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前編

「えーっと……名前は何じゃったかな?」

「祭慈雨多喜です。現、祭慈雨家当主の娘です」

「ほう。そうじゃったそうじゃった。当主さんの娘の多喜ちゃんじゃった。その多喜ちゃんが今回の祭慈雨祭りの歌姫として初めて参加するのじゃな?」

「はい。歌姫になることが小さい頃からの夢でした」

「そうかそうか……よぅし。これで参加の申請は完了じゃ。祭り当日忘れぬようにな?」

「ありがとうございます」

 私はふぅ~と息を吐く。緊張していた。大切な用事が片付いたのでその緊張がようやくほぐれた。

 祭慈雨祭りは私の村で行われる祭り。村は山の斜面にあり、階段状に作られた田畑や山の幸、野生動物を狩って生活をしている。祭りは山の神様に私たちの生活を守ってもらうために願うもの。そこで私は歌姫として祭りに来てくれたみんなの前で祈りの歌を歌う。とても責任のある仕事だった。


 そしてお祭りの当日になった。準備万端。朝から張り切って舞台衣装まで着込んでいた。楽しみで仕方がない。この日のために歌は何十回、いや数百回は練習した。私には秘密の練習場があって、声がよく響く洞窟の中で練習していた。歌姫になりたいと思ってからずっと。その夢が今日叶う。

 お祭り会場にはたくさんの人がいた。他所の村からも人が来ていて百人以上いると思う。この人たちの前で私は歌を披露する。心臓の激しい高鳴りが止まってくれない。

 そろそろ日没。祭りが始まる時間となった。私は舞台に上がる。歌の演奏家たちもそれぞれ持ち場に着いた。さぁこれから始ま……る……?


 ゴゴゴゴゴゴゴォ……ズバァーンッ!バァーンッ!


「山が!山が噴火したぞぉー!」

 見ると山は真っ赤に燃え上がり怒り狂っていた。血管が破れて出血噴出するかのごとく、赤い溶岩が噴き荒れる。黒煙と共に岩石をあちこちにバラまく。その岩石は容赦なく私の山村に降り注いできた。祭りに集まってくれていた人々は山の怒りに成す術もなく犠牲となっていく。

「ど、どうしてこんなときに……」


 こうして私は夢と共にその人生を終えた。



 ピピピッ。突如鳴り出した電子音が僕のまどろみを邪魔する。音声認識による音声プログラムが語り掛けてくる。

「蓄電量が三十パーセントを下回りました。近くのエネルギースタンド、もしくは発電に最適な場所を検索しますか?」

「そうだな。検索してくれ」

「……ヒットしました。目的の場所をタッチしてください」

 僕は車内画面に映り出された赤印の中から一番近い適当な場所をタッチする。

「今からそちらに向かいます」

 僕の指示通りに自動運転電気自動車は出発した。僕は運転席で再びまどろむことにした。


 再び電子音が鳴ったのはあれから数十分後。目的の道沿いに作られた小さな駐車スペース。山脈に連なる山沿いを切り崩し、側面に面するように作られた道。山の向かいには広大な海が広がっていた。潮風が涼しさを運び、日当たりも良好で気持ちが良い。とても気に入ったので発電をここですることに決めた。電気自動車を停車させ、自家発電モードに切り替える。車は変形し、太陽光パネルや風力機を利用して発電を開始した。

 僕は車のバックドアを日除けに開く。中から簡易テーブルやイスを取り出し、駐車スペースを利用してくつろぐことにした。気温は少し高いが潮風のおかげで暑いとは感じない。それに人通りも全くなくて非常に静かだった。サワァ……サワァ……ッと波が山壁に身を寄せる波音のリズムは心地良く、眠気を誘う。

「大きな欠伸だな。ブヒィ」

 車内から声をかけてきたのは、大きなブタだった。ブタはのしのしと車から降りてくる。僕の大欠伸はブタにも感染して、僕以上に気持ち良さそうに身体を伸ばす。さぞ長い車移動で固まっていた身体がよくほぐれたことだろう。

「ここはどこら辺なんだ?ブヒ」

 ブタはそう聞いてくる。

「さぁ?僕の旅に目的地はないからな」

「あっそ。カッコ付けているつもりか?そういうの目的意識すら持てない者の言葉だ。いや、自分探しの旅にでも出ているのか?お前はどこにいるんだブヒィ」

「ごちゃごちゃうるせーよ。ブタクサ」

 ちなみにブタクサとはこのブタの名前だ。口が非常に悪いが飼い主に似るというやつだ。なんだかんだと僕の側に居てくれる相棒。

「ところでどういう風の吹き回しだ?お前が旅に出るなんて。旅なんか興味すら沸かなさそうブサイク顔してるくせに。ブヒィ」

「顔は関係ないっての。旅がしたいんじゃなくて、あそこから出たかっただけだよ」

「ふーん。治療が上手くいってないのか?」

「はっ!治療?あんなもん薬物漬けで朦朧させといて、くだらないお説教様で洗脳するだけだろ?精神科ってのはそういう場所なんだよ。精神科医を信じ込ませる宗教施設。全く精神科医の常識は誰が保障してくれるのやら」

「俺にはよくわからんが、お前がそう言うならそうなんだろうなブヒ」

「おう!あんな場所で脳みそ潰されてしまうくらいなら、こうして旅に出たほうがマシだって話。いろいろ大変だったんだぜ?外出許可をもらうの」

「確かによくもらえたな?外出許可ブヒィ」

「あははっ。あいつら精神のプロか何だか知らないけど、僕のウソすら見破れやしない程度の集まりだから、ちょっと演技すりゃすんなり許可してくれたよ」

 話の流れから分かる通り、僕は某精神病院に入院していた。ある事故によって両親と両足を失っている。天涯孤独。義足生活。事故によるトラウマ。それらが重なって一時期日常生活すら満足に送れないほど支障を来たした。それで強制入院させられたというわけ。

 当時のことは正直な話、よく覚えていない。よくある記憶障害で負の記憶は脳みその奥深くに潜んで隠れてしまったようだ。おかげで今はこうして外出許可を騙し取れるほど健全な精神を取り戻せている。

 ちなみにブタクサとはその入院生活の中で出会った。治療の一環でアニマルセラピーとして動物との触れ合いをやらされる。当時ブタクサはエリートセラピストで、僕を見た瞬間から離れなかったらしい。ブタクサからはどう見えておたのかは知らないが、それからの付き合いだ。介護ブタとしてこうして僕に付き添ってくれている。運命の出会いとまでは言いたくないが、歯に衣着せぬ言葉遣いは精神科医の連中の言葉よりよっぽど信頼をおけた。ブタクサと出会ってから随分良くなったと、自分たちでは役に立たないと知っている精神科医連中は言っていた。


「さてとその精神科医様に報告だけ入れときますかね」

 僕はスマホを取り出して電話をかける。この旅の許可が出たときの規則。

「あ、もしもし?えぇ僕です。今、国道の駐車スペースで自家発電中です。えぇ……とても気持ちが良い場所ですよ。海が眼下に広がって波の音で心が洗われるようです。こんなステキな場所に出会えるなんて旅に出なければ知らなかったことです。……はい。今回外出許可をいただけて非常に感謝しております。……えぇ。もう少し旅を続けようと思います。きっとまだまだ僕の知らない世界が待っていると思うととても楽しみです。……はい?あぁ薬ですか?もちろん食後に飲んでいます。……はい。はい。では失礼します」

 僕は電話を切る。

「はい。報告義務終了」

「なんだよ。今の気持ち悪い会話は?ステキな場所とか冗談だろブヒィ」

 ブタクサが本当に気持ち悪そうな顔で僕を見ている。当然だろう。僕だって気持ち悪い演技だったと言いたい。

「こうでも言っておかないと連れ戻されるだろ?入院生活からの開放感で気分が良いのは事実だし」

 さいですか、とブタクサは興味無さそうに返事した。そのまま身体を丸めて寝てしまった。飽きるの早すぎだ。車の中でもグースカ寝てたくせに。食っちゃ寝ばかりしてるとブタみたいに太るぞと言ってみた。しかしもう寝息を立てている。ノリの悪いブタだった。

「さて僕は活動記録でも付けておくか」

 活動記録。旅の日記帳。これは僕個人で付けているもので、誰にも見せるつもりはない。僕が思ったこと感じたこと、苦しみつらさ痛さ焦り不安悲しみ全てここに記す。不思議なものでここに負の感情をぶつけていると、まるで日記帳がそれら全部吸収してくれるようで気持ちが楽になる。日記帳は僕の大事な気持ちの掃き溜め。墓まで共にするであろうアイテムだ。

 スマホを操作して文字を入力していく。車にはワイファイ機能が備わり、それを利用して僕が打った文字はインターネットの隅っこで鍵付きデータとして保存されていく。数バイトのデータ量だが僕の気持ちがネットの世界に蓄積されていくと思うと嬉しい。僕がここで何を感じてきたのか記録として残せるのだから。

「おい。そこで何をしている?」

「ッ!」

 僕は全身に鳥肌が立つ。ここには誰もいないはず。誰かがいた気配なんて一切なかった。当然その声はブタクサのものではない。不意にかけられた言葉に僕はとても驚いてしまった。全身を駆け巡った緊張を悟られぬよう僕は努めて冷静に声が聞こえたほうへ振り返る。

 そこには小さな女の子が変な格好をしていた。巫女服か。巫女服にしては派手だった。ドレスか?ドレスにしては和風だった。ならば巫女ドレスだ。赤と白、それと金色の装飾品で着飾られている。しかし堅苦しい感じのしない適度なセクシーさを兼ね備えていて詳しくないが、いわゆるコスプレというやつだろう。アニメか何かの。

 しかしなぜこんなところにコスプレ少女がいるのか全く理解できなかった。車移動以外で、こんな辺鄙な場所に人がいる理由がない。

「何をしているのかと聞いている。もしかして聞こえていないのか?」

「え?い、いや。聞こえているけど」

「そうか。聞こえているのか。よしよし」

 巫女ドレスの少女はウンウンと頷いていた。返事をしただけでこの態度は不可解以外の何物でもない。何を納得したんだろう?いや、今はそんなことどうでも良い。

「それはそうと何をしている?」

「み、見て分からないのか?自家発電をしてるんだよ」

「んなっ!じ、自家発電とな!それは失礼した。お楽しみのところで声をかけてしまった。すまない」

 急にコスプレ少女は頭を下げて謝罪してくる。僕には何が何やらさっぱりわからない行動だった。

「な、何の話だ?」

「だって自家発電とはひ、ひひ、一人エッチの隠語だろう?知っているぞ、あたしは」

「電気自動車の蓄電量を充電するために太陽光や風力による自家発電をしているところですが、何かご用でしょうか?」

「……なんだ。それならそうと言えば良いのに。こんな誰もいない場所で男子が自家発電中だという状況に少し心ときめいたじゃないか」

 なぜ心ときめく必要があるのか知らないが、さっさとどっか行ってくれないだろうか。少女の子守りなんてする気はない。あえて危ない人間を演じて脅して、逃げてもらったほうが良かったか。第一声を誤った。

「まぁ良い。自家発電中の男子ならば暇なのだろう?あたしも暇だから話相手になってくれないか?」

「抜本塞源。お断りする」

「ば、ばっかんぼっかん?何だそれは?」

「ばっぽんそくげん。弊害の原因を取り除くことだ。厄介ごとは御免だぞ」

「ほっほう。お主は若いのに難しい言葉を知ってるな。気に入った。もっと話をしよう」

「……次の言葉は聞こえなかったのか?」

「だが、ここでは暑い。ほら。そこで寝ているブタよ。起きてご主人様を運んで参れ」

「ッ!」

 少女はブタクサの頬をペシペシと叩いて眠りから覚まさせる。いや、問題はそこじゃない。この少女は何と言ったか?ご主人様を運んで参れだと?

「あたしは何でも知っているぞ。だってあたしは神様だからな!お前は両足がなく、普段はブタの背に乗って運ばれているんだろう?」

「……なぜそれを知っている?」

 そう。僕の両足は義足。そのため長距離は歩けない。その場合は少女の言うとおりブタクサの背に乗って進むのだ。だが、パッと見で義足だと見破られることはないはずだ。歩き方で気付かれたか?いや、少女の前で僕は一歩も歩いてはいないのに。

「理由を聞きたいか?なら、なおさらあたしの話相手になるしかないと思うぞ?こんなところではお茶も出せないから付いてくるが良い」

 怪しい。何から何まで怪しい。もしかして何かしらの能力か?僕の個人情報が筒抜けになっている。自分のこと神様だと言っているが……。僕は警戒度マックスにする。何があっても良いように防犯・防災グッズの入ったリュックを担ぐ。それと車はセキュリティーモードに変更しておく。何かあれば大音量でサイレンが鳴り響き、周囲を撮影して証拠を残す。さらに早急に警備会社に連絡が行くという優れものだ。

「ふふっそんなに警戒しなくても良いのに。こんな美少女一人にビビるとかカッコ悪いんじゃない?何も手出しなんかしないよ。だってあたしは神様だからな!」

「び、ビビってなんかない!ブタクサ、あの女に付いて行けよ」

「ふあぁ~あっ。何で挑発に乗っているんだブヒィ」

「うるさい!ナメられたまま引き下がっていられるか!」

 僕たちは不思議な少女の後を追う。少女は駐車スペースから道路を越えた向かい側にある隠された道へと入っていく。そこは何もない山だと思っていたが、少女の進む方向にはちゃんと整備された道が開かれていた。その道は石畳が引かれており、進んでいると年代を感じさせる鳥居も見えてきた。こんな場所があったなんて全く気付きもしなかった。

「……?」

 そもそもこんなところに神社があったのか珍しく思い、僕はスマホを取り出して検索してみる。先ほどこの地域は発電場所の検索で調べていた。だがそれらしき神社はなかった。見落としていただけなのか?しかし何もヒットしない。ネットにはこの神社の情報がないようだが、そんなことがあり得るのか?

