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第22話:月次更新と、化け物のハンマー

探索者街の裏路地。

 陽の光もろくに届かない、カビと油の匂いが染み付いた、家賃だけが取り柄の四畳半のアパート。

 壁の薄いその部屋で、俺は備え付けのひび割れたシャワーを頭から浴びていた。


 赤茶けた錆混じりの冷水が、俺の身体にこびりついた第五階層の底なし沼の泥と、絶対者である屍冠の白猿から浴びた大量の返り血を洗い流していく。


 足元のプラスチック製の排水溝へと吸い込まれていく赤黒く濁った水を見下ろしながら、俺は自身の身体に起きている凄惨な痛みを静かに観察していた。


 白猿の丸太のような豪腕に叩き潰され、一度は完全に砕け散ったはずの肋骨や、肉がごっそりと削げ落ちて白い骨が露出していた太もも。それらは、数千万円分の中級ポーションを大量にがぶ飲みしたことで、強引に細胞分裂を促進させられ、外見上はかろうじて塞がっている。しかし、最高級ポーションとは違い、強引な修復に伴う鈍い痛みが、骨の髄で未だにくすぶっていた。

 今の俺の体内には、そうしたポーションの副作用などという生易しいものではない、もっと根本的で暴力的な熱が燻っていた。


 シャワーを止め、色褪せたペラペラのタオルで雑に身体を拭く。

 軋む万年床のベッドの上であぐらをかき、俺はただじっと、壁に掛けられた秒針のズレた安物の時計を見つめていた。


 俺の目の前の小さなちゃぶ台の上には、今回の極上のビュッフェから持ち帰った二つの成果が置かれている。

 一つは、第五階層の絶対者から搾り取った、完全に空っぽになって灰のように崩れかけている虹色の魔石の残骸。

 もう一つは、血のように赤く禍々しい光を、まるで自ら呼吸するかのように明滅させているドロップアイテム、屍冠の角だ。


チク、タク。

 時計の秒針が、深夜零時へと近づいていく。


 世間の探索者どもは、五年に一度のペースでしか『壁』を越えられないらしい。魂の限界だとか、システムの安全装置だとか、そんな御託はどうでもいい。

 俺にとって重要なのは、俺の身体だけがたった『一ヶ月』という異常な周期で、次の次元へと変態できるという事実だけだ。

 なぜ俺だけがこんなにも貪欲に経験値を喰らい尽くし、毎月のように強制的な書き換えを起こせるのか。世界の理から外れたエラーか、何かのバグか。理由は知らないし、興味もない。

 ただ、俺の器が今、極上のバケモノを喰らってパンパンに膨れ上がり、新たな『暴発』を待ちわびている。それだけで十分だ。


 


 ――カチリ。

 秒針が、十二の数字と重なった。


 部屋の空気が、一瞬だけピンと張り詰めたように感じた。

 月が替わったその瞬間。俺の網膜の裏側に、無機質で淡い光を放つウィンドウが展開された。


 表示された文字を見て、俺は短く息を吐いた。


【 レベル:10 】


 五年間、第一階層の泥水をすすり、ゴブリンやオークを何万匹と暗殺し続けて、ようやく到達した数字。

 だが、その10という絶対的だったはずの数字が、まるで致命的なバグを起こしたかのように、砂嵐のようなノイズを伴って狂ったような回転を始めたのだ。


 下層の魔物をどれだけ狩っても、もはや砂漠にスポイトで水を垂らすようにピクリとも動かなくなっていた俺の数字。

 それが今、第五階層の生態系の頂点たる絶対者の経験値を丸飲みしたことで、限界の底をぶち破って跳ね上がっていく。


 11、12、13……。

 凄まじい勢いで回るスロットの数字。

 そして、その回転は、ひとつの区切りの数字でピタリと停止した。


【 レベル:15 】


 直後だった。

 ドォォォォォンッ!! という、至近距離で手榴弾が爆発したかのような凄まじい耳鳴りが、俺の脳髄を激しく揺らした。


「……っ、あ……!?」


 俺は声も出せず、ベッドの上でうずくまり、汚れたシーツを両手で強く握りしめた。

 熱い。身体の中が、文字通り煮えたぎるマグマに直接浸されたように熱い。

 レベル10になった時に味わった強化という生易しい感覚ではなかった。これは、人間という脆弱な生物の設計図を完全に破り捨て、細胞単位から強制的かつ暴力的な再構築を行うための、恐るべき破壊と創造のプロセスだった。


 骨の密度が、人間の限界を遥かに超えてミシミシと音を立てて圧縮されていくのがわかる。中級ポーションの強引な修復による骨の歪みが、このレベルアップの暴力的な再構築によって、さらに激痛を伴って矯正されていく。

