第24話:極大氷穴の吸血鬼と、無音の重力
第六階層『極大氷穴』は、ただそこに立っているだけで人間の生命力をゴリゴリと削り取っていく絶対死の空間だ。
マイナス三十度を下回る暴力的な冷気が絶え間なく吹き荒れ、視界は常に狂ったようなブリザードによって白く塗り潰されている。吐く息は瞬時に凍りついて細かな氷の結晶となり、顔の皮膚に張り付いては体温を奪っていく。
普通の探索者であれば、一歩足を踏み入れた瞬間に肺が凍傷を起こし、数十分と経たずに雪だるまに変わるだろう。
だが、レベル15へと到達し、人間という生物の設計図を完全に書き換えた今の俺にとって、この極寒は『少し肌寒い程度の環境データ』でしかなかった。
心拍数を意図的に落とし、体表の毛細血管への血流を完全に遮断する。変温動物のように体内のコアにだけ異常な熱を留めることで、俺は一切の防寒具を持たず、薄っぺらい迷彩外套一枚でこの氷の地獄に完全に適応していた。
冷徹な狩りへとシフトした俺が最初にやったのは、群れからはぐれた氷の狼――フロスト・ファングの暗殺だった。
奴が俺の隠れる壁の真下を通り過ぎた瞬間、足元の氷を蹴って無音で跳躍。分厚い氷の装甲がない無防備な下顎の裏から、紅いハンマーの平らな打撃面を真っ直ぐに突き上げた。
大きく振りかぶることはしない。ただ、己の筋力で数百キロの鉄塊を真上へ『押し上げる』だけのアッパー。風切り音すら鳴らさないその一撃は、狼の脳髄を衝撃波でドロドロにすり潰し、悲鳴を上げる隙も与えずに即死させた。
絶命したフロスト・ファングの巨体は、氷の床に崩れ落ちるよりも早く、パァンッと弾けるように青白い光の粒子となって空中に霧散した。
この世界の魔物は、命を散らすと同時に光となって消滅する。あとに残るのは、カランと虚しい音を立てて氷の上に落ちた魔石だけだ。
「……肉や血の匂いを囮に使うのは無理、か」
俺は極大氷穴のさらに奥、巨大なクレバス(氷の裂け目)の底へと続く氷の断崖に張り付きながら、暗闇の中で静かに思考を回した。
ツルツルに磨き上げられた鏡のような氷の絶壁。だが、筋肉の繊維一本一本を完全に制御できる俺の身体は、僅かな氷の凹凸に指と靴底を引っ掛けるだけで、重力を無視したかのようにピタリと壁面に張り付くことができた。
狙うのは、頭上の遥か高み、氷穴の天井裏の暗闇に群生する巨大な魔物、『アイス・ヴァンパイア(氷血蝙蝠)』だ。
広げた翼の長さは三メートルを優に超え、全身が針のように鋭く硬い氷の毛で覆われている。そいつらには視覚という概念が存在しない。代わりに、喉から発する超音波の反響と、獲物の『熱』や『血の匂い』を感知して襲いかかってくる、生きたソナー兵器。
もし一匹が敵と交戦して甲高い警告の鳴き声を上げれば、天井裏に潜む数百、数千という仲間が一斉に目を覚まし、上空から雨あられのように氷の針を降らせてくる。だからこそ、空中の敵に向かって力任せにハンマーを振り回して暴れるのは下策なのだ。
だが、魔物の死体が残らない以上、獣の肉を撒き餌にすることはできない。
ならば、どうするか。
答えはひどく単純だった。
「……一番身近に、極上の餌があるじゃないか」
俺は迷彩外套の下から左手を取り出し、腰のサバイバルナイフで自らの掌にスッと浅い切り傷を作った。
ツー、と赤い血が滲み出る。
俺はクレバスの底の氷に、その自らの血を数滴だけポタポタと垂らした。マイナス三十度の極寒の世界において、レベル15の俺の体内から滴り落ちたばかりの熱い血は、僅かな湯気を立てながら強烈な『生命の匂い』を周囲に撒き散らす。
十分な匂いが出たのを確認すると、俺は左手の筋肉をキュッと収縮させた。
傷口の周囲の細胞が強制的に締め付けられ、出血が完全にストップする。ポーションすら使う必要のない、暴力的なまでの身体制御。
俺は断崖の影に完全に同化し、再び心拍数を極限まで落としたまま、暗闇の中でじっと上空を窺った。
極寒の氷穴に漂う、新鮮で温かい人間の血の匂い。
――バサッ、バサッ。
数分と経たずに、頭上の暗闇から重く不気味な羽音が聞こえてきた。
コウモリの一匹が匂いを嗅ぎつけ、滑空しながらクレバスの底へと降りてくる。
奴は俺の垂らした血の跡に着地し、鼻先の奇怪な器官をヒクヒクと動かして、凍りついた数滴の血をジュルリと舐め取った。
仕留めるチャンスだ。
だが、俺は断崖に張り付いたまま、まだピクリとも動かない。
奴らは『音』と『空気の振動』に異常なまでに敏感だ。俺が空中でハンマーを振り下ろそうとすれば、数百キロの鉄塊が空気を引き裂く凄まじい風切り音が一瞬で探知され、回避される。
「……ここだな」
俺はゆっくりと、音を立てないように極めて慎重な動作で、あらかじめナイフで削っておいた『拳大の氷の塊』をポケットから取り出した。
そして、コウモリのいる位置から数十メートル離れた、クレバスの『反対側の壁』に向けて、力一杯その氷の塊を投げつけた。
――パキィンッ!!