「どうした?幸薄い顔をして。ブヒィ」

「幸厚き顔になりたいもんだ。いや、そうじゃなくてこの地域をネットで調べているんだが、神社の情報が全くヒットしなくて」

「地図から消えた神社か。あの娘といい、このまま付いて行って本当に大丈夫なのか?ブヒィ」

「人類未踏の地。素性の知らぬ娘(神の化身)。眠る財宝。待ち構える地上最強の敵。立ち向かう勇者の僕。ブタ以上に臭いブタ。これはこれで良いんじゃないか?いや、良いよ。このシチュエーション!なんかこう冒険心をくすぐられるよな!」

「おいおい。俺は大丈夫なのか?と聞いているんだが……お前の頭のほうが大丈夫じゃないみたいだなこりゃブヒッ」

「何をぶつくさと言ってるんだ?ほら着いたぞ」

 少女は振り返り、僕たちに到着を報告する。少女の後方には古びた建物が見える。鳥居があったならこれは神社なのだろう。小さいながらも神聖な雰囲気が漂う。

「さ、遠慮せずに中へ入ってくれ。お茶の準備をしてくる」

 そう言って少女は神社の中へ入っていってしまう。

「お、おい。どうするんだ?ブヒィ」

「何かあったらブタの丸焼きでも差し出せば命くらいは助けてくれるだろう」

「妖怪は人間が主食かもしれないぞ?ブヒィ」

「そいつは参ったな。よし帰ろう。今すぐ帰ろう。ブタクサを囮にすれば何とか逃げれるはず」

「よく言うぜ。俺がいなけりゃ走れもしないくせに」

「安心しろ。人間は身体能力じゃない。頭脳で勝負するんだ」

「おい。お茶を入れて来てやったぞ。早く中へ入れ。それとあたしはどっちも食わん。だってあたしは神様だからな!」

「あぁそれは助かるよ」

 僕たちがくだらない言い合いをしている隙に少女の接近を許していた。ガッチリと手を掴まれて逃げることもままならず、ずるずると神社の中へ引きずられた。人間諦めも肝心なのだ。


 神社の中はなかなか掃除が行き届いて清潔感があった。何が奉られているのか分からないが部屋の奥に神棚のようなものがあって、蝋燭の炎と線香の煙がゆらゆらと踊っている。

「ところで良いのかよ?こんなところに入って。怒られるんじゃないのか?」

「良い良い。あたしの寝床だ。だってあたしは神様だからな!」

「ここで寝泊りしているのか?それは罰当たりだな」

「罰当たりなものか。ここはあたしのために作られた神社なんだから、あたしがどう使おうが自由なのだ」

「さっきから痛いことばかり言うやつだな。まるで自分は神様か何かだと思っているんじゃないのか?」

「ん?さっきから言っているのだが、ようやく気付いたか。いかにもあたしはここで奉られる神様なのだ!」

 ここまで徹底されると拍手を送りたい。そういう設定なのだろう。コスプレ少女の中では。

「あたしはこの山の入り口を守る手形の化身だ。後ろの神棚に奉られている。あたしの許可なくこの山を出入りすることはできないのだ」

 と紹介される。これも設定なのだろうがよく考え付くものだ。

「そうか。なら僕はゼロの旅人だ。全てを失う代わりに全ての可能性を手に入れた愚か者だ」

「おいおい。なぜそこで痛さの対抗をする?タロットカードの愚者だろそれ。そういうことばかり言っているとまた入院するハメになるぞ……と。俺はブタクサ。こいつの保護者でこいつは旅人風流。風流と書いてフールと読むんだ。愚者だなんて変な名前だよな。今時キラキラネームかよってブヒィ」

「お前も似たようなもんだろ。ブタにブタクサなんて」

「ちょっと待てよ!そりゃお前が付けた名前だろ?お前のセンスが無さすぎなんだよ!ブヒブヒッ」

「本家のブタクサに謝れ。それに風流だってちゃんと考えられた名前なんだぞ?アニメ主題歌のチャチャヘッチャチャで頭からっぽのほうが夢詰め込めれるって歌ってたろ?愚者のほうが人より夢をたくさん持てるって名付け親の父さんに聞いたんだ」

 と生前の父さんが言っていたのを思い出す。

「悪かったよ怒るなよ。でもブタクサのほうは譲らねぇ。センスないってね!ブヒィ!」

「何だとコノヤロー!」

「ゼロの旅人か。ならちょうど良い。それならこの山に入山してみないか?近々山村で祭りがあるんだ。旅の途中でイベントごとに出会うのも一興だろ?それとお前に少し頼みたいこともあるし」

「面倒だから遠慮します」

「話は最後まで聞け。ちゃんとお礼も用意してある。祭りの際に奢ってやるよ。あたしはこう見えても貢物で金は持っている。だってあたしは神様だからな!」

 ……良いのかよ。勝手に貢物……じゃなくここは供物だな。それを勝手に使って。

「この程度では動かないか。……わかった。神様にまつわる秘宝もやろう。どうだ?欲しくないか?秘宝だぞ?」

「ぜひ僕に任せてくれ!」

「即答だな。物品に釣られるなんて最悪だなブヒィ。いつもならテコでも動かないくせにどうしたんだよ?」

「どうしたかって?そりゃ神様の秘宝だぜ?それに僕は困っている神様を見捨ててはおけるほど薄情じゃないんだよ」

「先に欲望が漏れてるブヒィ。そういうところに浮かれるなんて、まだまだ中二病だよなブヒィ」

「ブタクサだって本当はどんなものか見たいんだろ?よし。決定だ。それで山の神様。僕たちは一体何をすれば良いんだ?」

「ちょ!俺は承諾してねぇぞ!ブヒィ」

「簡単な頼みごとだ。祭りに使う発火花という植物を採取して来てほしいんだ」

「はっかっか?聞いたことがない。どういうものなんだ?」

 僕はネットで調べてみようとしたが、そろそろワイファイの範囲外で電波が届かなくなっていた。アンテナが圏外だ。ネットが使えないと調べものが出来なくて不便だ。僕は仕方なくスマホを懐に仕舞った

「詳しいことはこれから案内する山村の村人に聞くと良い。話しかけるきっかけにもなるだろ。それと山の神は別にいるから、あたしのことは手形の神様と呼んでほしい。村人にもそう言えば通じるはずだ」

「わかった。まずは村での情報収集だな。村はどこにあるんだ?」

「おいおい、お前は人に話しかけられるのかよ?コミュ障だろ?ブヒ」

「ど、どうってことないって。ぼ、僕だってやるときはやるんさん」

「……不安だブヒィ。噛んでるし」

 こうしてとんとん拍子に事が進んでいく。それに不安を感じたのは神様のほうだった。

「……それは良いのだが、さっきの疑問とか聞かなくて良いのか?お前の足が不自由なことをなぜ知っているのか?とか」

「あー別に良いよ。だって神様なんだろ?そういうことにしとく。それに僕の中の優先順位が秘宝のほうが急上昇した。大事の前の小事だ。細かいことは気にしないタチなんだ」

「そ、そうか。疑わないのだな。あたしが神様だってことも」

「例えこれが夢だったとしてもその夢を見ていることは事実だ。偽物でも見て触れて感じられたら、それは今、僕の目の前にある本物なんだよ」

「それは客観的判断力がないってことじゃないのか?ブヒ」

「うるせーな。ブタと会話できるってのもさんざん周りからウソつき扱いされたんだぞ?実際こうしてブタクサと会話できてるのに」

「それは一般的ではないってだけだろ。お前が頑固に言い張るから精神科に強制入院させられたんじゃないか」

「周りなんて関係ねぇよ。僕はもう自分の信じることしか信じない。写真で見る海外も実際にこの目で見るまでは信じないぞ。あれは僕の中では想像上の風景だ」

「またそんなことを……協調性というか処世術というか周りに合わせることも時には必要なんだがなぁブヒィ」

 ブタクサが何と言おうともそこだけは譲れない。他人の正しさなんて当てになるものか。

「あはは。二人共……いや、一人と一匹か。ケンカはしないで。旅は恥のかき捨てとも言うだろ?旅の中くらい神様に会えたとか神様の秘宝に心躍らせても誰も咎めやしないって」

「ブヒィ。旅のテンションでここまではしゃぐこいつを見るのも悪くないかも。普段はふてくされて膨れたブタみたいな顔になっているしブヒィ」

「真性のブタ顔に言われたくない。余計なお世話だ」

「話はまとまったようね。ではおこづかいをあげましょう。それとそこにあるお供え物の饅頭を食べて行って。賞味期限が迫ってるから」

 そう言って手形の神様は巾着財布と手のひらサイズの饅頭を五つ渡してくる。これお供え物なのに食べてしまって良いのだろうか。いいか。腐らせるのは勿体ない。中はこしあんの白い饅頭。ささっと食べてしまう。

「戸締り用心。火の用心。食事の後は爪楊枝んっと。さぁ途中まで送るよ」

 用心というわりに手形の神様は神社の戸を閉めただけだった。鍵なんてもちろん掛けてすらない。こういうところも田舎っぽい。

「途中までって村まで来ないのか?」

「そこまでしなくても良いだろ?これからこの地域にいる土地神様たちと集まってカラオケに行くんだからさ」

「なんだよ。カラオケって」

「神様は何かと人間のために働いているんだ。たまの息抜きくらいもらっても罰は当たらないだろ?」

 確かに僕もそう思う。やるべきことをやるべきだ。働くときは全力で働き、休むときは全力で休む。時には神様の休日があっても良いのだ。案外神無月っていうのは神様たちの小旅行かもしれないし。文句の言いようがない。言いようがないというより、そもそも罰を当てるのは神様なんじゃないのか?

 反論もないということで、早速僕たちは神社を出て案内される。神社の右手に伸びる山道を進んでいく。青々とした草木たちは我先にと太陽光を精一杯かき集めている。こういう草木を見ていると一番葉を広げている近所迷惑なやつを抜いてしまいたくなる。

 旅に出て気付いたことがある。日光は大事だと。太陽光発電もそうだが、人体に日光を浴びると暖かくなる。まるで太陽に包まれているような気分になれる。長い入院生活でそんなことすら忘れていた僕。だからこそ日照権は平等にすべきだ。僕は一番大きく広がっている葉を引っこ抜いた。僕の顔くらいの大きい葉。それだけ他の草木に迷惑をかけていたんだ引っこ抜いた葉はブタクサの日除けにしておいた。

「なんだよ。この気持ち悪い気遣いわ。ブヒィ」

「ふっブタにも気遣える良い男だろ?」

「んげぇ~。ナルシズムは寒いだけだぞブヒィ」

 実際には気に食わない葉を押し付けただけなんだが、ブタクサには気遣いと捉えたか。どうでも良い話なんだが。

 ひと山グルッと一周した辺りで手形の神様と別れる。本当に中途半端な途中まで。それから教えてもらった通りに道を進んでいけば、ちらほらと棚田や民家が見えてきた。やはり田畑を見るとどうしても田舎という感じがしてしまう。都会でほとんど見ることはなくなった。存在してもガーデニングという小粋な趣味にしか見えないお粗末な代物だ。

 仕方のないことだけど、こんな景色があるってことを忘れたくないものだ。この美しい景色はコンクリートジャングルでは味わえない。人間は自然と共に生きていることを今一度実感したい。

「やっぱり旅に出て良かった」

「感傷に浸っている場合じゃないだろブヒィ。さっさと情報収集しろブヒィ」

「騒がしいブタだな」

 それにしても人影は全く見当たらなかった。ここから棚田全体をグルリと一望してみたが、見渡す限り田畑や山だけで人っ子一人いやしない。

「聞き込みをしたいところだがこれはどうしようもない。みんなどこへ行ったんだ?」

「なら休憩しよう休憩ブヒィ。一時間ずっと歩きっぱなしだったじゃないかブヒブヒ」

「何を情けないことを言ってるんだよ。僕は全く疲れてないぞ?運動不足なんじゃないのか?」

「ならそこから降りろブヒィ」

 一時間の長距離移動なので、僕はずっとブタクサの背中に乗っていた。義足を付けてでの長距離移動は足への負担が大きいからだ。

「疑心暗鬼。お断りだ」

「どういう意味だ?ブヒィ」

「疑う心に鬼は宿る。悪いほうへ疑いはじめると悪いことしか浮かばなくなるということだ。僕がブタクサに乗って楽をしていると思っているだろ?そう思うからそうとしか思えなくなるんだよ」

「実際そうだからだろブヒィ」

「疑う心を捨てよ。僕はブタクサの運動不足を心配しているんだ。そこでウェイトとなり、運動のサポートをしている。こう考えれば僕をありがたい存在だと思えるだろ?」

「棚田に突き落としたいくらいにありがたいブヒィ。もーダメだ。休憩する。さっさと降りろブヒィ」

「仕方ないブタだ。わかったよ。少し休憩するか」

 僕は棚田の中央にちょうど腰を掛けるのに良い切り株を発見した。そこで休憩することにした。

「あんだぼ!」

「……ブタクサ。お前何言ってるんだ?とうとう気でも狂ったか?」

「いや、お前だろ?変な奇声上げるなよブヒィ。気持ち悪いだろ?」

「ろっしらろっしら!ろろおんろろおん!」

 ……僕はまさかと思って、腰掛けていた切り株のほうに目を移す。すると腰かけたお尻がもぞもぞ動いていた。

「ろんべっぱ!だどら、ごごんな!」

「って、ぎゃあああああぁーっ!き、切り株お化け!」

 どうやらただの切り株かと思ったら、擬態した人間だった。亀のように切り株から頭や手足がニョッキリと顔を出す。

「だどんもべらんもらも!」

「ブヒィィーッ!な、なんだこいつ?」

「ぜんもぶら、ろんら。ここもとてん?」

 日本語?どこかの方言か?僕はこの切り株お化けが何を言っているのか全く聞き取れない。

「お、おい。何か怒ってるみたいだぞ?なんて言ってるんだ?ブヒィィ」

 僕は大慌てでスマホを取り出し、意味不明な言葉を翻訳してみる。どうやら大昔の方言みたいだ。同じ日本語でもここまでいくと聞き取り不能だ。僕はスマホの翻訳を介して会話することにした。

「何者ですか?」

「それはこっちのセリフずら。怪しいやつらずら」

「僕は旅人。こっちは荷物持ちのブタクサだ」

「オラはこの村に雇われた猟師ずら。農作物を害獣から守ってるんだ。最近クマとかシカとか活動期でよく田畑を荒されるかんな」

「それであんな擬態をしていたのか?」

「んだ。お前は祭り観光でもしに来たのか?この時期になると人の出入りが多いかんな。お前みたいにオラに座るやつがいるだ」

 ここは観光で来たということにしておいた。向こうはそれで観光客慣れしているみたいだし。

「この村の祭りはとにかくキレーでな。周りの村かも人が来るんだっぺ」

「そうか。それは楽しみだ」

 よしよし。向こうは機嫌が良いみたいだぞ。

「何でも発火花っちゅーもんを燃やしてるみたいだども。オラはよく知んねけどもぉ」

「その発火花を詳しく知っている人はいないのか?」

「そういうのはここの村長さんにでも聞いてけれ」

「村長さんはどこにいるんだ?」

「ほれ、あそこに大きな家あんだろぉ?」

 猟師が指差す先には確かに大きな家があった。そこはこの棚田よりも登ったところにある。いかにも金持ちの風格を見せている。あそこで情報収集したほうが早そうだな。

「名も知らぬ猟師よ。助かったよ。礼を言う。僕はあそこに行ってみるよ」

 猟師はおう!と返事をして、また切り株に擬態する。改めて見ると本当に良く擬態出来ている。大変な仕事だと思ったが、日本でこういう擬態猟があるなんて初めて知った。

 僕は切り株お化けが教えてくれた村長の家へと目指すことにした。

「も、もう休憩終わりブヒ?ブタ使いが荒いんじゃないか?」

「大丈夫だ。問題ない」

「お前はな。ブヒィ」


 さて、村長の家まで来たけれども。大きな門に呼び鈴が見当たらない。これはどうすれば良いのだろう?

