第9話:折れない殺意と、泥底の無機物
ボロアパートの狭いユニットバス。
錆びついたシャワーヘッドから吐き出されるぬるい湯が、頭上から俺の身体を打ち付けていた。
「……っ、痛ぇ……」
泥と血を洗い流しながら、俺はどす黒く腫れ上がった右の手首を押さえて顔を歪めた。
骨にヒビが入っているかもしれない。あの一撃の衝撃が、まだ神経の奥でビリビリと警鐘を鳴らし続けていた。
あとコンマ一秒、泥に飛び込むのが遅れていれば、俺は確実に真っ二つにされていた。あの全身傷だらけの、イレギュラーなオークに。
シャワーを止め、鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、死の恐怖で青ざめ、疲労で目の下に濃い隈を作った惨めな男の顔だ。
だが、その瞳の奥だけは、異様なほどの熱を帯びてギラギラと血走っていた。
「……なぜ、バレた?」
俺は鏡の中の自分を睨みつけながら、先ほどの敗北の理由を冷徹に分析し始めた。
足音は立てていない。風向きも計算し、匂いも泥で完全に消していた。背後からの、完璧な死角を突いた暗殺だったはずだ。それなのに、奴は振り返りもせずに俺のナイフを肩の装甲で受け止めた。
理由は一つしかない。
俺が放っていた『殺気』だ。
あの時、俺の頭の中は「あいつの極上の経験値を喰らってやる」という、どす黒い執着と欲望で満たされていた。無数の死線を越え、同族の魔石すらも貪り食って生き延びてきたあのバケモノは、背後から突き刺さる捕食者の『視線』と『殺意』を、肌が粟立つような直感で感知したのだ。
もう一つの敗因は、武器だ。
奴は魔石を喰らい続けたことで、皮膚が異常なまでに硬質化していた。おまけに、探索者から奪った鉄の胸当てまで着込んでいる。「斬る」「刺す」という刃物の常識では、二千円の安物はおろか、数万円の剣を買ったところで、いずれ刃こぼれしてへし折られるだけだ。
「刃があるから、折れるんだ」
俺はポツリと呟き、腫れ上がった右手をゆっくりと握り込んだ。
刃物が通用しないなら、刃物を捨てればいい。相手が装甲ごと硬い筋肉で首を守っているなら、その装甲ごと、頭蓋骨の奥の脳髄まで『叩き潰して貫通』させればいいのだ。
* * *
翌日。大学の講義をサボった俺は、探索者たちが集まる街の裏通りにいた。
向かったのは、華やかなショーウィンドウが並ぶ大通りの武具店ではない。路地裏にひっそりと佇む、煤と油の匂いが染み付いた無骨な工房――『武器屋』だ。
カラン、とくすんだベルを鳴らして店内に入ると、むせ返るような鉄の匂いが鼻を突いた。
壁には研ぎ澄まされた長剣や、美しい装飾が施された槍が並んでいる。だが、俺はそれらには一切目もくれず、店の奥にある「ガラクタ(工具)」が放り込まれた木箱の前でしゃがみ込んだ。
「……おいおい、兄ちゃん。武器を探してるなら壁のほうだぜ。そこに入ってんのは、ただの工具と鉄くずだ」
カウンターの奥でパイプを吹かしていた、顔に火傷の痕がある筋骨隆々の親父が、呆れたような声をかけてきた。
俺は無言のまま、木箱の中から二つの鉄の塊を拾い上げ、カウンターの上にドンッと置いた。
一つは、ダンジョンの硬い岩盤を穿つために使われる、長さ三十センチほどの極太の『鋼鉄製スパイク(ロックピトン)』。
もう一つは、鍛冶仕事で使われる、柄が短く先端の鉄塊が異常に重い『セットハンマー』。
どちらも、魔物と戦うための「武器」ではない。純粋な質量と硬度だけを追求した、ただの無骨な道具だ。
「これとこれ。いくらだ」
「……本気か? そんなモン、刃もついてねえ。いくら力が強かろうが、魔物の皮を貫くには、相手に抱きつくほどの『ゼロ距離』まで近づいて、全体重を乗せて叩き込まなきゃ威力が乗らねえぞ。自殺志願者か?」
親父が怪訝な顔で忠告してくる。
相手と密着するほどのゼロ距離。一歩間違えれば、太い腕で抱きしめられ、全身の骨をへし折られる死の距離だ。
だが、俺は一切の表情を変えずに答えた。
「ゼロ距離なら、俺の得意分野だ。いくらだ」
俺の平坦な声と、その奥にある昏い瞳を見た瞬間。
親父は小さく息を呑み、それ以上は何も言わなかった。綺麗な剣を振るう英雄の目ではない。泥水に顔を突っ込んででも、絶対に相手の喉笛を喰いちぎるという、追い詰められたドブネズミの目。長年、この街で探索者たちの死に様を見てきた親父には、それが痛いほど伝わったのだろう。
「……二つ合わせて、五千円でいい。持ってきな」
俺は五千円札を置き、二つの冷たい鉄塊をリュックに放り込んだ。
これで、装甲をぶち抜くための「牙」は揃った。
