を示した。エリカの鋭い目つきが、事の重大さを物語っている。

「お前はこれまでに、イマジナルに行かない日が一日でもあったか?」

「いいえ。ハルトはどうなんです?」

「ない。記憶にないほど昔の話は知らねぇけど、憶えている限りじゃねぇな。お前は?」

「ありません。リアルとイマジナルの二重生活は、わたくしにとって日常でした」

 オレもエリカも、リアルで眠っている間はイマジナルで、イマジナルで眠っている間はリアルで生活するというスタイルが当たり前だった。その常識が根底から覆った。これが何を意味するのか。

「イマジナルが消滅した、ということでしょうか?」

「だがテスタメントは“こっち”にあるぜ。イマジナルが消滅しても、イマジナルの産物はリアルの世界で存在できるのか?」

「わかりません。クルシスは召喚できます?」

「さっき試した。問題なく召喚できる。だからこそテスタメントが“こっち”にあると判断した」

「するとイマジナルが消滅したわけではない、ということでしょうか」

「そうだと判断する材料が何一つない。この現象がオレとお前だけの固有のものなのか、他のレゾネイターにも共通する現象なのか、調べてみたいな」

「つまり、他のレゾネイターに積極的に接触していく、ということですか?」

 オレは頷いて、真っ直ぐエリカを見つめた。

「そうだ。放課後は人気のない場所を選んで行動しよう。過激派の連中―――特に昨日のヤツはオレとお前がレゾネイターだってことを知っているはずだ。昨日の今日で襲ってくるかどうかはわからねぇが、襲ってくるとすれば人のいない場所を選ぶだろう」

「だからこちらからそういった場所に赴けば、彼らに接触できる可能性が高まる、ということですね」

「そういうことだ。学校の教師を探すという方法も同時にやろう。昨日のように下校時間ぎりぎりまで校舎に残って、それから人通りの少ない再開発地区を回ってみよう」

 再開発地区というのは、まだ景気が良かった頃に建設されようとしていたビルの残滓が乱立している区域のことだ。完成していない骨組みだけのビルがあちこちにあって、犯罪者の温床みたいな場所になっている。飽くまで“みたいな”場所であって、実際は結構な頻度で警官が立ち寄る場所でもあるので、悪人の巣窟というわけでもない。

 ただし、オレたちのようなレゾネイターであれば話は別だ。隣のビルに一足で飛び移れる身体能力を有しているレゾネイターであれば、そこを溜まり場とするのは容易だろう。

 いずれにせよ、こちらからは誰がレゾネイターか判らないが、オレたちがレゾネイターであることはすでに割れているので、向こうから接触しやすい場所を選んで行動すれば、自ずと遭遇する確率は高くなるだろう。

 オレたちは、トーストとエリカが作ってくれたスクランブルエッグで朝食を済ませ、学校へ行くことにした。


 日射しは強いものの、空気はひんやりとした過ごしやすい陽気の十月の通学路。オレは日射し以外のものに八方から突き刺されながら学校の門を潜った。ある意味で日射しよりも鋭いそれは、まず隣を歩くキラキラと光り輝く黄金の少女エリカを捉え、次に薄汚れたどこにでもいそうな平凡な学生オレを捕捉する。すると、視線という名の不可視の光線は、穢らわしい醜悪な汚物を見るよりは燦然と耀う秀麗な奇跡のようなそれを眺めていたいと思うものと、錦上に添えられた解語の花の隣を行くうらぶれた冴えない凡愚を妬む憎悪に満ちたものの二種類に分かれる。要するに、エリカを陶然と眺める輩と隣を歩くオレに嫉妬の念を向ける輩の二種類がいるということだ。転校二日目の超絶美少女の隣を歩く一般人というのは、そういった敵意の的になってしまうようだ。無論そんなものを気にするオレではないが。

 エリカはというと、口元に薄笑みを張りつかせたまま、煌めく朝日に自慢のブロンドを輝かせながら悠然と歩いている。視線の矢など彼女のまとう気品という名の鎧はものともしない。その全てを弾き返しながらどこか楽しげに歩を進めていた。

「お前、こんだけ視線を集めてるのに気にならねぇの?」

「はい、なりません。この程度で動揺するようでは、王女という職は勤まりませんから」

「はン。さすがだなプリンセス。芸能人にでもなったらどうだ?」

「ハルトが望むのなら、そうやってお金を稼いでもいいですよ」

「どんだけ自信家だよ」

 オレは思わず笑ってしまった。エリカは自分の容姿の客観的な評価をよく弁えているようだ。確かにエリカは美しい。十点満点で採点するなら、文句なしに十点だろう。その隣を歩いているオレはというと、せいぜい四点か五点くらいなものだ。エリカに釣り合うとしたらトウマなんだろうが、トウマでも八点止まりだろう。チアキも七点か八点くらいの評価を受けてもいいと思うのだが、アイツは否定するだろうなぁ。え? クニヒコ? それはオレの口からは言えねぇよ。言語なんてもので形容できる器じゃないんだ、アイツは。

「というようなことを考えながら歩いてきたんだ」

「アンタどんだけ失礼なんですかねぇ!?」

 オレはクニヒコの叫喚を無視してカバンを机の横に引っ掛けた。すでに登校していたトウマたちは、オレが教室に入るや否や真っ先に駆け寄ってきた。チアキとクニヒコは隣にいるエリカにおっかなびっくりだったが、トウマだけは

「やっ! おはよう、神湯さん」

 爽やかな笑顔で白い歯を覗かせた。エリカは高雅な笑みを浮かべたまま、誰だか判らないけどとりあえず挨拶だけはしておこうといった体で「おはようございます」とだけ返すと、カバンを手にしたままオレの真横で立ち止まった。

「いや、カバンくらい置いてこいよ」

「あちらに行くときっといろんな方に声を掛けられてしまうと思うので、チャイムが鳴るまでここにいます」

「別にいいじゃねぇかよ、相手してやれば」

「嫌です」

 集合写真でも撮る時みたいな微笑を浮かべたまま、エリカはツンとオレの提言を一蹴した。この女、人目がある時は決して笑顔を崩さない性質らしい。

「そ、その、おはよー、神湯さん」

「おはようございます。えっと……」

「チアキです、浅井千秋」

「そう、アザイさんね、ありがとうございます」

 チアキはびくびくしながら顔色を窺うみたいな視線をエリカに向けた。怯懦の色が混じるチアキの様子を見たエリカは

「エリカ、でいいですよ。アザイさん」

「う、うん! わたしもチアキでいいよー」

「ありがとうございます、アザイさん」

 たぶん無意識なんだろうが、ますますチアキに追い込みをかけた。がっくりと項垂れるチアキを余所に、クニヒコが攻勢に出た。

「おれ、脇谷邦彦。クニヒコって呼び捨てにしてくれていいよ」

 エリカはにっこりと笑みを返すと

「ハルト、ここは窮屈なので少し外に出ませんか?」

 もうお前に用はないと言外に含ませつつ、笑顔を崩すことなくオレの手を引っ張った。クニヒコは無言で涙を流しているが、無視していいだろう。

 トウマの言う通り、エリカは確かに手強い。一見すると物凄く親しみやすそうな笑顔なんだが、明らかに色濃い拒否のにおいを言葉に孕ませている。オレは初見のようで初見ではなかったが、他の三人は明らかに知らない顔だ。かといって人見知りをするようなタイプには思えないんだが。

「ちょっとお前ら待っててくれ」

 オレはトウマたちに断って、エリカに引っ張られるように廊下へ出た。

 どこに行っても人目を引くエリカの容姿は、廊下に出てもすぐに衆目を集めた。が、オレというオプションが邪魔らしい。「ちっ」という舌打ちが各所から聞こえてくる。オレのほうが舌打ちしたいよ。

「お前さ、もうちょっと友好的に接してくれよ。オレの親友だぜ?」

「ハルト、忘れたのですか? どこの誰がレゾネイターなのか判らないのですよ。友好的な振りをするのは構いませんが、警戒を怠ってはいけません」

「アイツらは別だよ。トウマやクニヒコがオレを襲うはずがねぇ」

「本当に? 本当にそう思っていますか?」

「当たり前じゃねぇか」

「あの男子のお二方、昨日の覆面男とよく似た背格好をしてらっしゃいますよね」

「平均的な男子の体格だろ? 昨日の覆面野郎はオレより少し上背があるくらいだったはずだ。そんなヤツはどこにでもいるさ」

 言って、オレは背中に刺さる三つの視線に意識を寄せた。トウマとクニヒコはこっちを観察するような視線だが、チアキのそれは少し険しい感情が混じっている。傷つきやすい女だ、あんなふうに無碍にされたら少しくらい恨みがましく思っても不思議じゃない。総じてどこにも不自然な点はない。

 エリカはちょっと頬を膨らませて腰に手を乗せた。

「いいですか、ハルト。貴方は昨日あの場所で殺されかけているのですよ。もう少し注意してください。敵は必ずしも一対一で挑んでくるとは限らないのですから」

「んな大げさな」

「ハルト、わたくしは貴方が心配なのです。昨日みたいに怪我をするところを、もう見たいくないの」

 眉を八の字に曲げて、エリカが傷のあった場所をそっと撫でてくる。触り方がちょっとエロい。みんなが見てるからヤメてほしいなぁ。

「お前が心配してくれるのは嬉しいが、気にしすぎだ。そんなに気を張ってたら疲れちまうぜ。それに」

 オレは真摯な眼差しでエリカの瞳を見つめた。

「親友や幼馴染まで疑うような真似はしたくない」

 エリカは小さな溜息を一つついて、言葉を選ぶように視線を落とした。すぐに持ち上げた瞳で、オレの眼差しに真っ直ぐな視線を返してくる。

「わかりました。もううるさくは言いません。ですが、後生ですから細心の注意を払って行動してください。こんな言い方はしたくありませんが、貴方が深い傷を負うということは、わたくしの危機に直結するということをゆめゆめお忘れなきよう。貴方はわたくしを護るナイトでしょう?」

「そう言われると返す言葉もねぇ。わかった、気をつけるよ。お前は必ずオレが護りきって見せるさ」

 言って首を竦めたところでチャイムが鳴った。教室に戻って席に着くと、孤立無援のオレの背中に嫉妬の視線がザクザクと突き刺さった。姫を護るナイトってのは大変だ。


「え? なにお前、体育やすむの?」

「休むというかサボるんだよ」

 四時限目は体育だった。女子は体育館でバレーボールだが、男子はグラウンドで五十分耐久マラソンという拷問めいた内容だという情報を前の時間に体育を受けた友人に聞かされたトウマは、それをブッチしようと提案してきた。真面目なトウマにしては珍しい。

「えー? 後で上杉にシボられんのイヤだよ、おれ」

 クニヒコは基本的にビビリなので、授業をサボったり学校をフケたりはしない。トウマは八方美人な性格で、女子だけでなく男子や教師にも受けがいいように体面上マジメに振舞ったりすることが多い。確かに実直な性格ではあるが、実際はそんなに生真面目というわけでもなく、力の抜きどころをよく理解しているヤツだ。夏場だと風邪を引いたなどと見え透いた嘘を吐いて、プールサイドの木陰でスクール水着の女子を眺めては「雅だ」などと呟いていることはあるが、基本的にはイイコちゃんで通っている。

 特に体育教師の上杉はガチムチのタンクトップで一年を過ごす猛者だ。そんな輩を相手に敢えて危険を冒そうだなんて、リスクを負ってでも成し遂げたいことでもあるのだろうか。

「もう十月だぞ、トウマ。スク水は来年までお預けだ」

「馬っ鹿、エリカちゃんに決まってんだろ?」

 トウマは口元を緩めて、さも当然といった体で答えた。お目当ては体操服姿のエリカらしい。オレたちの会話を聞いていた周囲の男子が集まってきた。なんだか集団で体育をボイコットしようという流れになってきている。

