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第6話:生け捕りの猛毒と、凡人の狂気的な生存戦略

第三階層の冷たい岩肌にへばりつくようにして、俺は息を殺していた。

 全身にはあらかじめ第二階層で集めてきたヘドロを分厚く塗りたくり、人間の匂いを完全に消している。視線の先、約三十メートル離れた広場の中央には、分厚い緑色の皮膚を持った巨漢――第三階層の主『オーク』がのし歩いていた。


 あの一方的に蹂躙された死闘から数日。

 俺は一度も剣を抜かず、ただひたすらに岩と同化して、この理不尽な暴力の塊の『生態』を観察し続けていた。


 真っ向から戦えば、確実に殺される。罠を張っても力ずくで引きちぎられる。

 ならば、どう殺すか。


 観察を続ける中で、俺は一つの残酷な事実と、ある『習性』を発見した。

 ダンジョンに生息する魔物は、死ねば光の粒子となって魔石に変わる。つまり、この世界には捕食するための「魔物の肉」という食料が存在しない。では、あの巨体を維持するためにオークは何を食っているのか。


「……ギィ、ブギィッ!」


 広場の中央で、オークが歓喜の声を上げた。

 奴の足元には、無残に引き裂かれた人間の探索者の遺体があった。だがオークは、人間の肉そのものを食おうとはしなかった。奴は器用な太い指で、探索者が背負っていた革のリュックサックを引きちぎるように開け、中に入っていた『携帯食料(干し肉や硬いパン)』を取り出し、ボリボリと貪り食い始めたのだ。


 オークは、人間が持ち込む「味が濃くてカロリーの高い食料」を好む。

 その光景を見た瞬間、俺の脳内に、極めて卑劣で、惨めで、そして最高に確実な『殺しのプラン』が完成した。


     * * *


 翌日。俺は第二階層の湿地帯に戻り、かつての俺ですら絶対に手を出さなかった魔物『毒牙鼠ポイズンラット』の巣穴の前に立っていた。

 こいつらは素早くて厄介な上に、ギルドの買取窓口に魔石を持っていっても二束三文にしかならない。おまけに噛まれれば肉が腐り落ちるほどの猛毒を持っている。割に合わない、最悪のハズレ魔物だ。


 俺は泥の中に潜み、罠にかかって身動きが取れなくなった一匹の毒牙鼠に、背後からそっと近づいた。

 そして、厚手の革手袋をはめた両手で、ネズミの首根っこを全力で押さえつける。


「キィィィッ!! ギィィッ!!」


 激しく身をよじり、俺の指を食いちぎろうと牙を剥き出しにして暴れ狂うネズミ。

 魔物は殺せば光になって消えてしまう。死骸が残らない以上、毒を手に入れる方法はただ一つ。

 ――こうして『生きたまま』捕らえ、その牙から直接、毒液を絞り出すしかないのだ。


「暴れるな……っ、クソが……!」


 少しでも気を抜けば、牙が革手袋を貫通して俺に猛毒を注ぎ込む。額から冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘を打つ。俺は震える手で小瓶の口をネズミの牙に押し当て、無理やり毒腺を圧迫して、黄色く濁った毒液を数滴だけ抽出した。

 用済みになったネズミの首の骨をへし折ると、パァンと光になって消えた。


 たった数滴。

 オークの巨体を殺し切るには、これをあと何十匹分も繰り返さなければならない。


 ふと、ギルドの連中や、同級生の天才・剣崎たちの顔が脳裏をよぎった。彼らが見たら、腹を抱えて笑うだろう。

 なぜ、他の探索者は誰もこの効率的な「毒殺」をやらないのか。

 答えは明白だ。割に合わないにも程があるからだ。


 一歩間違えれば自分が即死する『生け捕り作業』を何十回も繰り返し、何十時間も泥水にまみれて惨めにオークを一匹毒殺したところで、彼らのステータスが更新されるのは「数年後」なのだ。

 そんな気の遠くなるような、精神を削る作業をするくらいなら、剣崎たちのようにレベル5の圧倒的な暴力で、パーティーを組んで正面からオークの首をはねたほうが、よほど安全で手っ取り早い。


 つまり、こんな吐き気のするような泥臭い作業に耐えられるのは、世界で俺ただ一人だけ。

 たった1ヶ月後に、この数十時間の苦労が『レベルアップ』という形で確実に清算される、【月次更新】というチートを持った俺にしか、この狂気は成立しないのだ。


「泥水すする程度の苦痛で、天才の背中を踏み越えられるなら……喜んで啜ってやるよ」


 俺は悪臭と毒気に顔を歪めながら、あらかじめ買っておいた大量の安い干し肉に、抽出した猛毒の液体を限界まで染み込ませた。


     * * *


 第三階層の広場。

 オークが狩りに出かけている隙を突き、俺は広場の中央に、いかにも「逃げ遅れた探索者が落としていった」ように見せかけて、毒エサ入りのリュックを放置した。


 そして俺は、広場の端にある冷たい泥沼に、首までどっぷりと浸かった。

 鼻から下を泥に沈め、ただひたすらに待つ。

 一時間、二時間。泥の冷たさが体温を奪い、手足の感覚が麻痺していく。泥の中に潜む不快な生物が皮膚に張り付く感覚に、発狂しそうになる。


 だが、俺は微動だにしない。

 俺の心の中では、あの果てしない成長のサイクルが炎のように燃え盛っていたからだ。この苦痛の数時間が、来月の俺のステータスを爆発的に押し上げる。その確信だけが、俺の精神を綱渡りで支えていた。


