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第27話:絶対零度の蜘蛛の囲い

極大氷穴の深層、クレバスの底。

 完全に静止した凍てつく暗闇の中で、俺は崩れ落ちた灰の魔石からゆっくりと指を離した。


 俺が氷の橋ごと奈落へ叩き落とした、二十頭の巨大なサイの群れ。そのうちの三分の一が、すでに何者かの手によって莫大な経験値を吸い尽くされ、空っぽの灰と化して氷の瓦礫の間に散乱している。


「…………」


 俺は姿勢を一切崩すことなく、腰のホルダーに固定された『屍冠の紅槌』の柄にそっと右手を添え、呼吸と心音を極限まで殺した。

 レベル15の器がもたらす異常な視覚、聴覚、触覚。そのすべてを全開にして、吹き荒れるブリザードすら届かないこの静寂の空間を索敵する。だが、どこにも巨大な魔物の姿はない。足音もない。それどころか、空気の微細な振動すら感じられない。


 だが、間違いなく『同業者』はそこにいる。

 俺が来るよりもずっと前からこの奈落の底を完全に自らのテリトリーとして支配し、上から落ちてくる獲物を音もなく横取りし、そして今――俺自身をも『極上の餌』として品定めしている、見えざる捕食者。


 俺はゆっくりと、ミリ単位の動作で顔を上げ、漆黒の頭上を見つめた。

 何もない。鏡のようにツルツルに凍りついた氷の壁の凹凸と、降り積もった瓦礫の影があるだけだ。

 だが、レベル15へと羽化した俺の肌が、このマイナス三十度の極寒の中で、さらに異質で鋭利な『冷気の線』を捉えていた。


 俺の顔のすぐ横、わずか数センチの空間。

 そこには、光すら一切反射しない、完全に透明な『極細の氷の糸』がピンと張り詰められていた。


 一本ではない。

 右に三本。左に五本。俺の足元、背後、そして頭上。

 気づけば俺の周囲は、絶対零度を帯びた透明な氷の糸によって、前後左右、上下の退路を完全に塞がれていた。一歩でも動けば、その極細の刃が迷彩外套ごと俺の肉体をサイの目切りにするだろう。

 不可避の極死のウェブ


 そして、その糸の束が収束する遥か頭上の暗闇の奥から。


 ――カチ、カチカチカチ……。


 氷同士が擦れ合うような、ひどく耳障りで嫌な音が響いた。

 氷の絶壁に完全に同化していた巨大な影が、ゆっくりと、その悍ましい八本脚の輪郭を露わにする。

 体長四メートルを超える、全身が透明な氷の結晶で構成された巨大な蜘蛛の魔物だ。


 俺は、こいつの名前も正確な生態も知らない。

 誰も足を踏み入れたことのない未知の階層なのだから、人間社会にこいつの情報など一つも出回っているはずがないのだ。


 だが、そんな事前知識など、今の俺には全く不要だった。

 五年間、泥水をすすりながら生死の境を這いずり回ってきた経験と、レベル15へと跳ね上がった異常な知覚能力が、現場に残された僅かな痕跡からこいつの『手口』を完全に解析し終えていたからだ。


 転がっていた空っぽの魔石。そして、空間に張り巡らされたこの見えない氷の糸。

 こいつは、この絶対零度の糸を『ストロー』のように使い、安全圏の壁から魔石に突き刺して、経験値のエネルギーだけをズルズルと啜っていたのだ。俺が狩ったサイの群れも、そうやって横取りされた。


 名前などどうでもいい。ただの、姑息な罠を張る虫けらだ。


 氷の蜘蛛の八つの目が、微かな青白い光を帯びて俺を見下ろしている。

 それは明確な『捕食者』の目だった。上から降ってきた大量の魔石の山。そして、その山にのこのこと降りてきた、経験値の塊のような人間。

 蜘蛛にとっては、俺などただの極上のデリバリーに過ぎない。


 俺は動かない。いや、動けない。

 少しでも身体を揺らせば、俺の肉体は見えない糸によって深々と切り裂かれる。


 蜘蛛は俺に向かって直接飛びかかってはこなかった。

 代わりに、絶壁に張り付いたまま、自らの口から新たな透明な糸を音もなく吐き出し、俺の周囲の空間をさらに細かく、じりじりと狭め始めた。


スッ……。

 俺の左肩を掠めた一本の糸が、迷彩外套の分厚い袖口を一切の抵抗なくスパンッ、と切断した。

 切り離された布の切れ端が氷の床に落ちるよりも早く、パキッと甲高い音を立てて凍りつき、空中で砕け散る。


 ……なるほど。ただの物理的な切れ味ではないらしい。

 布切れが一瞬で凍結破砕した現象を見るに、あの糸そのものが、この階層のマイナス三十度とは次元が違う異常な冷気を帯びているのだろう。

 もし少しでも生身の肌に触れれば、肉が切れると同時に冷気が傷口から侵入し、瞬時に血管を凍結させて細胞ごと腐り落とすに違いない。

 身をもって試す気は一ミリもないが、おそらくそういう魔物特有の致死の罠(猛毒)だ。



 蜘蛛はそれを俺の身体の数ミリ外側に、緻密な計算で幾重にも張り巡らせていく。


 獲物がその見えない刃の恐怖に耐えきれず、パニックを起こして逃げ出そうとした瞬間。自らの勢いで、自らの身体を無数の肉片に変えるのを待つ。

 直接手を下さず、獲物の自滅を誘う極めて陰湿な狩り。

 俺という経験値のバケツは、今や完全に蜘蛛の盤面ルールに絡め取られていた。


 回避スペースが、残り数ミリ単位で失われていく。

 右腕はもう一ミリも動かせない。首を左に傾ければ、喉笛をかき切られる。

 絶体絶命の包囲網。普通の探索者ならば、恐怖と寒さで発狂し、自ら糸に飛び込んで死を選ぶか、泣き叫びながら無意味な魔法を乱れ撃って自滅するだろう。


 だが、俺の思考は、この極寒の氷穴よりもなお冷たく、研ぎ澄まされていた。


「……なるほど。見事な手際だ」


 俺は迷彩外套のフードの下で、薄く笑った。

 焦りなど一ミリもない。心拍数すら、先ほどから全く乱れていない。

 俺のレベル15の瞳は、俺を囲む数百本の糸の『張力』と、それがどこを支点として結ばれているのか――その物理的な『構造』を、すでに完全に把握し終えていた。


 蜘蛛の八つの目が、俺のその不気味な余裕に微かな戸惑いの色を浮かべる。

 恐怖で暴れ回るはずの獲物が、氷の彫像のようにピタリと静止したまま、薄気味悪い笑みを浮かべてこちらを見上げているのだから。

 蜘蛛は苛立ちを覚えたのか、俺の首を刎ねるための最後にして最も太い糸を、ジリッ、と音を立てて絞り上げようとした。


 俺は、腰のホルダーに固定された『屍冠の紅槌』の柄を、右手の指先だけで静かに、だが極めて強固に握り直した。


 見えない糸を、この重たいハンマーで一本一本器用に叩き切る?

 あるいは、糸の隙間をアクロバティックに躱して脱出する?

 そんなリスクの高い無駄な真似はしない。


 蜘蛛が俺の首を刎ねようと、最後の一本を引いたその瞬間。

 俺は、蜘蛛の張った緻密な盤面ルールそのものを根底から破壊するための、極めて単純で『理不尽な解答』を、すでに導き出していた。

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