部屋
無機質な電子音が、頭の中に響き渡った。
「……あー……」
開けた瞼を、緩慢な動作でまた閉じる。まだ眠っていたかった。なにか幸せな夢を見ていたような気がする。はっきりと思い出したかったのに、鳴り続ける電子音がそれを邪魔した。わずかの間に、夢の印象はあっけなく霧散していった。
部屋のどこかから聞こえてくる大音量のメロディは、昔流行ったゲームの音楽だ。あれはどこの街のBGMだったっけ。しばらく考えたが思い出せなかった。どうにも頭が働いていない。とにかく、あれは俺の携帯のアラームじゃない。
枕元を手探りして、自分の携帯を見つける。やはり、それはアラーム音の発生源ではなかった。
無視して寝ようかと思ったが、そうするにはいささか煩すぎた。まだ少し重い瞼で部屋の中を見渡せば、チカチカと光る携帯はすぐに発見できた。床の上に落ちている。それに手を伸ばす前に、音楽はぴたりと止んだ。たぶん、スヌーズモードになっていることだろう。
そして、コタツに突っ伏して撃沈している、もう一人。
「…………」
視界がぼやけるのは何故だろうと数秒ほど悩んで、枕元に置いたままのメガネを思い出した。メガネを装着してカレンダーを確認する。今日は何曜日だっけ? 昨日は金曜日だった。すると今日は土曜日だ。ああそうだ、だから秋山がここにいるんだった。
「……さみぃ」
温かい布団から出ると、ぶるりと震えが走った。雪でも降っているんだろうか。いや、この土地はたとえ真冬でも、滅多なことでは雪が降らない。だが、ついそう思ってしまうくらいには寒かった。
途端に、コタツで寝ている秋山のことが心配になった。さっきからぴくりとも動かないが、まさか死んでたりはしないよな?嫌な想像をした瞬間、ヤツが大きく鼻を鳴らしていびきをかいたので、思わず溜息をついた。
「おい、起きろバカ」
返事は無い。だが屍でないことは分かっているので、俺はそのバカの頭を平手でぶっ叩いた。良い音がした。
「……あれ、おはよー」
ひどく眠そうな声。頭を持ち上げかけ、しかし電池が切れたように、また沈みこんだ。
「なんか首が痛い……なんで?」
「変な体勢で寝てたからだろ」
変な、というのは、腕を前方にまっすぐ伸ばし、頬をべったりとコタツの天板に押し付けている格好のことだ。その手には、しっかりと握られたコントローラー。正面のテレビの画面には、「GAME OVER」の文字が躍っている。ゲームの最中に寝落ちしたようだ。
「だってお前んちのテレビの方がデカいじゃん!」という明快な理由で、週末になると俺の部屋は銃撃戦や空中戦の舞台になる。ラックにずらりと並ぶゲームソフトは、ほとんど秋山が持ち込んだものだ。
「もうちょっと優しく起こしてくれよー」
ようやく秋山はこっちを向いた。垂れ目なのに、眠気に負けてさらに目尻が下がり、情けない顔付きに見える。茶色の短めの髪には、寝癖が付いていた。
「だってお前、携帯のアラームうるさすぎ。っていうか、こんな時間に目覚まし掛けんなよ」
午前八時半。健康的な時間なのだろうが、俺は夜明けまでゲームに付き合わされたせいで、大変眠い。いつもなら、昼過ぎまで爆睡してから、二人でもそもそと飯を食いに出かけるのが定番だった。
「すいませんでした」
「分かればよい」
鷹揚に頷いてやると、秋山はコタツに突っ伏した。
「っておい、二度寝すんな」
「だめだ……眠い……」
それ自体は別に構わないのだが、折しも、携帯のアラームが再び鳴り始めたところだった。仕方ないので操作して止めようとするも、パスワードを入力しないと停止できない仕様になっている。
「おい、寝るならせめて、アラーム消してからにしろ」
「ここで問題でーす……パスワードはなんでしょー……ヒントは俺の誕生日」
「もっと安全性の高いパス使えよ」
図らずも秋山の携帯のパスワードを知ってしまった。いや、悪用する気はないが。
六畳一間、築二十五年、家賃四万、大学まで自転車で五分とかからない物件。このアパートで俺は暮らしている。秋山も同じアパートに部屋を借りていた。ちなみにコイツの部屋は二階だ。