 筋肉の繊維が一度細胞レベルでちぎれ、鋼線すらも凌駕する未知の強靭な生体組織へと編み直されていく。

 血管を流れる血液が異常な速度で沸騰し、痛覚神経が許容量を超えて完全に焼き切れる。


「ガ、ァァ……ッ、ハァッ、ハァッ……!!」


 俺はベッドの上でのたうち回りながら、それでも絶対に気を失うことだけは拒絶した。

 歯の根が噛み砕けそうなほど食いしばり、自らの肉体が人間ではない何かへと羽化していくその全工程を、意識の底に焼き付け続けた。

 やがて。永遠にも感じられた数十分の地獄の高熱のあとに訪れたのは、恐ろしいほどの静寂だった。


「…………」


 俺は、汗一つかいていない冷え切った身体をゆっくりと起こし、自らの左胸に手を当てた。


 ……鼓動がない。


 いや、完全に死んで止まっているわけではない。俺の心臓は、俺という脳の主が動けと明確な意志を持って命令しない限り、勝手に血液を送り出す必要がなくなっているのだ。

 試しに呼吸を止めてみる。一分、五分、十分。

 肺が酸素を求める痙攣も、息苦しさも一切感じない。体内の細胞が完全に最適化され、外界からの酸素供給がなくとも長時間活動できるほどの、完全に人間を辞めた生物としての異常な燃費を獲得していた。


 俺はベッドから降り、四畳半の部屋の中をゆっくりと見回した。

 レベル15へと到達した、化け物の視覚。世界が、全く違って見えた。


 蛍光灯の周りを鬱陶しく飛び回っていた一匹の小バエ。

 その目にも留まらぬはずの羽ばたきが、まるで粘度の高いゼリーの中を泳いでいるかのように、完全にスローモーションで見えた。ハエの羽の表面にある微細な模様すら、くっきりと視認できる。

 それだけではない。壁の裏を這い回るネズミの微細な足音、そのネズミの体内をドクドクと流れる血液の音すら、不快なノイズではなく明確な環境データとして俺の脳で完璧に処理され、空間を立体的に把握させていた。


 俺は部屋の隅に転がっている工具箱へと歩み寄り、自転車の修理用に使っていた、鋼鉄製の分厚いレンチを拾い上げた。

 そして、素手のまま、軽く指を握り込んでみる。


 グニャリ。


 まるで、温められた粘土でも握りつぶしたかのような無造作な感触。

 力を入れた自覚すら、微塵もない。俺の脳が握ると命令し、筋肉がそれに従った。ただそれだけの動作で、分厚い鋼鉄のレンチが、俺の指の形に合わせて無惨にひしゃげ、ひび割れていた。


「……ああ、なるほど。俺はもう、人間じゃないんだな」


 原型を留めなくなった鋼鉄の塊を床に放り捨て、俺は洗面台の鏡に映る自分の姿を見つめた。

 ボディビルダーのように筋肉が異常に膨れ上がっているわけではない。見た目は、泥を被ればどこにでもいる、探索者街の底辺を這いずり回る痩せたモブのままだ。

 だが、その薄い皮膚の下には、生態系の王を単独で鏖殺できる次元の違う暴力が、恐ろしい密度で圧縮されている。


 俺の心に、人間社会から完全に剥離してしまったことへの感傷や、化け物になってしまったという絶望など、一ミリも湧かなかった。

 食事も、睡眠も、呼吸すらもほとんど不要になり、痛覚すらも任意で完全に遮断できる。


「……これなら、ポーションの経費も大幅に浮く。何より、三日三晩ダンジョンの深層に潜り続けても、一切の疲労を感じずに狩りを続けられる。最高に効率がいいな」


 俺は鏡の中の化け物に向かって、冷たく、そしてひどく満足げに口角を歪めた。

 人間社会の天才と持て囃されているレベル5程度の連中など、もはや同種の生き物として認識すらできない。俺がその気になれば、この街のギルドの全戦力を相手にしても、数十分で皆殺しにできるだろう。

 だが、そんな無駄な自己顕示欲に俺のリソースを割くつもりはない。俺が求めるのは、さらに深い階層で待つ、未知の極上の経験値だけだ。


 ただ、一つだけ明確な問題があった。

 俺は部屋の壁に立てかけてある、魔物の大腿骨で作られた重槌を見た。

 レベル10だった俺の理不尽な出力に耐え、あの白猿の関節を粉砕してくれた最高の相棒。だが、レベル15へと跳ね上がった異常な力で、俺が本気でこいつを振り抜けばどうなるか。

