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十月一日

 三つ目の作品投稿になります。

 今回は異能力バトル小説ですが、半分はラブコメです。楽しんでいただけたら幸いです。

 ちなみに今作も舞台は2,010年当初のものとなっておりますので、スマートフォンやタブレットなどの最新機器は一切登場しません。そもそもパソコンとかも登場しません。予めご了承ください。


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 それは、世界Aが世界Bに蚕食された瞬間だった。


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 閃く銀の曲線が、眼前の獣を斬り裂いた。

 躰が鉛のように、重い。

 肩で息をしながら、辺りを見渡した。

 むせ返るような血と肉の臭気が鼻を突く。

 無数の獣の死体に混じって、いくつものヒトの躰が倒れている。

 地に伏したその躯の首筋に指先を乗せた。

 脈は、ない。

 震える心を叩き起こし、剣を杖にして立ち上がった。

 馬を失った馬車から、純白のドレスに身を包んだ麗しい姫君が舞い降りた。

 一国の王女と一介の兵士。

 血肉に塗れた原野に立っているのは二人だけだった。

 遥か遠方に聳え立つのは王城メルディアヌス。

 目的地までの道のりは、まだ長い。

「姫、ホロにお戻りください。私が幌を曳いて城までお連れいたします」

「歩きます」

「このように穢れた場所を姫に歩かせるわけには参りません。何卒」

「我が騎士ナイトハルト」

「はっ」

「わたくしは、歩くと言いました」

「―――御心のままに。先導いたします」

 ヒトに魔力を与える神の遺産“テスタメント”が失われてから二ヶ月が過ぎようとしていた。かつてはテスタメントに賦活された魔具“クルシス”を行使することでモンスターとも互角に戦うことが出来た人間だが、魔力を失った人間はモンスターに太刀打ちできなくなった。

 毎日のように襲来するモンスター。毎日のように失われていく兵士の命。

 人類が淘汰されるのは時間の問題だった。

「クルシスが使えれば―――」

「はっ」

「あなたの傷も癒してあげられるのに」

「もったいなきお言葉」

「我が騎士ナイトハルト」

「はっ」

「わたくしの、そばにいてください」

「はっ」

「そばに、いさせてください」

「―――御心のままに」


--------------------------------------------------------------------------------


「よーし、じゃあジャンケンで決めようぜ」

「出たよ、ハルトのいかさまジャンケン」

「馬鹿お前、ジャンケンっつったら万国共通の民主的な評決法だろ?」

 オレは拳を突き出してトウマたちを促したが、

「えー? ハルくんのジャンケンはズルだよー」

「生徒会長に目をつけられるほどのいかさま王ハルト氏によるいんちきジャンケンですね、わかります」

 チアキとクニヒコもオレの提案に反対した。どうやらジャンケンは民主的な方法ではないらしい。さも当然といった体でトウマも頷いている。世のなか不平等だなぁ。マイノリティはマジョリティには勝てないんだから。

「生まれてから一度もジャンケンで負けたことのない男ハルトのワンマンショーに付き合ってられるほど俺たちはヒマじゃねぇんだよ。丁半で決めようぜ」

 トウマはいつも持っているのか、ポケットからさいころを二つ取り出して机の上に置いた。この男、高校生のくせに賭博師にでもなるつもりなのだろうか。

「わたし丁」

「じゃあ、おれ半な」

「ちょっと待ってくれお前ら。これから行われるジャンケンが、オレの人生初の敗北になるかもしれないだろ? 確かにオレは奇跡的な確率でジャンケンなる公正なゲームに勝利を収め続けてきた経歴を持ってはいるが」

「俺は丁。ハルトは?」

 チアキ、クニヒコに続きトウマにまで無視された。オレの主張を受け入れてくれる心の広い友達はここにはいないらしい。

「ちぇ、わかったよ。オレも丁」

「よしっ、じゃあ昼飯調達組はクニヒコで決定な」

「なんでぇ!? 勝負はまだ始まってもいないよっ!」

 一人だけ半を選んだクニヒコは、購買でこの日の昼食を調達してくる役割に抜擢された。これが民主主義的な多数決という採決法らしい。

 十月一日。人を射殺すような夏の日差しもわずかにナリを潜め始めた衣替えの日の朝。オレたちはいつもの四人で始業のチャイムが鳴るまで下らない雑談に花を咲かせていた。衣替えといってもいきなり涼しくなるわけもなく、男連中の大半は学ランを脱ぎ、カッターシャツで騒いでいる。下着の透ける薄着を嫌う女子の中にも、セーラー服の上着を煙たがる者がいるくらいだ。要するにまだまだ暑い。

 チャイムが鳴ると、まだらに固まっていた仲良しグループも解散して各々の席に着き始めた。席に着いていないとそれだけで遅刻扱いという、酷い教師が担任だからだ。担任はいつもチャイムが鳴ってから三十秒以内に教室に現れる。

 オレはちょうど真ん中の最前列という、最も不人気な位置の席に腰を下ろして担任を待った。我らが極道教師が現れるまであと数十秒。

 違和感を感じた。

 急いで駆けてくる生徒とゆっくり歩いてくる教師に混じって、酷く静かな空気のようなものがオレのクラスに向かってきていた。

 だから何だと言われればそれまでなのだが、とにかく落ち着かない気分にさせられたことだけは確かだ。

 すぐに教室のドアが開かれた。パンチパーマに紫色のダサいサングラスを装着した極道教師が肩で風を切って教室に入ってくる。オレの目の前で立ち止まった青いジャージの中年教師は、睨み殺すような視線をクラス全員に向けた。本日も遅刻者はナシ。教室の椅子は一つを残してきれいに埋まっている。

「おはようございます、皆さん」

 しゃがれたダミ声で慇懃に朝の挨拶をする島津教諭に、オレたちは「ざーっす」と一様に挨拶を返した。島津はゴミでも眺めるみたいな視線をオレたちにぐるりと向けると

「今日から転校生がやってきます」

 予想外の言葉を発した。にわかに教室がざわめき始める。極道が来た道を戻って再度ドアを開けると、オレたちは言葉を失った。

 転校生は絶世の美少女だった。

 きっちりと着込んだセーラー服から伸びる白磁の手足は妖精のように艶めいていて、染みの一つも見当たらない。冬服の上からでも判るスタイルの良さは、男連中の生唾を無限に湧き出させる熟れた梅の実のようで、眺めているだけで背筋が緊張してしまう。そして何より、男子のみならず女子の視線さえも釘付けにする美しい金髪と碧眼は、間違いなく日本人のそれではない。すらりと伸びた鼻の稜線も、女性らしい丸みを帯びながら品を損なわない尖ったあごも、匂い立つバラのような色っぽい唇も、どれもこれも規格外。この時のクラスメイトの統一見解を述べよう。「が、ガイジンさんだぁー」だ。

「初めまして、皆様。わたくしは神湯恵理夏カミユエリカと申します。本日よりお世話になります。どうぞよしなに」

 ピアノを聴いているかのような美しい音色が、転校生の唇から奏でられた。教室がほっと溜息をつく。弦楽器のように滑らかなその声音が、聞きなれた日本語だったからだ。

 極道島津が何か転校生の紹介のようなことを喋っていたが、頭には入らなかった。オレたちなみんな、エリカという神秘に見惚れていた。

 初めて来る場所、見知らぬ生徒の群れという環境下にあって、エリカの瞳は揺らがなかった。薄笑みさえ浮かべているその表情は、ある種の余裕すら感じさせた。まるで雅に装飾された宝剣みたいだ。

 窓際の最後尾に案内されたエリカは、腰まで伸びた煌びやかなブロンドヘアーをかすかに揺らしながら、オレの目の前を通り過ぎていった。

 オレは瞠目した。

 エリカはオレの横を通り過ぎる瞬間、確かに挑発するような流し目を作って、あご先をとんとんと指で叩いて見せた。その仕草は傍から見るとどこにも違和感はなく、まるで王宮の彫刻のようにエリカという存在に馴染んでいた。

 朝のホームルームが終わり、短い休憩時間になった途端、ウンカのごとく窓際最後尾に人が集まった。もちろんお目当ては転校生のエリカだ。特に野郎どもの目の血走りようが半端じゃない。美人の転校生で、しかも金髪だ。野郎が食いつかないはずがない。

「ぐはぁ!? おぶぅ!? ぐへぇ……」

 人集りを逆行してクニヒコが弾き出されてきた。クニヒコは前日まで窓際の最後尾という特等席を独占していたのだが、予期せぬ転校生の出現で寡占市場から摘み出されてしまったようだ。顔のいたるところがヘコんでいるように見えるが、気の所為だろう。元々ヘコんでいたはずだ。

 トウマは持ち前の容姿を武器に、果敢にエリカへのアピールを行っているようだ。オレの幼馴染兼親友のトウマは学校でも一、二を争うモテ男だ。おまけに明るい性格と爽やかな空気をデフォルトで醸せる人生の勝ち組。いつからこんなに差が開いてしまったのか、考えるのも億劫だ。

「大人気だねー、神湯さん」

 人ゴミを避けて次の授業の準備をしていると、チアキが話し掛けてきた。コイツもオレの幼馴染。オレとトウマとチアキは幼稚園の頃からずっとツルんできた仲間だ。貞淑なこの女は友達を作るのがあまり上手じゃないらしく、いつもオレとトウマにくっついて行動している。イケメンのモテキャラなトウマは、実はチアキに懸想をしている。トウマのさり気ない気遣いに、チアキのまんざらでもなさそうなところを見ると、二人がくっつくのは時間の問題だろう。

 オレは肩を竦めてチアキを振り向いた。いつもより上機嫌なのか、チアキはやたらとニコニコしながらオレの隣の席に腰を下ろした。

「何だ、嬉しそうな顔をしているな。そんなに転校生が気に入ったのか?」

「んー? わかんないよー。まだ話したことないもん」

「口元が緩んでいるぞ」

「そ、そうかなー? えへへっ」

「あぁ。舌を垂らして白目を剥けばさらにイイ顔になるぞ」

「こんな感じ?」

 チアキはとても器用にアヘ顔を作って見せた。売れない三流芸人みたいで気味が悪い。

「やらなくていい、お願いだからヤメてくれ、お前の清純なイメージが崩れる」

「そーお? わたし清純かなー?」

 褒められたと解釈したチアキは、ニコニコと惜しみない笑顔をオレに振り撒いた。別に褒めてないとは今更いえまい。

「ぐふぅ」

 気持ちの悪い呻き声を出しながらクニヒコが傍に寄ってきた。本来なら最もコミュニケーションをとりやすい位置にいながら、集団社会の輪から弾き出された悲しい青年のうらぶれた姿が目に痛い。

