第4話:泥まみれの死神と、死闘の『草刈り(ルーティン)』
ぐちゃり、と足元の泥が重い音を立てた。
第二階層の東エリアに広がる、薄暗く悪臭の漂う湿地帯。俺はいつものように、見慣れた岩の陰で罠の仕掛けを作っていた。
手元に視線を落とす。細く丈夫なワイヤーを岩の出っ張りに結びつけ、泥の中に隠すように這わせる作業。
先月、レベル2になったばかりの頃は、震える手で十五分近くかけていたこの作業が、今はものの五分で終わってしまった。
「……随分と、指がよく動く」
俺は泥まみれの両手を開いたり握ったりしながら、小さく息を吐いた。
昨晩、20歳の誕生日から一ヶ月遅れでやってきた初めての【月次更新】。それによって俺のレベルは2から3へと上がり、さらなる「3%」の能力向上を得た。
レベルアップで得た力は、急に岩を砕けるようになるような魔法の力ではない。
だが、今の俺にはハッキリとわかる。
視界の端から端まで、まるで薄い靄が晴れたようにくっきりと周囲の地形が見える。足裏から伝わる泥の粘り気、空気の僅かな流れ、木々の擦れる音。脳が受け取る情報が、一切のノイズなく綺麗に整理されていく感覚。
1.03倍になった身体に、さらに1.03倍の恩恵が重なる。
ただ数字が足されただけじゃない。これまでの泥臭い経験と知識が、より質の上がった肉体という器に注ぎ込まれ、完璧に噛み合っているのだ。
「グルゥゥッ……!」
不意に、正面の茂みから低い唸り声が響いた。
現れたのは、第二階層の殺し屋――『ファングウルフ』だ。
灰色の体毛を逆立て、鋭い牙から涎を垂らしながら、真っ直ぐに俺を睨みつけている。
一ヶ月前。初めてこいつと対峙した時、俺は恐怖で奥歯をガチガチと鳴らし、胃液を吐きそうになりながら無様に泥へ飛び込んだ。
だが、今の俺の心は、自分でも気味が悪いほどに凪いでいた。
恐怖がない。あるのはただ、「あそこから跳んできたら、どう処理するのが一番早いか」という冷徹な計算だけだ。
狼の右肩が沈み込む。
(跳ぶな)
次の瞬間、ファングウルフが地面を蹴り、俺の喉元目掛けて一直線に弾丸のように飛んできた。
一ヶ月前なら、全力で横に転がっていただろう。
だが、俺は転がらない。ポケットの目潰しの砂に手を入れることすらしない。
迫り来る鋭い牙の軌道を完璧に見切り、ほんの「半歩」だけ、右足を後ろに引いて上体を反らした。
ヒュンッ!
鼻先数ミリを、狼の巨体が通り抜けていく。一ヶ月前は偶然の産物だった「ギリギリの回避」が、今は完全にコントロールされた必然の動きになっていた。
俺は一切の無駄な動きなく、すれ違いざまにショートソードを逆手に構え、狼が着地するポイントへ向けて無造作に腕を伸ばした。
ズブリ。
自らの突進の勢いと体重を乗せた狼の首筋が、俺が「置いておいた」だけの剣の刃に深々と突き刺さる。
「キャ――」
悲鳴を上げる間すらなかった。狼はそのまま泥沼に突っ込み、二度痙攣しただけで光の粒子となって消え去った。
戦闘時間、わずか三秒。
俺は剣についた血を払い、足元に転がった魔石を拾い上げた。
かつて命を懸けた死闘は、レベル3の俺にとっては、ただ雑草を刈り取るだけの単調な『作業』へと成り下がっていた。
「……効率が上がりすぎてるな。これなら、一度に三匹来ても無傷で処理できる」
これこそが、能力の向上が生み出す本当の恐ろしさ。
俺がこの1ヶ月で積み上げた経験値が、確実に俺をバケモノへと変え始めている。
その時だった。
「くそっ! 足場が悪い、囲まれるぞ!」
「盾を構えろ! いや、泥で踏ん張りが利かない……っ!」
奥の通路から、ひどく焦った人間の怒声と、泥を激しく跳ね飛ばす足音が聞こえてきた。
岩陰からそっと顔を出すと、三人組の探索者パーティーが、必死の形相でこちらへ逃げてくるのが見えた。
見覚えがある。装備の質からして、平均的なレベル3のベテラン探索者たちだ。彼らは全身に立派な鉄の鎧を着込んでいるが、それが完全に仇となっていた。重い鎧のせいで泥に足を取られ、機動力を完全に殺されているのだ。
そして、彼らの背後からは――三匹のファングウルフが、舌を出しながら楽しげに獲物を追い詰めていた。
「ギャウッ!」
「うわぁっ!?」
一匹の狼が跳躍し、最後尾の男の肩口に噛みつく。硬い鎧に阻まれて致命傷にはならなかったものの、男は悲鳴を上げて泥沼に倒れ込んだ。
残り二匹が、倒れた男の首を食いちぎろうと左右から迫る。
仲間の二人が剣を振り下ろそうとするが、泥で足が滑り、無様に空を切った。
「ダメだ、やられる……!」
ベテラン探索者たちが絶望に顔を歪めた、その瞬間。
俺は岩陰から音もなく飛び出し、右手に握りしめていた特製の『目潰し袋』を、三匹の狼の中心目掛けて思い切り投げつけた。
パァンッ!!