 更衣室で着替えを済ませたオレたちは、一部のビビリ(クニヒコのことな)を除いてマラソンをブッチすることにした。各自ばらばらに散開しつつ、それぞれが目当ての場所で身を隠す。固まっていると発見される確率が高まるので、銘々がベストポジションを自分で発見しなければならない。

 大抵のヤツらは体育館の下窓付近や二階の暗幕周辺、舞台のカーテン裏など判りやすい場所を陣取っているようだが、オレとトウマは一味ちがう。まず舞台裏から演劇部用の小さな放送室に忍び込み、なぜか備品として置いてある双眼鏡で女子を観察しようという、ちょっとだけ手の込んだやり口だ。

 チャイムが鳴ってグラウンドにクニヒコしかいない状況を見た体育教師の上杉は、湧き踊る筋肉の躍動に物を言わせて男子の捜索を開始した。

「オラァッ! クソジャリどもがぁ! テメェら、ケツの○○に俺の○○○ブチ込まれてぇのかぁ! アッー――――?」

 竹刀をぶんぶん振り回して地を揺らす上杉の表情は酷く好色めいていて、とてもじゃないがお近づきになれる雰囲気ではない。危険というよりはキケンな目つきで次々と男子を鹵獲していく上杉を無視して、オレたちは女子の体操服姿を堪能することにした。

「お前さ」

「あぁ?」

 エリカの大きく突き出たふくよかな胸がゆっさゆっさと揺れる様を双眼鏡で眺めながら、トウマがオレに話し掛けてきた。

「エリカちゃんとどういう関係?」

「あぁ、死に別れた妹なんだ」

「なんで死人が金髪になって乳ゆらしてるんだよ」

「そういう設定なんだ」

「いや、マジで。エリカちゃん、お前にだけは親しげじゃん」

「あーまぁなんつーか、知り合いなんよ」

「どこであんなブロンド美人と知り合ったんだ?」

「個人情報保護法の関係でお答えできません」

 トウマはちょっと怪訝な顔で視線をオレに遣した。もちろん、勘の鋭いトウマに根掘り葉掘り尋ねられることは予想済みだ。今はもう確認しようのない情報を与えることで納得させればいい。

「俺とお前の生活圏で、どうやったらあんな女神みたいな人と出会えるんだよ。なぁ、教えてくれよ」

「インターネットで」

「マジで!? どこのサイト?」

「もう潰れちまってるよ。レトロゲームのファンサイトなんだけどな。そこで知り合っていろいろやり取りしてたんだ」

「タイトル教えてくれよ。俺もそのゲームの達人になるからさ」

「だから個人情報の関係でお答えできないんだって」

「なんでゲームのタイトルくらい教えてくれねぇんだよ。俺とお前の仲だろ?」

 しつこいな。だがこのくらいは予測済みだ。要するに、聞いてはいけない雰囲気を醸し出せればいいのだ。

「いいか、よく聞けトウマ。もし仮にチアキが“男子専科☆オトコたちの狂演”というガチホモ裏ビデオシリーズを全巻もっていたとしよう」

「チアキはそんなもの持っていない!」

「仮にだ、落ち着け。チアキがガチムチ系のホモ専という設定だったとしよう」

「そ、そ、そんなわけ……そんなわけない!」

「あー面倒くせぇなぁ! 要するにその類の話だって言ってんだよ」

 そこまで聞いて、トウマは視線を落として思案げな表情を浮かべた。トウマはチアキのことになるとややムキになる嫌いがあるが、基本的には頭のいい男だ。オレの話から内容を推測するに違いない。はたと目を見開いたトウマがどんな想像をしたのかはわからないが、トウマはケツを押さえながら後退ってオレから距離を取り始めた。

「違う。お前の想像はたぶん間違っている。もう少しこっちよりに修正しろ」

「そうか、クニヒコはともかく、お前に彼女が出来ないのはそういう理由からだったのか」

 “チアキのガチホモ専疑惑 + エリカとオレはレトロゲームのファン = ガチホモ系十八禁ゲームマニア ∴ オレはホモ”という脳内変換が行われたのだろう。迂闊なことは言うもんじゃないな。幸い、何と思われようとトウマはそれを真に受けたり吹聴したりするようなヤツじゃない。面倒くせぇから話を締め括ろう。

「とにかくいろいろあんだよ。これ以上エリカについて詮索しないでくれ」

「わかった。お前についても詮索はしないさ」

「好きにしろ」

 それきり、オレたちは会話をするのをストップし、当初の目的だったエリカの体操着姿を愛でることにした。

 遠目でもよく目立つエリカの隣には、ちょっとおどおどしたチアキがくっついていた。エリカは躰のラインを強調するようなタイトなサイズの体操服だが、チアキのそれはツーサイズくらい大きいんじゃないかと思うほどゆとりがあった。アイツは肌を見せるのを極端に嫌がるからなぁ。

 実際にバレーボールの練習が始まると、オレはエリカよりもチアキに目を瞠った。なんかアイツ、動く度にすごく揺れる。残念ながら我が校はブルマという日本の伝統工芸を廃止してしまっているので、下半身よりも上半身の発達具合に目が行ってしまう。チアキの動きはアホのコみたいに緩慢だが、飛んだり跳ねたりする度に、ぽよんぽよんと大きく上下するのだ、胸が。

「ば、馬鹿な……アイツにあんなポテンシャルが……」

 オレは双眼鏡で動きを追いながら思わずあんぐりと口を開いていた。

「ち、チアキたん、はぁはぁ」

 トウマもエリカよりチアキ(の一部分)の動きを追いながら、口元をだらしなく緩ませている。エリカのスタイルが抜群にいいのは見れば判るが、チアキのそれは意想外だった。チアキは貞操観念の強い女で、夏に遊びに行ったりする時も、必ず大き目の服を着用していた。それを疑問に思ったことは一度もない。そういうファッションが好きなんだろうくらいにしか考えていなかったが、まさかこれほどまでの逸材だったとは。

 張りのあるまろやかな膨らみがエリカだとすれば、たわわに実った豊穣の神秘がチアキだ。全体としての均整で見るなら圧倒的にエリカに分があるだろう。だが、ある一部分の性能に特化したチアキの天稟は底が知れない。あの白い布の向こう側には、どんな世界が広がっているんだろう。オレは雪原に聳え立つ雄大な山稜に思いを馳せながら、それがチアキだという事実になぜか罪悪感を感じた。アイツは妹みたいなもんだからな。

「お前さ、トウマ」

「何だよ」

「あんまグズグズしてっと、野郎どもが放っておかねぇぞ、きっと」

 オレは敢えて曖昧にぼかして言った。それでもその意図はトウマに伝わったようで

「わかってる、わかってるさ」

 呟くような低い返事が戻ってきた。その様子に、一抹の不安を抱かざるを得なかったのはなぜなのか。いくら幼馴染とはいえ、十七年も生きていれば話したくないこともあるのだろう。何がトウマをして思いとどまらせているのか、オレには見当がつかなかった。それは、ちょっと寂しいことだ。

 結局オレたちは双眼鏡を片手に豊かな時間を過ごすことに成功した。ちなみにクニヒコやその他の男子は、汗だくになるまでグラウンドを走らされたらしい。サボりきったオレとトウマは勝ち組だ。


 体育の授業を終えたオレたちは、教室の戻る前に購買で昼食を買って、そのまま屋上に向かった。トウマからチアキに「屋上で」とメールを打たせ、着替えの遅い女子より一足先に食事にすることにした。

「ご苦労さんだったな、クニヒコ」

 オレはカツサンドを頬張りながら、クニヒコに慰労の言葉をぞんざいに投げかけた。

「アンタらほんとヒドいっすよね! 後で見つかっても知らないよ!」

「ハカマダくんに脅されたって言うから大丈夫だよ」

「誰だよハカマダくんって! おれ脇谷、ワキヤだからっ!」

「しかしまぁ、おかげでイイもん見れたからな。俺は満足だぜ」

 トウマはほくほく顔でパックのコーヒーをすすりながら、嫌みったらしい笑顔をクニヒコに向けた。クニヒコはマラソンの所為で食欲がないのか、サンドイッチを口に運ぶ動作もどこか億劫そうだ。

「なーに? エリカちゃんはダイナマイトだったの?」

「少なくともお前の脳みそよりは重そうだったな。あぁ、お前のアタマって脳みそとか入ってんの?」

「入ってるよっ! 入ってないヤツとかいるの!?」

「確かワキヤクニヒコってヤツには入ってないらしいよ」

「それ、おれのことだよっ! 何その情報!?」

「ところでさ、ハカマダ……じゃなかった。えーっと、お前なんだっけ?」

「なんでいきなり忘れるのさっ! 二秒くらい前に自分で言ってたじゃん!」

「ジョークだよ、クニヒコ。マラソンは楽しかったか?」

「楽しいワケないよっ! 何その嫌がらせ!?」

 クニヒコをからかって楽しんでいると、釣られて笑ったトウマが脇腹を押さえて苦悶の表情を見せた。面白すぎて腹を抱えている、というわけではなさそうだ。

「どうした、トウマ? クニヒコのことが嫌いなのか?」

「何その質問!? 今の流れでどうしておれのことが嫌いになるのさっ!?」

「いや、トウマがすげぇ嫌そうな顔してんじゃん。美形のトウマの顔をここまで歪ませる原因について、今トウマが見せた仕草と表情から考えられる可能性を思い浮かべれば、自ずと正解に辿り着くだろ?」

「辿り着いてないよっ! もっともらしい説明つけて勝手に結論付けないでよっ!」

 ツバを飛ばして反論するクニヒコを宥めるように、トウマが笑顔を作った。その笑顔は作り物めいていて、どこか自然さに欠けている。

「マジ大丈夫か? 腹でも痛いのか?」

「いや、昨日からちょっと脇腹が痛くてさ。笑うとたまに響くんだよ」

「それは困ったな。おい、クニヒコ。いなくなれ」

「ムチャ言わないでよっ! や、トウマほんとに大丈夫?」

 心配げな表情でクニヒコがトウマの顔を覗きこんだ。上目遣いが気持ち悪い。トウマは涼しげな顔で「何でもない」と返し、いつものキザなスマイルを作った。傍から見るといつもと変わらないが、痛みを堪えているのがオレには判る。怪我でもしているのかもしれない。だから何か理由をつけて体育をサボろうなんて言い出したのだろう。トウマは弱っているところを人に見られることを嫌う。これはその強がりの現われだろうと、オレは思った。

「あ、いた。ハルくーん!」

 屋上の扉を開いたチアキが、オレたちを見つけて大きく手を振った。その後ろには、プラチナブロンドを秋の乾いた風になびかせるスカイブルーの瞳の少女が、にこやかな笑みを作っている。どうやらチアキはエリカを友達に引き入れることに成功したようだ。というよりはエリカのほうからチアキについてきたと解釈するべきか。アイツについて来ればオレに辿り着けるからな。

 小動物のように小走りで駆けてくるチアキの背中を、エリカは悠然とたおやかな笑みを浮かべながら追ってきた。その様はまるで遥か青空から舞い降りた天使のようで、キラキラと目に見えるくらいのオーラを放ちながら歩くエリカに、屋上にいた衆目はいっせいに引き寄せられた。

「やっぱキレイだなぁ、プリンセス」

 陶然と呟くクニヒコに、トウマも同意した。

「あぁ、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……だな」

「クニヒコは立っても座っても歩いてもドブネズミだけどな」

「花ですらないっ!? いちいち余計な注釈を入れないでよっ!」

 どうやらエリカのあだ名は“プリンセス”とか“姫”ということになっているらしい。確かにアイツは“あっち”では王女様だったからな。そういった高貴さみたいなものが滲み出ているんだろう。加えてあの容姿なら、“姫”と呼びたくなる男連中の気持ちも解らなくはない。

