第7話:一万円の命懸けバイトと、剥がれ落ちた天才の鎧
朝。家賃三万円、築四十年のボロアパートの万年床で、俺はゆっくりと目を開けた。
「……痛くないな」
身体を起こし、軽く首を回してみる。
いつもなら、薄いせんべい布団のせいで腰や背中が軋むように痛むのだが、今朝はそれが全くない。それどころか、睡眠不足特有の頭の霞みすらなく、視界の隅々までが澄み渡っていた。
昨晩の0時00分。俺は二回目の【月次更新】を迎え、レベルが5になった。
基礎的な身体能力や反射神経が、昨日よりもさらに一割強ほど底上げされた計算になる。
急に岩を砕けるような超人になったわけではない。だが、昨日までの「ひ弱な凡人」からは確実に脱却し、自分の身体の隅々までを『思い通りに操れる』という、静かだが強烈な手応えがあった。
* * *
昼間。俺は三流大学の大教室の、一番後ろの席で講義を受けていた。
(……見えすぎるな。それに、手が全く疲れない)
教授が黒板に書き殴る細かな文字が、まるで目の前にあるかくっきりと見える。それをノートに書き写すペンの動きも、一切の無駄がなく滑らかだ。脳が「動け」と命じてから、実際に指先が動くまでのわずかなズレが、完全に消え去っている感覚。
同級生の天才、剣崎たちは、二十歳の更新でこの恩恵を一気に受け取ったのだ。それは「自分は特別な存在だ」と勘違いし、有頂天になるのも無理はない。
だが、彼らはその向上した力を「より強く剣を振る」ことにしか使っていない。
俺は違う。この底上げされた力は、より速く逃げ、より正確に隠れ、より確実に急所を刺すために使う。
大学の講義を終えた俺は、夕暮れの街を歩き、裏路地にあるうさん臭い民間の魔石換金所へと足を運んだ。
「オークの魔石一つ。換金してくれ」
「へいへい。相変わらず泥臭いねぇ、兄ちゃん。はい、一万円」
店主が面倒くさそうに、トレイの上に一万円札を一枚置いた。
ギルドを通さない裏の店とはいえ、あんな丸太のような腕を持つ巨漢を、死ぬ思いで生きたネズミから毒を搾って暗殺しても、たったの一万円。普通の大学生なら「絶対に割に合わない」と逃げ出す、最悪の命懸けの稼ぎだ。
俺はこの一ヶ月間、毎日数時間をかけて毒を作り、冷たい泥に潜って、一日にせいぜい一体か二体のオークを処理してきた。
学費と家賃を払えば、手元に残る金はわずか。だが、俺は一万円札を見つめながら、口角を歪めて笑った。
(これでまた、安いナイフと目潰しの塩がしこたま買える)
金などどうでもいい。金はただ、俺が生き残り、より多くの獲物を狩るための『経費』でしかない。
俺の最大の目的であり、至高の悦びは「経験値の雪だるま式な蓄積」を回し続けることだ。一日一体の毒殺では、どうしてもペースが遅すぎる。
「レベル5になった今の身体なら……毒に頼らずとも、直接背後から急所を突けるんじゃないか?」
そうすれば、泥の中での待ち時間をなくし、一日に五体、十体と狩りのペースを引き上げることができる。一日で莫大な経験値を喰らうことができる。
俺はホームセンターに立ち寄り、使い捨て用の安い解体ナイフを数本買い足すと、いつもの汚い布服を着込んで夜の第三階層へと向かった。
* * *
第三階層。岩肌がむき出しになった、淀んだ泥沼の広場。
俺が岩陰に身を潜め、標的となるオークを探していると、突如として激しい怒声と悲鳴が洞窟内に響き渡った。
「くそっ、盾をもっと前に出せ! 押し込まれるぞ!」
広場の中央で、五人組の探索者パーティーが、一匹のオークを相手に完全に陣形を崩されていた。
見覚えのある、立派な銀の鎧。同級生の天才、剣崎のパーティーだった。
先月、レベル5に上がったばかりの頃の剣崎は「パーティーでオークを倒した」と自慢していた。確かに彼らの能力なら、盾役が攻撃を防ぎ、魔法で牽制し、剣崎が大剣を振り下ろせば、オークを狩ることはできるのだろう。綺麗な平原や、足場の良い場所であれば。
だが、ここは足場の悪い泥沼だ。
オークのデタラメな怪力に押され、重い鎧を着た盾役が泥に足を取られて体勢を崩した。
「ブギィィィッ!!」
好機と見たオークが、血走った目を剥き出しにして、手にした丸太の棍棒を乱暴に振り回し始めた。
かつて俺が死にかけた、あの激痛による『狂乱状態』の暴力。
「ひっ……!?」
剣崎の顔から、血の気が引くのが見えた。
彼はレベル5の動体視力で、棍棒が自分に向かってくる軌道は見えているはずだ。だが、今まで安全な場所で格下を圧倒する戦いしかしてこなかった彼の精神が、本物の死の恐怖に耐えきれず、完全に思考を停止させてしまっていた。
剣崎は後ずさりしようとして泥に滑り、無様に尻餅をついた。
オークがその頭上高く、丸太の棍棒を振り上げる。次の一撃で、剣崎の頭蓋骨は兜ごとトマトのように潰れるだろう。
(……隙だらけだ)
岩陰から観察していた俺の脳裏に浮かんだのは、英雄気取りで同級生を助けようなどというお人好しな感情ではない。
オークの意識が、完全に尻餅をついた剣崎に向いている。背中はガラ空き。罠も毒も使わずに、無傷で『極上の経験値』を横取りできる、絶好の狩り場だ。
脳が「行け」と命じた瞬間、俺の身体は無音で泥の上を滑り出していた。
向上した肉体が、五年間の底辺生活で培った「泥の上の歩き方」を完璧に再現する。泥を跳ね上げることもなく、俺は一瞬でオークの背後、その死角へと潜り込んだ。
「死ねぇぇっ!」
剣崎が絶望の悲鳴を上げ、目を閉じた瞬間。
背後の気配に気づいたオークが、振り下ろそうとしていた棍棒の軌道を強引に変え、俺に向かって薙ぎ払ってきた。
(来る!)
