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第8話:砕け散る安物と、同類の捕食者

第三階層の空気を支配する、むせ返るような血と泥の匂い。

 俺はその淀んだ空気の中で、完全に息を殺し、岩と同化していた。


 狙い定めたのは、広場をのし歩く一匹のオーク。

 レベル5の肉体で泥の上を滑るように距離を詰め、一切の殺気を持たずに背後の死角へ潜り込む。オークが足元の獲物に気を取られ、首を下に向けたその一瞬。


 俺は二千円の安物ナイフを逆手に握り、顎の真下から脳髄へ向けて、一切の力みなく刃を突き入れた。


 ――バキィッ。


 肉を裂く音に混じって、硬い骨にぶつかる嫌な音が響いた。

 パァン、と光の粒子になって消え去るオーク。あとに残された緑色の魔石が泥の中に転がる。


「……またか。今週で五本目だぞ」


 俺はため息をつき、自分の右手に残されたものを見た。

 柄の根元から無惨にへし折れた、二千円の解体用ナイフ。第三階層のオークの分厚い皮膚と、異常に発達した骨格。それを一日五匹も十匹も削り続けていれば、ただの鉄の板を研いだだけの安物が耐えきれるはずがない。


 だが、数万円もする名剣を買う金はないし、砥石で何十分もかけて刃を研いでいる時間すら惜しい。

 そんなことをしている暇があるなら、新しい安物を抜いて、次の一匹から経験値を奪い取った方がはるかに効率がいいからだ。


 俺は折れたナイフを泥の中に未練なく投げ捨て、腰のベルトから新しいナイフを引き抜いた。

 魔石を拾い上げ、袖で泥を拭ってポケットにねじ込む。

 よし、次だ。俺の身体はもっと経験値を欲している。細胞の隅々が、あの熱い奔流を喰らいたくて粟立っている。


 俺は泥だらけの布服を引きずり、さらなる獲物を求めて、第三階層のさらに奥深くへと足を踏み入れた。


     * * *


 そこは、普段俺が狩り場にしている広場よりも、さらに淀んだ泥沼が広がるエリアだった。

 岩陰からそっと顔を出した俺は、眉をひそめた。


「……いないな」


 いつもなら、この辺りには二、三匹のオークがたむろしているはずなのだ。しかし、広場には静寂だけが落ちていた。

 いや、何かがおかしい。

 泥の臭いに混じって、ひどく濃密な血の匂いが鼻を突く。


 次の瞬間、広場の奥でパァンッ、と弾けるような音が鳴った。

 魔物が死に、光の粒子となって消滅する音だ。探索者のパーティーでも入り込んでいるのか? そう思い、俺はさらに息を潜めて様子を窺った。


 だが、光の粒子が収まったあとに立っていたのは、人間の探索者ではなかった。


「……なんだ、あれは」


 俺は思わず、声にならない息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、一匹のオークだった。しかし、今まで俺が何十匹と暗殺してきたオークとは、明らかに異質だった。

 一回り以上巨大な体躯。その全身には、刃物で切り裂かれた無数の古い傷跡が、生々しいケロイドとなって刻み込まれている。


 さらに異常なのは、その装備だ。

 ただの丸太ではなく、人間の探索者から奪ったのであろう刃こぼれした巨大な大剣を片手に握りしめ、分厚い胸板には歪んだ鉄の胸当てを強引に縛り付けている。

 野生の魔物ではなく、歴戦の狂戦士のような威圧感。

 俺の五年間の底辺生活で研ぎ澄まされた生存本能が、頭蓋骨の内側で「あれには絶対に近づくな」とけたたましい警鐘を鳴らしていた。


 傷だらけのオークは、自分の足元を見下ろした。

 そこには、たった今死んだばかりの普通のオークが残した、巨大な魔石が転がっていた。

 傷だらけのオークは太い指でその魔石をつまみ上げると――あろうことか、それを自分の巨大な口の中に放り込んだのだ。


 ボリッ、ボリボリッ。ゴクン。


 硬い宝石を噛み砕くような異様な咀嚼音。

 直後、傷だらけのオークの全身の筋肉が、脈打つようにわずかに膨張したのが見えた。


「……そういうことかよ」


 俺は泥の中で震えそうになるのを必死に抑え込んだ。

 魔物は死ねば光になり、魔石が残る。では、その魔石とは一体何なのか。

 それは、魔物の体内に蓄積された純粋な経験値の結晶だ。人間はそれを直接取り込めないから換金所に持ち込むが、ダンジョンの魔物たちは違う。


 あいつは、同族を殺し、その魔石を喰らって生き延びてきたのだ。

 生まれ持った力だけでふんぞり返っている獣ではない。死線を潜り抜け、他者を殺し、経験値を貪り食うことでレベルを上げてきた突然変異。


 それは、俺と同じだ。

 あいつは俺と同じ、ダンジョンの底辺を這いずり回って他者を喰らう同類の捕食者なのだ。


 逃げろ。今すぐ、足音を殺して第二階層へ引き返せ。

 本能はそう叫んでいる。

 だが、俺の目は、あの傷だらけの巨体から目を離すことができなかった。


(あいつの体内には……何匹分の経験値が圧縮されてるんだ?)