「チアキ! こっちこっち!」

 トウマはオレのほうに躰を寄せ、チアキの座るスペースを作った。それに倣ってクニヒコもオレのほうに躰を寄せ、

「エリカちゃんも、ここ座って」

 とプリンセスを促すが

「申し訳ありません。どなたか存じ上げませんが、場所を譲っていただけませんか?」

「おれのことは記憶にすらないっ!?」

 結局エリカのお願いに従って、涙目でオレの隣にスペースを空けることになった。

 その後は銘々の昼食を取りつつ座談会となった。特にトウマたちはエリカと話をしたことがほとんどないので、会話というよりは質問の応酬だ。

「ねー、エリカちゃん。前はどこに住んでたの?」

 チアキの問いに、エリカは予め用意してあったかのような答えを淀みなく返す。

「以前は隣町に住んでいました。車で十五分くらいのところですよ」

「えー? じゃーなんで転校してきたのー?」

「こちらの学校のほうが近かったからです」

 澄まし顔ですらすらと答えるエリカに、オレはチアキの声真似をして質問を投げかけてみた。

「ねー、エリカちゃん、どうしてクニヒコくんのことが嫌いなの?」

「どうしてそんな質問が発生するのか意味がわからないよっ!」

「しかも気持ち悪いくらい似ているな。男のハルトがチアキの物真似を平然とやってのけること自体イミがわからねぇ」

 クニヒコとトウマのきれいなツッコミが入り、オレはしたり顔で口の端を吊り上げた。

「皆さん、仲がよろしいのですね」

 エリカが清楚な笑みを張りつかせたまま呟くと、トウマがすぐに食いついた。さすが渉外担当、如才がない。

「俺とハルトとチアキは幼馴染だからさ。家も近所だし、幼稚園の頃からずっと同じ学校に通ってる。仲がいいのは当然さ」

「うん。お互いのこと、何でも知ってるよー」

「転校したばっかりでいろいろ困ることもあるだろ? ハルトの手が空いてない時は俺やチアキを頼ってくれていいからさ」

「いつでも助けるよー」

 チアキがニコニコ微笑みながらトウマに追従する。トウマの言葉は半分くらい下心からなんだろうが、チアキのそれはほぼ間違いなく善意からのものだ。

「えぇ、ありがとうございます。もし困ったら、お願いするかもしれません」

「うん!」

 たぶん困らないからお願いすることもないというエリカの意思表示なのだろうが、そんな真情を忖度する器量があるはずもなく、チアキは満面の笑みで頷いた。チアキの笑顔は和むなぁ。

「えっと、三人が幼馴染だということはわかったのですが、そちらの……」

 エリカが小首を傾げてクニヒコを向いた。

「あぁ、ハカマダな」

「違うよ! 脇谷! ワキヤクニヒコ!」

「ゴメンなさい、そのハカマダさんとはどうして仲がいいのかしら?」

「なんで間違えるのぉ!?」

 涙を流しながら哀訴するクニヒコを無視して、渉外担当トウマが答える。

「簡単さ。俺たち一年の頃から同じクラスでさ。俺の苗字が結城で、そこのハカマダが脇谷だからさ、席が近くってね。入学してすぐに仲良くなったんだ」

「そこのハカマダって時点でおかしいよね! ねっ!」

「俺と仲良くなると、自然とハルトやチアキとも一緒にいることが多くてさ。結果、こうしてツルむようになったんだ」

 エリカは「そう」と思案げに視線を落とした。

「それじゃあ、ハカマダさんは比較的あたらしいお友達なのですね」

「うん、そうだよー。クニヒコくんはね、いじりやすくって面白いの」

「ありがとう、チアキちゃん。おれの味方でいてくれるのはチアキちゃんだけだよ。おれと結婚してくれない?」

「えー? わたし自殺願望はないよー」

「酷いよ、チアキちゃん!」

 けらけらと笑うチアキを横目に、冷たい視線でクニヒコをそっと睨むエリカの横顔が、ちょっと気になった。

 その後も下らない雑談に興じながら、オレたちはゆっくりと昼食を済ませた。エリカの態度が軟化することはなかったが、最初だからこんなものだろう。これから少しずつ仲良くなっていけばいい。オレはそんな風に楽観していた。


 放課後。

 パンチパーマ島津教諭のダミ声スピーチが終わると、途端にクラス全体が騒がしくなる。部活に行くヤツ、遊びに行くヤツ、真っ直ぐ帰るヤツ、他に予定があるヤツ、様々なんだろうが、とにかく学生が急に活き活きし始める時間だ。

 オレは立ち上がって、人集りが出来るよりも早くエリカを振り返った。エリカはオレに例のサインを出し、ウィンクを一つ送ると、瞬く間にクラスメイトに囲まれてしまった。昨日よりは人の数は減っているとはいえ、まだまだ物珍しさは衰えていないのだろう。エリカに平穏が訪れるにはもう少し時間が掛かりそうだ。

「よぅ! ハルト。今日こそ一緒に帰ろうぜ」

「なんでお前オレと一緒に帰りたがるの? たまにはクニヒコと帰ってやれよ」

 爽やかにオレの肩を叩いてきたトウマに、オレは笑顔で返事をした。エリカとの約束があるのでトウマを含めた他の面々とは一緒に帰れない。それとなく違うヤツと帰れと誘導してみたが、トウマはがっちり肩を組んで

「エリカちゃんをデートに誘うつもりなんだろ? そうはさせねぇよ」

 なんて鋭いことを耳打ちしてくる。デートではないが、エリカと行動を共にするという点では的を射ている。勘のいいヤツは面倒だ。本当にデートだったら多少はドモったかもしれないが、こっちは命がかかっている。どうやってもトウマたちを巻き込むわけにはいかない。

「すまんな。エリカと一緒なのは間違いないが、いろいろ事情があるんだ」

 オレの返答に、トウマは一寸視線を落としてすぐに笑みを作り直した。

「また事情は話せないのか?」

「そんなところだ。お前が期待してるほど楽しいもんじゃねぇよ」

「そっか。昨日お前んチのおばさんから電話があったぜ? あんまり夜遅くなるようなら、せめて俺に連絡くらい入れろよ」

「そうか、すまんな。お袋は何か言ってたか?」

「いや、お前おばさんに信用されてるみたいだけど、せめて居場所くらい教えてくれよ。何かあっても助けに行けないぜ?」

「わりぃ。いちおう今日は再開発地区を通り抜けて堤防沿いまで行くつもりなんだ。どうしても不安ならメールでもくれ。三十分してもオレから返信がなかったら、その辺りを探してくれれば多分そこにいるからさ」

「再開発地区? あんな物騒なところに何しに行くんだよ。エリカちゃんも一緒に行くんだろ?」

「彼女が転校してきた理由、とでも言っておく」

「なるほど。込み入った事情があるわけね。話せとは言わねぇけど、手なら貸すぜ?」

「すまん」

 とだけ謝って、オレはカバンを引っ提げた。

「気にするな。今日はチアキと帰るわ」

「そうしてやれ」

 オレは手で挨拶をして、そのまま教室を出た。

「おーい、チアキ。今日は一緒に帰ってくれるよな?」

「ご、ゴメンねートウマくん。今日もダメなんだー」

「また俺ひとりで帰るのかよ」

「だからどうしておれは誘ってくれないんですかねぇ!?」

 なんてやりとりが背中から聞こえてきた。オレは苦笑をしつつ屋上でエリカを待つことにした。

 日も傾けかけた放課後の屋上は、昼間の熱気も散り始めた穏やかな陽気だった。オレは金網に手をかけて、格子模様の向こうに見える景色をぼんやりと眺めた。ホームルームが終わってないのか、屋上に人影は少ない。グラウンドにも数えるほどの学生の姿しか見えなかった。文庫本でも持って来ればよかったと思ったが、前の晩はそもそも家に帰っていなかったことに気付き、金網越しに見慣れた町に溜息を吐きかけた。

 数分もすると、屋上にも人が増え始め、階下のざわめきも次第に大きなものとなった。

 不意に視線に気付き、振り向いた。チアキだった。

 表情に自信がなく、おどおどしているのはいつものことだが、オレやトウマに対してまで遠慮するようなヤツじゃない。オレたちはそんな薄っぺらな関係じゃないからだ。

 オレは肩を竦めて笑みを作った。

「どうした、チアキ。何か用か?」

 チアキは首を振って、そのまま俯いてしまう。だがどう見ても何か話があるようにしか見えない。いつもみたいにニコニコ顔で「ハルくん」なんて呼びかけもしなければ、照れ笑いをしながら服の裾を引っ張ってくることもない。ただ、とても緊張していることだけは見て取れた。

「何か話があるんだな。場所が悪いなら河岸カシを変えようか?」

「んーん。ここでいいよー」

 弱々しく、下を向いたままチアキが答えた。

 残念ながら、オレのイカれた脳は相手の考えていることを具に読み取るような超人じみた真似は出来ない。何となく思考のベクトルみたいなものを感じ取る、くらいのものだ。それはスポーツの対戦や戦闘などでは非常に役に立つが、相手が隠していることを言い当てるような奇術めいた技ではない。だから、緊張しているチアキが何を言おうとしているのか、それは言葉にしてもらわないとオレにもわからない。

「そうか。言いにくい内容か?」

 チアキは首を振って

「い、一緒に、帰ろ?」

 とだけ呟いた。オレは殊更に怪訝な顔をして、チアキの表情を読もうとした。嘘は吐いていない。だがまだ核心には至っていない。そんな感じだ。

 普段ならチアキと一緒に下校するのにやぶさかはない。そんなものはいつものことだ。オレとトウマとチアキは、大抵いつも一緒にいる。トウマが他の女を引っ掛けている時は、オレとチアキだけで帰ることもままあった。クニヒコは帰る方向が全く反対なので、遊びに行く時以外は一緒に帰ることはない。ゆえに、これはいつものことなのだが、恐らく意味合いが違う。

 オレは返答に窮した。もちろん断らなければならないのだが、いつもと同じように断ってもいいのだろうか。チアキを傷つけてしまわないだろうか。そんな危うさが、目の前のチアキにはある。慎重に、話を進めなければならない。

「いつも一緒に帰ってるだろ? トウマじゃダメなのか?」

「ハルくんじゃなきゃ、ダメ」

「話ならここで聞くぜ? 別に帰り道である必要はねぇだろ?」

「や、ヤだよー。ね? 一緒に帰ろ?」

 チアキは酷く怯えた表情でオレの服の裾を引っ張った。何がチアキを怯えさせているのか。誰かに脅されているのか、それとももっと他に理由があるのか。誰かに脅されるというのもおかしな話だ。チアキにオレと一緒に下校するよう脅す意味はほとんどない。オレたちは大抵そうしているからだ。ならば、なぜ?