「大変だったねー、クニヒコくん」

「あぁ。おかしいな。鬼島津がいなくなった瞬間に振り向いて話し掛けたはずなんだけど、気付いたら床に倒れていたよ、ははっ」

「エラいエラい、よしよし」

 寂しげに自嘲するクニヒコの頭をチアキが撫でてやると、クニヒコは涎が垂れそうな顔で進んで頭を差し出した。この男ほど馬鹿なヤツをオレは見たことがない。

「きゃうーん」

「きめぇんだよテメェ失せろよハゲ存在してんじゃねぇよ」

「何だよハルト。おれがうらやましいのか? 残念だが、チアキちゃんに頭を撫でてもらえるのはこのおれだけだ」

「―――はン」

「なんで鼻で笑うんだよぉ」

「別にうらやましくねぇよ。勝手にチアキとイチャついてろよ。後でトウマに睨まれても知らねぇからな」

「なんでトウマが出て来るの。アイツならエリカちゃんに猛烈アタックしてるよ?」

「トウマくん、女の子にモテるからねー。美男美女でいいカップルになるかもよー?」

 チアキは特に気にした様子もなく、ニコニコと人集りを眺めた。お前がそんなんだからトウマが気後れするんだよと、言おうと思ったがやめておいた。

「じゃ、お前がクニヒコとくっついてやれよ。そうすれば全部まるく収まるぞ」

「おええぇぇーーーーーーーーっ!」

「酷いよチアキちゃん!」

 クニヒコは涙目でチアキに訴えかけたが

「だってクニヒコくん、気持ち悪いんだもん」

「血も涙もない言い草っ!?」

 チアキはニコニコと微笑みながらボディーブローを一発。クニヒコはリアルに涙を流して突っ伏した。

「でもでも、トウマくんとクニヒコくんのカップリングも、意外にイケてるかもー」

「そんなワケねぇだろヤメてくれよ片割れがクニヒコって時点でねぇよ」

「どーしておれだけっ!?」

「トウマはあの顔だからな。ぎりぎり許容範囲だろ」

「ねー? イケメンは何をやらせてもサマになるよねー?」

「ブサメンは何をやらせてもサマにならねぇからなぁ。あぁ、お前のことな」

「言い直さなくていいよっ!」

「クニヒコくんは、生理的にちょっとキツいよねー」

「歯に衣着せてお願いだからっ!!」

 オレとチアキはいじりやすいクニヒコを散々叩いて休憩時間を終えた。

 その後も、休み時間になる度に作られる人集りに、休み時間になる度に押し潰されて弾き出されるクニヒコを、休み時間になる度にオレとチアキはいじり倒した。とても楽しかった。

「鬼ですよねっ! アンタたちっ!」

 うるせぇよ。




 オレはヒトの視線に敏感だ。視線というか、ヒトの気持ちとか態度とか雰囲気とか、とにかくそういったとても曖昧で形容しづらい情動のようなものを鋭く嗅ぎ取ることができる。トウマやクニヒコが言うように、オレはこれまでの人生で一度もジャンケンで負けたことがないのもその所為だ。

 相手の考えていることが、何となく判る。

 それは複雑な思考のようなものではなく、本当に何となくだ。

 意識して相手を注視することで、思考のベクトルのようなものがイメージできる。

 だからジャンケンのようにはじめから選択肢が三つしか用意されていない単純なゲームでなら、オレは間違いなく勝つことが出来る。トウマではないが、賭博師に向いているのはオレのほうだ。

 オレは幼いころ事故に遭った。新聞の三面記事にしか載らないような他愛のない些細な交通事故だった。その時に頭を打ったことで、オレの脳は少しだけ傷ついたらしい。今もまだ傷跡が残っている。

 人間の脳には側頭葉という部分があって、オレはその事故で側頭葉の扁桃体という部分を少しだけ損傷したらしい。扁桃体というのは不快なものや危険なものを察知する機能を持っていて、ここに異常があると危ないことを危ないと認識できなくなってしまうらしい。恐らくその所為なのだろう、オレは傍から見るとかなり危険な行為を平気でやってしまうようだ。

 扁桃体が傷ついた所為なのかどうかは知らないが、代わりにオレの脳は違う部分が異常に発達してしまったみたいだ。扁桃体と同じように側頭葉にある上側頭溝周辺皮質という部分が、普通の人間に比べてとても活発に動いているらしいことまでは、医者に聞いている。上側頭溝はヒトの視線や動きなどを認識する時に活性化する部分らしく、その周辺が常に活発に働いているオレの脳は、そういったヒトの動きを敏感に察知することに長けている。

 また、これも事故の所為なのかどうかは判らないが、オレの脳内では右脳と左脳を繋ぐバイパスのような働きを持つ脳梁という部分も異常に太いらしい。この脳梁は一般に男性よりも女性のほうが大きいらしいが、オレの脳梁は一般女性の二倍以上の大きさがあるらしく、ヒトの気持ちに共感することが得意みたいだ。オレがたまに感じる頭痛も、この太い脳梁が脳全体をわずかに圧迫していることが原因だろうと、医者は言っていた。

 小難しい話はどうでもいいだろう。要するにオレは、人より少しだけ危険に対するアンテナが弱くて、人より少しだけヒトの動きや気持ちを察する能力が高い人間だというだけの話だ。こんなものは個人差のレベルだろうと思う。銃で撃たれれば死ぬなんてちょっと考えれば判るし、泣いているヤツを見ればそいつはきっと悲しいんだろうと判断することくらい誰にだって出来る。

 問題なのは、オレはその事故以来、睡眠という概念を忘れてしまったということだ。

 医学的には眠っているらしいんだが、とにかくオレの感覚的には眠っていない。ベッドで横になって目を閉じている間、オレは違う世界で起きて活動しているからだ。

 オレはリアルの世界で眠っている間、“イマジナル”という名の世界で生活をしている。その世界でのオレは“ナイトハルト”と呼ばれ、お姫様の護衛をやっているんだ。カッコいいだろ? 騎士の称号を持ち、来る日も来る日も迫り来る凶悪なモンスターを片っ端からブッタ斬る、そんな毎日を送っている。イマジナルでは“クルシス”という魔法の武器を召喚し、武器の魔力で肉体を強化することでモンスターと戦う力を行使することが出来る。魔法で何でも出来るわけじゃないけど、モンスターを叩き斬るには充分だ。最近ちょっと問題が発生していて、いつも苦戦を強いられるのが悩みのタネだ。

 あー、待って欲しい。本を閉じるのは止してくれ。ページを破ったりゴミ箱に投げ捨てるのも勘弁だ。これから話すことはオレの妄想だとでも思ってくれて構わない。頭を打った所為で夢と現実の区別がつかなくなった哀れな男の話だと思ってくれていい。

 さて、仮に十七歳の一人の少年がいたとして、その彼の十七年分の人生というのは一体どうやって構築されてきたのだろうか。人間は眠っている間に脳内で記憶の整理を行っているらしいが、ここではそれを度外視しよう。つまり十七年分の人生というのは、十七年間のうちで覚醒して活動している時間に積み上げられてきたものだろう。夢で見た内容はよほど克明に憶えていない限り、経験値としてはカウントされまい。人生の三分の一が睡眠時間だとすると、十七歳の少年の人生経験は十七年の三分の二の時間を起きて活動していれば獲得できる計算になる。単純な引き算だ。

 もし仮に、眠っている三分の一の時間を、体感時間で三分の二と同じ長さに感じていて、その間ずっと覚醒して活動を行っていた記憶があるとするならばどうだろう。その十七歳の少年の人生経験は実に三十四年分ということにはならないだろうか。

 そう、ご名答。オレは自分の妄想世界の中で覚醒時と同じように活動し、知識と経験を積み重ねてきた。正確には事故に遭ってからの計算だから、オレの人生時間はざっと三十年くらいだ。

 もっともらしい理屈を捏ねたところで、オレの妄想を信じてもらえるとは思っていない。

もちろんこんな話をしたところで信じてくれる友達はいなかったし、親も医者もオレの頭を心配するばかりで、夢の世界の話など歯牙にもかけてはくれなかった。それはそれで別にいい。オレが言いたいのは、これから話す物語は、そんなオレの妄想を共有してきた人間がいたってだけの話だ。文字通り、彼女はオレと同じようにオレたちの空想世界の中で生きてきた人物だった。




「なかなか手強いな、うちのプリンセスは」

 オレとチアキと約一名が教室で昼メシを食っていると、トウマが戻ってきた。あぁ、約一名ってクニヒコのことな。

「お願いだからもうイジメないでください」

「―――ペッ!」

「なんで唾を吐くんだよぉ」

 泣きそうな顔のクニヒコを無視して、オレはトウマに続きを促した。

「で? エリカ姫は手強いのか?」

「あぁ、手強いね。暖簾に腕押しだ。上品そうなスマイルで『遠慮しておきます』しか言わねぇの。好感度が足りねぇのかな」

「エリカちゃんは面食いじゃないんだねー」

 チアキはニコニコ顔で飲むヨーグルトをチューチュー吸いながらトウマを慰撫したが、

「だからって、ブサイクよりはイケメンのほうが誰だっていいだろう? 俺にアドバンテージがあるのに変わりはないさ」

「なっ、クニヒコ?」

「なんでおれに振るのぉ!?」

 当の本人は全く堪えていない。この男、自分の武器をよく心得ている。そして手応えがないということもよく理解しているようだ。少しでもエリカ姫の心琴に触れているのなら、少なからず彼女の意識や視線はトウマに向かうはずだろう。ヒトの視線に敏感なオレの感覚で言うなら、エリカの視線はまったくトウマを捉えていない。顔すらも覚えられていないかもしれない。

