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第28話:盤面砕きの鉄槌

絶体絶命の包囲網。

 極細の絶対零度の糸が、俺の首の皮膚の数ミリ外側まで迫っていた。


 氷の蜘蛛が八つの目を不気味に光らせ、俺の首を刎ねるための最後にして最も太い糸を、ジリッ、と音を立てて絞り上げようとしたその瞬間。

 俺は、蜘蛛の張った緻密な盤面ルールそのものを根底から破壊するための、極めて単純で理不尽な解答を導き出していた。


 見えない糸を、この重たいハンマーで一本一本叩き切る?

 糸の隙間を躱してアクロバティックに脱出する?

 そんなリスクの高い無駄な真似はしない。


 俺のレベル15の瞳は、俺を囲む数百本の糸が『どこを支点として結ばれているか』を完全に解析し終えていた。

 空間に張られた見えない糸は、当たり前だが宙に浮いているわけではない。そのすべてが、周囲の氷の絶壁、あるいは俺の足元の分厚い氷の床に強固に接着され、ピンと張り詰められているのだ。


「……ならば、その『支点(土台)』ごと消し飛ばせばいい」


 俺は蜘蛛にも、俺の首に迫る糸にも一切目もくれず、自らの足元の『分厚い氷の床』に向かって、右手の『屍冠の紅槌』を全力で振り下ろした。

 糸を避ける必要すらない。俺の腕が振り下ろされる軌道上に、糸は一本も張られていなかったからだ。蜘蛛は『獲物が逃げるための空間』に糸を張っていたのであって、『足元の床をハンマーで全力でぶん殴る空間』など想定しているはずもなかった。


 俺のフルパワーの筋力と、数百キロの鉄塊の質量が、一転の曇りもなく氷の床へと叩き込まれる。


 ――ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!


 クレバスの底で、規格外の爆弾が炸裂した。

 紅いハンマーの絶対的な破壊力が、何万年もの間凍りついていた分厚い氷の地盤を、原子レベルで完全に粉砕する。

 凄まじい衝撃波が地中深くで爆発し、逃げ場を失った圧力が、俺の周囲数十メートルの氷の床と絶壁の根元を、火山が噴火したかのように爆発的に上方へと隆起・粉砕させた。


「ギ、チィィィィッ!?」


 頭上の暗闇から、蜘蛛のパニックに陥った絶叫が響き渡る。

 当然だ。糸を強固に固定していた氷の壁や床が根こそぎ吹き飛んだことで、蜘蛛の完璧なウェブは一瞬にして崩壊したのだ。

 ピンと張り詰められていた張力を完全に失い、絶対零度の極死の檻は、ただのヒョロヒョロとした脆い氷の屑に変わった。


 それだけではない。

 巨大な蜘蛛自身が張り付いていた絶壁の表面までもが、俺のハンマーの衝撃波の余波によってひび割れ、パラパラと崩落を始めた。


 足場と糸の張力を同時に失い、体長四メートルの巨大な蜘蛛が、無様な姿勢のまま空中に放り出される。


「罠師としては三流だな」


 爆発的に隆起し、宙を舞う無数の巨大な氷の破片。

 俺はその破片の一つを強靭な脚力で蹴りつけ、空中に放り出された蜘蛛のさらに『上空』へと、音もなく跳躍した。


 レベル15の異常な身体制御は、空中の足場のない状態でも、俺の重心を完璧に保ち続けていた。

 蜘蛛の八つの目が、自分の頭上に影を落とす俺の姿を捉え、絶望に見開かれる。

 口から苦し紛れに絶対零度の糸を吐き出そうとするが、遅すぎる。


 俺は空中で身体を反転させ、自由落下のエネルギーと共に、両手で握りしめた屍冠の紅槌を、蜘蛛の巨大な頭胸部に向かって真っ直ぐに振り下ろした。

 無音の、そして不可避の重力落とし。


 ――メチャァァァァァァァァァァッ!!!!!


 空中で、鈍く、ひどく生々しい破砕音が響き渡った。

 紅いハンマーの理不尽な質量が、氷晶の蜘蛛の硬い装甲をガラス細工のように容易く叩き割り、その奥にある生命の核ごと、頭胸部を完全にすり潰す。

 凄まじい破壊の余波で、蜘蛛の八本脚が空中で四散し、青白い体液が放射状にブチ撒けられた。


 ズズゥンッ、と地鳴りを立てて、頭を失った蜘蛛の巨体がクレバスの底に叩きつけられる。

 俺もまた、音もなくその傍らに着地した。

 次の瞬間、蜘蛛の残骸はパァンッと眩い光の粒子となって霧散し、ブリザードの中へと溶けていった。


 あとに残されたのは、俺が振り抜いた傷一つない紅いハンマーと、床に転がった『一つの巨大な魔石』だけだ。

 それは、先ほど蜘蛛が俺の獲物(サイの群れ)から横取りし、吸い尽くした莫大な経験値がすべて上乗せされた、極めて濃密で、どす黒いほどの冷気を放つ極上の結晶だった。


「……手間が省けた」


 俺はハンマーを腰のホルダーに固定し、その巨大な魔石を素肌のまま拾い上げた。

 そして、強く握りしめる。


 ――ズズズズズッ……!!


 俺の掌の皮膚が、毛細血管が、細胞のすべてが、極上の栄養素を求めて歓喜に震える。

 蜘蛛が溜め込んでいた純度100%の莫大な経験値が、乾ききったスポンジに水が染み込むような勢いで、俺の体内へと直接吸収されていく。

 圧倒的な冷気が体内に入った瞬間、爆発的な熱量へと変換され、血流に乗って全身を暴力的に駆け巡る。


 やがて、魔石は完全にエネルギーを失い、脆い灰となって指の隙間からこぼれ落ちた。

 俺は深く息を吐き出す。

 肺の奥底から狂ったような力と熱が満ち溢れ、俺の器の『底なしのバケツ』に、さらに莫大なエネルギーが圧縮されて溜まっていくのを感じる。


 月末のシステム更新まで、あと数日。

 限界まで注ぎ込まれたこの熱量が、更新の瞬間にどのような『暴発』を起こし、俺の肉体をどこまで書き換えるのか。

 その未知への飢餓感が、俺の唇を自然と歪ませた。


 俺は灰を払い落とし、再びクレバスの奥深くへと視線を向ける。

 罠も、環境も、他者のルールも、すべてを圧倒的な質量で叩き潰し、その残骸を啜る。

 満腹感など永遠に訪れない。俺は紅いハンマーの柄を軽く叩き、底知れない暗闇へと向かって再び静かに歩き出した。

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