なんだか寝る気が失せてしまい、今日はこのまま活動を開始することにした。顔を洗うと、だいぶ頭がすっきりする。正面の鏡には、ぼさぼさの頭の俺が映っていた。染めていない髪は黒のままだ。大学生になったら自然と洒落っ気が芽生えるのかと思っていたら、そうでもなかったらしい。眼鏡だけは、秋山に勧められたものを使っている。アイツは服飾のセンスだけは良いのだ。
少し気になったので玄関のドアを開けてみたが、当然、雪は降っていなかった。よく晴れていて、風が強い。こういう日の方が寒いのだ。一階の端にあるこの部屋からは、植え込みの椿がよく見える。蕾はまだ固いようだ。
「秋山ー」
「んあー?」
入れ違いに洗面所に入っていく背中に声をかけると、気の抜けた声が返ってくる。
「飯食ってくか?」
「食っ……わない」
あれ、と思った。いつもならここで、文字通り食いついてくるのに。
「どっか出掛けんのか?」
「まー、そんなとこ。十時に駅で待ち合わせ」
秋山はそう笑って、ドアを閉めた。
「ふーん」
交友関係の広いコイツのことだから、サークルのメンバーと遊びに行く約束でもしているんだろう。秋山は三つのサークルを掛け持ちしている上、クラス代表者まで努めている多忙の身である。というかバカである。書類を溜め込んでは俺に泣きついてくる姿は、そうとしかいいようがない。
さて、秋山は食わないと言っているし、朝飯は簡単に済ませよう。
冷蔵庫を開けて、卵を一つ取り出した。熱したフライパンに油を敷いて、片手で卵を割り入れる。目玉焼きができるまでの間、もう一つのガスコンロに火を付けて昨日の味噌汁の残りを温める。一昨日作った豚の角煮を電子レンジに突っ込み、市販の蕪の浅漬けを冷蔵庫から出して、準備は完了だ。
味噌汁をお椀によそっていると、秋山が洗面所から戻ってきた。寝癖もしっかり直しているが、まだどこか眠そうな顔をしている。
「なにこれ超うまそうなにおい」
ラップをかけたままの豚の角煮を凝視している。
「やっぱどうしようかなー、肉と味噌汁だけ食っていい?」
「胃もたれそうだけど、いいのかよ」
「いい」
秋山は今にも涎を垂らしそうだ。
「……あ」
ふと嫌な予感がして、部屋まで戻る。そして悲惨なことになっているコタツを目の当たりにして、俺は怒りの声を上げた。
「お前、涎垂らしやがったな!」
「いやーごめんごめん」
「拭け! そして飯は食わせねえ!」
「ひどい!」
翼は愕然とした顔をする。それはこっちのセリフだろう。
「ひどいのはお前だよ! なんだこりゃ水たまりか!」
「悪かった、謝るから角煮だけは食わせろ!」
「なんでそんなに態度がデカいんだよ!」
食わせろ食わせないの不毛な争い。最終的に折れたのはこちらだった。
コタツを綺麗に拭かせた後、豚の角煮を一個だけ与えてやる。秋山は一口食べて、目尻を下げた。
「んー、やっぱうまいなー。良いお嫁さんになれるよ」
「なれねえし、なりたくねえし」
結局、秋山が俺の部屋を出たのは、待ち合わせにギリギリ間に合うかどうかというタイミングだった。自転車に跨って爆走していく後ろ姿を見送り、自然と疲れた笑みを浮かべてしまう。なんとも慌ただしい朝だった。
一人残された俺は、食器を片付けてしまうと、もうやることがなくなってしまった。
本当はやらなければならないレポートがあったりするのだが、土曜日はそういったものの存在を忘れる日だと決めている。日曜日の自分の頑張りに期待だ。
しばらく何もせずコタツに入っていたが、やはり暇なので、消していたテレビをもう一度付けてみた。秋山からは好きにゲームをプレイしていいと言われていたが、アイツの持ってくるゲームは大抵が血みどろのホラーか、リアル志向のアクションゲームだ。古典的RPG好きの俺としては、いまいち食指が伸びないのが残念である。
テレビを付けたはいいものの、騒がしい芸能番組を見る気にはなれず、とりあえずグルメ番組にチャンネルを合わせた。自分たちの食生活に照らし合わせて憂鬱になった。それもすぐに終わってしまい、結局、ルールもうろ覚えの将棋講座を観る。