「とりあえず、ここは……頼もう!」

「曲者め。何か用か?」

 急に声が聞こえた。しかし姿は見えない。人影が一切見えないのに声がする。一体誰の声だ?誰が現れた?全く気配がしない。また神様だとかそういう存在か?もしくは門の向こう側からクリアに聞こえているのか?それともまた擬態化してるのか?

「おっと。後ろを振り返るな。ポロリしちゃうぜ?首がな」

 カチャっと金属音がする。首筋に冷たい感触。刃が首筋に当たっている。

「マジかよ」

 後ろの男。いや、女の声か?中性的な声の主はいつの間にか僕の後ろに立ち、刃物を首にひたひたと触れさせていた。ギラリと輝く刃先が視界の隅に見えた。

「ひぇぇっ」

 触れる刃物の冷たさと同じくらい肝が冷え上がる。ゾクゾクゾクーッ!と全身が震え、血の気が一気に引く。瞬間冷凍機に入れられたようにカッチカチになる。

「どうした?何事だ」

 新しい登場人物が現れた。僕の身体はカチカチで動けないので視線だけ横に動かして声の主を確認する。そこには二人。白髪の老人と若い娘が並んでこちらに歩いていた。二人とも昔の人みたいに着物を着ていた。少女のその手には布で包んだ日本酒を抱えていた。買い物から帰宅した様子だった。

「はっ。曲者にございます」

「……見ない顔だな。お主、なぜここを訪れた?」

 老人は警戒の目で僕を見ている。

「あ!いや、僕はえっと、旅人で、その、そう!手形の神様から発火花を取って来いと言われまして、はい」

「落ち着けブヒィ」

 頭の中がてんやわんやの僕。刃物を首筋に当てられて落ち着けるわけがない。全くこういうときに役立たないアドバイスにイライラする。

「手形の神様……山の麓で祀ってある入山手形のことか?」

「はひっ、はいぃ、そその通りでございます!」

 さすがに冗談だと思われたか訝しがる老人の顔。対照的にきょとん顔の娘。こんなことなら祭り観光だと言っておけば良かった。今更後悔しても遅すぎるのだが。

「……ぶ、ぶひゃーひゃひゃひゃっ!」

 老人は大声を上げて笑っていた。お腹を抱えて面白くて仕様がないというくらい大袈裟に笑う。僕はその様子を見て後悔の念しかなかった。バカにされている。神様がどうとか言ったせいで大恥をかいた。死にたい。穴を掘ってそこで一生を過ごしたい。

「はぁ。いや、すまん。昔、孫も手形の神様と遊んだと話しておるのを思い出してな」

「え?」

「お、お爺様。それは私が幼い頃の話です」

「手形の神様は本当にいるのかもしれんぞ?なにせこれで目撃者は二人になったわけだ。ぶひゃひゃひゃっ」

 娘は恥ずかしい幼児期の話をされて顔を真っ赤にしてふくれっ面に変わる。かわいい反応だ。その様子をむしろ気に入って笑いこける老人だった。

「愉快だ。久しぶりに笑ったわい。気に入った。旅人よ。話くらいは聞いてやろう。中へ入れ」

「え?良いんですか?」

「お待ちください。お義父様。このような得体の知れぬ者を屋敷の中へ入れるつもりですか?」

「良い良い。神様からの使いだ。孫よ。旅人を案内してやれ。くれぐれも丁重に」

「わかりました。お爺様」

「……」

 思いっきり笑い者にされたが、とにかく話は聞いてくれるような雰囲気なので安心する。結果オーライ。不審者としてこんな場所で首ポロリするなんて冗談じゃないから。

 それと僕の背後にいた者は変わった格好をしていた。時代劇か何かで見たことがある忍装束で、くノ一というやつだ。大人の色香を漂わせる布面積の少ない衣装。胸元や足は鎖かたびらが編タイツのように素肌を透かして見せる。残念ながら素顔はマスクで見えないが、顔を隠しているのはポイントが高い。隙間から覗く鋭い目つきが美人と想像させる。

 くノ一は僕の視線に気付くと門を潜らず、塀を軽々と飛び越えていった。あの身のこなしはタダ者ではない。さすがは僕の背後を取った忍びである。

「さぁ旅人様。中へどうぞ」

 すでに老人は屋敷の中へ入っていた。残されたのは娘と僕のみ。その娘の屈託のない笑顔は僕に安心感を与えてくれた。刃を当てられていたときには気付かなかったが、落ち着いて見てみるとその子はとても可愛いらしい娘だった。飾りっ気は大人しく、地味な印象を受けるが今のギャルみたいな下品さは一切ない。犯しがたい品位を備えて育ちの良さを感じさせるお嬢様。今時珍しい希少娘だった。白い和紙に墨を落として黒く汚したい男の欲求をくすぐるタイプだ……って僕は何を考えているんだ。出会って間もない娘をそんな目で見るなんて。僕ってこんなキャラだったか?旅テンションって怖い。

 さて、中に通されたのは客間。外側から見た家はとても大きかったが、内側から見ても当然大きい。掃除するだけで一日が終わりそうだ。客間は広くてなかなか上品な雰囲気。テーブルもがっちりとしていて、例えゾウが踏んでも百人乗っても大丈夫そうだ。庭に目を向ければ庭師が手入れしていた。庭師を雇うってお金持ちの証だと思う。それと年代モノの掛け軸がひと際大きく存在感を放っている。あれは龍だ。しかも画龍点晴バージョン。

「なんか金持ちっぽいぞブヒィ」

「ぽいんじゃなく、金持ちだろ。どう考えても」

「掛け軸の龍を見てみろよ。白目で怖いぞブヒィ」

「そういう見方もあるか」

 画龍点晴の龍は飛び立つのを防ぐために黒目を欠いたという話だ。龍が生きているかのように、それだけ上手に描かれているわけで、決して白目を向いているわけではない。全然意味が違ってくるじゃないか。

「旅人様」

 娘が戸を開け、入ってくる。手には茶菓子の用意があった。

「お爺様は少々用事になります。近々祭りがありますので、その準備に。なのでその間私がお相手させていただきます」

 娘は慣れた手つきでお茶の準備をする。菓子のほうは高級そうな塩大福。ひと口食べれば、塩気で舌をキュッと引き締めた後に来るあんこの甘み。これは良い塩大福だ。塩気と甘みの緩急が楽しめる。手形の神様のところで饅頭五つを食べたが、その後でもおいしくいただける。さすが金持ちの出す茶菓子はデブ促進食品ばかりだ。

「旅人様は今日、村へお越しになられたのですか?」

「まぁそんなところかな。えーっと」

「自己紹介がまだでしたね。私は祭慈雨多喜。さいじうたきと申します。祭慈雨家の娘でございます」

「多喜ちゃんか。良い名前だね。僕は旅人風流。ゼロの旅人だ。こっちはブタクサ。ブタ臭いという意味だ」

「何気にひどい名前だよなブヒィ。植物の豚草でも雑草だし、花粉症のせいで嫌われているしブヒィ」

「旅人様にブタクサ様ですね。あら?私はどうして旅人様のお名前を知っていたのでしょう?」

「それは旅人という名前の旅人だからだよ」

 そんな軽いボケをかましてくる多喜ちゃんといろいろな話をする。祭慈雨家は昔から祭事などに深く関わる家系で祭慈雨村の有権力者だ。発火花は近々行われる祭慈雨祭りに使われる。発火花を燃やして山の神様に村の安全を祈願する祭りらしい。

 発火花はその名の通り、発火する花で油分を多く含み、強い衝撃を与えるだけで燃え始める。その際とてもキレイな花火が咲くらしい。祭りと花火大会が合わさったイベントだと想像して間違いない。そう考えると発火花はとても重要なボジションにある。手形の神様が心配するのも無理はない。

「ところで旅人様は手形の神様とお話されたとか。手形の神様にお変わりありませんでしたか?」

 確か多喜ちゃんも手形の神様と遊んでいたとか爺さんが言っていた。

「口達者で生意気な小さな女の子はとても元気にしてたよ。土地神様とカラオケに行くって言っていたよ」

「そうですか。私は最近会いに行けなくて心配しておりましたが、元気そうでなによりです」

 多喜ちゃんはニッコリ笑顔になった。その笑顔にキュンとする僕。キュンとする僕を見て気持ち悪そうに引きつる顔をするブタクサ。あとで角煮にしてやろう。

「それにしてもなぜ発火花の採取を旅人様に依頼したのでしょうね?実は去年の祭りは雨で中止になりました。発火花は去年の残りを使用する予定なのですが」

「在庫があるのか。なら採取しに行かなくても良いじゃないか。なぜ手形の神様はわざわざ僕にそんな依頼をしたんだろう?」

「……気になりますね。神様が必要のないことを言うでしょうか?」

 神様ともあろう者が余計なことを言うだろうか?話のタネにするためにこんな依頼をしたのだろうか?

「確認したほうが良いかも」

 僕たちは顔を見合わせ頷き合う。神様が余計なことを言うはずがない。それにただ確認するだけだ。その程度の労力なら惜しむこともない。在庫が無事であればそれで良いわけだから。

「お母様。聞こえてますか?」

「承知した。お爺様には私が知らせておこう」

 天井から声がした。さっきのくノ一の声だ。ずっとそこにいたのか?驚いたがそれどころではない。とても気になる単語があったように聞こえた。

「え?お母様?多喜ちゃんの?この人が?」

「はい。そうですが?……やっぱり変わっているのでしょうか?くノ一が母親だというのは。よく言われるのですが」

「え?そ、それは」

「旅人よ。正直に言ってみると良い。変わっているのか?変わってないのか?ん?怒らないから答えてみろ」

 怖い声色が聞こえてきた。くノ一さんは怒ってらっしゃる?

「地雷を踏んだな。誰だって自分が変だと言われて良い気なんてしやしない。どうするんだ?ブヒィ」

「た、助けろよ。ブタクサ。ここはどう切り抜ければ良いんだ?」

「正直に言えよ。変わってますって。そうすれば首ポロリンでジ・エンドだブヒィ」

「それじゃあダメだろ!」

「旅人よ。さっきから何をごちゃごちゃ言っている?男なら男らしくはっきり言ってみろ。怒らないから」

 くノ一の声色が一段と低くなる。怒らないからを二回言った。これはかなりコンプレックスを感じているようである。姿、表情は見えないが、怒りマークの青筋が立っているのが見える。冗談でしたやギャグで逃げることは許されない雰囲気。どうするべきなんだ?

「えーえーっと。変わって……」

「変わって?」

「変わって……変わっていますん。さぁ行こう!多喜ちゃん!今すぐ発火花が無事か確認しよう!走れブタクサ!」

「キャッ!た、旅人様?」

 僕は多喜ちゃんの手を取って部屋を出た。

「待て!それはどっちなんだ?話は終わってないぞ」

 待てと言われて待つバカがどこにいる?どこへ向かえば良いかわからないが、とにかく逃げるしかない。大急ぎで客間を後にした。ちゃんと答えは出したんだ。文句を言われる筋合いはない。逃げる必要もない。だけど怖かったので逃げた。

 逃げて逃げて、玄関を回り、客間から見えた庭まで逃げてきた。相手は忍者だ。隠れる場所がない池に架けられた橋に立つ。ここなら忍者が接近してきたとしてもすぐにわかるから対処できるだろう。警戒しつつ、一息つくことにした。全力で走ったブタクサが今にも死にそうだ。

「変わった母親だね」

「珍しいとは思います。確かお父様とお母様の出会いは屋根裏だったと聞いています。お父様がかなりやんちゃでして、お母様の寝床を襲ったらしいです」

「おや大胆なことを。夜這いされたんだ?」

「お母様は言っていました。自分よりも強い男になら身を捧げても良いと。忍びが不意打ちを喰らうなど言語道断。相手は確実に自分より強い。ということで二人は結ばれることになりました」

 男と女のすることですから。しかし忍者の寝床を襲うって普通の人間にできるものなのか?多喜ちゃんの父親も侮れない。タダ者ではない臭がする。母親以上に要注意人物だ。気付けば首ポロリンしているほどの腕前かもしれない。この祭慈雨家は普通じゃない。僕の直感が脳髄に訴えかけてくる。

「ちなみにお父様は次女の狸子と商店をやってます。村で使う日用品や雑貨などを買い付けしてます」

 ……普通だ!普通の父親だ!しかも娘と仲良く商店を経営してるようだ。

「でも、最近のお父様は家でゴロゴロしてるか、遊郭に入り浸ってます」

 ……ニートだ!もしくは家族の稼ぎで生活してる紐だ!遊び人だ!おや?僕の直感は一体何を脳髄に訴えかけていたんだろう?

