表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編

 そこはどう表現して良いのか分からないが、神秘的な場所としか言いようがない。気軽に入ることを戸惑ってしまうほど異質。夜でもないのに青いライトで空気を照らしたような薄暗い雰囲気。シンと辺りは静まり返り、鳥や動物たちの鳴き声は聞こえて来ない。今まで感じていた空気感や雑音が一切かき消された別世界。一歩踏み込んだだけでそのまま世界が切り離されたような気分に陥る。きっと外界のモノたちにもここが特別な場所であることが分かっているのかもしれない。それくらい不可侵で染められた場所だった。

 山の見た目はそこまで変わらない地続きなのに不思議だった。後ろを振り返ってもそこは同じ山なのに。たった一歩。たった一歩の距離で聖域への切り替わりを感じた。

「旅人様。もうすぐですので、がんばりましょう」

 さらに山の神域を進み、到着したのは目標の発火花採取ポイント。青く照らされていたのは、この発火花の実が発光しているせいかもしれない。発火花は手のひらサイズの大きな実を付けていた。その実はいが栗のようにも見える。トゲトゲしい外皮で覆われているが、ところどころが割れかかっている。素人目に見ても実が充分熟していることがわかる。また実から溢れた欠片がふわふわと空気中を漂い、それは蛍が遊泳しているようにも見える。

 そんな発火花で一面を覆われている神秘的な場所は幻想的な場所へと移り変わる。これはもう現世ではない。神様ですら作り得ない幻。

「旅人様。それでは採取してまいりますので、休憩しててください」

 多喜ちゃんは発火花の採取を始めた。この採取にはコツが必要で無理に引き千切ったり、実を傷付けたりすると発火する恐れがあるらしい。取り扱い注意とのことで手伝いたいところではあるが、多喜ちゃんに任せて、僕は邪魔にならないように大人しく隅っこで休むことにする。ブタクサも力尽きて寝息を立て始めてしまった。ここまで険しい道のりだった。今はゆっくりと寝かせておいてやろう。

 ようやく山頂に到着した実感が沸く。登山の楽しみこそ山頂での一服だというのは頷ける。山頂から望む景色は絵になるほど素晴らしい。下界がまるでミニチュアのように小さく、対照的に自分が大きくなったような錯覚を起こす。この感動は一軒の価値ありだ。

 それに山頂の空気はこれまた違った味わいがある。格別に美味く感じる。たくさんある緑たちの光合成で空気がろ過されたおかげだ。都会の空気みたいに汚れがない。僕はクリーンな酸素を吸収していく。自然のデトックス。肺に溜まっていた下界の空気をここで洗い流してしまおう。このためだけに登山するのも悪い取引ではない気がする。登ってきた甲斐があった。

「おや?見ない顔だな。もしやお前さんが手形の神から入山を許された者か?」

「んえっ?」

 僕が感動を味わっているときだった。全く気配も感じさせず、突然僕の隣に立っていた初老の男。マタギと呼ばれる山の猟師のような格好をしている。熊の毛皮をすっぽりと被っている。この辺の住人だろうか?僕たちに気付いて様子を見に来た風だった。

「僕から言わせればあなたも見ない顔ですよ。名乗るなら自分からというのが礼儀ではありませんか?」

「フォッフォッフォン。これは失礼した。わしゃはこの山一帯を守護する山の神だ。ここで発火花の栽培をしておる」

 ド偉い身分の者がきた。日本は八百万の神がいると言われているが、次から次によく出会うものだ。この就職難の時代に神様も炙れているんじゃなかろうか?

「こちらこそ失礼しました。僕は旅人風流です」

「そう固くならずとも良い。して。ようやく発火花の採取に参ったわけか。待ちくたびれておったのだぞ?数百年もな。フォッフォッフォン」

 数百年?確か採取は毎年行われていると聞いている。何の話だか知らないが、無視して僕は採取が遅れた理由を伝えた。

「フォッフォッフォン。待っていたのはお前じゃ。風流」

 さすが神様。もう人智を超えて何を言っているのか不明である。数百年前から僕を待っていただって?そんなバカな話があるものか。僕が生まれてすらいない。誰かと勘違いしているのかボケてるのか。相手をする必要のない人物かもしれない。

 怪しむ僕を尻目に山の神は大きく背伸びをする。身体のあちこちがパキパキッと骨が鳴る音がする。運動不足の警鐘だ。

「発火花がなぜこんな山奥に生えているのか知りたくないか?」

 そんなことを言うボケ始めの神様。発火花について何も知らないから是非教えてほしいとお願いする。ボケ予防に話を聞いてやるくらいの時間と余裕くらいはあるだろう。多喜ちゃんの採取も時間がかかりそうだし、ブタクサは眠っている。

「発火花は地熱を吸収して、その実を実らせる。なのでひと度発火すれば爆発的に燃える。本来発火花は火山活動を抑えるために栽培されているのだよ」

「火山を抑えるために、ですか?」

「そうだ。だが、蓄熱には限界がある。そのため毎年こうして採取してもらわなければ困るのだ。そもなければ山を怒らせてしまうからのぅ」

 そんな話は聞いたことがないので正直に驚いた。ボケ老人の話でもやっぱり聞いてみるものだ。発火花にそんな役割があったなんて知らなかったし、この山が活火山だということも始めて聞いた。

 多喜ちゃんが採取しているが、もし忘れていたらと思うとゾッとする。山は噴火してしまうのだろう。

「でもまぁこれでわしの仕事もひと段落と言ったところだ。さて。わしゃそろそろ失礼する。手形の神と約束がしてあってな。これから戦いの地へ向かわねばならぬのだ。血で血を洗う戦響の調べ。命という貨幣でしか支払えぬ勝利を手に入れるために」

 手形の神様との約束……カラオケか。仰々しい言葉を選んでいるが、歌いたくて拳が震えているようにも見える。

「わしゃはここを離れる。後のことは任せたぞ。風流」

 そして山の神はすぐに気配を消した。慌ただしく言うべきことだけを言い残して去っていった。そこまでカラオケが大事なのか?神様って案外遊んでばっかりいるのかも。声を出すのも面倒な僕には理解できない。

 それはさておき、おもしろい話が聞けた。僕の知識欲が刺激される。そうだそうだと僕は発火花の写真を一枚パシャリと記念に撮っておく。車まで帰ったらネットで詳細を調べてみよう。この山のこと、発火花のこと。

 そうこうしているうちに発火花の採取も無事に終わったようだ。背負ったカゴにめいいっぱい発火花の実が積み上げられていた。実は発光を抑え、木炭のように黒く変色し始めている。これは燃えカスになったのではなく、燃える成分が凝固しているらしい。

「たくさん採取したね」

「はい。たくさん採取できました。これだけあれば充分です。それでは村に帰りましょう」

 僕たちは来た道を戻る。僕は重そうなカゴを持とうか?と聞いたが発火花は強い振動を与えるだけでも発火する。さっきも言ったが燃える成分は凝固しているだけなのだ。危ないので持たせてもらえなかった。

 ブタクサは乗せられているお前が持つんじゃないだろ?と良いツッコミをもらえたが。ここは扱い慣れている多喜ちゃんに任せるのが賢明なのだろう。

「ところで旅人様。誰かとお話されていたんですか?話し声が聞こえたのですが」

「うん。山の神様と話してた。発火花ってこの山の火山活動を抑えるために生えているんだって。知ってた?」

「いえ、初めて聞きました。お父様は……お爺様は知ってるんでしょうか。帰ったら聞いてみます」

 うん。さすがにあの父親が知っているはずがない。

「旅人様は色々な神様とお話されるのですね。うらやましいです」

「ん?もしかしてバカにされてる?」

「そんなわけありません。私も神様とお話したいです。もしかして旅人様は神様なのかもしれませんね」

 そんなバカな。


 来た道を帰るのは楽といえば楽だった。くだり坂になるので、慌てて降りようとせず、ゆっくりと下っていけば問題ない。

 ガサガサガササッ……。なんだろう?妙に草木の擦れ合う音が耳に付く。今まで静かすぎる山の神域にいたせいだろうか。気になって仕方がない。

「……旅人様。気付いておられますか?どうやらこの発火花の匂いに誘われて野生動物たちが集まって来ています」

「なんですと!どうしてまた?」

「発火花の実は食べると身体を暖める保温効果があります。野生動物にとって長い冬を越すためには必需品なのです。いつも祭りで発火させた後の実なら山に返しているのですが。どうやら食いしん坊さんが嗅ぎ付けたみたいです」

「大丈夫なのか?襲ってきたりしないよな?」

「大丈夫だと思います……が、異常に集まりが良いです。山の神様は何か言ってませんでしたか?」

「手形の神のところへ行くとか言ってた」

「……まさかですけど、どこかへ出かけられたため、山の神様の守護がなくなったのが原因かもしれません」

「何それ?本当のことなの?」

「神様は神様の力を発揮するには専用の場所、例えば神社や祠などの場所が必要だと聞いたことがあります。ここへ来るときに動物たちと出会わなかったのは山の神様が専用の場所で私たちを守護してくださっていたからだと思います」

「それはつまり……」

「危ないかもしれないということです。クマの荒い鼻息も聞こえています。できるだけ彼らを刺激しないように進みましょう」

「ひぇ~っ!し、死んだ振りとかしなくて良いのかな?」

「人間より数倍優れた感覚を持つクマに死んだ振りなんか、息遣いや鼓動の音ですぐにバレるに決まっているだろブヒィ」

「それもそうか。ならどうすりゃ良いんだよ?」

「少しは落ち着けブヒィ!」

 とにかく慎重に進むしかない。隙を見せたら終わりだ。

 ……といっても僕はただ森の中にいるだけに過ぎない。動物たちの姿形は見えない。見えないのに怯えているこの感覚をどこかで感じたことがある。見えない敵に怯える日々。その空間に僕しかいないはずなのに。頭ではわかっているのに、何者かの視線を常に感じていた入院生活。あの頃の僕はひどく怯えていた。あのときの過敏な神経が蘇ってくる。真っ直ぐに前を見ているのに全方位から視線の位置がわかる。なんだ。あのときと一緒じゃないか。