 オレは横目でちらりとエリカを窺おうと思ったが、人が多すぎて姿すら視認できなかった。

「それで? お前まだやんの?」

 オレの問いかけに、トウマは机の上のサンドイッチを頬張って答えた。

「当たり前じゃん。なかなか落ちない女って、どうしても落としたくなるんだよな」

「その割には年齢と彼女いない暦が同じなのはなぜだ?」

「俺は特定の女とは付き合わないことにしてるだけさ」

「嫌味な野郎だねぇ」

「ハルトだって、その気になれば彼女のひとりやふたり簡単に出来るだろ?」

「いやオレ、クニヒコ一筋だからさ」

「お願いです後生だからヤメてください」

 涙目でオレに訴えかけるクニヒコを無視して、オレは話をチアキに振った。

「お前はどうなんだよ。お前の浮ついた話って聞かねぇよな」

「わ、わたし?」

 チアキはうろたえながら、ちらちらオレに視線を遣してくねくねし始めた。気味の悪いヤツだ。

「わ、わたしはぁ、そんな、か、カレシとか、まだ早いしー」

「んなこといっても俺らもういい歳だぜ? ハルトやクニヒコじゃあるまいし、彼氏の一人や二人くらい作ればいいじゃんよ」

「んもー、女ゴコロがわかってないなー、トウマくんはー」

「何なら俺がエスコートしてやろうか?」

「トウマくん、特定のカノジョは作らないんじゃなかったのー?」

「チアキのためだったら、そんなポリシーすぐにでも捨ててやるさ」

 チアキのツッコみをトウマは軽やかに回避する。飄々としたこの男を捕まえるのはなかなかに難しいようだ。

「ちょっといいかしら」

 輪になって談笑しているオレたちに、背の高い女が話し掛けてきた。肩まで伸びた黒髪はきれいに整えられ、むすりと組んだ腕を沈ませることのない薄い胸に膝下まで伸びた長目のスカートが印象的な女だ。誰かと思ったら

「せ、生徒会長?」

 だった。

「あら、こんにちわ、浅井アザイさん。今日はあなたには用事はないわ」

「そ、その、どど、どうもです」

 チアキの吃驚に柔らかな笑みで返した生徒会長は、とても同一人物とは思えない獰悪な視線をオレに向けてきた。が、美人生徒会長で知られるこの土方歳子ヒジカタトシコを前に、我らがエース結城冬馬が口説きにかからないはずもない。

「これはこれは、トシコさんじゃないですか。本日も見目麗しゅうございますなぁ」

「お世辞は結構よ、結城くん。あなたにも用はないの」

「そんなことを仰らずに、ご一緒にランチでもいかがですか?」

「食事は済ませてきたの。いいから退きなさい」

 にべもなくトウマを突っぱねた生徒会長は、肥溜めでも見るみたいな目つきでオレを見下ろしてくる。この人は事あるごとに(何もなくても)オレに因縁をつけてくる。なんでオレに突っかかってくるのか見当もつかないところが悩みどころだ。

「また生徒会長かよ、面倒くせぇなぁ」

 クニヒコはげんなりした様子で視線を逸らした。クニヒコも存外この人に嫌われている。会長の場合、オレたちと違ってジョークを交えずに攻撃してくるから性質が悪い。

「安心して。あなたにも用事はないわ。えっと……袴田くん、だったかしら?」

「脇谷です! 一文字も合ってないってどういうこと!?」

「まぁ落ち着けよハカマダ」

「だから違うんですけどねぇ!」

 一年半も目をつけられているのに名前すら憶えられていないとは、クニヒコには同情の念を禁じえない。

「内藤くん、カバンを見せなさい」

「おい、内藤! 生徒会長がお呼びだぞ!」

「え、おれ?」

 小首を傾げながら内藤Bくんがやってきた(オレのクラスには内藤が二人いるんだ)が、呪い殺すような目つきの生徒会長を前に、Bくんは脱兎のごとく逃亡してしまった。作戦は失敗だ。

「内藤春人、あまりワタシを怒らせないで」

 生徒会長は額にビキビキと青筋を走らせながら、拳を震わせている。空恐ろしい女だ。正直あまり係わり合いになりたくない。

「オレのカバンに何かご用で?」

「いいから見せなさい」

「任意ならお断りします。強制ならそれ相応の理由を説明していただきましょうか? 勝手に人のプライバシーに踏み込もうってくらいだ。所持品検査を行うんなら、平等に全員分やってくれよ。それとも何か? 生徒会ってのは意味もなく生徒に嫌疑をかける不平等で不公正な組織なのか?」

「は、ハルくん、ヤバいよー」

 チアキがオレの袖を引っ張って、小声で注意を促してきた。だが、納得いかないものはいかない。毎回なんの意味もなくカバンの中身をぶちまけられて、オレもいい加減アタマに来てたところだ。

「口の利き方を慎みなさい、内藤くん。ワタシがこれから行うことに異議申し立てがあるのならいつでもどうぞ。耳を貸す人間がいればの話だけれど」

「はン。アンタに目をつけられてから禁制物なんざ持って来たためしは、一度だってねぇはずだがなぁ?」

 オレはほとんど何も入っていないカバンを生徒会長に放り投げた。会長はそれを受け取って逆さを向け、中身をリノリウムの床にぶちまけた。入っているのはタオルとノートくらいなものだ。落とされたってどうということはない。

「覚えておきなさい、内藤春人。ワタシはいつでもあなたを監視しているわ」

 憎しみすら感じさせる視線を残して、生徒会長は去っていった。全く意味がわからない。どうしてオレだけがここまで蛇蝎視されなければならないのだろうか。オレは床に落ちたタオルとノートを拾い上げ、カバンに突っ込んだ。

「うーん、どうやったらあの人を落とせるのかねぇ」

「さぁな。少なくともオレには無理だろうな」

「だろうな。お前やっぱ会長に何かしたんじゃねぇの?」

「身に覚えがねぇ。何だっつーの、ったく」

 トウマの問いにオレは溜息を一つついて椅子に腰を下ろした。全く、やってられない。

「まぁ、会長にもいろいろあるんじゃないの? あの人の家庭、片親らしいしさ」

「それとこれに何の関係があるんだよ。顔も知らねぇよ、会長の親なんて」

「だよなぁ。おれも知らないよ」

 クニヒコは肩を竦めながら自嘲めいた笑みを落とした。せめて理由くらい説明して欲しいものだ。クニヒコはそんな顔をしている。

「人を嫌いになるのに大仰な理由なんて要らないからねー。ね? クニヒコくん」

「どーしておれに振るのぉ!?」

 チアキとクニヒコの、そんなやり取りを眺めながら、オレはぼんやりと頬杖をついた。

 姫の周りは、相変わらずの大盛況だった。


 その日の放課後。

 帰り支度をしていると、カバンを肩にかけたトウマがオレの背中を叩いた。どうやら女の子と一緒じゃないらしい。

「おう、ハルト。帰ろうぜ」

「エリカ姫はいいのか?」

 オレはちらりとエリカの席を一瞥したが、やはり人集りは絶えないようだ。放課後だけあって、他のクラスの人間もちらほらと窺える。なにせ金髪碧眼の美少女だ。話題にならないはずがない。

「あぁ。打っても響かない太鼓を鳴らすのは趣味じゃねぇ。響くように上手く調律してやるのが筋だろう?」

「上手く行くといいな。あぁ、お前の場合たまには上手く行かないほうがいいのかもな」

「言うねぇ」

「悪いな、今日はちょっと用があるんだ」

「何だよ、水臭いな。付き合うぜ?」

「わりぃけど」

 トウマは一寸だけ視線を落とすと、爽やかな笑顔をオレに向けた。この笑顔に、女子はやられるのかねぇ。

「そっか。じゃ、また今度な。ちなみに姫の家は中央公園沿いの高級マンションらしいぜ。待ち伏せするなら公園のベンチがお勧めだ」

「しねぇよ。いつそんな情報を仕入れたんだ、お前」

「諜報と調略は戦の基本だぜ? 兵力だけがモノをいう時代は終わったんだ」

「だといいな」

「じゃあな。おーい、チアキー。一緒に帰ろうぜー」

 トウマはオレの用事には触れず、機転を利かせてターゲットを変更したようだ。こういうところは如才ない。他人の事情に深く関わらず、相手の気持ちを忖度してくれる友達ってのはありがたいものだ。トウマは人との距離の取り方が絶妙に巧い。だから友達も多いし、女もなびく。だから恋人がいない。

「うーんと、ゴメンねートウマくん。わたし今日ちょっと用事があるんだー」

「何だよ、お前もかよ。せっかく旧友との交流を深めようと俺が努力してるってのによ」

「ほんとゴメンねー。次は一緒に帰るからねー」

「わかったよ。仕方ねぇ、一人で帰るか」

「どーしておれは誘ってくれないのぉ!?」

 クニヒコの叫びにトウマは「男と二人で下校なんて考えられねぇ」と言い捨てて、他の女の子を捕まえにいった。落ち着きのないヤツだが、確かにトウマと一緒だと退屈はしない。モテるヤツってのはあんなもんだ。

 オレは背中にチアキとクニヒコの視線を感じながら教室を出た。オレの用事とやらが気になっているんだろう。話せる内容じゃないから足早に退散したほうが無難だ。

 廊下に出ると、雑談に興じる連中や部活へ急ぐヤツらで溢れかえっていた。活気があることはいいことだ。オレは姦しい廊下の喧騒を縫って、屋上への階段を上った。

 午後四時前の屋上はまだ明るかった。空が朱に染まるには少し早い時間帯だ。オレの他にもカップルやら少人数のグループ連中やらが銘々の時間を潰している。オレもそれに倣い、金網の柵に手をかけて眼下のグラウンドをぼんやりと眺めることにした。

 どれくらいそうして時を過ごしただろうか。ひとり、また一人と生徒の数が減っていき、西の空が鮮烈な赤を放ち始めた頃には、屋上には誰もいなくなっていた。そのはずだ。日が落ちれば急激に気温が下がる。こんなところで油を売っていると、すぐに風邪を引いてしまう。

 オレは落ちゆく夕陽が山の端に吸い込まれたら帰ろうと思った。

 不意に屋上のドアが開かれた。

 黄金色に揺らめく髪を夕風になびかせながら、彼女の視線は真っ直ぐにオレを捉えていた。

 互いに言葉はなかった。

 彼女は真夏の青空のような瞳を瞬かせた。淡く煌めくブロンドの睫毛が、彼女の目元に薄い影を落としている。凄絶な色香を孕んだ彼女の容姿は、オレの鼓動をわずかに停止させるには充分すぎた。