そうやって暇を潰していた時、部屋の中に携帯のバイブ音が響いた。反射的に、自分のポケットを手で押さえる。そこにある俺のケータイは沈黙したままだ。なおも音は鳴っている。コタツの周りを見渡して、充電器に繋がったままの秋山の携帯に気付いた。あのバカ、携帯忘れてったのか。
そこで俺は考える。時刻は十時ジャスト。このタイミングで電話がかかってくるということは、アイツはまだ待ち合わせ場所に到着しておらず、相手が心配して電話をかけてきているのかもしれない。
ケータイを開いてみると、画面には『柚木』の文字と番号が並んでいる。知らない名前だ。秋山が掛け持ちするサークルの一つには俺も所属しているので、電話の相手はそれ以外のサークルか、クラスの人間ということだろうか。
呼び出しはまだ続いていた。少しためらってから、俺は通話ボタンを押した。
『もしもし?』
女性の声だ。少し不安そうな声。
『もう待ち合わせの時間だよ?』
「あ、俺、秋山じゃないです。アイツ、携帯忘れていって」
もうすぐそっちに着くと思います、と告げる前に、その女性は「あっ」とつぶやいた。同時に、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。よほど全力疾走したのだろう、息も絶え絶えな様子で、平謝りしているようだ。だったらもう少し早く家を出ろよと思う。
そこから少し声が聞き取れなくなったが、次に電話口に出たのは秋山だった。
『もしもし、涼?』
「バカかお前」
『開口一番それか!』
「じゃあバカではないと否定できるのか」
『ううっ、否定できない!』
「…………」
バカというか、アホの子だろうか。これで勉強は並以上にデキるのだから、頭の良さというのは成績では測れないのだなあとしみじみ思う。
「携帯、そっちに届けた方がいいか?」
『んー……いや、無くても大丈夫そうだ』
「そうか、ならいいけど」
実際、携帯なんてものは、無くても案外平気だったりするものだ。などと油断していると、大事な連絡に気付けなかったりもするのだが。情報化社会は怖い。雑に結論付ける。
「そういや、さっき電話に出たの、俺の知らない人みたいだけど」
『あー、まー、ね。うん』
歯切れが悪い。不意に、なんだか嫌な感じがした。
「サークル?」
『そう。後輩、っていうかなんていうか』
「なんだよ」
『えーと、俺の彼女です』
ぶつりと通話を断ち切った。さらに携帯の電源も切る。ついでにテレビも煩かったので消す。静かになった部屋の中で、俺は天井を睨んだ。
とうとうこの時が来たか。
話は変わるが、秋山は重度のオタクなので、その部屋はひどい有様だ。まず四方に隙間なく美少女のポスターが貼られている。壁の一面は本棚が占拠していて、本やDVDやゲーム(こちらは十八禁が大半)がこれまたぎっしりと詰まっている。本棚にも押入れにも入りきらなかった分は、床にタケノコのように積み上がっている。パソコンの周りにはきわどい衣装の美少女フィギュアが十数体ひしめき、極めつけは、ただでさえ狭い部屋を余計に狭くしている抱き枕。その数、四つ。それらに囲まれた部屋の中央に、部屋主の布団が鎮座している。
とてもではないが、人間の生活する空間とは思えない。たった六畳の空間によくぞこれほど詰め込んだものだと、足を踏み入れる度に呆れてしまう。
どういうことかというと、秋山は見た目が良いのでモテるが、彼女を持てたことはないのだ。その主な理由が、この趣味である。本人は三次元の女の子も大好きなようだが、二次元を捨てることはついにできなかった。その結果がオタク部屋であり、嬉々としてヤツの部屋を訪ねた女の子は、まさに敗残兵のような面持ちで帰路に就くことになる。
だから俺は安心していたのだ。大丈夫、まだ大丈夫、と。今、俺は目を逸らし続けてきた現実に向き合わねばならなかった。
「……あーもう、ちくしょう」
そう、俺は、どういうわけか、なんの因果か、あのバカのことが好きなのだ。