「旅人様。残念ですが前も後ろも囲まれてしまいました」

 過敏な神経が敵を捉えていく。草木の隙間や土が盛り上がった小さな隙間からさえも、緑色でも土色でもない瞳が覗いている。少なくとも友好的でない目が二十匹以上の獣の存在を正確に知らせてくれた。みんな真っ直ぐに獲物である発火花に注目している。前にも後にも進めない状態。いつ襲ってくるのかもわからない。どんどん緊張感が高まっていく中で僕は逆に冷静になっていく。今まで見えなかった敵が見える敵に変わっただけだ。むしろ見えたことで存在不明なモノよりもマシだと思えた。

「旅人様。こうなってしまった以上、発火花をバラ撒きながら逃げましょう。身の安全が第一です」

 多喜ちゃんはそう提案する。確かに発火花を担いだまま逃げ切れる保証はゼロに等しい。

「山の神域から出た途端にこれかよブヒィ。一度戻って保護してもらうように頼めないのか?」

「無理だろ。もう採取場所にはいない」

 カラオケに行っているはずだ。職務放棄も良いところだ。

「待てよ。カラオケと言えば歌う場所が必要だ。この近くで歌える場所と言えば山彦の洞窟。そこに山の神様たちがいるような気がする」

「気がするって何の保証はないだろブヒィ。そもそもそこまで辿り付けるかどうか……ブヒィ」

 ブタクサの言う通りだ。だが賭けてみる価値はある。このまま見す見す発火花を取られるのも癪だ。とにかく山彦の洞窟まで逃げ切ろう。それでダメなら諦めも付く。根拠はないが妙に湧き上がる自信が僕を突き動かす。やらずに最初から諦めるよりもやって後悔しよう。

 よし。覚悟は決まった。このムカつく視線たちに一泡吹かせてやる。そんな気持ちに支配される。いつもいつも僕を苦しめてきた視線たち。見えなかった敵がただ見える敵に変わっただけで随分強気になれる。いや、安心できる。ケンカするには相手が必要だというが全くその通りだ。ケンカ相手がどんなやつか分かれば対策のしようはいくらでもある。

「お、おい。ここは最後の切り札の出番じゃねぇか?ブヒィヒィィ」

「まぁ落ち着けよ。切り札の出る幕じゃない」

 僕はこの山に入ったときから持って来ている防犯防災グッズをリュックから取り出す。相手が野生動物ならそれなりに対処のしようがある。

 まず準備したのは防犯ブザー。しかも最新式でヘリコプター機能が付き、リモコンを使って操作できる。本来なら警備会社の人が現在地を把握し、人が多いほうへ飛んで行くよう操作されるのだが、今回は手動に切り替えて僕が操作する。

 防犯ブザーのスイッチを入れるとけたたましいサイレン音が鳴り響く。これだけでも人間より優れた聴覚を持つ動物には脅威だろう。

「ブヒィ!うるせぇ!何してんだよ!あー!鼓膜が破れそうだブヒィ!切り札を耳栓にしようぜ!ブヒィ」

「そんな使い方すんな!」

 おっと。一番近くにいるブタクサにも被害が出ている。効果てき面だ。防犯ブザーのプロペラを回すとブゥオーッと勢い良く風を切り、僕の手元を離れて宙に浮く。それを確認してから僕はスマホのリモコンで操作を開始する。

 けたたましいサイレン音はすごい勢いで隠れている視線主のほうへ突撃していく。野生動物たちは自然界にないサイレン音にひどくおののき、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。予想通り。

 大半の動物たちはこれで散らせたが、しつこいのがまだいる。クマはどっしりと居座っていた。王者の風格というやつか。サイレン音に動じることなく、物陰からじっとこちらの動向を伺っている。やはり一筋縄ではいかなかった。飛行防犯ブザーをクマに近づけすぎると叩き落される危険がある。

 では次だ。ここで取り出したるはニンニクおにぎり~っ!僕は特大ニンニクおにぎりをまるまる一個を手にした。

「そ、それは初日のお弁当?腹ごしらえでもするつもりですか?」

「その通りさ!あぐっもぐもぐもぐ。よく噛んで!必要以上に噛み砕いて!」

「お、おい。そんなことしたら大変なことになるぞブヒィ。俺は知らないからな!」

 ニヤリとする僕。そしてクマがいる方向へぷはぁ~っと強烈なニンニク臭の詰まった吐息を飛ばす。

「ブヒィッ!ブヘッブ!ブホホーッ!」

「うっ……た、旅人様。こ、これは?」

 想像を絶する臭いの拡散。僕自身鼻がひん曲がりそうなくらい苦しい。胃中からこみ上げてくる焼けるような臭い。吐息に色が付いていれば周囲に広がっていく恐怖が見えただろう。

 生存競争の中で臭いを武器にするモノがいる。代表的なのはスカンクだろう。強烈な放屁を敵に浴びせて撃退するのである。それはニンニクにも同じことが言えるわけで、この不快な悪臭も一種の防衛手段となっている。

「フギッフゴッ!フゴッ!」

 狙い通り。クマはあまりの悪臭に苦しみ始めた。前足で目に鼻に口に染みる臭気を追い払おうとしているのだが、いかんせん強烈すぎる僕の息に悪戦苦闘していた。臭いが粘り付く。

「んごおおおおおあぎゃあああーっ!くせぇ!」

 そしてこっちも狙い通りに自爆。自分自身の臭いに負けてしまいそうになる。だが引き下がれない。クマに襲われることを考えれば我慢するしかない。鼻の奥から臭い。胃の中から臭い。身体の中から外まで臭い。何もかも臭い。臭い臭い臭いっ。ああ臭い。

「頼むから諦めてどっか行けってんだ!クマァー!」

「ブヒィ!ブヒィ!たまらん!くせぇえええっ!俺の鼻に切り札詰めてくれぇ!ブヒィ!早よ!」

 ブタクサの鼻がひん曲がってくる。いや、これはもともとだったか。

「たひ、たひひとしゃま。らんばってくららら~っ」

 多喜ちゃんも鼻がもげそうなくらい摘んで悪臭に耐えている。

「ひっひっふぅ~っ!ひっひっふぅ~っ!」

 僕もすでに限界を超えている。もう気力だけでクマと対峙する。全身が呼吸をするたびにニンニク臭で呼吸器が焼かれてしまいそうになる。だがまだだ。まだ止めるわけにはいかない。クマがまだその場にいる。僕は残り少ない気力を振り絞って悪臭攻撃を続けた。

 まだか!まだクマは逃げてくれないのか!いいかげん諦めてくれ!と心の中で叫ぶ。クマも己と戦いながら、我慢強さを誇示してくる。なんということだ。お互いの意地とプライドのぶつかり合い。どちらがこのニンニク臭我慢大会を制することになるのか。

「はぁはぁはぁ……っ」

 長きに渡って戦ってきた僕とクマの戦い。決着は……クマの勝利だ。ニンニク臭のピークが過ぎてしまった。まだ充分臭いのだが、これ以上の臭い攻撃は通用しない。防犯ブザーによって聴覚を失い、ニンニク臭によって嗅覚も失い、されど狙うは発火花。見上げた根性である。クマながら天晴れと言わざるを得ない。

 クマは僕たちに向かって再び威嚇を始める。発火花置いてけと言わんばかりに。

「くそっどうすれば良いんだよ!やはり発火花を置いていくしか方法はないのか」

 ここまで来てそれはない。悔しい。悔しすぎる。だからとて他に良き案なんて思い付かない。ここまでか。ここまでなのか。

「言いたいことがあるブヒィ」

「ブタクサ?何か良い案があるのか!」

 さすが僕の相棒だ。こういうときにこそ頼りになる。

「お前臭いから息するなブヒィ」

「……」

 僕は思いきり息を吸って、ブタクサの鼻に向かって吐いてやった。このままひん曲がってしまえ!

「ブヒィヒィ!は、鼻がもぎれる!もぎるぅぅ!もう限界だブヒィ!切り札を!最後の切り札を鼻に詰めてくれブッヒィーッ!」

「もう何なんだよ!さっきから切り札切り札言いやがって!切り札ってのは忘れた頃に出すのがカッコ良いんだろうが!何度も叫んでりゃあ全然切り札れねぇじゃねぇか!」

 僕はくノ一からもらった謎の小袋を強引に取り出した。最後の切り札をひと粒掴み取る。ビー玉サイズの白くて固い何か。飴玉なのか丸薬なのか、一体何をするものなのかわかっていないが、自らその毒味役を買って出るブタクサは天晴れである。どうなっても知らない。お望み通りに切り札を口の中へ詰め込んでやった。

「ブヒィ!ブヒィンガングッ」

 ブタクサは突然入れられた切り札を反射的に飲み込んでしまったようだ。

「おいどうなんだよ?大丈夫なのか?」

「こ、こいつは……」

 ブタクサが神妙な表情になって語る。切り札の正体は一体何なのか?

「こいつは濃縮された甘酒キャンディだな。甘くてほんのり香る酒粕が美味いブヒィ」

「……あぁ。そう」

 僕もひとつ摘んで食べてみる。うん。甘酒の甘みが口いっぱいに広がって旨い。いやそうじゃなくて!

「これが切り札なのか?ガリガリガリ」

「あっ!こいつ、飴を噛みやがった!飴玉の神様に謝れ!」

「そんなことはどうでも良いブヒィ。それでこれがどう最後の切り札になるんだ?ブヒィ」

「僕に聞かれても知らんがな」

 ……こいつは困った。どう反応して良いのやらわからない。

「旅人様。何を食べているのですか?こんなときに」

 多喜ちゃんがこの状況を不信に思うのも無理はない。僕だってワケが分からないのだから。

「ええっと。多喜ちゃんも食べてみる?」

 僕はひとつお裾分けをしてみた。

「いただきます。あ、甘いですね。何ですかこれは?」

 とりあえず、クマにもひとつ与えてみた。ポイッとクマのもとに甘酒キャンディを投げる。クマは興味深そうにその臭いを嗅いでいた。果たして餌付けは成功するのであろうか?

