箱
居間に入ると、秋山が柚木さんに膝枕してもらっていた。前も見たぞ、この光景。今日は手に持っていたのが軍手だったので、全力投球した。秋山の鼻に当たった。さすがに鼻血を出させるほどの威力は無かったのが残念だ。
俺の部屋ではなく、柚木さんの新居だ。俺たちのアパートとは自転車で十分ほど離れた、セキュリティーのしっかりしたところだ。もし隣の部屋で同棲でもされるようなら次は俺が全力で引っ越さねばなるまいと思っていたが、杞憂で良かった。
彼女の荷物を運んでいて、意外だったのは、やたらとぬいぐるみが多いことだ。
「ついつい記念に買っちゃうんです」
あれは水族館、あれは動物園、あれは地元の観光地と指さし、イルカのぬいぐるみを抱きしめる柚木さんは、とても女の子らしいと思った。合気道関係らしき賞状が、さりげなくぬいぐるみに混じっているのは見なかったことにしておく。アイツと勝負をしたらどちらが勝つのだろうか。なんとなく、尻に敷かれる秋山の姿を幻視した。
まず水道やガス、電気の申し込みをし、それから部屋の掃除。元々の家財道具と、新しく買い足した家具を部屋に運び込むだけで、昼過ぎになった。
「ということで」
「すごい、おにぎり作ってきてくれたんですか?」
「わー飯だー」
作ってきちゃいました。ついでに唐揚げとポテトサラダも。作っている最中、「あれ? これって引越しっていうか、運動会のお弁当じゃね?」と思ったりもした。だが初志貫徹。
それからさらに、絨毯を敷き、ベッドや棚を組み立て、細かいものの入った段ボール箱をとりあえず押し入れに突っ込んでいたら、もうだいぶ日が傾いていた。
「つ、疲れた……」
「動きたくねええ……」
「お疲れ様です、花村さん。ほんとありがとうございます」
柚木さんが疲れたような笑顔で、お礼を言ってくれる。ベッドの上で死んだようになっていた秋山ががばりと体を起こした。
「俺は? 俺にはお疲れって言ってくんないの?」
「秋さんはしょっちゅう休憩してたから、別に疲れてないんじゃないですか?」
「ちゃんと働いてたって! な、涼?」
「ああ?」
「ダメだ不機嫌モードになってる!」
夕飯には少し早いが、とにかく腹に何か入れようということになった。スーパーで適当な惣菜や酒類を買ってくる。柚木さんはつい先日二十歳になったということなので、飲酒はセーフだ。
夕飯を食べ終わるのもそこそこに、酒盛りになった。テーブルの上に、瓶や缶や紙パックがごちゃごちゃと並べられていく。紙コップを持って、俺たちは顔を見合わせる。
「えー、それじゃ、引越しお疲れ様!」
「乾杯!」
いくつの缶をカラにした頃だろうか。秋山がまっさきにダウンした。コイツはこう見えても下戸なのである。一方、柚木さんは涼しい顔で日本酒をちびちびやっている。俺も酒には強い方だが、それにしたって彼女は酒豪だった。っていうか、つい先日二十歳になったばかりとか言ってなかったか。
「ずいぶん強いね」
「昔から、お酒を飲む機会が多かったんです。」
実家が酒蔵なもので、と柚木さんはなんでもないような顔で言った。ここで法律がどうのと言い出すのは野暮に違いない。
秋山が何事か不明瞭な寝言を呟いた。それを聞いて、柚木さんは堪え切れないといったように笑い出す。
「面白い人ですよね、秋さんって」
「ただのバカだよコイツは」
「そこに惚れちゃったんですよねー」
思わずどきりとした。いや、違う、彼女は自分のことを言っているのだ。彼女は楽しそうに秋山の頬をぺちぺちと叩いていた。俺は酒の残量を確かめるふりをして、その光景から目を逸らした。
「柚木さんも、やっぱコイツのこと、バカだと思う?」
「はい。この人、最初の新歓の飲み会で全裸になりましたから。第一印象は最悪でした」
「それは……お気の毒様」