「多ぁ喜ぃ~。どこの馬の骨とも知らない赤の他人に家庭の事情を話しているんだい?ダメでしょ?わかったら、さっさと発火花の在庫見て来なさい!」

「お、おお母様?」

「ぶわわーっ!」

 ブクブクブクと池の底から声が聞こえてくる。そちらに目を向けると池には見覚えのない一本の竹筒が。水の中か。水とんの術なのか。全く気付かず、接近を許してしまった。

「ふっふっふ。忍びの道は闇。闇を渡ってどこへでも現れるのが忍び。闇あるところに忍びが千人潜んでいると思え」

 まるでGだな。これは口が滑っても絶対に言えない言葉だ。ぐっと言葉を飲み込み、心の奥深くに仕舞っておこう。


 さて。そろそろ真面目に発火花の在庫確認しに行ったほうが良いだろう。発火花は花火の性質があるため取り扱いが難しく、普段は地面に穴を掘って埋めているらしい。こうすると花火の大敵である湿気も抑えられるからだとか。あと絶対に火気厳禁。

 発火花が埋められているのは離れにある蔵。僕たちはさっそく蔵へ向かった。ちょうどその蔵には人だかりがあり、多喜ちゃんの爺さんが立っていた。爺さんは険しい顔でこう言った。

「孫か。大変なことになったぞ」

 爺さんの話ではどうやら発火花は年越しで使用はできず、毎年採取しなければならないらしい。これにはいろいろな説があるが、発火花の発火成分は寒さに弱く、冬を越せない。そのため前年の花を燃やしても燃えないという。つまり去年の在庫なんて最初から使えなかったんだ。

 また発火後の実は保温性が高く、山にいる動物たちの冬越し用としてお裾分けするのが決まりらしい。だからこんなところに保存されているのはおかしなことだった。

「どうしてこんなところに保存してあったんだ?」

「ふむ。管理人の手違いだ。去年より発火花の管理をある者に任せておったから発見が遅れてしまったようだな」

 爺さんが睨みを付けると、そのある者が肩をすぼめた。管理人だと思われる男性。パッと見の印象で周りの男たちと比べて、ひどくチャラチャラした風貌だった。髪もどこぞのホストみたいに整えられていて、妙に黒々しく日焼けしている。着物もカッコ付けているのか大きくはだけさせてダラしない。着物の隙間から見えるフンドシだけは男らしい。褒められるのはその一点のみ。こんな男が管理人?と疑ってしまうほど職に合わない。無責任に投げ出してしまいそうな印象しか受けない。結果手違いを起こしているし。

 そんな男に多喜ちゃんは近づいていく。

「お父様。どうなされたのですか?」

「えええええぇーっ!」

 僕は慌てて口を閉じた。驚きを隠せなかった。この男が父親だって?つまり多喜ちゃんの両親はこのチャラい男と母親のくノ一ということになる。なかなか変わった……いやチャラ男だからこそ相手がくノ一だとしても関係なく平気で手を出せるのかもしれない。ある意味納得できる夫婦なのかもしれない。いや、納得できるわけがない。変だ。変すぎる。

 父親は大欠伸をしながら軽い謝罪で済ませ、全く反省の色もなく娘に叱られていた。僕の想像とはかなり違ったが、なんというか、あんな風にはなりたくないなと思った。


「旅人よ。感謝する。事前に不備を発見できたことを」

 爺さんに声をかけられる。改まって頭を下げられると逆に申し訳ない気分になる。だが備えあれば憂いなしだ。やはり手形の神様の心配は的中していたことになる。

「確か手形の神様に発火花の採取を命じられていたのだな?これも何かの縁だ。その通り採取をお願いできないだろうか。儂らは祭りの準備で忙しい。頼めるのはお主しかおらぬのだ」

 僕もそのつもりだったので快く請け負う。何せ神様の秘宝をもらうためだから。

「ありがたい。孫よ。道案内を頼むぞ」

「了解しました。お爺様」

 こうして僕たちは発火花採取の旅に出かけるのだった。

「旅人様。出かけるのは明日からにしましょう。何分ひと山越えるので二~三日はかかります」

「あ、そうなの」

「おいおい、急くな。死に急ぐなよブヒィ」

 いらぬ恥をかいてしまった。

「こちらで宿はご用意しますので、明朝に出発しましょう」

「はいはい」

 泊まりになるとは思っていなかったので、お言葉に甘えることにした。

「じゃあこれからどうしようか?」

 まだ宿にチェックインするには早い。

「旅に必要なものを用意しましょう。商店がありますのでそちらへ向かいます」

 チャラ父と多喜ちゃんの次女が働いていると言っていたが、その商店のことだろう。僕たちは善は急げとばかりに向かうことにした。


「姉者なのじゃ!」

「狸子。来たよ」

 商店の前で立っている丸っこいチビが多喜ちゃんの妹。姉と手を取り合って再会を喜んでいた。

 まず商店のほうに目を向けると田舎にしてそこそこ大きさ。二階建てで一階は商店と半分のスペースは茶屋になっている。いわゆるイートインというやつで、商店の団子などを買って、ここでお茶を飲むのだろう。三人がけの長イスが三つも入る広さがある。商店には茶団子や野菜に干し物、その他雑貨が置いてある。そして商店の前には広場があって、今も祭りの準備が進められていて、木材などが運ばれていた。なんだかワクワクする光景だった。

 さて、丸っこいチビ娘のほうはと言えば、まさに形容の通りでまるまるとして、愛嬌のある感じの女の子。多喜ちゃんの半分くらいの身長しかないのに横幅は倍なので丸っこく見える。坂道で転がせばコロコロとどこまでも転がって行きそうなくらいキレイな丸みを帯びている。動物に例えれば名前通り狸だ。しかも信楽焼きのような狸だ。もしくは超有名な青いネコ型ロボット。どういう食生活であんな風になったのか興味がある。多喜ちゃんと姉妹だとは思えなかった。

「姉者。この人なんだかとても失礼なこと考えてそうな顔してるのじゃ」

「え?そんなことありませんよね?旅人様」

 と多喜ちゃんは僕に振ってくる。僕は心の中を読まれたのかとドキドキしたが平静を装って返答する。

「え?あ、うん、どら焼きとかおいしく食べてくれそうな可愛らしい妹さんだなと思っただけだよ」

「どら焼きは好きなのじゃ!」

 狸子ちゃんと呼ばれた妹さんはニコニコ笑顔になる。どうやら心の中は読まれていなかったようで安心する。それにしてもこの娘の笑顔はこちらまで釣られ笑顔になってしまうくらい満面の笑みだった。

「ところで姉者。この人がお爺から丁重に扱えと言われた旅人様か?」

「そうですよ」

 すると狸子ちゃんはふむふむと僕の頭の先から足先まで舐めるように視線を動かす。値踏みされているようで小さく緊張が走る。緊張する必要はなく堂々としてれば良いわけなんだけど、どうも視線というやつは厄介だ。触れてもない臭いでもない聞こえてもいない味でもない。だけど視線は感じるのだ。どういう仕組みなんだろう?

「合格なのじゃ!」

「へ?」

 狸子ちゃんが突然そんなことを言い出す。何が合格なのか検討も付かず、僕は頭を傾げることしかできなかった。さぞ大きなハテナマークを頭に乗せているだろう。

「狸子はお父様に代わってここを切り盛りする実質経営者。こう見えても人を見る目だけは商売柄鋭いのじゃが、旅人様は一発で合格じゃ!」

「本当ですか?狸子」

「はい姉者。信じてください。きっとこの方は幸せをもたらしてくれる人です」

 手を取り合って喜び合う二人。何を言っているのか全く理解できない僕。

「ブッヒッヒ。幸せをもたらす人だってよ」

「……目が腐ってるんだろ。どういう判断基準で合格なのか知らないけど、僕の本質に触れれば一発で取り消し確定だよ」

「他人からどう見られているのかなんて気付くことはできないけど、プラスに見られているなら良かったじゃないか。幸せをもたらす人。ブヒィ」

「バカにしてやがる。くそっ。僕の周りには不幸な人間しか集まっていないっての」

「そんなことないって。ブヒィ。それこそ旅に出てこそ人の本質ってものが見えてくるもんさ。だから自分探しの旅とか形容されるんだぜ。彼女たちにとってお前は幸せ人間なんだよブヒィ」

「何を言ってるんだよ。このブタが。そんな称号、断固拒否する」

「旅人様よ!」

 僕がブタクサと言い合っていると狸子ちゃんの呼び声が聞こえた。大きな声でびっくりする。元気があるのは良いことなのだけど、僕のペースには合わない。

「何だよ?」

「姉者をどうかよろしくお願いするのじゃ。幸せにしてあげてほしいのじゃ」

「は?何言ってるんだよ。僕がその……幸せとか無縁の男だよ。誰も幸せになんてできないよ」

「大丈夫なのじゃ。お父様よりほんの少し働いてくれたら充分じゃ!」

「……」

 確かにあの父親と比べたら僕のほうが少しはマシか。……って、基準はそこなのか?

「いや、ちょっと待て。その前の幸せにしろって何だよ。まるで僕がお嫁さんにもらうみたいな言い方じゃないか」

「はへ?姉者のこと嫌いなのか?」

「えぇ!た、旅人様。そうなのですか?私って嫌われていましたか?」

 二人に言い寄られる。

「ちょっと待ってよ。僕は発火花の採取するように言われただけだぞ?」

 婚活するつもりなんてないぞ。こっちは。

「……あはは。あー。そ、そうですよね。そうでした。私ったら。あはは」

 ……まったく。どいつもこいつも色気付きやがって。僕はこのままずっと一人で生きていくつもりだ。誰に迷惑をかけることなく、誰に迷惑をかけられることもなく。旅に出たのだって一人になりたかったからだ。願わくば、このままひとりで逃避行したいと思っている。……はて?何の話から始まって、こんなことになっているんだっけ。

「まぁまぁ。急いては事を仕損じるじゃな。慌てて答えを出さなくても良いのじゃ」

「うぅ。元はと言えば狸子が変なこと言い出したからじゃない」

「そうじゃったかな?」

「……」

 僕はこのときなぜかチクリと胸の内に痛みが走った。

「それで姉者たちは何をしにここへ来たんじゃったかな?用事があったのではないか?」

「あっそうだった」

 多喜ちゃんはこれまでの経緯を話す。話に父親が出てくる辺りで頭を抱えてしまう狸子ちゃん。自分の親だからこそ情けなくなったのだろう。

「お父様に在庫の管理を任せられないのじゃ」

 確かに。

「それで旅に持っていくものを買いに来たのじゃな。なら遠慮なくたくさん買っていくのじゃ」

「えっと狸子?こういう場合はお金は……」

「もちろん頂くのじゃ。姉妹とてお金の計算は別じゃ。今月もお父様が遊んでおる遊郭からツケを払えとうるさいからじゃ」

 どうしようもない父親だな。

「おーい。狸子。多喜もいるか?」

「あ、お父様が来たのじゃ」

 噂をすれば何とやら。僕たちが旅に持っていくものを選んでいると父親が商店にやってくる。父親は僕の存在に気付いてチラリと視線を向けたがすぐに目を逸らす。感じが悪い。

「頼まれていたもの持ってきたぞ」

「本当ですか。お父様」

 父親が多喜ちゃんに荷物を渡すと、嬉しそうに小躍りしていた。何か待ち望んでいたものが届いたのだろうか。

「姉者。せっかくだから旅人様に見せてやるのじゃ」

「え?ええ?は、恥ずかしいよ」

 どうやら届けられたものは着物のようだ。妙に派手くるしいやつが数点。なんだかんだと言いつつ、着てくるつもりなのか多喜ちゃんは狸子ちゃんに背中を押されて商店の奥に入ってしまった。

 取り残されたのは僕と茶屋の長イスに寝転がる父親となった。お互い特に話すこともなく気まずい空気が流れる。沈黙が続く。

「おい。お前」

 とうとう話しかけられてしまった。さすがにここには僕しかいないので無視を決め込むことは難しい。仕方なく返事をすることにした。

「な、何ですか?」

「……」

 話しかけておきながら父親はじっと黙ってこちらを見ていた。しばらくの間男同士二人で見つめ合うという妙な時間が流れた。ずいぶん長い時間そうしていたように思うが、その時間を経て父親の言葉がこれだった。

「女紹介しろよ」

「……」

 とんでもない父親だった。

「女の子の知り合いなんかいない」

「ケッつまんねーヤロウだな」

 父親は僕に興味を失ったのか、立ち上がって別れの合図に片手を上げてそのまま去って行ってしまった。

「何なんだよ。一体」

「んあ?気付かなかったのか?ブヒ。あれはお前の人物像を探ってたんだよブヒヒ。女たらしだったら親としては心配だろ?ブヒィ」

「あ?誰が女たらしだよ!」

「あんな父親でも娘が心配なんだろ?ブヒィ」

「そうか?僕には女の子のことしか考えてない、妻子あるくせにろくでなしなんじゃないのか?」

 まぁ、今後も関わることはないだろう。関わらなければ、どうだって良い。向こうも僕と関わる気もなく、さっさと去ってくれたんだ。この距離感で充分。仲良くするつもりはさらさらない。


「あれ?お父様はどこなのじゃ?」

 しばらくしてから狸子ちゃんだけが奥の部屋から出てくる。僕は帰ったと伝える。

「……まぁ良いのじゃ。それより旅人様。姉者がどうしても見てほしいと言っておるので、おめかしした姿をどうか見てやってほしいのじゃ」

 そんなこと言ってないと多喜ちゃんの声が引っ込んだ奥の部屋から聞こえた。お構いなしに狸子ちゃんは登場コールと手拍子を鳴らす。僕も促されて同じようにした。多喜ちゃんは渋々と僕たちの前に現れた。とても恥ずかしそうにしていたが僕はその姿に目を奪われた。

「あ、の旅人様。私、変じゃないですか?」

 それは龍の姿がド派手に描かれた着物。こちらも画龍点睛を欠く。黒目は相変わらず入っておらず、白目の龍はなかなか迫力があった。見事な昇龍の絵だった。そんなカッコイイ龍とは裏腹にミニスカに迫るほど引き上げられた裾から覗く白い足は大胆にさらけ出されている。

「狸子?やっぱりこの裾丈短すぎない?」

「ううん。大成功なのじゃ。ほら。旅人様も姉者の足に目が釘付けじゃ」

「ひゃっ!」

 言われて気付いて慌てて目を逸らす僕。無意識に女の子の肌に目が行くのは男の性なのだ。僕は、男は悪くないと主張したい。

「せっかくの晴れ舞台なんだから目立たなくちゃダメなのじゃ。祭りの歌姫になりたいんじゃろ?ならもっとみんなに姉者の実力を見てもらわなきゃ」

「う、うん。私、がんばる!」

 えいえいおーと言わんばかりに拳を振り上げる多喜ちゃんたち。

「えっと。盛り上がってるところ悪いんだけど、なんでそんなに気合入っているんだ?」

 祭りの歌姫だとか多喜ちゃんの実力をみてもらいたいとか一体どういうことなのか?初めての舞台だということは聞いたけど、たかだかいち祭りのためにそこまで気合を入れるものなのか?

