猫が死んだ
ニャー
───猫が死んだ。
私の飼っていた猫でも、家族の飼っていた猫でも、知り合いの飼っていた猫でもない。
見ず知らずの他人、と言うか他猫だ。
そんな猫が死んだ事を、何故私が気にするのか。
答えは簡単。
私が、殺したからだ。
ああ、無論私が殺意を持って殺した訳でも、嗜虐的な嗜好を満たす為に殺した訳でも、害獣を駆除する為に殺した訳でも、無い。
事故だ。
私の運転していた、仕事に使う軽自動車に向かって、猫の方から飛び込んで来たのだ。
確かに、見通しの良くない住宅街を、急いでいたからと言ってそれなりのスピードで飛ばしていた私にも、幾許かの責任はあるだろう。
しかし交差点の様な場所での、人の飛び出しには注意していたが。
完全にただの壁である、塀と塀の隙間から何かが飛び出してくるという事は、完全に想像の埒外だった。
それも、こんな夕闇が周囲を包み込んでいる時間帯に、ライトを点灯せず。
ましてや、闇に紛れる様な黒猫が相手では。
気付くのが遅れて、完全に当ててしまってから気が付いた事は、きっと誰にも責められない。
責められない………筈だ。
私は踵を返し、車に戻る事にした。
猫の轢死体など、そう珍しい物でもない。
放っておいても、勝手に自然に帰る事だろう。
───ノイズが走る
………では、何故私は。
今にも息絶えようとしている、この猫を抱いて、車を走らせているのだろうか。
………分かっている。
目が、合ってしまったからだ。
その目が。
訴えていたからだ。
まだ───死にたくない、と。
言っておくが私は、誇大妄想狂でも、猫の言葉が分かる超能力者でも、もちろん博愛主義者なんかでも、無い。
現に、今もシートを汚す猫の血に、腕に感じるグニャリとした感触に、鼻につく汚物の様な臭いに、胃の奥から酸っぱい吐き気を催している。
しかし、聞こえない筈のこの猫の声が、訴えているのだ。
まだ───死にたくない、と。
何で私は、こんな赤の他猫を死なせない為に、時間が押している仕事を放ってまで、車を走らせているのだろうか。
自分で自分の行動が、良く分からない。
しかし、自分のせいで死んでいく動物を見るなんて事は………どうにも気になる。
幸いにも、と言っていいのかは分からないが、猫の体に目立った外傷は少ない。
その、左の前足は………潰れてしまっているが、それだけだ。
後は、内蔵に損傷が無ければ、おそらく助ける事も出来るのでは無いだろうか。
動物病院に着けば、何とか出来るのでは無いだろうか。
そういう希望を持って、車を走らせているのだ。
………しかし、例えこの場を助けられたとしても、その後この猫は生きていけるのだろうか。
怪我が治ったから、ハイさようならと外に投げ出せば。
足を一本失っているこの猫は、遠くない未来に野垂れ死ぬだろう。
それは、今この場でこの猫を投げ出す事と、一体どれ程の差が有るというのか。
ちょうど、目の前の信号が赤になる。
信号の横には、ちょっとした公園が見える。
お誂え向きに、こんもりとした茂みも目に入る。
いっそ………捨ててしまおうか。
───ノイズが走る
何とか、こんな時間でも救急を受け付けてくれる動物病院に、辿り着く事が出来た。
猫を抱えたまま、車から飛び出すと。
私は、明かりが漏れているそのドアを、ドンドンと殴る様に叩く。
感じてしまうのだ。
私が抱えている、この猫から。
『何か』、が抜け出てしまい掛けている事を。
『魂』に重さなんて無い。
いや、そもそも無神論者の私は、『魂』の存在など信じてはいない。
しかし………感じるのだ。
グニャリとした、力無いこの猫の体から。
生き物が、生き物で在る為に必要な『何か』が。
生き物が、ただの物に変わってしまう、その過程が。
この腕の中で、現在進行形で抜け出てしまっている事を、感じてしまうのだ。
何だってこんな事を、私はしているのだ。
いくらでも投げ出す機会は有った筈だ。
車を降りた時も、あの信号で止まった時も、途中でいくらでも。
何で私は、こんなに必死になってまで、この猫を助けようとしているのか。
訳が分からない。
ただ、ドンドンと明かりが漏れるドアを殴り続ける私の耳に、ドアの中からバタバタとこちらに近付く足音が聞こえる。
ああ………やっと来てくれた。
さぁ、この猫を救って───そう伝えようとする私に。
フゥと、溜め息をつく様に、猫が吐息を漏らすのを、感じた。
同時に、『何か』が………抜け出て行く事も。
何と言う、事だ。
私は、間に合わなかったのだ。
───ノイズが走る
私は、車を止める事無く動物病院に突っ込ませ───
───ノイズが走る
私は、赤信号を無視して全力で車を走らせ───
───ノイズが走る
私は───
───ノイズが───────────────走る
私は、夕闇が迫る住宅街の中を、慎重に慎重を重ねた上で車を走らせている。
時間が押し迫った仕事があるが、急に飛び出してくるかもしれない人や子供。
あるいは───猫。
そういった『何か』を、害してしまわないように。
私は、慎重に慎重を重ねて、走行しているのだ。
まだ薄明るい内から、安全の為にライトを点灯し、自分の車がここを通る事をアピールして。
その上で、徐行運転に徹している。
………はて。
私は、そんなに安全運転している人間だっただろうか。
いつもは、それなりに危険な運転をしていた様な気もするのだが。
………いや、気のせいか。
それよりも、前方に注意して事故の無い様に───危ないッ!
………今のは、何だ?
ただの壁だと思っていた、塀と塀の隙間から『何か』が飛び出して来たのだ。
バクバクと鳴る心臓を宥めつつ、ライトを点けたまま車から降りる。
派手なスキール音を鳴らしたからか、周囲の家々から外灯を点ける様子と、人の声が聞こえてくる。
特に何かに当たった様な、音も振動も無かった筈だ。
だから、きっと大丈夫だ。
私は、恐る恐るライトが照らす車の前方を………覗き込んだ。
───ふぅ。
大丈夫だ、何も居ない。
私は、何も轢いていない。
では、さっきのアレは………何だったのだろうか?
気になった私は、ふと周囲を見回した。
すると、そんな私の視界の端を、何か黒い物が一瞬だけ掠める。
慌てて視線を戻し、黒い物が見えた方向に目を凝らすが………特に動く物は見えない。
気のせい、だったのだろうか。
何か不思議な物を見た気がして、私は少しだけ呆けていた。
しかし、ふと確認した腕時計に表示された時間を見て、慌てて車の中に戻る。
いけない、このままでは時間内に仕事が終わらない。
そして、バタバタと仕事に戻ろうとする私の耳に、ふと猫の鳴き声が聞こえた………気がした。
それはただの幻聴だったのかもしれないが、何故か強く私の印象に残った。
前後左右を確認し、ゆっくりと車を発進させながら、私は思う。
それにしても、人を轢いたり、動物を轢いたりしなくて………良かった。
そう───
───猫は死ななかった。
───ニャー
ニャー