 ……クマは器用に前足でキャンディを横に払った。餌付け失敗!クマは再び荒ぶって威嚇を再会した。

「ぐぉっぐおおおおおぉーっ!」

「もう!一体何なんだよ!この切り札!」

 パニックになるしかない。

「はっ!これはもしかしてあれだブヒィ。甘いものでも食って気分を落ち着かせろっていうくノ一なりのメッセージに違いないブヒィ!だから落ち着くんだブヒィ。冷静になれば何か良い案が閃くかもしれないだろブヒィ!まだ慌てるような状況じゃないブヒィ」

「そんなわけあるか!あああぁっ!どうすれば良いんだよぉ!」

 クマがじりじりと距離を縮めてくる。慎重に。それがかえって恐怖心をあおる結果となる。僕たちもクマに行進に合わせて後退していくしかない。いつ襲ってくるかわからない。どう動いてもすでに詰んでいるとしか言いようがない。

「ブヒィ?」

「どうしたんだ?ブタクサ」

 妙な声を上げるブタクサ。後方に何かを感じているようだった。僕も同じく後方をチラ見する。完全に後ろを向けない。クマから視線を外すことは一瞬で襲われる隙となるから。

 チラ見で確認した光景は多喜ちゃんがただ突っ立っている様子だった。そう。後退もせずに距離がどんどん縮まっていくのに。

「た、多喜ちゃん?どうしたんだ?」

「旅人様。早く帰りましょう?グズグズしていると日が暮れてしまいますよ?」

 そう言って多喜ちゃんは僕たちをすり抜けて前に出る。もちろん僕たちの前にはクマが威嚇中なのに。

「多喜ちゃん?ちょっと!危ないよ!」

 僕は慌てて手を出した。だけど多喜ちゃんの手を掴むことはできなかった。

「くそっ。ブタクサ。多喜ちゃんを止めよう!」

「バカヤロウ!これ以上距離は詰められないブヒィ!何とか呼び止めるんだブヒィ!」

「多喜ちゃん!戻ってくるんだ!早まるな!」

 だが多喜ちゃんは僕の制止に構わずクマの前まで進んでいく。興奮しているクマの目の前だ。人間のほうから不意に近づかれて余計興奮している。最高潮に気が高ぶっていて非常に危険な状態だ。もういつ襲われても不思議ではない。今にも飛び掛らんとする勢いだ

「ぐおおおおおおぉーッ!」

 マズい!クマのほうから動き出した!前足を振りかぶる。顔よりも大きな前足が多喜ちゃんに襲いかかる!ダメだ!やられてしまう!


 ……ッ!


 僕は反射的に瞑った目を恐る恐る開いてみる。するとそこには射程距離を見誤ったのかクマの前足は多喜ちゃんには届かず、大きく空振りしている様子だった。

「な、何が起きたんだ?」

「逆だ。なぜ何も起きなかったんだ?だブヒィ。クマが攻撃を外すなんてあり得ないブヒィ」

 それはクマも同じように感じていただろう。なぜ外したのか自分でも理解できずにハテナマークが頭に出ている。まるで幻を襲ったのか、するりと空振りしていた。

「ふふっクマさんこちらですよ?」

 多喜ちゃんは地面から小石を拾い上げてクマの額にコツンと投げ付ける。とんでもない挑発行為。クマもこれには激怒したようで、さらなる前足ひっかき攻撃を繰り出す。

 ビュン!ビュバン!ビュオッンン!

「ぐあああああ!ごおあおおおおぉー!」

 ビュビュッ!……ビュビュンビ!ビューンビュンッ!

「なんだ。あれは……」

 不思議な光景を見ているようだ。クマの前足ひっかき攻撃は全て空振り。多喜ちゃんは華麗な身のこなしで回避していく。カゴに入った発火花はひとつも落とさずに。

「ぐおぉ……ぐほぉ……っ」

 そうこうしているうちにクマが息を切らせてしまった。威圧的な咆哮が大きな呼吸に切り替わる。

「全力攻撃ほど外すと体力は大きく消耗してしまいます。体格差が大きい相手ほど有効な戦法です。動物たちの攻撃は純粋です。純粋だからこそ不純に汚されてしまう」

「多喜ちゃん?」

 多喜ちゃんの口から似つかわしくない単語が飛び出す。戦法だとかこんなにアクティブな娘だったろうか?

「これでも、ヒック。くノ一の娘ですから。ヒック」

「酔ってらっしゃる!」

 甘酒か!甘酒キャンディでか!

「あれが世に聞く酔拳かブヒィ」

「知っているのかブタクサ!」

「あれは酔った振りをして相手の油断を誘って反撃する。まさに攻防一体の奥義!それが酔拳だ!ブヒィ」

 ブタクサは力説する。なぜそんな知識があるんだ。意外と拳法とか好きなんだろうか。ブタのくせに。

「しかしなんでまた酔拳なんだ……ん?なんだこれは?何か小袋に入っているぞ」

 切り札の小袋から紙切れを見つける。文字が見えたので僕は手に取って見てみる。手紙にはこんな注意書きが記されてあった。

「これは解放丸という丸薬。一時的に身体能力や感覚を上げるという効果がある。また副作用にしゃっくりが出るので注意すること。酔い成分ではないので子供でも安心して飲んでも良い」

「……うわぁブタクサ、だっせぇ。酔拳とか自信満々に言ってたのに」

「なっ!バカ!違うって!あれはその……あれだ。ブ、ブタが間違って何が悪い!なんだ?ブタが間違っちゃいけない法律でもあるのか?あ?なんだこのやろう!文句でもあるのかブヒィ!」

 ブタクサが無様に逆ギレし始めたので無視することにする。

 それにしても解放丸なんてすごいものがあるんだな。まさに最後の切り札に相応しい。多喜ちゃんでさえあんな力が発揮されているんだ。僕たちにもすごい効果が出ているに違いない。何だか身体が軽くなったような気がしてきたぞ。今なら僕でもあんなクマぐらい一撃で葬り去れるだろう。

「ん?まだ注意書きには続きがある。何々?……解放丸は大変高価なのでひとつしか買えなかった。そこで運試し。この小袋には似たような飴玉も入れておいた。たったひとつの本物をうまく当ててくれ。では健闘を祈る。くノ一母より……って何だよこれ!」

 それはお茶目が殺意を生む瞬間だった。こんな大ピンチなときに何を言ってやがりますか?そういうのは全くいらない。PTOを弁えてほしい。誤ってクマに解放丸が当たったらどうするつもりなんだ。……いや、それは僕のせいなんだけど、あまりにも軽率な行動に冷や汗がドッと出る。

「結果的に多喜ちゃんに当たったから良かったものの……ブタクサに当たっても意味ないだろ。ブタクサに解放すべき力なんてこれっぽっちもないんだから」

「なんだよそれ!聞き捨てならねぇな!俺だって解放すべき力ぐらい、いくらでもあるんだぞブヒィ!」

「ほう!それは一体どんな力かね?ブタクサくん。ただのしゃっくりを酔拳と見誤る力かね?ん?」

「くっ……あ、あー!残念!残念だブヒィ!解放丸はひとつしかないブヒィ!これでは俺の力は見せられないブヒィ!あー!残念!俺が飲んだらあんなクマなんかスビャーでヒャボーでリャリャリャー!だったのにブヒィ!」

 ごまかすのにもほどがある。擬音だけで何の説明にもなっていないが、可哀想なのでこれ以上突っ込むのはやめておこう。

「シチッ!ハチッ!クッ!」

 多喜ちゃんは三つの投石攻撃をクマの額にヒットさせる。スタミナを削るための挑発行動なのでダメージはない。だがクマに休む暇を与えず、常に攻撃を繰り出させ続けるのは至難の業。全く攻撃が当たらないと思わせてはクマも諦めて攻撃の手をやめてしまう。なので避けるのはギリギリかつクマの視界に入り続けなければならない。クマの命中予測を上げ過すぎず下げ過ぎず、だ。

「これはとても大切なものなんです!どうか退いてください!」

「ぐおおおおおぉーっ!」

 多喜ちゃんの声は届いてくれない。クマも攻撃をやめなかった。酸素が足りず、肩で大きく呼吸をしている。動作も鋭さを失い、攻撃も緩慢になっている。それでもなお前へ出てくる。

「わかってもらえないみたいです」

 そもそもクマに通じる話じゃない。向こうは向こうで必死であり、命がけなのだから。

「しかしなんでこんなに執着するんだ?祭りの後に燃えカスは山に返してるんだろ?それまで待ってりゃ良いのに」

「……もしかして今年の分ももらえないのでは?と不安になっているのでしょうか?」

 去年の在庫が多喜ちゃんの家にあった。つまり去年分の発火花は山に返されていないわけだ。

「去年分の管理は多喜ちゃんの父親がしてたんだよね。どうしようもない父親だな」

「うぅっ。申し訳ありません」

「た、多喜ちゃんが謝ることないじゃないよ」

 自分の父親を悪く言われて気分が良いものではない。あれでも父親は父親なんだから。これは僕のミスだ。

「いいえ。身内の恥は私の恥です。この発火花は何があっても持ち帰らなければなりません」

 やる気みなぎる多喜ちゃんだった。もしかして叩かれて伸びるタイプなのかもしれない。

「しかしそれにはまず目の前にいる障害を乗り越えないと」

 クマは疲労しているが、まだ僕らの前でしつこく立ちはだかっている。

「仕方ありません。私も逃げるわけにはいきませんから、お相手致します」

 多喜ちゃんは構え直す。今までの回避主体から攻撃型の構えに。それだけで緊張感が高まる。距離を取って後退しかしていない多喜ちゃんが始めて前に出る。

「こ、これは出るぞ」

「何がだよ?ブヒィ」

「そんなの決まっているだろ。クマを一撃で葬り去る必殺の暗殺忍術みたいなのだよ!あまりにも凶悪な忍術なだけに封印されていたが、解放丸によって今この瞬間解き放たれるのだ!」

「な!マジかよブヒィ!そんな秘められた力があの娘にあったとは!」

「だが、この暗殺忍術は術者の命と引き換えだ。多喜ちゃんは僕たちを逃がすために犠牲になろうとしている。多喜ちゃんの死を僕たちは無駄にしない!」

「なんてこった!この世に救いなんてありゃしないぜブヒィ!」

「泣くなブタクサ!」

「あ、多喜ちゃんが動いたぞブヒィ!待て!考え直すんだ!君みたいな女の子が犠牲になるなんて!ブヒィィー!」

 多喜ちゃんは背中のかごから一本の発火花を取り出す。その一本を差し出すようにクマの鼻先に持っていく。クマはくんくん臭いでその花が発火花であると認識したようで、口を開けて食べようとした瞬間にサッと引く。クマの口がエアを噛む。