 エリカは薄笑みを浮かべ、オレの隣に立った。赤い斜陽が、彼女の髪を燃えるように耀わせる。

「よく来てくれました、“ナイトハルト”」

 彼女の声は、やはりピアノのように柔らかく真っ直ぐな音色で響き、オレの胸に染み込んだ。

「オレは、ナイトウ・ハルトだが?」

「貴方なら必ずここに来てくれると信じていました」

「たまたま屋上の風を浴びたくなっただけなんだが」

「なるほど。“こちら”の世界で臣下の礼を弁える必要は、確かにないですね」

「じゃ、どちらの世界ならその臣下の礼とやらを弁える必要があるんだ?」

「“イマジナル”―――」

 その言葉が耳朶に触れた瞬間、全身に鳥肌が立った。

「そう、イマジナルなら、貴方はわたくしにコウベを垂れ、恭しく敬礼をしたことでしょう。我が騎士ナイトハルト」

「―――プリンセス・エリカ」

「えぇ、その通りです。“昨夜”はお疲れ様でした」

 オレの鼓動が早鐘を打ち始めた。

 ありえない、これはありえない話だ。

 イマジナル―――オレの夢の世界。毎夜オレがベッドの中で見る空想の世界。御伽噺の世界。オレの妄想が作り上げた虚構の世界。存在しないはずの、世界。

 オレがこの世界の話をしたのは、両親と担当医にだけだ。それもうんと幼い頃の話だ。チアキやトウマにだって話していないし、医者も親父もお袋もオレの話なんて端から信じていなかった。もしかしたらガキの頃に同じ病室で入院していたコに話したかもしれないが、そんなオレすらも憶えていないような事実を高々数週間おなじ病室にいただけのコが憶えているはずもない。

 だから―――。

 だからイマジナルという架空の世界を知っているのはオレだけのはず。オレしか知らないはず。オレだけが知る世界だからこそ、存在しない世界のはず。ただの空想上の世界のはず。

 誰にも信じてもらえない世界だからこそ、オレは口外しなかった。知っているのはオレだけでいい。そう割り切ってこれまで生きてきた。そもそもが、オレの脳の異常の所為でやたらリアルに感じるだけの単なる夢だって、オレのイカれた脳が見せる連続性のある夢に過ぎないって、最近はそう思うようにさえなってきた。

 だが、神湯恵理夏は現れた。クラスのみんなの驚きは、日本人から掛け離れた容姿へのそれだろう。オレは違った。その顔に見覚えがあった。その声に聞き覚えがあった。オレは彼女を知っていた。だから、驚いた。

 “あちら”の世界の住人が、“こちら”の世界にやってきた。

 そんな、考えたこともない現象が、実際に目の前で起こっている。

 何がどうなっているのか。どうしてこんなことになったのか。イマジナルは空想の世界ではなかったのか。漠とした思考が次々と頭の中に去来する。

 混乱しかかった思考をシャットアウトした。

 現実を見定めることが先決だ。エリカがオレをここに呼んだということは、何か話があるからだろう。まずはエリカの話を聞く。もちろんその挙動を注意深く観察することを忘れてはいけない。オレはイカれた脳のおかげで嘘を見破るのは得意だ。エリカの話の内容とその虚実から、判断を下すしか方法がない。

 驚くオレの顔を見て、エリカはくすくすと笑い始めた。

「やっぱりそう。ナイトハルト、貴方はわたくしが“あちら”の世界からやってきた妖精みたいなものだと考えているのでしょう?」

「妖精なんて可愛げのあるものならいいんだがな。オレはアンタを信用したわけじゃないぜ」

「そう。姿形は同じでも、簡単には信じてもらえないのですね」

「当たり前だ。まずはアンタの話を聞こうか。何か話があるから、あのサインを出したんだろう?」

「そうですね。あご先を指で叩くあのサインが、わたくしが貴方の知るエリカ・カミーユであることの証明にはなりませんか?」

「『後ほどテラスで会いましょう』―――ナイトハルトとプリンセス・エリカの秘密のサイン、か」

「はい。“あちら”の世界でしか面識のないわたくしたちが、貴方とわたくししか知らないサインを、“こちら”の世界で同一視できた。お城ではテラスでしたけど、貴方はちゃんとここに来てくれました」

「偶然かもしれないだろ?」

「わたくしは失われたテスタメントを探すために、“こちら”の世界の貴方に会いに来ました」

 オレは絶句した。

 彼女がどういう存在なのかは判らない。でも、目の前にいるエリカは、イマジナルのプリンセス・エリカと同一人物だ。テスタメントが“失われた”ことを知り得るのは、彼女がイマジナルの住人だからに他ならない。

 オレは右手の指を全て伸ばして親指を心臓の位置に置き、片膝を突くことで敬礼の意思を示した。コウベを垂れ、指を伸ばすことで手に何も持っていないことを示し、片膝を突くことで相手が目上であることを示す、イマジナルでの敬礼だ。

「大変失礼をいたしました。プリンセス・エリカ。この身はこれより御身の盾となり、姫をお護りいたします」

 エリカはオレのその様子を見て、またくすくすと笑い始めた。軽く握った拳で口元を隠すその仕草はとても上品で、プリンセス・エリカの癖でもあった。

「止してください、ナイトハルト。いいえ、“こちら”の世界ではハルトと呼んだほうがいいかしら? わたくしは“こちら”の世界では王女でもなければ姫でもない、ただの高校生ですから」

「え? いいの? じゃ、やめるわ」

「変わり身が早いのね。わたくしのことはエリカと呼び捨ててもらって構いませんから」

「わかったよ、エリカ」

 それを聞いた瞬間、エリカは一寸パチクリと目を瞬かせ、後ろを向いてしゃがみこんでしまった。何をやりたいのかさっぱり意味がわからない。何度か深呼吸をして落ち着きを取り戻したのか、立ち上がったエリカははにかみながら頬を赤らめた。

「貴方にそう呼ばれるのは初めてでしたね。年甲斐もなくドキドキしちゃいました」

「馬鹿かお前は」

「不敬罪で殺しますよ」

「すいません」

 軽く咳払いをして、エリカは真摯な面持ちを取り戻した。

「単刀直入に申し上げましょう。貴方にわたくしの味方になっていただきたいのです」

「味方? まるで敵がいるみたいな言い方だな―――いや、いるのか」

「はい、います」

 オレは注意深くエリカの表情を観察しながら、言葉を繋げた。

「失われたテスタメントを“こっち”の世界で探すのがお前の目的だとすると、何者かが“こっち”にブツを持ち込んだ、そうお前は考えているわけだ」

「その通りです」

「なぜオレを?」

「信頼できる人間が貴方しかいなかった。“こちら”ではなく“あちら”の世界でわたくしが信頼できるのは、貴方だけだったから」

「それは理屈としてはおかしいな。アンタを守る優秀な配下は何人もいたはずだ。確かにオレはお前の護衛の一人だが、他に腕の立つ騎士はいくらでもいる」

「言い方を変えましょう。わたくしが最も信頼している騎士が貴方だから、では理由になりませんか?」

 オレはエリカから視線を外し、彼女の言動を鑑みた。嘘は吐いてない、だがエリカはまだ本心を語っていない。

 確かにイマジナルでのオレとエリカの距離は近かった。主とその護衛という関係以上に、オレとエリカは幼い頃から寝食をともにし、同じ学び舎で魔法を学んだ経緯があるからだ。身分の違いゆえにオレは常にエリカへの敬意を示す必要はあったが、オレと同じような関係の人間なら他にもいる。オレだけが、エリカと特別に近しいわけではなかったのだ。つまり、そういう人間の中で、元々“こっち”の世界の住人で“あっち”も知っている人間がオレしかいなかった、ということだろうか。

 いや、違うな。そもそもどうやって“こっち”も“あっち”も知っている人間を探せばいいんだ? オレはエリカが転校してくるまで、そんな人間がいるなんてことを知らなかった。つまりエリカはオレよりも以前に“こっち”も“あっち”も知っている人間に出会った経験があり、だからこそそういう人間を探したんだ。だが、どうやって探した? 直に会って『“イマジナル”をご存知ですか?』なんて尋ねるわけにもいかない。あまりにも非効率的すぎるし、下手をすれば妄想癖の激しい人間というレッテルを貼られてしまう。とすると―――。

「名前、か? それと容姿」

 エリカの瞳が、わずかにブレた。予想外の回答に戸惑っている。そして何か言い繕おうと思考を廻らせている。そんな目だ。

「ナイトハルトと内藤春人、エリカ・カミーユと神湯恵理夏。確かに似ているな。“あっち”での名前を憶えているなら、“こっち”で似た響きの名前を見つければ、あとは顔を見るだけで判る。そういうことか」

 エリカは答えずに、小さく嘆息した。

「相手から信頼を勝ち取るには、まずこちらから信頼の証を見せなければならない。その証を説明せずに曖昧に糊塗するのは、交渉術においては下策だな」

「ハルトは、頭のいい人なんですね」

「単なる当て推量だ。別に大したことじゃねぇ。確かにお前は“あっち”では好んでオレを護衛に使ってくれたし、お前の愚痴にも付き合った。だがそれだけじゃ説明不足だ。懐柔しようだなんて、そんな真似は止してくれ。別に嫌だって言ってるわけじゃねぇんだ」

 エリカは悪戯っぽい笑みを浮かべて、一歩オレに歩み寄った。甘ったるい息が鼻に突くくらい、顔が近い。

「やはり貴方を選んで正解でした。貴方はとても頼りになる人です」

「ちょっと待て、ちけぇよお前、それ以上こっちに寄るんじゃねぇ」

 オレはちょっとドキドキしていたが、努めて冷静な振りをして顔を遠ざけた。一応エリカは主に値する人間だ。間違っても過ちがあってはならない。

 エリカはくすくすと笑みを浮かべ、オレの手を取った。

「貴方はとても聡明で、剣の腕も立つ。そしてとても素直で、何よりわたくしがよく知っている人です」

「だ、だから何だよ」

「頑張って探しました。“あちら”でわたくしの知っている人の名前と近い音の名前を持つ人の顔写真を、記憶と見比べて探しました。わたくしの両親はちょっとその筋にコネのある人間なので、名簿と顔写真を入手するのはそんなに難しくありませんでした。まずはこの町でわたくしの味方になってくれる人を探す必要がありました。それが貴方で本当に良かった」