「落ち着け、チアキ。悪いが先約があるんだ。一緒に帰るだけならいつでも出来る。今日じゃなきゃいけない理由があるのか?」

「エリカちゃん、だよね?」

 オレはまたしても答えに詰まった。事が事だけにチアキたちを巻き込むわけにも行かず、結果的に隠すことになったのだが、チアキはオレとエリカの関係に猜疑心を持っている、ということだ。

「エリカちゃんと一緒に帰るなら、わたしも一緒に行っていいよね?」

「いや、すまん。ダメなんだ」

「昨日はじめて教室に来たエリカちゃん、ハルくんを見てあごを触ってた。さっきも同じことしてた。昨日も一緒に帰ってた。今日も一緒に登校してきた。ハルくんだけ呼び捨てにする。どうして?」

 思わず絶句した。鋭い。いつもぼんやりしているようで、見ているところはちゃんと見ている。どう言い繕ったらいいのか。

 チアキはトウマのように物分りがいいヤツじゃない。ただ、絆とか仲間とか、そういう人間関係をとても大切にするヤツだ。だから下手な嘘は逆効果。ただし正直に話すこともできない。話せることと話せない内容を明確に弁別して、一つずつ説明していくしかないだろう。話せないことは素直に言えないと説明して、納得してもらうしかない。

「どうして隠すのかな、なんでちゃんと言ってくれないのかな」

「チアキ、落ち着いて聞いてくれ」

「ハルくんまでいなくなったら、わたし一人になっちゃうよー」

「別にお前を除け者になんてしない。トウマだっているだろ?」

「トウマくん、他にも女の子がいっぱいいる。でもわたしには、ハルくんとトウマくんしかいないの。一人はヤだよー」

「お前が頼めば、トウマは一緒にいてくれるさ。オレのも一過性のものだ。ずっと一緒に帰れない期間が続くわけじゃない。クニヒコだっているだろ?」

「ヤだよー、ハルくんじゃなきゃヤだよー。ハルくんがいいよー」

 チアキが上目遣いでオレを見つめてくる。濡れた瞳が、チアキの真剣さを物語っている。瞳の色に見えるのは、幼馴染を心配する友人のものではない。女の、それだ。

 オレは早鐘のように脈打つ心臓の鼓動を感じながら、どうすべきかを必死に考えた。まずチアキに事情を説明しなければならない。上手く真相をぼかしながら、話せる部分は全て話す。その上で、チアキの気持ちに向き合わなければならない。

 オレはチアキが嫌いじゃない。好きか嫌いかで言えば、好きだと断言できる。だが、女として付き合おうとか、そんな風に考えたことは一度もない。トウマの気持ちを知っている手前、そういう着想に至ることはなかった。いつかチアキはトウマと付き合うんだろうと、漠然と思っていた。

 だがエリカが転校してきたことで、オレたちの関係にヒビが入った。オレがエリカと仲良くすることで、チアキはオレが離れていってしまうことに恐れを抱いた。高校に入ってからトウマとともに過ごす時間は以前より減った。その上オレとまで一緒にいられなくなるのは、チアキにとって耐え難い状況なのだろう。それがチアキをしてこんな性急な行動に移させた。辻褄合わせの論理で考えるなら、そんなところなのだろうとオレは思う。

 でも恐らくチアキはオレにもっとその先を望んでいる。今までのような幼馴染という関係以上の緊密さを、チアキは欲している。オレはそれに対してどう答えればいい? チアキを傷つけたくはない。けれど、チアキを受け入れるという選択肢は、トウマへの裏切りにはならないのだろうか。エリカのことはどう説明する? 何をどう伝えるのが正解なのか。そして何より―――。

 オレの気持ちは、どこにある?

 混乱する頭を必死に働かせ、何とか言葉を紡ごうとしたが、上手くいかなかった。ただ無常にも時だけが流れ、答えを求めるチアキの視線が、痛いくらいにオレの胸に突き刺さる。

 いくら人の倍の経験を重ねてきても、何の役にも立ちはしない。色恋沙汰とは無縁の生活をしてきた。そもそもオレは、誰かを積極的に好きになろうとしたことがなかった。だからエリカの好意を冗談めかして遠ざけることしか出来なかった。だからチアキの気持ちに答えを出すことが出来ない。

 吸っても吸っても肺に入らない酸素を、無理やり喉に押し込めて呑み込んだ。

 邪魔が、入った。

「取り込み中かしら?」

 オレとチアキは同時に振り返った。生徒会長の土方歳子が憤然と腕を組んでいた。

「見れば判るだろ? 取り込み中だ」

「そうね。どれくらいかかる……」

「いいです。わたし、帰ります」

 チアキは会長の言葉を遮って俯くように小さく会釈をすると、足早に会長の横を通り過ぎた。だがすぐに振り返って、今まで見たことのない強い眼差しでオレを見つめると

「ゴメンね、ハルくん。明日からは、また今までどおりでいようね」

 いつもの弱々しい目に戻ってしまった。

 やりきれない気持ちになった。

 チアキは視線を逸らし、オレに背を向けた。

「わたし、負けないから」

 決然たるその声音に、オレははっとした。チアキは弱くなんてない。強いヤツだ。ならばオレもその気持ちに答えなければならない。

「チアキ!」

 叫んだ。チアキの足が、止まった。

「時間をくれ。必ず答えを出す。オレは逃げないからな」

「うん、わたしも逃げない」

 踏み出したチアキの足取りは、力強くてたくましかった。

 オレは目を閉じて頭をリセットした。切り替えなければならない。目の前の生徒会長は、オレの気持ちなど斟酌してはくれない。

「いいかしら? 痴情のもつれか何か?」

「アンタには関係ねぇよ」

「そう願いたいわ」

 会長は何の感情もこもっていない機械のような声でそう告げた。この人を相手にする時はヒートアップしてはいけない。この女は嵩に懸かってくる。

「今日の四時限目の体育、サボったそうね」

「随分と情報が早いんだな。アンタ普段なにしてんだ? オレのストーキングか?」

「どこで何をしていたの?」

「その辺でテキトーにしてたが?」

 胸のわだかまりがまだ消えていない。昂ぶりそうになる感情をオレは努めて抑えたが、言葉の端々に情感が入ってしまう。

「いいわ。あなた、転校生の神湯恵理夏さんと仲がいいそうね」

「それが何か?」

「どうして?」

「友達だからだよ」

「転校したての彼女と仲良くなる機会でもあったのかしら」

「さぁな」

「結城くんならともかく、あなたにそんな甲斐性があるようには思えないわね」

「そりゃどうも」

「なぜ仲良くなれたの? 彼女は何者?」

「まるでオレが曲者みたいな言い方だな。だからエリカも曲者ってか? 反吐が出るね」

「呼び捨てにするくらいには仲がいいようね。どうしてかしら? 彼女とどこかで会ったことでもあるのかしら?」

「ネットで知り合ったんだよ」

「そう。ネットでたまたま知り合った女性が、たまたま同じ学校に転入してくるかしら」

「神様にでも聞いてくれよ。オレの知るところじゃねぇな」

「昨日は遅くまで学校に残っていたそうね。何をしていたの?」

「別に何も」

「その後は真っ直ぐ家に?」

「さぁ? 覚えてねぇな」

「制服が破れてるわね。ハサミなんかで切ったよりもずっと鋭い切り口に見えるけど、どうしてそんな破れ方をしたのかしら?」

「オレに恨みのある誰かさんの仕業じゃねぇの? 言葉尻があんまり鋭いもんだから、服も破れちまったのかもな」

 そこまで喋って、会長は険しい目つきで凝然とオレを睨みつけた。オレは真っ向からそれを受けて、強い視線を返した。この程度の詰問に屈するほど、ヤワな鍛え方はしていない。

「最後に一つ、いいかしら」

「本当に一つならいいけどな」

「あなた、人を殺したことはあるかしら?」

 オレは思わず「はぁ?」と眉をひそめた。何を言っているんだ、この女は。

「あるわけねぇだろ。誰を殺すんだよ」

 会長は鋭い眼光を向けたまま、オレを指差した。今にも掴みかかってきそうな雰囲気だ、殺気と言い換えてもいいかもしれない。

「その言葉、忘れるな。絶対に尻尾を掴んでやる」

 言って、彼女はオレに背を向けた。誰か近しい人間でも殺されたのだろうか。それをオレがやったと勘違いしている? 馬鹿馬鹿しい。疑われるほうの身にもなって欲しいものだ。

 イマジナルでは人間同士の争いが全くなかったわけじゃない。必然、オレも兵士としてそれに加担して人を殺めたことはある。だがそれは“あっち”の話だ。“あっち”で人が死んだとしても“こっち”に影響があるとは思えない。“あっち”は飽くまで夢の世界の話だ。

 もし仮に、生徒会長土方歳子がレゾネイターだとしたらどうだろう。彼女はイマジナルで近しい人間をオレに殺された、ということになるのだろうか。それならばなぜイマジナルでオレに向かってこない。なぜリアルでオレに向かってくる。レゾネイターだけが解る言葉―――テスタメントやクルシスなどの限定的な用語―――を使用すれば、オレがレゾネイターであるかどうかなどすぐに判るだろうが、彼女はそんな質問すら投げかけては来ない。それはなぜなのか。

 だがこの考えは早計だ。まだ土方歳子がレゾネイターだと断定できたわけじゃない。こちらから手の内を明かすのは良策ではない以上、あの女に関しては様子見というスタンスが妥当だろう。

 オレはフェンスにもたれかかってしゃがみこんだ。生徒会長とやりあったオレを珍獣でも見るみたいな視線を送ってくる輩が何人もいる。知ったことじゃない。そんなことよりもチアキのことが気になった。

 次に会った時、オレはチアキと普通に話せるだろうか。チアキは今までどおりと言っていたが、本当にトウマやクニヒコに悟られることなく、平時のように笑顔で対応できるだろうか。オレはチアキの想いにどう答えるべきなんだろうか。雑多な思考が浮かんでは消え、オレの心はささくれ立った。

 今は考えるのを止そう。エリカに勘繰られるのは避けたほうがいい。アイツはアイツで、命まで狙われる脅威と戦っているのだ。オレはそのフォローをする。チアキのことは、エリカには関係のない話だ。無駄な心配をかける必要は、ない。

 オレは波打つ気持ちを落ち着かせるため、深い瞑想に入った。精神を静やかに保つこの行為は、騎士として何度も行ってきた。平静さを失った心では、戦いを制することは出来ない。オレは努めて心を無にし、エリカが来るのを待った。


 西の空が真っ赤に、東の空が濃紺に染まり始めた頃、エリカが屋上のドアを開けた。すぐにオレの姿を見つけたエリカが駆け足でやってくる。

「ハルト? どうかしましたか?」

「ん? いや、何でもねぇ」

 座り込んでいるオレを心配げに見つめるエリカの髪は、真横から差す西日を受けて爆ぜるような輝きを放った。そのあまりの美しさに、オレの鼓動がわずかに弾んだ。エリカに余計な気苦労を背負わせてはならない。オレは立ち上がってケツを叩くと、

「これからまたバトルがあるのかなと思ってさ、ガラにもなくブルっちまってただけだ」

 出来るだけ飄然とそう答えた。

「ゴメンなさい、ハルト。貴方をこんなことに巻き込んでしまって」

「いいさ。オレが選んだことだ。お前を護ることに、オレは何のためらいもねぇよ」

「ありがとう、ハルト」

 エリカはオレの手を握って「感謝します」と付け加えた。これから死地に赴こうというのだ、少しナーバスになるくらいがちょうどいい。

 下校時刻を知らせるチャイムを聞いて、オレたちは屋上を後にした。

 歩きながら、別行動を取っていた間の情報を、オレはエリカに尋ねた。

「何か進捗はあったか?」

「いいえ。人気のない校舎裏などを回ってから職員室にも足を運んでみましたが、レゾネイターと思われる人物からの接触はありませんでした。ハルトはどうです?」

 オレは一寸迷ったが、「何もなかった」と返事をした。生徒会長を知らないエリカに憶測を聞かせたところで、更なる憶測を招くだけだ。

「この後はどうしますか? 予定通り再開発地区という場所に?」

「そうしよう。人が寄りつかさなさそうな場所だと廃工場跡なんかもあるが、少しずつ確認していこう。今日は再開発地区を通って堤防沿いに出る。何もなければそのまま帰ろう」