静寂の氷穴に、氷の塊が分厚い壁に激突して砕け散る、甲高い破砕音が反響した。
アイス・ヴァンパイアの巨大な耳がビクッと反応し、血を舐めるのを中断する。そして、音のした方向――つまり、俺が張り付いているのとは『正反対の方向』へと、猛然と首を向けた。
奴の超音波ソナーの意識が、完全に俺の投げた氷の破片の音に気を取られた瞬間だ。
そのコンマ数秒の絶対的な隙を、俺は見逃さない。
「……っ」
俺は音もなく断崖を蹴り、コウモリの『背後』、その真上へと跳躍した。
奴が完全に意識を壁に向けている、絶対的な死角からの強襲。
俺の身体は自由落下でコウモリの頭上に迫る。
そして、両手で固く握りしめた『屍冠の紅槌』を――一切、振り回さなかった。
ただ純粋な『落下エネルギー』と、『ハンマー自体の理不尽な数百キロの質量』だけを乗せて、重力に従って真っ直ぐに奴の頭頂部へと落とし込んだのだ。
スイングの風切り音はゼロ。筋肉の力も使っていない。
だが、バケモノの角から削り出された絶対硬度の鉄塊が、俺の自重と共に自由落下するそのエネルギーは、スイングなどしなくても十分に致死量を超えている。
――メチャァッ!!
超音波による回避行動を取る暇すら、奴にはなかった。
紅いハンマーの理不尽な質量が、アイス・ヴァンパイアの硬い頭蓋骨を、まるで熟れすぎた果実を靴底で踏み潰すかのように、極めて容易く粉砕した。
断末魔の悲鳴も上がらない。仲間を呼ぶ警告音を発する喉すらも、首の骨ごと完全にひしゃげている。
ズドォン、と重い音を立てて絶命した巨大なコウモリの体は、次の瞬間にはパァンッと弾け、淡い光の粒子となって虚空へと溶けていった。
残されたのは、俺のハンマーと、床に転がった一つの冷たい魔石だけ。
「……一体目」
俺は魔石を拾い上げ、素手で握り潰す。
骨の髄まで凍りつくような、それでいて甘美な経験値の奔流が体内へと一気に流れ込んでくる。レベル15になってもなお、確かな熱量を持って俺の器を満たしていく極上の経験値。
俺は冷たい氷の壁を背に、上空の暗闇を見上げた。
コウモリの群れは、まだ天井裏に無数にぶら下がっているはずだ。遥か下方のクレバスの底で、仲間が一匹、音もなく頭を潰されたことなど露知らずに、微睡んでいる。
「自分の血数滴で、経験値が釣れるなら安いもんだ」
死体が残らないなら、俺自身が餌になればいい。
俺は左手の筋肉を少しだけ緩め、再び数滴の血を氷の上に垂らした。
強者が弱者を喰らうのではない。
周到に準備された『システム』が、ただ機械的に獲物を処理していく。
極上の経験値を独占するための、安全で、冷酷で、ひどく退屈な大量虐殺が、今ここに始まった。