「取っておいで!」

 多喜ちゃんは発火花を遠くに投げた。この辺りは動物の習性なのだろうか?犬のようにクマは投げられた発火花を追いかけて行った。

「旅人様!発火花ひとつを犠牲にクマの注意を逸らしました!今のうちに逃げましょう!」

「お、おう!ブタクサ走れぇー!」

 僕たちは山道を走った。

「……適当なこと言ってるんじゃねぇー!ブッヒィー!何が必殺の暗殺忍術だ!バカか!ブヒィ!」

「うるせぇ!僕がそんなの知ってるわけないだろ!騙されてんじゃねぇぞ!騙されるやつがブタなんだよ!このブタ!」

「開き直ってんじゃねぇ!あとで尻尾を鼻に突っ込んでくしゃみさせてやるからな!覚えていろよ!ブヒィ!」

 いつものやり取り。中身のない言葉のキャッチボール。

 僕たちは大急ぎで山彦の洞窟に向かった。途中の野生動物たちも追っては来ているが、防犯ブザーヘリとニンニク臭を警戒しているので近づいては来ない。今の問題はさっきのクマからどれだけ距離を取れるかだ。当然投げられた発火花を手に入れればすぐに追ってくるだろう。

 大量の発火花を担ぐ多喜ちゃん。しかし解放丸による運動能力アップと土地勘があるおかげで足は速い。問題はこっち。ブタクサはただのブタだ。甘酒飴を噛む愚かなブタだ。つまらないウソ会話に付き合ってくれるブタだ。しかも僕というお荷物まで抱えているブタだ。おかげで全くスピードは出てない。

 それに山下りだ。下り坂を慌てて降りるとかえって危ない。転げ落ちる危険があるからだ。ならば僕たちが選択すべき運命はこれしかないだろう。わかっている。ブタクサにも当然その選択肢は伝わっているはずだ。

「多喜ちゃん。ここは僕たちに任せて先に行くんだ」

「た、旅人様?何を言ってるんですか?私にそんなことは出来つわけないじゃないですか!戻るときは旅人様も一緒です!」

「……よく聞くんだ、多喜ちゃん。このまま足の遅い僕と逃げてもいずれ追い付かれてしまう。なら僕がここに残ってクマの足止めをする。その間に逃げてくれ」

「そ、そんなこと」

「多喜ちゃん!迷っている場合じゃないんだ!気付いてくれ!僕たちの目的を。その発火花を無事に村まで届けることだろ?ならその目的を何が何でも遂行しなければならない。多喜ちゃんなら出来る。お願いだ。村のために。祭りのために。発火花を持ち帰ってくれ」

「……わかりました。山彦の洞窟で待っています。必ず。必ず来てください」

 多喜ちゃんはそのまま振り返らずに山を下っていった。さすが忍者の娘。そのスピードは段違いに速かった。これならクマもそう易々と追い付くことはできないだろう。

「ブタクサ。わかっているな?」

「ブヒィ。お前もたまにはカッコイイこと言うじゃないか」

「ブタクサ。お前と一緒に過ごした人生楽しかったぜ」

「よせやい。ブヒィ。俺たちは生きて帰る。そうだろ?」

「そうだった。そうだったな。僕たちは永遠の相棒だ!」

 ズザザーッとクマが獣道をかき分けて降りてくる音がした。僕たちは自分たちが降りてきた道を振り返る。クマをここから進ませない。僕たちの大一番が始まる!

 ズザザーッ。クマは僕たちの後ろを横切って行った。

「……えっ?」

 山道は登るのも降りるのも蛇行しながら進んでいく。そうすることで山道の高低差を和らげつつ進めるからだ。だが、クマにそんな山の常識はなく、真っ直ぐ直進で山を降りて行きやがった。山に対して蛇行しながら横に降りる僕たちと真っ直ぐ上から下へ縦に降りるクマ。ちょうど進路が十文字に重なったわけだ。

 クマが草木をなぎ倒して作られた山道を眺める。

「多喜ちゃんならきっと逃げ切れるさ」

「あぁ。そうだなブヒィ。……そろそろ俺たちも降りようか」

「そうしてくれ」

 僕たちは目から出る汗を拭いながら山を下っていった。


「旅人様!ご無事でしたか!」

 多喜ちゃんが駆け寄ってくる。全員無事に山彦の洞窟まで逃げ切れたようだ。ひとまずこれで安心だろう。野生動物たちは自分のテリトリー以外で闇に足を踏み入れることはない。さきほどのクマもどこかでこちらの様子を窺っていることだろう。問題が解決したわけではないが、これで少しは心の余裕ができた。

 ここまで急いできたのでブタクサの身体は滝のように汗が流れている。面倒だったがタオルで拭いてやる。

「多喜ちゃんも汗を拭きなよ」

 多喜ちゃんも手ぬぐいで身体の汗を拭い始めた。体力の消耗と僕が無事に戻ってこれるのか気が気でなかったため、滴るほどの汗をかいていた。女の子の身体を流れ落ちていく汗という液体を目で追っていくと妙に艶っぽく感じさせる。僕の胸がドキドキしてくる。

「旅人様。下着の中まで汗で濡れてしまっています。服を脱いで拭っても良いですか?」

「え?あ、うん。そうだね。汗かいてると気持ち悪いし、風邪引くもんね」

 僕は多喜ちゃんに背中を向ける。よく脱ぐ娘だ。

「旅人様。今から服を脱ぎますので絶対に後ろを振り向かないでくださいね」

「わかってるよ」

 そして聞こえる衣擦れの音。この絶対に振り向かないという禁止をかけられると余計に振り向きたくなる衝動に駆られる。僕はその衝動を抑えるのに必死だった。禊ぎの滝であったようなことにならないかなと期待しつつ。

「ふぅ。終わりました。もう大丈夫ですよ。旅人様」

 僕が悶々としているうちに終わった。何のイベントも起きなかった。残念だった。

「次は旅人様の番ですね。私が拭って差し上げましょうか?」

「へぁっ?べ、別に良いよ。僕はそこまで汗をかいてないから」

「そういうわけにはいきません。私が旅人様の身体をフキフキしたいだけなんです!あっ!違いました。このままでは風邪を引いてしまいます!」

 欲望が先にはみ出してしまった多喜ちゃん。この後もやけに食い下がる。このままでは話が進まない。これからのことも話さないといけないし。僕はもう勝手にしてくれと言わんばかりに両手を上げて降参のポーズ。

 ようやく許しを勝ち取った多喜ちゃんは嬉々として僕を脱がしにかかる。すっかり上半身は丸裸にされて背中の汗を拭ってくれた。

「あの、旅人様。少しお話よろしいですか?」

「ん?何?」

「旅人様は村の外から来たのですよね?」

 村の外から来たというより、病院の内から抜け出してきたと言うのが正解なのだろう。そんな話をしても仕方ない。

「私は村から出たことがなくて、外の世界がどうなっているのか聞かせてほしいのです」

 いわゆる箱入り娘というやつか。さぞ輝かしい外の世界を想像して、それを肯定してほしいのだろう。

「僕にもわからないよ。僕もようやく外に出ることができたくらいだし」

 こいつのおかげでね、と両足を多喜ちゃんに見せる。きっとこれだけで回答としては充分だろう。ウソをついているわけではない。足があるかないかだけで、移動には天と地との差が生まれるのだ。

「私は旅人様がこれから見る外の世界はきっとステキな場所だと思います」

 夢見がちな少女の他愛もない夢。少女病とも言えるまばゆくてキラキラした世界のこと。ガラス片があちこちで乱反射したような光の屈折群。もしくは少女漫画に出てくるような目の中に星を飼っている少女から見た世界のこと。どっちでも良いが困ったものだ。

「そう……だと良いけどね」

「えぇ。そうなりますよ。きっと」

 そういうセリフを何度病院内で聞いたことか。ただ多喜ちゃんの場合は無責任な発言ではなく、世界の片面しか知らない無邪気さがある。わざわざそれを壊す必要はない。適当に話を合わせておけば満足するだろう。

「旅人様の夢は何ですか?」

 多喜ちゃんはそんな言葉を口にする。夢。久しく触れたことのない腫れ物のような言葉。僕は夢を何だと思っていたんだろう?ただひたすら記憶にない。あまりに思考が停止してしまって黙りこくってしまった。妙な間が空く。代わりに多喜ちゃんが口を開いてくれた。

「私は歌手になりたいんです」

 開いた口からそう告げられた。

「今度のお祭りでみんなの前で歌うことになって、とても嬉しいです。ですがそれにはもうひとつの意味があります。みんなの前で歌って評価してもらうんです。私が歌手として外の世界へ羽ばたけるかどうか。だから特別なんです。私にとって今度のお祭りは」

 そんな秘めた思いがあったんだと僕は思った。思えば山彦の洞窟でいっぱい歌を歌っていた。僕が疲れて眠ってしまってもずっと歌い続けていた。僕は多喜ちゃんがただ歌が好きなんだと思っていた。でも違った。多喜ちゃんの歌は叫びだ。この閉じられた世界から外へ向かって叫んでいたんだ。それにようやく気付くことができた。

「そっか。じゃあ今度のお祭りは頑張らないとな」

「はい!」

 僕には応援することしかできないけど、多喜ちゃんは僕にめいいっぱいの笑顔を向けてくれた。


「さて。そろそろ洞窟内を探索してみるかな。山の神様たちがいるはず」

「本当に神様はいるんでしょうか?」

「行ってみないことにはわからないけど」

 僕は防犯リュックの中からライトを取り出し、洞窟奥を照らしながら進んでいく。奥に進めば進むほど、中は外気が薄くひんやりとしてくる。闇に強いこうもりや小動物などが物陰に隠れていそうな雰囲気。人の手が一切入っていない純自然物たち。ゴツゴツした固い岩肌が囲む通路を進んでいくと外光とは違う明かりが見えた。

 中からは歌声が聞こえる。拍子抜けしそうなくらい簡単に見つかった。何より目的地が神様が集うカラオケルームだから神秘性もあったものじゃない。真っ暗な洞窟の中で光を放つ神様の社があった。

「洞窟の奥に社があったなんて知りませんでした」

「先に見てくるよ。多喜ちゃんはここで待ってて」

 僕は社の戸を開け放った。

「おーどうした?飛び入りか?」

「……」

 中は唖然とするほど、酔っ払いどもが集まる平和なカラオケ大会が開催されていた。僕たちが外で味わった苦労も知らずに暢気なものだ。

 中はそこそこ広く、十人以上が利用する大人数部屋になっていた。そこに山の神様、手形の神様、その他の神様たちが楽しそうに酒を酌み交わしていた。

「紹介しよう。海の神様に道の神様に滝の神様。あと山彦カラオケの神様。店主だ」

 山彦カラオケの神様って何だよと心の中で突っ込みつつ、神様たちはドウモとかヤッホーと僕に挨拶をしてくれた。僕も同じように返していく。気の抜ける出会いだった。

「お連れ様がいるのですか?」

 と聞いてくる店主の山彦カラオケの神様。神様だからお見通しか。

「うん。もうひとり外にいるんだけど」

「お客様二名入りまーす!お連れの方は人間の方ですか?それともこの世に未練を持ったまま存在し続ける幽霊ですか?」

「人間です」

 急に何を言い出してるんだ?この店主は。幽霊って誰のことだ?