 やがて、地響きと共にオークがねぐらに戻ってきた。

「ブギ、ブヒィッ!」

 オークはすぐに広場の中央に落ちているリュックを見つけ、嬉々として太い指を突っ込んだ。そして、たっぷりと毒が染み込んだ干し肉を、警戒する様子もなく咀嚼し、胃袋へと流し込んでいく。


 俺は泥の中から、瞬きもせずにその光景を見つめていた。

 五分後。オークの巨体が、ビクンッ! と大きく跳ねた。


「……ブ、ボェェェェッ!!」

 凄まじい嘔吐の音が響き渡る。オークが腹を抱え、苦悶の表情で地面を転げ回った。胃袋を焼かれ、内臓を腐食させる強烈な猛毒が、奴の屈強な肉体を内側から破壊し始めたのだ。


「ブギィィィッ! ギャアアアアァァァッ!!」


 激痛に狂ったオークは、手当たり次第に周囲の岩を棍棒で粉砕し始めた。

 ズドォォン! と岩が砕け、凄まじい風圧が広場を吹き荒れる。

 もし俺が、あの暴力に正面から剣で立ち向かっていれば、間違いなく今頃あの岩と同じように肉塊に変えられていただろう。

 だが、俺は安全な泥沼の中から、その理不尽な暴力が『自滅』していく様を、ただ冷ややかに見下ろしていた。


 暴れる体力が尽き、オークが口から血の混じった泡を吹いて倒れ伏すまで、そこからさらに二時間が経過した。

 ピク、ピクと痙攣するだけの巨大な肉塊。


 俺はゆっくりと泥沼から這い出し、泥を引きずりながらオークの巨体へと近づいた。

「……ごちそうさま。お前の経験値は、俺の養分だ」


 俺は抵抗すらできないオークの右耳の穴に、ショートソードを深々と突き立てた。

 パァンッ、とオークの巨体が弾け、光の粒子となって消える。

 残された巨大な魔石を拾い上げると同時、俺の身体の奥底に、ドクンッと圧倒的な質量の熱が流れ込んでくるのが分かった。


 剣を交えることすらない、ただの汚らしい「死体処理」。

 だが、経験値は平等だ。英雄のように剣で倒そうが、生きたネズミから毒を絞って暗殺しようが、得られる経験値の量は変わらない。


「このやり方なら……殺せる」


 俺は震える手で魔石を握りしめ、泥だらけの顔を歪めて笑った。

 そこからの日々は、まさに狂気だった。

 命懸けで生きたネズミから毒を搾り、仕掛け、泥の中で何時間も耐え忍び、弱ったオークの息の根を止める。精神と肉体を極限まですり減らす地獄のようなループ作業。

 俺はただ、1ヶ月後の「更新日」だけを心の支えにして、第三階層のオークを孤独に暗殺し続けた。


     * * *


 そして、ついにその日がやってきた。

 レベル3になってから、ちょうど一ヶ月目の深夜23時59分。

 ボロアパートの自室で、俺は全身にこびりついた疲労と痛みに耐えながら、時計の針を見つめていた。


 この1ヶ月間。俺は第三階層という、本来ならレベル5のパーティーが挑む領域で、大量のオークを毒殺し続けた。

 得られた経験値の総量は、もはや俺自身にも計算ができない。

 普通の探索者が、浅い階層で5年間必死に稼ぐ経験値の、十倍、いや数十倍に達しているはずだ。


 時計の針が、0時00分を指した。


『――個体名:天馬駆の【月次更新】を起動します』

『――過去1ヶ月間に蓄積された経験値を清算します』


 脳内に響く無機質なアナウンスと共に、俺の身体をまばゆい黄金の光が包み込む。

 ドクンッ!! と、これまでにないほど強烈に心臓が跳ねた。

 全身の骨がミシミシと鳴り、筋肉の繊維が内側から弾けそうになるほどの圧倒的なエネルギーの奔流。細胞の一つ一つが、強引に作り変えられていく。


『――レベルが3から【5】へ上昇しました』


「……っ!!」


 光が収まった瞬間、俺は息を呑んで自分の両手を見つめた。

 レベル、5。

 それは、同級生の天才・剣崎が到達し、彼らが今現在も停滞し続けている『壁』。


 俺はたった2ヶ月。

 たった2ヶ月の泥水と毒と、極限の忍耐による『複利』の力で、生まれ持った才能の差を完全に消し去り、ついに彼らと同じ次元へと到達したのだ。


 軽く拳を握り込んでみる。

 内側から湧き上がる、今までの3%とは明らかに違う、桁違いの力。視界の解像度はもはや常人のそれを超え、部屋の隅を這う小さな虫の足音すら、はっきりと聞き取れる。


「……追いついたぞ、天才ども」


 暗い部屋の中で、俺の声は静かに、だが確かな熱を帯びて響いた。

 今のレベル5の肉体なら、あのオークの暴力にも、もう泥水に隠れることなく正面から抗えるかもしれない。


 底辺探索者の異常な成り上がりは、いよいよ人知を超えた領域へと足を踏み入れようとしていた。

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