「わかりました。参りましょう」

 エリカは毅然と背筋を伸ばし、暗くなった校舎を怖がりもせずに歩を進めた。気丈なお嬢さんだことで。

 学校を出て西に向かい、住宅街を抜けると、途端に人影がまばらになる。さらに西に向かうと、林立する寂れたビルの群れが姿を顕にする。俗に再開発地区と呼ばれる、景気がよかった頃の残滓が建ち並ぶ場所だ。一昔前は怪しげな取引なんかが頻繁に行われる場所だったらしいが、警邏の人数と回数が増えた所為で、そういった犯罪は激減したと言われている。この地区を抜けて堤防沿いに出るよりは、既存の大通りを使ったほうが早く橋に着けるので、人通りは滅多にない。ここが栄えれば橋を渡った隣町までビジネス街になったかもしれないが、景気という不可視の波にさらわれて、今は見る影もない。

 街灯も少なく、薄暗い場所だ。明るいうちは子供たちがかくれんぼをしていることもあるみたいだが、日が落ちると急激にうすら恐ろしい場所へと変貌を遂げるため、残っている子供もまずいまい。オレは周囲の気配にアンテナを立てながら、エリカの手を引いて慎重に進んだ。

 いる。

 暗い夜道に人型の穴をぽっかり開けたみたいに、さらに黒い影が一つ。

 左右にそそり立つビルの所為で、月明かりも遠い。

 影の手には長槍が、影の瞳には殺気が焔を燃やしている。

「き、昨日の―――」

「だろうな。どういうわけか、オレたちの行動は読まれているらしい。尾行された気配もなかったし、まるでオレたちがここに来ることが判ってたみたいだ」

 言って、オレは右手に気を集中させた。

 心が形を帯び、輝く粒子が縒り集まって剣を象った。

 斬護刀ドラグヴェンデルが、オレの掌で形象化する。

 剣はオレに力を与え、より感覚を鋭敏にした。

 凍えるような殺気が仄寒い。

 黒槍の戦士に言葉はない。

 オレも言葉を尽くそうとは思わなかった。

 語るべきは刃で。

 それは目が合った瞬間、オレとヤツで交わされた会話のようなものだ。

 なぜオレとエリカを狙うのか。

 なぜオレたちがここを訪れることを知っていたのか。

 そんなものは二の次だ。

 今はただ、死力を尽くす。

 それでいい。

 敵との距離は目測で十メートル。

 互いに六歩でヤツの間合いに。

 七歩目で、オレの間合いに入る。

 同時に一歩、踏み出した。

 オレは右足から、ヤツは左足から。

 軸足の到達点を予測する。

 誤れば即死。

 過たずとも一撃で。

 最初の一振りで決せなければ、長い戦いになるだろう。

 二歩目を踏み出す。

 死のにおいが濃くなった。

 どろりとした粘液の中を泳いでいるような錯覚が肌を伝う。

 底なしの沼を進むような感覚だ。

 気を抜けば泥に足を取られ、生きて這い戻ることは叶わないだろう。

 三歩目。

 灼熱の溶岩に押し戻されるような気分。

 汗が頬を伝い、雫となって地に落ちる。

 裂帛の気合で相手を押す。

 押し負ければ腰が引け、次の一歩が踏み出せなくなる。

 四歩目。

 故障した脳の代わりに、本能が死を告げる。

 一秒後に訪れる死を正確に予言し、逃げろと脳に伝達する。

 だが壊れた脳は本能の警告を受信できない。

 死ぬと解っているのに、足を前へと押し出す。

 五歩目。

 次の一歩で終わる。

 内藤春人は心の臓を突き破られ、物言わぬ躯と化す。

 黒い槍がオレの胸を穿ち、オレという人間が絶命するイメージ。

 槍の軌道が、見える。

 放たれる魔弾を回避し、更なる一歩を踏み出すイメージに上書きする。

 イメージはさらに上書きされ、斬撃が槍の柄に防がれるイメージが網膜に映る。

 その予測を正確に実現できなければ、コンマ一秒後に死ぬ。

 心象世界は加速し、スローで後を追うように槍《現実》が軌跡をなぞる、そして―――。

 六歩目を踏み出した。

 放たれる刃は黒い閃光だ。

 それが光である限り、ヒトの身では絶対に回避できない不可避の一撃。

 着弾まであとゼロ秒。

 躰を捻った。

 黒い光がオレの胸を撫で、肋骨を削っていく。

 掬い上げるように剣を振り上げた。

 七歩目は踏み出せない。体勢が悪すぎる。

 だが腕を斬り落とす。それでチェックメイトだ。

 爆ぜた。

 金属が激しく擦れ合う甲高い音がビルの谷間を反響する。

 マズルフラッシュのような閃光が辺りを照らし、消えた。

 剣を柄を両手で持ち、持ち上げた刃を全力で振り下ろした。

 飛び散る火花が闇を彩り、両腕に走る振動が、己の一撃が敵に防がれたことを伝えてくる。

 黒い光線が眉間を穿つイメージが目に映る。

 剣を薙いでイメージの軌跡に合わせた。

 光線は屈折し、オレの髪の毛をわずかに散らした。

 逸れた刃が、さながらホーミング弾のように再びオレの額へと戻ってくる。

 腰を落とし、槍を通過させる。

 槍先が目の前に迫っていた。

 剣で弾いた。

 三発、四発、五発。

 弾き、躱し、弾いた。

 もう一歩、もう一歩を踏み出せれば、槍の間合いから外れることが出来る。

 一メートルにも満たないその距離が、その一歩が、果てしなく長く遠い。

 槍の間合いで戦っている以上、剣士に勝ち目はない。

 斬撃は届かず、一方的に攻撃される。

 次弾までの間隔が短すぎて、次の手を打てない。

 肉を切らせてでも、骨を断ちにいくしかない。

 だが放たれる魔槍は全てが必殺。

 切らせる肉が心の臓では意味がない。

 躱しきれない刃の弾丸が、腕を、首を、腹を掠めていく。

 血潮が吹き出、肉が飛び散り、命が削り取られていく。

 躱しても弾いても降り注ぐ鋼鉄の雨が、逃れられない死を予告する。

 逃れられないにもかかわらず、オレの脳は前に進めと命令を下す。

 咆えた。

 黒い刃が肩を穿ち、鎖骨を削り取っていく。

 七歩目を踏み出した。

 剣戟を瀑布のごとく振り下ろした。

 刃が、空を切る。

 躱された。

 敵は大きく後ろに飛び退いた。

 着地した槍術士の眼差しが、ゆらりとオレを捉える。

 眼光から放たれる敵意は少しも衰えていない。

 気炎をあげてそれを睨み返した。

 底冷えのする夜気の中、視線だけが燃え上がるように交錯する。

 仕切りなおしだ。

 ゆっくりと呼気を吐き出した。

 全身から吹き出る汗が、湯気を立てて宵闇に霞んでいく。

 敵は動かず、オレも動かない。

 中空で気がぶつかり、交じり、弾けた。

 一発でも直撃を浴びれば、それで終わる。

 その緊張感が、オレの神経を極限まで研ぎ澄ました。

 ドラグヴェンデルを装備してもなお、速度ではヤツに分がある。

 紙一重で回避してカウンターを入れるというのがオレの戦い方だ。

 だがヤツの槍撃は躱した瞬間に次弾を放っている。

 その間断のない嵐のような突きで相手を仕留めるのがヤツのスタイルだ。

 朧に動きを読める、程度のアドバンテージは無いに等しい。

 一撃で、勝敗は決する。

 どれだけ浅手を受けようとも構わない。

 ただの一振り、ただの一刀を当てることに全神経を注ぐ。

 そう、思い定めた。

 剣の柄を握り締めた。

 滴る汗は腕を伝って手の平に落ちる前に蒸発する。

 肚の底から湧き出る熱が止まらない。

 それを全て、眼前の標的に向けた。

 交じり合う気迫が空中で溶けて、爆ぜた。

 バチバチと音を立てて弾ける気の奔流が、目に見えるほどの熱い耀いを放つ。

 濃い死のにおいが、陽炎のように揺らめいた。

 まだ、早い。

 冷たい夜気が星空に逃げ、ビルの谷間にこもった熱気がコンクリートを圧迫する。

 熱気は圧力を増し、呼吸するのも困難なほどの濃度になった。

 ゆっくりと、時が満ちていくのが、解る。

 機を過てば即死。

 それは理屈などではなく、波のようなものだ。

 ヤツの波とオレの波が重なる時、全てが終わる。

 汗が頬を伝い、あごから滴り落ちた。

 荒くなりそうな呼吸を鎮め、不規則に脈打つ鼓動を落ち着かせた。

 まだ、時は満ちない。

 だがそう遠くはない。

 音が、消えた。

 凄絶な静けさの中、ヤツとの間合いを測った。

 余分な視覚情報が消え、ヤツとオレとの間にある全てが明瞭な線を帯びて浮かび上がる。

 覆面の向こうのヤツの顔が、なぜか見えた。

 殺意の奥に潜む悲愴が、瞳の中で揺れていた。

 だが迷いはない。無論こちらも迷わない。

 急迫する緊張の波が鎌首をもたげ、そして―――。

 ヤツのそれにぴたりと重なった。

 ヤツが咆えた。

 オレが哮えた。

 消えた音は耳には届かず、直に心に響いた。

 放たれる魔槍の閃光が正確にオレの心臓を捉える。

 肩を上げ、体位をずらした。

 胸を貫くイメージは払拭され、漆黒の光線がオレの脇を滑るようにすり抜ける。

 手にした剣を水平に振り払った。

 ヤツの首が跳ね、宙を舞うイメージが脳裏に浮かんだ。

 首は、飛ばなかった。

 オレの刃は、ヤツの首元でミリにも満たない空隙を隔て制止した。

 空間を圧迫していた熱は失せ、冷たい夜気が霧雨のように舞い降りた。

 途端に呼吸が、荒くなった。

 足りない酸素を補充したいと急かす肺に、目いっぱい冷気を送り込んだ。

 黒衣の槍術士が膝を突く。

 殺せという意思表示だ。

 オレは首を振った。

「もういいだろ。オレにはお前は殺せねぇよ、トウマ」

 覆面の結び目を刃で弾いた。

 はらりと落ちる黒い布の向こうにあるのは、悄然とした結城冬馬の顔だった。

 トウマは自嘲気味に口元を緩め、力のない目でオレを見上げた。

「なんで、判った?」

「あぁ? 何となくだよ」

「はッ、お前らしいな」

「もっともらしい理屈をつければ、お前は詮索しすぎた。エリカのことやオレの所在、普段のお前なら聞かねぇよな。オレもお前がどこに行くかなんて気にしねぇし、それに」

 オレは小さく溜息をついた。

「脇腹の傷、昨日オレに受けたものだろ? その傷がなければ、死んでいたのはオレのほうだ」

「こんなもんハンデでも何でもねぇよ。体調は万全だったさ」

「じゃ、なんで体育をサボろうなんて言い出したんだ?」

「お前が痛んでるだろうと思ってな」

「言ってくれるぜ」

「実際この傷はバトルの時は気にならなかったよ。負けた言い訳にはしねぇ」

 風が、通り抜けた。

 冷たい秋の風が、汗ばんだ躰を冷やしてくれた。

 心地よい、乾いた風だった。

「聞いてもいいか? なんでだ?」

 見上げた夜空には、薄い雲がかかっていた。星の光は目には届かず、何もない藍色がくたびれたコンクリートに縁取られ、窮屈そうにオレたちを見下ろしていた。

「お前の制服の襟首んトコ、触ってみろよ」

「あん?」

 言われて、制服のカラーを指でなぞった。見覚えのない突起が指先に掛かる。

「何だこれ? 盗聴器?」

「それでチアキとの会話を聞いた。だから覚悟を決めた」

「そうか」

 不思議とトウマを責める気にはならなかった。ただ、この男がここまで追い詰められていたことに気付けなかった己を恥じた。

「昨日は確かめるだけだった。だが今日はマジだった」

「いい。気にしないことにするわ」

「またお前を殺しにいくぜ?」

「何度でも来いよ。返り討ちにしてやる」

 トウマはくぐもった笑みを漏らした。嘲笑うというよりは、諦めの情感が強い笑みだ。

「はッ。勝てねぇわけだ」

 くつくつと、お互いに笑った。

 普通はどうなんだろうと、ふと思った。殺そうとしてきた幼馴染と、こんな風に笑い合えるものなのか。多分オレがおかしいんだろうなと、そう思った。

「さて、いろいろ聞きたいことがあるんだが、お前の後ろにいるのは知り合いか、それとも敵か?」

 トウマの振り向いた先にいたのは、覆面を被った連中だった。数は四人。気配の消し方をよく心得ている、手練れだ。夜の闇の溶け込むような黒い装束は、トウマのものとよく似ていた。