「もういいよ、別に。元々オレはお前の護衛なんだ。お前に協力することくらい、やぶさかじゃねぇっつーの」

 エリカはオレの手を離さずに、真摯な瞳をオレに向けた。距離が近すぎて、頭がクラクラする。自慢じゃないが、オレは女性経験なんてからっきしだ。いくら近しかったとはいえ、オレは護衛の節度を守って彼女に接してきたんだ。こんな、息遣いまで聞こえるほど近くで話をしたことなんてない。

「状況を説明します。世界には三種類の人間がいます。“こちら”の世界の人間、“あちら”の世界の人間、そして“こちら”と“あちら”を行き来できる人間。貴方になら解りますよね」

「なるほど。つまりお前は妖精さんじゃねぇってこったな」

「はい。わたくしと貴方は“こちら”と“あちら”を行き来できる人間です。“あちら”の世界の人間が“こちら”の世界に来るという現象は、通常は考えられません」

「逆に“こっち”の人間の躰が“あっち”に行っちまうような、神隠し的な現象も考えられないってことか」

「はい、通常ならば」

「通常じゃないケースがあるみたいな言い方だな」

「今回のテスタメントがそのケースに値するでしょう」

「“あっち”にしかないものが“こっち”に運び込まれたとすれば、確かに問題だな」

「それ以前にテスタメントがないと“あちら”の世界の人類が滅亡してしまいます」

「で、お前はそのテスタメントを取り戻して“あっち”に送り返したいと、そういうわけか」

「その通りです」

 テスタメントは“あっち”の世界の人間にとってなくてはならないものだ。人間に魔力を与え、魔法の武器“クルシス”を召喚する触媒となる、世界の心臓みたいなものだ。テスタメントがないと、人は跋扈する凶悪なモンスターと戦うことが出来ない。

「クリアしなければならない疑問がいくつかあるが、保留にしておこう。話の続きを」

 思案するのは後にして、オレはエリカを促した。

「“あちら”の世界は、言わば夢の世界です。人間の見る夢が連続性を持って存在し続けている、そんな世界だと解釈できます。ある瞬間までは、その夢の世界は個人の夢でしかなかった。個人の夢であれば、それは単なる空想でしかない。ですが偶然か必然か、二人以上の人間が全く同じ夢の世界を共有してしまった。その瞬間から、夢は形を帯びた。夢幻でしかなかった世界が、二人以上の人間に観測されたことによって、一つの世界として成立してしまった、それが―――」

「“イマジナル”ってことか」

 エリカは小さく首肯して、言葉を繋いだ。

「成立してしまった世界は、そこに存在する。存在する以上、他の誰かに観測されることもある。どこにあるかも判らない他人の夢が観測されるケースは少ないけれど、近くにいればたまたま目に入ることもある。こうしてイマジナルを共有する人間が少しずつ増えていきました。わたくしたちはこれを“共鳴者レゾネイター”と呼んでいます」

「そのレゾネイターとやらの誰かが、テスタメントをパクったわけだ」

「そしてどういう方法を用いたのか、“こちら”の世界に持ってきた」

 エリカはオレの手を離し、金網の向こうの夕陽に視線を移した。空はもう藍に染まりかけている。山間に沈んでいく落陽は、とろけそうな光を放つ線香花火みたいで弱々しい。

「レゾネイターには二つの派閥が存在します。テスタメントを“こちら”の世界から放逐し、世界を元の姿に戻そうとする“調和派”と、テスタメントを“こちら”に残し、その力を悪用しようとする“過激派”」

「お前はそのどちらにも遭遇したことがあるってことだな」

「はい。この二つの派閥は目的が競合するため、互いに争いあっています」

「お前は調和派なんだな」

「正確には違いますが、過激派からテスタメントを奪取するという目的は符合しています」

「お前のいう敵ってのは過激派ってヤツらのことで、テスタメントをパクったのもそいつらの仕業、か?」

「恐らく」

「敵と味方の素性は? 誰と戦うべきなのか、調べはついているのか?」

 エリカは目を閉じて小さく首を振った。

「いずれにせよ、テスタメントを発見して、それをイマジナルに移さないといけねぇんだよな。テスタメントは魔力の源泉みたいなもんだ。アレがないと、イマジナルの人間は魔法を使えない」

「はい。このままでは兇猛なモンスターに人類が淘汰されてしまいます」

 エリカの彼方を見つめる瞳が、西日の落とす儚げな残光に揺られた。彼女にとって、イマジナルの人間は幻なんかじゃなく、血の通った同胞なのだろう。王女という立場のエリカには、自分のために仕えてくれる兵士や民の命が無残に散っていくのは耐え難いはずだ。無論オレにも“あっち”に友人がいる以上、無視できる問題じゃない。エリカを援け、平和を取り戻そうという試みは、オレにとっても大切だ。

「いいだろう。協力するよ」

 オレは右手を差し出し、エリカに握手を求めた。

「ありがとう、ハルト。とても嬉しいです」

 その手を両手で掴んだエリカは、大きな青い瞳を弓なりに細めた。その明け透けな好意は、オレの胸を少しだけ締め付けた。


 下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。

 オレたちは薄暗い校舎を降りて、学校を出ることにした。

 エリカの家宅はトウマの情報の通り中央公園沿いの高級マンションの一室らしい。“こっち”の世界では頭が少しおかしいことを除けば(この言い方は抵抗があるが、他に適当な言い方が見当たらない)ごく普通の高校生男子でしかないオレだが、いちおう男の子なのでエリカを送っていくことにした。これでも彼女の護衛として付き従ってきた経験がある。

 中央公園はこの町でもかなり広めの公園だ。きれいに舗装されたレンガの道は、散歩やジョギングにも使われている。大通りに出るよりも駅までの道のりを大きくショートカットできることから、昼夜を問わず人通りの絶えない安全なルートでもあった。ところどころ歯抜けのように街灯が壊れているのは、市の財政状況を物語っているのだろうか、それとも―――。

 オレはエリカの隣を歩きながら、彼女の話に耳を傾けた。

「過激派は他のレゾネイターと接触して積極的に仲間を増やしているようです。わたくしの時は黒い覆面を被っていたので、顔を確認することが出来ませんでした」

「黒い覆面の時点でバリバリ怪しいな」

「ですが、貴方がそうであったように、“あちら”の話を聞かされれば警戒心が薄らぎます。自分しか知らなかった夢の世界を他にも知っている人間がいたとしたら、話を聞いてみたくもなるでしょう?」

「気持ちは解らなくはないが」

「そうしてどちらにも属していなかったレゾネイターを少しずつ取り込んで、組織を構築しつつあるようです」

「お前がそうしたように、顔と名前からレゾネイターを特定しつつ、ってことか」

「恐らくは。わたくしも正確には知りません」

「敵の規模は?」

「わかりません。わたくしは彼らの勧誘を拒んでいます。敵と見なされてもおかしくはないでしょう」

「いまいち実感が湧かねぇな。敵っつっても、命まで取りに来ることはないんだろ?」

「今のところは。ですが、これからどうなるかまでは予想できません」

「とっ捕まえて仲間の情報を聞き出したほうが早そうだな」

 オレとエリカは、公園の中央付近で同時に立ち止まった。

 酷い違和感だ。

 周囲に人の気配が、ない。

 いつもなら学生や会社帰りのサラリーマンの姿があってもいいはずなのに、人っ子ひとり見当たらないなんて、不自然すぎる。

 薄暗い宵闇の向こうから、突き刺すような殺気が漂ってきた。オレはそれを殺気と感じることが出来たが、現代日本で生活する人間にとっては、何となく近寄りたくない不吉な感じ、くらいにしか思わないだろう。だが、これほど濃密な殺気であれば、迂回して違う道を選ぼうと考えても不思議じゃない。

 オレはエリカを庇うように、一歩まえに踏み出した。

 震える息遣いから、エリカの緊張が伝わってくる。

「コイツはアレか? 調和派か? 過激派か? それとも、全く関係のない猟奇殺人犯でも潜んでるって可能性もあるよな」

「緊張感のない人ね。引き返しましょう。迂路を取って大通りに出たほうがいい」

「背中を刺されなきゃいいけどな」

「早く行きましょう。ここは危険です」

「とっ捕まえて情報を聞き出そうぜ」

「と、とっ捕まえるって……」

「一応これでも訓練うけてるからさ、身を守る術くらい心得て―――ッ!」

 反射的にエリカを突き飛ばしていた。

 身を捩って半身になりつつ、敵を視認する。

 黒い覆面をした正体不明の男が、真っ直ぐそれをオレに突きつけてきた。

 二メートル以上ありそうな長槍だ。

 黒光りする鋭利に尖った先端は、とてもおもちゃとは思えない重厚な冷たさを孕んでいた。

 首を捻って先端を紙一重で回避した。首の皮が一枚はがれて、火傷のような鋭い痛みが走った。間違いなく本物だ。

 オレはバックステップで距離をとり、相手の容姿を確認した。

 身長はオレと同じくらいか、やや高いくらい。体格もそう大して変わりはない。覆面をしている所為で顔や年齢は判別できないが、躰にまとう圧力めいた気だけが、尋常じゃない。

 全身から脂汗が吹き出てきた。じわりと湿った感触が背中を伝う。わずか数秒の攻防だったはずなのに、凄まじい疲労感が苛んでくる。

 オレは横目でちらりとエリカの様子を窺った。エリカは片膝を突いて前方の不審者を警戒しているようだ。さすがにイマジナルで何度も修羅場を潜り抜けてきただけのことはあるが、彼女は治癒の魔術を行使するソーサラーだ。戦闘要員としてカウントは出来ない。だが少なくとも腰を抜かして震えられるよりはマシだ。何とか逃げてもらうしかない。