「……そうですか。一応人間でも幽霊でも私たちを可視化できるようにしておきました。どうぞお連れ様をお呼びください」

 つまり多喜ちゃんに神様が見えるようにしたってことか。僕は最初から見えていたが、どうしてだろう?それはともかく多喜ちゃんをカラオケルームに招き入れる。

「あの旅人様。ここは?」

「神様のカラオケルームだよ。多喜ちゃん」

「カラ……そういう場所があるのですね。私、初めて見ました」

 多喜ちゃんはキョロキョロと部屋の内部を見回している。よほど珍しいのだろう。箱入り娘はカラオケルームを知らないらしい。見るもの全てに目を輝かす。

「へぇー可愛い娘ね。神格者以外と話すのは久しぶりだわ」

 こっちは海の神様だ。大人っぽい女性で海のように深い青の衣装を着ている。よく昔話の浦島太郎に出てくる竜宮の姫と言えばイメージが掴みやすいだろう。

「最近の人間は神様離れがひどいっつーか、昔みてぇに拝んだりしてくれねぇからな。サンタクロースとか七夕とか願いを叶えてくれる便利屋に格下げもんよ。まだ滝の神様はマシだよな?なんて言ったっけ?タワースポーツ?」

「パワースポットだろ?本来の存在意義とは違うが、人間に崇められる対象としてのはまだまだ現役よ」

 道の神様に滝の神様。それぞれおしゃべりが始まり、神様の苦労話に花が咲く。神様の世界も楽じゃない。

「って、それどころじゃないんだ。僕たちは下山しているところなんだが、途中に野生動物が発火花の匂いに集まってきて困っているんだ」

「発火花は動物たちにとって冬を越えるために必要な食材だから、そりゃ必死に追ってくるさ」

「それがわかっているなら、どうにかしてくれよ。山の神様。このままじゃあ山村まで帰れないんだよ。特にクマがしつこくて」

 僕が懇願すると山の神様はゆっくりとこう告げる。

「その話は後だ」

 今までじっと黙っていた山の神様はカッと目を見開いて立ち上がった。その姿はこれから狩猟に行く男の姿だった。獲物の気配を一瞬でも見逃さないレーダーのように鋭い眼力。猟銃を持たせれば一発必中を約束する集中力。これらは僕が山頂で出会った彼とは全く異なる。メラメラ燃えるのではなく、小さく核爆発を起こしているような内なる炎が灯っていた。僕は萎縮してしまい、何も言えなくなってしまった。山の神様はゆっくりと手を伸ばし、目の前のマイクを握った。イントロが始まる。

「って、カラオケかい!」

 僕のツッコミに耳を傾けず、山の神様は歌を楽しみはじめた。僕のは話も聞いてほしいのだが。

「あー山の神様は歌い出すとマイク置かない人だから、もう止められないよ」

「うぅっ。どうにかしてくれよ」

 こればっかりはねーっと皆が肩をすぼめた。僕の願いよりカラオケのほうが大事だなんて職務怠慢もひどい。

「よし。ならこうしよう。山の神様に歌で勝負して勝ったら神様業務に戻るってのはどうだ?」

「歌勝負?」

「そう。そこのカラオケ機材は採点してくれるから、互い歌って点数を競い合う。この歌の得点を人間たちが上回れば勝ち。山の神様もそれでどうだ?」

 歌いながらOKサインを作る山の神様。歌いながら僕たちの話を聞いてるなんて、なかなか器用な人、いや器用な神様だなと思った。この余裕は自信から来るものなのか。と歌は終わり採点モードへ切り替わる。安っぽいドラムロールがダダダダダダダッダンッ!と鳴り響き、山の神様の得点が映し出された。

「八十六点……」

「お、自己新だぞ!よしよしよし。今日は絶好調だ。次だ次!」

「ほら。風流もさっさと曲入れていかないと歌えなくなるよ?祭りまで時間がないんだろ?」

 そうだった。僕たちには時間制限があり、のんびりしていられない。手形の神様は僕に曲リストを渡してくれる。分厚い本はずっしりと重かった。これから長い戦いになることを予感させる。僕たちに悠長なことをしている暇はない。もうすぐ祭りが始まるのだ。それまでに発火花を届けなければならないのに。

「旅人様。私、こういう場所に来たことがないので、よく分からないのですが」

「奇遇だね。僕も来たことがないんだよ。さてどうしたものか」

 僕と多喜ちゃんが困り顔でお互いを見合う。カラオケ自体は知っているが、それを利用したことがない。

「……全く。これだからトーシロは。ここは俺が手本を見せてやるブヒィ!」

 そう言ってブタクサが前に出る。さすが一人カラオケ上手。ブタクサは僕から曲リストを奪い、ササッと手馴れた手つきで選曲して機材を操作していく。これほどまでブタクサが頼りになるとは思わなかった。これほどブタクサを頼もしいと思ったことがない。ブタのくせに生意気だ。

 曲が回る。他の神様たちも歌い始める。みんな八十点以上の高得点ばかり叩き出すので驚いた。なんということだ。この集まりは何の集まりなのだ。カラオケプロの集会か!とツッコミを入れたくなる。

 そして満を持してブタクサの番になった。ブタクサは渡されたマイクを軽く握り、イントロに合わせてリズムを取る。流れてくる曲は波のように。その波に乗るブタクサはサーファー。その姿は完全にプロの仕事だ。これは期待できるんじゃないか?いや、できる。周りの神様に全く負けてない。負けるはずがない。

「トントントングが謎を解くぅ。トントン真実暴かれるぅ。ブッヒィー!」

 ブタクサが楽しみにしている二時間ドラマの子豚探偵シリーズテーマソングらしい。この選曲も一周回って意味があるように感じてしまう。きっとこの歌には高得点を叩き出す秘策が詰まっているのに違いない。僕の目には今のブタクサがとても輝いて見えていた。

「さぁ得点は?」

 見事な歌唱力で歌い上げたブタクサ。ズダダダダダダダッダンッ!とドラムロールの後、運命の点数が表示される!きっと大丈夫だろう。ブタクサならやってくれるさ!


「三十一点……」


「……」

「……」


「……うわぁ!だっせぇ!」

「ううう、歌ってのはいかに気持ち良く楽しく歌うかが大事なんだブヒィ!こんな点数に縛られて歌っても楽しくないんだブッヒィー!楽しさなら満点だブヒィ!なんか文句あんのかブヒィ!ブヒィィーッ!」

 逆ギレしやがった。期待のドハズレも良いところだ。期待が大きかった分、落差がひどい。もう放っておこう。それこそ武士の情けというものだ。

 しかし頼りにしていたブタクサがこの体たらくでは僕がどうにかするしかないようだ。だが僕にカラオケの自信なんてこれっぽっちもない。歌う自体、声を出す自体、人前で苦手だというのに。どうしてこんな勝負になったんだ。

「さてどうしたものか……」

 ダメだ。頭を抱えてしまう。これは手詰まりの予感。こうなったらブタクサの奇跡を信じて続けてもらうか?三十一点越えの奇跡を。

「あの旅人様」

「どうしたの?多喜ちゃん」

「歌で勝負すれば良いのでしょうか。なら私も歌ってみたいです」

 そうだった。多喜ちゃんはこう見えても歌姫に選ばれるほどの人物。賭けてみるか。僕やブタクサでは勝負にならない。ここは少しでも可能性があるほうを信じよう。

 僕は曲リストを渡して選曲方法を教える。問題は多喜ちゃんが知っている曲はほとんどなかった。予想していたが筋金入りの箱入り娘だ。知る機会も無さそうだ。

「どの曲歌うか迷ってるなら、これ歌ってよ」

 と、手形の神様のオススメ。流行ドラマ主題歌になっているラブソング。可愛いだけのアイドルが付け焼刃の歌唱力を曲のほうで、何とか無理矢理合わせたような歌。そのため難しくないらしい。素人でも高得点が狙える歌。トゲのある言い方をする手形の神様。歌は好みだけど歌っているアイドルが気に入らないと愚痴をこぼしていた。とにかくこの歌を練習することにした。

 最初は声の入っていないカラオケモードではなく、歌入りで練習。さすが歌姫だけあって飲み込みが早かった。。大きな声で歌えているし、僕には分からないが歌の特徴を捉えて、独自に馴染ませていく。すでに手本となるアイドルよりも上手かった。

「今日が初カラオケでしょ?なのにセンスあんねー」

 他の神様たちも興味を持ってくれて、みんなが指導役を買って出てくれた。歌なんてちんぷんかんぷんで何のアドバイスもできない僕には良き助け舟だ。もともと歌姫だけあって、すくすく成長していく様は指導役の神様たちに高評価だった。

 これは多喜ちゃんの人徳のおかげかもしれない。僕に持ち合わせていないもの。多喜ちゃんの周りにはいつも人が集まってくる。多喜ちゃんは可愛いし、才能もあるし、よく気の利く子だ。それだけで人徳の高さを感じさせる娘。きっと僕の助けなんて必要のなかったんじゃないかな。そんな気がした。途端に僕の心にもやもやする気持ちが膨らんでいく。

 指導役の神様たちも驚くほどの成長ぶりを見せた多喜ちゃん。世に通じる実力を持ち合わせていると言っても過言ではないと神様たちのお墨付き。そしていざ本番に入る。


「ラッピングピンク」


あなたが伸ばした魔法の手

その手を掴むよギュッとね

大好き想いが溢れ出るぅ


箱入り娘のラッピング

リボンで編まれたこの衣装

あなたが触れるとトロけてくぅ


もっっと触れてよあなたなら

魔法で輝くプレゼント

私の気持ちを受けとって。ね?