その土曜日、秋山は帰ってこなかった。
どうにも外出する気が起きなくて、せっかくの休日なのに丸一日を部屋の中で過ごしてしまった。日曜日になり、夜が明け、昼時になっても、鬱々とした気分は続いていた。料理をする気も起きず、お手軽便利なインスタントラーメンの蓋を開けた。
お湯を注いで待機していた時、ドアチャイムが鳴った。新聞勧誘ならラーメンが伸びるからという理由で追い払ってやると意気込んでドアを開けると、秋山が立っていた。
「よっ、おはよー」
「今は昼だ」
昨日はどうせ『彼女』といちゃいちゃしてきたんだろうと思うと、自然と気分が荒んでくる。そんな俺の心情を知る由もない秋山は、ニコニコと笑いながら何かを渡してきた。
「ほーらお土産だぞー」
「秋葉原メイド饅頭……お前らしいな」
二箱あるのは、自分も食うぞということなのだろう。あからさまな観光客向けの土産物は好きではないが、ついつい受け取ってしまう。
「うーん、饅頭か、食いきれるかどうか」
「あれ、甘いの嫌いだったか? でも、けっこううまいぞ?」
言うが早いか、その場でパッケージを開け始める。というか、土産をお前が開けるな。
「玄関先で開けんなよ。とりあえず中に入れ」
ラーメンを作っていたのでお湯は沸いている。適当にティーバッグを選んでマグカップに入れ、部屋に持っていくと、秋山はテレビを観ながら既に饅頭を食べ始めていた。少しは待て。
やたらと派手な色彩の包装紙が、コタツの上に畳んで置いてあった。もう一箱が未開封のままだったので、俺は何の気なしに包みを破った。……秋山が饅頭を噴き出した。
「うわっ汚ねえな」
「なんで破いちゃうんだよ! ありえん! 考えられない!」
「あー……そうか、ごめん」
手元に目を落とすと、真っ二つになった萌キャラの笑顔がこっちを向いている。オタクとしては許されない所業だったのだろう。オタクでなくとも、包装紙は綺麗に外して取っておくという人間は多い。うちの祖母もそうだったが、何に使うのかも分からない上に、どんどん溜まっていく一方だった。あれはなんのために取っておいていたのだろう。後で絶対セロテープで修理する、と約束をして、なんとか秋山の機嫌を直すことに成功する。めんどくさい。
ようやく俺が饅頭に口を付けた時、秋山は既に五つ目に取り掛かっているところだった。黙々と咀嚼している秋山に合わせて、俺も真面目に味わう。うん、甘い。
二つ目の饅頭に手を伸ばした時、翼がぽつりと呟いた。
「あのさ、彼女できたの黙ってて、ごめんな」
「……いや、別にいいけど」
「だって電話いきなり切るしさ……怒ってんのかと思って」
「なんで俺が怒る必要があるんだよ。ちょっとびっくりしただけだって」
甘いものを食べているはずなのに、口の中が苦くなったような気がした。
「……デートだったわけ? 二人で」
「まあねー」
「彼女、って、いつからなんだ?」
「えーと、去年の冬くらいかな」
「そっか、」
おめでとう、と言おうとして、言葉が喉につっかえて止まった。代わりに、秋山の頭を無言で叩いた。すぱんと良い音がした。
「なんで叩くんだよ!」
「むしろ殴らせろ、この俺を差し置いて、一足先に彼女作りやがって」
「やっぱ怒ってんじゃん! どうだ、羨ましいだろー」
「ああ、めちゃくちゃ羨ましい」
「お前にゃあげないぞ」
「いや、いらねえし。彼女できたこと、なんで教えてくれなかったんだよ」
「自分から言うのも恥ずかしくってさー。あとタイミングが掴めなくて」
秋山は照れた顔をして、饅頭を二ついっぺんに頬張った。案の定、飲み込みきれず、お茶で流し込もうとして思い切りむせていた。なにやってんだコイツは。
『友達』なら、いろいろ聞くべきなのだろうな、と俺は他人事のように思った。どんな子なんだとか、どこで知り合ったんだとか、どこが好きなんだ、とか。それらの問いはナイフと同じだ。切っ先が抉るのは『友達』になりきれない俺。
存在をすっかり忘れ去られたラーメンは、当然、伸びきってしまっていた。