「うむ。実は姉者が次の祭りで歌姫になれたのは、今の歌姫様が産休だからなのじゃ」

 代理ってわけか。

「それでこれからも歌姫に選ばれるために次の祭りで実力を見せなくちゃいけないのじゃ」

「なるほど。だからその力の入れようだったのか」

 ちなみに歌姫ってのは祭りの時に音頭を取る人だ。聞いた話によれば、夏場に各地の祭りを回って歌い、一年分の稼ぎを出す有名な歌姫がいた。それだけ夏場の需要はすさまじい職業だ。

「ここで頑張れば、今後も歌姫になれるかもしれないってこと?」

「そうなのじゃ。今まで練習してきて、ようやくお披露目できる大舞台。気合いの入り方も段違いなのじゃ」

「へぇ。多喜ちゃんは歌が上手いんだ?」

「上手いかどうかはわかりませんが、小さい頃からずっと歌姫になることが夢でした。だから私、一生懸命がんばります!旅人様にも私の歌を聞いてほしいです」

「わかった。楽しみにしてるよ。そのときに着る衣装がそれなんだね」

「はい。そうなのですが、変じゃないでしょうか?」

 僕は改めて多喜ちゃんの今の姿を見てみた。昇龍が描かれた着物。これは舞台栄えしそうなくらい目立つだろう。だけど、やっぱりそれ以上に目が行ってしまうのは大胆にさらけ出された足なわけだが。いや、これは見る角度によって下着も見えるんじゃないか?それはけしからん。ここは僕がチェックしておかなければいけない。紳士的にローアングルで攻めてみた。

「ひっ!旅人様!いくら短いとは言え、覗き込んで良いとは言ってません!」

 多喜ちゃんに後退して逃げられた。残念。もうちょっとだったのに……じゃなかった。これはあくまで見えてないかのチェックだ。多喜ちゃんを人前で恥をかかせるわけにはいかない。

「ケラケラ傑作なのじゃ。じゃが旅人様や。それ以上は責任問題に発展する恐れがあるのじゃ。嫁入り前の娘に手を出のじゃ。脱独身の覚悟は持ってもらわぬと」

「お、おう。責任ね。責任ある行動を、だな?」

 僕は素直に引き下がることにした。それはそれでホッとしたようなちょっと残念そうな、微妙な表情をする多喜ちゃん。

 そもそもこの場合は衣装がどうかではなく、一番は本人が着てみてテンション上がるかどうかだ。なら一目瞭然。答えはすでに出ている。

「その衣装。良いと思うよ」

 そう伝えると多喜ちゃんの表情が一気に晴れやかな笑顔になった。


 衣装は決まったようだ。当日まで汚してはいけないと普段着に着替え直してくる多喜ちゃん。残念そうだが仕方ない。当日までのお楽しみということで。

 それから当初の目的である買い物を済ませた帰り道。僕は荷物持ち。実際にはブタクサが運んでいるようなものだけど。

「買い物はこれで終わりか。じゃあこれからどうしようか?」

「そうですね。あとは夕飯や宿泊、明日の準備をするだけですね。その間旅人様はどう過ごされますか?」

「そうだな。荷物を持ち帰ったら一度車に戻って僕のほうの準備をしてくるよ。車も道路に置きっぱなしだし」

「……くるまですか?」

「あー。最新型の自動運転する車。免許取得年齢も引き下げられてるんだよ。だから未成年の僕が車を運転しても大丈夫なんだ」

 ついでに言えば、両足のない障害者用試験運転車。二十四時間走行データや周辺映像がバッチリ記録されるてしまうが試験運転車ということで実は無料なのだ。

「……はぁ。そういうものがあるんですね。私は村から出た記憶がなくて。狸子ちゃんなら知ってるでしょうか?」

 最新型だから知らなくても無理はない。ときどき警察官にまで止められる始末なのだ。知名度は高くないが今後少しずつ普及されていくだろう。

 そんな話をしつつ帰宅する。僕……とより主にブタクサが荷物持ちの役目をようやく終えることができた。ここで多喜ちゃんとは別行動になる。多喜ちゃんに夕食まで帰ってきてくださいと見送られながら出かけた。

「……車まで戻るつもりだったけど、面倒になってきた」

「おいおい。ダラしねぇな。どうした?急にブヒィ」

「車もセキュリティモードにしてあるから何があってもすぐに警備会社がスッ飛んで来てくれるだろ?それにこの山村まで車持ってくるのも面倒だ。駐車スペースがないみたいだし」

 実際に準備するものなんてない。女の子じゃあるまいし、担いできたリュックにはひと通りのアイテムは入っているのだ。一番僕が足を向けたくなくなった理由はここには一切の監視が入ってないということだ。スマホの電源さえ切れば。……さすがにそこまで精神科の連中と断線してしまうとマズいか。

「車に戻ったら、もう車から出たくないとか言って、依頼のほうを面倒だと言いそうだブヒィ」

「人を引きこもりニートみたいに言うなよ」

 ブタクサの言う通りかもしれない。車に戻ったら今度はこの山村のほうを断線してしまうだろう。それはまるで夢から醒めるように失ってしまうのだ。それは少し惜しい。もう少しこの変な世界を楽しみたい。そう思った。何かが動き出しそうで。

「ならこれからどうするんだ?ブヒィ」

「そうだな。その辺ブラブラするか。特にやることもないし」

「俺はさっさと帰って明日のために休みたいブヒィ」

「おいおい。若者が体力の温存なんぞしてどうする?パーッと使っちゃえよ。体力なんて。有り余ってんだろ?」

「……」

 言いよどむブタクサ。否定すればジジィ決定。肯定すれば疲れるだけというイジワルな質問だ。ブタクサが出した答えは面倒そうな質問なので黙秘といったところだ。

「とりあえず少し登ってみたぞブヒ」

 多喜ちゃんの家よりも上。草木をかき分けて登ってきた。そこは開けた場所で、ここからだと村全体山全体を一望できる。

「……車は見えないな」

「そうだなブヒィ。どの辺りから登ってきたんだっけ?」

「地図が使えないからわからん」

「スマホがないと何もわからないんだなブヒィ」

 実際ネットの情報に頼りっぱなしなところはある。ネットに繋がっていないと、ここまで自分が頼りない存在なのかと恐怖してしまう。僕自身には一体何があるんだろう?

「これが携帯依存というやつか」

「それはちょっと違うんじゃないか?ブヒィ」

 そんなどうでも良い話をしていた。夕風が周りの草木をサワサワと揺らしていく。だいぶ日が落ちてきた。不思議とこの山村にいると時間を忘れる。時間の流れに僕はまだ慣れていない。入院していたときは一分一秒過ぎていくのが遠かった気がする。秒針がカッチカッチと進んでいく音が苦痛でしかなかったのに。

「物悲しいと思ったら、ここは音が見えないのだな」

「何かヤバイ薬でも飲んでるのか?法に触れるような薬のことじゃないだろうな?ブヒィ」

「医者が処方した薬なら……って、それも飲んでないけど。僕が言いたいのは病院にいるときの雑音は目をチカチカさせるだろ?それがないなと思って」

「なんだそりゃ?音が見えるわけないだろブヒィ。音は聞くものだブヒィ」

「そんなことはない。幻覚系の薬には聴覚情報を視覚情報として脳に誤認識させるものがある。音なんて感じ方の違いだけで、本当は視えるのが正しいのかもしれないぞ?犬だって嗅覚情報を本当は脳で視てる可能性だってある。犬の鼻は視覚以上の役割を持っているのはそういう理由かもしれない」

「……そういうもんかねぇブヒィ。そういう知識ばっかり持ってるな?」

「そりゃあ……精神科にいたらそういう知識ばっかりになるだろ」

 大体が精神科医への不信か不満。自らの現状を知るために心や脳の働きについての知識を豊富にしていく。精神科医は余計なことだと言うけれど、信頼の得方も知らない者が果たして精神のプロかどうか疑問である。

「環境を変えるとここまで違うものなんだな。音で目のチカチカすることが無くなっただけでも随分楽になった」

「ふーん。でもここだって全くの無音ってわけじゃないだろブヒ。風が草木を揺らす音。野鳥の鳴き声も聞こえるブヒィ」

「そう言われればそうだな。なんでだろう?心に余裕が出来たからか?」

「俺に聞かれても知らないブヒィ。でも難しいことばっか考えてて疲れてたんだろ」

 そうかもしれない。田舎の癒し効果が半端ない。これがパワースポット効果というやつか?

 グンギュルギュギュギュ~ッ。

「そ、そろそろ帰ろうブヒィ。お腹が減ったブヒィ」

 ブタクサの腹が豪快に鳴った。もちろん音は視えなかったが、代わりに腹が減って死にそうなブタクサの顔が見えた。花より団子。仕方がないなと僕は多喜ちゃんの家に戻ることにした。


「旅人様。お風呂の用意ができました。ごゆっくりどうぞ」

 僕たちは多喜ちゃんの家にお邪魔している。多喜ちゃんがいろいろ世話してくれるものだから、旅館に泊まっているような気分。僕たちは夕食を終えて、お風呂に呼ばれていた。

 お風呂は今時珍しく薪で焚くタイプ。しかもひのき風呂。古風だなとは思ったが、これはこれでなかなか趣があって良い。気に入った。

「おい。あの夕食なんだったんだよ?」

「知らねぇよ。おいしかったけど、何の料理なのか見当も付かない」

 冬虫花草みたいな何かが入っているスープ。滋養強壮や強精効果があるらしいが。よくわからないので話題にも出しにくい。

「それはそうと木の風呂ってのは初めて入ったけど、香りがとても良いなブヒィ」

「そうだな。アロマ効果でもあるんじゃないか?」

「さっきからお前ニヤけすぎだぞ」

 急な指摘に驚く。ニヤついてるなんて、全くそんな気はなかったから。

「そ、そんなこと……いや、そうかもな。かなりリラックスしてるよ。こうしてゆったり湯船に入ったのも何年ぶりだろう」

 ほぼお風呂なんてシャワーで数分間流す程度。はっきり言って湯船に浸かる意味が分からなかった。時間の無駄としか思えなかったのに今日は不思議と入る気になった。ひのき風呂だからかな?

「なんだかんだと言ってたけど、やっぱり旅に出て良かったよな?ブヒィ」

「……そうだな」

 旅の解放感もバカに出来ない。いや、息の詰まる入院生活への反動か。こんなに気が抜けたのは久しぶりだった。一体自分は何に緊張していたのか今となってはどうでも良いことだと思う。ともかく大事なことはお風呂がこんなに気の抜ける気持ち良さがあったという新しい発見だ。よく風呂を褒めるときに日本人で良かったなんて恥ずかしいセリフがある。今ならその気持ちわかるかもしれない。

「旅人様。お背中お流しします。入ってもよろしいですか?」

 扉の向こう側から多喜ちゃんの声がした。気を抜きすぎていたので、この不意打ちに驚いてしまった。。

「おわわっ!ちょっと待って。おもてなしすぎるんじゃないの?」

 おもてなし教育が行き届きすぎだ。

「お爺様から丁重に扱うようにと言われていますので、遠慮なさらないでください」

「ブッヒッヒ。良いじゃないか。流してもらえよブヒィ」

「ブタクサ!適当なこと言ってんじゃねぇ!風呂の時間は……そう大事な時間になったんだよ!」

 特に言い訳が思い付くことがなかったので変なセリフになった。

「なんだよ。別に良いじゃねぇか。もしかして女の子に背中流してもらう程度のことでビビってんのか?ブッヒッヒ」

「な!ブタクサのくせに僕をバカにしてるのか?ビビってなんかないっての!ただ僕はこの大事な時間をだな……」

「おっし。なら決まりな?逃げるなよブヒィ」

 僕の話も聞かずにブタクサは勝手に扉を開け放ちやがった。当然向こうには多喜ちゃんが待機しているのだが。

「のんわぁーーーーー!た、多喜ちゃん?」

 僕は光の速さで多喜ちゃんに背を向けた。とんでもないことになっている!

「据え膳食わぬは武士の恥ブッヒッヒ」

 ブタクサは余計な一言を残してなぜか風呂から出て行った。僕を置いていくなんて薄情なブタだ。その入れ替わりに多喜ちゃんが浴室に入ってくる。その足音が鋭覚になった耳に聞こえる。ヒタッヒタッヒタッ。

「えーっと多喜ちゃん。どうしてこうなったの?」

「お爺様に丁重に扱うようにと言われましたので」

「うん。それはさっき聞いたんだけど。僕が聞きたいのはその恰好のことなんだ」

 そう。タオル一枚の姿で登場したことについて。

「お爺様に丁重に扱うようにと……」

 ダメだ。これしか言わなくなっている。これ以上聞いても無駄だということだ。さてどうしたものか。

「あ、あの。私じゃダメですか?」

 ド直球変化球なしの問いが来る。

「だ、ダメとかそういうんじゃないんだけど」

「じゃあ!じゃあ良いってことですよね!わ、私がんばりますから!」

 そこまで身体を張ってがんばってもらわなくても……と言うのは遅かった。多喜ちゃんは僕の言葉を許可と解釈して、より大胆な行動に出る。湯面が上昇して風呂桶からザブーッと湯が溢れた。これは湯船に何か物体が入ってきたせいで湯が押し出されたのだ。その物体の正体とは多喜ちゃん自身。つまり多喜ちゃんは僕が浸かる湯船の中に入浴してきたのだ。背を向ける僕の後ろに多喜ちゃんがいる。同じ湯に入っている。

「あ、ああ、あの。何してるのかな?多喜ちゃん」

「お爺様が以下略」

「略するのはまぁ良いんだけど。多喜ちゃんは普段からこういうことしてるの?」

 いくら爺さんの命令だとしてもこれはやりすぎではないのか?今にして思えば、そうだと答えられると大変ショッキングな結果に終わる危険な質問だ。今更ながらもっとダメージの少ない間接的な回答になるよう質問を再考したいが、時すでに遅し。。

「人の出入りの少ない小さな村ですから、若い男にはすぐ手を付けなさいとお爺様が。私もそろそろ結婚を意識しなさいと」

 爺さんは孫になんて命令をしているんだ。多喜ちゃんも意味がわかっていて実行しているのか?その前に多喜ちゃんは僕と同じか、少し若いはずだ。まだまだ少女のままなのに結婚を意識させなくても良いのに。

「ちなみに聞くけど、多喜ちゃんに手を付けたら僕はどうなるんだ?」

「逃げたらお母様が一生追い続けます。ね?お母様」

「その通りだ」

 いたのかよ!ずっと見てたのかよ!いや、ずっと覗かれていたのかよ僕!ヤダ恥ずかしい!忍者恐ろしい!