 オレは円を描くように少しずつ横に移動した。エリカをカバーできる位置を確保しなければならない。

 もう一度エリカに視線を移した。

 コンマ一秒で槍の先端が降ってきた。

 左に首を傾げてその一撃を回避すると、傾げたその先に第二撃が降ってきた。

 速いなんてもんじゃない。

 左足を強引に引いて、躰ごと槍の強襲を躱した。

 続く第三撃目を屈みこむことでやり過ごしたオレは、第四撃目を大きく後ろに飛び退くことで躱しきった。

 たったそれだけで、息が上がってしまった。

 急速に失われた酸素を補充しろと、躰が呼吸を命じてくる。

 エリカの盾になるどころか、ますます距離が離れてしまってた。

 武器を持っているとかいないとか、そういうレベルじゃない。

 身体能力に差がありすぎる。

 あんな巨大な槍をボールペンみたいに扱える化け物に、どうやって勝てというのだ。

 オレはじりじりと後退りながら、敵をエリカから遠ざけることにした。

 勝つのは無理だが、何としてもエリカは逃がさなければならない。

 眼前の敵に意識を集中した。

 エリカに視線を移したのはフェイク。隙を見せることでオレを攻撃させた。

 オレのイカれた脳は、相手の動きを予測する。

 速いといっても、見えないほどじゃない。それなら、来るタイミングさえ判れば、ぎりぎり回避はできる。

 問題はさっきみたいに何発も続けざまに攻撃されると、オレの躰がついていかないという点だ。絶対的に速度で劣るオレが敵の攻撃を回避するには、動きのその先を予測するしかない。予測に躰が追いつかなくなれば、待っているのは串刺しの生肉だ。そんな食っても不味そうな肉料理になるつもりは、もちろんない。

 脳をフル回転させて、敵の肉体の動きを注視した。

 朧な輪郭が脳裏に浮かび上がった。

 槍の先端がオレの右太腿に突き刺さるイメージ。足を封じようとしているようだ。

 半歩、左に跳んだ。

 オレの右足があった場所を、稲妻めいた槍の一撃がすり抜けていく。

 敵はすぐさま標的をオレの顔面に変更した。

 続く二撃目をダッキングして回避、さらに頭を左右にスリップさせて五撃目までを避けきった。

 次の攻撃が正確にオレの心臓を抉るイメージが浮かんでくる。

 強引に躰を引いて回避を試みるが、筋力がイメージに追いつかない。

 肩に焼きゴテを突き込まれたような激しい熱と痛みが、弾けた。

 悲鳴を上げるよりも早く、ほとんど無意識に後ろに跳んで距離をとった。

 両膝を突いて、右手で左肩を抑える。

 声にならない呻きが口から漏れた。

 頭の芯まで響くような、強烈な疼痛だ。

 敵は嘲笑うように間合いを詰めてくる。

 無理だ。勝てっこない。違いすぎる。

 エリカを逃がすどころか、次の一撃でオレが殺される。

 一歩、また一歩、死が近づいてくる。

 どうすればいい。どうすればこの状況を打破できる。人の身で電撃のようなこの男の槍撃に太刀打ちするにはどうすればいい。

 イメージが、脳裏に浮かぶ。

 オレの頭がある場所を、漆黒の槍が通過していくイメージ。

 槍は頭蓋骨など易々と貫き、オレの命を掠め取っていくだろう。

 起死回生の打開策は、ない。

 オレは肚を決めた。

 ここで死ぬことは厭わない。だが、エリカを確実に逃がす。

 イチかバチかの特攻は良策とは言えない。なぜなら、オレを殺した瞬間に、敵は矛先をエリカに変えるだろうからだ。

 一秒でも長く生き延びなければならない。

 人目につかないこの状況を、敵は選んだ。ならば人通りの多い場所までエリカが逃げ果せれば、少なくともその場で命を狙われることはなくなるだろう。

「エリカ! 逃げろ!」

 オレの叫びに、敵が立ち止まった。

 首を捻ってエリカの様子を窺っている。

 エリカは逃げるどころか、立ち上がって毅然と敵を睨みつけた。

 何をやっている。早く逃げろ。たとえここがイマジナルだったとしても、エリカの身体能力ではこの化け物に太刀打ちなんて出来やしない。

 敵は三歩で間合いに入り、エリカの眉間をブチ抜くことが出来る距離にいる。

 傷を負って動きの鈍ったオレよりも、元気そうなエリカを一撃で仕留めるほうがよいと判断したのだろう。敵は振り返って足先をエリカへ向けた。

 死が一歩オレから遠ざかり、一歩エリカに近づいた。

 次の一歩が踏み出された瞬間、オレは迷うことなく駆け出した。

 さらなる一歩が踏み出されるより疾く、槍が横に薙ぎ払われるイメージが網膜に重なった。

 鋭鋒が半円を描きつつオレの首を横断していくビジョンが、脳裏を過ぎる。

 速度を緩めず、身を屈めた。

 漆黒の凶器が、オレの背中を薄皮一枚分だけ隔てて通り過ぎていく。

 オレはすぐにエリカの躰を抱えて、前方にダイブした。

 背後から襲来する黒い光線じみた凶刃がオレの横っ腹を抉り取った。

 倒れるよりも早く、エリカを突き飛ばした。

 肉が削れ、血が溶岩みたいに腹から溢れてくる。

 神経を直に触られているような凄絶な痛みが、脇腹で踊り狂った。

 すぐに躰を翻し、敵との距離を測った。

 死のビジョンはまだ網膜に映らない。

 覆面の男が、立ち止まった。

 死神の鎌のようなそれを構えて、凝然とオレを睨みつける。

 その視線は、オレの背後のエリカまでもを捉えている。

 次の一撃で二人とも葬り去る心積もりだ。

 肌に伝わってくるくらい、気が膨らみ始めた。

 目の前の化け物にとって、オレの躰など紙切れも同然だ。

 よく切れるハサミで折り紙を一枚だけ切るのと二枚同時に切るので、どれほど労力に差があるだろうか。

 大して変わりはしない。

 悪魔の槍はオレの躰を豆腐みたいに貫いて、エリカの心臓を刺し穿つだろう。

 初撃が放たれてから実に二十秒も経っていないというのに、途方もない疲労感が全身に張り付いている。まるで沼の中を全速力で走った後のような倦怠感だ。おまけに目がチカチカするくらい左肩と脇腹が痛い。躰中が悲鳴を上げている。

 ほんの数十秒前まで和気藹々と談笑していたのに、どうしてこんなことになってしまったのか。

 エリカは逃げようと忠告していた。それに従っていればこんなことにはならなかっただろう。オレの脳は危険に対して嫌になるくらい鈍感だ。恐怖で躰が固まってしまわないことはメリットかもしれないが、そもそもそれを恐ろしいと思うことすら出来ないのであれば、それはもはや致命的な欠陥だ。死の淵に立たされて、初めて自分の脳を疎ましく思うなんて馬鹿げてる。

 油断した。ここが現実の世界だというオレの認識が、エリカを窮地に陥れた。金属バットやナイフ程度からなら容易く身を守れるという自惚れが、絶体絶命の危難を招いてしまった。

 オレはこの傷では助からない。意識があるうちに、せめてエリカだけでも逃がさなければならない。でもどうすればそれが可能なのか、想像すらできない。成功するイメージは、槍の一振りで粉々に砕け散ってしまう。

 吹き出る汗が止まらない。

 一秒が一万秒に感じられる。

 見慣れた公園の風景が、地獄の門のようにさえ見える。

 門番は嫌がるこの手を無理やり掴んで、黄泉の国へとオレを誘うだろう。

 万事休す、だ。

 オレは姫を守ることが出来なかったのだ。

「何をしているのです、ハルト!」

 背後から、弦楽器を奏でるような滑らかな声が聞こえてきた。

「武器を―――“クルシス”を召喚して!」

 何を言っているんだ? ここはリアルの世界だ。夢の世界みたいに魔法が使えるわけがない。エリカは錯乱でもしてしまったのか? でも、だけど、それでも―――。

「テスタメントは“こちら”にあるの!」

 ガチリと、歯車が噛み合った。

「あなたは魔法を使えるのです!」

 思えばそうであろうことは充分に予想できた。エリカという女がオレに前に現れたこと。目の前の人間大の化け物が、規格外の膂力と速力を有していること。この状況下にあって、エリカが臆せず毅然としていられたこと。そして、槍だなんて現代日本で誰も使わないような御伽じみた武器が使われていること―――。

―――頭の中で武器をイメージする。

 リアルの世界でイマジナルの武器を召喚する、なんて発想は幼稚園児の頃に捨てた。ごっこ遊びをやめた時から、オレはリアルとイマジナルを明確に区別してきた。人よりも豊富な経験が、オレを常識という名の固定観念に縛り付けていた。

―――光の粒子が熱力学第二法則を無視してオレの掌に集束する。

 ありえないと切り捨てた可能性。馬鹿らしいと無視してきた着想。非常識だと考えることすら放棄したビジョン。その全てがオレの手の中で息を吹き返し、ゆっくりと脈を打ち始める。

―――形而上学的な観念が、物理的な圧力を持って形象化する。

 騎士ナイトハルトは勇者じゃない。竜を退治する聖剣も、魔王を撃滅する神剣も、奇跡を起こす宝剣も持っていない。その手で振るってきたのは、王女を護るための丈夫でよく切れる剣。刀身が光り輝くわけでも、グリップに美しい装飾が施してあるわけでもない。戦いのさなかで折れることのない、頑強で無骨な剣。

―――斬護刀ドラグヴェンデルが、リアルの世界で現象として表出する。

 炎を操ったり、水を湧き出させたり、風を巻き起こしたり、土を硬化させたり、そんな器用なことは出来やしない。物を浮かせたり、傷を癒したり、空間を歪めたり、闇を照らしたりすることも出来ない。ただ戦うことに特化した、言わばエネルギーの塊だ。

―――実体化した鋼の刀身が、空間を押し退けて風圧を紡ぎ出す。

 右の掌に、はっきりとグリップを掴む感触が伝わった。それを握り締め、遠く夢想の世界に思いを馳せる。剣を振るい、数多の獣を薙ぎ払い、傷を負い、血肉に塗れ、それでもただひたすらに剣を振るった、騎士の記憶。

