動脈の力は意外に強い
美蘭が気落ちしているのをさすがに王は気づいた。
しかし何も言わない。
「何があった?」
「何も?」
そう何もない、馬鹿な官吏がいて、そのせいで転んだ。愛艇に行ってあったことはそれだけだ。
それ以外はない。
だから、何もなかったのだ、聞こえてきたのはたぶん気のせい。
「そういえば、転倒事故があったとか、そういうことは早めに申告するように」
「二度はないと言いました、二度目があったときには馘首してください」
この場合、物理的に首を切られる可能性もあるが、それは気にしないことにした。
「二度やるような馬鹿がいたら、それこそ驚きだな」
美蘭は苦笑した。
王の寵姫という肩書だけでどうして人はこれほど物見高くなるのか。
美蘭自身の容姿は上の中くらいと思っている。醜くはないが極上とは言い難い。
美しいがゆえにあまり個性的ではない。
だけど、あの声、たった一に二しか一緒にいなかったのに、美蘭の顔をはっきりと覚えていたのだ。
その執念に呆れかえる。
そして美蘭は脳裏に浮かんだ光景に立ちくらみをおこしそうになった。
人が殺されていく。
薄暗いそこで、美蘭は弟と物陰に身をひそめただ茫然とその光景を見続けていた。
頸動脈を切断されたのだろう、思わぬ勢いで噴出した血潮は美蘭の隠れていた場所まで飛んできた。
驚愕の表情も浮かべられなかった。顔だけでなく全身の筋肉が硬直している。
つかんだ弟の身体に指が食い込んでいる。肩をつかみ、その顔を胸に抱きしめて、弟だけはその光景を見せないよう、胸に顔を押し当てていた。
痛かったはずなのだが、弟も何も言わなかった。
物言わぬ躯は地面にたたきつけられ少し弾んだ。
相当の異臭が漂っていたはずだが、それを感じることもなかった。
弟と二人で下敷きにした誰かが、お尻の下でもがいていたが、その感触も遠い。
瞬きすらできず、人が殺され、殺人犯が逃亡するのをただ見ていた。
数年前、強盗殺人など、珍しくもなかった時のことだ。
人が殺されるのを何もせず見ていた美蘭をなじったのが、殺された男の息子だった。
人を見殺しにするのは、人殺しと同じだ。
そう言われたのを覚えている。
美蘭は下から思いっきり引き倒されたが、何も言わなかった。
その発言に反論しようとした弟を押しとどめ、美蘭は小さく顔を振った。
「おい?」
王が美蘭の前で手を振っている。
「どうかなさいました」
王は本気でため息をついた。
「どうかしたかはこちらの言い分なのだが」
美蘭を軽くたたく。
痛みを感じない程度に弱く。
「隠し事はこれから許さない、とにかく話せ」
そう言われても、美蘭に答えられることはあまりなかった。
何しろ相手の名前も覚えていないし、顔もおぼろになっている。
「その、どうしましょう」
これを話して怒られないものだろうか。