袋が破裂し、粗塩と強烈な刺激成分を含んだ赤い粉煙が、狼たちの顔面を覆い尽くす。
「キャインッ!?」「ギャウゥゥッ!!」
目と鼻を焼かれた三匹の狼が、探索者たちを放り出してのたうち回る。
俺はその隙を見逃さない。重い鎧を着た連中と違い、俺の装備は汚れた布の服と軽い革鎧だけだ。この1ヶ月間で完全に身体に染み込ませた「泥の上の歩き方」で、スケートのように滑らかにぬかるみを蹴り、一気に距離を詰める。
右の一匹の顎下に剣を突き入れ、脳髄まで一撃で貫く。
剣を引き抜きざまに、身を低くして真ん中の一匹の膝裏の腱を蹴り砕く。崩れ落ちた隙に、頸動脈を深く切り裂いた。
最後の一匹が、粉煙の中でデタラメに爪を振り回す。
だが、レベル3の俺の目には、その動きは止まっているも同然だった。爪を紙一重で躱し、懐に潜り込み、心臓へ刃をねじ込む。
流れるような三連撃。
悲鳴が止み、三匹の狼は一瞬にして光の粒子に変わった。
「…………え?」
泥まみれで倒れ込んでいた探索者の男が、間抜けな声を漏らした。
彼らの目には、一体何が起きたのか理解できなかっただろう。
絶体絶命のピンチに陥ったと思ったら、突然悪臭を放つ泥だらけの男が飛び出してきて、得体の知れない粉を撒き散らし、瞬きする間に三匹の狼を解体してしまったのだから。
俺は剣の血糊を払い、無言のまま泥の中に落ちた三つの魔石を拾い集めた。
そして、袋の中に放り込む。チャリン、と無機質な音が鳴った。
「あ、あの……助けてくれて、ありがとう。君は、一体……?」
探索者の一人が、おずおずと声をかけてきた。
その顔には、命を救われた安堵よりも、目の前の得体の知れない存在に対する「恐怖」が色濃く浮かんでいた。
無理もない。今の俺の身なりは最悪だ。全身泥と魔物の返り血で汚れ、ボロボロの布を纏い、目はただ経験値(魔石)だけをギラギラと追い求めている。
彼らからすれば、英雄というより、薄暗い湿地帯を徘徊する『泥まみれの死神』のように見えたはずだ。
「……気にするな。たまたま、俺の罠の射程に入ってきただけだ」
俺は振り返ることもなく、短くそう答えた。
彼らを助けようという正義感なんて欠片もなかった。ただ、経験値が向こうから歩いてきたから、一番効率のいい方法で刈り取っただけだ。
怯える探索者たちを残し、俺は再び湿地帯の奥へと歩き出した。
先程の三連戦をこなしても、息一つ切れていない。心拍数もすぐに平常に戻った。
(……ダメだな。これじゃあ、時間がもったいない)
俺は歩きながら、忌々しげに舌打ちをした。
俺の処理速度が上がりすぎたのだ。今のレベル3の能力と、極まりきった罠の戦術があれば、このエリアに生息する狼をすべて狩り尽くすのに、半日もかからないだろう。
魔物が新しく湧き直す(リポップする)速度よりも、俺が狩る速度の方が圧倒的に早くなってしまった。つまり、この狩り場はもう、俺にとって「経験値の利回りが悪い、枯れた土地」なのだ。
俺は立ち止まり、さらに奥へと続く、淀んだ空気の漂う下り階段を見つめた。
「……行くしかないか。第三階層へ」
そこは、レベル5の天才である同級生の剣崎たちが、立派な鎧と複数人のパーティーを組んでようやく足を踏み入れるような、強大なオークの生息域。
本来なら、まだレベル3になったばかりの俺が単独で挑むような場所ではない。
だが、俺には来月の「更新日」がある。
この果てしない複利のサイクルを回し続けるためには、より大きく、より危険な経験値の塊を狩り続けるしかないのだ。
「待ってろよ、天才ども。そのふんぞり返った頭を、すぐに泥靴で踏み越えてやる」
俺はショートソードを強く握り直し、未踏の領域である第三階層への階段を、迷うことなく降りていった。




