第5話:崩れ去る『作業』と、第三階層の理不尽な暴力
第二階層の淀んだ湿地帯を抜け、下り階段を降りた先。
第三階層に足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつく空気の質が明らかに変わったのを感じた。
生臭い獣の臭いとは違う。もっと濃密で、むせ返るような血と暴力の匂い。ゴツゴツとした黒い岩肌がむき出しになり、所々に泥沼が点在する荒涼とした空間が広がっている。
俺は巨大な岩の陰に身を潜め、呼吸を殺した。
視線の先、約二十メートル。広場の中央に『それ』はいた。
体長は優に二メートルを超えている。丸太のように太い腕、はち切れんばかりに膨れ上がった筋肉、そして分厚い緑色の皮膚。顔は醜悪な豚そのもので、手には根本からへし折った大木を削って作ったような、巨大な棍棒が握られていた。
第三階層の主――『オーク』だ。
(……デカいな。だが、やることは同じだ)
俺の心の中には、奇妙なほどの落ち着きがあった。いや、今思えばそれは、第二階層で狼を狩りすぎたことによる「致命的な慢心」だった。
レベル3になり、俺の知覚と身体能力は向上している。
狼の素早い攻撃すらただのルーティンとして処理できた今の俺なら、あの鈍重そうなオークなど恐るるに足りない。ワイヤーで転ばせ、目潰しで視界を奪い、動けなくなったところの首を掻き切る。
相手が少し大きくなっただけで、やるべき『作業』は何も変わらない。そうタカをくくっていたのだ。
俺は音を立てずに岩陰から移動し、オークの巡回ルートにある狭い獣道に、いつも通り細く丈夫なワイヤーを張り巡らせた。
手には、昨晩のうちに調合しておいた特製の『目潰し粉』を握りしめる。
準備は完了した。
俺は足元の石ころを拾い上げ、オークの分厚い背中へ向けて思い切り投げつけた。
ガンッ!
石が硬い頭蓋に当たり、弾け飛ぶ。
「……ブギィィッ!?」
オークが振り返り、血走った小さな瞳で俺を捉えた。怒りに満ちた咆哮が洞窟を震わせる。地響きを立てながら、オークがこちらへ向かって突進してきた。
(よし、来い。そのまま罠に突っ込め)
俺は冷静にワイヤーの張られた位置を見つめ、タイミングを計る。
ズシン、ズシンという重い足音が迫る。オークの丸太のような足が、俺が仕掛けたワイヤーにしっかりと引っかかった。
(かかった!)
俺が目潰し粉を投げようと腕を振り上げた、その瞬間だった。
――ブチィッ!!
鈍い破断音。
オークが転倒するどころか、体勢を崩すことすらなかった。
第二階層でファングウルフの突進を何度も絡め取ってきた丈夫なワイヤーが、オークの規格外の体重と脚力の前に、まるで細い蜘蛛の糸のようにあっさりと引きちぎられたのだ。
「……は?」
想定外の事態に、俺の思考が一瞬だけフリーズする。
止まらない。オークの突進は止まらない。罠を意に介することもなく、圧倒的な質量の壁が目の前まで迫っていた。
「くそっ!」
俺は慌てて手に握っていた目潰し粉を、突進してくるオークの顔面に向けて投げつけた。
バサァッ!
赤い粉煙がオークの顔を包み込む。強烈な粗塩と刺激物が、奴の眼球と鼻の粘膜を直撃した。
「ブギャアアァァッ!!」
凄まじい悲鳴。
よし、視界は奪えた。俺の頭の中に「いつものように一方的に殺せる」という安堵がよぎった。
だが、それが第二の致命的な過ちだった。
ファングウルフは目を潰されると、痛みに耐えかねてその場でのたうち回った。しかし、オークは違った。圧倒的な生命力と暴力性を持つこの巨漢は、激痛によって動きを止めるどころか、完全に『狂乱状態』へと陥ったのだ。
「ブッ、ギィィィィッ!!」
視界を奪われたオークは、両手で巨大な棍棒を握りしめ、周囲の空間を手当たり次第に、デタラメに振り回し始めた。
ブンッ! という空気を切り裂く恐ろしい風切り音。
「なっ――!?」
俺が咄嗟に隠れた、大人が三人隠れられるほどの巨大な岩。
オークのデタラメなフルスイングが、その岩の側面に激突した。
ドゴォォォォンッ!!!