「知り合い、だな。俺の後ろ盾だ」

 オレはドラグヴェンデルを握り締めたまま、覆面の奥に潜む眼差しに目を向けた。

「初めまして、内藤春人くん。それに神湯恵理夏さん」

 人間の声ではなかった。ボイスチェンジャーを使っている。元がどんな声なのか、男なのか女なのかさえ判別できない。

「我々はリアルでの素性を知られることを警戒している。このような形で対談することを、まずは詫びさせて欲しい」

 喋っているのは左から二番目の、背の高い男だった。断定は出来ないが、少し腹の突き出た体型から三十代、あるいは四十代前後の男だと推察できた。

「詫びるくらいな覆面とれよ。そのナリで警戒するなってほうが無理だぜ」

「申し訳ないが、我々は味方同士で会う時も必ずこうしている」

「じゃあオレはもう味方にはなれねぇなぁ」

「そんなことはない。それをこれからの話し合いで解決したいと思って、こうして話をしにきた」

 オレはちらりと後ろを窺った。こちらのリーダーはエリカだ。話し合いをするならエリカがするべきだが、エリカを前面に押し出すのはためらわれた。トウマが覆面の側につくと、二対五での戦闘になる。しかもエリカはサポート要因だ。向こうの能力が判然としない以上、迂闊な真似は出来ない。オレはエリカを護らなければならないからだ。

 エリカはオレの視線に頷いて、一歩オレの前に出た。

「ありがとう、ハルト。傷は後で治します。もう少し我慢して」

 そんな耳打ちをして、エリカは毅然とした眼差しを覆面に向けた。

 痛みは我慢できるが、能力が相手に割れることは避けるべきだ。オレの武器の性質、身体強化型だという事実と剣の形状はすでに敵方に知られてしまった。これ以上の情報漏出は何としても避けなければならない。

「初めまして、ではないかしら。以前にお会いしましたね。改めてお名前を伺ってもよろしいかしら?」

 エリカの美しい弦楽器のような声が、ビルとビルの間を木霊し、きれいな残響を落とした。敵を目の前にしても、彼女の声色に動揺はない。

「我々はリアルでの素性を秘匿している。私がナンバーゼロ。いま内藤くんと戦闘を行った彼が、ナンバーフォーだ」

「では、取引をしましょう」

 エリカの言葉に、オレは驚いた。いきなり何を言い出すんだろう。まずは話し合いをして情報を交換するのが先決だ。それは先方も同じだろう。突然の申し出に驚きを隠しきれない覆面を見て、エリカは薄笑みを口元に張りつかせたまま、言葉を繋いだ。

「取引?」

「えぇ。彼―――そちらのナンバーフォーを貸していただけませんか? その代わり、彼をそちらから借り受けている間、こちらの情報を無条件で提示しましょう。そちらが敵視しているレゾネイターの情報も、手に入り次第お教えします」

 覆面の所為で表情こそ読めないが、ナンバーゼロは明らかに言葉に詰まっていた。どう答えるべきか、判断に迷っているのだろう。対するエリカは典雅に目を細めたまま、小首を傾げて先方の回答を待っている。緊張や動揺はまったく見受けられない。

「それは困る。彼は貴重な戦力だ」

「では交渉決裂ですね。貴方はナンバーフォーが一人で入手できる情報と、彼を含めた我々三人で入手できる情報量に大差がないと判断をしたのでしょう? 今現在、大規模な戦闘は行われていません。些細な小競り合いでの戦力よりも、お互いの情報収集を優先すべきかと考えての提案でしたが」

「あなたは我々の勧誘を拒んでいる。信用できない」

「覆面をした人間に夜道で声をかけられて、何を信用しろと仰るのです? 今はこうしてわたくしを護ってくれる方が傍らにいるから、安心して話を出来るのです。わたくしに信用を求めるのなら、まずはそちらが覆面を取り払って対談に臨むべきでは?」

「顔は明かせない。これは我々チームの取り決めだ」

「ですから、譲歩しようと申し上げているのです。そちらが覆面を外さないことにも、名前を開示しないことにも異論は挟みません。こちらも人手が不足しています。二人しかいない現状での戦闘は避けたいところです。情報収集を優先すべき今、そちらにも有益な提案かと思うのですが」

 ナンバーゼロは考え込む素振りを見せ、トウマに視線を移した。

「ナンバーフォー、君は彼らと行動を共にすることに異論はあるか?」

「……考えさせてください。明日までには、結論を出します」

「結構。神湯恵理夏、明日の夕刻、ここで落ち合うことにしよう」

 エリカはにこやかに微笑んで、同意を示した。

「わかりました。それでは、明日」

 言って、エリカは振り返った。もう話はないと言わんばかりの態度だ。

「待って欲しい。一つだけ確認したい」

 ナンバーゼロの呼びかけに、エリカは足を止めて振り向いた。

「何か?」

「昨日の晩のことだ。我々はイマジナルに飛び立つことがなかった。メンバー全員がだ。そちらでも同様の現象は確認できているか?」

「はい。わたくしもハルトもイマジナルを訪れることはありませんでした」

「それを疑問に思わなかったのか?」

「再現性のない現象であれば、偶然と判断することにしました。ですから、本日の夜も同じ現象を確認できれば、その段階で調査を開始するというのが我々の見解です」

「そうか、情報提供に感謝する」

 ナンバーゼロが振り返るのと同時に、覆面の連中は高速で走り去っていった。

 残ったのは宵闇と、痛いくらいの静けさだけだ。

 エリカはオレを向いて、肩や首の傷をそっと撫でた。先ほどまでの毅然とした眼差しは消え失せ、心配げに眉を八の字に曲げてオレを見つめてくる。

「ハルト、ゴメンなさい。待たせてしまって」

「ッつぅ! 触るな。別にこのくらい我慢できるさ」

 両手を前に突き出し、意識を集中させるエリカの掌に、光を帯びたクルシスが形象化した。現出した聖杖グレイルの先端をオレの傷口に向け、エリカは目を閉じて光の粒子を集束させる。途切れた肉と肉、削れた骨が元の形を取り戻していく。何度やってもらっても気色の悪い感覚だ。回復魔法ってもっと気持ちのいいものなんじゃないだろうか。治してもらっているので文句は言えないが。

 オレの傷を治癒し終えると、エリカはトウマにも杖の先端を向けた。

「な、何だ、それは?」

「エリカのクルシスだよ。傷を癒す現象惹起系だ」

「何だよそれ、反則じゃねぇか」

 脇腹の傷が癒えていく感触に、トウマは顔をしかめた。想像していたものと違ったからだろう。この感触は、言葉では形容しにくい。

 エリカは「ふぅ」と一息ついて、額を腕で拭った。別に汗をかいている様子はなかったが、気分的なものだろう。

「いいのか? 俺はまだ同盟を組むと言ったわけじゃないぜ」

「あら、結城くんは親友のハルトよりもあの得体の知れない方々を優先するのですか?」

「そういうわけじゃないさ。ただ、さっきまで俺たちはマジで戦りあってたんだ。そう簡単に気持ちの整理をつけられるほど、俺は出来た人間じゃない」

 トウマの言葉に、エリカは思案げに視線を落として答えた。

「先ほど浅井さんについて何か仰っていましたよね」

「アンタには関係のない話さ」

「いいえ。仮説を立ててみました。結城くんは浅井さんのことが好きなのでしょう?」

「……言いにくいことをストレートに言える人だな、神湯さんは」

「仮説です。結城くんの浅井さんに対する気遣いと眼差しから、予想してみました」

 昼休みの屋上でのことだろう。トウマはチアキに場所を譲りながら、かつ自分の隣に来るように誘導していた。そして、さっきのオレとの会話。この二つからそんな仮説を立てたというところか。

「詳しくはわかりませんが、ハルトと浅井さんの会話を聞いた結城くんは、二人の関係を危惧した、ということでしょう? でしたら心配ありません。だって」

 エリカはオレの首に腕を巻いて、頬にキスをした。

「なっ!? ちょっ! おまっ!」

「わたくしとハルトはこういう関係ですから」

「ちょっと待て、いつからそんな話になった?」

「浮気したら、許さないぞっ☆」

「ブッ殺すぞテメェ」

 エリカはオレの頬を両手で挟み、艶っぽい瞳で言葉を続ける。

「昨日わたくしの家に泊まっていったのはどなたでした?」

「何もしてない、オレは何もしてないぞ、トウマ」

「わたくしを強引にバスルームに連れていきましたよね?」

「事実ではあるが意味合いが違う。お前、意図的におかしな方向に誘導してるだろ」

「ベッドでわたくしの肩を掴んで、何度も名前を呼んでくれました」

「テメェ、覚えてやがったのか」

 エリカは悪戯っぽい笑顔で流し目を作って、つんとオレの頬を指でつついた。イラッときた。

 そんなオレたちの様子を見ていたトウマが、自嘲的に呟いた。

「仲がいいんだな、二人は」

「はい。ですから、結城くんの懸念は杞憂です。そして貴方はもっと積極的に浅井さんにアタックすべきです」

「これでもそれらしいことを囁いてはいるんだけどな」

「浅井さんのような控えめな女性には、もっと強引に行くべきです。腕を引っ張って強引に唇を奪えばいいんですよ」

「そ、そこまでは出来ねぇよ」

「それくらいの態度で引っ張ってあげればいいのです。古今東西オンナはオトコの強引さに弱いものですから。ねぇ、ハルト?」

「なんでそこでオレに話を振るんだよ。オレがいつ強引に迫ったよ。そもそも前提が間違ってんだよ」

 オレのぼやきに、トウマはくつくつと笑いを立てた。釣られてオレの頬も緩む。

「意外だな。神湯さんって、そういうキャラだったんだ」

「あぁ、最初はオレも戸惑ったさ」

「だが早速シリに敷かれてるじゃねぇか」

「ちっげぇーよ。これでも手を焼いてるんだよ。何なら代わるか?」

「遠慮しておく」

 言って、オレたちは声を上げて笑った。やっぱりトウマと話している時が、何と言うか一番しっくり来る。コイツはオレの親友だ。いろいろ解決しなきゃいけない問題もあるが、今はコイツの友でありたいと、そう思った。