 まぁそれはとにかく彼女に変な期待を持たせないように返答しなければ。今後の関係に傷を付けなくて良いように。爺さんの言う若い男と僕が違う理由を。

 僕は腰にタオルを巻き付けて湯船に腰掛けた。彼女に下半身を見せる。僕がブタクサを必要としている理由。義足を外した真の姿。足のない僕を見れば、たいていの人間はこれで距離を置く。今までそうだったし、これからもそうだろう。対人関係を悪化させる爆弾。だからこそ多喜ちゃんに見せ付ける。

「……」

 しばしの沈黙。きっとこの姿にショックで声も出ないのだろう。心でゴメンと謝罪しつつもこれが僕の現実なのだ。多喜ちゃんにこれを押し付けたりはしない。せいぜい五体満足な人間と仲良くやってくれ。

「えっと。旅人様」

「何?」

 これでようやく過剰なアプローチも減るだろう。お役御免となるかもしれないが、これで良い。どこぞの馬の骨に尽くさなくても良い。

「お爺様の話だと目を瞑っていればすぐに済むと聞かされていますので、お作法とかよくわからなくて。下半身を差し出されても困ります」

「うわわっ!そういう意味じゃないよ!」

 僕は恥ずかしくなって湯船に飛び込む。ちょうど僕が湯船に腰掛ければ、風呂に浸かる多喜ちゃんの顔と高さ的にそうなってしまった。多喜ちゃんの真っ赤になった顔。これは言い逃れの出来ない完全なセクハラだ。

「ほ、ほら。僕は足がないからさ。ずっとブタクサに乗ってないといけなくて迷惑しかかけないよってことを言いたかったんだよ!」

 結局自分で全部説明してしまった。最初から口で説明しておけば良かった。変な誤解を与えてしまったと後悔するが後の祭り。

「旅人様……」

「わかってくれたか」

 ここまで口頭説明すればわかってくれるだろう。足のない僕を迎え入れても面倒が増えるだけなんだ。だから余計なことはしなくて良いのだ。僕だって自分という者を弁えているつもりだ。

「それは私がブタクサ様の代わりをしろと言うことですね?それは何と言いますか、あるべき段階をいろいろと飛び越えていませんか?それともそういう絶対主従関係がお好みなのですか?わ、私がんばれるか不安です!」

「そうじゃない。そうじゃないんだよぉ」

 もう泣きたくなってきたよ。頭もフラフラとクラクラとしてきたよ。目もグルグルしてくる。

「た、旅人様?どうかされましたか、旅人様?旅人様っ!」

 意識が薄れてくる。これはどうやら僕はのぼせてしまったようだ。風呂の中でこれだけ頭に血を上らせたら誰だってそうなる。あぁ。頭が痛い。いろいろな意味で。僕はそのまま倒れてしまった。


 ……。


「……あっ!」

 ぼんやりとする意識の中で僕は覚醒する。ここは月夜の明かりがほんのりと照らし出す客用の寝室。僕が泊まるために用意されたであろう部屋。誰が運んでくれたか知らないが、手間をかけてごめんなさいとその誰かに謝っておく。布団を敷かれてそこに僕は寝かされていた。この布団も今の布団とは違い、軽くて保温効果もばっちりというものではなく、詰めるだけ詰めた綿の重さで保温効果を上げているタイプ。ひと昔前の時代遅れな高級布団といった感じだ。全身に重みがあり、寝返りすら打てず、拘束されているような感覚だ。

 でもワガママも言っていられないので、このまま寝ることにした。今日はとんでもない目に合った。ドッと疲れて本当に身体が動かない。もしかすると金縛りになっているのかと疑ってしまうほどだ。金縛りのおかげで脳と身体は別々に休息していることが証明されている。幽霊的な仕業ではないことがわかっているので、驚くこともない。

「どわあああああああーっ!」

「……う、ぅん」

 声無き声を上げて驚いてしまった。ここでひとつ訂正がある。とんでもない目は現在継続中だった。今、感じている重みは高級布団のものだけではないことがわかったのだ。

 その重みの正体は多喜ちゃんが僕の布団に潜り込んでいるのだ。心臓が飛び出る瞬間が見えた気がする。多喜ちゃんはお構いなしにスヤスヤと静かに寝息を立てていた。少しはお構いしてほしいところだ。

「……」

 考えた結果。もうこのまま寝かせておこう。変に起こして、迫られても面倒なことこの上ない。明日も早くに起きることになるんだ。早く寝て明日の英気を養おう。僕は多喜ちゃんを起こさないように静かに布団と多喜ちゃんの拘束から抜け出して、別の寝床を探すことにした。

「旅人殿」

「ッ!」

 危うく吹くところだった。寸でのところで息を呑む。僕の部屋の障子戸にくノ一こと多喜ちゃんの母親が月夜の明かりに照らされて影絵のように影がそこにいた。ずっとそこに正座していたのだろうが、まるで無機物であるかのように気配が一切なくて気付かなかった。幽霊より怖い。

「この村は閉鎖的な村で多喜には友達らしい同世代の友達がおりませぬ。もう婿に来いとは言いませぬ。旅人殿さえ良ければ、せめて多喜の友達になっていただけないだろうか?」

 友達?友達ってなんだっけかな。食べ物だっけ?久しく聞いた覚えのない不気味な言葉だった。

「狸子ちゃんがいるじゃないか」

「狸子はすでに商人だ。買い付けに長期間出かけることもよくあり、ほとんど村にはいないのだ。だから多喜には夢を語り合える友達がいない」

 人口の少ない田舎にはよくあることだ。

「しかし、どうして僕なんだ?」

「それは私のほうこそ聞きたい。どうしてあなたはこの村に来れたのだ?どうして手形の神に許されて入山できたのだ?」

 ……疑問の掛け合いだった。お互いの求める答えをお互い持っていない。

「運命。こんな簡単な言葉で済ませて良いものか分からぬがそうとしか言いようがない。きっと神様に運ばれてきたのだ。この村に」

「それはこじ付けだろ」

「運命とは後からこじ付かれるものだよ」

 くノ一の影はこちらに向き直って居住まいを正す。

「私はこの村から離れるわけにいかない。明日からの旅路。私の娘をよろしくお願いします」

 と、頭を下げられた。娘を旅路に付かせる母親として不安になっているのかもしれない。念を押すつもりで話しかけてきたのだろう。娘を任せると。

「わかったよ」

 断る理由などない。僕がはっきりと答えたときにはすでに母親の気配はなくなっていた。静かな夜の空間に寝息がひとつ立っている。さぁ明日は大事な旅だ。僕も早く寝床を探そう。




 早朝。まだ太陽も目を覚ましていない時間帯。チュンチュンと早起きなスズメたちがエサを求めて地面をついばむ。旅路の始まりはいつも眠たい。目を擦りながら忘れ物がないかチェックする。前日には終わっていることだけど、こうでもしていないと布団が恋しくなって、再び潜り込んでしまいそうになる。

 多喜ちゃんは僕よりも先に起床しており、布団は畳まれていた。気を遣って起こさないでくれたんだろう。

 僕は大体の身だしなみを整え、軽くストレッチをしておく。こうして徐々に身体を起床に慣らしていく。

「ブタクサもそろそろ起きろよ」

「ん~っ。もう食べれないよブヒィ。トン活終了宣言~むにゃむにゃ」

 完全に夢の中のようだ。野性を忘れすぎだろと思いつつ、ここは僕の目覚ましボイスで起こしてやることにした。

「酢豚にパイナップルは入れる派?入れない派?」

「どっちでも良いブヒィ!好きに食べれば良いんじゃないブヒィ!パイナップルごときに豚の旨味が揺るぐはずが……って、あれぇ?ここはどこだ?ブヒィ」

「ようやく目が覚めたか」

 ブタクサが再び寝てしまわないようにさっさと片付けてしまう。シーツを引っ張るとブタクサがコロコロ転がった。

「まだ眠いブヒィ。朝の二時間ドラマ再放送が始まるまで寝かせろブヒィ」

「ブタのくせに生意気だな。ちなみにどんな内容なんだ?」

「二時間推理ドラマ。子豚探偵トングシリーズ。血で濡れたスケートリンク場。あの有名フィギュアスケーターが謎の死を遂げる!事故か?他殺か?だブヒィ」

「ちょっとおもしろそうだな。いつもそんなの見てたのかよ」

「まぁね。ブタにも教養が求められる時代だブヒィ」

 それは教養ではなく、ただ推理ドラマ見てるブタにすぎない。

「それいつの放送なんだ?車まで戻らないとテレビ見れないぞ?」

「んなご!スマホで見れないのかブヒィ!ここは電波も届かない田舎だったのかブヒィ!」

「何を今更。それに電波が届いても二時間も見てりゃバッテリーが切れるっての。この家にコンセントがないみたいだ」

 そもそも電線がない。今時こんなド田舎は珍しすぎだ。そういうコンセプトの村作りをしているのかもしれないが、いざって時に困るだろう。何を考えているのやら。

「なんてこったい!それじゃあ、何を楽しみに今日を生きていけば良いんだブヒィヒィーン!あのとき面倒臭がらずに車まで帰っておけば良かったブヒィーン!」

 とうとうブタクサは泣いてしまった。何を言ってるんだか。それにしてもブタクサにとって二時間ドラマが今日生きる糧になるほどウェイトを占めているとは思わなかった。僕はブタクサをなだめてやることにした。誰だって楽しみの一つや二つあっても良いのだ。

「……まぁ録画はしてるから心配ないんだけどブヒィ」

「なんだそりゃ!心配して損した!」

「なんだ?心配してくれたのか?ブヒィ」

「そりゃ心配するさ。ドラマ見逃した程度で自暴自棄になり、資産全部をギャンブルで溶かして借金まみれ。借金取りに追われる生活。酒と薬とギャンブルに明け暮れる日々。そんな毎日を過ごして日に日に病が身体を蝕んでいく。身も心もボロボロになって、とうとう豚の道を外れて魔獣に転生し人々を襲うようになったらと思うと気が気でなくて」

「……さすがにそこまで堕ちないブヒィ」

「そうか。残念だ」

 ブタクサを起こすという目的は達成されているから、話の内容なんてどうでも良いことだ。荒唐無稽な話に唖然としていたがこれで目が覚めただろう。

「旅人様。起きていますか?」

 障子戸の向こう側から多喜ちゃんの声がした。

「起きてるよ。こっちは準備万端だ」

「あら?朝は早いんですね。わかりました。では玄関でお待ちしています」

 僕はリュックを担いで部屋を出た。玄関先で多喜ちゃんと落ち合う。そこには村の住人がたくさん集まっていた。

「孫よ。よろしく頼むぞ」

 と爺さん。多喜ちゃんの手を固く握っていた。旅の送り出しに熱意を感じる。この旅の成功させて発火花を無事持ち帰ってくることを祈願するように。

「多喜よ。立派になって帰ってきなさい」

 と母親。姿は見せずとも娘を誰よりも心配している忍者。

「……」

 と父親。明らかに立ったまま寝ている。時折ニヤニヤしているがどんな夢を見ていることやら。ブタクサが言っていた商店に来たときに見せた心配の真偽が問われる。僕にはやっぱり無責任な父親にしか見えない。

「姉者よ。これはお守りなのじゃ」

 と妹。多喜ちゃんの手には安産のお守り。本気で関係ない。

 その他様々な人々に声をかけてもらう多喜ちゃん。みんなに見送られている。僕が旅を始めたときとは大違いだ。見送りに来ていた病院関係者たちの厄介払いが出来たという清々しい顔を思い出す。上辺だけのピエロたちが見送る中で、僕は下を向いたまま旅に出たんだっけ。

 なんだか居た堪れない気持ちになって先に出発することにした。みんなが小さく見える。門前は松明の明かりでとても明るかった。僕が立っている場所は明かりの届かずに薄暗くなっていく道。比較すると、これが僕と多喜ちゃんの本来あるべき立ち位置を見せ付けられているかのようで、悲しい気分になった。

「旅人殿」

「……おわっ!」

 急に現れるくノ一さん。道の脇に立つ木の陰から僕に声をかけてくる。そんな場所にいたのか。そんな場所から多喜ちゃんに声をかけていたのか。意外と声の通りは良いほうなのかも。この人には驚かされることばかりだ。

「旅人殿。これを持っていけ」

 木の陰から何やら小袋を手渡される。木の陰から手を伸ばさなくても出てくれば良いのに。そう言えば母親の顔を見えたことがない。不意打ち気味に木の陰に回ってみようか。

「本当にどうしようもならないほどの危機に見舞われたときに、それを使うと良い」

「これは何なんだ?……あれ?」

 もうすでにくノ一はいなくなっていた。去っていく足音が微かに聞こえたが、辺りが薄暗く姿は見えなかった。どうやら逃げられたようだ。そして小袋の中にはビー玉サイズの白っぽい玉がいくつか入っていた。

「ブタクサ。ひとつ食べてみるか?」

「怪しいモノを食わされそうになっている俺は確かに危機に見舞われているが、それは最後の切り札だろ?なら大事に取っとけよブヒィ」

「最後の切り札か。それはカッコ良いな!」

 僕はもらった小袋を懐に仕舞った。肌身離さず大事に持っていよう。最後の切り札は絶体絶命のピンチに、いかにカッコ良くスマートに出せるかが肝心だ。これだけが主人公の仕事だと言っても過言ではないくらい重要なのだ。

 そんなこんなしてる間に追いついてきた多喜ちゃん。みんなとの挨拶も終えたようだ。僕は改めてこれから続くであろう長い旅路の第一歩を踏み出した。


「ブヒィ……フヒィ……もうダメだ。切り札を使ってくれ」

「早いわ!もうギブアップかよ。まだちょっとしか進んでないぞ!疲れすぎじゃないか?」

「疲れたというか腹が減って動けないブヒィ」

「旅人様。どうかされましたか?」

 早朝から出発してから数時間。日もとっくに顔を出して日光をサンサンと地表に降り注いでいた。正午とはいかないが、大体その付近の時間帯になっていた。

 慣れない道を歩いたためなのかブタクサはブヒブヒとブタみたいに息を切らせていた。長い旅路になるのだから無理をすることもない。

「多喜ちゃん。そろそろ休憩しよう。朝食も食べてないことだし」

「そうですね。賛成です。もう少し行けば、川が見えてきます。そこまでがんばりましょう」

 少し進めばサラサラサララァと川のせせらぎが聞こえてくる。耳に心地良い癒しの水音。川幅は大体三メートル程度の川が見えてきた。流れは穏やかで水は澄み、覗けば川魚の姿が見えるかもしれない。