 ラブソングだけあって背筋がむず痒くなるような歌詞が続いていく。とてもじゃないが聞いていられないくらい恥ずかしい歌。だが、一生懸命歌う多喜ちゃんだからこそ応援する。

 僕たちが見守る中、多喜ちゃんはずっとこちらを見つめて歌ってくれた。歌詞に感情が入り込んでいるのか、身振り手振りの演出にも力が入ってくる。その求めすがる表情には僕もだんだんと釘付けになっていく。短時間の練習でここまで歌い上げるのはさすが歌手を目指すだけの素質ありと言わざるを得ないだろう。

 そして気になる初挑戦の得点は?……ズダダダダダダダッダダンッ!軽快なドラムロールの後に得点が表示された!


「八十……八点ッ!やった!二点勝ったよ、多喜ちゃん」

「本当ですか!良かったです。気持ちを込めて歌った甲斐がありました!」

 初挑戦でこの得点なら文句なしに軍配は上がる。そして比べられるブタクサの哀れさ。ルーキーズラッキーだブヒィとか言っているが無視しよう。今は多喜ちゃんのお祝いが優先だ。


「ぶるああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーッ!納得いがねぇげあいあああがああああーーーーッ!」

 吠える山の神様。負けたことに納得いかなかったのだろう。地は鳴り響き、空からは雷鳴轟き、まさにそれは神の怒り。天地を再び創造するかのごとく、この世の終わりを宣言する。

「おがっ!」

 だが、高らかに吠えてる隙にボディブローを決められて悶絶した。手首までめり込む強烈なボディブローを決めたのは山彦カラオケの神様。

「店内で神力を使うのは禁止です」

「はいぃ。ごべぇんなさいぃ」

 泣きべそかいてる山の神様。あれは痛そうだ。当分立ち上がることは不可能。肋骨三本は確実に逝っただろう。ポキポキポッキリと小気味良く弾ける音が三つもしたんだから。ゴフォゥッと吐血して、そのまま前のめりにノックアウトしてしまった。おかげで天地は静まり平穏を見せたが、そんな場合じゃない。

「……ぐおぉ……ッ」

「お、おい。どうするんだよ。僕たち一刻も早く山村に帰らないといけないんだぞ?こんなところで殺人……殺神事件とか勘弁してくれよ」

「心配ご無用。この程度の傷は何ともありません」

 何ともありませんと店主は言うが、さっきから動かなくなっている山の神様。本当に大丈夫なのか?

「神様業界も人材が溢れています。一人や二人いなくなっても代わりはいくらでもいます」

「怖いこと言ったー!」

 あぁ人材はいつも使い捨て。この世は世知辛い。だが三分もすれば、山の神様はケロッと復活していた。神様の自然治癒力半端ない。

「取り乱して悪かった。ちゃんとルールに則って正々堂々勝負した結果だから。受け入れるしかない」

 口ではそうは言いつつも、悔しさで拳が震えていた。たかだがカラオケ。されどカラオケ。山の神様にとってはどれほど大きな存在だったのか窺い知ることはできない。僕にとっては所詮カラオケだけどね。

 山の神様と共に山彦カラオケを出る僕たち。気付けば外は朝だった。そんなに時間が経っていたとは思ってもおらず、僕はびっくりした。朝までカラオケとは僕も不良になったものだ。

「お前たちが無事に帰れるまで守護しておこう。それでは朝食を取りながらでも待っていてくれ。すぐに山の社へ向かうから」

 そう言って山の神様は姿を消した。これでようやく村に帰れるのかと思うとホッとする。ホッとすると同時に、ぐぅ~っとお腹まで安心感で気が緩む。

「ふふふっ旅人様。お食事にしましょうか?昨日はゆっくりする時間がありませんでしたから」

「うん。そうだね」

 朝もやの中、僕たちは山彦の洞窟にある小屋で火を起こし、まずは白湯を温めて飲む。ちょっとした温熱効果でも身体の緊張がほぐれてリラックスできる。徹夜明けの身体もようやく落ち着けたことだろう。

「さぁ旅人様。こちらをどうぞ」

 渡されたものは藁に包まれた何か。

「これは?」

「私の懐で温めていた納豆です。良い感じに発酵してますよ」

「うわあああああぁー!僕、納豆はダメなんだ。臭いが苦手で」

「ニンニク臭で気にならないんじゃないか?ブヒィ」

「んなワケあるか!納豆嫌いをナメるな!」

「そんなに怒らんでもえぇがなブヒィ」

 ブタクサはしゅんと縮こまる。

「えーっと。大丈夫。大丈夫ですよ。旅人様。他にも干し肉や干しイモもありますから」

 僕は多喜ちゃんから干しものを受け取って、白湯につけて食べる。白湯に旨み成分が染み込んで汁まで美味く変化する。これこそ人が食べるもの。その横で多喜ちゃんはネバネバしたゲテモノを平気な顔で食べている。グルグルと箸をかき回して臭いを拡散する。気持ち悪いことこの上ない。

「多喜ちゃんは納豆を食べて平気なの?むしろ人間のすべきことなの?」

「そこまで納豆に深く考えたことはないのですが。単純に食べてみておいしいから食べてるんだと思います」

「そ、そう。わかった。人間同士はやはり分かり合えない生き物なんだ。言葉を開発し、意思疎通を試みた。だが出来なかったんだ。叶わぬ願いだ。人間には二つの種類に分けられる。納豆を食べる人間と食べない人間だ」

「……食べてみます?」

 差し出される納豆。多喜ちゃんの箸に絡みつく蜘蛛の巣と茶色い豆。少量と言えど主張する納豆臭。どれもこれも最悪なハーモニーを織り成し、食への恐怖を助長しようと手招きする。

「んげぎょはぎゃひゃああぁー!」

 僕絶叫。

「ごめんなさいごめんなさい。冗談ですよ。旅人様。ほら納豆はもう私が食べちゃいましたから。ね?泣かないでくださいよぉ」

「ふぅーふぅー」

 死線を彷徨った気分だ。目から鼻から口から体液が溢れ出し、危険サインを知らせていた。まさか納豆に殺されそうになる日が来るとは思わなかった。納豆おそるべし!生涯我が最強の敵となるだろう。僕が命を落とすのはきっと納豆を食べたとき。恐ろしい。

「旅人様にこんな弱点があるとは思いませんでした」

「僕は強い人間じゃないよ」

「そうですよね。安心しました。旅人様はいつもひとりだったので、誰の助けもいらない人なのかと思ってました」

「それは僕をぼっち判定したってことか。間違ってはいないけど、面と向かってそれを言われると何だか傷付く」

 それに誰の助けもいらないのは僕のほうじゃない。

「そういう意味ではないのですが……あの、私は旅人様のお役に立てましたか?」

 多喜ちゃんが嬉しそうに笑顔でこちらを見つめながらそんなことを聞いてくる。

「え?あ、うん。僕ひとりではどうにもならなかったよ。多喜ちゃんがいてくれたおかげで助かったよ。ありがとう」

 感謝の気持ちを言葉に乗せて伝えた。偽りのない本当の気持ちが自然に口から抜ける。本当に助かった。多喜ちゃんはうれしそうにハニカミながら悪魔の食事をしていた。納豆の絵面さえなかったら可愛いシーンなんだけど。非常に残念な光景だ。

 食事を終え、僕たちが後片付けをしてるときにテレパシーのような山の神様の声が頭に直接聞こえた。

「下山されたし。なるべく早く頼む」

 そんなにカラオケ復帰したいのかよと思いつつ、ともかく待たせるのも悪いから僕たちはすぐに出発した。帰り道は静かなものだった。今までの緊迫感はどこへ行ったのやら。クマたちの気配は一切なくなっていた。食事の後の早朝散歩。そう言えるくらいのんびりと山道を歩いていく。心に余裕があると朝の清々しい空気は格別に気持ちが良い。

 僕たちは何事なく村まで帰還することができた。山の神様に無事を伝えようとテレパシー信号を送ってみたが、聞こえてくるのはカラオケ。テレパシー切るの忘れてるなこりゃ。まるで盗聴してるみたいなので何度も呼びかけて、テレパシーを切ってもらった。……いや、待て。なぜすでに山彦カラオケにいるんだ?戻る前に出かけてるみたいだ。どうしようもないカラオケ好きな神様だった。

 さて、そろそろ日も暮れようかという時間帯となっていた。村ではたくさんの村人が多喜ちゃんの帰りに待っていたようで集まってくる。僕はその集団から離れて、さっさと村の中へ入っていった。。お帰りなさいのコールの中、ただいまと返さないといけない労力。これが疲れて帰って来ている者に対する仕打ちか。

「旅人殿。よくぞ無事に帰ってきてくれた」

「んおっ!」

 どこからともなく声が聞こえた。この声は多喜ちゃんの母親。さすがくノ一。全く気配もなく僕に近づくとは。

「あぁ。ただいま」

 とだけ僕は返事をしておいた。一応。


 それからすぐに祭りの準備が始められた。祭慈雨祭りだ。発火花と多喜ちゃんの到着を待っていたようだ。ギリギリ間に合ったというところ。発火花はすぐに祭り会場中央に届けられ、多喜ちゃんも歌姫の準備のために会場を離れた。この前見せてもらった龍のステージ衣装に着替えるのだろう。村中が慌しくなる。

「小さな山村の割にかなりの人が集まっているだろ?」

 僕は手持ち無沙汰だったので、祭り会場周辺をぶらぶらしていると浴衣美人が話しかけてくる。村で見たことのない美しい熟女だった。いかにも成人向けの漫画に出てきそうな豊満なスタイルを持て余している。男ならその姿を目に入れば容易く忘れることはできない。それくらい男を挑発する女性だった。

 他所の村から来た人だろうか。祭りのために大勢の人が集まって来ていた。これはもしや逆ナンパというやつではないか?他所の村で男を漁っていたのか?まさかこんな人とお近づきになれるとは思ってもみなかった!

