第3話:泥まみれの30日と、初めての『月次更新』
第二階層の入り口付近、視界を遮るように広がる湿地帯。
鼻を突く腐葉土と泥の匂いが立ち込める中、俺は苔むした岩と同化するように身を潜めていた。
「……」
呼吸は極限まで浅く、心音すらも泥の奥に沈み込ませるような静寂。
視線の先には、二匹のファングウルフがいた。
以前の俺なら、二匹同時に出くわした時点で死を覚悟し、なりふり構わず逃げ出していただろう。だが、今の俺の目は一切のブレなく、奴らの重心の移動だけを冷徹に観察していた。
(右の個体が、わずかに前傾姿勢。左はそれに追従する動き……来る)
二匹の狼が、泥を蹴り上げて同時に跳躍した。
俺は岩陰から飛び出すと同時に、両手に握りしめていた特製の『目潰し袋』を全力で前方に叩きつけた。
中身はただの砂ではない。この1ヶ月間で改良を重ねた、粗塩と、刺激の強い自生植物をすり潰した粉末の混合物だ。
バサァッ! と赤い粉煙が宙に舞う。
「ギャンッ!?」「キャウゥゥッ!?」
空中で顔面から特製パウダーを浴びた二匹の狼は、眼球と鼻の粘膜を焼かれるような激痛に悲鳴を上げ、無様に泥沼へと墜落した。
着地の衝撃で体勢を崩した二匹に対し、俺は一切の容赦なく駆け寄る。
一匹目の首根っこに全体重を乗せて膝を落とし、喉笛にショートソードを突き立てる。そのまま剣を捻って確実に絶命させると、間髪入れずに剣を引き抜き、這いずって逃げようとする二匹目の背中に馬乗りになった。
「死ねっ!」
背骨の隙間を狙い、何度も刃を振り下ろす。
肉を断ち切り、骨を砕く生々しい感触。返り血と泥が顔に跳ねるが、瞬きすらしない。やがて二匹の狼は痙攣を止め、パァンという音と共に二つの大きな魔石に変わった。
「……ふぅ。タイムロス、約十五秒。効率は上がってるな」
俺は泥だらけの手で魔石を拾い上げ、革袋に放り込んだ。
ジャラリ、と重い音が鳴る。袋の中には、今日だけで狩った数十個のファングウルフの魔石が詰まっていた。
レベル2になってから、今日でちょうど30日。
俺はこの1ヶ月間、毎日限界までこの不快な湿地帯に潜り、ひたすらに泥まみれになりながらファングウルフを狩り続けた。
服は泥と血で汚れ、ボロボロの悪臭を放っている。誰が見ても「狂った底辺探索者」にしか見えないだろう。
だが、この不人気エリアで、安全圏から罠と目潰しを駆使するドブネズミのような戦法は、確実に俺に莫大な経験値をもたらしていた。
第一階層でゴブリンを狩っていた頃とは、文字通り桁が違う経験値だ。
「……時間だな。換金して、帰ろう」
空を見上げ、俺は重い足取りでダンジョンの出口へと向かった。
* * *
「おいおい、また随分と派手に泥遊びしてきたな、天馬」
探索者ギルドの換金所に立ち寄った時のことだ。
周囲の探索者たちが俺の悪臭と泥汚れを嫌がって距離を置く中、わざとらしく鼻をつまんで近づいてくる男がいた。
ピカピカに磨かれた新品の銀の胸当て。腰には高価な魔法剣。
俺の同級生であり、先月の20歳の更新で一握りの『レベル5』に到達した天才、剣崎だった。
「お前、まだそんな第一階層みたいなドロドロの格好で戦ってんのか? 俺なんか昨日、パーティーで第三階層のオークを倒してきたぜ。レベル5の身体能力ってのは、ほんと世界が変わるわ」
剣崎は自慢げに剣の柄を叩いてみせた。
彼の取り巻きたちが「さすが剣崎さん」「あの泥ネズミとは住む世界が違いますよ」とヘラヘラ笑う。
「……すごいな、剣崎。俺なんか、まだ第二階層の入り口で精一杯だよ」
俺は適当に頭を下げ、愛想笑いを浮かべた。
以前の俺なら、才能の差を見せつけられて、悔しさで唇を噛みちぎっていただろう。
だが今の俺の心にあるのは、劣等感ではなく、冷たいほどの冷静さだった。
(お前が昨日倒したオークの経験値が、お前のステータスに反映されるのは……『4年と11ヶ月後』だろ?)