 オレたちの家宅は再開発地区とは違う方向にあるので、一度学校に戻ることにした。学校から迂回して少し大きめの通りに出たところで、エリカが提案してきた。

「それじゃあ今からハルトと結城くんの家に行きましょう」

「あぁ? なんでだよ。お前んチに行くんじゃねぇのかよ」

「はい。ですから、着替えを持ってきてください」

 なるほどなと、オレは頷いた。トウマは首を傾げて訝しげな顔をしている。

「神湯さんの家に泊まるのかい? 聞いてないぜ」

「オレはともかく、エリカは戦闘向きのレゾネイターじゃない。オレもお前も一人で生き永らえることくらいできるだろうけど、エリカは無理だ」

「そうか。俺も泊まるのか? ハルト一人で充分だろ」

「オレもそう思う。だが、お前にも来て欲しい。貞操がヤバいんだ」

「結城くんはこのまま帰ってくれても構いませんよ。ですが、たぶん一緒に来ていただけるだろうと思って提案しました」

 エリカの涼やかな笑みを見て、トウマは苦笑した。

「なるほど。いろいろ間違いがあるとマズいもんな」

「はい。わたくしとハルトが間違いに及んでいる最中に襲われると危険なので、その間の護衛を」

「そっちの護衛かよそんな心配いらねぇよ間違いなんて起こらねぇよ」

 オレのツッコミを聞いて、トウマの苦笑に溜息が混じった。

「だんだん神湯さんのキャラが掴めてきたよ。いいよ、どうせいろいろ話さなきゃならないこともあるし、ご相伴に預かるさ」

「すまんな。恩に着る」

「クニヒコも呼べると面白いんだけどな。アイツはマジ笑えるし」

「クニヒコ? 誰です?」

 エリカは頭の上にはてなマークを浮かべながら首を傾げた。本気で憶えてないんだろうか。だとしたらかなりの剛の者だ、クニヒコがな。

「昼休みに話しただろ? 比較的あたらしいほうのお友達だよ」

 エリカはやはり頭の上にはてなマークを三つほど浮かべながら、にこやかに微笑んだ。コイツ、本気で憶えてないんだ。不要な情報を消去できるって、すごい。

 オレたちは各々の家に戻り、着替えと雑多な日用品を持って再びエリカと合流した。お袋にはしばらく泊り込みで作業するから戻らないとだけ伝えておいた。うちのお袋は理解のある親で助かる。一日に一度は必ず連絡を入れることを条件に、許可してくれた。手荷物は小さめのナップサックひとつで充分だ。トウマも似たようなものだった。

 エリカのマンションに上がったトウマの一言目は「広い」だった。道中でエリカが一人暮らしをしていると話していたので、学生の一人部屋にしては格段の広さだと思ったのだろう。オレも同意する。2LDKの高級マンションなんて、四人家族で住むレベルの部屋だ。

 エリカの部屋に生活観が感じられないことを訝ったトウマは「物が少なくない?」と尋ねたが、エリカは「仮宿ですから」と澄ました顔で返した。仮宿なら六畳一間で充分だろうと思ったが、金持ちにそんなことを言っても無駄だろうと思い直した。

 行きがけにスーパーで購った食材で軽い夕食を作ってもらい、オレたちはその間にシャワーを借りて一日の汚れを落とした。エリカの作るパスタは存外に上手で、バジルの風味が漂うトマトソースは思わずおかわりしたくなるほどだった(ちなみにオレはトマトソースのスパゲッティなど食したことがなかった。トマトソースってナポリタンのことじゃないかと本気で思っていたくらいだ)。

 食後、エリカのシャワータイムが終わるのを待って、今後の話し合いをすることにした。風呂上りのエリカは異様に色っぽかったが、努めて気にしないようにした。変な気を起こしてもエリカはきっと拒まないだろうが、トウマの前でそんなことをする気にはなれない。トウマはこの手のシチュエーションに慣れているのか、特段に動揺した素振りを見せなかったのがちょっとムカついた。

「では、現状の把握と今後の方針を話し合いましょう。まず、結城くんの所属するチームの情報について教えてもらえるかしら?」

「それって裏切りになるんじゃないのか?」

「はい。裏切ってください」

 この女、可愛い顔してとんでもないことを仰るヤツだな。トウマも驚いたような呆れたような顔でオレに視線を遣してくる。

「思うのですが、結城くんはあのチームに大きな思い入れはないはずですよね。恐らく加入してから間もないはず」

「まぁそうなんだが、どうして判る?」

「チームの長なら、古参のメンバーを貸したりはしません。相互に協力をするという形を取るでしょう。恐らくナンバーゼロの方は、はじめはわたくしたちをあちらのチームに勧誘するつもりだったと思います」

 だろうなと、オレは相槌を打った。

「わたくしは彼らに対話の主導権を握られる前に、こちらから交渉を仕掛けました。人数において絶対的に有利な彼らの言いなりになることを阻止するための防護策です。ナンバーゼロから始まって五人目のナンバーフォーである結城くんは、彼らの中で最も新しいメンバーだというのはすぐに判りますよね」

 オレもトウマも、エリカの弁に頷いた。

「そして、彼らがチームを結成したのは恐らくイマジナルにおいてテスタメントが失われた後だと、わたくしは考えました。それはつまり、“こちら”の世界でクルシスを召喚できることを知った彼らが、同じことを出来る人間を探し始めたということです」

「つまり、どんなに長くても二ヶ月くらいの若いチームだってことだよな。であれば、ヤツらの結束はそんなに強いものじゃない。その若いチームで最も新しいメンバーであるところのトウマなら、まだ加入したばかりだと判断してもおかしくはないわけだ」

「はい、仮説ではありましたが、ああやって実際にリアルの世界で徒党を組むには、どうしても“こちら”の世界で実証できるクルシスが必要だと思いますから、テスタメントが“こちら”に来た後の話だと、確信はしていました」

「そんな加入したての俺だからこそ、裏切られる危険性も考慮に入れた上で、神湯さんの取引に応じたわけだ」

「恐らくは。あるいは結城くんごとわたくしたちを取り込む算段だったのかもしれませんが、そこまではわかりません。いずれにせよ、わたくしは彼らにカマをかけただけです。彼らはそれに乗っかった。それほど頭のいい人物ではなさそうです」

「お前みたいに弁の立つヤツが大勢いたら、世界の紛争は全部ディベートでカタが着くんだろうぜ。話の進め方があざとすぎる」

「あら、どうしてかしら?」

「向こうにも利益があるような話をしながら、後で落ち着いて考えるとこっちの利益にしかならねぇだろ。特に話の切り方。あれ絶対わざとだよな?」

「わかりました?」

「ったりめぇだ。昨夜イマジナルに行けなかったことを向こうから質問させるための外連だろ? 向こうに質問させ、それに答えることで恩を売ったという形を、お前は取ったわけだ。やり方がえげつねぇのな」

 そしてよしんば“イマジナル”についての話題が出ないのであれば、それはオレとエリカに限った現象だと判断する材料になる。レゾネイターにとってイマジナルは第二の故郷。そこへの道が閉ざされたのなら、同郷の士に道について尋ねるのは当然の理だ。もし先方がその話題を持ち出さないのであれば、彼らに同じ現象が起きていないのであろうことは十二分に推察できる。

「ああいう話の仕方、ハルトは嫌いかしら?」

 エリカの窺うような上目遣いの目線に、オレは肩を竦めて返した。

「いや、実は好きなんだけど」

「そう、よかった。ハルトに嫌われたらどうしようかと、内心ドキドキしてました」

 エリカがわざとらしい笑みを浮かべてぺろりと舌を出すと

「聞きたいんだけど、どうして向こうの利益にならない取引なんだ? 俺を神湯さんに貸して、見返りに情報を得るっていうなら、互いに利益になるんじゃねぇの?」

 トウマがもっともな疑問を呈してきた。実直なトウマらしい意見だ。

「そんなのは簡単だよ。お前を借りるだけ借りて、情報は提供しなきゃいいじゃねぇか。デタラメをでっち上げることだって出来る。金銭のやり取りじゃないんだ、情報なんていくらでも操作できるだろ」

 オレの回答に、トウマは今度こそ本当に呆れ顔で顔を引きつらせた。

「ハルトらしいっちゃらしいんだが、それを神湯さんが仕掛けたってのが驚きだ。お前ら、似たもの同士だよ、ほんと」

 自嘲気味に溜息を漏らすと、ぬるくなったコーヒーに口をつけて、トウマは言葉を繋いだ。

「俺さ、実を言うと迷ってるんだ。お前らに協力することに」

「どうしてです?」

「だってさ、俺さっきまでハルトのこと殺そうとしてたんだぜ、本気で。なのに手のひら返してお前らに協力するなんて、その……正直よくわかんねぇ」

 トウマは両手で頭を抱えて項垂れた。気持ちは、解らなくはない。

「一時とはいえ、俺はダチを手に掛けようとしたんだ。それに俺は、神湯さんまで殺そうとしてる」

「違うだろ、トウマ。お前はエリカに関しては殺そうとはしなかった。だって、一昨日オレがクルシスを召喚する前なら、本当はもっと一瞬でオレたちを殺せたよな。でもお前はそうはしなかった。単に脅しただけ、だろ?」

「そんなのは言い訳だ」

「さっきも言ったはずだぜ? オレを殺したいならいつでも来いよ。返り討ちにしてやるけどな」

 トウマは答えない。眉間のしわが、彼の苦悩を物語っている。オレは明るい表情で、トウマの肩を叩いた。

「とりあえずでいい。力を貸してくれ」

 わずかに顔を傾けて、トウマは視線だけをオレに向けた。オレも目を逸らしたりはしない。これはオレの本心だからだ。

「お前はそれでいいのか?」

「あぁ。オレたちは刃を交えた。そしてオレもお前も生きている。だから、それでいい」

 トウマはやれやれといった体で口の端を吊り上げた。

「少年漫画のノリかよ」

「いいだろ? 少年漫画。オレは嫌いじゃないぜ」

 言って、オレたちは拳を合わせた。ガキの頃、何かの漫画かドラマで見た親友同士の握手みたいなものだ。今はもう、オレたちのサインになっている。

「やっぱお前は最高だ、ハルト」

「よせよ、気持ちわりぃ。ガラじゃねぇんだよ」

「はい。気持ち悪いのでヤメてください」

 エリカが口元に高雅な笑みを張りつかせたまま、軽やかな声で目を細めた。完全に蚊帳の外に置かれてご立腹なのだろうか。トウマが気まずそうに咳払いをして誤魔化しに入るが、エリカの追撃はやまない。

「ハルト。確かに恋愛は個人の自由ですが、この国では同姓間の結婚は認められていません」

「ちげぇーよ、なんでそっち方面に考えんだよ、アツい友情のシーンだろうが」

「非生産的な行為に及ぶ情熱がおありでしたら、是非わたくしに注ぎ込んでください。浮気したら許さないぞっ☆と先ほど申し上げたばかりです」

「細部まで再現すんじゃねぇよ☆マークとか要らねぇよ変な邪推すんじゃねぇよ」

「なにやら危険な香りがしましたので、つい……。結城くん」

「あ、あぁ。何だ?」

「ハルトは渡しません!」

「こっちで変な三角関係が出来ちゃったぁー!」

 なんてやり取りをしながら、オレたちの夜は更けていった。


「いやいやいや、まだ大事な話が終わってないぞ。今後の方針とかまるで話し合ってないじゃないか」

 その通りだ。まだ話は終わっていないぞ(キリがよかったからつい場面転換してしまった。ゴメンね、読者のみんな達)。

「そう言えばそうでした。話し合いを続けましょう」

 トウマのツッコミに、エリカは恬然といつものスマイルで答えた。こんなに笑顔をまんまで、表情筋とか疲れねぇのかな。

「まずは結城くんから覆面チームの情報を得るところで話がストップしていましたね」

「全く進んでいないということだな」

「よろしいかしら、結城くん?」

 トウマは呼気を吐いて肩を小さく竦めた。異論はないようだ。

「俺も新参だから詳しいことはあまり知らないんだ。俺を除くとメンバーは四人。目的はテスタメントの捜索、および確保みたいだ」

「確保? イマジナルに移送するんじゃないのか?」

「そんな話は聞いていないな。彼らはテスタメントによる恩恵を“こっち”の世界で活かすのが最終目的らしいが、どうも敵対する勢力がテスタメントの破壊を目論んでいるらしいんだ」