 さっそく川に手を突っ込んでみる。水温は低く、疲れた身体を引き締める。顔をパシャパシャと洗うと気持ち良さに疲れも吹き飛ぶ。見れば見るほどキレイに透き通った川水だ。これが本来の水の色なのだろう。透明とはここまで透き通る色だったのかと感心してしまう。

 それを言うなら川の空気が違うことに気付く。深呼吸してみるとよくわかる。マイナスイオンだか何だかのひんやりとした空気は身体中に染み渡っていく。まるで魚になって川の中をエラ呼吸している気分だ。そう錯覚してしまうくらいに川の水も川の空気も境目なく、キレイで透明な色をしていた。

 それに比べて病院での水も空気もひどかった。水は混入物が多くて白く濁って触れるとピリピリする。とてもじゃないが飲めたものではない。空気は長年こびりついた排泄物の臭い、排気ガスや他人の吐く息、汚れきった悪臭の集合体。あんな場所にいたら誰だって頭がどうにかなってしまう。改めて痛感する。旅に出る選択肢は正しかったと。でなければこの本物の水と空気に触れることもなかったのだから。

 さてブタクサにも水の洗礼を受けてもらおう。僕は水をすくってブタクサに浴びせる。

「何すんじゃブヒィ!」

 とか言いつつ冷たい川の水で気持ち良さそうにしていた。

「聞けよ水の龍!我が敵は主の敵!共に目の前の敵を討つぞ!ウォーターブッヒガン!ブヒヒヒヒィ!」

 ブタクサは鼻に吸い込んだ大量の川水を僕に向けて発砲する。

「効かぬ!我がまといし水の羽衣であらゆるものを水没させてくれよう!はあっ!アクアプロテクト!」

 僕は飛んでくるブッヒガンに迎え撃つように水をすくって浴びせた。相殺するつもりだったがブッヒガンの威力は思ったよりも強力で僕の腹部にかかってしまう。

「ぐっ。まさかプロテクトを貫通してくるとは。おのれ!調子に乗りおって!許さんぞ!」

「ふふふっ。旅人様。朝食の準備ができましたよ」

「はーい」

「ブヒィ!」

 ノリノリで始まった水の精霊たちの戦いも多喜ちゃんのひと言で中断。この勝負はお預けだ。

 多喜ちゃんは適当に座れそうな場所を見つけてお弁当を広げていた。お弁当の包みにはおにぎりとたくわんが入っている。やはり旅のお供は握り飯だ。これを考えた人間は偉い。僕はおにぎりをひとつ受け取り、ひとかじりしてみる。

「もぐもぐもぐ……しゃりしゃりしゃくしゃく……」

 うん。これ白米じゃなかった。騙された。なんてことでしょう。

「多喜ちゃん。これ何?」

「お母様秘伝の忍者食だそうです。ひとかじりすれば千里を越えると言われています」

「そうなんだ。それは非常に危険な香りが……それでこれは何で出来ているの?食材は?」

「秘伝の忍者食としか聞かされていません。何でも男性の元気の源、精が付くそうです」

「あ、そうなんだ。ふーん……」

 精力が付くってことは、たぶんニンニク団子だ。これは。

「あの、どうですか?おいしいですか?」

「うーん。こ、個性的な味かな。元気は出そうだよ。異常なほどの元気がね」

 非常に口臭が気になるため、たくわんを飴玉のように舐め続けた。唾液を循環させて口内を洗浄していくが、どうにもならない。鼻の奥からツンとする悪臭。それだけで気持ちが悪くなる。僕は苦手だった。

「それは良かったです!たくさんありますので、たくさん食べて元気になってくださいね。私はあまり好きではないので、こちらの白米おにぎりをいただきますね」

 ……ズルイ。自分だけ。

 そんな感じで食事を終えて、再び旅の歩みを進める僕たちだった。山道とはいえ、まだまだ人が歩く道として整えられているので歩きやすい。何でもこの先には山彦が住むと言われている洞窟があるらしい。洞窟の中は声が反響し合って気持ち良いくらいに響くことから名付けられたらしい。そこを訪れる観光客もいるほどだとか。そんな有名な場所があったなんて全然知らなかった。これも新しい発見だ。


 大体三時間も歩けば洞窟に到着した。お弁当を食べた正午からなので、今は十五時くらいだ。今日は洞窟内にある観光客用の小屋で一泊する。簡素な建物で物置と言えなくもないが、雨風を凌げるだけでも寝泊りするには申し分ない。小屋の中央に囲炉裏があって雰囲気も良い。

 洞窟は大きく口を開き、音を包み込むような構造になっているとか。詳細なわからないが、言わば自然にできたコンサート会場。軽く声をあげれば、たちまち洞窟内で木霊する。山彦が住む洞窟とは言い得て妙。これなら歌下手でも形だけは様になりそうだ。……そうか。だから観光客が多いのだな。おっと。これは問題発言だった。撤回撤回。

「旅人様。私は夕食の山菜などを摘んできます」

「了解。なら僕は……掃除でもしておくかな」

「わかりました。すぐに戻りますので」

 多喜ちゃんはかごを片手に食材求めて山の茂みに入っていた。僕が焚き火や寝床の準備を済ませる頃には夕暮れの時間になっていた。

「すみません。遅くなりました!」

「おかえり。多喜ちゃ……ブッ!」

 意気込んで出掛けた多喜ちゃんのかごには色彩豊かなキノコ群があった。赤や黄色や七色に輝く黄金やらこの世のものとは思えないセンスをしたキノコたち。中にはクリアキノコまである。ガラスか何かで出来ているのか、さっぱりなキノコだった。ただひとつだけ言えることがある。

「多喜ちゃん。それ毒キノコじゃないの?」

 毒キノコたちがあえて目立つ色彩をするのは危険を知らせるサインなのだ。そのサインを無視してたくさんの毒キノコを取ってきた多喜ちゃんなのであった。

「あっ。これは食事とは別です。川魚も何匹か釣ってきましたから、これに練り込んで毒キノコ団子を作ろうかと。動物を捕獲するための罠になります」

 ワイルドすぎる多喜ちゃんの言葉。

「多喜ちゃんは普段から罠とか作ってるの?」

「お母様に教わったのですが……やっぱりおかしいですか?私がこんなことしていると」

 母親の知識か。忍者なら仕方がない。

 それから多喜ちゃん手作りの夕食が待っていた。山菜料理や焼き川魚を想像していたのだが、そこには僕の描いていた食事とは大きく異なっていた。緑・グレー・茶などの色をしたビー玉状の物体が皿に転がっていた。

「えっと多喜ちゃん。これは何ぞ?」

「はい。お母様に教わった忍者食です。丸薬にすることで携帯性や飲み込むことで咀嚼の短縮にもなります。こっちの緑色のが山菜の丸薬で、川魚や干し肉の丸薬はそちらです」

 母親の知識か。忍者なら仕方がない。それと頼むからニンニク丸薬は勘弁してほしい。僕は丸っこいものをパクパクと口の中に放り込む。量的には問題なくお腹は膨れたが、何とも味気ない食事だった。

「食後にお団子はいかがですか?」

 竹串に丸いお団子が三つ。ちゃんとしたお団子なのに丸薬を三つ串に刺しただけにしかに見えなくなってる不思議。見た目はともかくひとつ食べてみる。想像以上に甘さ控えめというか全く甘くない。甘くないというかピリリと舌を刺激する辛みがした。団子とは名ばかりの謎の食べ物。

「多喜ちゃん。何ですかな?これは」

「それはお母様から教えていただいた精力増強丸です。ひと粒食べれば下半身も猛烈破裂で支離滅裂!と言ってました。材料は精の付くものが中心ですが、おいしいですか?」

 母親の知識か。忍者なら仕方がない……というとでも思ったか!娘になんてもの教えてるんだァー!

 それと下半身を支離滅裂させちゃダメだろ。僕は見事に腹を下した。まさに尻滅裂。なんつって。


 母親直伝の食事もそこそこにこんな話になった。

「山彦の洞窟には歌の練習によく来ているんですよ」

「どんな歌を歌うんだ?ちょっと歌ってみてよ。練習がてら」

「えぇ!それはちょっと恥ずかしいのですが。まだ誰にも聞かせたこともないですし」

「祭りのときはみんなの前で歌うんだろう?なんで恥ずがしがる必要があるんだ?」

「そうですよね。初めてを旅人様に捧げると思えば何だか特別な感じが出ますね。そう考えると俄然、歌えそうな気がしてきました!歌っても良いですか?」

「そこまで考えなくて良いから。頼むから普通に歌ってみてよ」

「わかりました。初めての気持ちを十倍増し増しで込めて歌いますので、どうか聞いてください」

「普通で良いんだけど……僕の話を聞いてくれないようだ」


 日もとうとう沈み込み、焚き火が照らす明かりはより一層闇の中で輝き始める。ゆらゆらと踊る炎、立ち上る煙はひと時も同じ形を作らず、刹那の出会いを僕たちにもたらす。

 そんな舞台を作り上げる中で多喜ちゃんの歌が広がり始めた。祭りのときに歌う歌だから明るくて自然と身体が踊り出すような楽しい歌。身体全体から絞り出される声は喉という楽器を通して洞窟の中で共に震え合う。音波はビリビリと波打ち、僕の耳を流れては他の音を洗い流していく。そうして次から次へ、入れ替わり立ち替わり新しい音が僕の耳の中で弾んでいく。

 多喜ちゃんの歌は海のようだった。時には激しく嵐のごとく。時には波打ち際のように静かに。そんな歌声だった。特別上手いわけじゃない。でも基礎はしっかり出来ていると思う。声もよく通っているし、何より一生懸命さが伝わってくる。プロにはないアマチュア最大の魅力。聞いていると自然と身体はリズムを刻んでおり、両手が踊り出したくなる。何だか楽しい気分になってきた。


 ……。


「えーっ続きまして。四十五番。花と恋の物語音頭」

「って!何曲歌うつもりなんだよ!」

 軽く二時間は歌っている。休憩なしの歌いっぱなし。

「私はまだ歌い足りないのですが、旅人様は疲れてしまいましたか?」

「歌い、足りない、だと?こ、これが若き乙女のフルパワーなのか」

「ブヒィ。俺も一人カラオケ八時間なんてデフォルトだぞ?」

「ブ、ブタクサのくせに、ひとカラ行ってるのかよ!」

「ブヒィ!さっきから俺のソンガーソウルがみなぎって来てるんだぁ!声は枯れても心は萌ゆる!今日はオールナイトだぜ!ブッヒィーン!盛り上がって来たぜー!」

「……明日疲れを残さない程度にしておけよ。んじゃおやすみ」

 妙なスイッチがオンになったブタクサを無視してさっさと寝支度をする僕。一人と一匹の宴は付き合いきれない僕を除いて夜通し続けられた。


「ブヒィヒィ……。おい。は、早く切り札を使ってくれ」

「あれだけ言ったのにカラ徹してるからだ!自業自得だ」

 次の日になり、歌い続けて結局徹夜明けのブタクサはふらふらになっていた。昨日の疲労が全く取れていないようだ。山彦の洞窟を越えると本格的な山道になってくる。基本は上り坂。草木をかき分け、斜面を登り、わずかに残る道ならぬ道を繋いで進まなければいけない。普通に歩けるスペースが極端に限られてくる。

「ブヒィヒン。カラオケは別腹なんだぜブヒィ」

「だったらキリキリ歩け!別腹なら疲れもないんだろ?」

「ブヒィ……」

「やれやれ」

 やはりこうなったか。

「多喜ちゃんは大丈夫?ブタクサに付き合って寝てないんだっけ?」

「私は大丈夫ですよ。三日寝ずに歌いたいくらいです」

「これが若さだよ。ブタクサくん」

「ブヒィ……」

 まぁこれでは可哀想なので、切り札ではないが、僕のとっておきを飲ませてやることにした。旅の七つ道具。そのうちのひとつをブタクサに与える。

「……く、くほおおおおおおぉーっ!なんだか急に身体が熱くなってきたあーっ!何を飲ませてくれたんだ?ブッヒィーッ!」

「あ?睡魔に裁きを!閻魔の地獄度(四五九度)落としという伝説の眠気すっきりドリンクさ。なんとアルコール度数は驚異の四五九度越え!」

「うほおおおおーっ!それは飲んではいけない飲み物なんじゃないのか!ブヒィ!」

「はははっ全くその通りだよ。ブタクサくん。命と引き替えに眠気をふき飛ばしてあげたんだよ」

「な、なんだってーブヒィ!そりゃマズいことになってるんじゃないですかー!主に俺の身体があああーっ!ブッヒィーン!」

「少なくとも急性アルコール中毒は免れないし、内臓にも甚大なダメージが残る。まともに食事もできなくなってるかもな。この一本で廃人になった人間が続出してるって話だ」

「な、なんてもの飲ませてるんじゃ!ブッヒィー!あああぁーっ」

 ブタクサは半狂乱になりながら悶絶する。

「冗談だよ。肝はたっぷり冷えただろ。今後からカラ徹は休日前だけにしとけ」

「わ、わかったよ。反省するブヒィ」

 仕方のないやつだ。

「お取り込み中申し訳ありません。旅人様。もう少し進んだところに禊ぎの滝があります」

「禊ぎの滝?」

 地形的には一日目のお弁当を食べた川から続いている。途中大きな絶壁の滝になっているため、山彦の洞窟まで迂回するルートを登ってきたのだ。

「もう山の神域に入っています。神様が守る聖地に足を踏み入れるわけですから、身も心も清めなければいけません」

 そういう儀式的なものが必要らしい。日本は擬人化に長けた文化を有する。不可視の対象は守れないが、神という入れ物を作って信仰の対象にして守れる。山の神様がいると思えば、山を大切にしようという気にもなるわけだ。

 それで禊ぎの滝は大体三メートルかその辺りの高さがあり、イメージとしては滝行をするのにちょうど良い場所。そこで滝の水を浴びるのだと多喜ちゃんは教えてくれた。全裸で。

「……あれ?多喜ちゃん。説明の最後のほうにサラッと何かとんでもない単語が入っていたような気がしたんだけど」

「気のせいですよ」

「そうか。気のせいだったか」

 そうこう話をしているうちに禊ぎの滝へ到着する。川の水がジョボジョボジョボと音を立てて滝つぼに落ちていく。バケツをひっくり返した程度の水量なので痛くはない。これなら全裸で浴びても大丈夫だと多喜ちゃんは言った。