爆発のような轟音と共に、俺の絶対的な安全圏であったはずの岩が、粉々に砕け散った。
「がはっ!?」
岩の破片が散弾銃のように俺の身体に降り注ぎ、衝撃波で身体が宙に浮く。
泥の地面を無様に数メートル転がり、背中を激しく打ち付けた。肺から酸素が強制的に吐き出され、目の前が真っ白になる。
「がっ、はぁっ、ごほっ……!」
頬から、腕から、太ももから血が流れている。砕けた岩の破片が掠めたのだ。
もし直撃していれば、俺の身体などトマトのように潰れていただろう。
俺は血と泥にまみれながら、恐怖でガタガタと震える膝を必死に叩いて立ち上がった。
狂乱し、周囲の岩や地面を次々と粉砕していくオークの姿を見て、俺は自分の愚かさを呪った。
(作業、だと……? 効率、だと……?)
ふざけるな。ここはダンジョンだ。命と命を削り合う、理不尽な暴力の支配する場所だ。
ちょっとレベルが上がったからといって、ちょっと罠の扱いが上手くなったからといって、手持ちの安物の剣で「安全に駆除できる」などと思い上がっていた。
目の前にあるのは、システムが定めた『基礎ステータス』という絶対的な暴力の壁。
俺は、自分がひ弱な凡人であることを完全に忘れていたのだ。
「ブギィィィッ!」
痛みに狂うオークが、血走った目を剥き出しにしてこちらへ顔を向けた。視力は回復していないはずだが、俺の血の匂いや物音に反応したのだ。
ズンッ、ズンッ! と地面を揺らしながら、再びオークが迫り来る。
逃げ道はない。背後は行き止まりの岩壁だ。
(逃げられない。やるしかない……っ!)
俺は震える手でショートソードを構え直した。
計算も、効率も、小細工も、もう何の意味もない。あるのは、この理不尽な暴力に泥まみれで抗う生存本能だけだ。
オークが棍棒を真横に薙ぎ払う。
レベル3に向上した俺の動体視力が、その凶悪な一撃の軌道をはっきりと捉える。だが、捉えられても身体が追いつかない。
「うおおおおっ!」
俺は泥水の中に顔からダイブするように飛び込み、頭上を通過する棍棒の暴風を躱した。
休む間もなく、今度は上段からの振り下ろし。
泥だらけの地面をゴロゴロと転がって避ける。直後、俺がさっきまでいた場所がすり鉢状に陥没し、泥が噴水のように天高く舞い上がった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
避ける。転がる。這いずる。
かつての第一階層での死闘以上に無様で、みっともない姿。
反撃の糸口など全く見えない。俺のショートソードの刃渡りでは、どう考えてもあの分厚い脂肪の奥にある急所(心臓)には届かないのだ。
体力が削られていく。肺が焼け付くように痛み、足の筋肉が悲鳴を上げている。
あと十秒。いや、五秒もすれば、俺の回避は追いつかなくなり、あの丸太で肉塊に変えられる。
(死ぬ……! このままじゃ、殺される……っ!)
絶望が脳裏をよぎった、その瞬間。
「ブオオォォォッ!!」
オークがひときわ大きな咆哮を上げ、両手で棍棒を天高く振りかぶった。俺を確実に粉砕するための、渾身の唐竹割り。
俺は最後の力を振り絞り、横に向かって大きく跳んだ。
ズッドォォォォンッ!!!
大地が爆発したかのような衝撃。
オークの渾身の一撃は、俺を外し、湿地帯の分厚い泥と、その下にある硬い岩盤に深く、深くめり込んだ。
「ブギ、ギ……ッ?」
オークが棍棒を引き抜こうと腕に力を込める。だが、泥の粘着力と岩盤に噛んだ丸太は、数秒間だけ完全に固定され、オークの動きがピタリと止まった。
――ここしかない。
思考よりも先に、5年間逃げ回り、足掻き続けてきた俺の生存本能が身体を動かした。
俺は泥を蹴り立て、地面に突き刺さった丸太の棍棒へと飛び乗った。
「うおおおおおぉぉぉっ!!」
そのまま棍棒の柄を駆け上がり、オークの丸太のように太い腕へと飛び移る。
「ブギィッ!?」
腕にしがみついた俺を振り落とそうと、オークが激しく身体を揺さぶる。
振り落とされれば終わりだ。俺は左手でオークの分厚い皮膚の皺に指を食い込ませ、必死にしがみついた。
狙うのは心臓でも首でもない。そんなところは、俺の安物の剣では届かない。
巨体の中で唯一、装甲(脂肪)が存在せず、脳髄に直結している柔らかい穴。
「死ねぇぇぇぇっ!!」
俺はオークの肩口までよじ登り、右手に逆手で握ったショートソードを、オークの巨大な『右耳の穴』へと向けて、全体重を乗せて叩き込んだ。
ズブゥッ!!
