鮮血
徹夜明け、レポートをメールで提出し、授業を放棄した俺は惰眠をむさぼっていた。そんな俺を覚醒させたのは、怒涛のようなドアチャイムだった。
窓の外を見ると、既に夕方。無意義な一日を過ごしたことを自覚して少し後悔するが、それよりもまずは、この鳴り響くチャイムの嵐をどうにかしなければ。確実に近所迷惑である。
こんな稚拙な真似をするのは隣のバカしかいないので、俺は寝起きのスタイルそのままで、玄関まで突進した。ドアを開けると同時に叫ぶ。
「おいコラァ! ピンポンピンポンうるせえ!」
「コラ! 子供みたいなことしない!」
ガンという音と、二人分の怒鳴り声が重なった。
「え?」
「あ」
驚いた顔の女の子と目が合う。俺が固まっていると、下の方からくぐもった呻き声がした。見れば、鼻から下を真っ赤に染め上げた秋山がうずくまっていた。
どうやら、俺が勢いよく開けたドアに顔面から激突したらしい。
「うわ……なにやってんのお前」
「加害者のくせになんでドン引きしてんだよー! あ、ごめんマジでティッシュか何かちょうだい……」
鼻を押さえ、涙目で訴える秋山。俺が室内に戻るよりも早く、女の子がポケットティッシュを差し出していた。秋山がそれを鼻に詰め込んでいるのを、彼女は腕を組んで見下ろしていた。呆れたように言う。
「なにやってんですか」
「いやー、あんな勢いでドアが開くとは思わなくて……」
「自業自得」
「はい……」
「花村さんにごめんなさいは」
「ごめんなさい……」
秋山は俺に向かって、この子が俺の彼女、と笑った。はじめまして、と彼女はお辞儀をした。こうして、なぜか血みどろな状況で、俺たちは初めて顔を合わせた。
柚木さんは、想像とは少し違う女の子だった。
後輩だと聞いていたから、なんとなく可愛くて大人しい感じを思い描いていたのだが、実物はその逆だった。口を開けば、歯切れの良い言葉がぽんぽん飛び出してくる。きりりとした眉とショートカットの髪型のせいか、弓道部や剣道部が似合いそうな雰囲気だ。
サークルを聞いてみると、はたして合気道だった。
「秋山、お前、合気道も掛け持ちしてたっけ?」
「おう」
「その割には反射神経にぶいんだな」
「うるせー、さっきのはちょっと運が悪かっただけだっつーの」
鼻にティッシュを詰め込みまくった顔で言われても説得力がない。ちなみにコイツの他の掛け持ちサークルは「陶芸の集い」「鉄道旅の会」。見事に方向性がバラバラである。
柚木さんは、俺と秋山のやり取りを、興味津々といった様子で眺めていた。そのまっすぐな眼差しから逃げるように、腰を浮かせる。
「今、お茶淹れるから……」
電気ケトルのスイッチを入れてしまえば、後はティーバッグを用意するくらいで、他にやることもない。湯気が上がるのを待ちながら、こういう時のためにお茶っ葉やら急須やらを用意しておくべきだったかな、と思った。温度が、時間が、と屁理屈をこねておけば、台所に籠もる理由になったかもしれないのに。
熱湯で煮出したような紅茶を持っていくと、秋山が柚木さんに膝枕をしてもらっている真っ最中だった。マグカップを投げつけてやろうかと思った。
「……言っとくけど、鼻血の止め方で『仰向けになる』ってのは間違いだからな」
「ほら、花村さんもそう言ってるじゃないですか」
それ見ろという顔をしたのは柚木さんだ。運動部なだけあって、怪我の類に関しては詳しいらしい。双方向から睨まれて、秋山は駄々っ子のように叫んだ。
「だって膝枕してもらいたいじゃん!」
「清々しいほどに欲望しかないな」
「しょうがないよ、男だもの」
「書道家みたいに言うな」
紅茶を二人に渡す。秋山は温度が熱すぎると文句をつけてきたが、電気ケトルじゃっ調節が難しいのだから仕方ない。それよりも、コタツの上に山のように積み上がっている血まみれのティッシュの方が気になる。布に絶対血を付けるなとは言い渡してはいるが、あの様子ではどこかしらが鮮血に染まっているかもしれない。
「で、止まったのか? 血は」
「あー、そろそろ大丈夫っぽい」
秋山は恐る恐るといった様子で、鼻の調子を確かめている。ティッシュを取った時だけ、たらりと血が一筋だけ流れたが、あとはもう出てこないようだ。少しだけほっとする。
「つーかお前、なんの用があって、うちにピンポン連打かましてたんだ?」
「彼女を自慢しに」
「死ね」
本当に熱湯ぶちまけてやろうか。心配なんてしてやるんじゃなかった。
「涼があんまり羨ましそうにしてるもんだから、目の前でのろけてやろうと……あ、すいません、調子に乗りました」
俺が無言でマグカップを持ち上げると、秋山は床に額を擦り付けた。それを柚木さんがフォローする。
「本当は、一緒にご飯食べに行きませんかって、誘いに来たんです」
「……いや、今日締め切りのレポートが三つもあるから、ちょっと無理そうだな」
架空の締め切りを盾に、俺は首を横に振った。
「そうなんですか」
「もうホント、コーヒーの代わりにレッドブル一気飲みしてるレベル」
「大変そうですね……」
嘘を嘘で固めるとはこういうことだろうか。正直、この空間に身を置くことが、そろそろきつくなってきた。そんな俺をよそに、秋山はのんびりと言う。
「締め切り延ばしてもらえば?」
「うちの先生厳しいからな」
「そっか、残念」
割とあっさり秋山が納得し、二人は帰って行った。ドアを閉めるまで笑顔を保っていた自分を褒めてやりたい。