心の中で、俺は密かに毒づいた。
どれだけ剣崎がレベル5の身体で強い魔物を倒そうと、彼のステータスは次の25歳の誕生日まで絶対に更新されない。彼は今、圧倒的な才能を持っているが、同時にシステムによって「完全に停滞」させられているのだ。
対して、俺はどうだ。
俺のステータス更新日は――明日の、0時00分。
「じゃあな、泥ネズミ君。あと5年、レベル2のひ弱な身体で怪我しないように頑張れよ」
嘲笑う剣崎に背を向け、俺は換金した金で安物の罠の材料と粗塩だけを大量に買い込み、ギルドを後にした。
* * *
深夜、23時55分。
家賃三万円のボロアパートの自室で、俺はシャワーを浴びて泥を落とし、ベッドの上に正座していた。
壁に掛けられたカレンダーの今日の日付には、赤いペンでぐちゃぐちゃになるほど濃く丸がつけられている。
心臓が、破裂しそうなくらい高鳴っていた。
この1ヶ月。レベル2の身体で、格上である第二階層の魔物を、誰ともパーティーを組まず「ソロ(経験値独占)」で乱獲し続けた。
俺のような凡人が、レベル1の状態で安全なゴブリンを5年間狩り続けて得た経験値と、レベル2の状態で危険なファングウルフを1ヶ月間狩り続けて得た経験値。
果たして、どちらが多いのか。
時計の針が、ゆっくりと進む。
やがて――23時59分59秒から、0時00分へと切り替わった。
『――個体名:天馬駆の【月次更新】を起動します』
『――過去1ヶ月間に蓄積された経験値を清算します』
脳内に無機質なアナウンスが響き渡り、俺の身体を淡い光が包み込んだ。
ドクンッ、と心臓が大きく跳ねる。
細胞が熱を帯び、全身の血管に微電流が走るような、あの独特の感覚。
『――レベルが2から【3】へ上昇しました』
「……っ!!」
光が収まった瞬間、俺は両手を強く握りしめた。
レベル、3。
たった一つ。されど、普通なら5年という途方もない時間をかけなければ上がらない階段を、俺はたった1ヶ月の泥臭い努力で登り切ったのだ。
つまり、俺のこの1ヶ月の命懸けの狩りは、普通の探索者の「5年分の稼ぎ」に匹敵していたということだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、軽くシャドーボクシングのように拳を突き出してみた。
シュッ、と空気を裂く鋭い音が鳴る。
劇的にムキムキになったわけではない。だが、間違いなく昨日までの俺とは違う。先月レベル2になった時に得た「3%」の基礎能力の底上げ。そこに、さらに「3%」が上乗せされたのだ。
1.03掛ける1.03。数値にすれば微々たるものに見えるが、俺の身体の中でそれは確実に「複利」として機能している。
視界の解像度がわずかに上がり、思考のノイズがさらに減った。
自分の筋肉の動きが、より手に取るように理解できる。
「……これなら」
俺は自分の両手を見つめ、暗い部屋の中でニヤリと笑った。
レベル3になったこの身体と理解力なら、罠を張る指先の速度はさらに上がる。狼が跳躍してくる予備動作も、昨日よりさらにくっきりと「視える」はずだ。
つまり、明日からの1ヶ月は、先月よりもさらに早く、さらに安全に、より多くのファングウルフを狩れる。
基礎能力(元本)が上がったことで、稼げる経験値(利子)の効率がさらに跳ね上がる。
これこそが、雪だるま式に膨れ上がる『複利』の真の恐ろしさ。
「さて……来月はレベル4だな。剣崎、お前がそこで足踏みしている間に、俺はさっさとその背中を踏み越えてやるよ」
明日からのさらなる泥まみれの狩りに思いを馳せながら、俺の胸の奥では、底知れない高揚感が熱く燃え上がっていた。