丸太が空気を圧縮し、暴風となって俺の顔面へ迫る。
以前の俺なら、恐怖で無様に泥の中へダイブしていただろう。だが、今の俺の身体は、脳が感じた「死の恐怖」に対して、最も合理的で完璧な動きで応えた。
俺は転がらない。
両足の裏で泥の粘り気を正確に捉え、上体をわずかに反らしながら、最小限の『半歩』だけ後ろへ下がる。
ゴォッ!!
鼻先数ミリ。丸太の風圧が前髪を大きく揺らすが、俺の身体にはかすりもしない。
五年間、ずっと逃げ回ってきたからこそ分かる、絶対に当たらない「死の境界線」。それを、レベル5の肉体が完璧に制御してのけたのだ。
恐怖はない。あるのは、自分が完璧に身体を支配できているという圧倒的な全能感だけだ。
オークの全力の一撃が空を切り、巨体が大きく前傾姿勢になって体勢が崩れる。
俺は半歩引いた右足をバネにして一気に踏み込み、オークの懐へと潜り込んだ。狙うのは分厚い脂肪ではない。首の下、装甲の隙間にある柔らかい顎下だ。
一切の無駄な力みなく、手に持った二千円の安物ナイフを、スッと下から上へ滑り込ませる。
ズチュッ。
刃が顎下から脳髄を正確に貫き、手首をひねって内部を破壊する。
声すら出なかった。オークの巨体がビクンと跳ね、そのまま糸の切れた操り人形のように泥の上へ崩れ落ちる。
直後、パァンという音と共に、オークは光の粒子となってダンジョンの闇に溶けていった。
戦闘時間、わずか数秒。
俺の身体の奥底に、ドクンッと熱い血が流れ込んでくるような、あの至高の感覚が押し寄せる。
これだ。この濃密な経験値が細胞に染み込んでいく感覚こそが、俺が泥水をすすってでも生き延びる唯一の理由だ。
罠の準備もいらない。待ち時間もない。この戦い方なら、一日で途方もない量の経験値を喰らい尽くすことができる。
俺は息をつく暇もなく、泥の上に落ちた美しい緑色の魔石を拾い上げ、汚れた袖でゴシゴシと泥を拭き取った。
これも換金すれば、また明日の狩りのための消耗品が買える。俺は傷がないことを確認し、ポケットに無造作にねじ込んだ。
ふと視線を感じて振り返ると、尻餅をついたままの剣崎と、そのパーティーの連中が、幽霊でも見たかのような顔で俺を凝視していた。
「あ、お、お前……? 天馬、なのか……?」
剣崎が、信じられないものを見る目で俺の顔を指差した。
いつも俺を「泥ネズミ」と嘲笑っていた、あの余裕に満ちた天才の顔はどこにもない。そこにあるのは、自分とは次元の違う圧倒的な暴力に対する、純粋な恐怖と畏怖だった。
「お前……今のバケモノみたいな動き、一体……レベルいくつになったんだよ!?」
震える声で、剣崎が叫ぶように問うてきた。
俺は彼を見下ろし、小さく鼻で笑った。
能力の数字。レベル。そんなものにすがって、安全圏でふんぞり返っていたから、泥沼でオークの一撃を前に腰を抜かすのだ。
五年間、死の恐怖を味わい続け、ひたすらに経験値だけを求めて無様に足掻き続けてきた俺にとって、もはやレベルという数字は、ただ「次の経験値」を効率よく喰らうための通過点でしかない。
「……さあな。数字なんかどうでもいいだろ。生き残って、経験値を奪った奴の勝ちだ」
俺は面倒くさそうにそう言い捨て、剣崎たちに背を向けた。
同じ強さを与えられていても、俺とお前とでは、生きている世界が、覚悟が、決定的に違うのだ。
「次行くか。今のペースなら、今日はあと五匹は経験値にできる」
呆然とへたり込む剣崎たちを泥沼に放置したまま、俺は次の極上の獲物を求めて、迷うことなく第三階層のさらに深い闇の中へと歩き出した。