「ブッ、ギャアアアアアアアアァァァァッ!!!」
鼓膜を破り、刃が脳髄へと到達する生々しい感触。
オークがこれまでにない、鼓膜が破れるような絶叫を上げた。
だが、まだ足りない。オークの凄まじい生命力が、脳を刺されてもなお腕を振り回そうとする。
「まだだっ! 死ね、死ね、死ねぇっ!!」
俺は柄から手を離さず、刺さった剣を耳の奥で狂ったようにかき回し、さらに体重をかけて奥へ奥へとねじり込んだ。
ドロドロの血液と体液が吹き出し、俺の顔や身体を真っ赤に染め上げる。血の生温かさと鉄の匂いが鼻を突くが、俺は狂ったように叫びながら剣を押し込み続けた。
やがて――。
ビクンッ、とオークの巨体が大きく跳ね、その腕から完全に力が抜けた。
糸の切れた操り人形のように、巨大な肉の塊が泥の地面へと崩れ落ちる。俺も一緒に地面へと投げ出された。
ドスゥン、という重い音の直後。
オークの巨体はパァンと弾け、光の粒子となって第三階層の闇の中へ消えていった。
後には、俺の頭ほどの大きさがある、巨大で淀みのない魔石だけが残されていた。
「はぁっ……はぁっ……げほっ、ごほっ……!」
俺は仰向けのまま泥の中に倒れ込み、血の混じった唾を吐き出した。
全身の骨が軋み、切り傷が火でも押し当てられたように熱を持っている。指一本動かす気力すら残っていなかった。
その時、俺の身体の奥底――心臓の中心あたりに、ドクンッと重く巨大な熱の塊が落ちてくるような感覚があった。
直後、全身の血管を暴力的なまでの熱量が駆け巡る。第一階層のゴブリンや、第二階層の狼を倒した時の『チャリン』と小銭が貯まるような軽い感覚とは、文字通り次元が違う。
たった一匹。たった一匹仕留めただけなのに、昨日まで丸一日かけて狼の群れを狩り続けた時のような、濃密で圧倒的な充実感が細胞の隅々にまで染み込んでいくのがわかった。
これなら、才能にあふれたレベル5の連中が、こぞって第三階層を目指すわけだ。
こんな規格外の経験値を単独で独占したのだから、俺の体内で途方もない数字が叩き出されていることは、システムのアナウンスを聞くまでもなく本能で理解できた。
だが、少しも嬉しくはなかった。
「……無理だろ、こんなの」
俺は泥だらけの顔を歪め、自嘲気味に笑った。
この第三階層の魔物を、毎日安全に狩って経験値を稼ぐ? 不可能だ。
罠は力技でへし折られ、一撃貰えば即死。今回勝てたのは、ただの偶然と悪あがきが重なっただけに過ぎない。こんな死闘を毎日繰り返していれば、間違いなく1ヶ月持たずに俺は死ぬ。
これが、ステータスの壁。
純粋な『暴力』の差。
どんなに泥臭く足掻こうとも、凡人の俺は結局、この第三階層で頭打ちになってしまうのか。
暗い絶望感が胸に広がりかけた、その時だった。
空中に呼び出したままになっていたステータスボードの文字が、ふと目に入った。
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【特殊スキル】
『月次更新』:次回の更新まで、あと29日。
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「……っ」
俺は強く奥歯を噛み締め、震える腕で無理やり身体を起こした。
そうだ。俺には、まだこれがある。
今はオーク一匹にこれだけ絶望している。だが、この第三階層の端っこでどうにかして死なずに経験値をかき集め続ければ、29日後、俺は確実に次の次元へと進める。
レベル4になれば、あるいはレベル5になれば。
この理不尽な暴力にも、もう少しまともに抗うことができるようになるはずだ。
「……やってやるよ。泥水すすってでも、生き延びてやる」
俺は血だらけの手で巨大な魔石を抱え込み、痛む足を引きずりながら、第三階層の闇を睨みつけた。
調子に乗った作業員の仮面はもう捨てた。
俺は今日から再び、死に物狂いで泥を這う、底辺の探索者だ。