「コホン。そ、そうですね。有名なお祭りなんでしょうか?」

 ここは年上の相手に合わせる。落ち着いた紳士のような対応で大人を演出しよう。

「多喜も狸子も尽力してくれたおかげだ。それがこの結果というわけだ。もちろん旅人殿も」

「旅人殿?あの、どうして僕のことを知っているんですか?」

 キョトン顔の僕。何かが噛み合っていない。

「……はじめまして。多喜と狸子の母です」

「え?母親って……ぶひゃあああああああああぁーっ!」

 母親ということはイコールくノ一のことか!くノ一ということはイコール浴衣美人のことか!浴衣美人ということはイコールあの母親のことか!なんということだ。

「今は私服警備中でね。明るい場所で会うのは初めてか」

「あ、あの!始めまして!旅人風流です!よろしくお願いします!」

「いや、知っている。それに何がよろしくなんだ?」

「え?だって僕のこと逆ナンパしようとしてたんですよね?」

「逆ナ……なんだって?」

「出会いを求めているのかなって」

「一体何の話をしているんだ?」

 どうも話が噛み合わない。一体どうなってるんだ?

「私には夫も子供もいる。手を出すなら多喜にすれば良い。あまり年上をからかうんじゃない」

 口調は怒っているが、ほんのりと頬が桜色に染まっていたのを僕は見逃さなかった。これは脈ありか?いや冗談だが。多喜ちゃんと狸子ちゃんは衣装の準備をしているため、母親が僕の相手をしてくれると、そういうことらしい。

 祭り会場は朱色に灯るたくさんの堤燈で彩られていた。中央にはキャンプファイヤーで使うような木枠が何層も組み築かれていた。そこに発火花が飾られていく。

「あそこで発火花は一晩中燃やされるのだ。祭りは最後の発火花が燃え尽きるまで続く。発火花が燃えているところはとてもキレイだから、ぜひ見てくれ」

 と母親は教えてくれた。僕と多喜ちゃんで採取してきた発火花だ。さぞキレイに燃え上がるに違いない。

「さて、まずは腹ごしらえだな。炊き出しをもらいに行くか?」

「そうだな。眠気が吹き飛ぶくらい食べよう」

 徹夜確定の祭りがこれから始まる。腹を満たして充分活力を蓄えなければ。祭慈雨祭りの炊き出しは肉まんみたいなものが配られていた。中には味付けされた山菜やネバり気のあるトロロ芋など山の幸がたっぷりと入っている。これがなかなかイケる。目が覚めるほど濃いめの味付けが堪らなくお疲れ気味の身体によく染み入ってくる。

 それと面白いものを発見した。焼き玉子という祭慈雨村の風習があり、これは子供の成長を願うもので、殻を破る手順を大人への成長と見立てているそうだ。一皮剥くではなく、一殻剥くってことだ。焼き玉子は村の子供たちに贈られる。

 なぜか僕にも焼き玉子用の玉子をひとつもらえた。焼く前の生玉子に目鼻口だけの簡単な似顔絵と自分の名前を描き入れて、発火花の火で焼くのだ。祭りの後のお楽しみ。

 そろそろ祭り囃子も聞こえ始めてきた頃、続々と会場中央に人が集まってくる。これから発火花の点火式が始まるのだ。

 ゴォーと燃え盛るたいまつが登場すると会場のテンションも盛り上がりを見せた。そのたいまつの炎が発火花で飾られた木枠に移っていくとチリチリと燃えた後、パァーッと火花を噴出する。手持ち花火がシュワアァーと火を噴くような、それが何百本と集まって山が噴火するかの如くキレイに燃え広がり、祭りの始まりを照らし始めた。ここで一気にテンションは最高潮に高まる。

「どうだ?旅人殿。キレイだろ」

「うん。すごくキレイだ」

 発火花を取りに行った苦労も一瞬で吹き飛ぶほどの達成感が得られた気がした。これを見るためならばあの苦労は苦労のうちに入らないだろう。それだけの価値がここにある。

「ここにいたのじゃな。旅人様。母者よ」

 狸子ちゃんが駆け寄ってくる。

「姉者の着替えは終わったのじゃ。少しの間なら話が出来るが、旅人様よ。これから歌う姉者にひと声かけてほしいのじゃ」

「え?僕が?」

「旅人様しかおらぬ。緊張はしていないのじゃが、大事な舞台じゃ。一丁気合を入れてあげてほしいのじゃ」

「そうだな。私からもお願いする」

「……そこまで言うなら」

 僕は母親に一礼して、多喜ちゃんのもとへと向かった。

 ステージの舞台袖。多喜ちゃんは例のステージ衣装に着替えている。あの龍の着物だ。多喜ちゃんは僕を見つけるなり表情が明るくなる。緊張してないように見えて、本当は緊張してたみたいだ。緊張気味の肩が少し柔らかくなった。

「旅人様。私が歌姫として音頭を取ります。どうか私を見ていてください」

「うん。ずっと見てるから。がんばって」

「はい!」

 そう言って多喜ちゃんは祭り囃子が騒ぐステージへと向かっていった。大勢のお客さんの前で歌う初めての舞台。さきほどの多喜ちゃんを見ていればきっと大丈夫。何の心配もいらないくらい自信にみなぎっていた。きっと山彦カラオケでの経験も良い方向へと繋がったようにも思える。神様のことだからこの展開を見越して、カラオケ勝負なんて持ちかけたのかもしれない。いや、それは考えすぎか。

 多喜ちゃんの歌い出しと共に始まるお祭り。みんなが発火花の周りで輪となって踊りが始まった。

 こうして祭りは一晩中続いた。


 やがて発火花が燃え尽き、残り火だけが静かに辺りを照らす。見事に歌い終えた多喜ちゃんと焼き玉子を頬張りながら、祭りの後を眺めていた。すでに人々は会場を後にしている。ここにいるのはわずかに後片付けをする者たち。

「旅人様。私これで思い残すことはありません」

「そっか。お疲れ様」

「はい。本当にありがとうございました。全て旅人様のおかげです。感謝してもしきれないほどです」

「今日はゆっくり休もう。さすがに疲れたよ」

「……あの旅人様」

 多喜ちゃんは真っ直ぐ僕と向き合う。真剣な表情。

「明日大事なお話があります」

 そう言い残して多喜ちゃんは去っていった。おやすみと言う暇もなかった。


 ザッザッザッ。夜も明けきらない早朝の山道に足音が響く。僕は村から出ることにした。祭りが終わって村中の人たちがようやく眠りに入っている頃だろう。多喜ちゃんも数日間旅をして一晩歌い続けた後だ。疲労はピーク。きっと今はぐっすりと眠っているはずだ。だからこそこの時間に僕は村に別れを告げることに決めた。

「良いのか?挨拶もしないで出ていって。ブヒィ」

「良いんだよ。どこぞのテレビ番組みたいに涙のお別れで感動を呼ぼうなんて思っちゃいない。あざといんだよ。ああいうの。ここが泣き所だから、ほら泣けよってプログラムされてるようでムカつくんだよ。それより置きっ放しの車が心配だから早く帰りたい」

「素直じゃないブヒィ」

「素直だと思った?それは残念だ。お前に人を見る目はない」

 本当に湿っぽいのは苦手なんだ。飛ぶ鳥跡を濁さずってことでササッと旅に戻ろう。

「それにしても多喜ちゃん。立派だったなブヒィ」

 多喜ちゃんは見事に祭りの歌姫としての職務を全うした。目立ったミスもなく堂々と歌い上げるその姿はすでに立派な歌手だ。祭りの参加者の中には祭りそっちのけで聞き入る人までいた。多喜ちゃんの歌がみんなの心に届いている証拠だ。

 僕はその立派な姿を見て安心してしまった。それは成長した我が子を見送る親のような気持ち。自分の手から巣立ったと感じた瞬間だった。多喜ちゃんはもうひとりでも大丈夫。実際に親でも無ければ子でも無いのは当たり前だが、不思議とそういう寂しい気持ちにさせられた。どちらかと言えば僕のほうが問題を抱える人間なので、随分偉そうなことを言っているのは承知の上だが。

 多喜ちゃんの周りにはたくさんの人が集まってくる。もしかすると多喜ちゃんに己のコンプレックスを押し付けているだけかもしれない。僕は自然と人が集まってくるような人気者に恐怖を感じたのだ。多喜ちゃんは僕とは違う人間。住む世界が違う。何もかもが分断されたのだから、何も言わずに僕は山村を出て行くことにした。ここでお別れだということを悟ったから。

 村を出て、手形の神様がいた祠のところまで戻って来た。来たときとは違い、日の出もまだなので辺りは暗く何か出そうな雰囲気。別に怖いとかそういうわけではない。ただ別の一面を見せる光景に圧倒されているだけなんだ。

「やっ。おはよう!早いな。もう行くのか?」

「ぎゃあああぁーっ!何か出たあああぁーっ!」

「おいおい。随分な朝の挨拶だな?もしかしてビビってたのか?」

「ち、ちち、違うわい!な、ななななんだ。手形の神様か。おおおはよう。見つかったから驚いただけだ」

「そういうのは震えを止めてから言えよブヒィ。手形の神様おはようブヒィ。もう起きてるのか?ブヒィ」

「はい、おはよう。お前らがこの時間に出て行くことはお見通しさ。何せ私は神様だからな!ここで待機してた」

 こんな明かりもない場所でご苦労なことだ。

「今回は本当に助かったよ。お前たちのおかげだ」

「僕は何もしてないよ」

「お前らしいな、その言い方。でも誰かの発したひと声で止まっていた世界が再び動き始めたんだ。改めて礼を言おう。ありがとう」

 妙にひっかかる言い方をする手形の神様。止まっているだの再び動き始めたのだの一体何の話なんだか。

「あとこれだ。お礼の秘宝を渡しに来たんだ。約束はちゃんと守らないとな。何せ私は神様だからな!ホイッ。受け取れ」

「おっととと」

 ポイッと投げられる秘宝は紙くずをゴミ箱へ入れるように僕の手元に届いた。秘宝なのに軽く扱いすぎではないか?受け取った秘宝を見てみるとそれは手形が付いたキーホルダーだった。