「全く意味が解らねぇな。エリカ、覆面チームは過激派なのか? 調和派なのか?」

「彼らは過激派、ということになります。彼らはクルシスの能力を使って“こちら”の世界で活動しようとしているようですから。過激派と調和派という言葉は飽くまでわたくしが便宜的にそう区別しただけですから、言葉のニュアンスから調和派が友好的だという解釈は止してください」

「すると、調和派はテスタメントを破壊しようとしているってことか。なるほど、テスタメントを“こっち”の世界から放逐することで、調和を取り戻そうとしている連中のことを“調和派”と呼称しているわけだな」

「その通りです。そして過激派の方々の真の目的は、テスタメントを確保した後にあるでしょう」

「だろうな。クルシスは“武器”だからな。武器の使い道っつったら、殺しとか戦争くらいしかねぇ」

「つまり、武力を堅持および利用するための確保。調和派からテスタメントを守り、調和派を撃滅することで、己が利得の基盤を磐石のものとする、ということでしょう」

 もし仮に現代における戦場でクルシスを召喚できるレゾネイターが投入された場合、どうなるか。所持するクルシスにも依るが、脅威的な戦術兵器になるだろう。彼らは武器を持たずに戦場を駆け回り、自在に武器を出したりしまったり出来るわけだ。しかも身体能力も高く、現代兵器では実現できない魔法という神秘を体現できる。戦場以外でも特殊部隊やテロ組織などに歓迎される存在であることに違いはない。

「ってことは、待てよ。過激派はテスタメントを持っていないのか」

「結城くんの話が真実であれば、そうなります」

「俺は嘘なんて吐いてない」

 少し不満そうに口を尖らせたトウマを、オレはやんわりと宥める。

「お前を疑っているわけじゃないさ。連中はお前に真実を話していなかった可能性がある、という話をしているだけだ」

「すると、彼らはテスタメントを持っている?」

「可能性があるな、ってことだ。だが、仮に調和派の目的がテスタメントの破壊だとすると、調和派の連中がテスタメントを保有している可能性はない。破壊が目的だからな。つまり、覆面チームは本当にテスタメントを持っていないか、あるいは嘘を吐いているかってことだ」

 そこまで話して、三人とも押し黙った。推測の域を出ない情報だが、覆面チームを信用する理由が全くないことだけは判った。それを踏まえて、オレたちはどうすべきか。

「闇雲に探し回るよりは、覆面チームに探りを入れるべきだろうな」

「そうなると、俺が彼らの事情を探るしかないわけだ」

 トウマは両手を組んで、祈るように目を閉じた。なかなか難しい役どころだ。二重スパイは、よほど慎重に身を処さなければ、命まで危うい。

「結城くんは、彼らのチームでは何をしていたんです?」

 エリカの問いに、トウマは閉じていた目を開いて答えた。

「俺はハルトがもしレゾネイターなら殺せと命令されていた。あと、“他想観測サイコビジョン”能力者を探し出せ、という命令も受けていたな」

「サイコビジョン? 何だそりゃ?」

「俺も詳しくは知らないよ。他人の夢を観測できるレゾネイター、らしい」

「全く想像が出来んな。どんな能力だ?」

「イマジナルの原点とも言うべき、イマジナルの創生者らしい」

 何とも大仰な能力者だ。よほど特異な能力なのだろう。一度ぜひ立ち会ってみたいものだが、未知の能力者ほど恐ろしいものはない。オレは思わず生唾を飲み込んだ。

「恐らくこういうことです」

 と、エリカが容喙してきた。オレとトウマは、彼女に視線を移す。

「イマジナルは元々は誰かの夢の世界ですが、それを別の誰かが観測したことで形を帯びたと、以前に説明しました。憶えてます?」

「あぁ、そんなことを言ってたな」

「その“別の誰か”がサイコビジョン能力者なのでしょう。つまり、その“別の誰か”が存在しなければ、イマジナルという世界が形を帯びて世界に顕現することはなかった」

「なるほど。他人の夢を覗き見できるヤツってことだな」

「おざなりな言い方をしてしまえば、そんなところでしょう」

「イマジナルの創生者ね。そういうことか」

「だからこそ、そのサイコビジョン能力者がテスタメントを持っているのではないか、というのが彼らの考えだ」

 トウマの弁にオレは頷いた。確然たる情報ではないが、闇雲に探し回るよりはずっといいだろう。そいつがイマジナルの大元だというなら、魔法クルシスの淵源たるテスタメントを持っていたとしてもおかしくはない。

 もし仮に過激派の連中がテスタメントを保有していた場合、サイコビジョン能力者を探す理由は何かあるのだろうか。イマジナルの創生者というくらいだから、何らかの利用価値はあるのだろうが、ちょっと想像できない。

「サイコビジョン能力者については置いておきましょう。論議しても答えは出ないと思います」

「そうだな。ヤツらが探してるんならオレたちも探す、くらいでいいだろう」

 エリカの提案に、オレは同意した。問題なのは、オレたちが今後どうすべきかだ。

「わたくしたちの当面の目標は、テスタメントを探すことよりも仲間を増やすことです。過激派だけではなく調和派も我々と敵対する可能性が出て来ました。過激派がテスタメントを保有しているのなら共闘できたかもしれませんが、それも怪しくなった今、新たなレゾネイターを探し出してこちらに引き入れることを考えましょう」

「探すったって、どうすんだ?」

「これを見てください」

 エリカが書棚から分厚いファイルを持ってきた。中を見ると、この町の住民が顔写真とともに一覧になっている。凄まじい情報量だ。顔写真は所々歯抜けになっているものの、警察や役所の重役でもない限りこんな個人情報の塊は入手できないはずだ。エリカの親御さんは単なる金持ち以上の人間らしい。

「この中からイマジナルで見知った顔、名前の人を探しましょう。時間はかかりますが、無意味に歩き回るよりは効果的だと思います」

 なるほど、これは気の滅入る作業だ。正直やりたくない。

「顔はともかく、名前は関係ないだろう。俺は“あっち”では全然べつの名前で呼ばれていたぜ」

「えっ? マジで?」

「あぁ、俺“あっち”ではゲオルギウスって呼ばれてたからな」

 オレの問いに、トウマは何気ない調子で答える。

「一文字しか合ってないな。全く関係がなさそうだ」

「お前は何て呼ばれてたんだ、ハルト」

「オレはナイトハルト。そっくりだろ?」

 それを聞いたトウマが目を丸くした。

「な、ナイトハルトって、あの百戦無敗のバウンサーのことか?」

「お前がどのナイトハルトのことを言っているかは知らんが、オレはそう呼ばれていた」

 トウマが珍しく驚いた様子でさらに目を見開いた。オレのことなのか、オレと同じ名前のヤツがすごかったのかは知らない。うちのクラスにも内藤は二人いるからな。たぶん別のヤツだろう。

「ってことは、神湯さんって、メルディアヌスの公女エリカ・カミーユ?」

「はい、そうです」

「なんてこった! そんな繋がりがあったのか!」

 トウマが頭を抱えて興奮し始めた。確かにエリカは有名人だ。絶世の美貌とカリスマで民衆から支持を得るお姫様だからな。大統領選にでも出馬すればぶっちぎりで当選するだろう。

「いや、驚いたよ。道理で二人は仲がいいわけだ」

「オレは単なる護衛だぜ?」

「馬鹿、お前。王族の護衛ってもっとも致死率の高い職業だろ? その中でナイトハルトっつったら、史上最若齢で護衛職に就き、全ての戦いで王女を無傷で守りきった英雄じゃねぇか。信じられねぇ」

「いや、王女にかすり傷ひとつでもを負わせた時点でクビだから。そりゃ必死になるよ」

「馬鹿馬鹿、騎士の身分でありながら王女の寵愛を一身に受ける最強の護衛だって話じゃねぇか。そのあまりの強さと忠烈さから、王女は片時も彼を離そうとしなかったとか、すげぇ有名な話だぞ」

「そうなのか、エリカ?」

「はい、そうです」

「テメぜってー本当だな? 今のトウマの話が全て真実だって言い切るんだな? オレが聞いたことのない話をお前は事実だと断言するんだな?」

 オレの詰問に、エリカは特に動じた様子もなく相変わらずの笑みを張りつかせたまま答えた。

「少なくとも『王女の寵愛を一身に……』のくだりは本当です。あとは知りません」

「すげぇ断片的じゃねぇかしかもそれお前の主観じゃねぇかお前ほんとはよく解ってねぇだろ」

「ハルトは有名人だったのですね。素晴らしいです。ならばわたくしの婿になっても異論を挟む者はいないでしょう」

「そんな話はしてねぇんだよ誰が婿に行くんだよつかテメそもそも嫁に行くつもりはねぇのかよ」

「ありません」

「ねぇのかよっ!」

 思わずツバを飛ばしてツッコんでしまった。エリカは顔の端々に付着したオレの唾液をハンカチで拭き取ると「うふっ」っと気持ちの悪い声を出して、うっとりとハンカチを眺め始めた。き、キケンなヤツだ。オレのイカれた脳をもってしても、エリカがアブないヤツだということが判る。

「ちょっとお前ら、正気を取り戻せ。いいか、名前云々はどうでもいいとして、顔は同じなはずだ。顔写真があるんだから、見覚えのある顔を探そう」

「あぁん、ハルト……」

「テメェが言いだしっぺだろうがっ! いいからやれよっ!!」

 陶然とハンカチを眺めるエリカに檄を飛ばしたが、全く効果がなかった。なんて救いようのないヤツだ。深い溜息とともに視線を横に移すと、正体を取り戻したトウマが思い出したように天を仰いだ。

「そうだ、もう一つ。レゾネイターは知り合いに多いらしいな」

「はぁ? 誰のだよ」

「レゾネイターのだよ。つまり、オレやお前はレゾネイターだから、オレやお前の知り合いに多いってことだろ」

「要するに、チアキやクニヒコってことか?」

「あと家族とか、親戚とかな。適性のない人間ってのもいるだろうけど、レゾネイターの知り合いがレゾネイターだった、ってケースが多いらしい。オレとお前のケースにも該当するし、ナンバーゼロもそう言ってた」

「すると何か? ナンバーゼロもオレたちの知り合いだって可能性があるわけだ」

「そうなるな。俺は素顔を知らないから誰だかわからねぇけど」

 確かに夢に共鳴するというくらいだ、近しい人間のほうがシンクロしやすいというのは理解できる。こんな馬鹿げた話を友人に持ちかけることには忌憚を感じるが、その線で当たってみたほうがいいかもしれない。

「とりあえず、あした何人か友達に当たってみよう。今日は寝る前まで写真集と睨めっこだけどな」

 オレはエリカの持ってきたファイルを叩いて、もう一つ溜息を落とした。

「チアキやクニヒコがってのは、考えにくいけどなぁ」

「俺も同感だ。けど、クニヒコのクルシスってのも見てみたい気はするけどな」

「アイツのクルシスはきっと鉛筆とかだぜ? ペンは剣よりつえーんだろ?」

「ティッシュとかだったら笑えるな。紙で指を切ったりできるんだぜ?」

「鼻クソを高速で飛ばすタイプのクルシスに来月の小遣い全部かけるわ」

「俺はかさぶたを剥がして投げつけるタイプに賭けるわ」

「じゃあオレやっぱ髪を全部ぬいて鞭にするタイプにしよう。生え揃うまで二発目が打てないタイプな」

「永遠に生えてこなさそうで面白いな」

 なんて話をしながら、オレたちはエリカのファイルに目を落とした。下手な辞書より分厚いそれに目を通す作業は、十分の一も進まなかった。

 後書きって書くのが結構大変だなと、今更ながらに思います。

 私のような無名の人間が書く後書きなんてきっと誰も読まないでしょうから別にいいんですけど。

 二日目のお話も楽しんでいただけたなら、幸いです。どうぞ続きもよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