 標的の装甲を叩き潰すより前に、俺自身の速度と膂力による凄まじい反作用に魔骨の限界が耐えきれず、間違いなく数回の戦闘で柄から自壊するだろう。


「……新しい武器が、いるな」


 俺は視線を戻し、ちゃぶ台の上に置かれた血のように赤い屍冠の角を手に取った。

 第五階層の絶対者の生命力そのものが宿る、この世で最も硬く、重く、絶対に折れない最強の素材。


「……行くか」


 俺はひしゃげたレンチをゴミ箱に蹴り入れ、一千五百万のステルス外套を深く被り直した。


     * * *


 翌朝。

 俺は一切の足音を立てず、探索者街の裏通りにある、煤と油の匂いが染み付いた無骨な工房のドアベルを鳴らした。


「ガンテツさん。いるか」


 カウンターの奥で、顔に火傷の痕がある歴戦の鍛冶職人――ガンテツが、俺の声に気づいてパイプから口を離し、振り返った。


「おう、兄ちゃんか。この前打ってやった牙杭と重槌の使い心地は……って、おい」


 俺が外套のフードの隙間から、ほんの僅かだけ覗かせた気配。

 それだけで、何十年もこの街で魔物の素材と探索者の死生観に向き合ってきた職人であるガンテツが、ビクッと全身の毛を逆立て、カウンターの奥へと後ずさった。


 俺は気配を完全に殺している。威圧など一切していない。

 だが、俺という個が内包する圧倒的な暴力の質量があまりにも重くなりすぎたせいで、ガンテツの生物としての本能が、これ以上近づけば喰われるとけたたましい警鐘を鳴らしたのだろう。


 俺は何も言わず、リュックから取り出した真っ赤な屍冠の角を、ドンッと、カウンターの分厚い木材が軋むほどの重い音を立てて置いた。


「なっ……こ、これは……ッ!?」


 ガンテツの顔色が一瞬で蒼白になり、震える手でその赤い角に触れようとして、火傷でもしたかのように引っ込めた。


「おい、冗談だろ……。これ、屍冠の白猿の角じゃねえか……!!」


 ガンテツの叫び声が、工房の中に響き渡った。

 無理もない。屍冠の白猿といえば、ギルドが設立されてからの歴史上でも、数えるほどしか討伐記録が存在しない、おとぎ話クラスの生きた災害だ。数千人規模のトップクランが総出で挑んで、ようやく相打ちに持ち込めるかどうかという絶対的な伝説のバケモノ。


「お前……まさか、たった一人で第五階層の主を……!?」

「偶然、死骸を見つけてもぎ取ってきただけだ」


 俺はまたしても短い嘘を吐き、震えるガンテツの目を真っ直ぐに見据えた。


「ガンテツさん。あんたに打ってもらった前の重槌は、最高の仕事だった。でも、俺の今の全力には、もうあの武器じゃ耐えられない。この角を使って、新しい武器を作ってほしい」

「これほどの伝説級の素材だ……どんな複雑な機構でも、ギミックでも仕込んでやるぞ。だが、兄ちゃん。これほどのモノを打つとなれば、加工の手間も機材の消耗も桁違いだ。ギルドを通せば何億という金が動く代物だぞ。……加工代、払えるのか?」


 ガンテツの言葉に、俺は平坦な声で答えた。


「金はない」

「は……? じゃあ、どうやってこいつの加工代を払うってんだ……!」

「だから、加工代はこれで手を打ってくれ。この角を削る際に出る破片と削りカスを、全部あんたにやる」


 俺がそう提案すると、ガンテツは目を見開き、赤い角を見つめてゴクリと生唾を呑み込んだ。


「屍冠の白猿の角の破片だと……!? 馬鹿野郎、その削りカスだけでも数千万、いや、国宝級の武具の触媒になる代物だぞ……!」


 ガンテツは恐怖を、職人としての凄まじい好奇心と欲望で完全にねじ伏せ、身を乗り出してきた。

 俺にとっては不要なゴミでも、この街の鍛冶職にとっては喉から手が出るほど欲しい至高の素材。金などという紙切れよりも、よほど純粋で対等な取引だ。


「いいだろう、その条件で乗った! これほどの素材だ、お前の望みは何だ? 言ってみろ」


 ガンテツの鼻息が荒くなる。

 だが、俺の求めるものは、そんな小手先の細工ではない。


「仕掛けはいらない。ただ叩き潰すだけの、純粋な暴力でいい」


 俺は極めて冷徹な声で、化け物としての絶対的な要求を口にした。


「俺のフルパワーの筋力を乗せて、この世のどんな装甲だろうと正面から粉砕できる。最高に硬くて、最高に重い、俺だけのハンマーを打ってくれ。形はただの鉄塊でも構わない。俺の出力に耐えきれるならな」


 ガンテツは絶句し、自ら放つ禍々しい光で周囲の空気を歪ませている赤い角をじっと見つめた。

 そして、何かに取り憑かれたように、深く、重く頷いた。


「……わかった。五日待て。俺の鍛冶職人としての生涯を懸けて、お前のその狂った力に絶対に負けねえ、最強のハンマーを打ってやる」


 完全に化け物へと羽化した一匹の泥ネズミが、第五階層の絶対者の角を最強の武器へと変える。

 さらなる絶望と、未知の極上の経験値が待つ、誰も足を踏み入れたことのない深淵――第六階層へと降り立つための、冷酷な準備が整おうとしていた。

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