「初めてのデートは秋葉原でコスプレショップ巡りだし」
「それは殴っていいと思う」
「殴って、水族館に移動しました」
この子、秋山の扱いが分かっているな。
「サークルの練習はすぐに飽きてマンガ読み始めるし」
「どうぞ厳しく指導してやってください」
「部屋にいやらしい本がたくさんあるし」
「燃やしてもいいと思うよ」
「今日の引越しだって、全然役に立たないし」
「水の入ったバケツひっくり返してたからな」
「なんで、こんな人を好きになっちゃったんでしょう」
「謎だな」
「これからちゃんとやっていけるか不安です」
「最初の三カ月が大事らしい」
「ちょうど今日が三ヶ月目です」
「それはおめでとう」
「今日は」
柚木さんが姿勢を正した。
「ありがとうございました、花村さん」
「こちらこそ」
「すごく疲れたけど、賑やかで楽しかったです。秋さんもハイテンションだったし」
「まあ、大人数でわいわいやるのとか、大好きな奴だからな」
柚木さんはくすりと笑った。不思議と心は波立たなかった。ようやく、彼女と向かい合った気がする。やはり俺はずっと逃げていたのだ。
空になった缶をテーブルに置くと、かつんと軽い音がした。もう酒もあまり残っていない。梅酒を飲むかどうか聞くと、彼女はいただきます、と頷いた。紙コップに移した梅酒を一気に呷ると、甘さで喉が焼けた。思わずむせる。柚木さんが苦笑しながら、水をくれた。
頭の中がゆっくり揺れている気がする。ああ、これは、電車が停まる時の揺れ方だ。
このノリだったらなんでも言えるな、と思ったら、言葉がするりと出てきた。
「……コイツは、ほんとうにバカだけど、俺にとっては」
大切で、大事だから。
「このバカのことを、大切にしてやってください」
彼女はきゅっと唇を引き結ぶ。真剣そのものの表情につられるようにして、俺もまた背筋を伸ばした。彼女はわざわざ正座し、頭を下げて、こう言った。
「必ず幸せにしてみせます。だから、秋山さんを私にください」
「……俺はこいつの父ちゃんか……」
やっぱ、二人とも酔ってんだな。
はい、と笑った彼女の顔を、そこで寝ているバカに見せてやりたいと思った。
ちょっとお手洗い借りますね、と彼女が席を立った後、俺は缶を握ったままぼんやりとしていた。なんだか、毒が抜けたような気がした。ちゃんと薄めて飲もうと思いながら梅酒に手を伸ばした時、ふいに秋山が身じろぎした。
「……俺、幸せにされちゃうみたい」
「いつから起きてたんだよ」
「ずいぶん強いねーって辺りから」
「最初からじゃねえか」
「いやー、感動だね、娘さんを僕にくださいって」
「だから俺は親父じゃねえし」
「頼りにしてんのさ」
「そうかい」
コタツの中で、秋山の足を軽く蹴飛ばしてみる。
「おい止めろってー」
「ちょっとくらい僻んだっていいだろ」
「んだよーじゃあお前も早く恋人見つけろよー」
「ま、そのうちな」
とろりとした酒をコップに注ぐ。琥珀色の液体から、甘い香りが立ち上った。
「なあ」
「んー?」
「柚木さんのどんなとこが好きなんだ?」
「そうだな、意地っ張りなとこかな」
「はいはい、のろけのろけ」
「んだよー、自分から聞いといて」
酒って便利だ。人間を素直にしてくれる。あんなに聞けなかった質問も、今なら聞けた。
「そういえば、あれだなー」
「なんだよ」
「あいつと涼、ちょっと似てるよなー」
……だからお前は、空気読めって。
植え込みの椿は、鮮やかに赤い花を咲かせていた。もう春なのだ。
この痛みに、そっと蓋をして、胸の奥底へ沈めておこう。
もっとずっと時が経ってから蓋を開ければ、痛みも消えているかもしれない。
あの時はそんな青臭い恋もあったな、なんて思い出す日がくるのかもしれない。
そんな日が来ることを願う。
だから今は、さよなら。