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さようなら、名無しさん

 手はず通り、扉はすぐに開いた。

 一番手前の部屋に長椅子に座る女の姿が見えた。あれが王の寵姫芍薬殿。思わず鼓動が跳ねる。

 扉の開く物音に反応したのかちらりと振り返ってこちらを見る。

 髪の結い方と、垂れ下がる形の髪飾りで、顔の上半分は見えない。

 たっぷりとした衣装と重そうな装身具、おそらく襲えば逃げることはできないだろう。

 至近距離まで近づいた瞬間、相手が小ぶりな茶碗を持っていることに気付いた。

 その中身をいきなり顔に掛けられるまで、彼はそれをお茶を飲んでいただけだと思い込んでいた。

 激痛に目が痛み、目を開けられなくなる。意識せずに涙がぽろぽろとこぼれた。

 その間に相手は身体を起こして彼から離れる。

「ご苦労様」

 涼やかな女の声がした。

 じくじくと痛む目を何とかこじ開けてその声のほうを見れば、手はずを整えたと言っていた妃だった。

 芍薬殿は忌々しそうに髪飾りを引っ張って外している。

「それ、高いんですよ、あまり乱暴に扱わないで」

「重いわ、当たって痛いわ、高いだけのガラクタだろ」

 その声に聞き覚えがあった。

「それじゃ皆さん、お願いしますね」

 反対方向の扉が開き、武装した女達が十人ほど飛び出してきた。

 女達は手際よく彼を拘束していく。

「芍薬殿だって、自室でくつろぐときはこんなにジャラジャラ付けてないんじゃないですか?」

 そう呟く声に、目の前にいる女は偽物だと気づく。

 いったいいつから、自分は何に巻き込まれたのだろう。

 状況が全く読めないまま、彼はもう一度、髪飾りをはずしている女を見た。

 彼が脅した相手が、つけてきた女だと気が付いた、その瞬間さらに訳が分からなくなる。

 自分は仲間じゃなかったのか。

「とりあえず、人質捕られてるんなら、助ける努力はするよ、だから安心してね」

 そう言ってにっこりと笑う。

「でも、上級妃のいる後宮に無断侵入は無罪にできないけどね」

 「お前、一体」

 自分がまきこまれていたのは、いったい何なのかおそらく一生知ることはないのだと彼は悟った、そして彼の一生はもうすぐ終わるのだ。

「ごめんね」

 その言葉を聞いたか聞かないうちに、後頭部に警棒が降り降ろされ、彼は意識を失った。


 茶碗には、解けるぎりぎりまで塩を溶かしてあった。

 塩水が目に入れば、しばらく視力を失う。その間ならこの格好でもなんとか逃げ切れる自信があった。

「まあ、吐かなくても吐いたことにするだけだよね」

 さすがに拷問までしないだろう。そう信じたかった。

「まあ、何もわからないままなら、適当に辺境まで連れて言って捨てて来るって手もありますしね」

 遠距離旅行は金がかかる。州を三つぐらい離れれば、まず自力では帰ってこれない。

「そうあってほしいんですけど」

 自分の精神安定のために真影はそう呟いた。


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