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第23話:紅の凶槌と、極寒の氷穴

第五階層の絶対者の角を持ち込んでから、ちょうど五日後。

 俺は約束通り、探索者街の裏通りにあるガンテツの工房を訪れていた。


「……待ってたぜ、兄ちゃん」


 カウンターの奥から顔を出したガンテツは、五日前よりもさらにゲッソリと頬をこけさせ、目の下にはどす黒いクマを作っていた。だが、その瞳だけは、極上の麻薬でもキメたかのように異様な熱を帯びてギラギラと血走っている。

 職人としての限界を超えた徹夜作業。その狂気的な熱量のすべてが、カウンターの上に無造作に置かれた『一つの鉄塊』に注ぎ込まれていた。


 装飾など一切ない。ギミックもない。

 ただ、黒鋼で打たれた太く短い柄の先に、あの『屍冠の角』を極限まで圧縮して削り出した、血のように赤く禍々しい直方体の重りが据え付けられているだけ。

 美しさの欠片もない、ただただ「理不尽な質量と絶対的な硬度」だけを追求した、純粋な暴力の結晶。


「シラカンのハクエンの角……お前の言う通り、削りカスをもらっただけでもお釣りが来るくらい、ありえねえ硬さと密度を持ったバケモノ素材だった」


 ガンテツが、ひどく掠れた声で笑う。


「俺の持てるすべての技術と炉の熱を使って、そいつを『ただの打撃面』として極限まで圧縮してやった。どんな装甲だろうと、正面から粉砕できる絶対の硬度だ。だが……」


 そこでガンテツは言葉を切り、カウンターの上の紅いハンマーを忌々しそうに睨みつけた。


「硬さと密度を圧縮しすぎたせいで、重さが完全にイカれちまった。俺じゃ両手で引きずることしかできねえ。一流の探索者でも、持ち上げるのがやっとだろう。ましてや、これを実戦で、空中で『振る』ことなんて、人間には絶対に不可能だ。……お前、本当にこれを扱う気か?」

「ああ。最高の仕事だ、ガンテツさん」


 俺は迷彩外套の隙間から右手を伸ばし、その紅いハンマーの柄を片手で無造作に握り込んだ。


「……なっ!?」


 ガンテツが息を呑む。

 俺は片手で、数百キロはあろうかというその異常な質量を軽々と持ち上げ、手首のスナップだけで空中で二、三度、軽く素振りをしてみせた。


 ブォンッ!! ブォォォンッ!!!


 ただ軽く振っただけだというのに、紅いハンマーが空気を引き裂く凄まじい風圧が発生し、工房の壁に掛けられていた工具の数々がガシャガシャと音を立てて落下した。


「……完璧だ。俺の全力に、余裕で耐えられそうだ」


 俺は満足げに頷き、紅いハンマーを腰の専用ホルダーへと固定した。

 化け物へと羽化うかした今の俺の出力に、一切のロスなく応えてくれる最強の相棒。


 常識外れの腕力を目の当たりにし、完全に言葉を失っているガンテツを残して、俺は工房を後にした。

 向かう先はただ一つ。極上の経験値が待つ、未知の深淵だ。


     * * *


 第五階層、狂獣の森。

 つい先日まで俺が泥水をすすりながら隠密行動を取っていたその階層を、俺はただ真っ直ぐに歩いて横断した。

 レベル20へと到達した俺という『個』の質量が放つ無意識のプレッシャーに、森の主クラスの魔物たちすらも本能的な恐怖を覚え、俺の進む道から蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。


 邪魔者は一匹もいなかった。

 森の最奥、最深部にポッカリと口を開けた巨大な縦穴。俺は迷うことなく、その暗闇の底へと飛び降りた。


 ――ヒュゥゥゥゥゥゥ……ッ。


 空気が変わる。

 落下していくにつれて、肌を刺すような冷気が全身を包み込み、呼吸をするたびに肺が凍りつくような痛みを伴う。

 そして、着地したその場所は、誰も到達したことのない全く新しい世界だった。


【第六階層:極大氷穴】


 見渡す限り、鏡のように磨き上げられた分厚い氷の壁と床が続く、広大な地下空洞。

 気温は、おそらくマイナス三十度を下回っている。吐く息は一瞬で白い結晶となって空中に舞い散り、吹き荒れるブリザードが視界を白く染め上げている。

 足元はツルツルに凍りついており、まともに立つことすら難しい。さらに厄介なことに、一歩足を踏み外せば、底の見えない真っ暗なクレバス(氷の裂け目)がそこかしこに口を開けている、絶対的な死の環境。