「……何だよ。これは?」

「秘宝だよ」

「何が秘宝だよ。ただのキーホルダーじゃないか」

「チッチッチ。秘宝は形じゃない。中身さ。旅の思い出にキーホルダーは定番だろ?そのキーホルダーの中に思い出を詰めておいだのさ」

「……何だそりゃ」

「そうやって思い出を集めていけ。そうして出来た思い出の形は、やがてお前の形となる」

「何を言ってるのかさっぱりだな」

「いずれわかるさ。……さて。用も済んだし、そろそろ元の世界に帰ろうか」

「元の世界って何の話だ?さっきから変なことばっかり言ってないか?」

 人智を超える神様とて、ここまで説明がないと気持ち悪い。

「そろそろ気付いているだろ?ここは現実の世界ではない。死者の山村だよ」

「何だって?」

 急に話の雲行きが怪しくなる。

「本当の目的は地縛霊である多喜という娘の解放。採取し忘れていた発火花のせいで祭りの当日に山は噴火した。他所の村からも人を集めていたので大惨事となったんだよ。娘の夢は祭慈雨村と共に消滅した。あの娘の唯一の心残りである祭りの歌姫。それが叶わなかった想いが娘をこの地に縛り続けていたんだ。私は娘を解放させるためにお前に発火花の採取を頼んだというわけだ」

「そ、そんな。まさか……」

 全身に戦慄が走る。何を言ってるんだ?僕は怪談話なんて興味ないんだぞ?

「僕を騙したのかよ?死者だって?そんなこと全く聞いてないぞ?」

「騙してなんかいない。私が頼んだのは発火花の採取だよ?」

「だけど多喜ちゃんが死んでいたなんて聞いてないぞ!」

「つまらないことを言い出すんだな?相手が生者でないことを騙したと言うなら、私だって神様だぞ?出会った時にこう言ったよね?目の前にあることが本物だってね」

「ぐっ。それはそうだけど……」

 何か腑に落ちない。確かに多喜ちゃんは僕の前に存在した。それが生きていようと死んでいようと関係ない。僕の頼まれたことも発火花の採取だけだ。これも間違っていない。だけど……。

「おっと。今更戻ろうなんて考えてないよね?私は手形の神様。私の許可なく入山することはできない。やがてあの山村は消滅する。あの娘の夢と共にね。お前がすぐに出て来てくれて助かっているよ。娘を気に入ってあの村に残ると言い出したら、どうしようかと思っていたところだよ」

「くそっ」

「……やれやれ。騙されたと思うならそれで良いよ。傷付いたならそれで良いよ。私は迷える魂を成仏させるためにお前を騙した。騙されたお前は地縛されたひとりの少女を救った。それで文句ある?」

「……ううぅうぅ」

 なんだこのモヤモヤした気持ちは。客観的に説明されると文句が出ない。良いように利用されていただけだ。もちろんそれは承知の上。だけど何と表現すれば良いのか、バタフライエフェクトではないが自分の意図しないところで物事が大きく動いていたと思うと気味が悪い。そして何か。大切なことを忘れている気がする。

「……やれやれ。本来は禁止されていることだけど、多喜と話してみる?」

「なッ!そんなことができるのか?」

「多喜は地縛霊として自然界に多大な悪影響を与えた。私が封鎖しなければいけないほどにね。イタズラが過ぎた罰としてこの依代に閉じ込めているんだ」

 手形の神様は人型をした紙を僕に見せる。

「これが多喜ちゃん?」

「……旅人様?」

「おわっ!この声は多喜ちゃんなのか?」

「良かった……そしてごめんなさい。私、どうやら死んでいたみたいです。気付かなくて」

「大丈夫なのか?」

「はい。でもこうして話せる時間は僅かしかありません。旅人様。私はあなたと出会えたことで歌姫になれました。もし出会えていなかったら今でも同じところをグルグルと回っていたに違いありません。

 旅人様。私と出会ってくださって本当にありがとうございます」

「良いよ。別に。そんなこと……」

「そして祭りの後に言えなかったことをここで言いたい。私、旅人様のことが好きでした」

「……」

 大体は予想していた。そして「でした」という過去形。そこに多喜ちゃんの心遣いを感じる。

「聞いてくださってありがとうございます。もうそろそろ時間ですね。では旅のご無事を祈っております。さよなら。旅人様……」

 多喜ちゃんの声はなくなった。手形の神様は人型の紙を懐に戻す。

「多喜はいずれ成仏させる。しばらくの辛抱さ。さて。いいかげん元の世界に帰そう。今回は本当に助かった。さらばだ」

 僕はそこで意識を失った。寝オチしたときのように世界が急速に暗転し、深い闇の中へすとんっと落ちた。



 ……。

「起きろブヒィ」

 ……。

「起きないとキスしちゃうぞブッヒッヒィー」

 ……。

「早く起きろよ!ブヒィ。本当にキスしなくちゃいけなくなっちゃうだろうがブヒィ!俺にそんな趣味はないんだよブヒィ!」

「……うるさいなー」

 目を覚ますと寝オチしたその場所だった。手形の神様はとっくに姿を消しており、日はすでに高く昇っていた。

「何時間ぐらい寝てたんだ?」

 僕はスマホをチェックする。手形の神様に会っていたのは早朝だから、ぐっすり八時間以上ここで眠りこけていたことになる。この数日間まともに寝ていなかったから、さぞお疲れだったのだろう。

「おいおい。防犯意識が低いぞ。こんなところで無防備に寝ちまうなんて。何か盗られたもんとかないか?」

 僕はすぐに荷物のチェックをする。特に無くなっているものはない。一番高価で即金しやすいスマホを失っていない時点で他に盗られるものなんて何もない。

「とにかく車に戻るか。ここにいても仕方がない」

「賛成だブヒィ」

 僕は祠を出て、車のところまで戻ってくる。そこで違和感があった。

「あれ?まだ車の充電が終わってないのか?」

 僕はすぐさま発電待機させていた車をチェックする。車はやはり発電待機したまま。太陽光パネルや風力機が出っ放し。発電量も六十パーセント程度と全然増えていなかった。

「数日放置してたのにこれはどういうことだ?壊れたのかな?」

 もちろんそんなことはなく、正常運転中だった。不思議に思ったが、深く考えることもない。発電だって時と場合によっては発電量が変わることなんてよくある話だ。曇り空の太陽光発電、無風の風力発電など。たまたま発電に悪いタイミングが重なっただけだろう。

 寝起きのダルい身体を休めるために車の後部からイスを取り出して座る。ついでにスマホの充電もしておく。


 潮風が涼しい。祭りの後の静けさは達成感と喪失感で燃え尽き症候群のような症状に近い。ダルくて動きたくない。うとうととまぶたが自然と落ちていく。

「おっと。いけない。面倒だが定期連絡だけはしておくか」

 僕は充電中のスマホから精神科の主治医に電話する。唯一この旅に付けられた規則。それがこの面倒くさい定期連絡なのだ。

「どうしたんですか?何か言い忘れたことでもありましたか?」

 言い忘れ?いきなり意味不明な言葉から始まる。まぁどうでも良い。僕はこれまでのことをツラツラと事務的に話していく。

「それはおかしいですね。私の記憶ではあなたが電話をかけてきたのはつい数十分前の話ですよ?その間にどうして数日間の体験ができたのでしょう?」

「……」

 何を言っているのかわからない。どうせ僕のことをバカにしてるんだろう。そうに違いない。精神科に入院してたやつの言葉だ。向こうもまともに取り扱かう気なんてないんだろう。言い合うのもバカバカしい。頭がおかしいやつがおかしなことを言っていると思われるだけ。こっちは定期連絡という義務は果たした。それで充分。

「では失礼します」

「ちょっと待ってください。あなたが言っているのは祭慈雨村のことで良いんですよね?ネットで調べてみましたが、祭慈雨村というのは数百年前に火山の噴火で被災して無くなったみたいなのですが、どうしてそんな場所に立ち寄ることができたのでしょうか?」

 そんなこと僕のほうこそ答えが知りたいことだ。神様にでも聞いてほしい。もちろんそんなバカな回答はしないが。

「すいません。寝ボケてました。全部ウソです」

 本気で面倒くさくなったので全部ウソってことにしておいた。ここでこじらせると不利だ。病状が悪化したと思われたら、旅を中断させられてしまう。

「……そうですか。ではまた何かありましたら電話くださ……」

 相手が言い終わる前に僕は電話を切った。僕の話なんてちっとも信用してない。これ以上話していても時間の無駄だ。

「……」

 僕は気になってスマホの発信履歴を調べてみた。確かに履歴では数十分前に連絡を入れていると記録されている。日時もここへ来て同日の数十分しか経っていない。これはどういうことだ?発火花を取りに行ったのは全部ウソだったのか?

「ブタクサ。僕たちは発火花を手に入れて祭りに参加したよな?」

「ニンニクが……ニンニクが臭い……ムニャムニャ」

 僕は眠っているブタクサの尻を蹴とばした。

「ブヒィ!クマが俺のケツを蹴ったぞー!」

「何を寝ボケてるんだ。僕の質問に答えろ」

 もう一度同じ質問をする。

「……何言ってるんだブヒィ。ちゃんと祭りにも参加したし、多喜ちゃんの歌も聞いただろ?それでお別れがツラいからってお前が駄々こねてたんだろうがブヒィ」

「……」

 妙な感覚だった。僕とブタクサの記憶にはちゃんと残っている。あの不思議な体験を。まるで狐に摘まれた気分だ。

「多喜ちゃん良い娘だったな?ブヒィ」

「そうだな……ん?」

 ポケットに触れると手形の形をしたキーホルダーがあった。手形の神様からもらった思い出という名の秘宝。

「僕が見たモノ触れたモノ感じたモノこそが本物だ。大切なのは思い出……よし。今度来た時に花でも供えてやるか」


 僕はキーホルダーをポケットの中に仕舞った。まどろみが残る僕だったが思い出を日記に綴ることにした。今までのことを忘れないうちにネットの海に流そう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