あとは、あの歴戦のバケモノの直感を欺き、ゼロ距離まで肉薄するための『究極の潜伏』をやり遂げるだけだ。
* * *
深夜。第三階層。
あのバケモノと遭遇した、むせ返るような血の匂いが漂う泥沼の広場。
俺はまず、広場の隅で一匹の普通のオークを見つけ、背後から音もなく奇襲をかけた。
出血多量で死んで光の粒子になってしまっては、待ち時間の『餌』として保たない。だから刃物は使わず、手近な岩を使って両手両足の関節を徹底的に叩き潰した。さらに、仲間に警告の叫び声を上げられないように、顎の骨と声帯も完全に砕いておく。
俺は、声も出せずにただ白目を剥いて痙攣するオークの巨体を、広場の中央の泥沼へと引きずっていった。
そして、ダラリと垂れ下がった顎を無理やりこじ開け、昨日稼いだ中から一番大きく輝く魔石を、その喉の奥へとねじ込んだ。
生きた肉体の匂いと、濃密な魔石の気配。
同族の魔石を喰らうあのイレギュラーにとって、これ以上ない『極上のフルコース』の完成だ。あいつがこの階層を徘徊しているなら、必ずこの匂いを嗅ぎつけてやってくる。
「……さて。地獄の我慢比べの始まりだ」
俺は鋼鉄のスパイクとハンマーを両手に握りしめ、極上の餌(痙攣するオーク)の『真下』にある冷たい泥沼へと、ゆっくりと足を踏み入れた。
腰まで沈み、胸まで沈み、最後に、あらかじめ用意しておいた空洞の植物の茎(呼吸用のストロー)を口にくわえて、頭の先まで完全に泥の底へと没した。
視界が完全な暗闇に閉ざされる。
泥の圧倒的な冷たさが、瞬く間に体温を奪い去っていく。泥の中に潜むヒルや不快な水生昆虫が、布服の隙間から這い入り、肌に吸い付く。
発狂しそうなほどの不快感と、凍えるような寒さ。
だが、動くことは許されない。
ここから先は、俺の精神と本能の戦いだ。
(殺そうと思うな。魔石を奪おうと思うな)
少しでも「殺意」や「欲」を抱けば、脳波や心拍数の変化となって、微弱な気配(殺気)が泥越しに漏れ出る。あのバケモノの直感は、それを見逃さないだろう。
だから、何も考えるな。
俺は泥だ。
ただの冷たい泥だ。
意思を持たない石ころだ。何百年もここにある、ただの無機物だ。
俺は目を開けたまま、自身の心臓の鼓動を極限まで遅くしていくイメージを持った。
レベル5に向上した肉体の制御能力を、「動くこと」ではなく「完全に停止すること」に全振りする。
恐怖も、怒りも、経験値への底知れぬ渇望すらも、今は心の奥底の、分厚い氷の下へと封じ込める。呼吸は植物の茎を通る微かな空気だけ。肺を動かす筋肉すら、最小限の運動に留める。
一時間。二時間。三時間。
時間の感覚が消失していく。手足の感覚はとうの昔に凍りつき、自分が生きているのか死んでいるのかすら曖昧になっていく、極限の幽体離脱のような感覚。
「殺気」は完全に消失し、俺はダンジョンの冷たい泥沼と完全に一体化していた。
そして――。
永遠とも思える静寂の中で、俺の鼓膜ではなく、泥に沈めた背中の皮膚が、微かな『振動』を捉えた。
ズシン。……ズシン。
重く、不規則で、圧倒的な質量を持った足音。
広場の地面を揺らしながら、ゆっくりと、だが確実に『それ』は近づいてくる。
植物の茎を通して吸い込む空気に、泥の臭いを上書きするほどの強烈で古い血の匂いが混じり始めた。
(来た)
凍りついていた意識の底で、針の先ほどの小さな思考が灯る。
だが、まだだ。まだ動くな。心拍数を上げるな。泥のままでいろ。
ズシン。
足音が、俺の頭上のすぐそばで止まった。
泥の表面越しに、巨大な影が覆い被さってくるのを感じる。あの傷だらけのイレギュラーが、俺が仕掛けた『極上の餌』の前に立ったのだ。
奴はすぐに餌には飛びつかない。大剣の切っ先で周囲の岩を砕き、唸り声を上げながら、広場の暗がりに伏兵がいないか、異常なほどの警戒心で周囲を探索している。
その警戒の鋭さは、獣のそれではなかった。殺し合いの螺旋を生き抜いてきた、熟練の探索者そのものだ。
だが、その鋭い直感も、血と肉の匂いが充満する獲物の『真下の泥の底』に、殺気を完全に消し去った無機物が潜んでいることまでは、感知できていなかった。
やがて、警戒を解いたのか、奴の重い息遣いが頭上のすぐ近くへと降りてくる。
ゴキリ、と鈍い音が響いた。
奴が、未だ微かに痙攣しているオークの首根っこを掴み上げ、その喉の奥にねじ込まれた巨大な魔石を引き摺り出そうと、完全に無防備に前かがみになった音だ。
今だ。
ここしかない。
俺は、心の奥底に封じ込めていた全ての狂気と殺意の鎖を、一気に引きちぎった。