 恐怖よりも先に、俺の奥底に眠る飢餓感が鎌首をもたげていた。

 何十、いや何百という同族を喰らい続けたバケモノ。あいつの命を絶ち、その途方もない経験値を俺が奪い取れば。

 来月の更新で、俺の身体に一体どれほどの成長がもたらされるのか。


 気づけば、俺は泥の上を滑り出していた。

 最高に濃密な経験値の塊を前にして、俺の狂気はついに生存本能すらもねじ伏せていた。


 レベル5の全神経を足裏に集中させ、足音一つ、水しぶき一つ上げずに傷だらけのオークの背後へと回り込む。

 いつもと同じだ。いくら戦い慣れていようが、急所を脳髄まで貫かれればどんな生物も死ぬ。鉄の鎧の隙間、太い首の裏側。そこへ向けて、俺は安物のナイフを逆手で思い切り突き出した。


 勝った。

 そう確信した瞬間。


「――ブギッ」


 傷だらけのオークが、振り向きもしないまま、不自然なほど素早く左肩を跳ね上げた。

 普通のオークなら、刺されてから激痛に狂って暴れるはずだ。だがこいつは違った。背後の死角から迫る俺の殺気を、死線を越えてきた経験から直感で予測し、防御の姿勢をとったのだ。


 俺のナイフの切っ先は、柔らかい首の肉を捉える寸前で、跳ね上がった肩の鉄の胸当ての縁と、異常に硬質化した傷跡の皮膚に激突した。


 ――ガァンッ!!


 甲高い金属音が鳴り響き、俺の手首に骨が砕けそうなほどの激痛が走る。

 レベル5の筋力で全力で突き出した威力が、そのまま安物の刃へと跳ね返った。

 悲鳴を上げる間もなく、二千円のナイフは、根元から粉々に砕け散った。


「なっ――」


 驚愕で目を見開いた俺の視界を、圧倒的な絶望が覆い尽くした。

 オークが振り返りざまに、右手で持っていた巨大な大剣を、俺の胴体を両断せんとばかりに水平に薙ぎ払ってきたのだ。

 風切り音などという生易しいものではない。空気が圧縮され、爆発するような轟音。


 防ぐ武器もない。向上した回避能力を持っても、完全に不意を突かれたこの至近距離では、半歩のステップで躱しきれる速度ではない。


「くそがああああっ!!」


 俺は咄嗟に、左のポケットに突っ込んでいた目潰しの塩を袋ごと鷲掴みにし、迫り来る大剣の軌道上へ向けて全力でぶちまけた。

 バサァッ! と赤い粉煙が舞い散るが、歴戦のオークは目を閉じることすらしない。


 俺は一切のプライドを捨て、無様に、みっともなく、顔面から泥の海へとダイブした。

 ゴォォォォォンッ!!!


 大剣が俺の頭上数ミリを通過し、背後の巨大な岩盤を豆腐のように両断して粉砕した。

 飛び散る岩の破片が背中に突き刺さり、大剣の凄まじい風圧だけで肺の空気が強制的に吐き出される。


「ブガァァァッ!!」

 塩が目に入ったのか、オークが苛立ちの咆哮を上げ、大剣を力任せに振り下ろそうとする。


「はぁっ、がはっ……!」


 俺は泥の中でカエルのように手足をばたつかせ、這いつくばったまま全力で逃走した。

 振り返らない。立ち止まらない。相手は完全に俺の手に負える次元のバケモノではない。

 泥水を飲み込み、岩に膝をぶつけ、惨めな姿で俺は第三階層の広場から転がり出るように逃げ出した。


     * * *


 どれくらい走っただろうか。

 安全な第二階層の湿地帯まで逃げ延びたところで、俺は苔むした岩に背中を預け、泥の中にへたり込んだ。


「はぁっ……はぁっ……げほっ、ごほっ……!」


 心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、全身が恐怖と疲労でガタガタと震えている。

 背中を掠めた岩の破片のせいで、布服は破れ、血と泥でぐちゃぐちゃになっていた。右手には、柄だけになった無惨なナイフが強く握りしめられている。


 あとコンマ一秒、泥に飛び込むのが遅れていれば、俺の身体はあの岩盤と同じように上下真っ二つに分断されていただろう。


 圧倒的な格上。

 強靭な肉体に、殺し合いの経験まで併せ持った、ダンジョンの真の捕食者。

 今の俺の装備と戦術では、一万回挑んでも一万回殺されるだけの相手だ。


「……ははっ」


 だが。

 冷たい泥の中で荒い息を吐きながら、俺の口から漏れたのは、絶望の嘆きではなく、歪んだ笑い声だった。


 怖い。恐ろしい。今すぐ家に帰って、布団を被って震えたい。

 それでも、あの歴戦のオークが魔石をボリボリと貪り食っていた光景が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。


「あいつ……どんだけ、溜め込んでやがる……」


 自分の命が紙一重で刈り取られそうになったというのに。

 俺の頭の中は、あのバケモノが体内に隠し持っている極上の経験値への執着で、ドロドロに溶け出していた。

 あれを殺せば、間違いなく俺の人生はひっくり返る。何年も安全圏で足踏みしている天才どもを、たった一ヶ月で遥か彼方まで置き去りにできる。


 俺は右手に握っていた柄だけのナイフを、目の前の泥沼にポイと投げ捨てた。

 こんな二千円の鉄くずじゃ、あいつの分厚い皮は剥げない。

 真正面からの不意打ちすら読まれるなら、あいつの経験すらも超える、もっと卑劣で、もっと確実で、もっと悪辣なやり方を用意するしかない。


「……待ってろよ。あの経験値は、一滴残らず俺が啜り尽くしてやる」


 俺は血だらけの顔を歪めて不気味に笑い、自分より遥かに巨大な捕食者をどうやって泥沼に引きずり込むか、その最悪の計画を練り始めた。

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