「ん?やっぱり説明の中にとんでもない単語が含まれているような気がする」

「気のせいですよ」

「そうか。気のせいだったか。そうだよね」

「はい。ではさっそく服を脱ぎましょう」

「やっぱり気のせいじゃなかったーっ!」

 僕は慌てて後ろを向く。多喜ちゃんが着物に手をかける姿がチラリと見えたから。過剰に反応しすぎな気もするが、逆に多喜ちゃんがしなさすぎだと思う。

「あの、多喜ちゃん。禊ぎはやっぱり全裸にならないと出来ないものなの?」

「はい。そういう決まりですので。でも嫁入り前のこの身体。殿方に見せるのは恥ずかしいです」

 今更それを言うの?と思ったけど、そこを突っ込んでも仕方がない。例えしてることは同じでも、これは良くてもこれはダメという判断基準があるのだろう。男の僕にはわからないこと。

「じゃあ僕はこっちを向いておくから、先に禊ぎを終わらせておいでよ」

「わかりました。何があっても決して振り返らないでください。それではお先に」

 ふぅ。これでひとまず大丈夫だろう。このまま黙って待っていれば事は終わる。スマートにサッとしてサッと済ませよう。気にしてるから変になるのだ。これは禊ぎなのだ。静かに。微動だにせず。心を平穏に。

 スッスササッ……。

「ッ!」

 こ、この音は……脱衣の際に鳴る衣擦れの音!背中を向けた僕の後ろでは今まさに多喜ちゃんの身にまといし衣がその役目を放棄し、守るべき少女の肌が白日の下に暴かれていく。

「あの、多喜ちゃん?」

「は、はい。何でしょうか?」

「今、着物を脱いでるんだよね?」

「そういうことは聞かないでください。変態みたいです」

 怒られてしまった。黙っていよう。心を平常に。僕もなぜ聞いたし。ただ物音ひとつでここまで想像力をかき立てるものだとは思わなかった。全神経が聴覚を鋭敏にする。心を平常に。

 スッ……パタパタ。これは着物を畳む音か。サッサッ。チャポ。チャポチャポ。これは川に足を付けて、滝のところまで歩く音。そして滝つぼへジョボジョボジョボと流れていた音が遮られる。多喜ちゃんが滝つぼに入った合図だ。それからピシャピシャと水が弾かれる音が続く。裸の女の子が僕の後ろで滝を浴びている。物音は僕にそれだけの情報を与えてくれる。

 そうだ。確か歯磨きなどが入っているトラベルセットに鏡が入っていたような気がする。鏡を使えば前を向きながら後方を確認できるのではないか?

「あの、旅人様。変なこと考えていませんか?」

「ギクゥッ!や、やだなぁ。変なことなんて考えてないよ?あはは」

 なぜバレたし。これが女の勘というものか。なんと恐ろしい。

「……そうですか。ではそろそろ出ますので、着替え終わるまでそのままでお願いしますね」

「う、うん。大丈夫。振り返ったりしないよ」

「旅人様のこと信じていますから」

 そして先ほど僕の想像力をかき立てた音の逆再生。多喜ちゃんが川から出て、着物を再び羽織るまで。思いもよらぬところで心乱された。受身で迫られると引いてしまうけど、こうして攻めの立場に転じると積極的になれる。不思議なものだ。

「旅人様。着替え終わりましたので振り返っても大丈夫ですよ」

 多喜ちゃんは白い着物、和服の下着である白襦袢の格好をしていた。襦袢とは着物の下着版。僕の頭にはなぜそんな格好をしているのか?というハテナマークが付いていたことだろう。まだ着替え終えていないんじゃないか?

「さぁ次は旅人様の番です。服を脱いでください」

「え?ぼ、僕もしなくちゃダメなんだ」

「すみません。これより山の神域へ足を踏み入れるためには必要なことなんです」

 そういうことなら仕方がない。こういう儀式を怠ると後で何が起こるかわからないので素直に従っておこう。意味はなくとも礼に始まり礼に終わるだ。僕は着ているものに手をかけていく。

「ところで多喜ちゃん。どうして僕が脱ぐところをじっと見ているのかな?」

 視線がずっとこちらに向いているので脱ぐに脱げない。

「それはブタクサ様はこの滝の中へは入れません。なので旅人様は私がおんぶしていかなければならないかと思いまして」

「……そ、それはつまり?」

「はい。旅人様の裸はばっちりこの目に焼き付けます。上から下から前から後ろから」

「ぎぃにゃあああああーっ」

 禊ぎの滝へは義足も外さなければならず、足がない僕はブタクサがいないと誰かの手、いや足を借りないと歩けない。百歩譲って通常時ならともかく素っ裸は無理。一度風呂で共にした多喜ちゃんでもこんな明るいところでは。

「安心してください。お父様の裸ならしょっちゅう見ています。お酒を飲むと脱ぐ癖があり、いつも素っ裸で道端で寝ているんですよ。毎晩おんぶして帰ってますから」

 どうしようもない父親だな。いや、そんなことはどうでも良い。果たしてうら若き乙女の前で僕の素っ裸を見せて大丈夫なのだろうか?いや、大丈夫なわけがない。主に僕側が。多喜ちゃんはなぜか意気込んでいて、目に焼き付けますとか言ってるし。自信がないわけじゃないが、お粗末なものを見せびらかす露出癖はない。

 だが、こんな言葉を思い出す。男は度胸女は愛嬌。ならばよろしい。これは僕の男が試される戦いなのだ!ここで逃げちゃいけない。そんな気がする。頼みの綱は多喜ちゃんの愛嬌のフォローだ。これが成功しなければ僕の男はポッキリ折れてしまうだろう。

「えっと。旅人様。どうしてもお恥ずかしいというのであれば、私は後ろを向いております。背中でおんぶする分にも全く見えませんのでご安心してください」

 そういうと多喜ちゃんは背中を見せた。そういう手段もあったんだねと僕は拍子抜けした。数秒前の男の決断を返してほしい。

 ……だが、そう思っていた時期が僕にもありました。一糸纏わぬ姿となって多喜ちゃんにおんぶされる。するとどうしても密着感が増す。これは非常にマズい。マズいというよりマズいの最高峰、マズマックスだ。こんなことに今ごろ気付くなんて。

 とあるシチュエーションで女性をおんぶする際に胸が背中に当たって男がドキドキするという幸福がある。だが、これが逆になると、うら若き乙女の背中に密着する男の下半身……ここは平常心を最大限に保たなければ僕は死ねる。いっそ殺されたほうがマシという自体に成りかねない。女性の当てているのよはセーフでも、男の当てているのよは痴漢であり、完全なアウトだ。

 ブタクサの足を借りられない以上、こうするより仕方がない。不可抗力である。だがしかし女の子の背中から密着するのはドキドキするものである。特にこの何とも言えない女性の甘い香りである。こればかりは防ぎようがない。息を止めるにも限界がある。呼吸するたびにものすごく軽くてふわふわした甘い綿菓子が鼻腔の中を通って僕の呼吸器を圧迫するかのように、多喜ちゃんの香り付きの酸素は僕の肺から吸収されていく。

 これではマズいと別の思考に切り替える。それにしてもさすがくノ一の娘だ。男を一人おんぶしているのに足取りがしっかりしている。よろめくことなく僕を目的地へと運んでくれる。

 余計なことばかり考えていたが、僕は多喜ちゃんに言われるままにその滝で身体の禊ぎを始める。全身水浸しにして穢れを落としていく。夏場の冷水なので、とても気持ちが良い。邪な気持ちも一緒に洗い流せてしまいそうだ。

「はぁあっ!」

 しかし!しかししかしかしかしかかし!僕はとんでもないものを目にする。そのとんでもないものとは?それは滝に打たれて水浸しの僕たち。なんと多喜ちゃんの白襦袢は水を含んでぺったりと肌に張り付く。問題はそこではない。白襦袢の素材が薄いのか薄っすらと肌色を見せているではないか!おんぶされた僕の視界からは肩から胸のラインまでくっきり見えてしまっている。濡れて衣服が透ける、いわゆる濡れスケ状態になっていたのだ!なんてことだ!

 こんなものを見せられては健全な男子が気を起こさないわけがない。僕は気を逸らさざるを得なくなり、急遽対策本部を脳内に設置する。これは由々しき事態だ。時は一刻を争う。早く対策を講じなければ多喜ちゃんに密着中の下半身が黙っちゃいない。こういうときはくだらないことを考えるに限ると脳内対策本部はアドバイスをくれる。気を紛らわせる定番と言えば素数を数えたり、将来のことを考え不安になったり、肉親の顔を思い浮かべるのも良いらしい。

 よし。ここはブタクサのことについて考えよう。そういえば、何かテレビドラマを見ていたって今朝話をしていた。タイトルはなんだっけ?……そうだ。二時間ドラマの血で濡れたスケートリンク……血で濡れたスケート……濡れたスケート……濡れスケ?ぬ、濡れスケのことかぁーッ!

 まさかこんなところに濡れスケを思い出させるトラップワードが潜んでいるとは思わなかった!ブタクサめ!こんなところにトラップを仕掛けるとはなんてやつだ!何の恨みがあってこんなことをするんだよ!裏切りブタめ!お前だけは僕の味方だと思っていたのに!恩を仇で返すとはこのことだ!

 ブタクサのほうを恨みの形相で見てやると疲れて眠りコケてやがる。僕がこんなにも苦しい思いをしているというのに!その寝顔を見ているとムラムラしてくる!……いや、イライラしてくるだ!違った。ブタクサに関係なくムラムラが止まらない!落ち着け僕。

 そんなことを考えている間にも歩く振動だけで危ない。小刻みな上下運動は密着する下半身をダイレクトに刺激してくる。くそぅ!こんなところで僕は負けてしまうのか。こんなところで今まで築き上げてきた信頼関係を失い、変態というレッテルを貼られてしまうのか。秘宝を手に入れることすらできないままで終わってしまうのか……いや、僕は諦めない!諦めたくない!僕はまだ紳士のままで、清き青少年のままでいたい!静まれ僕の熱い血潮よ!

 僕の熱き思いが天に通じたのか、ようやく着替えのある場所まで戻ってくる。そしておんぶから解放される。何とか。何とか最悪の事態だけは免れたようだが、しかし安心してはいられない。僕だけがそう思っているだけかもしれない。女の勘を侮ってはいけない。もしかすると感づかれている可能性だってある。

「旅人様」

 ほらきた。きっと三行半を言い渡すに違いない。多喜ちゃんはこちらを振り返らずにこう言った。

「背中にある帯の固い部分が痛くなかったですか?おんぶすると当たってしまうことに気付かなくて、ごめんなさい」

「……う、うん。大丈夫だったよ。それだけ?他に僕に言うことある?」

「それだけですけど?」

 わああああーっ。僕は脳内対策本部が両手を上げて歓喜するッ!拍手喝采のイメージ。気付かれてない!気付かれてなかったよぉー!これで変態のレッテルは免れることができたはずだ。

「あと、旅人様。申し上げにくいのですが、おんぶされている間、私のうなじに熱い息を吹きかけるのはやめてください」

「はらひょー!」

 そっちがあったかっ!下半身にばかり気を取られ、興奮する荒い吐息まで制御していなかった。油断していた。これで変態の烙印は不可避か。ここまで来てそれはあまりにも無慈悲ではないか。あれだけ歯を食いしばってがんばったというのに。

「あの旅人様。今の私はどうですか?女の子に見えてますか?」

「へ?んごっふ!」

 なぜ今頃になってさらなる発見をしてしまうのか。濡れてスケスケになっているのはおんぶから見えた上半身だけじゃない。背を向けているその後ろ姿までもが濡れスケ状態なのだ。くっきりと見える背中から腰のライン。ぷっくりと丸みを帯びたお尻に白襦袢はしっかりと張り付き、隙間なく女の子という身体を僕に見せていた。襦袢は何も隠せていない。

 ドキドキドキドキッ。高鳴る鼓動。火照る身体。再び湧き上がる熱き血潮。平常心を保っていられる自信が薄れていく。徐々に剥がれていく理性とひょっこり顔を覗かせる野生の本能。僕はこのままだと……いや違う。僕はなぜここに来て迷っている?それこそ据え膳食わねば武士の恥というものではないのか?裸の僕と裸同然の女の子。見られているとわかっていて隠そうともしない。二人とも身も心も濡れそぼっている状態。向こうはすでに覚悟はできている。これで何もしない男なんてただの根性なしだ。これで何もされなかった女の子は女のプライドをズタズタに傷付けたも同然。

 きっと昨日食べた猛烈破裂で支離滅裂!の精力増強丸のせいだ。自分でも信じられないくらいの劣情に襲われている。獲物がわざわざ肉食動物の目の前で挑発してくる。どうぞ好きにしてくださいと言わんばかりに。このまま目の前にいる獲物に襲い掛かってしまおう。そうすることでしかこの劣情を静める方法はないと、脳内対策本部の意見が一致する。

 多喜ちゃんごめん。僕は自分を抑える術を失った。僕の身体が女の身体に伸びる……。

「へくちょんっ!」

 ……くしゃみだった。多喜ちゃんの。

「ごめんなさい。このままだと風邪をひいてしまいますね。すみませんが、旅人様。着替えをしたいので後ろを向いていてください」

「あ、えーっと。うん。わかったー」

「旅人様も風邪をひかぬよう、しっかりと身体を拭いてから着替えてくださいね」

 僕たちはお互いに背を向け合った。身体がびしょびしょだから早めに着替えなければ風邪を引いてしまう。持ち物からタオルを取り出して水分を拭っていく。

「あれ?おかしいな。目から出る水分が拭っても拭っても濡れたままだ。なぜなんだろう?」

 場の空気を完全に見失う。後ろを向いていた多喜ちゃんのせいではない。僕の失態だ。

「泣くなよブヒィ」

 いつの間にか起きているブタクサ。見てたのかよ。

「チャンスってのは流れ星だブヒィ。唐突に現れてはすぐに消えてしまう。

 流れ星を目視してから願いを唱えたって間に合うはずがないブヒィ。いつ流れても良いように常日頃から心に準備をしておくものだブヒィ」

「うぐっ今更そんな説教いらねぇよ」

「ひとつ大人になったな相棒」

「うわああああああーっ」

 僕は泣いた。後悔はもう二度とやり直しが利かないのだ。


 僕も着替えを終えて、いよいよ山の神域へ足を踏み入れる。発火花が生える地に向けて。

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