 まぶたの裏で幻視した光景は、オレの躰に経験として息づいている。

 豁然と目を見開いたその瞬間―――。


 空想が現実を侵食し、ナイトハルト現実ナイトウ・ハルトに舞い降りた。


 敵の判断は早かった。

 疾風のごとき槍の閃きが、真っ直ぐオレの心臓を目掛けて飛んできた。

 ドラグヴェンデルを振り上げて、槍の軌道を大きく斜めに逸らした。

 耳朶に響くのは、聞きなれた金属音だ。

 敵は大きく飛び退いて、再び槍を構えなおした。

 先ほどまでのような余裕は、眼前の槍術士にはすでにない。

 張り詰めた空気が、カミソリみたいに冷たくてうそ寒い。

 オレの放つ気と敵の気が、チリチリと空間で交じり合って押し合いを続けていた。

 肩と腹の傷が、頭を内側から殴るような痛みを断続的に与えてくる。

 痛みに負けて飛び出せば、格好の餌食だ。耐え抜くしか、ない。

 互いが放つ気と気の奔流が、熾き火のようにバチバチと音を立てて爆ぜた。

 体調が万全なら、このまま気の押し合いを続けてもいいだろう。

 だが、傷を負ったこの躰で長期戦は良くない。

 気を抜けば一息で殺される、だがこのままじっと機を測ることも出来ない。

 ゆっくりと、すり足で距離を縮めた。

 握った剣が、手の中で氷のように凛冽な感触を伝えてくる。

 まだ、互いの間合いには入らない。

 リーチでは圧倒的に槍に分がある。剣の間合いに入るには、最低でも弾丸じみたあの突きを二発は躱さなければならないだろう。敵はもう、油断はしてくれない。

 また少し、すり足で歩を進めた。

 わずかに空気の粘度が増す。

 敵の気に呑まれれば、コンマ一秒でオレの躰は物言わぬ躯と化すだろう。

 気で気を押し退けて、少しずつ距離を縮める。

 敵の間合いに入るまで、あと数センチ。

 駆けた。

 何の予備動作もなく、矢のような突きが放たれる。

 屈みながらそれを回避した。

 躱したはずの矛先が、もう目の前から迫ってきた。

 一撃目と二撃目の間隔が怖いくらいに短い。

 首を捻った。

 矛は頬骨を削りながらオレの真横を突き抜けていく。

 三撃目はすでに放たれていた。

 何かが一瞬だけ光ったようにしか見えない。

 だがそれは次の瞬間、間違いなくオレの眉間をブチ抜く軌道だ。

 一歩あしを踏み出して、それを軸にバックターンで躰を回転させた。

 凶刃はオレの耳たぶを斬り飛ばしながら通過していく。

 回転する躰を前に向けて、遠心力とともに剣を振り下ろした。

 ガキンッと、鋼と鋼が擦れ合う音が耳朶に伝わった。

 飛び散る火花は閃光のように辺りを照らし、消えた。

 振り下ろした剣を、手首を返して振り上げた。

 肉を斬る感触が、鋼の刃を通じて手応えとして感じられる。

 骨を断つことはできなかったが、肋骨を何本か削った感触はある。

 さすがに一撃で仕留められるほど、敵も甘くはない。

 網膜にイメージが映った。

 敵の左足がオレの軸足を掬うように半円を描いている。

 オレは躰を浮かし、その蹴りの軌跡から外れると、空中でもう一度回転して斬撃を放った。

 剣の芯が正確に敵の喉仏を斬り裂くイメージを重ねたが、槍の柄でその一撃が防がれるイメージに上書きされた。

 凄烈な金属音が耳朶を打ち、槍は中空を舞った。

 両足を着き、さらに踏み込むべく爪先にグッと力を入れた。

 槍が、地に落ちるより早く消散した。

 間違いない、敵の武器はイマジナルの魔法によって召喚された“クルシス”だ。

 召喚者の手を離れ、実体を失ったクルシスは、水に溶けるようにその姿を霧散させる。

 覆面の男は素早くオレから距離をとり、振り向いて走り去っていった。

 追撃することも出来るが、敵が深手を負っているとはいえ、こっちも重傷だ。これ以上の戦闘は避けたほうがいい。オレはほっと溜息をついた。

 張り詰めた空気がたわみ、ようやく緊張を解くことが出来る。

 オレは自分のクルシスを離し、だらしなく地面に座り込んだ。

「はぁー、死ぬかと思った」

 急いで医者に行かなければならないが、とにかく休みたかった。肩と腹の傷からは、まだ出血が続いている。こういう場合、救急車とか呼んでもいいのだろうか。後で事情を聞かれても上手く説明できる自信がない。

 振り返って、エリカの安否を確認した。エリカは何をやっているのか、両の手の平を前に向けて目を閉じている。パッと見では怪我はなさそうだ。

 エリカの掌が急速な輝きを帯び、光の粒子が杖の形を成していく。そうだった、エリカもレゾネイターなんだ。

 エリカのクルシスは、癒しの力を持つ聖杖グレイル。外傷を治癒するソーサラーとしての機能を持っている。先端に象られた白金の杯に、クリスタルの球体が添えられている。イマジナルでは何度もお世話になった治癒の魔術が、エリカの十八番だ。

「ハルト!」

「よう、無事か?」

「貴方が守ってくれました。よかった、貴方がいてくれて本当によかった」

 エリカは杖の先端をオレに向け、そっと目を閉じた。杯に添えられた球体が淡い輝きを放ち、傷口が塞がっていく。途切れた肉と肉が繋がっていく感触は何ともいえず気持ちの悪いものだが、贅沢は言えない。

 傷が塞がったのを確認すると、エリカはオレの胸に顔を寄せた。オレはエリカの震える肩を抱き寄せた。エリカはつぶらな青い瞳から、大粒の涙を落とした。兵士の傷なんて見慣れているはずなのに、いつまで経ってもエリカの泣き癖はなおらない。

「あんまりくっつくなよ。血で汚れてるからさ」

「はい……はい。もう少し、このままで」

 オレは嘆息して、エリカの頭をそっと撫でてやった。

 見上げた夜空は静かなもので、ぽっかり開いた穴のような月だけが、うるさいくらいに優しい光を落としていた。


 エリカが泣き止むのを待って、オレたちは早足で公園を出た。

 薄暗い夜道とはいえ、血塗れの男女が往来を闊歩する図はあまり美しいものではない。しかも両方とも怪我をしていないのであれば、誰の血だという話になってしまう。警官に職質されるのは何としても避けたいところだ。

 オレはエリカを送っていくついでに、少し休ませてもらうことにした。エリカの魔術は、傷は癒せても疲れまでは癒してくれない。オレはとにかく疲れていた。

 二十階建ての高級マンションの最上階の一室が、エリカの家宅だった。2LDKの広い間取りは、親子三人で生活するのにちょうどよい造りになっている。オレの正直な第一印象は「家賃いくらするんだろうなぁ」だった。賃貸なら軽く二十万くらいするんじゃないだろうか。一般的な新入社員の手取りの給料より高額な家賃をぽんと払えるエリカの家は、見た目に違わず富裕層に位置するらしい。

 リビングに案内されて感じたことは、生活感のなさだ。引っ越してきたばかりだろうことを考慮しても、物が少なすぎる。とても両親とともに生活しているとは思えない。片づけが済んでいないだけだとしても、荷物の詰まったダンボールがありそうな気配もない。冷蔵庫と電子レンジ以外の家電製品が一つもないなんて、一体どうやって生活しているのだろうか。

「親御さんはまだ帰ってねぇのか?」

「わたくし、両親とは一緒に暮らしていないのです」

「え? マジで? メシとかどうしてんの?」

「今のところは外食で済ませています。何か飲みますか? コーヒーくらいしかないですけど」

「エスプレッソで」

「ありません。貴方いつもそんなもの飲んでないのでしょう?」

 エリカは喋りながら市販のブレンドコーヒーを用意してくれた。オレは砂糖を五杯くらい突っ込んでよく掻き混ぜた。エリカが「何このヒト信じられない」みたいな顔でその様子を眺めていたことを除けば、ようやく人心地のつけた瞬間だった。

「え? なに、お前こんな豪勢なとこに一人で住んでんの?」

「はい、昨日からですけど」

「普段お姫様やってんのに、一人暮らしとか出来るんだな」

「“あちら”ではそうですけど、“こちら”では以前も似たようなものでした。わたくしの両親はほとんど家に帰ってきませんから」

「うわぁ、大変だな、それ」

「慣れてしまえばそうでもありません。自分のペースで生活できるので、けっこう気楽なんです」

「でも、美人で自立していて家事も出来るんなら、まさに引っ張りダコだな。その気になれば誰でも落とせんだろ」

「それは……」

 エリカは少し頬を赤らめて、上目遣いでオレの瞳を覗きこみながら

「ハルトでも、ということですか?」

 ぼそぼそと聞き取りづらい声で何かを言ったようだ。よく聞こえなかったけど。

「しっかし広いな。一人で暮らすにはもったいねぇ」

 オレがぐるりと部屋を見回しながら呟くと、エリカは膨れっ面でツンとそっぽを向いてしまった。何がしたいのかさっぱりわからない。

 オレがぞんざいに足を伸ばして背もたれに躰を預けている様子を見たエリカが、困ったように溜息をついた。

「なんだか、ハルトって“あちら”での印象と随分ちがうから、ちょっと戸惑っちゃいますね」

「あぁん?」

「ほら! その返事とか、“あちら”では考えられないでしょう?」

「“あっち”でもお前以外にはこんなもんだよ」

 エリカはつぶらな瞳をパチクリさせて、手にしたコーヒーとオレを交互にちらちらと見比べ始めた。心なしか頬が赤いのは気の所為か。

「その、わたくしに、だけ?」

「あ? あぁ、当たり前じゃねぇか」

 王女様だからなと付け加えようと思ったら、ガタンと椅子から立ち上がったエリカが、出し抜けにオレの顔を両手で掴んだ。何だコイツ、いったい何がしたいんだ。

「は、ハルト。そそ、そうならそうと、いいい言ってくださればいいのに」

「いやいやいや、何いってんのお前。ちょ、おま、待て」

「はははハルト……」

「だから止まれヤメろお前は何か凄絶な勘違いをしている」

 エリカに押し倒されそうになって、手にしたカップから熱湯に近いコーヒーがオレの最も大事な部分に注がれた。

「うおおおおおおおおおおっ!!?」

「は、は、ハルト……」

「馬鹿かお前はっ! いいから離れろ! オレの人生で最大の危機が訪れてるんだぞ!」

「火傷なんてあとで治して差し上げますから」

「いま治せ!すぐ治せ!可及的速やかに治せ!」

 その後、オレはエリカを宥めるのに小一時間ほどの時間を費やした(火傷はちゃんと治してもらった)。

 オレもエリカも、互いに互いを“あっち”の印象という色眼鏡で見ていたようだ。オレはエリカのことを知的で清楚なお姫様だと思っていたし、エリカはオレのことを勇敢で忠烈な騎士だと勘違いをしていたらしい。実際のエリカは、頭はいいかもしれないが物凄いバカだし、実際のオレは勇敢というよりは命知らずなだけの、態度のデカい馬鹿でしかない。互いのいいところばかりを見てきたオレたちは、“こっち”でのギャップに戸惑って、特にエリカは壮絶な勘違いを起こしていた。