 もし普通の探索者がここへ来れば、数十分で凍死するか、足場を滑らせてクレバスへ滑落して死ぬだろう。防寒具を着込めば、今度は魔物と戦う機動力が失われる。

 だが、俺は迷彩外套の下で、薄く冷たい笑みを浮かべていた。


「……最高だな」


 俺は脳内で「血液の循環を極限まで抑えろ」と命令を下した。

 レベル20の強制的な身体制御。心臓の鼓動が極端に遅くなり、体表へ向かう血流が完全に遮断される。熱を外に逃がさない、変温動物のような究極の燃費モード。

 凍傷になどならない。寒さも感じない。俺の体内には、レベル20の有り余る異常な熱が、コアのように静かに燃え続けているからだ。


 さらに、鏡のような氷の床。

 俺が足を踏み出しても、ツルリと滑ることは一切なかった。筋肉の繊維一本一本を完全に支配する俺の重心制御は、氷の上であろうと平地と全く同じように、一ミリのブレもなく歩行することを可能にしていた。


「心音もゼロ。足跡も残らない。迷彩外套の保護色も、ブリザードの中で完璧に機能している」


 俺は氷の上を、まるで幽霊のように音もなく滑るように歩き出した。

 普通の人間にとっては生存すら不可能な地獄。だが、完全に人間を辞めた俺にとっては、自分だけが一方的に動ける「最高のビュッフェ会場」でしかなかった。


 十分ほど氷の回廊を進んだ時。

 俺のレベル20の聴覚が、ブリザードの風音に混じる『極めて異質な摩擦音』を捉えた。


 ピタリと足を止める。

 俺の背後、たった五メートルの距離。

 鏡のような氷の壁から、完全に周囲の景色に擬態していた「それ」が、音もなく剥がれ落ちた。


 体長五メートル。全身が透明な氷の結晶で構成された、巨大なカマキリ。

 第六階層の魔物、『クリスタル・マンティス(氷河の水晶蟷螂)』だ。


 そいつは氷の足場をスケート選手のように滑らかに滑り、完全に俺の死角へと回り込んだ。

 そして、触れたものを絶対零度で凍結させる、鋭く巨大な氷の鎌を、俺の首筋へと向けて音もなく振り下ろしてきた。

 完璧な奇襲。見事な暗殺だ。


 だが、遅すぎる。

 俺の目には、その鎌の軌道が、欠伸が出るほどのスローモーションに見えていた。


「……試させてもらうぞ」


 俺は回避行動すら取らなかった。

 摩擦ゼロの氷の上で、上半身の捻りだけでコマのように完璧に反転する。

 そして、腰のホルダーから引き抜いた『屍冠の紅槌』を、右腕のレベル20のフルパワーを乗せて、振り下ろされる水晶の鎌に向かって真横から全力で振り抜いた。


 ――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!


 極大氷穴に、爆弾が直撃したかのような凄まじい轟音が響き渡った。

 紅いハンマーと氷の鎌が激突した瞬間。

 競り合う時間など、コンマ一秒も存在しなかった。


 絶対的な硬度を誇るはずの水晶蟷螂の鎌が、まるで薄いガラス細工のようにあっけなく粉砕される。

 紅いハンマーはそのまま一切の減速すらすることなく、水晶蟷螂の胸部の分厚い氷の装甲を容易く食い破り、体長五メートルの巨体を、上半身ごと跡形もなく文字通り『粉砕』したのだ。


 パラパラと、美しい氷の粉塵となって空中に散っていく水晶蟷螂の残骸。

 俺は振り抜いた紅いハンマーの打撃面を確認したが、傷一つ、冷気による結露一つついていない。俺の異常な出力による凄まじい反作用も、ガンテツの打った黒鋼の柄が完璧に吸収しきっていた。


「……すげえな。冗談みたいに軽い」


 圧倒的な質量による、理不尽なまでの破壊力。

 崩れ落ちた氷の残骸の中から、第五階層の魔石よりもさらに澄み切った、強烈な冷気を放つ第六階層の魔石がコロンと転がり出た。


 俺はそれを素手で拾い上げ、強く握りしめる。

 直後、血管を凍らせるような冷たい、だがひどく濃密な経験値の奔流が、俺の体内へと一気に流れ込んできた。


「ははっ……美味いな」


 俺は空っぽになった魔石の残骸をクレバスへと蹴り落とし、迷彩外套のフードの奥で、ひどく冷酷で楽しげな笑みを浮かべた。


 滑らない。寒くもない。

 俺の姿は見えず、どんな装甲だろうと一撃で粉砕できる最強の武器がある。


「……ここは、誰にも邪魔されない最高の狩り場だ」


 絶対的な力を手に入れた化け物が、新たな氷の階層で。

 人間社会の常識も、生態系のルールも全て無視した、静かで理不尽な暴食を再び開始した。

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