「いいか、よく聞け」

「はい」

 椅子に座って両手を膝の上に乗せたエリカが、殊勝な面持ちで頷いた。オレたちはこれからのことを話し合わなければならない。

「まず、適正な距離を保つこと。理由はわかるよな?」

「お互いお友達から始めましょう、ということでしょう?」

「ちげぇーよ、馬鹿じゃないのお前。名目上オレとお前は初対面なんだよ。初めて顔を合わせたんだよ、これまで会ったこともなかったんだよ」

「お互いに一目で運命を悟ったという設定なのですね、わかります」

「わかるんじゃねぇよ、全然わかってねぇよ、理解の仕方がおかしいんだよ」

「ハルト、もっと具体的に仰ってください。どうすれば貴方とわたくしは結ばれるのですか?」

「結ばれねぇよ、そういう話じゃねぇよ、前提が間違ってんだよ」

「そうですね。すでに結ばれているのですから、これからどう関係を維持していくかに論点を移したほうが良いでしょう」

 だ、ダメだ。オレにはコイツを説き伏せることは出来ない。この女、こんなにハジけたヤツだったのか。いつも静かな物腰で凛として前を向いているイメージしかなかったのだが、人間というのは本当にわからない。

 確かにオレは王女であるエリカを何度も危機から救ってきた。傍から見れば命を賭して護っているように見えたかもしれない。何せオレのイカれた脳には逃げるという発想が抜けているからな。いま思えば、エリカにとってオレは忠勇の騎士にしか見えなかっただろう。

 “こっち”の世界では王女と騎士という主従関係がない。お互い単なる学生だ。須らく礼儀作法など必要ない。これまでのように主として、王女として配下に接するという形が無用であれば、イチ女子高生として抱いていた勇敢なナイト様への憧憬のような感情が暴発しても不思議ではないかもしれない。

 オレのほうはというと、唐突な状況の変化に理解が追いついていない。エリカがどうこう以前に、現状を正確に把握して、今後の方針をしっかり定めたい気持ちでいっぱいだ。とにかく落ち着いて思考をまとめたい。

「とにかくだ。何か対策を練らなければならない」

「はい、それに関しては同感です。まさか突然あのような襲撃を受けるとは、わたくしも考えておりませんでした」

 オレはテーブルの上に両手を組んで乗せた。真面目な話をしようという意思表示のつもりだ。

「犯人に心当たりは?」

「ありません。過激派だろうことは予想できますけど」

「だろうな。黒い覆面ってのは大きな特徴だ。だがそれだけで過激派だと断定することは出来ねぇ。黒い覆面だけなら誰だって入手できるし、過激派を装った調和派だって可能性を消す材料は何一つない」

「ですが、犯人はレゾネイターでした。手にしていたあの武器は間違いなく“クルシス”でしたから」

「それに関しては同感だ。会話も出来なかったからな、背格好だけじゃ年齢すら推測できないが、実際に干戈を交えてみた印象で語るなら、ヤツは間違いなくレゾネイターだった。こっちもクルシスなしじゃ太刀打ちすら出来なかったし」

「しかも身体強化系のクルシスでした。それにかなりの手練れ」

 クルシスには身体強化系の他に現象惹起系が存在する。前者は身体能力を大幅に増進することの出来る武器だ。人間という枠を超えた筋力を行使できるのは大きな強みだが、人体の機能の延長線上でしかない。対して後者は何らかの現象を発生させることの出来るタイプのクルシスだ。エリカのそれがわかりやすい例だろう。エリカのクルシスは傷を癒すという現象を発生させる。火を熾こしたり風を操ったり、他にもいろんな種類がある。相手のクルシスにどんな機能が備わっているかを見極めないと、迂闊に手出しが出来ない。が、身体能力への寄与は少なく、近接戦では身体強化系に劣る。

「ですが、どうして身体強化系のレゾネイターが襲ってきたのでしょう。姿を見られたくないのなら射程の長い現象惹起系のほうが効果的かと思うのですが」

「確実に仕留めたいなら身体強化系のほうがいいからじゃね? 遠くから狙撃するタイプだと対象が死んだかどうかを判別するのに近づかなくちゃならないからな。それに現象惹起系の能力は何らかの痕跡を残す場合が多い。その痕跡から別の敵に能力を推測される危険を回避したかった、のかもしれない。あるいはそもそもそういうタイプの能力者が向こうにいないのか」

「そうですね。能力が判ればイマジナルに行って敵を特定できるかもしれない。その名前からリアルでの面を割って、クルシスを召喚していないタイミングで襲撃すれば、圧倒的に優位に立てる。ということでしょうか」

「おおかたそんなところだろう。だとすれば、敵も馬鹿じゃねぇ」

 ぬるくなったコーヒーを口に含んで溜息を一つ。どれもこれも確然とした情報ではなく、推測の域を出ていない。

「どうしましょう? 明日からずっと学校を休み続けるわけにもいきませんし」

「いや、むしろそっちのほうがマズい。家にこもりっきりの状態というのは、敵に狙ってくれと言っているようなもんだ」

「わたくしの家宅の所在がすでに割れている、ということでしょうか」

「そう考えるほうが安全だ。敵はお前の帰り道を狙って襲撃してきたんだぜ? 周囲に人がいない状況を作ってそこで待ち伏せしていたということは、人が多い状況に身をおいたほうがまだ安全だ」

「ですが、転校初日のわたくしの家宅を知っているとすると、学校関係者だと思うのですが、それでも登校したほうがよいと?」

「と、オレは思う。幸いオレとお前は同じクラスだし、有事の際もそのほうが対応しやすい。ん? お前、自分の家とか誰かに教えたのか?」

「いいえ。知っているのは教職員の方だけだと思います……すると、教師の方が?」

「随分しぼりこめたな。少なくともセンコーの中にレゾネイターがいるって当たりはつけられたな」

「すると、学校でもクルシスを召喚しっぱなしにしたほうがいいのかしら?」

「お前のはまだコスプレで誤魔化せるかもしれねぇけど、オレのはどう考えても無理だろ。生の刀身は存在感がありすぎる」

「わたくしも学校でコスプレはちょっと……それに、クルシスは手にしていないと霧散してしまいます。やはり学校でクルシスを召喚するのはよろしくないでしょう」

「だな。とにかく、今日はオレここに泊まるわ」

「ええっ!?」

 エリカが目を引ん剥いて固まってしまった。確かにいきなり泊まるなんて常識外れもいいところだが、命まで狙われているとするなら話は別だ。敵はオレがレゾネイターであることを知らなかったはずだし、そうだとするならばエリカを狙ってきたと考えるべきだ。特にエリカのクルシスの能力は戦闘向きじゃない以上、戦える人間がエリカのそばにいなければならない。

「シャワーとトイレくらいは借りるけどさ、心配しなくても何もしねぇよ」

「ええっ!?」

 エリカは目玉が飛び出るくらい吃驚して立ち上がった。このタイミングで驚く意味がわからない。むしろ安心するところだろう。

 視線を落として何か思考をめぐらすような素振りを見せたエリカは、いそいそと隣の部屋に入り、衣服のようなものを持ってきた。パッと見る限り、それは男物のトランクスやシャツ、パジャマのように見える。というかそのものだ。

「どうぞ」

 と、手にしていたそれをオレに差し出すと、エリカは三つ指をついて頭を下げた。なぜ男物の下着を持っているんだ、コイツ。親父さんのものなのだろうか。ひとり暮らしとはいえ、親が来ることを想定して用意しておいたと考えるのが普通だろう。そうだ、きっとそうに違いない。

「フツツカモノですが、よろしくお願いいたします」

「あ、いや、わざわざどうも」

 オレは馬鹿みたいにお辞儀を返して、受け取った下着とパジャマを注視した。何をお願いされたんだろう、オレは。

「アナタ、ご飯になさいますか? お風呂になさいますか? そそそ、それ、それとも」

「落ち着け、取り乱すな、お前は多分いま錯乱している」

「お、お風呂でご飯? ななな何を召し上がるおつもりなのですか? まま、ま、まさか、わた、わた」

「うるせぇよ、いいから黙れよ、そんなこと一言もいってねぇよ」

「かかかかしこまりました。おおおおお背中をお流しすれば……え? ままま前も?」

「テメェの背中と一緒に邪念も流して来い。話はそれからだ」

 オレはエリカの首根っこを掴んでバスルームに放り込んだ。面倒くせぇ女だ。

 結局、外を出歩くのは危険だと判断したオレたちは、エリカに簡単な手料理を作ってもらい、それを食して床に就いた。エリカは自分の部屋のベッドでだが、オレはリビングのソファでブランケットに包まって眠ることにした。


 その夜。

「はははハルト……そそそそのような……いいいいけませんっ」

 何かあった時のためにとドアを開けっ放しで眠ることにしたんだが、

「そ、そ、そ、そんなところを触って……は、は、ハルト」

「ドやかましいっ! 黙って眠れねぇのかっ!」

「き、来て、ハルト!」

「うるっせぇっ!!」

 エリカの寝言がうるさくてろくに眠れなかった。


 この作品も某社の募集に応募して落選した拙文です。


 この十月一日辺りまではまとまりのあるお話だったのですが、今後かなり複雑なお話になっていきます。

 正直に言うと、上手くまとまってないと思いますが、一応読んでいて楽しいなと思えってもらえるよう工夫はしているつもりです。最後までお付き合いいただければ幸甚に思います。


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